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2026年07月16日

ウィリアム・オースティン・タッカー(William Austin Tucker)タッカー・アンソニー・アンド・カンパニー(Tucker, Anthony & Co.)の創設者

ウィリアム・オースティン・タッカー(William Austin Tucker)
   1850年2月3日 - 1931年10月25日
 米国の銀行家であり、
の創設者である。
 タッカーは1850年2月3日にマサチューセッツ州ボストンで生まれた。
 父は製造業者「ジェームズ・タッカー・アンド・カンパニー(James Tucker & Co.)」の幹部であった
   ジェームズ・タッカー
で母はレベッカ・タッカー(旧姓チェンバリン)である。
 兄弟のジェームズ・アルフレッド・タッカーは、
   マーサ・ハムリン・エルムズ
と結婚した。
 彼は、1635年にイギリスからアメリカへ渡った
   ロバート・タッカー(Robert Tucker
の子孫にあたる。
 1889年、タッカーは銀行・金融業界に入り、
   ウォルター・タッカー・アンド・カンパニー
            (Walter, Tucker & Co.
を設立した。
 1892年にウォルターが死去すると、
   S・リード・アンソニー
をパートナーに迎え、「タッカー・アンソニー・アンド・カンパニー」が組織された。
 その後、パートナーとして
   フィリップ・L・サルトンストール
   ネイサン・アンソニー
   チョーンシー・エルドリッジ
が加わり、同社は最終的にボストンとニューヨークにおける銀行・証券業界の有力企業へと成長した。
 タッカーは1924年に実務から引退したものの
を含む複数の企業で取締役としての地位は維持した。
 1876年、タッカーは
   エリザベス・フォスター(1856–1937)
と結婚した。
 彼女はオハイオ州監督派主教ランドルフ・シンクス・フォスター師とサラ・アン・フォスター(旧姓マイリー)の娘であった。
 ニューヨーク州サウサンプトンで夏を過ごしていた際に体調を崩し、数週間の闘病の末、タッカーは1931年10月25日、ニューヨークの自宅(パーク・アベニュー399番地)で死去した。
 彼はニューヨークのトリニティ教会墓地に埋葬された。
 未亡人となった妻もまた、1937年3月に同所(パーク・アベニュー399番地)で死去した。
 息子のラルフを通じて、彼はジェーン・タッカー(1907–1982)の祖父にあたる。
 ジェーンはハミルトン・オスグッド・ウォーレン(フィスク・ウォーレンとグレッチェン・オスグッド・ウォーレンの息子)およびジョージ・プレンダーガスト牧師(サンディエゴの聖公会教区の牧師)と結婚した。。
 また、同じく息子のラルフを通じて、自動車事故で亡くなったランドルフ・フォスター・タッカー・ジュニア(1914–1936)の祖父でもある。
 娘のエセルを通じて、彼は第14代リンジー伯爵ウィリアム・リンジー=ベスーンの祖父にあたる。
 ウィリアムは1925年にマージョリー・クロスと結婚した。
 第15代リンジー伯爵デヴィッド・リンジー=ベスーンを含む4人の子供の父親となった。 
◯二人の間には3人の子供が生まれた。
・エセル・タッカー(1878–1942)
  1900年にアーチボルド・ライオネル・リンジー伯爵と結婚した。
  彼は第11代リンジー伯爵
    デヴィッド・ベスーン
  とエミリー・マリアン・クロスの次男である。
  二人は1906年に離婚した。
  彼女は同年11月、ウォルサム・ウォッチ・カンパニー社長
    エズラ・チャールズ・フィッチ
  の息子である
    エズラ・C・フィッチ・ジュニア
  と再婚した。
  1917年にフィッチが死去した後、彼女は1921年に最初の夫アーチボルドと再々婚した。
  その後、アーチボルドは1939年に兄レジナルドから伯爵位を継承した。
・ランドルフ・“ラルフ”・フォスター・タッカー(1879–1971)
  モナ・ルイーズ・ハウスと結婚した。
  彼女は
    エドワード・M・ハウス
    エリザベス・ルイーズ・“ルーリー”・ハウス(旧姓ハンター)
  の娘であった。
  彼女の姉妹である
    ジャネット・ハウス
  は、チャールズ・C・オーチンクロスおよび米国下院議員ジェームズ・C・オーチンクロスの兄弟
    ゴードン・オーチンクロス
  と結婚した。
・マリオン・タッカー(1882–1941)
  未婚のまま死去した。
   
   
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2026年07月12日

ウォン・ニット・リオ(Wong Ngit Liong)ベンチャー・コーポレーション(Venture Corporation)のエグゼクティブ・チェアマン(執行会長

ウォン・ニット・リオン(Wong Ngit Liong)
   1941年11月生まれ
 1984年に自身が設立した
   ベンチャー・コーポレーション(Venture Corporation)
のエグゼクティブ・チェアマン(執行会長)を務めている。
 2018年時点で、同社の従業員数は1万5,000人に上った。
 ウォン氏はマラヤ大学で電気工学の学士号、カリフォルニア大学バークレー校で電子工学の修士を取得した。
 また、マギル大学で経営学修士号(MBA)を取得している。
 キャリアの最初の12年間は
に勤務し、カリフォルニア州パロアルトの同社本社で様々な管理職を歴任した。
 このほか、HPシンガポール法人の立ち上げに尽力し、HPマレーシア法人の初代取締役兼ゼネラルマネージャーも務めた。
 ウォン氏は2004年から2016年まで、シンガポール国立大学の理事長を務めた。
 在任中、同大学は人材育成を主目的とする地域的な教育機関から、世界ランキング22位に位置する大学へと変貌を遂げた。
 2012年には、シンガポール共和国大統領より、ナショナル・デー・アワード(建国記念日表彰)の一環として「功労章(Meritorious Service Medal)」を授与された。
 2018年には「卓越功労章(Distinguished Service Order)」を授与されている。
 また、シンガポール政府の経済開発庁(EDB)の委員も務めた。
 2002年には、アーンスト・アンド・ヤング・シンガポールより「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」に選出されている。
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2026年07月10日

柳原白蓮 大正から昭和時代にかけての歌人 大正三美人

柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん)
   1885年〈明治18年〉10月15日 - 1967年〈昭和42年〉2月22日
 大正から昭和時代にかけての歌人である。
 本名は宮崎Y子(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら)、北小路(きたこうじ)、伊藤(いとう)。
 大正三美人として
   九条武子
   柳原白蓮
   江木欣々
のうちの一人であり、白蓮事件で知られる。
 父は議奏・権中納言正二位柳原光愛の子
   柳原前光伯爵
であり、大正天皇の生母である
   柳原愛子
の姪であり、大正天皇の従妹にあたる。
 東京で生まれた。父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「Y子」と名付けられた。
 母のりょうは没落した幕末の幕臣で外国奉行として日米修好通商条約の批准書を交換する正使でもあった
   新見正興
の娘で、前光の妾のひとりで柳橋の芸妓であったと伝わっている。
 Y子は生後7日目に柳原家に引き取られた。
 前光の正妻・初子の次女として入籍した。
 前光の本邸には側室の「梅」(元は柳原愛子の侍女)がおり、子のない梅はY子の引き取りを願っていた。
 ただ、正妻の初子がそれを阻止すべくY子を自分の手元に引き取ったという。
 生母・りょうは1888年(明治21年)、Y子3歳の時に病死している。
 初子を母と定められて間もなく、当時の華族の慣習として品川の種物問屋を営む家に里子に出された。
 乳母の増山くにと里親家族の愛情の元、下町の自然豊かな環境で育てられた。
 学齢となった6歳の時に柳原家に戻り、初子に華族の娘としてしつけられた。
 1892年(明治25年)、麻布南山小学校に入学する。
 1894年(明治27年)、9歳で遠縁にあたる子爵
   北小路随光(きたこうじ よりみつ)(1832〜1916)
の養女となった。
 北小路家は夫婦の間の子がいずれも早世していた。
 隨光が女中に男子(資武・すけたけ)を生ませた。
 Y子を資武の妻にする条件での養子縁組であった。
 同年に父・前光が死去し、異母兄の義光が柳原家の家督を継いだ。
 北小路家で養父の隨光により和歌の手ほどきを受けた。
 1898年(明治31年)、13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入学した。
 北小路家は経済的に苦しいことから養父母は女学校入学を渋った。
 ただ、Y子の強い願いにより、車ではなく徒歩通学を条件として実現した。
 同居する資武は7歳年上で知的障害があったといわれている。
 思春期の盛りでY子が他の男と同席するだけで嫉妬して暴力をふるうこともあったという。
 結婚相手であることなど知らなかったY子は資武に恐怖して嫌いぬき、結婚を急がせる養父母に泣いて抗議した。
 ある日資武に「お前なんか妾の子だ」と罵倒され自分の出生を知らされた。
 初子を実母と思い込んでいたY子にとっては、帰る場所を失った出来事となった。
 華族令とそれを元に定められた
   柳原家範
という法の管理下にあるY子に選択の余地はなく結婚を承諾させられた。
 間もなく妊娠したY子は女学校を退学した。
 1900年(明治33年)、北小路邸で質素な結婚式が挙げられた。
 翌1901年(明治34年)、15歳で男子(功光)を出産した。
 功光誕生の半年後、養母・久子の提案で北小路家縁の京都へ一家で引っ越した。
 まったく友人の居ない京都での生活は、子の養育は久子に取り上げられた。
 幼い同級生と子供のように遊びながら家で女中に手を付ける夫とは夫婦の愛情もなく、Y子は孤独を深めるばかりであった。
 結婚から5年後、Y子の訴えにより事情を知った柳原家と話し合いが持たれた。
 1905年(明治38年)、子供は残す条件で離婚が成立し、20歳で実家に戻った。
 ただ、東京に戻ったY子は「出戻り」として柳原家本邸へ入れてもらえず、母・初子の隠居所で監督下に置かれtあ。
 また、門の外に一歩も出ることのない幽閉同然の生活となった。
 挨拶以外にほとんど誰とも口をきないままの生活の中、姉・信子の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、ひたすら読書に明け暮れる日々が4年間続いた。
 その間、再びY子の意向と関わりなく縁談が進められた。
 結納の日取りまで決められるが、Y子は家を飛び出し、品川の乳母の家に逃げた。
 ただ、乳母の増山くにはY子の幽閉中に死去していた。
 家出したY子を信子が庇い、兄・義光夫妻の元に預けられた。
 1908年(明治41年)、兄嫁・花子の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に23歳で編入学した。
 寄宿舎生活を送ることとなった。
 この頃、信子の紹介で
   佐佐木信綱
が主宰するる短歌の竹柏会に入門した。
 最初の結婚で華族女学校の中退を余儀なくされたY子には、再び学ぶことができる幸せな学園生活であったという。
 女学校ではずっと年下の生徒たちとも打ち解け、中でも後に翻訳者となる
   村岡花子
とは親交を深め、「腹心の友」となり、信綱を花子に紹介している。
 また、夏にはカナダ・メソジスト教会の女性宣教師
   ブラックモーア女史(1863〜1942年)
ら婦人宣教師達と軽井沢で過ごした。
 キリスト教文化を肌で感じ慈善事業に関心を持つなど、見聞を広めた。
 1910年(明治43年)3月、東洋英和女学校を卒業した。
 1910年(明治43年)11月、上野精養軒でY子と九州の炭鉱王
との見合いが行われた。仲介者は
   得能通要
と三菱鉱業門司支店長で柳原家とも関わりがある
   高田正久
であった。
 Y子は当日、それを見合いだとは知らされていなかった。
 当時、伝右衛門は50歳、炭鉱労働者からの叩き上げであり、学問はなく、妻を亡くした直後であった。
 話は当事者を抜きに仲介の人々によって早々にまとめられた。
 親子ほどの年齢差・身分・教養ともあまりに不釣り合いであり、日の出の勢いの事業家で富豪とはいえ、労働者上がりで地方の一介の炭鉱主が「皇室の藩塀」たる伯爵家から妻を娶るのは前代未聞のことで、「華族の令嬢が売物に出た」と世情の話題になった。
 異例の結婚に新聞では、柳原家への多額の結納金や媒介者への謝儀、宮内省への運動資金など莫大な金が動いたことが書き立てられた。
 背景には貴族院議員である兄義光の
   選挙資金目的
と、一代で成り上がり、代議士や賞勲など様々な肩書きを得た伝右衛門が、後妻に名門華族の家柄を求めたことがあったと見られている。
 25歳で肩身の狭い出戻りの身のY子は、年齢差の大きい夫は妻を大切にしてくれる、伊藤が女学校を経営しており、その財力で女子教育や社会奉仕ができるという兄嫁の説得を受け入れた。
 最初の不幸な結婚から離れて、今度こそ平和な家庭を得て本当の愛を受けたい、という思いもあった。
 翌1911年(明治44年)2月22日、日比谷大神宮で結婚式が行われた。
 また、帝国ホテルでは盛大な披露宴が行われた。
 『東京日日新聞』では結婚式までの3日間にわたり、2人の細かい経歴などを書いた「Y子と伝ねむ」というタイトルの記事が連載され、“黄金結婚”と大いに祝福された。
 結婚式を前にした新聞取材に対し、伝右衛門は柳原家や仲介者に多額の金銭を送ったという記事の内容について否定した。
 Y子の兄・義光は不釣り合いな結婚について「出戻りですからな」と答えている。
 福岡県嘉穂郡大谷村大字幸袋(現飯塚市)の伊藤邸は贅を尽くした大改築が行われ、Y子を迎えた。
 大八車で8台分という嫁入り道具一式も江戸指物師の
   茂上恒造
に大金で作らせた。
 そこでY子は、伊藤家の複雑な家族構成を知らされる。
 前妻との間に子供がいないと聞かされていた伝右衛門には、妾との間に小学6年生の実娘・静子がいた。
 養嗣子として妹の子供で大学生の金次、その弟で小学1年生の八郎がおり、父の伝六が妾に生ませた異母妹にあたる女学生の初枝や母方の従弟などもそこで暮らしていた。
 伝右衛門は若い頃の放蕩が過ぎて子供ができない身体であり、Y子は実子を持つことが出来ない不安定な立場で、大勢の使用人・女中・下男も暮らす複雑な大家族の女主人となった。
 Y子はまず家風の改革に取り組み、言葉遣いや家族間・使用人との間の呼び方を改めた。
 また、朝食をパン食に切り替えた。
 自分なりの母の務めとして、静子と初枝には最先端の教育を受けさせるべく、自分の母校である東洋英和女学校へ編入学させた。
 婿を自分の縁続きから世話をした。
 八郎も後にY子の縁者である冷泉家から妻を迎えている。
 夢見ていた女学校の経営については、伝右衛門の「金は出すが口は出さない」主義で叶えられることはなかった。
 それまで派手な女遍歴があった伝右衛門だったが、Y子との結婚にあたり、長年にわたる妾のつねと別れるなど身辺整理はしていた。
 ただ、女中頭のサキは家中を切り回すために必要として家に置いており、妾の立場で家を取り仕切るサキとY子は激しく対立している。
 この女中頭の問題はこじれにこじれ、東京でY子をいったん実家へ預ける話合いが持たれるまで発展した。
 結局、サキを幸袋の家から出すことで決着となった。
 すでに婿を迎えている柳原家にY子が戻る場所はなく、伊藤の家を追い出されれば生活の術もない己の立場の弱さを思い知ることとなった。
 また、遊廓に入り浸ることの多かった伝右衛門に性病をうつされたことも、気位の高いY子に大きな屈辱となった。
 夫婦の間の亀裂は深まるばかりであった。
 伊藤家で孤立を深めるY子は、京都にいる伝右衛門の古くからの妾である野口さとに信頼を寄せた。
 その妹のおゆうを小間使いとして福岡幸袋に呼び寄せた。
 1年ほど経ってから、おゆうに伝右衛門の妾になることを懇願している。
 己の立場を守るために、自ら夫に妾をあてがい、同じ寝所で3人で枕を並べて寝たこともあったという。
 おゆうが病で京都に戻った後は、Y子の願いにより、再びさとが伝右衛門の妾を務めた。
 そんな歪んだ結婚生活の懊悩・孤独をY子はひたすら短歌に託した。
 短歌は竹柏会の機関誌『心の花』に発表し続けた。
 師である佐佐木信綱は、私生活を赤裸々に歌い上げる内容に驚き、本名ではなく雅号の使用を勧めた。
 信仰していた日蓮にちなんで「白蓮」と名乗ることとなった。
 1911年(明治44年)、『心の花』6月号で「白蓮」の号を初めて使用する。
 福岡天神町の別邸を中心に、九州帝国大教授の医学博士で歌人の
   久保猪之吉
 その妻で俳人の
   久保より江ら
と交流し、福岡社交界の華として活動した。
 1915年(大正4年)3月、『心の花』の叢書として処女作の歌集『踏絵』を自費出版しあ。
 歌壇で賛否を呼びながら話題となり、新聞にも好意的に取り上げられている。
 人気画家の
   竹久夢二
が挿絵を手がけた豪華な装丁の本の出版の背景には、信綱から夢二への依頼があったという。
 また、伝右衛門の多額な出資があった。
 この年に大分県別府に広大な伊藤家別荘が落成し、多くの文化人が訪れるY子の文化サロンとなった。
 Y子は夫を恐れ厭い常に気を遣う生活の一方、久保教授や陸軍中尉
   藤井民助
 福岡日日新聞記者
   伊東盛一
など、様々な相手と歌や手紙の上で仮想的な恋愛の駆け引きをして鬱屈する心の救いを求めていた。
 1917年(大正6年)暮れ、福岡鉱務署長
   野田勇
に炭鉱主から贈収賄が行われた疑いで大規模な検察の調査が入った
   筑豊疑獄事件
が起きている。
 翌1918年(大正7年)4月初頭、野田夫人の友人であるY子は贈賄側の証人として出廷した。
 公の場に現れたことで話題となり、『大阪朝日新聞』は4月11日から「筑紫の女王Y子」というタイトルで10回にわたる連載記事を載せ、大きな反響を呼んだ。
 7年前の不釣り合いな結婚にさかのぼり、豪勢な生活を送りながら不幸な結婚生活に嘆くという私生活を詳細に書き立てる下世話な新聞記事には白蓮の歌が引用されており、この連載記事がきっかけで白蓮がY子であること、「筑紫の女王」という呼び方が全国的に知られるようになった。
 また、歌壇内では話題になったものの、世間的には知られていなかった歌集の『踏絵』も一般に売れるようになった。
 1919年(大正8年)3月、詩集『几帳のかげ』・歌集『幻の華』を刊行した。
 別府の別荘を訪れた
   菊池寛
が、1920年(大正9年)に出版した『真珠夫人』はY子がモデルと言われ、ベストセラーになっている。
 1919年(大正8年)12月、戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)を雑誌『解放』に発表した。
 これが評判となって本にすることになり、打ち合わせのために1920年(大正9年)1月31日、『解放』の主筆で編集を行っていた
   宮崎龍介
が別府の別荘を訪れた。
 龍介は7歳年下の27歳で、孫文を支援した
   宮崎滔天
の長男であった。
 東京帝国大学法科の3年に在籍しながら
   新人会
を結成して労働運動に打ち込んでいた。
 新人会の後ろ楯となったのが
   吉野作造
ら学者による
   黎明会
であり、『解放』はその機関誌であった。
 両親共に筋金入りの社会運動家の血を引き、時代の先端を走る社会変革の夢を語る龍介は、Y子がそれまで出会ったことのない新鮮な思想の持ち主であった。
 Y子は初対面の龍介に「自分の生活はこうしてものを書くだけで、他には何の楽しみもない」という境遇を語っている。
 別府に2晩宿泊し、打ち合わせを終えて日豊本線に乗る龍介を、Y子は小倉まで見送った。
 その後、事務的な手紙の中に日常の報告と恋文が混じる文通が始まっている。
 3月に『指鬘外道』を刊行、邦枝完二の演出で6月に東京市村座で上演されることになり、Y子は原作者として芝居の本読み会や舞台稽古の見学のため、何度か義妹の初枝を伴って上京した。
 その間に龍介と2人の逢瀬を持つようになった。
 龍介は、Y子が気取ったところがなく、誰に対しても率直に意見を述べ、自分の中に一つのしっかりしたものを持つ、当時の女性としては珍しい個性に惹きつけられたという。
 Y子の上京の機会は伝右衛門に同行する春秋2回で、京都などで限られる逢瀬の中、2人は頻繁な手紙のやり取りで仲を深めた。
 Y子は『解放』の編集部に電報で激しい恋の歌を送ることもあった。
 やがて龍介の周囲でY子との関係の噂が広まった。
 華族出身のブルジョワ夫人との恋愛遊戯など思想の敵として、1921年(大正10年)1月に龍介は『解放』の編集から解任された。
 4月には新人会を除名された。
 このことはY子の心を一層龍介に傾かせた。
 同年6月、Y子は雑誌の対談で同じ
   竹柏会
の同人である
   九条武子
と初めて対面し、互いに似た境遇ですぐに心通じ合う仲となった。
 武子にも秘められた恋人がおり、別府に招き2人で様々に語り合った。
そ のうち、Y子から龍介に「今の境遇に耐えられない、何度自殺しようと思ったか知れない。
 今の状態から一刻も早く私を救い出して欲しい。」といった趣旨の手紙が届くようになった。
 1921年(大正10年)8月、京都での逢瀬でY子は龍介の子を妊娠した。
 姦通罪のあった男尊女卑のこの時代においては、道ならぬ恋は命がけであった。
 Y子は伊藤家を出る覚悟を決めて、秋の上京の際に家出を決行する準備のために、伝右衛門のお気に入りで博多花柳界で名高い芸妓
   舟子
を、大金の4千円で身請けして、9月29日に廃業届が出された。
 おゆうと同じように、小間使いとして呼び寄せて、自分の身代わりの人身御供として舟子を伝右衛門の妾にした。
 龍介は新人会時代の仲間である朝日新聞記者の
   早川二郎
   赤松克麿
らに相談して、Y子出奔の計画を練り、決行した。
 これが世に言う白蓮事件である。Y子36歳、龍介29歳であった。
 紆余曲折を経て、1923年(大正12年)9月の関東大震災をきっかけに、駆け落ち騒動の最中に生まれた長男・香織と共に宮崎家の人となったY子は、それまで経験したことのない経済的困窮に直面している。
 弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏した。
 また、宮崎家には父滔天が残した莫大な借金があった。
 裁縫は得意であったが炊事洗濯は出来ないY子に代わり、姑の槌子が家事と育児を引き受けた。
 Y子は小説を執筆し、歌集も出版、色紙や講演の依頼も引き受けた。
 龍介が動けなかった3年間はY子の筆一本で家計を支えた。
 1925年(大正14年)9月、長女の蕗苳(ふき)が誕生した。
 この頃、吉原遊廓から脱出した花魁の
   森光子
が宮崎家に駆け込んで助けを求めている。
 当初は戸惑ったY子と龍介だが、労働総同盟の協力を得て、光子の自由廃業を手助けした。
 その後も娼婦の救済活動は続けられ、1928年(昭和3年)にも吉原から子持ちの娼妓が宮崎家に駆け込んでいる。
 苦界にあった女性たちに白蓮は憧れの存在であったという。
 ただ、この活動は暴力団に狙われる危険なものであったが。
 Y子にはかつて伊藤家でおゆうや舟子ら同性を犠牲にした罪の意識があり、娼婦の救済はその罪滅ぼしもあったと見られる。
 小康を得た龍介は1928年(昭和3年)11月の第1回普通選挙に立候補した。
 ただ、演説会場で昏倒し喀血して絶対安静の身となる。
 Y子は龍介に代わって選挙運動の演壇に立ち、色紙を売るなど選挙資金を作って夫を支えた。
 宮崎家を頼る労働運動関係者や中国人留学生、吉原から脱出した娼妓らを食客として世話をした。
 生活が苦しい京都出身の華族の子弟を、学習院へ通わせるために家に住まわせた。
 その中には北小路家に残してきた初子・功光もいた。
 出奔事件以降『心の花』への投稿を断っていたが、1934年(昭和9年)に自らの歌の場として歌誌『ことたま』を刊行した。
 1937年(昭和12年)7月、
   盧溝橋事件
で緊迫する中国との和平工作の特使として、龍介が
   近衛文麿首相
の依頼で上海へ派遣されるが失敗した。
 神戸で拘束されて東京へ送還されている。
 Y子ら一家は家宅捜索を避け、蓼科の別荘に避難した。
 1944年(昭和19年)12月1日、早稲田大学政経学部在学中の長男・香織が学徒出陣した。
 翌1945年(昭和20年)8月11日、所属していた陸軍・鹿児島県串木野市の基地が爆撃を受けて戦死した。享年23だった。
 終戦のわずか4日前であった。
 香織戦死の知らせを信じず、公報の知らせを捨てたY子は涙も出ず、ただただ呆然とした。
 夜になって一人、庭で慟哭したという。
 白髪が一気に増えたといい、これは心労もあったと考えられる。
 1946年(昭和21年)5月にNHKラジオで子供の死の悲しみと平和を訴える気持ちを語ったことをきっかけに、「悲母の会」を結成した。
 熱心な平和運動家として支部設立のため全国を行脚した。
 年の半分、家を空けていたときもあるという。
 会は外国とも連携して「国際悲母の会」となり、さらに世界連邦運動婦人部へ発展させた。
 1953年(昭和28年)10月、世界連邦婦人部部長としての講演会で、出奔事件以来32年ぶりに九州・福岡の地を訪れている。
 1959年(昭和34年)の皇太子明仁親王と民間人である正田美智子との結婚に際し、
   香淳皇后
   雍仁親王妃勢津子
   宣仁親王妃喜久子
   梨本伊都子
   松平信子
らと共に激しく反対したという。
 1961年(昭和36年)、緑内障で徐々に両眼の視力を失っていった。
 龍介の手厚い介護のもと、娘夫婦に見守られ歌を詠みつつ暮らした穏やかな晩年であった。
 1967年(昭和42年)2月22日、心臓衰弱のため西池袋の自宅で死去した。
 81歳没。
  
   
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ジョン・ヘンリー・マクラッケン(John Henry MacCracken)米国の大学運営者

ジョン・ヘンリー・マクラッケン(John Henry MacCracken)
   1875年9月30日 - 1948年2月1日
 米国の大学運営者で
の学長を務め。
 1899年にウェストミンスター・カレッジの学長に選出された際、彼は全米で最年少の大学学長であった。
   ヘンリー・マクラッケン
の息子であり、ヴァッサー・カレッジ学長
   ヘンリー・ノーブル・マクラッケン
の兄でもあった。
 マクラッケンはバーモント州ロチェスターでニューヨーク大学(NYU)総長の
    ヘンリー・マクラッケン
    キャサリン・アルミラ・ハバード
の息子として生まれまた。
 彼は、18世紀半ばにペンシルベニア州へ移住したアイルランド系移民の末裔にあたる。
 弟のヘンリー・ノーブル・マクラッケンは、後にヴァッサー・カレッジの学長となった。
 ジョン・ヘンリー・マクラッケンは、ニューヨーク市の大学進学予備校に通った。
 15歳でニューヨーク大学に入学した。
 1894年に学部課程を修了したが、その際、彼は卒業生総代(ヴァレディクトリアン)に選ばれている。
 その後、ニューヨーク大学およびユニオン神学校で大学院教育を受けた。
 また、ドイツのハレ・ヴィッテンベルク大学(マルティン・ルター大学)で博士号を取得した。
 彼は1896年にニューヨーク大学(NYU)の教員となった。
 1899年にウェストミンスター・カレッジの学長に就任する直前には助教授に昇進していた。
 ウェストミンスター・カレッジの学長に選出された際、NYU関係者は、この任命により彼が全米最年少の大学学長になると述べていた。
 なお、マクラッケンがウェストミンスターに着任した当初、その若さは大学支持者の一部に懸念を抱かせた。
 また、彼の控えめな性格や物静かな人柄も、懐疑的な人々の不安をすぐには払拭できなかった。
 しかし数ヶ月のうちに、マクラッケンは大学のために2万ドルの寄付を集め、教育内容の拡充も実現した。
 同大学の聖書学・形而上学講座の担当教授が辞任した際には、マクラッケン学長自身が「サウザー記念哲学・キリスト教弁証学講座」の教授に任命された。
 1900年6月には、マクラッケンの学長就任式が正式に執り行われた。
 マクラッケンは1903年にウェストミンスター・カレッジを離れ、ニューヨーク大学(NYU)へ戻って運営理事(syndic)兼政治学教授に就任した。
 彼は米国で最も早い時期に行われた都市計画の講義の一つを担当し、大学評議会の副議長も務めた。
 1914年には、アメリカ・キリスト教哲学協会(American Institute of Christian Philosophy)の理事会副会長を務めていた。
 なお、同協会の会長は彼の父親であった。
 1915年、マクラッケンはラファイエット・カレッジの学長に選出された。
 1927年まで同職を務めた彼の在任中、同校の施設・設備の価値は向上した。
 ラファイエット・カレッジの学長在任中、マクラッケンは米国最大の大学フラタニティ(男子学生社交クラブ)である「アルファ・ファイ・オメガ」の設立に際し、創設顧問の一人を務めた。
 マクラッケンは1910年に
   イーディス・コンスタブル
と結婚した。
 彼の義父である
   フレデリック・オーガスタス・コンスタブル
は、ニューヨークの
   アーノルド・コンスタブル・アンド・カンパニー
の経営者で、同社の創業パートナーの一人の息子であった。
 マクラッケンの娘ルイーズは、
   ヴァッサー・カレッジ
の理事であり、同校の生物科学棟の名称の由来ともなった
   ロバート・オルムステッド
と結婚した。
 息子のコンスタブルは、ハーバード大学およびコロンビア大学ロースクールの卒業生であった。
 長老派教会の活動に熱心であったマクラッケンは、10年近くにわたり長老派系大学の理事会会長を務めた。
 彼は教会の代表として、ローザンヌ、オックスフォード、エディンバラで開催された世界会議に出席した。
 マクラッケンは1948年2月1日、マンハッタンの自宅で死去した。
 遺族には、妻、娘、息子、そして兄弟がいた。

   
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2026年07月09日

アジット・パイ(Ajit Pai)連邦通信委員会(FCC)の委員長を務めたアメリカの弁護

アジット・ヴァラダラージ・パイ(Ajit Varadaraj Pai )
   1973年1月10日生まれ
 2017年から2021年まで
   連邦通信委員会(FCC)
の委員長を務めたアメリカの弁護士である。
 2021年4月、プライベート・エクイティ・ファームである
   サーチライト・キャピタル(Searchlight Capital)
のパートナーに就任した。
 2025年4月1日には、CTIAの社長兼最高経営責任者(CEO)に就任した。
 米国に移住したコンカニ系インド人の両親を持つパイは、カンザス州パーソンズで育った。
 ハーバード大学およびシカゴ大学ロースクールを卒業している。
 米国司法省や上院司法委員会の各部署で弁護士として勤務したほか、
の社内弁護士として2年間働いた経験もある。
 2007年にはFCCの法務局(Office of General Counsel)に弁護士として加わった。
 2011年、バラク・オバマ大統領によって委員に指名された。
 ただ、この指名は、米国議会上院多数党院内総務
   ミッチ・マコーネル
の推薦を受け入れることで委員会の勢力均衡を維持するという慣例に従ったものであった。
 彼は2012年5月7日に米上院で全会一致により承認され[た。
 同年5月14日に5年間の任期で就任宣誓を行った。
 2017年1月、新たに就任した
は、パイをFCC(連邦通信委員会)委員長に指名した。
 彼はインド系アメリカ人として初めて同職に就いた人物である。
 2017年3月、トランプ大統領はパイを再び5年間の任期(FCC委員長としての続投)で指名すると発表した。
 パイは2017年10月2日、米上院により新たな5年間の任期について承認された。
 パイは米国の
   ネット中立性原則の撤廃
を推進する立場にあり、2017年12月14日にはFCCの多数派の一員として、1934年通信法第2編(Title II)に基づくインターネット規制の方針を撤回する決定に賛成票を投じた。
 パイは、ジョー・バイデンが米国大統領に就任した日である2021年1月20日に辞任した。
 パイは1973年1月10日、ニューヨーク州バッファローで生まれた。
 父ヴァラダラージ・パイと母ラダ・パイは、1971年にインドから米国へ移住した。
 父は泌尿器科医、母は麻酔科医であった。
 彼はインドのコンカニ地方にルーツを持つ民族コンカニ系インド人である。
 パイはカンザス州パーソンズで育った。
 同地では両親が郡立病院に勤務していた。
 1990年にパーソンズ高校を卒業後、ハーバード大学で社会科を専攻した。
 同大学の「ハーバード・スピーチ・アンド・パーラメンタリー・ディベート・ソサエティ(弁論・議会式討論サークル)」のメンバーとして活動した。
 1994年に優等(honors)の成績でハーバード大学を卒業し、文学士号(B.A.)を取得した。
 その後、シカゴ大学ロースクールに進学し、『シカゴ大学ロー・レビュー』の編集委員を務めた。
 このほか、証拠法における優秀な成績を評価されマルロイ賞(Mulroy Prize)を受賞した。
 1997年に法務博士号(J.D.)を取得して卒業した。
 ロースクール卒業後、パイ氏は1997年から1998年にかけて、米国ルイジアナ州東部地区連邦地方裁判所の
   マーティン・リーチ=クロス・フェルドマン判事
の下で法務書記(クラーク)を務めた。
 その後、米国司法省反トラスト局の「オナーズ・プログラム(優秀な若手弁護士採用プログラム)」の一環として、
   電気通信タスクフォース
の法廷弁護士(トライアル・アトーニー)として勤務した。
 同職では、合併・買収(M&A)案件や、1996年電気通信法の制定に伴う規制緩和の新たな申請案件などを担当した。
 パイ氏は2001年2月に司法省を退職し、ベライゾン・コミュニケーションズ(Verizon Communications Inc.)の法務部次長(Associate General Counsel)に就任した。
 同社では、競争法関連の案件や規制問題への対応に加え、ブロードバンド事業に関する各事業部門への法的助言を行った。
 2003年4月にベライゾンを退職した後、米国上院司法委員会の「行政監視・裁判所小委員会」の首席法律顧問代理(Deputy Chief Counsel)に採用された。
 2004年5月には司法省に戻り、法務政策局(Office of Legal Policy)の上級法律顧問(Senior Counsel)を務めた。
 2005年2月まで同職に就き、その後、同委員会の「憲法・公民権・財産権小委員会」の首席法律顧問(Chief Counsel)に任命された。
 2007年から2011年にかけて、パイ氏は連邦通信委員会(FCC)の法務局(Office of General Counsel)で複数の役職を歴任した。
 特に法務局次長(Deputy General Counsel)として重要な役割を果たした。
 この職務において、彼は行政法部門に所属する数十名の弁護士を統括し、無線、有線、ケーブルテレビ、インターネット、メディア、衛星通信といった各業界に関わる多岐にわたる規制案件や取引案件に取り組んだ。
 2010年には、米国ジャーマン・マーシャル基金(German Marshall Fund of the United States)が実施するリーダー育成プログラム「マーシャル・メモリアル・フェローシップ」の2011年度フェローとして、全米で選出された55名の一人に名を連ねた。
 2011年4月には民間部門に復帰し、法律事務所
   ジェナー&ブロック(Jenner & Block)
のワシントンD.C.オフィスにて、通信法務グループのパートナー弁護士として勤務した。
 2011年、パイ氏は
   ミッチ・マコーネル少数党院内総務
の推薦を受け、バラク・オバマ大統領により連邦通信委員会(FCC)の
   共和党枠委員
として指名された。
 彼は2012年5月7日に米上院で全会一致の承認を受け、同年5月14日に就任宣誓を行った。
 その任期は2016年6月30日に満了した。
 その後、2017年1月には
により、5年間の任期でFCC(連邦通信委員会)委員長に指名された。
 さらに2017年10月2日、この5年間の任期について米上院の承認を受けた。
 2019年には、『モダン・ヘルスケア(Modern Healthcare)』誌による「ヘルスケア分野で最も影響力のある100人」の47位に選出された。
 ジョー・バイデン氏の米国大統領就任に伴い、2021年1月20日付で同職を辞任した。
 2025年4月、無線通信業界のロビー団体であるCTIAの会長兼CEOに就任した。
 パイ氏はFCC(連邦通信委員会)在任中、規制緩和を推進する立場をとっていた。
 彼はFCCの他の委員よりも、放送事業者にとっての強力な味方であると見なされていた。
 2012年7月10日、米国下院エネルギー・商業委員会通信技術小委員会での証言において、彼は
   規制の不確実性がもたらす危険性
について警告し、FCCが変化の激しい通信分野の動向に遅れず対応する必要性を説いた。
 またパイ氏は、委員会の業務のあり方を改革することで、米国の消費者に対し、より低価格で、より優れた新しいサービスの提供を促進できると主張した。
 パイ氏は就任後初となる主要な演説を、2012年7月18日にカーネギーメロン大学で行った。
 彼は、3つの基本原則
 (1) FCCは、自らが監督する業界と同様に機敏であるべきである。
 (2) FCCは、インフラ投資に対する規制上の障壁を取り除くことを優先すべきである。
 (3) FCCは、モバイルブロードバンド向けの周波数帯を新たに追加割り当てする取り組みを加速させるべきである。
を遵守することで、FCCがいかにして情報通信技術分野における経済成長の促進や雇用創出の拡大に貢献できるかについて論じた。
 パイ氏は、新しい技術やサービスに関する提案を1年以内に審査することを委員会に義務付けている通信法第7条の運用を再活性化させるよう求めた。
 また、国内のネットワークを全面的にIP化(オールIP化)する移行プロセスを迅速化するため、「IP移行タスクフォース」を設置する構想を提示した。
 さらに、ユニバーサル・サービス・基金(USF)への拠出制度改革に関する、9年間も決着していない審議を年内に完了させるよう委員会に促した。
 最後に、AWS-4周波数帯に関する規則を2012年9月までに策定することや、放送用周波数帯のインセンティブ・オークションを2014年6月30日までに実施することを提唱した。
 パイ氏は2014年、ウォール・ストリート・ジャーナル紙への寄稿において、メディア各社の取材活動に関するFCCの調査案を批判した。
 また同年、別の書簡の中で
   Netflix
を批判し、同社の「Open Connect」キャッシング・ツールが実質的に自社のトラフィックに対して「ファストレーン(優先通信路)」を確保するものになっていると指摘した。
 2014年10月、パイはワシントン・ポスト紙に寄稿し、インディアナ大学で実施されていた政府資金による研究プロジェクト「Truthy(トゥルーシー)」を批判した。
 同プロジェクトは、オンライン上での
   虚偽や誤解を招く考え
   ヘイトスピーチ
   破壊的なプロパガンダ
の拡散状況を調査するものであった。
 パイはその価値に疑問を呈し、「国民の税金を使って、個人の発言を監視したり、その『党派性』を評価したりすべきなのだろうか」と記した。
 これに対し、Truthyの研究者らは「我々は個人を監視しているわけではない。
 分析対象とするツイートは公開されており、誰でも閲覧できるものだ」と反論した。
 インディアナ大学はプレスリリースを発表し、「Truthyプロジェクトは、Twitterなどのソーシャルメディア・ネットワークを通じて情報がどのように拡散されるかについて、
   分析的な知見
を提供することを目的とした、基礎的なコンピューティング研究プロジェクトである」と説明した。
 米下院科学委員会の
   ラマー・スミス委員長
全米科学財団(NSF)に対し、同プロジェクトへの助成金に関する調査を行う旨を伝える書簡を送付した。
 2017年、パイは
   トム・ウィーラー
が導入していた提案を撤回した。
 この提案は、ケーブルテレビ事業者に、自社の番組をサードパーティ製デバイスでも視聴可能にすることを義務付けるものであった。
 2019年6月、パイが率いるFCC(連邦通信委員会)は、通信事業者がユーザーを
   自動的に迷惑電話ブロックサービス
に登録することを許可した。
 この措置はパイが提案したもので、彼はこれにより「望まないロボコール(自動音声通話)」が減少すると述べた。
 これに対し、FCC委員の
   ジェシカ・ローゼンウォーセル
は、FCCはさらに踏み込んで、
   無料の迷惑電話ブロックサービス
を義務付けるべきだと主張した。
 2020年7月、パイが率いるFCCは、自殺予防ホットライン用の新しい電話番号「988」の導入を承認した。
 従来のホットライン番号は「1-800-273-8255」であったが、新しい番号による運用は2022年7月に開始された。
 2014年に行われた
   ネット中立性に関する公聴会
で、パイは、自由で開かれたインターネットの実現に尽力すると述べるとともに、ネット中立性のあり方を決定することはFCCの役割ではないと語った。
 彼は「これほど根本的な争点は、選挙で選ばれたわけではない我々5人の個人が決定すべきものではない。
 むしろ、国民によって選出された代表者たち…政府の進むべき方向を定め、その選択について国民から責任を問われ得る人々…によって解決されるべき問題である」と証言した。
 その後、パイはFCC(連邦通信委員会)による2015年の「オープン・インターネット・オーダー(Open Internet Order)」に反対票を投じた。
 この規則は、インターネットサービスを1934年通信法の「タイトルII(Title II)」の枠組みに分類するものであり、特定の事業者に対し、料金、慣行、分類、規制、設備、またはサービスに関して
   「不当または不合理な差別を行うこと」
を禁じるものであった。
 彼は2016年12月、タイトルIIに基づくネット中立性規制の「命運は尽きかけている」との見解を述べた。
   通信法の厳格な適用
   FCCの権限の制限
を強く主張する人物として評された。
 ネット中立性に関するFCC(連邦通信委員会)の2017年12月の採決を2週間前に控えた演説で、パイ氏は、計画されていた規制撤廃への反対運動を盛り上げた
   シェール
   マーク・ラファロ
   アリッサ・ミラノ
といった著名人らを批判した。
 ラファロ氏からの批判に対し、パイ氏は「インターネットに対する政府の権限を排除することは、権威主義とは正反対の行為だ。政府による統制こそが、北朝鮮の指導者を含む権威主義者の決定的な特徴なのだ」と述べた。
 また、パイ氏は、
   Twitter
などのハイテク企業が「自由で開かれたインターネット」を主張しながら、実際には「自分たちの
   気に入らないコンテンツ
を日常的にブロックしたり差別したりしている」と指摘し、それらの
   企業の姿勢を偽善的だ
と批判した。
 ネット中立性に関するFCCの採決の前日、パイ氏は「ネット中立性撤廃後も『ハーレム・シェイク』を踊れることをインターネットに知ってもらいたいアジット・パイ」と題された動画に登場した。
 物議を醸したこの動画の中で、彼は「ハーレム・シェイク」の曲に合わせて踊ったり、おもちゃのライトセーバーなどの商品をオンラインで購入したりする様子を披露した。
 動画には、陰謀論「ピザゲート」の支持者であり、動画を制作したメディア
   デイリー・コーラー(Daily Caller)
のスタッフでもある
   マルティナ・マルコタ氏
と並んで踊るパイ氏の姿も映っていた。
 この動画に対し、『スター・ウォーズ』の俳優
   マーク・ハミル氏
は、「ジェダイは一般の人々のために私心なく行動するものだ」として、パイ氏はジェダイの武器(ライトセーバー)を手にする「資格がない」と述べた。
 動画で使用された楽曲の制作者であるバウアー(Baauer)は、自身の
   楽曲が無断で使用
されたとして、所属レーベルと共にパイ氏に対して法的措置を講じる構えを見せた。
 委員長として、彼は
   T-モバイル
   AT&T
といった無線通信事業者による「ゼロレーティング(特定の通信をデータ通信量のカウント対象外とする)」慣行に関する調査を打ち切った。
 2017年5月18日、FCC
   ネット中立性規則の撤廃
に向けた最初の正式な手続きを開始した。
 激しい議論を呼んだパブリックコメント(意見公募)期間を経て、同年12月14日に「タイトルII(通信法第2編)」に基づく規制を撤廃する採決を行った。
 2018年2月、全米ライフル協会(NRA)は、世間から激しい批判を浴びながらもネット中立性規則を撤廃したパイ氏に対し、「チャールトン・ヘストン・カレッジ・アンダー・ファイア賞(困難な状況下での勇気を称える賞)」を授与した。
 この賞の一環として、手作りのケンタッキー・ロングガン(長銃)がパイに贈呈された。
 この贈り物に対し、元ホワイトハウス倫理担当弁護士の
   ウォルター・シャウブ
は、連邦職員であるパイがNRA(全米ライフル協会)などのロビイストから贈り物を受け取ることが倫理規定に違反するのではないかと疑問を呈した。
 最終的に、パイはこの贈り物を受け取らなかった。
 2018年5月、米上院が「連邦通信委員会(FCC)のネット中立性規則を復活させる」ための採決を52対47で行った際、パイは「不快感」を示したとされる。
 彼は、ネット中立性規則がない方が「デジタルの機会を促進する」助けとなり、「すべてのアメリカ人が高速インターネットにアクセスできるようになる」と主張した。
 「インターネットに対する強引な政府規制を復活させようとする民主党の動き」について、アジット・パイは、それが下院では失敗に終わるだろうとの見解を示した。
 ネット中立性を支持・反対する
   偽のコメントに関する調査
の際、パイは証拠の提出を拒否した。
 ISP(インターネット・サービス・プロバイダ)による
   パブリックコメント・プロセス
への操作の範囲を特定しようとするニューヨーク州司法長官への協力も拒んだ。
 パイは、FCCが「受刑者通話サービス(ICS)」と呼ぶ受刑者の電話通話料の高額さに関し、2013年のFCCの分析および規則制定案の採用に反対した。
 彼は反対意見書を提出し、民間ICS事業者と刑務所管理者の間で行われる独占的な単一事業者契約という性質上、受刑者は「市場競争によって通話サービスの価格が公正かつ妥当なものに保たれることを期待できない」と主張した。
 ICSは12億ドル規模の通信産業となっており、米国の最大手事業者2社はいずれもプライベート・エクイティ(未公開株投資)ファンドの支援を受ける企業であった。
 FCCが2014年2月に州間刑務所・拘置所通話の料金上限を設ける以前、最大手ICS事業者である
   グローバル・テル・リンク(GTL)
は、米国でも最高水準の料金を課しており、15分間の通話に最大17.30ドルを請求していた。
 2013年のFCC(連邦通信委員会)の分析では、場合によっては、長距離通話の料金が通常の通話料金の6倍にも達することが指摘された。
 なお、GTLは
といったプライベート・エクイティ・ファンドによって利益を伴う売買が繰り返されていた。
 クライバーン委員長代行は当該命令に賛成した。
 ただ、ジェシカ・ローゼンウォーセル委員とパイ委員は反対し、それぞれ声明を発表した。
 パイ委員は、
   GTL
   センチュリーリンク・パブリック・コミュニケーションズ
といった民間ICS(受刑者通話サービス)事業者に対し、FCCが12セントの「セーフハーバー(基準料金)」と21セントの上限を設けることに反対した。
 その代わりに同委員は、事業者保護と「一定の投資収益」確保のため、コストに基づいた「州間通話料金の上限設定(拘置所向けと、より低廉な刑務所向けの2段階料金)」というシンプルな案を主張した。
 また、同委員は、個々の刑務所における料金を細かく管理・統制することはFCCの本来の役割や能力に適したものではないとも論じた。
 2015年、パイ氏は、1分あたり最大14ドルにも及ぶ高額な通話料が課されていたにもかかわらず、裁判所がFCC(連邦通信委員会)には管轄権がないと判断した州内での受刑者向け通話料の上限設定に反対した。
 同氏は、刑務所内での不正な携帯電話の使用が増加していることへの懸念を表明していた。
 2016年11月、ICS(受刑者向け通信サービス)事業者は規制ルールの執行停止を勝ち取った。
 パイ氏は、これに対して控訴した民主党側を批判した。
 2017年1月23日に委員長として承認された直後、パイ氏は、州が設定する通話料に対してFCCが管轄権を持つことを求めていたGTL社およびCenturyLink社に関する訴訟(2017年2月審理予定)への支持を撤回した。
 2017年6月、連邦控訴裁判所はFCCのICSに関する命令の大部分を無効とする判決を下した。
 2016年、パイ氏は、通信サービスに対するFCCの補助金制度「ライフライン・プログラム」の受給者による不正の可能性について調査を求めた。
 同氏は、プログラムに登録した「明らかに重複している(同一人物と見られる)」受給者が、不適切に年間4億7600万ドルを受け取っていると主張した。
 委員長就任後、同氏は、ライフライン・プログラムに参加するために「全米部族電気通信協会(NTTA)」と連携することを義務付けたFCCのガイドラインに従わなかったとして、前任のFCC体制下でプログラム参加を承認されていた9社の新規ブロードバンド事業者(およびその他900社以上)の承認を取り消した。
 パイ氏は、これらのルールが、元ロビイストである民主党出身の
   トム・ウィーラー前委員長
によって不適切に回避されていたと主張した。
 2017年11月、米下院の民主党議員である
   ジョン・コンヤーズ(ミシガン州選出)
   デビッド・シシリーニ(ロードアイランド州選出)
は、FCCの監察総監
   デビッド・L・ハント
に対し、放送局の所有規制緩和に関するパイ氏の政策的措置が、
   シンクレア・ブロードキャスト・グループ
に有利な偏ったものでなかったか調査するよう要請した。
 同グループはテレビ放送局を多数所有する企業であり、2003年に開始した(現在は終了した)「ニュース・セントラル」形式の運用以来、保守的なニュースや解説コーナーを制作し、傘下の各放送局に対し、特定のローカルニュース番組内でそれらを放送するよう義務付けていた。
 パイ(Pai)委員長率いるFCC(連邦通信委員会)は、数年にわたり規制変更を求めてロビー活動を行ってきたシンクレア(Sinclair)社に利益をもたらすと議員らが考える一連の措置を講じた。
 その中には、テレビ局の所有制限の緩和、
   ウィーラー(Wheeler)前委員長
ら民主党主導の多数派によって2年前に撤廃されたUHF局に関する1985年当時の「割引係数(discount quota)」の復活、放送局に対し主要な報道対象地域内のコミュニティに拠点を維持することを義務付ける規定(FCC発足当初からのもの)の扱い、そして共同販売や共有サービス契約に適用される所有権帰属ルールの撤廃などが含まれる。
 2017年後半から、FCC監察総監室はシンクレアとトリビューン(Tribune)の合併案をめぐりパイ委員長に対する調査を行った。
 この調査の事実は2018年2月に公表された。
 同室は2018年8月、不正行為、不誠実な振る舞い、シンクレアへの優遇、あるいは公平性の欠如を示す証拠や兆候は「一切見つからなかった」と結論付けた。
 また、シンクレアに関するパイ委員長の決定は、彼が以前から公の場で支持していた政策的立場と整合するものであったとも結論付けた。
 2018年7月、パイ委員長率いるFCCは、シンクレアとトリビューンの合併案について、行政法判事による聴聞会を開くよう命じた。
 これは、シンクレアが売却対象とする放送局の支配権を違法に維持しようと計画していたとの疑惑を受けた措置であたた。
 この決定に対し、トランプ大統領はFCCを批判した。
 大統領は、「保守的な声」を発信する合併企業を望んでいたと述べていた。
 2018年8月、トリビューンは合併を断念した。
 2020年5月、パイ委員長が率いるFCCは、シンクレアに対する3件の調査を終了させることと引き換えに、同社が欺瞞的な行為の対価としてFCC史上最高額となる4,800万ドルの制裁金を支払うことで合意に達した。
 FCC委員の
   ジェシカ・ローゼンウォーセル
   ジェフリー・スタークス
は、調査が完全に完了し公表されることを求めていた。
 このため、この合意に反対した。
 2020年4月16日、パイ氏は他のFCC(連邦通信委員会)委員に対し、「主に5GやIoT(モノのインターネット)サービスを支援する、L帯(L-Band)を使用した低出力の地上全国ネットワークを展開する」ための申請を承認するよう求めた。
 これは、米国防総省が、特にGPSの有効範囲(カバレッジ)に関して米軍の作戦能力に及ぼし得る影響について懸念を表明する報告書を出していたにもかかわらず、行われたことであった。
 2017年、パイ氏は、ネット中立性(ネット・ニュートラリティ)を支持する抗議活動家らが自身の家族を標的にしたと公に訴えた。
 バージニア州郊外にある自宅の近くには、子供たちに向けたメッセージが掲示された。
 そこには「彼らは真実を知ることになるだろう。パパは冷酷にも民主主義を殺したのだ」や「彼らはどうやって、もう一度あなたの目を見ることができるだろうか?」といった言葉が書かれていた。
 これらの挑発的な看板について犯行声明を出した団体はなかったが、擁護団体「ポピュラー・レジスタンス(Popular Resistance)」は、「アジット・エイション(Ajit-ation)」と称するキャンペーンの一環として、パイ氏の近隣住民の家のドアにチラシを残した。
 そのチラシには、同氏の写真、年齢、体重が記載されていた。

    
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グローバー・クリーブランド(Grover Cleveland)北戦争後初めて選出された民主党の大統領で第22代および第24代の米大統領(在任:1885年 - 1889年、1893年 - 1897年)

スティーブン・グローバー・クリーブランド(Stephen Grover Cleveland)
   1837年3月18日 - 1908年6月24日
 南北戦争後初めて選出された民主党の大統領で第22代および第24代大統領(在任:1885年 - 1889年、1893年 - 1897年)を務めた人物。
 また、連続しない任期で大統領職を務めた最初のアメリカ大統領で​​もあった。
 スティーブン・グローバー・クリーブランドは、1837年3月18日、ニュージャージー州コールドウェルにて、父
   リチャード・ファリー・クリーブランド
と母アン(旧姓ニール)の間に9人兄弟の5番目として生まれた。
 コネチカット州出身の父は、会衆派および長老派の牧師であった。
 母はボルチモア出身で、書店の娘であった。
 父方の家系をたどると、1635年にイングランドのイプスウィッチからマサチューセッツへ移住したイギリス人の祖先に行き着くことができる。
 また、母方の家系は、アングロ・アイリッシュのプロテスタントとドイツ系のクエーカー教徒に由来する。
 クリーブランドは、オハイオ州クリーブランド市の名の由来となったモーゼス・クリーブランド将軍と遠い親戚関係にあった。
 クリーブランドは、1881年にバッファロー市長に選出された。
 1882年にニューヨーク州知事に選出された。
 知事在任中、彼は州議会の少数党(共和党)指導者であった
と緊密に協力して改革案を成立させ、全国的な注目を集めた。
 クリーブランドは
   高関税
   自由銀政策
   インフレ
   帝国主義
 そして企業・農家・退役軍人への
   補助金支給
に反対する、親ビジネス的な派閥
   バーボン・デモクラッツ(Bourbon Democrats)
を主導した。
 政治改革と財政保守主義を掲げる彼の姿勢は、当時のアメリカ保守派にとっての象徴的な存在となった。
 また、クリーブランドは、
   政治腐敗
   猟官運動(パトロネージ)
   ボス政治(政治的ボスによる支配)
に立ち向かう彼の姿勢は、その誠実さ、自立心、高潔さ、そして
   古典的自由主義への強い信念
によっても高く評価され、多くの志を同じくする「マグワンプス」と呼ばれた
   共和党員
を動かし、党派を超えて1884年の大統領選挙で彼を支持させた。
 その結果、彼は共和党の
   ジェームズ・G・ブレイン
を僅差で破り、勝利を収めた。
 最初の大統領在任中、クリーブランドは1887年州際通商法に署名した。こ
 れにより、鉄道業界は規制機関による連邦規制の対象となる最初の産業となった。
 また、彼はドーズ法にも署名した。
 それによってネイティブ・アメリカンの部族共有地が
   個人の割り当て地
へと分割され、共有地は全て米国政府等により簒奪されることになった。
 この政策により、1887年から1934年の間に、ネイティブ・アメリカンはその土地の約3分の2の支配権を失った。
 1888年の選挙では、クリーブランドは一般投票で勝利した。
 しかし、選挙人団の投票で敗れ、
   ベンジャミン・ハリソン
に大統領の座を譲ることになった。
 その後、彼はニューヨーク市に戻り、法律事務所に加わった。
 1892年の選挙でハリソンとの再戦に臨んだクリーブランドは、一般投票と選挙人団投票の双方で勝利した。
 ホワイトハウスへの復帰を果たしたが、2期目の大統領職が始まる1ヶ月前に「1893年恐慌」が発生した。
 深刻な全国的不況が引き起こされた。
 もともと、ハワイ国王家は短命の者が多く、1873年に
   カメハメハ5世
が死去して直系が断絶した。
 後を継いだルナリロも翌年死去し、1874年、リリウオカラニの兄
が即位した。
 リリウオカラニは1877年に女性で初の王位継承者となった。
 1887年、英国女王ヴィクトリアの在位50周年祝典への招待を受け、ハワイ王妃と共に国王の名代としてヴィクトリア女王に謁見した。
 ただ、この機に起こされた共和制派のクーデターにより、カラカウアは新憲法(銃剣憲法)への署名を余儀なくされた。
 この法律はハワイ国王の権限を大幅に制限し、議会へ委譲するものであった。
 ただ、参政権が一部の富裕層にしか与えられていない現状では、
   ハワイ人や日系移民等アジア人
の参政権排除と受け止められた。
 さらに、抗議活動を弾圧するため王政派の
   W・ギブソン首相
も米国から来た共和制派をバックアップする資本家らの工作で国外追放となった。
 1891年、カラカウアが渡米先のサンフランシスコで客死した。
 このため、リリウオカラニは女王として即位して共和制派との対決姿勢を強めた。
 1892年、ハワイ人らの新憲法制定の請願を受け、1893年1月14日、国王権限を強化する憲法草案を閣議に提出したが否決された。
 1月16日、王政派と共和制派が共に大集会を開くなど騒然とする中、危機感を募らせた共和制派は、米国政府の
   スティーブンス公使
の要請により武装した米海兵隊がイオラニ宮殿を包囲して人質状態にして、反対派に対し圧力を強めた。
 翌17日には共和制派が政庁舎を占拠し、
   王政廃止
   臨時政府樹立
を米海兵隊の武力を背景にして一方的に宣言した(ハワイ革命)。
 西欧列強の幾つかの国が臨時政府を承認した。
 一方で、ハワイ王国の独立を支持する日本は、邦人保護の名目で軍艦を送るなどしてこのクーデターに不快感を表明した。
  反帝国主義者であったクリーブランドは、
   ハワイ
の米国への併合の動きに反対し、ハワイ王国第8代(最後)
   リリウオカラニ女王
を退位させた1893年のクーデターについて調査を開始した。
 また、女王の復位を求めた。
 米国政府は最終的に、この「革命」が不法なものであると認め、スティーブンス公使を更迭したうえ共に、元下院議員
   ジェームズ・ヘンダーソン・ブロント
を中心とする調査団を派遣した。
 臨時政府はこれを
   内政干渉
として突っぱねた。
 これに対し1894年2月、上院議員
   ジョン・テイラー・モーガン
を中心とした調査団は共和制派を支持する報告書をまとめた。
 米国が米西戦争(1898年)でキューバ、フィリピン、グアムを獲得するなどの
   領土拡張政策
を推し進める中で、真珠湾などのハワイの軍事戦略的重要性も高まっていった。
 クリーブランドは鉄道の運行を維持するために1894年の
に介入したことで、イリノイ州の民主党員や全国の労働組合の反発を招いた。
 このほか、金本位制を支持し
   銀貨自由鋳造(フリー・シルバー)
に反対した姿勢は、民主党内の農業層の離反を招くこととなった。
 批判者たちは、クリーブランドには想像力が欠けており、
   2期目における不況やストライキ
といった国家的経済危機に圧倒されているように見えたと指摘した。
 多くの有権者が民主党に責任を求めた結果、1894年の選挙では共和党が圧勝した。
 1896年の民主党全国大会では
   農業層
   銀貨自由鋳造派(シルバーライト)
が党の主導権を握る道が開かれた。
 2期目が終わる頃には、彼は民主党員の間でさえも極めて不人気な存在となっていた。
 1897年3月4日にホワイトハウスを去った後、クリーブランドはニュージャージー州プリンストンにある自身の邸宅「ウェストランド・マンション」で隠居生活を送った。
 1897年にはアメリカ哲学協会の会員に選出された。
 一時期はプリンストン大学の理事も務めた。
 大学院や学部生の生活環境に関する計画をめぐっては、当時の学長
よりも、学部長アンドリュー・フレミング・ウェストの案を支持する理事の多数派に加わっていた。
 また、1898年の
   米西戦争
に抗議して「アメリカ反帝国主義連盟」に参加した。
 クリーブランドはセオドア・ルーズベルト大統領(在任1901–1909年)に折に触れて助言を行っていた。
 1902年の炭鉱ストライキに対処する委員会の委員長就任については、経済的な理由から引き受けることができなかった。
 クリーブランドはその後も政治問題について自身の見解を表明し続けた。
 1905年に『レディース・ホーム・ジャーナル』誌に掲載された記事の中で、彼は
   女性参政権運動
について論じ、「分別があり責任感のある女性は、投票など望んでいない。
 我々の文明を築き上げていく過程で男女が担うべきそれぞれの役割は、はるか昔に『より高次の知性』によって割り当てられたものなのだ」と記している。
 クリーブランドの健康状態は数年前から悪化しており、1907年の秋には重篤な状態に陥った。
 1908年に心臓発作を起こし、同年6月24日、プリンストンの自宅で死去した(享年71歳)
 彼の最期の言葉は「私は正しいことをしようと懸命に努力してきた」であった。
 彼はナッソー長老派教会のプリンストン墓地に埋葬されている。

  
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2026年07月06日

ジャンニ・インファンティーノ(Gianni Infantino)スイス・イタリア・レバノンのサッカー運営者で、2016年からはFIFA会長

ジョヴァンニ・"ジャンニ"・ヴィンチェンツォ・インファンティーノ(Giovanni "Gianni" Vincenzo Infantino)
   1970年3月23日生まれ
 スイス・イタリア・レバノンのサッカー運営者
 2016年からFIFA会長を務めている。
 また、2020年からは
   国際オリンピック委員会(IOC)
の委員も務めている。
2016年2月26日に初めてFIFA会長に選出された後、2019年6月5日、そして2023年3月16日にも再選された。
 IOC委員への選出は2020年1月10日に行われた。
 FIFA会長として、ロシアで開催された2018年FIFAワールドカップを統括した。
 その際、ウラジーミル・プーチンから友好勲章を授与された。
 また、カタールで開催された2022年FIFAワールドカップも統括した。
 ただ、その期間中、カタールの
   人権状況をめぐる論争
を擁護し、あるいは軽視する姿勢をとった。
 また、サウジアラビアの招致を支持し、
   開催資格を制限
することで競合する招致案の数を減らすといった動きを見せた。
 2034年FIFAワールドカップの開催地としてサウジアラビアが選出される上で重要な役割を果たした。
 現在は米国、メキシコ、カナダで共同開催される
   2026年FIFAワールドカップ
を統括しており、
   高額なチケット価格
によりファンが観戦から締め出されているという批判に対し、FIFAは生み出された
   余剰収益
を「成長」に投資していると主張して擁護している。
 インファンティーノは1970年3月23日、スイスのブリークで生まれた。
 イタリアのカラブリア州およびロンバルディア州出身のイタリア系移民の両親を持っている。
 また、結婚を通じてレバノンの市民権を取得しており、スイス、イタリア、レバノンの市民権を保持している。
 スイス・フリブール(フライブルク)の州立大学
   フリブール大学
で法学を学んだ。
 フランス語、ドイツ語、イタリア語を母国語とし、さらにアラビア語、英語、ポルトガル語、スペイン語も話す。
 インファンティーノは、ヌーシャテル大学にある国際スポーツ研究センター(CIES)で事務局長を務めた。
 インファンティーノは2000年8月から
   欧州サッカー連盟(UEFA)
で働き始めた。
 2004年1月にはUEFAの法務・クラブライセンス部門の責任者に任命された。
 その後、2007年にUEFA事務局長補佐に就任した
 2009年10月にはUEFA事務局長に就任した。
 在任中、UEFAは
   ファイナンシャル・フェアプレー制度
を導入し、小規模な加盟協会への商業的支援を強化した。
 インファンティーノは、UEFA EURO 2016(欧州選手権)の出場チーム数を24チームに拡大する計画を主導した。
 UEFAネーションズリーグやUEFA EURO 2020(当初は欧州13カ国での開催が予定されていたが、後に11カ国に縮小された)の構想策定にも関与した。
 2015年、ギリシャ政府は、主に同国のサッカー界で相次いだ
   スキャンダル
   暴力行為
   汚職問題
を受けて、新たなスポーツ関連法を導入することを決定した。
 UEFA事務局長であったインファンティーノは、ギリシャ政府との交渉を主導し
   政府の介入
を理由に国際大会への出場停止処分を受ける可能性があるとの
   ギリシャ・サッカー連盟
による警告を支持した。
 インファンティーノはFIFA改革委員会のメンバーを務めていた。
 2015年10月26日、彼は2016年のFIFA臨時総会における会長選への立候補について
   UEFA執行委員会
の支持を取り付けた。
 同日、立候補を正式に表明し、必要な支持表明書を提出した。
 彼はFIFAワールドカップの出場チーム数を40チームに拡大することを公約に掲げた。
 2016年2月26日、彼は3年間の任期でFIFA会長に選出された。
 両親を通じてスイスとイタリアの二重国籍を持つインファンティーノは、イタリア人として初めてFIFA会長に就任した人物となった。
 2017年、インファンティーノは、米国が
   イスラム教徒
が多数を占める数カ国に対して実施した入国禁止措置を批判した。
 彼は次のように述べた。「FIFAの大会に関して言えば、ワールドカップの出場権を獲得したチーム(サポーターや役員を含む)は、開催国に入国できなければなりません。そうでなければワールドカップは成立しません。それは明白なことです」と述べた。
 2019年、インファンティーノは2018年FIFAワールドカップの開催を受け、ウラジーミル・プーチンから「友好勲章」を授与された。
 なお、彼は2018年ワールドカップを「史上最高のワールドカップ」と評していた。
 インファンティーノのFIFA会長在任中は、
   汚職疑惑
   利益相反
   組織のガバナンス
   人権侵害
で非難されている国家との関係をめぐり、繰り返し批判の対象となってきた。
 FIFAの倫理委員会やスイスの検察当局による彼の
   個人的な行動に関する調査
は、違反の認定や訴追に至ることなく終了した。
 なお、インファンティーノに批判的な論者らは、こうした結果は彼の在任中に
   FIFAの監視機関が弱体化したこと
によるものであり、彼の
   潔白が証明されたわけではない
と指摘している。
 2016年の会長選出直後、インファンティーノの名が「パナマ文書」の流出資料に登場した。
 その資料によると、彼はUEFA(欧州サッカー連盟)の法務幹部時代、後に米国のFIFA汚職捜査で被告となった人物らと関連のある企業とのテレビ放映権契約に共同署名していたことが示唆されていた。
 これは、UEFAがそれまで否定していた関係であったことから事実であれば虚偽の説明をしていたことにもなる。
 インファンティーノはこうした報道に対して「愕然とした」と述べ、起訴された当事者らと個人的に関わったことは一度もないと主張した。
 なお、この件で訴追されることはなかった。
 2016年7月、FIFA倫理委員会の調査部門は、インファンティノ氏がF
   IFA倫理規定
に違反したかどうかについて調査を開始した。
 この調査は、同氏の会長就任初期の
   航空機利用
や会長室における
   人事慣行
 そしてFIFAとの
   雇用関係を定める契約
への当初の署名拒否といった問題に関するものと報じられた。
 同部門は、契約や人事に関する問題は倫理規定違反ではなく
   内部コンプライアンス(法令・規則遵守)の問題
であると判断し、違反はなかったと結論付けた。
 FCバイエルン・ミュンヘンの
   カール=ハインツ・ルンメニゲ会長
らは、インファンティノ氏が
   透明性
   適切なガバナンス(組織統治)の確保
という公約を果たしていないと指摘していた。
 また、2018年および2022年のFIFAワールドカップ開催国であるロシアとカタールから、
   プライベートジェット
やその他の接待を受けたことについても
   利益相反の疑い
が持たれたが、同部門はここでも違反はなかったと判断した。
 2017年にバーレーンで開催されたFIFA総会において、倫理委員会の調査部門および裁定部門の委員長をそれぞれ務めていた
   コルネル・ボルベリ氏
   ハンス=ヨアヒム・エッカート氏
が再任されなかった。
 両氏は、自身の退任をもって2015年以降のFIFA改革プロセスは事実上終了したと述べた。
 その後の報道によれば、ボルベリ氏は
   インファンティノ氏に関する苦情
について調査を行っており、その中には、同氏と当時の事務局長
   ファトマ・サムーラ氏
がアフリカの地域連盟会長選挙に影響を及ぼそうとしたという疑惑も含まれていた。
 専門家らは、これら幹部の解任や、ロシアの役員
   ヴィタリー・ムトコ氏
のFIFA理事会への立候補に異議を唱えたガバナンス委員会に対し、
   ミゲル・マドゥロ委員長
への圧力がかけられたとされる一連の出来事を、インファンティノ氏の会長在任中に
   監視機能が弱体化
していったという全体的な傾向と結びつけて論じている。
 インファンティーノは、スイス連邦検事総長
   ミヒャエル・ラウバー
およびヴァレー州検察官
   リナルド・アーノルド
と非公開の会合を持ったことを巡り、スイスで長期にわたる問題の渦中にあった。
 これらの会合は、ラウバーの検察局が
   国際サッカー界の汚職事件
を捜査していた2016年から2017年にかけて行われたものであった。
 ラウバー連邦検事総長は、
   職務上の義務
に違反し、会合について
   捜査官を誤解させるような説明
を行ったと連邦裁判所に認定された後、2020年に辞任した。
 特別検察官の
   ステファン・ケラー
は、公職乱用や
   職務上の秘密保持義務違反
の疑いがあるとして、ラウバー、インファンティーノ、アーノルドに対する刑事手続きを開始した。
 スイス議会はラウバーの
   免責特権を解除
するという異例の措置を講じた。
 2021年、ケラーの事務所による公的な声明が偏りを示しているとのインファンティーノからの申し立てを受け、連邦刑事裁判所はケラーを本件の担当から外した。
 後任の検察官2名が本件を引き継ぎいた。
 2023年10月に起訴することなく捜査を打ち切った。
 FIFAはこの決定を「極めて満足のいくもの」として受け止めると表明した。
 一連の経緯を通じて、インファンティーノは
   不正行為
を否定し、検察官との会合はFIFAが被害者としての立場にある事件に関連したものだったと主張していた。
 インファンティーノは、権威主義的あるいはポピュリスト的な国家元首らと関係を持っているとして批判されてきた。
 彼は2018年ワールドカップに関連してロシアの
   ウラジーミル・プーチン大統領
から「友好勲章」を授与されたほか、カタールやサウジアラビアの支配層と親密な関係を維持した。
 カタール政府が提供する航空機で移動を行っていた。
 また、2026年FIFAワールドカップ開催を控えた時期には、米国の
   ドナルド・トランプ大統領
と公の場で親密な関係を築いていた。
 批判者たちは、彼のリーダーシップの下でFIFAが国家主体や政府系ファンド(ソブリン・ウェルス・ファンド)との結びつきを強め、財政的にそれらに依存するようになっていると指摘している。
 人権団体は、カタールで開催された2022年ワールドカップに対するインファンティーノの対応を批判してきた。
 2022年5月、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、大会のスタジアム建設に従事した
   外国人労働者の死亡や虐待の疑いに関する報告書
を発表し、アムネスティ・インターナショナルは、一部の労働者が
   強制労働
を強いられたと主張した。
 大会前夜の演説で、インファンティーノは自身が「カタール人、アラブ人、アフリカ人、同性愛者、障害者、そして出稼ぎ労働者」であるかのように感じると述べ、欧米の批判者たちを
   偽善的だ
と非難した。
 しかし、これらの発言は人権侵害の問題を軽視するものだとして、逆に広く批判を浴びた。
 その後、2034年FIFAワールドカップの開催地にサウジアラビアが選出された際にも、人権団体から同様の異議が唱えられた。
 学者やFIFAの元幹部らは、インファンティーノの
   権力行使のあり方
について
   構造的な批判
を展開した。
 FIFAは
   収入の大半
を男子ワールドカップに依存しており、
   発展支援金
   開催権の配分
を会長の裁量で行っているため、批判者たちは同組織を、内部からの異議申し立てを抑制する「パトロネージ(恩顧主義)」のシステムで運営されていると評している。
 FIFAガバナンス委員会の元メンバーである
   ジョセフ・ワイラー氏
は、この仕組みを「合法的な贈収賄」と表現した。
 このほか、調査機関「フェアスクエア(FairSquare)」は、会長の権限が倫理的な行動を阻害する
   パトロネージ・モデル
に基づいていると指摘した。
 インファンティノ氏は、2034年ワールドカップの開催地としてサウジアラビアが選出される過程で主導的な役割を果たした。
 FIFAは加盟国に対し、2030年と2034年の大会開催地を同一の会議で決定するよう求めた。
 さらに2034年大会の立候補資格を制限した。
 このため、結果としてサウジアラビアが唯一の立候補国となった。
 このプロセスは人権団体やサッカー関係者から批判を浴びたほか、コメンテーターからは、この決定がFIFAが拡大を推進するクラブワールドカップへのサウジアラビア関連の資金提供と時期を同じくしているとの指摘もなされた。
 2026年6月、UEFA(欧州サッカー連盟)の元会長
   ミシェル・プラティニ氏
は、フランスにおいてFIFAとインファンティノ氏を刑事告発した。
 同氏は、インファンティノ氏が自身(プラティニ氏)のFIFA会長就任(ゼップ・ブラッター氏の後任)を阻止し、それによって2016年の選挙で自らが選出されるよう画策するために、
   虚偽の告発
   影響力行使
といった工作を行ったと主張した。
 FIFAから科された倫理規定違反による資格停止処分がスポーツ仲裁裁判所(CAS)によって軽減された。
 2022年にはスイスの裁判所で関連する刑事容疑について無罪判決を受けていたプラティニ氏は、損害賠償を求める民事訴訟の意向も表明した。
 ただ、FIFAは不正行為を否定し、これらの疑惑について法廷で事実関係が審理・判断されることはなかった。
 FIFAが非営利団体であるという性質上、インファンティノ氏の報酬は批判の対象となってきた。
 彼の年間報酬総額は約600万米ドルと報じられており、2023年には約3分の1増加した。
 このほか、2026年にル・モンド紙が報じた流出した米国の税務書類には、就任以来の彼の収入の詳細が記されていた。
 2024年、FIFAは、規模を拡大して初開催されるクラブワールドカップのトロフィーに、インファンティーノの名と、同大会の創設における彼の功績を称える文言を刻印することを決定した。
 2025年5月にアスンシオンで開催されたFIFA総会では、インファンティーノが中東でドナルド・トランプと会談した後に約2時間遅刻して到着したため、UEFAの代表団が抗議して会議を退席する事態となった。
 イランでは、1979年のイスラム革命後、男子チームの試合が行われるスタジアムへの女性の立ち入りが禁止されていた。
 インファンティーノは、イランの女性の権利について、イランサッカー連盟やイラン・イスラム共和国当局に対し、繰り返し警告を発していた。
 2019年9月8日、サハル・ホダヤリがスタジアムへの入場を試みて逮捕された後、焼身自殺を図った。
 この事件を受け、FIFAはイランの女性に対し、2019年10月からスタジアムでの観戦が可能になると確約した。
 2019年10月10日、カンボジアとのワールドカップ予選において、3,500人以上の女性がアザディ・スタジアムで試合を観戦した。
 2025年5月15日にアスンシオンで開催された第75回FIFA総会において、インファンティーノはサウジアラビアとカタールでドナルド・トランプ米大統領と会談した影響で、会議に2時間遅れて到着した。
 これを受け、UEFA(欧州サッカー連盟)の幹部らは抗議して一斉に退席し、インファンティーノがサッカーよりも政
   治的利益を優先
していると非難した。

    
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2026年07月04日

レオン・チョルゴシュ(Leon Czolgosz)ウィリアム・マッキンリーを暗殺した米国の電線工

レオン・フランク・チョルゴシュ(Leon Frank Czolgosz)
   1873年5月5日 - 1901年10月29日
 1901年にアメリカ合衆国大統領
を暗殺した米国の電線工で無政府主義者である。
 チョルゴシュは1893年の経済恐慌で職を失い、無政府主義に転向した。
 彼はマッキンリーを抑圧の象徴とみなし、無政府主義者として彼を暗殺することが自分の義務だと信じていた。
 チョルゴシュは1901年9月6日にニューヨーク州バッファローでマッキンリーを銃撃し、すぐに逮捕された。
 マッキンリーは傷口が感染症を起こし、9月14日に死亡した。
 1か月後、チョルゴシュは第一級殺人罪で有罪判決を受け、死刑を宣告された。
 彼は10月29日に電気椅子で処刑された。
 レオン・フランク・チョルゴシュは、ポーランド系アメリカ人の
   ポール(パヴェウ)・チョルゴシュ
と妻
   メアリー(マリアンナ)・ノヴァク
の8人兄弟の4番目の子供として、1873年5月5日、ミシガン州デトロイトで生まれた。
 レオン一家は1880年にミシガン州アルピーナに移住した。
 レオンが10歳の時、一家はミシガン州ポーゼンに住んでいたが、チョルゴシュの母親は妹ヴィクトリアを出産してから6週間後に亡くなった。
 1889年、チョルゴシュ一家はペンシルベニア州ナトローナに移り住み、チョルゴシュはそこでガラス工場で働いた。
 17歳の時、一家はオハイオ州クリーブランドに移り住み、そこで彼はクリーブランド圧延工場に就職した。
 1893年の経済恐慌後、工場が一時閉鎖され、賃金削減が試みられた際、労働者たちはストライキを起こした。
 経済的、社会的な混乱が渦巻く中、チョルゴシュはカトリック教会をはじめとする移民団体に慰めを見出すことができず、不正義に対する懸念を共有する仲間を求めた。
 彼は穏健な労働者社会主義クラブ「黄金の鷲騎士団」に加入した。
 やがてより急進的な社会主義グループ「シラ・クラブ」へと進み、そこで無政府主義に傾倒するようになった。
 1898年、チョルゴシュは一連の同様のストライキを目撃し、その多くが暴力沙汰に発展するのを目の当たりにした。
 その後、おそらく呼吸器系の病気を患っていたため、前年にオハイオ州ウォーレンスビルに50エーカー(20ヘクタール)の農場を購入していた父のもとへ身を寄せた。
 チョルゴシュは隠遁生活を送るようになった。
 彼は、アナキストであり暗殺未遂犯でもあった
   エマ・ゴールドマン
の講演に感銘を受けた。
 チョルゴシュは1901年5月、クリーブランドで行われたゴールドマンの講演で初めて彼女に会った。
 講演後、チョルゴシュは講演者の壇上に近づき、ゴールドマンにおすすめの本を尋ねた。
 1901年7月12日の午後、彼はシカゴにある新聞「フリー・ソサエティ」の発行人である
   エイブラハム・アイザック
の家を訪ね、
   フレッド・C・ニーマン(名もなき人)
と名乗ったが、ゴールドマンは駅に向かう途中だった。
 チョルゴシュはクリーブランドの社会主義者たちに失望したと彼女に告げ、ゴールドマンはすぐに駅にいたアナキストの友人たちに彼を紹介した。
 9年前に実業家
   ヘンリー・クレイ・フリック
の暗殺を企てたゴールドマンは、後に「このアメリカの若者が、独立記念日や戦没者追悼記念日に、どれほど多くの回数、祖国の戦没者を敬い、誇りを持って祝ったか、誰が知るだろうか。彼もまた、『祖国のために戦い、祖国の自由のために死ぬ』覚悟があったに違いない」というチョルゴシュを擁護する文章を書いた。
 その後数週間、チョルゴシュの社交性のなさ、曖昧な態度、そしてイサークやもう一人のアナキスト
   エミール・シリング
の周囲にある秘密結社についての率直な質問は、急進的な『自由社会』紙が9月1日に彼に関する警告を発する事態を招いた。
 その内容は「注意!同志諸君、もう一人のスパイに注意せよ。
 彼は身なりが良く、中背で、肩幅はやや狭く、金髪で、年齢は約25歳である。
 現在までに、彼はシカゴとクリーブランドに姿を現している。
 シカゴでは短期間しか滞在せず、クリーブランドでは同志たちが彼の正体を確認した。
 暴露しようとしたまさにその時、彼は姿を消した。
 彼の態度は典型的なもので、運動に強い関心を持っているふりをし、名前を尋ねたり、計画中の暴力行為への協力を求めたりする。
 もしこの人物が他の場所に現れた場合、同志たちは事前に警告を受け、それに応じて行動することができる。
――エヴェレット・マーシャル『自由社会』」というものである。
 チョルゴシュは、アメリカ社会には大きな不正義、すなわち富裕層が貧困層を搾取することで富を蓄積する不平等が存在すると信じていた。
 そして、その原因は政府の構造にあると結論づけた。
 この頃、チョルゴシュはヨーロッパの指導者の暗殺事件を知った。
 イタリア国王ウンベルト1世が1900年7月29日に無政府主義者
   ガエターノ・ブレシ
によって射殺された。
 ブレシは報道陣に対し、庶民のために自らの手で事態を収拾することを決意したと語った。
 チョルゴシュは報道記事の切り抜きを持ち歩くだけでなく、1901年9月にはブレシが暗殺に使用したと思われるリボルバーと同じモデルを意図的に購入した。
 1901年8月31日、チョルゴシュはマッキンリー大統領が演説を行う予定のパンアメリカ博覧会の開催地、ニューヨーク州バッファローへ向かった。
 彼はブロードウェイ1078番地にあるノヴァク・ホテルに部屋を借りた。
 9月6日、チョルゴシュは4日前に購入したアイヴァー・ジョンソン社製の「セーフティ・オートマチック」リボルバーを隠し持って博覧会会場へ向かった。
 彼は音楽堂でマッキンリー大統領の出迎え列に加わった。
 午後4時7分、チョルゴシュは列の先頭に到着した。
 マッキンリーが手を差し伸べたところ、チョルゴシュはそれを払い除けたうえ、至近距離からマッキンリーの腹部を2発撃った。
 1発目の弾丸はコートのボタンに当たって跳ね返り、マッキンリーのジャケットにめり込み、もう1発は彼の腹部を貫通した。
 傍観者たちが恐怖に震えながら見つめ、マッキンリーが一歩前に踏み出すと、チョルゴシュは3発目を撃とうとした。
 しかし、チョルゴシュの真後ろに立っていた
   ジェームズ・パーカー
が彼の首を殴り、銃を彼の手から叩き落とした。
 パーカー、警官、砲兵がチョルゴシュを殴り始めた。
 彼は「私は義務を果たした」と言っているのが聞こえた。
 マッキンリーは群衆に向かって「彼に手加減してやれ」と言った。
 警官たちは、ひどく殴られたチョルゴシュから怒った群衆を引き離そうと奮闘した。
 チョルゴシュは引きずり出されたが、その前に
   フォスター捜査官
に身体検査を受けた。
 チョルゴシュが身体検査中に大統領を見ようと首を回し続けたため、フォスターは一撃で彼を地面に倒した。
 彼はバッファロー市オースティン通り346番地にある第13分署に連行され、警察本部へ移送されるまで留置場に拘留された。
 マッキンリーの腹部の傷は致命傷ではなかったが、傷口から感染が広がり、8日後の9月14日に死亡した。
 マッキンリーの死後、新たに大統領に就任した
は、「無政府状態の鎮圧に比べれば、他のあらゆる問題は取るに足らない」と述べた。
 マッキンリーが負傷により亡くなる前日の9月13日、チョルゴシュは改修工事中の警察本部から連れ出され、一時的にエリー郡女子刑務所に移送された。
 3日後、彼はエリー郡刑務所に移送され、エメリー郡判事の前で罪状認否を受けた。
 罪状認否後、チョルゴシュはオーバーン刑務所に移送された。
 大陪審は9月16日、チョルゴシュを第一級殺人罪1件で起訴した。
 収監中、チョルゴシュは看守とは自由に会話したが、弁護を担当した著名な判事出身の弁護士
   ロバート・C・タイタス
   ローラン・L・ルイス
そして精神鑑定のために派遣された精神科医との面会は一切拒否した。
 この事件は、エリー郡地方検事
   トーマス・ペニー
と地方検事補
   フレデリック・ハラー
によって起訴された。
 チョルゴシュは「有罪」と答弁したが、裁判長
   トルーマン・C・ホワイト判事
はこれを覆し、チョルゴシュに代わって「無罪」の答弁を記録した。
 チョルゴシュの裁判は、マッキンリー大統領の死から9日後の1901年9月23日、バッファローの州裁判所で始まった。
 検察側の証言は2日間にわたり、主にマッキンリーを治療した医師と銃撃事件の目撃者らの証言で構成された。
 ルイスと共同弁護人は証人を一人も召喚しなかった。
 ルイスは最終弁論で、その理由をチョルゴシュが協力を拒否したためだと主張した。
 陪審員への27分間の演説の中で、ルイスはマッキンリー大統領を称賛することに力を注いだ。
 『大統領と暗殺者』の著者
   スコット・ミラー
は、最終弁論は「依頼人を電気椅子から救うためというよりも、弁護士としての社会的地位を守るためのものだった」と指摘している。
 たとえ陪審員が、チョルゴシュが精神異常者であるという弁護側の主張、つまり「正気な人間なら、捕まることを承知の上で、あんなに公然とあからさまに大統領を射殺するはずがない」という主張を信じたとしても、
   精神異常の法的定義
をクリアする必要があった。
 ニューヨーク州法では、チョルゴシュは自分の行為を理解できない場合にのみ、
   法的に精神異常
とみなされた。
 ホワイト判事の指示により、陪審員はチョルゴシュの精神異常を確信できず、30分足らずの審議の後、有罪判決を下した。
 なお、陪審員の一人は後に、もっと早く判決を下すつもりだったが、有罪判決を下す前に証拠を再検討したかったため、そうしなかったと述べている)。
 チョルゴシュは処刑前夜に2度面会した。
 1度目は2人の聖職者と、2度目はその夜遅くに兄のワルデック・チョルゴシュと義理の兄弟のフランク・バンドウスキーと面会した。
 チョルゴシュはフジンスキー神父とヒッキー神父の面会を2度拒否したが、コリンズ所長は面会を許可し、彼らを独房まで案内した。
 司祭たちは45分間、チョルゴシュに悔い改めるよう懇願したが、彼は拒否した。
 そのため、彼らは去った。
 司祭たちが去った後、チョルゴシュの兄ヴァルデックと義理の兄フランク・バンドフスキが訪ねてきた。
 ヴァルデックはチョルゴシュに「誰がお前をこんな目に遭わせたんだ?」と尋ねたが、チョルゴシュは「誰もいない。私以外に誰も関係ない」と答えた。
 兄は、それはチョルゴシュらしくなく、彼の育ち方とはかけ離れていると言った。
 兄が司祭たちにまた来てほしいかと尋ねると、チョルゴシュは「いや、あいつらなんかどうでもいい。二度とここに送るな。あいつらはいらない」と言い、「私が死んだら、私のために祈るな。いらない。あいつらの忌まわしい宗教などいらない」と付け加えた。
 チョルゴシュの父親は、処刑前夜に息子に手紙を書き、チョルゴシュの幸運を祈るとともに、もう息子を助けることはできないこと、そしてレオンは「自分の行いの代償を払わなければならない」ことを伝えた。
 裁判後、チョルゴシュと弁護士は判決に対する控訴権があることを知らされたが、チョルゴシュが拒否した。
 このため、彼らは控訴しないことを選択した。
 弁護士たちはまた、控訴の根拠がないことも知っていた。
 裁判は「迅速かつ公正に行われた」からである。
 チョルゴシュの最期の言葉は、「私は大統領を殺した。
 なぜなら彼は善良な人々、つまり善良な労働者の敵だったからだ。
 自分の罪を後悔していない。
 父に会えなかったことが悔やまれる」であった。
 チョルゴシュは、マッキンリー大統領の死から45日後の1901年10月29日、オーバーン刑務所で1800ボルトの電流を3回流され、電気椅子で系が執行された。
 午前7時14分に死亡が確認された。
 チョルゴシュの処刑執行を担当した州の電気技師(執行人)はエドウィン・デイビスであった。
 ワルデック・チョルゴシュとフランク・バンドウスキーが処刑に立ち会った。
 ヴァルデックが兄の遺体をきちんと埋葬するために引き取りたいと所長に頼んだ。
 なお、、「決して引き取ることはできないだろう」「大勢の人が群がってくるだろう」と告げられた。
 事件現場となった音楽堂は、博覧会の仮設建造物群とともに1901年11月に取り壊された。現在バッファローの住宅街となっているフォーダム・ドライブの中央分離帯には、銃撃事件が発生したおおよその地点(北緯42度56.321分、西経78度52.416分)を示す石碑が建てられている。
 チョルゴシュの拳銃は、バッファロー歴史博物館のパンアメリカ博覧会展示室に展示されている。
 チョルゴシュの死後、ボストンの精神科医で後にマサチューセッツ州精神衛生局長となった
   ロイド・ヴァーノン・ブリッグス(1863年〜1941年)
は、精神科医
   ウォルター・チャニング(1849年〜1921年)
の依頼を受け、1901年にチョルゴシュの事件を再調査し、チョルゴシュは精神異常であったと結論づけた。
 なお、この結論は後に異議を唱えられている。

   
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2026年07月02日

セルゲイ・キーロフ(Sergei Kirov)ロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ派に属する政治局員

セルゲイ・ミロノヴィチ・キーロフ(Sergei Mironovich Kirov)
 旧姓コストリコフ(Kostrikov)
   1886年3月27日 - 1934年12月1日
 ロシアおよびソビエト連邦の政治家でボリシェヴィキ革命家。
 キーロフはロシア帝国初期の革命家であり、ロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ派に属していた。
 彼は古参ボリシェヴィキとなり、
の親友となった。
 ソビエト連邦共産党内で昇進を重ね、レニングラードの党首、そして政治局員にまで上り詰めた。
 1934年12月1日、キーロフはスモーリヌイ学院の事務所で
   レオニード・ニコラエフ
に射殺された。
 ニコラエフと数名の共犯者とされる人物は見せしめ裁判で有罪判決を受け、30日も経たないうちに処刑された。
 キーロフの暗殺は、スターリンによってモスクワ裁判と大粛清を開始する口実として利用された。

    
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2026年07月01日

ジョン・W・スタントン(John W. Stanton)シアトル・マリナーズの筆頭オーナー

ジョン・W・スタントン(John W. Stanton)
   1955年生まれ
 米国の実業家である。彼はメジャーリーグベースボール(MLB)の
   シアトル・マリナーズ
の筆頭オーナーであり、これまでに複数の無線通信会社を率いてきた。
 スタントンは1955年に生まれた。
 シアトル地域で生涯を過ごしており、ワシントン州ベルビューにあるニューポート高校に通った。
 ワシントン州ワラワラにあるウィットマン・カレッジで学士号を取得した。
 ハーバード・ビジネス・スクールでMBA(経営学修士)を取得した。
 スタントンは、
   ウェスタン・ワイヤレス・コーポレーション(Western Wireless Corporation)
の創業者兼元CEO、
   ボイスストリーム・ワイヤレス
          (VoiceStream Wireless)
の元会長兼CEO、そしてCTIA(無線通信業界団体)の元会長を務めた。
 1980年代初頭、
   マコー・セルラー・コミュニケーションズ(McCaw Cellular Communications)
の最初の従業員となった。
 1980年代には同社のCOO(最高執行責任者)および副会長を務めた。
 マコーを退社後、1992年にウェスタン・ワイヤレスとなる会社を設立した。
 1992年から2005年まで、同社のCEO兼会長を務めた。
 また、ボイスストリーム・ワイヤレス・コーポレーションの創業者でもある。
 1995年から2003年にかけてはボイスストリーム・ワイヤレスの会長兼CEOも務めた。
 同社は買収を経て
   T-モバイルUSA(T-Mobile USA)
へと改称された。
 2004年、業界への貢献が認められ、ワイヤレス・ホール・オブ・フェーム(無線通信の殿堂)入りを果たした。
 2008年から2013年までは、
   クリアワイヤー(Clearwire)
の取締役、後に会長を務めた。
 2005年、彼は
   ストライヴ・マシイワ(Strive Masiyiwa)
   ブラッドリー・ホーウィッツ(Bradley Horwitz)
らと共に、
   トリロジー・インターナショナル・パートナーズ
             (Trilogy International Partners)
を設立した。
 設立当初、スタントンは同社に2億9500万ドルの出資を行っていた。
 2024年、トリロジー(Trilogy)社は、スタントンと妻のテレサ・ギレスピーが所有する
   SGエンタープライズ
が同社の全株式を取得し、トロント証券取引所から上場廃止となることを発表した。
 彼はまた、
   トリロジー・エクイティ(Trilogy Equity)
の会長であり、
   トリロジー・サーチ・パートナーズ(Trilogy Search Partners)
の共同創設者でもある。
 2006年時点で、スタントンの純資産は10億ドルであった。
 スタントンはフォーブス誌の2007年版「世界長者番付」で840位にランクインした。
 その純資産は11億ドルと推定された。
 2025年5月時点では、純資産24億ドルで世界長者番付の1,530位に名を連ねている。
 同チームの17人のマイノリティ・オーナー(少数株主)の一人であったスタントンは、任天堂が保有していた過半数株式を6億6,100万ドルで売却した後、2016年4月に
   シアトル・マリナーズ・オーガニゼーション
の新たなCEOに任命された。
 同年8月、メジャーリーグベースボール(MLB)はスタントンへのマリナーズ売却を正式に承認した。
 スタントンは、退任する会長
   ハワード・リンカーン
から経営の主導権(コントロール・パーソン)を引き継ぎ、シアトル・マリナーズの日常的な運営の責任を担うこととなった。
 2019年、チームの勝利数が伸び悩む中、スタントンは注目すべき指標は長期計画における選手の成長であると主張した。
 2021年、チーム社長の
   ケビン・マザー
が、マリナーズの有望選手の「サービスタイム(メジャーリーグでの登録期間)」を意図的に操作していたことを認めた。
 さらに外国人選手の英語力の低さについて不適切な発言を行ったことを受け、スタントンはマザーの辞任を受理した。
 スタントンは声明の中で、マザーの発言について「不適切であり、選手、スタッフ、ファンに対する我々の組織の姿勢を反映するものではない」と述べた。
 2024年、スタントンは、
   スコット・サーバイス監督
が自身の解任をチームからの直接の連絡ではなくメディア報道を通じて知ることになった点について、遺憾の意を表明した。
 また、チームの支出は長期的に持続可能でなければならないとも述べた。
 なお、この方針は、競合チームに比べて支出が少ないという批判を招くことにもなった。
 2014年当時、彼は「Business Partnership for Early Learning(幼児教育のための企業パートナーシップ)」、「United Way of King County(キング郡ユナイテッド・ウェイ)」のキャンペーン、「Washington Roundtable(ワシントン・ラウンドテーブル)」、および「Regional Transportation Commission(地域交通委員会)」において、議長または共同議長を務めていた。
 スタントンは2014年7月、
   マイクロソフト
の取締役会に加わった。
 同社では取締役会の報酬委員会にも参加した。
 また、コロンビア・スポーツウェアの取締役も務めていた。
 2016年頃、コストコの取締役会に加わった。
 2016年8月時点で、スタントンは
   コロンビア・スポーツウェア
   ゼネラル・コミュニケーション(GCI)
その他の企業の株式を約4,500万ドル相当保有していたと報じられている。
 彼はホイットマン・カレッジの理事長を務めた経歴を持つ。
 2018年、同大学は新設された学生寮に、1977年の卒業生であるスタントンの名を冠した。
 スタントンは妻のテレサ・ギレスピーと共に、ワシントン州ベルビューに居住している。
 夫妻には2人の息子がいる。

  
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2026年06月30日

フレデリック G エルドリッジ(Frederick G. Eldridge)1884年にニッカーボッカー・トラスト・カンパニーの筆頭株主の一人で初代社長を務めた。

フレデリック・ギデオン・エルドリッジ(Frederick Gideon Eldridge)
   1837年5月24日 - 1889年7月22日
 エルドリッジは1837年5月24日、マサチューセッツ州マーブルヘッドで生まれた。
 父はギデオン・エルドリッジ、母はフィービー・アン・エルドリッジ(旧姓ホワイト)である。
 母は米国海軍のジョン・ホワイト中尉の娘であった。
 24歳の時にインドへ渡り、カルカッタの商社
   アトキンソン・ティルトン・アンド・カンパニー(Atkinson, Tilton & Co.)
の一員となった。
 また、ベンガル総督によって任命される統治機関である
   ベンガル評議会(Bengal Council)
のメンバーも務めたが、同職に就いた唯一のアメリカ人であった。
 帰国後は、証券会社
   ウォートン・アンド・エルドリッジ(Wharton & Eldridge)
のパートナーとなった。
 ニューヨーク証券取引所の会員として数々の大規模な金融取引で活躍した。
 ウォール街で恐慌が発生した際には、その保守的な助言と行動で注目を集めた。
 1884年にニッカーボッカー・トラスト・カンパニーが設立された際には、筆頭株主の一人となり、初代社長に就任した。
 1859年11月9日、ニューヨーク市のセント・バーソロミュー聖公会教会にて、
   アリス・リー・グッドリッチ(1838–1903)
と結婚した。
 彼女はマサチューセッツ州の政治家で作家
   ピーター・パーリー
としても著名であった
の娘であり、
   エミリー・グッドリッチ・スミス
の姉妹、そして
   アビゲイル・グッドリッチ・ウィットルシー
   チャールズ・A・グッドリッチ牧師
の姪にあたる人物であった。
 彼はユニオン・クラブの会員であった。
 彼は1889年7月21日、ニューヨークのホテル・ヴァンドームで死去した。
 同ホテルでは数年にわたり、「館内で最も素晴らしいスイートルームの一つ」に居住していた。
 カルバリー・プロテスタント・エピスコパル教会で葬儀が執り行われた後、グリーンウッド墓地に埋葬された。
 二人の間には
 ・フレデリック・ラーナック・エルドリッジ(1860–1927)
   1887年に
    ウィリアム・T・バレット
  の娘エリザベス・“ベティ”・バレットと結婚した。彼
   女の死後(1915年)、1916年に画家の
  の未亡人ルイーザ・リー・ベーコン(旧姓アンドリュース)と再婚した。
 ・マリオン・エルドリッジ(1865–1939)
   生涯独身を通した画家
 ・チョーンシー・エルドリッジ(1867–1924)
   技術者
   1900年に
    オリバー・アルバート・ジャドソン博士
  の娘メアリー・ジャドソンと結婚した。
   二人は1911年に離婚し、その後チョーンシーは
    ジョセフ・T・ベイリス
  の娘メイベル・ベイリスと再婚した。
  1924年に彼が自殺した後、メイベルは
    ウィリアム・クレーン・アイヴィソン
  と再婚した。
 ・ハワード・セント・ジョージ・エルドリッジ(1880–1958)
   1923年に
    ウォルド・エマーソン・クッシング
  の娘ジェシー・ハリス・クッシングと結婚した。
 という4人の子供がいた。
 彼の死後、未亡人となった妻は1891年にベンガル・フュージリアーズ連隊の
   エティエンヌ・セント・ジョージ大佐
と再婚し、1903年に死去した。
    
  
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シモン・シナス(Simon Sinas) オーストリア系ギリシャ人の銀行家

シモン・フォン・シナ(Simon von Sina)またはシモン・シナス(Simon Sinas)
   1810年 - 1876年
 オーストリア系ギリシャ人の銀行家、貴族、慈善家、外交官であった。
 父ゲオルギオス・シナスとともに、ギリシャ国民にとって最も重要な慈善家の一人である。
 シモン・シナスは1810年8月15日、ウィーンで生まれた。
 シナス家は、アルバニア南部のモスコポレにあるアロマニア人入植地出身である。
 慈善家であり外交官でもあった父
   ゲオルギオス・シナス
の息子であるシナスは、父の事業を拡大た。
 彼の民族的出自は、アロマニア人、ギリシャ化したアロマニア人、またはギリシャ人とされている。
 シナースは民族的出自に関わらず、当時建国されたばかりの
   ギリシャ国家
と緊密な関係を維持していた、社会文化的ギリシャ商人階級に所属していた。
 彼はウィーン駐在ギリシャ領事、後にオーストリア、バイエルン王国、ドイツ駐在公使を務めた。
 また、オーストリア、ハンガリー、ギリシャの様々な教育・科学財団に多額の寄付を行った。
 シナースがウィーン駐在ギリシャ大使を務めていた1856年、
   ヨハン・シュトラウス2世
は、オーストリア=ハンガリー帝国のギリシャ系住民の年次舞踏会のために、シナースの依頼で作品203「ヘレネン・ポルカ」を作曲した。
 父の葬儀で、シナースは
   フェレンツ・デアーク
に対し、普遍的な慈善家であった父とは異なり、自分はハンガリーとハンガリー国民のために財産を使いたいと語った。
 しかし、シナース家はハンガリー貴族に受け入れられなかった。
 彼は娘たちをハンガリー貴族と結婚させ、一族をハンガリー化しようと試みたものの、拒否された。
 また、ゴドゥレーの城で貴族たちを招いて宴会を開いたが、出席者はほとんどいなかった。
 ハンガリー貴族たちはシナス家を自分たちと同等とは見なさず、「バザールの主人一族」と見下した。
 侮辱されたと感じたシナスはハンガリーを離れ、ウィーンに移り住み、財産をギリシャ国民とギリシャ国家のために捧げることを決意した。
 ただ、ギリシャ国家への慈善活動にもかかわらず、彼はギリシャを訪れることはなかった。
 シナスはオーストリア国立銀行の中央銀行総裁に就任した。
 ウィーンに
   シモン・ゲオルク・シナ銀行
を設立した。
 1864年の第二次シュレースヴィヒ戦争(または独独戦争)終結後、彼はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方からのオーストリア軍の帰還輸送費用を負担した。
 1874年以降、シナスはオーストリアの宮廷で職を務めた。
 シナスは、ブダペストのハンガリー・アカデミー、ウィーンの聖三位一体ギリシャ正教会、ウィーン楽友協会、シビウ大聖堂、アテネ正教会、アテネ・アカデミーなどの寄贈者であり創設者であった。
 シナスはまた、ウィーンの学生団体「青年ルーマニア」を財政的に支援した。
 彼の父はアテネ国立天文台の設立を可能にした。
 シナスは天文学者の後援者でもあったため、月のクレーター「シナス」は彼にちなんで名付けられた。
 彼は1876年4月15日にウィーンで死去した。

     
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2026年06月29日

イリヤ・トラベル(Ilya Traber)ロシアの実業家であり、骨董品商 タンボフ・ギャングの幹部

イリヤ・イリイチ・トラベル(Ilya Ilyich Traber)
   1950年9月8日生まれ
 ロシアの実業家であり、骨董品商である。
 ロシア・マフィアと密接な関係にあり、
の個人的な友人であると言われている。
 また、1990年代のサンクトペテルブルクにおける組織犯罪を支配していた
   タンボフ・ギャング
の幹部の一人としても知られる。
 トラベルは2026年6月17日、サンクトペテルブルクにて、殺人請負事件に関連して
   連邦保安庁(FSB)
に逮捕され、その後モスクワの拘置施設に移送された。
 トラベルははシベリア連邦管区の西端に位置するロシア連邦中南部の都市オムスクの出身で、クリミアのセヴァストポリにある海軍高等学校を卒業した。
 彼はソビエト連邦軍海軍の潜水艦部隊に勤務し、大尉の階級にまで昇進した。
 また、ソビエト連邦共産党の党員でもあった。
 1980年に軍を退役してレニングラードへ移り、当初はビアバーのバーテンダーとして働いていた。
 その後、骨董品取引の世界に入った。
 この経歴から、彼は後に「アンティクヴァリー(骨董品商)」というあだ名で呼ばれるようになった。
 ソビエト連邦崩が壊後した1991年、トラベルはサンクトペテルブルク市から骨董品取引の独占権を与えられた。
 それによって巨万の富を築いた。
 彼は地元の政界に太いパイプを築き、後にサンクトペテルブルク市長となる
   アナトリー・ソブチャク
プーチンを引き合わせた人物だと言われている。
 その富を背景に、トラベルは他にも数多くの事業を立ち上げ、石油取引にも参入した。
 この時期、彼は
   タンボフ・ギャング
の「会計係」の役割を果たしていたと言われている。
 同ギャングは、ソブチャク市長の下で働いていた
   プーチン
の支援を受け、
   暴力や殺人請負
を通じてサンクトペテルブルク港の支配権を掌握していた。
 トラベルはマフィアと政界の仲介役を務めていたとされている。
 プーチンの要請により、トラベルはプーチンの側近である
   アレクセイ・ミラー
を港湾管理者に任命した。
 1990年代から2000年代にかけて、この港を通じて
   麻薬
とロシアに密輸していたとされている。
 当時、市の
   対外貿易の業務
を担当していたプーチンは、1994年にタンボフ・ギャングに対し、
   市への石油製品供給の認可
を与えた。
 1996年にプーチンは、
   プルコヴォ空港における石油供給の管理権
をタンボフ・ギャングのメンバーに与えた見返りとして、
   利益の4パーセント
を受け取ったと言われている。
 プーチンの親しい友人であったトラベルは、プーチンが公の場で親密な関係を隠さなかった唯一のタンボフ・ギャングのメンバーであった。
 トラベルは、プーチンが1999年にロシア首相に就任した後も、少なくとも2004年から2016年にかけて、プーチンの誕生日パーティーに主賓として招かれていた。
 彼は1990年代半ばにスペインへ移住した。
 また、スイスやモナコにも頻繁に滞在していた。
 西欧において彼は数百社からなる企業ネットワークを構築した。
 不動産を登記した上で、同一人物が支配するダミー会社を介して価格を吊り上げながら転売を繰り返していた。
 こうした仕組みの目的は、ロシア・マフィアやプーチンの側近による
   資金洗浄(マネーロンダリング)
であったとされている。
 スペインで資金洗浄の容疑で訴追された際、トラベルはロシアへ逃亡した。
 傍受された会話記録によれば、トラベルはプリモルスクやヴィボルグの港での密輸によって利益を得ていたとされる。
 ただ、2018年、トラーベルを含む全員が無罪判決を受けた。
 2019年、タンボフ・グループのリーダーでありトラベルの親しい仲間でもあった
   ウラジーミル・クマリーン
は、サンクトペテルブルクにおいて、依頼殺人および組織犯罪の罪で懲役24年の判決を受けた。
 彼はすでに2007年に一度逮捕されていたが、その逮捕は
   プーチンの指示
によるものだったと言われている。
 それにもかかわらず、トラベルはその後もクレムリンの保護を受け続け、政府からの事業契約を獲得し続けた。
 彼はロシア北西部で様々な資産を保有しており、自身の発言によれば、ロシアで最も裕福な起業家40人の一人であるという。
 2022年にロシアがプーチンの命令で特別軍事作戦と称する
   ウクライナ侵攻
が始まると、トラベルはサンクトペテルブルクで、ロシア軍の戦争遂行を支援する組織を設立した。
  
   
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2026年06月28日

ロリー・I・ロッキー(Lorry I. Lokey)ビジネスワイヤ社の創業者

ロリー・I・ロッキー(Lorry I. Lokey)
   1927年3月27日 - 2022年10月1日
 アメリカ合衆国の実業家であり慈善家であった。
 オレゴン州ポートランド出身の彼は、1961年に配信会社
を設立し、7億ドル以上を慈善団体に寄付した。
 その大部分は学校に寄付された。
 晩年はサンフランシスコに居住した。
 ロリー・ロッキーは1927年3月27日、オレゴン州ポートランドのユダヤ人家族で生まれ、大恐慌時代にポートランド北東部のアラメダ地区で育ちった。
 ロッキー家は慈善活動を実践しており、ロッキーにとって模範となった。
 彼はポートランドのアラメダ小学校に通い、その後グラント高校を卒業後、徴兵によりアメリカ陸軍に入隊した。
 第二次世界大戦末期に日本へ派遣された。
 兵役中は、終戦後、
   パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙
の編集者として働いた。
 ロッキーは1944年に大学1年生の終わりに徴兵されたた。
 なお、終戦後の1947年に大学に復学し、カリフォルニア州パロアルトのスタンフォード大学でジャーナリズムの学士号を取得した。
 スタンフォード大学では、学生新聞「スタンフォード・デイリー」に携わった。
 1949年には編集長に就任した。
 卒業後、ロッキーはユナイテッド・プレス(現在のユナイテッド・プレス・インターナショナル(UPI))に入社した。
 その後新聞社や広報業界で働いた。
 彼が勤務した新聞社のひとつに、ワシントン州ロングビューの「ザ・デイリー・ニュース」があった。
 ロサンゼルスで開催された会議で、ロッキーは、
   テレタイプ機
が金融ニュースを転送する様子に感動し触発された。
 1961年にニュースリリース配信サービス「ビジネス・ワイヤー」を設立した。
 カリフォルニア州サンフランシスコに設立された同社は、創業初日に7社の顧客を獲得した。
 その後、事業を拡大し、世界中に30の拠点を構える国際的な通信社へと成長した。
 2003年までに、従業員数は450人、年間売上高は1億1000万ドルに達した。
 2006年、ロッキーはビジネス・ワイヤー
の会社であるバークシャー・ハサウェイに約6億ドルで売却した。
 ロッキー氏は1990年から多額の寄付を慈善団体に始めた。
 2007年までに4億ドル以上を寄付し、そのうち98%は中等教育および高等教育に充てられた。
 寄付先には、オレゴン大学、ミルズ・カレッジ、スタンフォード大学、テクニオン工科大学、サンタクララ大学、ベラミン・カレッジ・プレパラトリー、ポートランド州立大学などが含まれる。
 これらの活動により、2006年には『クロニクル・オブ・フィランソロピー』誌で米国における寄付額上位10人の一人に選ばれた。
 また、彼は「ギビング・プレッジ」の初期署名者でもあった。
 ロッキー氏は生前、7億ドルを超える財産の90%以上を寄付した。
 彼は2017年から2018年にかけてオレゴン大学から名誉学位を授与された。
 2018年、彼はイスラエルのハイファ中心部に新校舎を建設するため、ハイファ大学に1,000万ドルを寄付した。
 2014年6月時点で、ロッキーはオレゴン大学(ユージーン)にも総額1億3,990万ドルを寄付している。
 これには、2007年の7,450万ドルの寄付が含まれており、これは同大学への寄付としては過去2番目に多く、学術分野への寄付としては最大規模だった。
 2007年の寄付金は、ロリー・I・ロッキー科学振興・大学院教育イニシアチブの設立に充てられた。
 2008年10月、スタンフォード大学医学部は、ロッキーが研究施設建設のために7,500万ドルを寄付すると発表した。
 この施設はロリー・I・ロッキー幹細胞研究棟と名付けられた。
 彼はまた、イスラエルのネゲブ・ベン=グリオン大学に新しい化学棟を建設するための資金も寄付した。
 ロッキーには3人の娘がいた。彼は2022年10月1日にカリフォルニア州アサートンで95歳で亡くなった。

    
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2026年06月26日

ボーイ・カペル(Boy Capel)ファッションデザイナーのココ・シャネルの恋人

アーサー・エドワード・カペル CBE(Arthur Edward Capel)
   1881年12月20日 - 1919年12月22日
 通称ボーイ・カペル(Boy Capel)
 イギリスのポロ選手であり、ファッションデザイナーのココ・シャネルの恋人でありアーティストやデザイナーに創造的なインスピレーションを与えるミューズであったことで最もよく知られている。
 サセックス州ブライトンイギリスの海運商人
   アーサー・ジョセフ・カペル
と、フランス生まれの妻
   ベルテ・アンドレ・A・E・ロリン(1856年 - 1902年)
の息子として生まれた。
 彼には3人の姉妹
   マリー・アンリエット・テレジア・カペル
   メアリー・ジョセフィン・ローレンス・エディス・カペル
   ベルテ・イザベル・スザンナ・フローラ・カペル
がいた。
 ベルテは、初代ミシェルハム男爵ハーバート・スターンの息子
   サー・ハーマン・アルフレッド・ド・スターン
と結婚した。
 彼の父の兄は、1880年代にスキャンダルに巻き込まれたウェストミンスター大司教区のローマ・カトリック司祭
   トーマス・ジョン・カペル司教
である。
 カペルの娘の一人の死亡記事には、彼が「知識人、政治家、実業家、ポロ選手、そしてファッションデザイナー、ココ・シャネルの魅力的な恋人であり後援者」と記されている。
 その死亡記事によると、カペルはローマ・カトリック教徒であり、妻は彼と結婚するためにカトリックに改宗し、二人の娘はローマ・カトリック教徒として育てられた。
 シャネルの伝記には、カペルとエセックス伯爵カペル家との(非嫡出の)関係を示唆する記述がある。
 ただ、確証は得られていない。
 カペルの父と祖父はケント州生まれであり、父方の祖父は海軍に勤務し、勤務中にアイルランドのウォーターフォード州で結婚し、家庭を築いた。
 彼の祖父は海軍勤務後、英国沿岸警備隊に入隊し、サフォーク州サイズウェル・ギャップの沿岸警備隊基地に配属された。
 ボーモント・カレッジの卒業生である彼は、
   海運商人
であり、1909年までに既に一代で財を成した裕福な人物であった。
 1919年の新年叙勲において、ヴェルサイユの最高戦争評議会英国支部の政治補佐官であったカペルは、大英帝国勲章コマンダー(CBE)に叙せられた。
 カペルは1919年12月22日、シャネルとのクリスマスの会合に向かう途中の自動車事故で亡くなった。
 彼は1919年12月24日、フレジュス大聖堂に軍葬の礼をもって埋葬された。
 事故現場には、十字架に「1919年12月22日、この地で事故死した英国陸軍レジオンドヌール勲章受章者、アーサー・カペル大尉を偲んで」と刻まれた慰霊碑が建てられた。
 なお、この慰霊碑はシャネルの依頼によるものと言われている。
 事故から25年後、当時スイスに住んでいたシャネルは、友人の
   ポール・モラン
に「彼の死は私にとって大きな痛手でした。
 カペルを失ったことで、私はすべてを失いました。
 その後の人生は決して幸せなものではありませんでした」と打ち明けている。
 カペルとシャネルの関係は、1909年に友人
   エティエンヌ・バルサン
の当時26歳だった愛人と知り合ったことから始まった。
 カペルはココ・シャネルの最初の店舗の資金を提供し、彼自身の服装スタイル、特にブレザーは、シャネルがシャネル・ルックを創造する上でインスピレーションを与えた。
 二人はドーヴィルなどの高級リゾート地で時間を過ごした。
 ただ、カペルはシャネルに忠実ではなかった。
 二人の関係は9年間続き、カペルは結婚後も亡くなるまでシャネルとの関係を続けた。
 1918年、キャペルは
   ダイアナ・ウィンダム(旧姓リスター、1893年5月7日生まれ、1983年没)
と結婚した。
 ダイアナはリブルズデール卿の娘で、ヒュー・グロブナー第2代ウェストミンスター公爵の異母兄弟であるパー​​シー・リウルフ・ウィンダム大尉(1914年戦死)の未亡人であった。
 ダイアナの姉ローラはロヴァット卿と結婚し、もう一人の姉はマシュー・ウィルソン第4代準男爵と結婚した。
 また、叔母のマーゴット・テナント(1864年〜1945年)は、首相H・H・アスキスの2番目の妻であった。
 1923年、キャペルの死後、ダイアナはヴェア・フェイン第14代ウェストモーランド伯爵と再婚した。
 娘アン・ダイアナ・フランス・アイシャ・カペル(1919年4月28日 - 2008年5月4日)は3回結婚し、最初の2人の夫との間に子供をもうけました。
 1940年、彼女はジョージ・ウォード(1907年 - 1988年)と結婚した。
 ジョージは1960年にウィットリーのウォード子爵として貴族に叙せられた。
 2人の間には2人の子供がいた。
 息子アンソニーは40歳で未婚のまま亡くなり、娘ジョージナ・ウォード(1941年 - 2010年、パトリック・トリットン夫人)は女優であった。
 2人は1951年に離婚した。
 同年8月7日、彼女はリチャード・サーストン・ホランド=マーティン(1907年 - 1968年)と結婚し、2人の息子、バーナビー・ロバート(1952年生まれ)とジャイルズ・サーストン(1955年 - 2008年)をもうけた。
 二人は1966年に離婚した。
 アン・カペルの3番目の夫はピーター・ヒギンズだった。
 ジューン・カペル(1920年 - 2006年)、後にラリントンのハッチンソン夫人となった。
 ジューンは父親の死後に生まれ、父親は彼女の妊娠を知らなかったようである。
 そのため、父親の遺言には彼女に関する規定がなく、ジューンが父親の財産の一部を受け取れるようにするためには、遺言を争う必要があった 
 なお、ハッチンソン夫人の死亡記事によると、その財産の大部分は後に弁護士によって横領された。
 1948年、ジューン・カペルはフランツ・オズボーンと結婚し、息子クリストファーをもうけた。
 1966年5月、彼女はジェレミー・ハッチンソン弁護士と再婚した。
 ハッチンソンは女優ペギー・アシュクロフトの元夫であり、1978年に一代貴族に叙せられた。
 カペルは死の2年前、パリでポーランドの聡明な人物
   ユゼフ・レティンガー
と出会い、連邦制と英仏同盟に基づく世界政府構想について語り、彼に感銘を与えた。
 カペルの思想は、かつて副官を務めていた
   ヘンリー・ウィルソン卿
によって強く支持され、アリスティード・ブリアン、ジョルジュ・クレマンソー、ウッドロー・ウィルソンといった政治家たちの関心も引いた。
 彼はまた、バチカン外交界でも自らの思想を広めていた。
 レティンガーはカペルの著書『鍛冶場の世界』の執筆を支援した。
 レティンガーの心に芽生えたこの構想は、形を変えながらも、国際連盟の創設に影響を与え、数十年後には欧州連合の設立という形で結実したと言える。
  
    
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2026年06月24日

エルブリッジ・コルビー(Elbridge Colby)米国の国家安全保障政策専門家

エルブリッジ・アンドリュー・コルビー(Elbridge Andrew Colby)
   1979年12月30日生まれ
 アメリカ合衆国の国家安全保障政策専門家
 2025年4月9日から国防次官(政策担当)を務めている。
 トランプ政権(第1期)の2017年から2018年にかけては、国防次官補代理(戦略・戦力開発担当)を務めた。
 2018年の米国国家防衛戦略の策定において重要な役割を果たし、同戦略はとりわけ米国防総省の重点を中国へと移した。
 また、元CIA長官
   ウィリアム・コルビー
の孫でもある。
 2018年6月、コルビーは
   新アメリカ安全保障センター(CNAS)
の国防プログラム部長に任命された。
 2019年には、ウェス・ミッチェルと共に、戦略シンクタンクである
   マラソン・イニシアティブ
を共同設立した。
 2024年12月、ドナルド・トランプ次期大統領は、コルビーをトランプ政権(第2期)の
   国防次官(政策担当)
に指名した。
 現実主義者であるコルビーは、中国が米国にとって最大の脅威であると考えている。
 彼は、中国による台湾占領を防ぐため、米国は軍事資源をアジアに振り向けるべきだと主張している。
 また、コルビーはウクライナへの軍事援助削減を支持している。
 2025年のAUKUS(米豪連合)見直しにおいて、コルビーはオーストラリアに対し、台湾をめぐる
   中国との戦争
でオーストラリアがどのような役割を果たすのかを明確にするよう圧力をかけた。
 コルビーは1986年、8歳の時に父親が
   ファースト・ボストン
の東京支店長に就任したため東京に移住し、13歳で帰国した。
 東京滞在中は調布にあるアメリカン・スクール・イン・ジャパンに通った。
 米国帰国後、コルビーはグロトン・スクール(1998年卒業)に入学し、同校の新聞編集長を務めた。
 2002年にハーバード大学を、2009年にイェール大学ロースクールを卒業した。
 彼の初期のキャリアには、国防総省、国務省、情報機関での5年以上にわたる勤務が含まれる。
 2003年にはイラクの連合暫定当局での勤務も経験している。
 また、コルビーは2005年から2006年にかけて国家情報長官室にも勤務した。
 2010年から2013年まで、コルビーは連邦政府の資金援助を受けた非営利の研究分析機関
   CNA
でアナリストとして勤務した。
 2014年から2017年までは、
   新アメリカ安全保障センター(CNAS)
のロバート・M・ゲイツ・フェローを務めた。
 2015年、コルビーは
   ジェブ・ブッシュ
の2016年大統領選挙キャンペーンで主要な役職に就くことが検討されたが、「著名な介入主義的ネオコン」の反対により採用されなかった。
 2017年5月、コルビー氏は国防次官補代理(戦略・戦力開発担当)に任命され、2018年までその職を務めた。
 この役職において、コルビー氏は国防長官の政策立案のための防衛戦略、戦力開発、戦略分析を担当した。
 コルビー氏は2017年国家安全保障戦略の策定において、国防総省の主要代表を務めた。
 次官補代理在任中、コルビー氏は国防総省の戦略計画指針である
   2018年国家防衛戦略(NDS)
の策定と展開において主導的な役割を果たした。
 NDSは、「テロではなく、国家間の戦略的競争が、現在、米国の国家安全保障における主要な懸念事項である」とし、「米国の繁栄と安全保障に対する中心的な課題は、主に中国とロシアからの長期的な戦略的競争の再燃である」と提唱した。
 さらにコルビー氏は、「国防総省と統合軍が直面する中心的な課題は、中国とロシアに対する米国の軍事的優位性の低下である」と述べた。[12] 2023年4月、Politicoは、コルビー氏が米国の防衛資源を中東から中国へと再配分するにあたり、米中央軍と統合参謀本部から相当な官僚的対立に直面したものの、空軍と海軍からは支持を得たと報じた。
 2018年に国防総省を退任後、コルビー氏は新アメリカ安全保障センター(CNAS)に復帰した。
 2019年まで防衛問題に取り組み続けた。
 また、ミシェル・フルーノイ氏とアントニー・ブリンケン氏が設立したコンサルティング会社
   ウエストエグゼク・アドバイザーズ
でも勤務した。
 その後、コルビー氏は、米国が世界のライバル国と競争するための戦略策定を専門とするシンクタンク
   マラソン・イニシアティブ
を立ち上げた。
 2021年、コルビーは初の著書『否定の戦略:大国間対立の時代におけるアメリカの防衛』で自身の見解をさらに展開し、同書はウォール・ストリート・ジャーナル紙によって2021年のベストブック10冊に選ばれた。
 2024年12月22日、次期大統領のトランプは、2期目の大統領としてコルビーを国防次官(政策担当)に指名した。
 副大統領のJD・ヴァンスやインフルエンサーの
   チャーリー・カーク
といった影響力のあるMAGA支持者の支持があったにもかかわらず、コルビーの指名は、イランが核兵器を保有しても米国にとって存亡の危機にはならないという過去の発言を理由に、
   トム・コットン上院議員
のような共和党の国防強硬派から批判を浴びた。
 2025年3月4日に
   米国上院軍事委員会
で行われた公聴会で、コルビーは必要であればイランの核開発計画を阻止するための軍事的選択肢についてトランプ大統領に助言することをためらわないと述べた。
 また、インド太平洋における米軍の資源を増やす意向を確認し、台湾に対し国防予算をGDPの2.5%から10%に増やすよう求めた。
 コルビーの指名は、2025年4月8日、上院で賛成54票、反対45票で承認された。
 共和党議員で唯一コルビーの指名に反対したのは
   ミッチ・マコーネル上院議員
のみであり、JD・ヴァンスやネイト・モリスを含む共和党議員から批判を浴びた。
 2025年5月、コルビーは英国当局者に対し、米国は英国軍がインド太平洋地域への関与を減らし、ユーロ・アトランティック地域への関与を増やすことを望んでいると伝えた。
 また、英国が
   HMSプリンス・オブ・ウェールズ
をインド太平洋地域に派遣することにも懸念を表明した。
 2025年6月、コルビーは国防総省に対し、オーストラリアおよび英国とのAUKUS協定を破棄すべきかどうかの見直しを開始するよう働きかけた。
 コルビー氏はまた、日本に対し軍事費をGDPの3.5%に引き上げるよう政治的圧力を加えた。
 このことがきっかけとなり、ワシントンD.C.で予定されていたマルコ・ルビオ米国務長官、ピート・ヘグセス米国防長官、中谷元防衛大臣、岩屋毅外務大臣の会談が中止となった。
 2025年11月4日、上院軍事委員会でのアラスカ州選出共和党上院議員ダン・サリバン氏が 「トランプ政権で一番連絡が取りにくい人物は誰か知っていますか?国防次官(政策担当)です。彼がこの発言を見ているといいのですが。明日彼と会う予定です。もしかしたらキャンセルされるかもしれません。どうなるかわかりませんが。」と発言した。
 7月初旬、米国はウクライナへの各種弾薬の供給を一時停止した。
 この措置はコルビー氏の発案によるものと報じられている。
 ただ、米国議会と国務省はこの決定を知らされていなかった。
 さらに、トランプ政権内部の関係者は武器輸送停止について相談を受けておらず、トランプ大統領自身もこの決定を知らなかったと主張した。 
 トランプ大統領はその後、数日のうちに武器輸送を再開した。
 その後、超党派の議員グループがコルビー氏に説明を求めた。
 2025年8月に欧州とホワイトハウスの危機協議が行われた後、トランプ大統領は、ロシア・ウクライナ戦争終結に向けた和平合意の一環として、米国がウクライナに安全保障上の保証を提供する可能性があると発表した。
 コルビー氏は欧州同盟国の代表に対し、安全保障上の保証において米国が果たす役割は最小限にとどまると伝えたと報じられている。
 同月後半、コルビー氏が策定した「審査メカニズム」に基づき、ウクライナはロシアへの
   長距離ミサイル攻撃
を阻止された。
 2025年11月に開催された上院軍事委員会の公聴会で、複数の共和党上院議員が、コルビー氏の事務所が議会関係者と政策について十分な情報共有を行っていないとして批判した。
 オースティン・ダーマーを国防次官補(戦略、計画、能力担当)に承認するための公聴会で、アラスカ州選出の
   ダン・サリバン上院議員
は「我々はあなたのチームにいるのに、返答すら得られない」と述べ、コルビーから返答を得ることは、ピート・ヘグセス国防長官やトランプ大統領と話すよりも難しいと主張した。
 サリバン議員はさらに、コルビーは「この件で本当にひどい。政権内で最悪だ…」と付け加えた。
 ミシシッピ州選出の
   ロジャー・ウィッカー上院議員
もこれに同意し、コルビーの政策室は国防総省の他の部署に比べて情報共有に関して異常に困難だったと述べた。
 アーカンソー州選出の
   トム・コットン上院議員
は、コルビーの事務所のコミュニケーションを「豚小屋のような混乱状態」と表現した。
 11月5日、国防総省はコルビーが議会に意図的に情報を隠蔽していたことを否定した。
 国防総省報道官の
   キングスリー・ウィルソン氏
は、コルビー氏のチームが「機密扱いと非機密扱いの両方で、議会に数十回にわたり説明を行ったほか、他の会合にも出席した」と述べた。ロイター通信はこの出来事を「政権に対する超党派的な不満表明としては異例」と評した。
 2025年12月、フィナンシャル・タイムズ紙は
   高市早苗首相
が台湾防衛に関する発言でトランプ大統領から
   公的な支持を得られなかったこと
に、高市首相政権内の多くの人々が「深い失望」を感じていると報じた。
 高市首相は、中国による台湾侵攻は日本にとって「存亡の危機」となり、自衛隊の出動が必要になると述べていた。
 これは、コルビー氏が日本にそのような立場を取るよう働きかけていたと報じられた後のことだった。
 2026年4月、フリー・プレス紙は、2026年1月22日、コルビー枢機卿が
   クリストフ・ピエール枢機卿
をペンタゴンに「前例のない」非公開の「講演」に呼び出したと報じた。
 フリー・プレス紙によると、コルビー枢機卿は数名の同僚とともに、この会談で
   レオ14世教皇
が2026年1月に発表した年次「世界情勢」演説を批判し、ピエール枢機卿に対し、米国は「望むことは何でもできる軍事力を持っている。
 教会は米国側に立つべきだ」と警告した。
 別の高官は、1300年代にフランス王室が軍事力を用いて教皇庁を支配したアヴィニョン教皇制に言及した。
 コルビー枢機卿は自身を現実主義者と位置づけている。
 彼は、中国が米国が直面する最大の脅威であり、アジアが米国の努力と資源の優先対象であるべきだと考えている。
 彼は、米国が台湾をめぐる紛争に備えるために軍事計画と資源を転換すべきだと主張し、米国の産業能力の強化を支持している。
   ケビン・ロバーツ理事長
と共著したタイム誌の記事で、コルビーは「我々は絶対に明確にしておく必要がある。間違いなく、米国に対する最大の外部脅威は中国である。」と書いている。
 彼は「優先順位付け」を重視しており、米国の軍事資源は限られていると考え、米国の軍事資源を中東やヨーロッパからアジアや中国へと再配分することを支持している。
 フォーリン・ポリシー誌は彼を「ワシントンでヨーロッパ、NATO、ロシアから完全に離れ、増大する中国の挑戦へと向かうことを主張する最も声高で、おそらく最も説得力のある人物」と評している。
 コルビーは、ジャイル・ボルソナロ政権下でブラジル地理統計院(IBGE)の元院長であり、現在は世界銀行のラテンアメリカ担当副理事長を務める
   スザンナ・コルデイロ・ゲラ
と結婚している。
 コルビーはカトリック教徒である。

   
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2026年06月23日

セルゲイ・イワノフ(Sergei Ivanov)ロシアの元政治家で高官

セルゲイ・ボリソヴィチ・イワノフ(Sergei Borisovich Ivanov  Сергей Борисович Иванов)
   1953年1月31日生まれ
 ロシアの元政治家、高官である。
 1999年11月から2001年3月まで安全保障会議書記を務めた。
 2001年3月から2007年2月まで国防大臣を務めた。
 2005年11月から2007年2月まで副首相を務めた。
 2007年2月から2008年5月まで第一副首相を務めた。
 ドミトリー・メドベージェフがロシア大統領に選出された後、イワノフは副首相に再任された(在任期間: 2008年〜2011年)。
 ウラジーミル・プーチン大統領の第2次内閣の一員である。
 2011年12月から2016年8月まで、大統領府長官を務めた後、2016年8月から2026年2月まで、環境活動、生態系、運輸問題担当大統領特使を務めた。
 ソ連のKGBとその後継組織である連邦保安庁(FSB)に勤務し、大将の階級を持つ。
 また、ロシア連邦国家公務員一等国家顧問の資格も有する。
 モスクワの連邦政府に勤務する以前、イワノフは1991年後半からヨーロッパとアフリカ(ケニア)で法律と外国語の専門家として勤務していた。
 ソ連時代のKGB職員として、同僚のウラジーミル・プーチンと親交を深めた。
 1998年にプーチンの副官に任命された。プーチンの側近グループであるシロヴィキの一員である。
 イワノフは1953年1月31日、レニングラードで生まれた。
 1975年、レニングラード国立大学言語学部英語翻訳学科を卒業し、英語とスウェーデン語を専攻した。
 1970年代後半、イワノフは
   対外情報機関
の職員として20年にわたるキャリアをスタートさせた。
 1976年、ミンスクのKGB高等課程を修了し、防諜に関する大学院課程を修了した。
 1976年の卒業後、イワノフはレニングラードおよびレニングラード州KGB総局に配属された。
 そこで後に同僚となるウラジーミル・プーチンと親交を深めた
 1981年、彼はKGBの赤旗研究所で学んだ。
 1980年代、イワノフはヘルシンキのソ連大使館で二等書記官を務め、KGB駐在員の
   フェリックス・カラセフ
の直属の部下として勤務した
 フィンランドの後、彼はKGB駐在員としてケニアに派遣された。
 2015年、イワノフは、1985年7月19日に
   オレグ・ゴルディエフスキー
がモスクワからソ連北西部のレニングラード近郊を経由してフィンランドからイギリスへ亡命したことが、自身のKGBでのキャリアを台無しにしたと述べた。
 ゴルディエフスキーの亡命は、KGBとソ連双方にとって大きな恥辱となった。
 その結果、当時イギリス国民の監視を担当していたレニングラード局は、防諜部長の
   ヴィクトル・バブノフ
によって多数の職員を粛清された。
 その中には当時レニングラードKGBに所属していたウラジーミル・プーチンに近い人物も多数含まれていた。
 1998年8月、ウラジーミル・プーチン
   連邦保安庁(FSB)長官
に就任し、イワノフを副長官に任命した。
 連邦保安庁副長官として、イワノフはモスクワにおいて、国内外の安全保障問題に関する有能なアナリストとしての評価を確固たるものにした。  
 1999年11月15日、ロシアの
   ボリス・エリツィン大統領
はイワノフをロシア安全保障会議の書記に任命した。
 安全保障会議は、国家安全保障に関する大統領令の策定を担う諮問機関である。
 この役職において、イワノフはプーチンが首相に昇格した際に、エリツィンの国家安全保障顧問の地位を引き継いだ。
 書記として、イワノフは大統領が率いる安全保障会議の日常業務を調整する責任を負った。
 なお、書記としてのイワノフの役割は、当初メディア関係者には不明確だった。
 彼が任命された当時、安全保障会議は比較的新しい組織だったからである。
 安全保障会議は1991年から1992年にかけてエリツィンの指導の下で設立された。
 1992年からイワノフが任命された1999年までの間、エリツィンは安全保障会議を政治的な都合に合わせて利用した。
 ただ、比較的強力で自律的な機関として発展させることはなかった。
 西側の分析家によると、プーチンを含むイワノフの前任者たちは、エリツィンとの関係によって、ロシアで2番目に権力のある政治家か、あるいは国家権力の中枢に近づかない単なる官僚に過ぎなかった。
 イワノフは、1999年12月31日にエリツィンの後を継いで大統領に就任したウラジーミル・プーチンによって、2001年3月にロシアの国防大臣に任命された。
 同月、イワノフは安全保障会議書記を辞任したが、メンバーには留まった。
 イワノフは約1年前に軍を退役しており、安全保障会議書記を務めながら文官であった。
 そのため、イワノフはロシア初の文官国防大臣となった。
 プーチン大統領は、イワノフの国防大臣就任に伴うロシアの安全保障機構の人事異動を「公共生活の非軍事化に向けた一歩」と称した。
 プーチン大統領はまた、国防大臣としてのイワノフの軍事改革監督責任を強調した。
 ロシア専門家にとって当然のことながら、イワノフは国防大臣としての職務の困難さに苦戦を強いられた。
 しかし、軍における官僚主義的な停滞と腐敗にもかかわらず、イワノフはより専門的な軍隊への転換という形で一定の改革を主導した。
 徴兵制の廃止には至らなかったものの、規模縮小には成功した。
 イワノフ氏は2002年3月13日、ペンタゴンで
   ドナルド・ラムズフェルド米国防長官
と会談した。
 国防大臣として、イワノフ氏はラムズフェルド米国防長官と協力し、両国に対する
   国際テロの脅威
に対抗するためのロシアと米国の協力関係の拡大に取り組んだ。
 2001年5月、イワノフは独立国家共同体(CIS)国防相会議議長に選出された。
 2003年10月、イワノフは、ロシアは国益が必要とするならば、世界のいかなる場所においても先制攻撃を排除しないと主張した。
 2004年、イワノフは国防相として、カタールで拘束されていたチェチェン指導者
   ゼリムハン・ヤンダルビエフ暗殺事件
の容疑者らに国家支援を約束し、彼らの拘束は違法であると宣言した。
 その後、カタールの検察当局は、容疑者らがイワノフ本人から
   ゼリムハン・ヤンダルビエフ暗殺
の命令を受けていたと結論付けた。
 2006年1月、イワノフはウラル地方の軍事基地で発生した極めて残忍な新兵いじめ事件に対する世論の強い反発を軽視したとして批判を浴びた。
 この事件ではアンドレイ・シチョフが被害者となり、激しい暴行と虐待により両足と性器を切断された。
 イワノフは時折、国際的な軍事・政治問題に関する率直な発言で西側諸国の人々を困惑させてきた。
 なお、彼の政治的立場は穏健であり、経済問題に関しては概ねリベラルである。
 例えば、2003年から2004年の選挙に関する一連の発言の中で、彼は1990年代の西側型経済改革と民営化の撤回に明確に反対を表明した。[12]
 2006年12月15日、モスクワでイワノフは、同年11月にロンドンで毒殺され、西側諸国で大きく報じられた
   アレクサンドル・リトビネンコ
について、外国人特派員に対し、「我々にとってリトビネンコなど何の意味も持たない。彼が死の床で何を言い、何を書いたかなど、どうでもよかった」と述べた。
 ユーリ・シュヴェツによれば、リトビネンコはイワノフに関する不利な情報をまとめた文書を作成したために暗殺されたという。
 2005年11月、イワノフは
   ミハイル・フラトコフ第2次内閣
で副首相に任命され、製造業と武器輸出の責任も兼任することになった。
 2007年2月15日、プーチンは彼を国防大臣の職から解任し、防衛産業、航空宇宙産業、ナノテクノロジー、運輸を担当する第一副首相に昇格させた。
 2007年6月、イワノフはナノテクノロジー政府評議会の議長に任命された。
 プーチン大統領の有権者からの人気の高さから、世論調査やロシアの政治アナリストは、2008年のロシア大統領選挙において、プーチン大統領の支持はどの候補者にとっても有利に働くと予想していた。
 2005年11月、イワノフ氏が副首相に昇格したことで、憶測はさらに強まった。
 2007年2月、イワノフ氏が第一副首相に昇格したことで、憶測はさらに高まった。
 しかし、統一ロシア党がプーチン大統領の支持を得て、イワノフ氏の同僚である
   ドミトリー・メドベージェフ氏
を大統領候補に指名したことで、噂は収まった。
 イワノフ氏もメドベージェフ氏の立候補を支持すると表明した。
 ロシアの世論調査によると、イワノフ氏はロシア国民の間で広く知られており、支持率も比較的高かった。
 イワノフの経歴は、その出自やロシア国家機構における出世という点で、しばしばプーチンと比較された。
 2008年の大統領選への出馬の可能性についての憶測を呼んだ。
 プーチンより3ヶ月年下のイワノフは、故郷レニングラードでプーチンと同級生だった。
 二人はともに競争率の高い専門中等教育課程(プーチンは化学、イワノフは英語)を修了後、レニングラード国立大学に進学した。
 二人とも防諜に関する大学院課程を修了し、その後まもなく対外情報機関に入局した。
 しかし、イワノフの回想によれば、プーチンと知り合ったのは学生時代ではなく、レニングラードの同じ対外情報機関の部署に配属された時だったという。
 2011年12月、イワノフはロシア大統領府長官に任命された。
 彼はロシア・ウクライナ戦争中および西側諸国に対する強硬な姿勢、そしてシリア内戦へのロシア軍事介入を働きかける上で重要な役割を果たしたことで知られている。
 2016年8月12日、イワノフはプーチン大統領によって大統領府長官の職を解任され
   アントン・ヴァイノ
が後任となった。
 その後、イワノフは運輸・環境担当特使に就任した。
 プーチン大統領によるイワノフの解任は、プーチン大統領の側近を若い忠実な人物に交代させる一連の人事の一環であった。
 スティール文書(報告書2016/111)は、彼が2016年の米国大統領選挙への介入を促したことが、クレムリンに対する予期せぬ反発を招き、それが彼の解任の引き金となったと主張している。
 イワノフは1976年に結婚し、2人の子供がいる。
 彼の息子、セルゲイ・セルゲイヴィチ・イワノフ(ロシア語: Сергей Сергеевич Иванов、1980年10月23日生まれ)は銀行家で、2001年に経済学の学位を取得してモスクワ国際関係大学を卒業し、2002年に金融の学位を取得し、国立大学に勤務した。
 国家投資公社( Государственная инвестиционная корпорация)は、予備役KGB将校
   ウラジミール・ニコラエヴィチ・コジェミャキン中佐
指揮下のゴシンコール(Госинкор)として知られる。
 Владимирセルゲイ・セルゲイヴィチ・イワノフは、2022年2月に米国から制裁を受けた。
 彼は英語とスウェーデン語に堪能で、ノルウェー語とフランス語も少し話すことができる。
 趣味は釣りと、英語の原書で探偵小説を読むことという。
 イワノフはCSKAモスクワのサポーターで、PFC CSKAやPBC CSKAの試合によく姿を見せている。
 2005年5月20日、イワノフの長男アレクサンダー(1977年 - 2014年)が運転するフォルクスワーゲンが、横断歩道で68歳の女性、
   スヴェトラーナ・ベリゼ
をはねて死亡させました。
 ただ、彼に対する起訴は取り下げられた。
 アレクサンダーはモスクワ国際関係大学で国際経済学の学位を取得し、ヴネシェコノムバンクの副会長を務めていた。
 彼は2014年11月3日、アラブ首長国連邦で溺死した。
 2014年3月20日、米国財務省外国資産管理局(OFAC)は、イワノフ氏と他の19人のロシア人オリガルヒを特別指定国民リスト(SDN)に追加したと発表した。
 2022年2月24日、米国はロシアによるウクライナ侵攻への対応として、イワノフ氏とその息子セルゲイ氏に対する新たな制裁措置を発表した。
    
    
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2026年06月22日

ペトロ・ポロシェンコ(Petro Poroshenko)2014年から2019年までのウクライナ第5代大統領

ペトロ・オレクシヨヴィチ・ポロシェンコ(Petro Oleksiiovych Poroshenko)
   1965年9月26日生まれ
 ウクライナの政治家、オリガルヒ、元官僚
 2009年から2010年まで外務大臣を務めた。
 2012年には貿易経済開発大臣を務めた。
 2007年から2012年まではウクライナ国立銀行理事長を務めた。
 2014年の大統領選挙では、第1回投票で55.46%の得票率を獲得し、決選投票を回避して圧勝した。
 2014年から2019年までウクライナ第5代大統領を務めた。
 ポロシェンコ大統領は、
   ドンバス紛争
の第一段階において国を率い、
   ロシア系分離主義勢力
からドンバス地域の大部分を奪還した。
 2014年9月と2015年2月、ポロシェンコは
   ミンスク合意
に署名し、事実上戦線を凍結させた。
 この合意で進行中の戦争における死傷者を大幅に削減した。
 彼はまた、
の時代に大部分が解体されたウクライナ軍の再建に着手し、
 この再軍備は
の下でも継続された。
 ウクライナのEU加盟を強く支持していたポロシェンコは、2014年6月にEU・ウクライナ連合協定に署名した。
 EUとの統合プロセスを開始した。
 さらに、2017年6月にはEUとの間で
   ビザなし渡航協定
に署名して、国内貿易をEU向けに再編した。
 国内政策においては、ポロシェンコはウクライナ語、ナショナリズム、包摂的資本主義、脱共産化、行政の地方分権化を推進した。
 2018年、ポロシェンコは
   ウクライナ正教会
の独立を主導し、ウクライナ正教会をモスクワ総主教庁から分離させた。
 彼の大統領時代は、支持者と反対者の双方が用いた「armiia, mova, vira」(軍事、言語、信仰)という3語のスローガンに集約された。
 2019年の大統領選では、2期目を目指したものの、ウォロディミル・ゼレンスキーに敗れた。
 ポロシェンコはウクライナ最高議会(ヴェルホヴナ・ラーダ)の人民代表であり、欧州連帯党の党首でもある。
 政界を離れると、資産の取得と構築で名を馳せたウクライナの有力オリガルヒとして知られている。
 ペトロ・ポロシェンコの最も有名なブランドは、彼に「チョコレート王」の異名をもたらした大手菓子会社
   ロシェン
と、2021年11月に
   反オリガルヒ法
に従うために売却を余儀なくされたテレビニュースチャンネル「5カナル」である。
 製造業、農業、金融における事業規模の大きさ、大統領就任以前の複数の政権での政治的影響力、そして影響力のあるマスメディアの所有から、彼はオリガルヒとみなされている。
 退任後に実施された世論調査では、ポロシェンコはウクライナ大統領として平均以上の評価を受けている。
 ペトロ・ポロシェンコは1965年9月26日、ウクライナ南西部オデッサ州にあるブルガリア系住民が多数を占める町ボルフラードで、ウクライナ系住民の家庭に生まれた。
 ポロシェンコの父は
   オレクシー・ポロシェンコ
である。
 オレクシーは、当時ルーマニア領だったイズマイル近郊のサフィアニー村で生まれ、エンジニアとして働き、後にウクライナ・ソビエト社会主義共和国で複数の工場を管理する政府職員となった。
 ポロシェンコによれば、彼の父親の一族は
   ドナウ・コサック
の子孫である。
 彼の母親、イェヴヘニア・セルヒイヴナ・フリホルチュク(1937年 - 2004年)についてはほとんど知られていない。
 ウクライナの新聞によると、彼女は会計士で、会計の職業技術学校で教えていた。
 ポロシェンコは、幼少期と青年期をモルダビア・ソビエト社会主義共和国、現在はベンデルとして知られ、事実上、未承認の分離国家トランスニストリアの支配下にある
   ティギナ
で過ごし、父親のオレクシーが機械製造工場を経営し、そこでルーマニア語を学んだ。
 ポロシェンコは若い頃、柔道とサンボを習い、ソ連スポーツマスター候補生だった。
 成績は優秀だったにもかかわらず、卒業時に通常授与される金メダルは授与されなかった。
 また、成績表には素行不良のため「C」の評価が付けられた。
 軍事委員会でソ連軍士官候補生4人と喧嘩をした後、遠く離れたカザフ・ソビエト社会主義共和国に兵役に送られた。
 1982年に入学したキエフ大学国際関係法学部(後に国際関係研究所)で経済学の学位を取得した。
 1989年に卒業した。
 この大学で、後に2015年5月にオデッサ州知事に任命することになる
   ミヘイル・サアカシュヴィリ
と親交を深めた。
 サアカシュヴィリは後にグルジアの大統領となった。
 1984年、ポロシェンコは医学生の
   マリナ・ペレヴェデンツェワ(1962年生まれ)
と結婚し、長男オレクシーが1985年に誕生し(他の3人の子供は2000年と2001年に生まれた)。
 1989年から1992年まで、ポロシェンコは大学の国際経済関係学部で助手として勤務した。
 学生時代、彼は外国貿易における契約交渉を仲介する法律顧問会社を設立した。
 その後自ら交渉を行うようになった。
 1991年にはソ連のチョコレート産業にカカオ豆の供給を開始した。
 同時に、彼は中小企業・起業家連合「共和国」の副会長、そして「ウクライナ為替取引所」のCEOも務めていた。
 ポロシェンコの8歳年上の兄、ミハイロは、1997年に不可解な状況下で自動車事故により亡くなった。
 1993年、ポロシェンコは父オレクシーとキエフの
   道路交通研究所
の同僚たちと共に、製菓・自動車産業(後に他の農産物加工業にも進出)を専門とするウクライナ産業投資会社
   ウクルプロムインベスト
を設立した。
 ポロシェンコは、同社の設立から1998年まで社長を務めた。
 国会議員就任に伴い、その職を父親に譲り渡したが、名誉社長の称号は保持した。
 1996年から1998年にかけて、ウクルプロムインベストは複数の国営菓子企業を買収した。
 1996年にそれらを統合して
   ロシェン・グループ
を設立し、ウクライナ最大の菓子製造企業群を創設した。
 この業界での事業成功により、彼は「チョコレート王」の異名を得た。
 ポロシェンコの事業帝国には、複数の自動車・バス工場、クズニア・ナ・リバルスコム造船所、5カナル・テレビ局[27]、その他ウクライナ国内の事業も含まれている。
 ポロシェンコ氏の所有する事業の中で、最も目立つものではないものの、近年メディアの注目を集めた。
 しばしば物議を醸している資産としては、ロシア・ウクライナ戦争をきっかけにロシア・リペツクにある菓子工場がある。
 2014年のロシアによるクリミア併合後に没収されたセヴァストポリ海洋工場
   セヴモルザヴォード
 そしてメディア企業「5カナル」が挙げられる。
 特に、ポロシェンコ氏が大統領就任後も影響力のあるメディア資産の売却を繰り返し拒否していることが問題視されている。
 ポロシェンコ氏およびロスチャイルド・ウェルス・マネジメント&トラストによれば、ウクライナ大統領就任以来、同氏は事業経営を放棄し、最終的には2016年1月に
   ブラインド・トラスト
に委託したという。
 2012年3月、フォーブス誌はポロシェンコ氏を資産10億ドルでフォーブス長者番付1,153位にランク付けした。
 2015年5月時点で、ポロシェンコ氏の純資産は約7億2,000万ドルとなり、ロシアによるロシェン製品の禁輸措置とウクライナ経済の低迷により、資産の25%を失った。
 ウクライナの大手投資会社
   ドラゴン・キャピタル
と共同で、ウクライナの雑誌「ノヴォエ・ヴレミヤ」が2015年10月に発表したウクライナの富豪ランキングによると、ポロシェンコ大統領は上位10名の中で、前年のランキングから資産が増加した唯一の人物だった。
 資産は9億7,900万ドルと推定され、20%増加した。
 ウクライナの富豪ランキングは9位から6位に上昇した。
 記事では、ポロシェンコ氏がイタリアの
   シルヴィオ・ベルルスコーニ氏
と並び、これほど大規模な事業帝国を所有するヨーロッパの指導者はわずか2人しかいないと指摘した。
 総額4億5000万ユーロが、キプロスに登記されたアムステルダム拠点の会社に保有されており、その結果、ポロシェンコ氏の実効税率はウクライナの法定税率18%ではなく5%となっている。
 オランダ商工会議所が公表する年次決算報告書には株式の帳簿価額しか記載されておらず、市場価値よりも低い可能性が高い。
 このため、この会社の実際の価値ははるかに高いと考えられている。
 ポロシェンコ氏は大統領選当選後、純資産が40%減少し7億500万ドルとなり、億万長者の地位を失った。
 2014年の選挙後、ポロシェンコ氏はロシェン社の株式を売却した。
 キエフ・ポスト紙は、ポロシェンコ氏が個人顧問として、また同社の売却を監督する人物として、投資資本ウクライナのマネージングディレクターである
   マカール・パセニュク氏
を雇ったと報じた。
 多くの事業は、かつてポロシェンコ氏が1993年から1998年まで率いていた
   ウクルプロミンベスト(Ukrprominvest)
の一部であった。
 この投資グループは2012年4月に解散した。
 ポロシェンコ氏は、政治活動を開始した際に保有資産
   ボグダン・グループ
やチェルカスイを拠点とする
   ロシェン・グループ
を信託基金に移管したと述べている。
 ポロシェンコはボグダン・グループについて2008年の金融危機後の生産崩壊により2009年に持ち株を売却している。
◯その他の資産
 ・5カナル
   テレビ局
 ・プリャミイ
    テレビ局(ポロシェンコはプリャミイとの財産関係を否定している)
 ・クズニア・ナ・リバルスコム造船所
   キエフ
 ・インターナショナル・インベスト・バンク
   信託を通じてイホル・コノネンコと共同所有する
 ・ウクルプロミンベスト・アグロ
   農業持株会社
 ・ゾリア・ポディリア
   ハイシン近郊の農業会社でテンサイからの砂糖生産を専門とする
 ポディリア
 ・MASアグロ
 ・アフロフィルマ「ドニプロアフロラン」
 ・アフロフィルマ「イヴァンキウツィ」
 ・セヴァストポリ造船所
   2015年、クリミアにおけるロシア占領当局による企業買収により喪失した。
 ポロシェンコは1998年、第12小選挙区からウクライナ最高議会(ヴェルホヴナ・ラダ)議員に初当選した。
 当初は、ヴィクトル・メドヴェチュクが率い、当時レオニード・クチマ大統領に忠誠を誓っていた
   ウクライナ統一社会民主党(SDPU)
に所属していた。
 ポロシェンコは2000年にSDPU(o)を離党し、中道左派の独立派閥を結成した。
 その後、ウクライナ連帯党(PSU)を結成した。
 2001年、ポロシェンコはクチマに忠誠を誓う地域党の結成に尽力した。
 ウクライナ連帯党が地域党に合併した後、ポロシェンコは「連帯」党という類似の名称の新党を立ち上げた。
 2001年12月、ポロシェンコはクチマ支持者と袂を分かち、
   ヴィクトル・ユシチェンコ
が率いる野党「我々のウクライナ」の選挙対策本部長に就任した。
 2002年3月の議会選挙で「我々のウクライナ」が最多得票を獲得し、ポロシェンコも議席を獲得した。
 後に、ポロシェンコは議会予算委員会の委員長を務めたが、そこで「4700万ウクライナ・レウ(890万米ドル)」の横領容疑で告発された。 
 ポロシェンコが「我々のウクライナ」に所属したことがきっかけとなり、税務調査官は彼の会社を捜査した。
 多くの困難にもかかわらず、ウクルプロムインベストは2005年にユシチェンコがウクライナ大統領に就任するまで存続した。
 ポロシェンコはユシチェンコの側近と見なされており、ユシチェンコはポロシェンコの娘たちの名付け親でもある。
 ポロシェンコは、ユシチェンコ支持者の中でもおそらく最も裕福なオリガルヒであり、「我々のウクライナ」と「オレンジ革命」の主要な資金提供者の一人としてしばしば名前が挙がった。
 2004年の大統領選挙でユシチェンコが勝利した後、ポロシェンコは国家安全保障・国防会議書記に任命された。
 2005年9月、ポロシェンコとユリア・ティモシェンコ首相の間で、国営企業の民営化を巡る汚職疑惑が公然と浮上した。
 例えば、ポロシェンコは、国営企業
   ニコポル・フェロアロイ
を8000万ドル(独立評価額10億ドル)で買収した
   ヴィクトル・ピンチュク
の利益を擁護したとして非難された。
 これらの疑惑を受け、ユシチェンコはポロシェンコとティモシェンコを含む閣僚全員を解任した。
 翌月、ユシチェンコがウクライナ検事総長の
   スヴャトスラフ・ピスクン
を解任した直後、検察当局はポロシェンコに対する権力乱用捜査を中止した。
 ピスクンは、ティモシェンコに対する刑事訴追を拒否した。
 ポロシェンコに対する訴追を取り下げることも拒否したため解任されたと主張した。
 2006年3月の議会選挙で、ポロシェンコは「我々のウクライナ」選挙ブロックの支持を得てウクライナ議会議員に再選された[21]。彼は議会の財政銀行委員会の委員長を務めた。
 伝えられるところによると、ポロシェンコがウクライナ議会議長の座を自らに要求したため、ウクライナ社会党は国民統一同盟への参加を選択した。
 これは、連立政権が樹立されれば党首の
   オレクサンドル・モロズ
が議長に選出されると約束されたためである。
 この結果、ポロシェンコの「我々のウクライナ」とその同盟政党であるユリア・ティモシェンコ・ブロックは政権から排除された。
 ポロシェンコは2007年9月の議会選挙には出馬しなかった。
 ポロシェンコは2007年2月にウクライナ国立銀行の理事長に就任した。
 1999年から2012年まで、彼はウクライナ国立銀行の理事を務めていた。
 2009年10月7日、ウクライナのユシチェンコ大統領はポロシェンコを外務大臣に指名した。
 ポロシェンコは同年10月9日、ウクライナ最高議会(ヴェルホヴナ・ラダ)によって外務大臣に任命された。
 同年10月12日、ユシチェンコ大統領はポロシェンコを国家安全保障・国防会議のメンバーに再任した。
 ポロシェンコはウクライナのNATO加盟を支持し、NATO加盟自体を目標とすべきではないと述べた。
 ポロシェンコは2010年3月11日に外務大臣を解任された。
 しかし、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領は彼との今後の協力関係に期待を表明した。
 2012年2月下旬、ポロシェンコはアザロフ政権で貿易経済開発大臣に任命された。
 同年3月9日、ヤヌコーヴィチ大統領はポロシェンコに経済開発貿易大臣として政府内で働いてほしいと表明した。
 2012年3月23日、ポロシェンコはヤヌコーヴィチ大統領によってウクライナの経済開発貿易大臣に任命された。
 同月、彼はウクライナ国立銀行総裁を辞任した。
 ポロシェンコは、ウクライナをEUに近づけ、ユリア・ティモシェンコを釈放させるために貿易経済開発大臣に就任したと主張している。
 就任後、税務調査官が彼の事業を襲撃した。
 選挙当日の夜(2014年5月25日)、ポロシェンコ氏は当選が確定すると、「大統領就任後初の訪問先はドンバス地方となる」と発表した。
 ドンバス地方では、親ロシア派武装勢力が分離独立を宣言し、
   ドネツク人民共和国
   ルハンスク人民共和国
を樹立、一部地域を支配していた。
 ポロシェンコ氏はまた、ウクライナ政府軍による武装反乱鎮圧作戦の継続を誓い、「対テロ作戦は2、3ヶ月も続くべきではない。数時間で終わるべきであり、実際に終わるだろう」と述べた。
 彼は親ロシア派武装勢力をソマリアの海賊になぞらえた。
 ポロシェンコ氏はさらに、国際仲介者の立ち会いのもと、ロシアとの交渉を呼びかけた。
 これに対しロシアは、ウクライナとの二国間関係において仲介者は必要ないと反論した。
 大統領当選者として、ポロシェンコ氏は2014年3月にロシアに併合されたクリミア半島の返還を約束した。
 また、2014年中に新たな議会選挙を実施することも誓った。
 ポロシェンコ氏は2014年6月7日、最高議会(ヴェルホヴナ・ラーダ)で就任した。
 就任演説で、ウクライナはクリミアを放棄しないと強調し、ウクライナの統一を力説した。
 ドンバス戦争における親ロシア派分離主義者と、彼らに反対するウクライナ民族主義グループに対し、「血を流していない者」には恩赦を与えることを約束したが、「ギャングや殺人者と対話するのは我々の道ではない」と付け加えた。
 さらに、ウクライナ東部での早期地方選挙の実施を呼びかけた。
 ポロシェンコ大統領は、ウクライナ・欧州連合連合協定の経済部分に署名すると述べた。
 これがウクライナのEU完全加盟に向けた第一歩であると強調した。
 演説の中で、同大統領は「ウクライナ語を唯一の国家言語とする」と述べた一方で、「ロシア語をはじめとするすべての言語の自由な発展を保証する」とも語った。
 演説の一部はロシア語で行われた。
 ポロシェンコ大統領は、2014年6月26日、ストラスブールで開催された欧州評議会議会で演説を行った。
   
     
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ウジェーヌ・ペレール(Eugène Pereire)トランザトランティック銀行の設立者

ウジェーヌ・ペレール(Eugène Pereire)
   1831年10月1日 - 1908年3月21日
 ポルトガル出身のセファルディ系ユダヤ人の血を引くフランスの金融家、政治家.
 著名なペレール兄弟の一人
の息子である彼は、1881年に
   トランザトランティック銀行
を設立した。
 1857年、ペレールはフール家出身の
   ジュリエット・フール
と結婚し、二人の娘がいました。
 ・アリス・ペレール(1858年 - 1931年)
   トランザトランティック銀行頭取(1909年 - 1923年)を務めた
     サロモン・ハルフォン
   と結婚した。
 ・マリー・ペレール(1860年 - 1936年)
   ハルフェン家出身のウジェーヌ・ハルフェンの息子
     ジュール・ハルフェン
   と結婚した。
 ペレールは1863年から1869年までタルン県選出の国会議員を務めた。

   
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2026年06月20日

ニック・フロスト(Nick Frosst)人工知能企業Cohereの共同創設者

ニコラス・M・W・フロスト(Nicholas M. W. Frosst)
   1993年1月5日生まれ
 カナダ出身のコンピュータ科学者であり、ミュージシャンでもある。
 トロントを拠点とする人工知能企業
   コヒア(Cohere)
の共同創設者であり、インディーロックバンドGood Kidのリードシンガーも務めている。
 フロストは2015年にトロント大学でコンピュータサイエンスと認知科学の理学士号を取得した。
 彼はジェフリー・ヒントンの教え子であり、ヒントンはフロストをGoogle Brainに採用した。
 フロストは、トロントのGoogle Brainでジェフリー・ヒントンが初期に採用したメンバーの一人であり、深層学習とニューラルネットワークアーキテクチャの機械学習研究者として勤務した。
 2016年から2020年までGoogle Brainに在籍した。
 フロスト氏は2019年に
   イヴァン・チャン氏
と共にCohereを共同設立した。
 同社は大規模言語モデルとエンタープライズAIツールを開発している。
 フロスト氏は、プライバシーやその他の規制上の考慮事項が存在する金融や医療などの業界にCohereが注力していることを公に説明している。
 また、人工知能は人間を置き換えるのではなく、むしろ
   日常的な作業
を効率化・自動化するものであり、
   汎用人工知能(AGI)
の実現は多くの専門家が主張するほど「差し迫った」ものではないという自身の考えを率直に語っている。
 フロスト氏と他のCohere共同設立者は、Maclean誌の
   AI Trailblazers Power List
   The LogicのInnovation Leaders
でトップに選出された。
 グロッケンシュピールをフィーチャーした「奇妙な」音楽を演奏するバンドで活動していたフロストは、トロント大学のコンピュータサイエンス学科の仲間たちと2015年にインディーロックバンド、グッド・キッドを結成した。
 フロストはバンドのリードボーカルを務めている。
 バンドのツアー中も、フロストはリモートでIT業界での仕事を続けている。
 フロストはバンド活動を、リラックスしてITのことを考えずに済む手段だと語っている。
 彼のボーカルは
   ケレ・オケレケ
に例えられることがある。
 2026年現在、ロラパルーザに出演したこともあるこのバンドは、Spotifyで月間310万人のリスナーを抱えている。
 2024年、このバンドはジュノー賞のブレイクスルー・グループ・オブ・ザ・イヤーにノミネートされた。

    
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