アントニオ・バルデリーノ(Antonio Bardellino)
1945年5月4日 - 1988年5月26日
イタリア、カゼルタ県サン・チプリアーノ・ダヴェルサ出身
バルデリーノは、カンパニア地方における
の重要な構成員であり、
カサレージ・クラン(カサレシ一族)
の創始者であった。
彼は、カサレージ・クランを中心に、約10年間にわたり、
スキアヴォーネ
ビドニェッティ
ザガリア
イオヴィーネ
ヴェノーザ
といった複数のファミリーが連合した古いスタイルの
カモッラの最後のゴッドファーザーの 1 人である。
1980年代にカゼルタ県の組織犯罪において重要な役割を果たしし、ラツィオ州南部からアヴェルサ近郊の田園地帯(アグロ・アヴェルサーノ)を経てナポリに至る広大な地域を支配した。
ペンティート(密告者)
パスクアーレ・ガラッソ
は「バルデリーノは、たとえ彼を嫌うクランであっても、すべてのカモッラ構成員の拠り所だった。
彼のカリスマ性によって、カンパニア地方の一定の均衡が保たれていた」と述べている。
バルデリーノはシチリア・マフィア内部に強力な人脈を持ち、当初は
ピッポ・カロ
が率いるポルタ・ヌオーヴァ一家と関係を築いていた。
彼はコーザ・ノストラにも加入した数少ない
カモッラのボスの一人で
ミケーレ・ザザ
と共に、1975年に
タバコ密輸に関する協定
を締結する宣誓を行った。
と同盟を結んでいた
ヌヴォレッタ兄弟
とは対照的に、バルデリーノは
でコルレオーネ一家に敗れ、逃亡を余儀なくされたパレルモの没落した一家のボス
らと同盟を結んでいた。
バルデリーノは、カザル・ディ・プリンチペとサン・チプリアーノ・ダヴェルサの地域における
カサレージ一族
の創始者であると考えられている。
特に、彼が一族内で実施した変革がその根拠となっている。
一族への加入儀式や殺人の頻度は変わらなかった。
質の飛躍的な向上は、違法薬物取引の収益を合法経済に継続的に浸透させたことにあった。
これは、1980年の
イルピニア地震
とその後の復興によって後押しされた。
復興に伴い、一族は土木工事や建設工事を行う企業連合を結成した。
もう一つの要因は、バルデリーノ自身の優れた企業家精神であった。
彼は他の一族と共同で
魚粉の輸出入業
を営んでいたが、実際にはブラジルからのコカイン密輸を隠蔽するための事業であった。
コカイン密売に加え、彼は
ロレンツォ・ヌヴォレッタ
チーロ・マッツァレッラ
と共にヘロイン取引にも関与し、シチリア・マフィアに供給していた。
1980年代、バルデリーノはヘロインではなくコカインの方がより利益の出る麻薬になると見抜き、ラテンアメリカからアヴェルサへコカインを密輸する組織を立ち上げた。
この密輸は彼の表向きは合法なビジネスとして設立した会社を通して行われた。
また、ヘロインも密輸され、米国の犯罪全国組織でもあるNY市の
五大ファミリーにひとつ
への出荷はエスプレッソフィルターの中に隠されていた。
ある出荷が当局に押収された際、バルデリーノはボスの
に電話をかけ、「心配するな、今度は反対方向に倍の量を送っている」と告げたという。
バルデリーノは、
が率いる優勢な
の勢力拡大に対抗するために結成された氏族連合である
の主要な提唱者だった。
トッレ・アンヌンツィアータ出身の
ギオンタ一族
マラーノ出身の
ヌヴォレッタ一族
カルミネ・アルフィエーリが率いるサビアーノの
アルフィエーリ一族
ポッジョマリーノのパスクアーレ・ガラッソが率いる
ガラッソ一族
ナポリ地区フォルチェッラ出身のアルフィエーリが率いる
ルイジ・ヴォッラーロが率いる
ポルティチ出身のヴォッラーロ一族
で構成されていた。
NFと
NCOの間で勃発した抗争は、双方に多数の犠牲者を出した。
なお、最終的には
NCOの敗北とNFの勝利に終わった。
しかし、クートロと
NCOが排除されたことで、支配地域に力の空白が生じ、支配を巡って抗争が始まり
NFの同盟はすぐに崩壊した。
1983年末にはバルデリーノ一族とヌヴォレッタ一族の間で抗争が勃発した。
はボンターデ=ブシェッタ=インゼリッロ=バダラメンティ派を壊滅させたが、その影響は
カモッラにも及んでいた。
は、ロレンツォ・ヌヴォレッタに
の殺害を命じた。
ヌヴォレッタは、その命令をバルデリーノに伝達した。
組織が崩壊しなかったのは、バルデリーノがシチリアで
ブシェッタと親しい友人関係にあった。
ブシェッタがブラジルで逃亡していた際に同じ家に住んでいた経験があったためである。
彼はまた、ヌヴォレッタ兄弟に対しては強い猜疑心を持っていた。
コルレオーネ一家の介入によってヌヴォレッタ兄弟が支配権を握ることを断固として拒否した。
バルデリーノのこうした態度はすぐに彼の命取りとなり、彼は晩年をイタリア国外、スペイン、ブラジル、サントドミンゴなどで潜伏生活を送ることになった。
1982年末、地元警察からの情報提供を受けて、アントニオ・バルデリーノはリオデジャネイロのアパートで刑事らの急襲を事前に察知しており逮捕を免れることに成功した。
この挫折にもかかわらず、バルデリーノとヌヴォレッタ兄弟はチューリッヒで会合を開くことになった。
ただ、アニエッロ・ヌヴォレッタは待ち合わせ場所で逮捕された。
ヌヴォレッタ一族の他の多くの幹部も、スイス国境に近いイタリア北部で偶然の事故に遭わなければ逮捕されていた。
バルデリーノは1983年11月にスペインのバルセロナで逮捕された。
ただ、不可解にも保釈され、その後まもなく姿を消した。
ヌヴォレッタ一族との衝突はバルデリーノの勝利に終わった。
マラノにあるヌヴォレッタ一家の農場が襲撃され、兄弟の一人である
チーロ・ヌヴォレッタ
が死亡した。
その2か月後、事態は
トーレ・アンヌンツィアータで
の襲撃事件で頂点に達した。
この事件は、違法行為が横行する悪名高い地域で、ヌヴォレッタ一族と同盟関係にあった
ジオンタ一族
のメンバー8人が、漁師クラブ「チルコロ・デイ・ペスカトーリ」で虐殺され、さらに24人が負傷する惨劇に発展した。
この事件は地元メディアで
「トーレ・アンヌンツィアータ虐殺」
として報じられ、イタリア史上最悪のギャングによる虐殺事件の一つとされている。
この勝利により、アントニオ・バルデリーノは支配領域と影響力をさらに拡大しすることとなり、カゼルタ県とナポリ県のほぼ全域を掌握するに至った。
インターポールに追われる逃亡犯であったにもかかわらず、バルデリーノは権力を振るい、犯罪活動を妨害されることなく組織を拡大させて指揮することができた。
ただ、権力が強まったことで、意見の対立はカサレージ一族内部で発生した。
公式発表によると、1988年5月26日、アントニオ・バルデリーノは、リオデジャネイロ州の富裕層や有名人が集まるビーチリゾート、ブジオスにある自宅で、右腕の
マリオ・イオヴィーネ
によって暗殺されたといった噂が作られた。
これはカサレージ一族内部の抗争の一環だったとされる。
ただ、バルデリーノの遺体は発見されておらず、暗殺者とされるイオヴィーネ自身も1991年にポルトガルで電話ボックス使用中に殺害された。
このため、この話は未だに確認されていない。
こうした状況から、バルデリーノは今も生きているという伝説が生まれた。
一族の存続を確実にするため、権力をカサレージ一族内の他のファミリーに委ねたという説が広まっている。
後に密告者となった旧友の
は、反マフィア委員会での証言でバルデリーノの生死について問われた際、「バルデリーノが死んだことはもう明らかですか?分かりませんが、私は彼が死んだとは信じていません」と答えた。
バルデリーノの死亡のニュースが広まると、彼の家族は故郷を離れ、フォルミアに避難し、現在もそこに住んでいる。
アントニオ・バルデリーノの失踪後、5つのファミリー
スキアヴォーネ
イオヴィーネ
ビドニェッティ
デ・ファルコ、ザガリア
がそれぞれ独自の軍隊を率いて支配権を握った。
バルデリーノのかつての盟友で、後に国家証人(密告者)となった
ウンベルト・アンマトゥーロ
も、2010年5月にラ・レプッブリカ紙のインタビューに応じた際、バルデリーノはまだ生きていると述べた。