ブルランの戦い(Battle of Bull Run)
南北戦争中に、バージニア州マナサスの近郊で戦われた二次におよぶ戦闘のこと。
南軍側の呼称は「マナサスの戦い」とされている。
◯第一次ブルランの戦い(First Battle of Bull Run)
南部での呼称は第一次マナサスの戦い
南北戦争の陸上戦闘では最初の大会戦で1861年7月21日にバージニア州マナサスの近くで行われた。
南軍北軍双方が急ごしらえの部隊で戦闘を行った。
はじめはアービン・マクドウェル准将の指揮する北軍が攻勢を取り、ブルラン・クリーク(ポトマック川水系の支流の一つ)を渡った。
やがて南軍が
ジョセフ・ジョンストン
P・G・T・ボーリガード
の両准将の指揮で押し返した。
北軍をワシントンD.C.まで退却させた。
南軍が南北戦争の本格化とともに緒戦に大勝したことは、戦争を長期化させる要因になった。
エイブラハム・リンカーン大統領は
北東バージニア軍
の指揮官に
アービン・マクドウェル准将
を指名した。我慢強くない政治家やワシントン市民は、マクドウェルに北バージニアで早く南軍に対する勝利の報せを持ってくるよう突き上げを食らわせていた。
ただ、まだ実戦経験の無い軍隊については心配なところがあった。
アメリカ陸軍総司令官の
ウィンフィールド・スコット少将
は、「お前達はまだ青二才だ。それは事実だが相手も青二才だ。みんな同じように青二才なんだ」と言った。
アメリカ陸軍の大尉であった
トーマス・ジョーダン
は、1860年中にワシントンに南部のスパイ網を構築していた。
メンバーには社交界の有名人であり、広い交際範囲を持った
ローズ・オニール・グリーンハウ
も含まれていた。
ジョーダンはグリーンハウに暗号コードを与えていた。
ジョーダンが南軍に投じてワシントンを離れた後、スパイ網はグリーンハウに委ねられた。
引き続き情報が南軍に伝えられていた。
1861年7月9日と7月16日、グリーンハウは南軍の
ボーリガード准将
に対し、マクドウェルの計画を含む、第一次ブルランの戦いにつながる北軍の動きに関する重要なメッセージを送っている。
マクドウェルは1861年7月16日にワシントンを出発し、作戦を開始した。
なお、その軍隊はアメリカ大陸では過去最大となる約35,000名(戦闘勢力は28,452名)の勢力であった。
マクドウェルの作戦は3隊で西に向かい、2隊はブルランで南軍に対して
陽動攻撃
を行い、その間にもう1隊が南軍の右翼を南方に回り込んで、リッチモンドからの鉄道を抑え南軍の背後を脅かそうというものだった。
マクドウェルの考えでは、これが成功すれば南軍はマナサス中継駅を放棄し、バージニアでの次の防衛線となるラッパハノック川まで後退を余儀なくされ、首都ワシントンに対する圧力が減るはずであった。
対する南軍の
ポトマック軍
は北軍の6割の戦闘勢力(21,883名)であった。
ボーリガードの指揮でワシントンからは約25マイル (40 km)のマナサス中継駅付近に駐屯していた。
マクドウェルの計画は、北東バージニア軍が数的に劣る敵ポトマック軍を攻撃し、同時にシェナンドー渓谷にいる
ジョンストン
のシェナンドー軍(戦闘勢力8,884名にセオフィラス・ホームズ旅団1,465名が援軍になっていた)にポトマック軍を援護させないように、
ロバート・パターソン少将
の18,000名の部隊がこれと対峙して戦うというものだった。
北軍はうだるような暑さの中をゆっくりと2日間前進した。
センタービルで休憩を取ったのち、マクドウェルはセ
オドア・ラニオン准将
に5,000名を付けて全軍の後衛とした。
その間に、ボーリガードが防衛戦をブルランまで引いたので、その側面を衝く方法を探していた。
7月18日、ダニエル・タイラー准将の師団を送って南軍の右翼に回り込ませた。
しかしタイラー師団はブルランのブラックバーン浅瀬で南軍との小競り合いに引き込まれ前進が止まった。
マクドウェルは自身の作戦の失敗に憤り、代案として南軍の左翼(北西)を攻撃することに決めた。
タイラー准将の師団がウォーレントン・ターンパイク沿いのストーン・ブリッジから攻撃をかけた。
デイビッド・ハンターとサミュエル・ハインツェルマン両准将の師団が迂回路を通ってさらに西側のサドリー・スプリングス浅瀬を渡る作戦だった。
そこまで行けば南軍の左翼後方に回り込めた。
また、この主力部隊の攻撃を南軍に邪魔させないよう、タイラー師団隷下の
イズラエル・リチャードソン大佐
の旅団をブラックバーン浅瀬に残し、南軍右翼に対して嫌がらせ攻撃を行うこととした。
パターソン軍がジョンストン軍をシェナンドー渓谷に釘付けにしておけば、援軍は来ないはずであった。
なお、マクドウェルの作戦は理論的には十分であったが、幾つか欠陥があった。
1つ目は、敵を攻撃するときに時を同じくして開始する必要があった。
しかし、急拵えの軍隊ではそこまで練度が上がっていなかった。
2つ目は、ジョンストン軍を拘束するというパターソン軍の行動に頼るところがあったことだ。
実際、パターソンは失敗した。
そして、実際に最も大きな影響を及ぼした3つめの問題点で、マクドウェルがぐずぐずしている間に、シェナンドー渓谷のジョンストン軍は徒歩でマナサスギャップ鉄道のピードモント・ステーションに向かい、そこから鉄道でボーリガード軍を援護するためにマナサス中継駅に向かっていた。
7月19日と20日、ブルランで戦陣を張る南軍にかなりの援軍が届いた。
ジョンストン軍は移動中であった
エドマンド・カービー・スミス准将
の旅団を除いて全軍が到着した。
新参の部隊の多くはブラックバーン浅瀬の近辺に陣を布き、ボーリガードはそこから北のセンタービルに向けた攻撃を行おうと考えた。
古参士官のジョンストンもその作戦に同意した。
南北両軍の作戦が同時に行われた場合、互いに反時計廻りに回転して敵の左翼を攻めるという形になるところだった。
マクドウェルは
諜報員
からこれとは相反する情報を得ていた。
このため、ワシントンの
タデウス・ロー教授
がデモンストレーションをしたことのある
熱気球エンタープライズ号
を要求し、空中から付近の偵察をすることとした。
7月21日の朝、午前2時半にマクドウェルは
ハンター
ハインツェルマン
の師団合計約12,000名をセンタービルから進発させた。
ウォーレントン・ターンパイクを通って南西に移動した。
続いて北西に折れてサドリー・スプリングスに向かわせた。
タイラー師団約8,000名は直接ストーン・ブリッジに向かった。
経験の浅い部隊は直ちに
兵站の問題
に直面した。
タイラー師団がターンパイク上で主力である側面攻撃軍の前進を妨害することになった。
側面攻撃隊が見付けたサドリー・スプリングスに向かう道路は荷車が1台やっと通れるような所が有り不適切だった。
ブルランを渡り始めたのはやっと9時半であった。
タイラー軍は6時にストーン・ブリッジに到着した。
午前5時15分、リチャードソンの旅団はミッチェル浅瀬越しに南軍の右翼に向けて大砲を放った。
そのうちの幾つかがまだ朝食を食べていたボーリガードの本部、ウィルマー・マクリーンの家に当たった。
先制攻撃を打たれたことを知らされた。
それにも拘わらず、当初の計画に従って北のセンタービルに残っている北軍に対して攻撃の構えをするよう命じた。
お粗末な命令や伝達の不備でその命令は実行されなかった。
ボーリガードは
リチャード・イーウェル准将
の旅団に先陣を切らせるつもりだった。
しかし、ユニオンミルズ浅瀬にいたイーウェルは、「待機し・・・命令が来れば前進する用意をしておく」よう命令を受けていた。
デイビッド・ジョーンズ准将の旅団はイーウェルを支援して攻撃を始めることになっていた。
そのため、単独で前進していることになった。
テオフィラス・ホームズ准将の旅団も支援することになっていたが、命令は全く届かなかった。
一方、南軍左翼に集結した北軍主力20,000名の前に立ちはだかったのは
ネイサン・"シャンクス"・エバンス大佐
の旅団1,100名に過ぎなかった。
エバンスは部隊を割いて、橋でタイラー師団の脅威を直接抑えさせた。
なお、その先方である北軍
ロバート・シェンク准将
の旅団の弱い攻撃は単なる見せかけだと疑い始めた。
ボーリガードの通信隊長であり、8マイル南西のシグナルヒルから観察している
エドワード・アレクサンダー大尉
から、北軍主力がサドリー・スプリングスを通って南軍の側面に回ろうとしていることを知らされた。
戦闘で初めて使われた旗を用いた信号であったが、アレクサンダーは「貴隊の左翼を見張れ、配置が変わっている」という伝言を送った。
エバンスは急遽900名を連れてストーン・ブリッジ正面から移動し、マシューズヒルの斜面に陣取った。
以前の陣地よりも北西で少し高くなった所だった。
エバンスは、
バーナード・ビー准将
フランシス・バートウ大佐
の2個旅団から援軍を受け、側面を2,800名で固めた。
この部隊が、ハンター師団の先発隊である
アンブローズ・バーンサイド准将
の旅団がブルラン・クリークの浅瀬を渡りヘンリーハウスヒルの北端にあるヤングズブランチを越えて前進する動きをうまく遅滞させた。
しかし、タイラー師団の
ウィリアム・シャーマン
が率いる旅団が守備隊のいない浅瀬を渡り、南軍守備隊の右翼を衝いた。
この急襲がバーンサイドとジョージ・サイクス少佐による攻撃とかみ合って、午前11時半直前に南軍を崩壊させた。
南軍は算を乱してヘンリーハウスヒルまで後退した。
エバンス、ビーおよびバートウの残り部隊がマシューズヒルの陣地から撤退するときに、
ジョン・インボーデン大尉
の砲兵隊の4門の6ポンド砲が支援し、南軍がヘンリーハウスヒルで再結集する間、北軍の前進を止めた。
これらの部隊はM・ルイスの「ポーティシ」農園にあったジョンストン本部から到着したばかりの
ジョンストン
ボーリガード
両将軍と遭った。
南軍にとって幸運だったのは、マクドウェルがこの攻勢をさらに進めて戦略的に重要な陣地を即座に取ろうとしなかったことでる。
その代わりに
ドーガンズリッジ
からジェイムズ・リケッツ大尉の砲兵中隊とチャールズ・グリフィン大尉の砲兵中隊の大砲で丘に向かって砲撃を開始した。
正午頃に混乱した南軍を支援するために
ストーンウォール・ジャクソン
のバージニア旅団が到着した。
さらにウェイド・ハンプトン大佐の独立混成部隊とJ・E・B・スチュアートの騎兵隊が到着した。
ジャクソンはその5個連隊を丘の反対側斜面に置いて直接砲火を浴びないようにした。
防衛のために丘の頂上には13門の大砲を集めることができた。
大砲を放った後はその反動で丘の反対斜面に下がり、次の弾充填を安全のうちに行うことができた。
一方、マクドウェルはリケッツとグリフィンの砲兵中隊にドーガンズリッジから歩兵を支援できる丘に移動するよう命じた。
その11門の大砲はジャクソンの13門と300ヤード (270 m)の距離を置いて激しく撃ち合った。
南北戦争の他の多くの戦闘の場合とは異なり、この時の南軍砲兵隊には利点があった。
北軍の大砲は南軍の滑腔砲の射程内にあり、北軍に多いライフル砲はそのような至近距離では効果が薄く、多くの砲弾が敵の頭上を飛びすぎた。
砲火の犠牲者の一人は85歳の寡婦で病身の
ジュディス・カーター・ヘンリー
で、ヘンリーハウスの寝室から動けなかった。
リケッツは砲弾を受け始めたときにヘンリーハウスから飛んでくるものと判断し、大砲をその建物に向けた。
一発の砲弾が寝室の壁を突き破り、寡婦の足をもぎ取り、他にも多くの傷を与えた。
彼女はその日遅くに死んだ。
ビーはジャクソンに向かって「敵は我々を追い払おうとしている」と叫んだ。
ジャクソンは元アメリカ陸軍士官でバージニア州立軍人養成大学の元教授であった。
ただ、「諸君、彼らに銃剣をくれてやろう」と答えたと言われている。
ビーは「そこにジャクソンが石の壁のように立っている。ここで死ぬことに決めよう。
そして勝つんだ。俺に続け」と言って自部隊を鼓舞して再結集させた。
ビーの発言と意図については戦後も議論があり、ビーがその後の戦いで瀕死の重傷を負い、部下の士官達も記録を残さなかったので、正確なところは分かっていない。
ジョンストン将軍の参謀長
バーネット・レット少佐
の報告では、ビーとバートウの旅団が厳しい圧力を受けているときにジャクソンが即座に助けに来なかったのでビーは怒っていたと主張した。
この意見を支持する人々は、ビーの発言が軽蔑的な意味合いで「あそこに石壁のように立っているジャクソンを見よ」ということだったと信じている。
北軍砲兵中隊長の
グリフィン大尉
は南軍に対して縦射できるように、その大砲のうちの2門を戦列の南端に移動させることにした。
午後3時頃、これらの大砲が南軍第33バージニア連隊に乗っ取られた。
第33バージニア連隊は青い制服を着ていたので、グリフィンの上官である砲兵隊指揮官
ウィリアム・バーリー少佐
は味方だと勘違いし、グリフィンに撃つなと命じた。
砲兵隊を守っていた第11ニューヨーク志願歩兵連隊(エルスワースのズアーブ兵)の側面に至近距離から第33バージニア連隊とステュアートの騎兵隊からの一斉射撃が炸裂し、砲手の多くを殺し、歩兵を逃げ散らせた。
この勝機に付け込んだジャクソンは2個連隊にリケッツの砲兵中隊への攻撃を命じ、首尾良く捕獲できた。
そこに北軍の歩兵隊も押し寄せ、大砲の所有権が行ったり来たりした。
北軍の大砲を奪ったことで戦闘の流れが変わった。
マクドウェルはこの丘での戦いに15個連隊を注ぎ込み、数の上では2対1で勝っていた。
しかし、2倍以上の兵力を同時に投入することはできなかった。
ジャクソンはその攻撃の手を緩めず、第4バージニア歩兵連隊の兵士に向かって、「敵が50ヤード (45 m)の距離に近づくまで発砲せずに溜めろ。それから発砲して銃剣攻撃だ。突撃する時は怒ったように叫び声を上げろ。」と告げていた。
北軍は初めて反乱軍の雄叫びを聞いた。
午後4時頃、フィリップ・コック大佐の旅団の2個連隊による攻撃で、最後の北軍部隊がヘンリーハウスヒルから押し返された。
この戦場の西方では、北軍ハインツェルマン師団の
オリバー・ハワード大佐
の旅団がチンリッジを占領していた。
やはり午後4時頃、シェナンドー渓谷から
ジュバル・アーリー大佐
カービー・スミス准将
の2個旅団が到着して、ハワードの旅団を打ち破った。
ボーリガードは全軍に前進を命じた。
マクドウェル軍は崩壊して撤退を始めた。
この撤退はブルラン・クリークを渡るまでは比較的秩序だって行われた。
しかし、北軍の士官はもはや指揮することが出来なくなっていた。
カブラン・クリークに架かる橋の上で北軍の荷車に砲弾が当たって転覆した時、マクドウェル軍に恐怖が走った。
兵士達が武器や装備もかなぐり捨ててセンタービルへ向けて這々の体で走り始めた。
マクドウェルはディクソン・マイルズ大佐の師団に殿軍を務めるよう命令した。
しかし、ワシントンの手前で部隊を再招集することは不可能だった。
それに続く混乱の中で数百におよぶ北軍兵士が捕虜になった。
そこから至近距離にあるワシントンからは、政治家やその家族を含む富裕な特権階級が北軍の容易な勝利を予測してピクニックに訪れ戦闘を観戦していた。
北軍の兵士が無秩序に走って逃げてきたとき、ワシントンへ向かう道は恐怖に捕らわれて馬車で逃げようとする市民達で塞がれてしまった。
ボーリガードとジョンストンはこの勝機を徹底的に押し通すまではやらなかった。
アメリカ連合国大統領の
ジェファーソン・デイヴィス
が北軍兵士が逃げる様を見るために戦場に到着した。
追撃を奨励したものの、両将軍の軍隊も北軍と同じくらいに乱れきったままであった。
ジョンストンが
ミレッジ・ボーナム准将
ジェイムズ・ロングストリート准将
の旅団を使って北軍の右側面から割り込ませようとしたが、失敗に終わった。
2人の指揮官は互いに罵り合ったが、ボーナムの兵士が北軍殿軍の砲火を浴び、リチャードソンの旅団がセンタービルに向かう道路を塞いでいるのを見て、追撃を中止した。
北部の日記文学者ジョージ・テンプルトン・ストロングは「今日という日はブラック・マンディとして知られるだろう。我が軍は連邦脱退主義者によって完全にみっともなく敗北し、圧倒され、笞打たれた。」と記録している。
北軍の損失は戦死460名、負傷1,124名、捕虜または不明が1,312名となった。
南軍は戦死387名、負傷1,582名、不明13名となった。
南軍の旅団指揮者としては
フランシス・バートウ大佐
が最初の犠牲者になった。
ビー将軍は瀕死の重傷を負い、翌日死んだ。
北軍も北部市民も南軍がワシントン市に進軍してくることを恐れた。
この時点ではそれを阻むことができる勢力はほとんどなかった。
7月24日、ロー教授が熱気球を飛ばしてマナサス中継駅やフェアファックスの辺りにいる南軍を観察した。
南軍が大軍で居る兆候が無いことを確認したが、敵の支配地域内への着陸を余儀なくされた。
ローは一晩掛かって救出され参謀本部に報告できた。
ローの偵察報告は北軍の指揮官達を安堵させるものであった。
ボーリガードはこの戦闘の英雄と見なされ、即日、デイヴィス大統領が南軍の大将に昇進させた。
ストーンウォール・ジャクソンは疑いもなくこの勝利に対する戦術的貢献者であったが、特に表彰はなされなかった。
その活躍は次のバレー方面作戦に持ち越されることになった。
アービン・マクドウェルは北軍敗北に対する非難の矢面に立たされ、間もなくジョージ・マクレランにすげ替えられた。
マクレランは北軍の総司令官にもなった。
マクドウェルはこの13ヶ月後に行われた
第二次ブルランの戦い
でジョン・ポープ少将が南軍の
ロバート・E・リー将軍
に敗れたときも重大な責任があると非難され、パターソンも指揮官から外された。
この戦闘の名前は1861年以来論議が分かれている。
北軍は戦闘の局面の推移に関わった川やクリークの名前を戦闘名にすることが多かった。
対する南軍では近くの町や農園の名前を戦闘名にすることが多かった。
アメリカ合衆国国立公園局は南軍の命名による「マナサス」を採用し、戦場跡をマナサス国立戦場公園とした。
ただ、北軍が命名したブルランは大衆文学などで広く使われている。
この戦闘の時まで両軍の軍旗が似通っており混乱を招いた。
南軍は「星とバー」(Stars and Bars)であり北軍は「星と筋」(Stars and Stripes)であった。
この後、南軍は新しい軍旗(Stainless Banner)を採用し、これが南軍とその後の南部を象徴するものになった。
◯第二次ブルランの戦い(1862年8月28日から8月30日)
第二次ブルランの戦い(Second Battle of Bull Run)南部での呼称は第二次マナサスの戦い(Battle of Second Manassas)は、南北戦争の東部戦線の一部であり、1862年8月28日から8月30日に戦われた。
南軍の将軍ロバート・E・リーの
北バージニア軍
によって、北軍のジョン・ポープ少将のバージニア軍に対抗して遂行された攻撃的作戦の頂点をなすものである。
1861年に同じ場所で戦われた第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い)よりもはるかに大きな規模と戦力で戦われた。
南軍のストーンウォール・ジャクソン少将は広範囲に及ぶ敵の側面に回り込む行軍に続いて、バージニア州マナサスの鉄道結節点にあった北軍の補給庫を占領した。
北軍ポープ将軍のワシントンD.C.との通信線を脅かした。
ジャクソンは北西へ数マイル後退し、ストーニー・リッジで防御的布陣を行った。
1862年8月28日、ジャクソンはグラブトン近くのブローナー農園で北軍の1隊を攻撃したが、引き分けに終わった。
同じ日、ジェイムズ・ロングストリート少将が指揮するリー軍の1翼が
サラフェアギャップの戦い
で北軍の軽い抵抗を突破し、戦場に近付いた。
ポープはジャクソンが罠に嵌ったと確信するようになり、その軍の主力をジャクソンに集中させた。
8月29日、ポープは工事中の鉄道路盤に沿って陣取ったジャクソン軍に繰り返し攻撃を掛けさせた。
この攻撃は両軍に大きな損失を与えたが北軍が撃退された。正午、ロングストリート軍がサラフェアギャップから戦場に到着し、ジャクソン軍の右翼に陣取った。8月30日、ポープは改めて攻撃を掛けさせたが、ロングストリートが戦場に到着したことを知らないようであった。
北軍フィッツ・ジョン・ポーターの第5軍団による攻撃に対して南軍が集中砲火を浴びせて打撃を与えた。
ロングストリートの5師団25,000名からなる右翼が反撃を行った。
これは南北戦争の中でも最大の同時集中攻撃になった。
北軍の左翼が崩壊し、ブルラン川の後方に撤退した。
北軍後詰め部隊の効果的な行動により、第一次マナサスの戦いのような惨事の再現だけは免れた。
それでもポープ軍のセンタービルへ向けた撤退は慌ただしいものだった。
1862年6月の七日間の戦いでジョージ・マクレラン少将の
半島方面作戦
が瓦解した後に、エイブラハム・リンカーン大統領は新しく結成したバージニア軍指揮官に
ジョン・ポープ
を指名した。
ポープは西部戦線で幾らかの成功を収めており、リンカーンはマクレランよりもより攻撃姿勢のある将軍を求めた。
北軍のバージニア軍は総勢51,000名で3軍団に分かれ
フランツ・シーゲル少将の第1軍団(後のポトマック軍第11軍団)
ナサニエル・バンクス少将の第2軍団(後のポトマック軍第12軍団)
および第一次ブルランの戦いで敗北したときの指揮官、
アービン・マクドウェル少将の第3軍団(元ポトマック軍第1軍団、後にポトマック軍に復帰)
だった。
マクレランのポトマック軍から3個軍団(第3軍団、第5軍団および第6軍団)の一部と、アンブローズ・バーンサイド少将の第9軍団(ジェシー・リー・リノ少将が指揮)がこの戦闘に参戦し、結果的に総勢は77,000名となった。
南軍の方では、ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍が総勢55,000名を2つの「翼」あるいは「指揮」に分けられた。
「右翼」はジェイムズ・ロングストリート少将が、「左翼」はストーンウォール・ジャクソン少将が指揮した。
J・E・B・スチュアート少将指揮下の騎兵師団がジャクソンの翼に付けられた。
ポープの任務は幾つかの目的を果たすことだった。
ワシントンとシェナンドー渓谷を守り、ゴードンスビルの方向に動いてマクレラン軍から南軍を引き離す事だった。
七日間の戦いでマクレラン軍と対戦したリーの経験に基づけば、マクレランはもはやバージニア半島にあっても脅威ではないと認識した。
自軍全軍をリッチモンドの守りに就けておく理由は無いと感じていた。
このことで、ジャクソン軍をゴードンスビルに配置してポープ軍を堰き止め、バージニア中央鉄道を守らせることができた。
リーは胸の内に大きな作戦を描いていた。
北軍はマクレラン軍とポープ軍とに分かれており、その位置が大きく隔たっているので、マクレラン軍に注意を戻す前にポープ軍を叩き潰す機会だと捉えた。
A・P・ヒル少将に12,000名の部隊をつけて、ジャクソン軍に合流させた。
8月3日、北軍の総司令官ヘンリー・ハレックはマクレランに半島からの撤退を完了させた。
ポープ軍を支援するために北バージニアに戻るよう指示した。
この指示に対し、マクレランは抗議し、8月14日まで部隊の移動を始めなかった。
8月9日、ナサニエル・バンクスの軍団がシーダー山の戦いでジャクソン軍を攻撃した。
初めは調子が良かったが、A・P・ヒルに率いられた南軍が反撃してバンクス軍をシーダー・クリークの背後まで後退させた。
しかし、ジャクソン軍の前進は北軍の
ジェイムズ・B・リケッツ准将
の師団によって遮られた。
この時までにジャクソンはポークの各軍団が集結しており、個別撃破しようという作戦を難しくしたことを知った。
ジャクソンは8月12日までその陣地に留まり、その後ゴードンスビルまで後退した。
8月13日、リーはロングストリート軍をジャクソンの補強に派遣した。
8月22日から25日まで、両軍はラッパハノック川沿いで小さな戦闘を繰り返した。
激しい雨で川水は脹れ上がり、リーは自軍に川を越させることができなかった。
この時までに半島からポトマック軍からの増援が到着しつつあった。
リーは北軍がこれらの追加軍を得て南軍を勢力的に上回った事態に直面した。
その新しい作戦はジャクソンとスチュアートに全軍の半分の兵力を付けて、ポープの通信線であるオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道を切断するために回り込みを行わせることだった。
ポープ軍は撤退を強いられ、動いて脆弱になった時に打ち破られるはずだった。
ジャクソンは8月25日に出発し、その夜にセイラム(現在ではマーシャル)に到着した。
8月26日の夕刻、ジャクソンの翼はサラフェアギャップを経由してポープ軍の右翼に回り込んだ後で、ブリストーでオレンジ・アレクサンドリア鉄道を攻撃した。
8月27日の夜明け前にマナサス鉄道結節点にあった北軍の大規模補給庫を占領し破壊した。
この急襲で、ポープはラッパハノック川沿いの防御的戦列から急速な後退を強いられた。
8月27日から28日に掛けての夜の間、ジャクソンはその各師団を北にある第一次ブルランの戦場まで行軍させ、ストーニー・リッジ下にある未完成の鉄道路盤の背後に陣を構えた。
この防御陣は良いものであった。深い森が南軍の部隊を隠し、南に数百ヤードに過ぎない北軍の行軍路と想定されるウォーレントン・ターンパイクは良く見通すことができた。
ロングストリート軍がジャクソン軍に加わるとしても良い進入路があり、このことはもし時間通りに援軍が得られない場合でも、ブルラン山に向かってジャクソン軍が後退することも可能にしていた。
また未完成の鉄道路盤は凸凹があって、誂えの塹壕の役目を果たせた。
8月28日のサラフェアギャップの戦いでは、ロングストリートの翼が北軍のわずかな抵抗を突破し、渓谷を通ってジャクソン軍に合流した。
この一見些細に見える行動で、リー軍の2つの翼がマナサスの戦場で合流できたので、来るべき戦いでポープ軍が敗れることを事実上確実にした。
8月28日、ジョン・ブローナー家の農園近くでジャクソン軍が監視している中を北軍の縦隊がウォーレントン・ターンパイクに沿って動いたときに第二次ブルランの戦いが始まった。
この部隊はルーファス・キング准将の師団に属する部隊だった。
ジョン・P・ハッチ、ジョン・ギボン、アブナー・ダブルデイおよびマーセナ・R・パトリック各准将の旅団がセンタービルにいるポープ軍の残りに集結するために東方へ移動していた。
キングはその日早くに重いてんかん性の発作を起こしていたので、自分の師団には同行していなかった。
ジャクソンは、ロングストリート軍が合流するために進行中であることを知らされていたので安心して、北軍に自分自身の姿を見させるようにしたが、その存在は無視された。
ポープが軍をブルラン川の背後に退いてマクレランの到着しつつある軍隊と合流するのではないかと心配し、攻撃を始めることを決断した。
樹木が並ぶ前線の背後に戻ってから部下に、「兵士達を表に出せ、紳士諸君」と伝えた。
午後6時半頃、南軍の大砲が前面にいる敵部隊、
ジョン・ギボン
の黒帽子旅団(後に鉄の旅団と名付けられた)に向かって砲撃を開始した。
元は砲兵であったギボンは、第4アメリカ砲兵隊B大隊からの応射で応えた。
砲撃の開始でキングの縦隊が止まった。
ハッチの旅団はその場所を通り過ぎており、後方にいたパトリックの旅団は隠れ場所を求めた。
ギボンとダブルデイの旅団だけがジャクソンの攻撃に応じた。
ギボンは、(ポープの情報に拠れば)ジャクソンはセンタービルにいると想像されていたので、この砲撃を単に
J・E・B・スチュアート
の騎馬砲兵隊の大砲からのものだと思っていた。
ダブルデイと協議した後で、第2ウィスコンシン歩兵連隊の古参兵を丘の上に送って、うるさい大砲を蹴散らさせることを提案した。
左翼にいた我々の部隊は狂人のエネルギーと真に驚嘆すべき死を顧みない無謀さで弾を詰め発砲したが、人間の性質としてそのような恐ろしく浪費的な砲火をいつまでも辛抱していることができなかった。
前線における大きな隙間を文字通り刈り取っていったが、孤立した部隊が共に集まり、まさに死に向かって飛び込んでいった。
エドガー・オコーナー大佐の指揮する第2ウィスコンシン歩兵連隊はブローナーの森を抜けて前進した。
430名の部隊が農家の南東の空き地に到着したとき、南軍でも最も名高い部隊である
ウィリアム・S・ベイラー大佐
が指揮するストーンウォール旅団に遭遇した。
この時は多くの戦いで消耗し800名に過ぎなかった。
150ヤード (140 m)の距離を置いて、ウィスコンシン連隊はこのバージニア人に破壊的一斉射撃を行った。
南軍は両軍の距離が80ヤード (73 m)まで接近したときに反撃した。
両軍に応援が追加され、互いを至近距離に置きながら、ほとんど遮るものもないままに、2時間以上も一斉射撃を交わし続けた。
ジャクソンはこの戦闘を「激しくて血に飢えた」と表現した。
ギボンは第19インディアナ連隊を追加した。
ジャクソンは、師団指揮官のリチャード・イーウェル少将に命令を出す代わりに、直接その連隊に指示を出しており、アレクサンダー・R・ロートン准将の旅団に属する3個ジョージア連隊を投入した。
ギボンはこの攻勢に第7ウィスコンシン歩兵連隊を投入して対抗した。
ジャクソンは、アイザック・R・トリンブル准将の旅団にロートン旅団を支えるように命じた。
これがギボンの最後の連隊である第6ウィスコンシン歩兵連隊に対応した。
トリンブル旅団が投入された後は、ギボンの部隊が甚だしい劣勢になり、ダブルデイに援軍を要請した。
ダブルデイは第56ペンシルベニア連隊と第76ニューヨーク連隊を送って、第6と第7ウィスコンシン連隊の間の隙間を埋めた。
これらの部隊は暗くなってから戦場に到着しており、トリンブルもロートンも連携が取れないままに攻撃を始めていた。
ジョン・ペルハム大尉が指揮する騎兵砲兵隊がジャクソンに前進を命じられ、100ヤード (91 m)も無い距離から第19インディアナ連隊を砲撃した。
戦いは午後9時頃に終了し、ギボンとダブルデイは連絡が取れないままに、整然とターンパイクまで後退した。
南軍も疲れ果てており追撃できなかった。
この戦闘は実質的に引き分けだったが、損失は大きく、北軍は1,150名、南軍は1,250名となった。
第2ウィスコンシン連隊は参加した430名のうち276名を失った。
ストーンウォール旅団は800名の内340名を失った。
ジョージアの2個連隊、トリンブルの第21連隊とロートンの第26連隊は、それぞれその70%以上を失った。
全体では、戦闘に参加した3人に1人が撃たれた。
南軍のウィリアム・B・タリアフェーロ准将は、「この戦闘には操軍は無く、戦術もほとんど無かった。
忍耐の問題であり、両軍共に耐えた。」と書き記した。
タリアフェーロやイーウェルは負傷し、イーウェルの右足は切断された。
数呼吸の間に我々の全戦列が敵との激しくて血に飢えた戦闘に突入した。
1つの戦列が撃退されるともう1つがそれに取って代わり、多数を恃んで決められているかのように前進した。
戦闘の激しさで我々の陣地から駆り出された。
ジャクソンは勢力的に勝っていた(南軍6,200名に対しギボンの部隊は2,100名)にも拘わらず、決定的な勝利を得られなかった。
これは、暗闇と、部隊をバラバラに投入したこと、および中心になる2人の将軍が負傷したことによっていた。
しかし、ジョン・ポープの気を引くという戦略的な目論見は果たせた。
ポープは、ブローナー農園の戦闘はジャクソンがセンタービルから退こうとしているときに起こったと、誤った解釈をした。
ポープはジャクソンを「追い詰めた」と思っており、ロングストリートの援軍が到着する前にジャクソンを捕まえてしまいたかった。
その夜。ポープがフィリップ・カーニー少将に送った伝言には、「マクドウェル将軍が敵の後退を遮り、今はその前面にいる。...彼が今夜北へ行くことのできる間道に逃れられなければ、きっと捕まるに違いない。」と書かれていた。
ポープは部下に対して、ジャクソンを取り囲み明朝攻撃せよという命令を出した。
ただ、幾つかの誤りを犯していた。
マクドウェルとシーゲルはブルラン山に向かうジャクソンの退路を塞いでいると思っていた。
しかし、この両隊の大半はマナサス・サドリー道路に沿ってジャクソンの南東にいた。
ジャクソンが撤退しようとしているという思いこみは完全に間違っていた。
ジャクソンは絶好の防衛陣地におり、ロングストリートの到着を待って、ポープ軍を攻撃しようとしていた。
ロングストリート軍の動きに関する情報は入っていたが、ポープは不可解にもその到着が戦闘に与える効果を計算に入れていなかった。
ジャクソンはロングストリートが北バージニア軍の残りを連れて到着するまでポープ軍を引き付けておくために、ブローナー農園で戦闘を始めた。
ロングストリート軍25,000名は8月29日の午前6時にサラフェアギャップからの行軍を開始した。
ジャクソンはスチュアートを派遣して、ロングストリート軍の最初の部隊を誘導した。
ジャクソンが予め選んでおいた陣地に就かせるようにした。
ジャクソンは到着を待つ間に、ポープ軍がその朝に攻撃してきた場合の防御陣を再配置させた。
ストーニーリッジの南に3,000ヤード (2,700 m)の長さにわたって20,000名の配置を終えた。
北軍シーゲルの第1軍団がマナサス・サドリー道路に沿って展開しているのに気付き、A・P・ヒルの旅団には左翼のサドリー教会近くの鉄道路盤の背後に就くように命じた。
ヒルはその陣地が地形的に弱い(深い森のために大砲の効果的な配置が難しかった)ことに気付いた。
所属する旅団、マクしー・グレッグ准将のサウスカロライナ旅団とエドワード・L・トーマス准将のジョージア旅団を前に2列に配置した。
ジャクソンはその戦列の中央で、イーウェル師団の2個旅団(イーウェルが足を切断したので、アレクサンダー・ロートン准将が指揮を執っていた)を置き、右翼にはウィリアム・B・タリアフェーロ准将、そのときはウィリアム・E・スターク准将の指揮する師団を置いた。
ポープの作戦はジャクソン軍の両翼に対して動くことだった。
フィッツ・ジョン・ポーターにはゲインズビルに向かって動き、南軍の右翼と考えられるものに攻撃する司令を出した。
シーゲルには夜明けと共にジャクソンの左翼を攻めるように命令した。
シーゲルは、ジャクソンが再配置したことを知らず、
ロバート・C・シェンク
の師団を広く展開させて前進させた。
ジョン・F・レイノルズ准将の師団(ハインツェルマンの第3軍団)を左翼に、ロバート・H・ミルロイ准将の独立旅団を中央に、カール・シュルツ准将の師団を右翼に配置して支援させた。
シュルツの2個旅団がマナサス・サドリー道路を北へ動き、午前7時頃に初めてジャクソンの部隊に遭遇した。
シーゲルのA・P・ヒル師団に対する攻撃はその日のストーニーリッジ近くでの全ての戦闘に共通するやり方で行われた。
未完成の鉄道路盤は幾つかの場所で自然の防御陣地になっていた。
ただ、概して南軍は固定的な防御は避け、北軍の攻撃を吸収しては続いて活発な反撃を行った。
これはジャクソンが数週間後の
アンティータムの戦い
で採った戦術と同じだった。
シュルツの
アレクサンダー・シンメルフェニング准将
ヴラジミエシュ・クルチザノーフスキー大佐
の指揮による2個旅団がグレッグとトーマスの部隊と激しく衝突した。
両軍共にバラバラな戦い方となった。
ミルロイが自隊の右手で起こった戦闘の音を聞き、その2個連隊にシュルツ軍の支援を行うよう命じた。
彼らは幾らかは成功し、第82オハイオ連隊がダンプと呼ばれる窪地で南軍の前線を突破したが、結局は撃退された。
シェンクとレイノルズは激しい砲火を浴びて、大砲で反撃したが、歩兵は前に進めなかった。
シュルツは第3軍団カーニーの師団が自隊の支援準備をしていると考え、午前10時頃に再度ヒル軍への攻撃を命じた。
しかし、カーニーの部隊は前進せず、2回目の攻撃は失敗した。
歴史家達はカーニーのこの日の行動を責めて、カーニーがシーゲルに対して抱いていた個人的な悪意の性としている。
午後1時までに、シーゲルの部隊は
ジョセフ・フッカー少将
の師団(第3軍団)と
アイザック・スティーブンス准将
の旅団(第9軍団)の増援を受けた。
ポープも戦場に到着しその勝利の最高の場を見られるものと期待していた。
なお、この時までにロングストリートの最初の部隊がジャクソンの右翼に配置された。
ジョン・ベル・フッド准将の師団がターンパイクを跨いでジャクソンの右翼に大まかに連接することになった。
フッド隊の右には
ジェイムズ・L・ケンパー准将
デイビッド・R・"ニーバー"・ジョーンズ准将
の各師団が就いた。
カドマス・M・ウィルコックス准将の師団が最後に到着し、予備隊とされた。
スチュアートの騎兵隊はマナサス・ゲインズビル道路を移動中のポーター、ハッチおよびマクドウェルの部隊と遭遇した。
短時間の銃撃戦で北軍の動きを止めた。
このとき、ポーターとマクドウェルに伝言を持った伝令が到着し、「連合命令」と呼ばれることになるポープからの議論の多い命令書を渡した。
歴史家の
ジョン・J・ヘネシー
は、この命令を「何十年もの論争の焦点となった矛盾と錯乱の傑作」と表現した。
それには既に進行中だったジャクソン軍左翼への攻撃が書かれていた。
ただ、ポーターとマクドウェルが何をすべきかが不明だった。
この命令書の何処にも、ポープはポーターとマクドウェルに明白に攻撃を指示していないし、さらに「この命令から逸脱することで、もしかなりの利点が得られるならば、厳密に従わなくともよい」という言葉で締め括られており、軍事命令としては事実上使いようの無いものになっていた。
一方、スチュアートの配下で
トマス・ロッサー大佐
の騎兵隊が、木の枝を1個連隊の馬で引き摺ることで、大部隊の兵士が行軍中に挙げる砂塵に似せ、北軍の将軍達を欺いた。
この時、マクドウェルは騎兵隊指揮官
ジョン・ビュフォード准将
から報告書を受け取っており、17個歩兵連隊、1個砲兵大隊および500騎の騎兵が、午前8時15分にゲインズビルを通過したというものだった。
これはサラフェアギャップから移動するロングストリートの部隊であり、2人の北軍将軍にこの先困難さが待ち受けていると警告した。
北軍の前進が再び止まった。
何らかの理由でマクドウェルはこの報告書をポープに回送することを怠った。
そのため、ポープに渡ったのは午後7時頃となって、総軍指揮官は2つの甚だしく誤った認識の下に動いていた。
つまりロングストリートは戦場から離れたところにおり、ポーターとマクドウェルはジャクソンの右翼攻撃に向かっているという認識だった。
ロングストリートの部隊が最終配置に就くと、リー将軍は北軍左翼に対する攻勢を命じた。
ロングストリートは後に、リーが実行できればできるだけ速やかに戦わせたいと考えていたが命令はしなかったことを思い出した。
しかし、ロングストリートは北軍レイノルズとシェンクの師団が自軍の前線の半分を包み込むようにウォーレントン・ターンパイクの南に拡がっているのを目にして、この時攻撃を掛けることに反対を表明した。
リーは、J・E・B・スチュアートがゲインズビル・マナサス道路の部隊は(ポーターとマクドウェル軍)は手強いと報告した時に、最終的に折れた。
ポープは、彼が命令したと思っていた通りにジャクソン軍右翼に対する攻撃が進んでいると思っており、ポーターが最後の痛撃を与えるまで南軍の注意をそらせる意図で、ジャクソン軍正面に4度の別々の攻撃を承認した。
キュビエ・グロバー准将の旅団がカーニー師団の支援があることを期待しながら、午後3時ころに攻撃した。
グロバーは幸運にもトーマスとグレッグの部隊の間に開いた隙間を偶然に衝くことができた。
その猛烈な銃剣攻撃は一時的に成功した。
ただ、カーニーは今回も命令されたように前進せず、ポープは主攻撃を支援する意図が無かった。
ドーシー・ペンダー准将の旅団が痛撃を加えて撃退した。
レイノルズはターンパイクの南で妨害攻撃を行うよう命令されていた。
ロングストリート部隊に出逢い、その示威行動を中止することになった。
ポープはレイノルズの心配を誤った認識として片付け、ジャクソン軍の側面攻撃に備えていたポーターの第5軍団に分け入っただけだと主張した。
ジェシー・レノは第9軍団の
ジェイムズ・ネイグル大佐
の旅団に、再度ジャクソン軍前線の中央を攻撃するよう命じた。
このときは、アイザック・R・トリンブルの旅団が鉄道の盛り土から後退させられた。
ただ、南軍の反撃で前線を回復し、さらに北軍の砲兵隊がその前進を止めるまでネイグルの部隊を開けた戦場まで押し返した。
午後4時半、ポープは最終的にポーターに明白な攻撃命令を送った。
しかし、ポープの副官(かつその甥)は道を誤り、午後6時半まで伝言を届けられなかった。
いずれにしても、ポーターはその時、その日早くに居た場所よりも攻撃に適した位置にはいなかった。
ポープは襲ってくることのない攻撃を予測して、カーニーにジャクソン軍の最左翼を攻撃するよう命じ、前線の両端に強い圧力を掛けようとした。
午後5時、この戦闘では初めて、カーニーの激しい攻撃的性格が現実に出てきて、10個連隊を使って押し寄せ、A・P・ヒルの消耗した師団を襲った。
この日の最も激しい戦闘の中で、ローレンス・オブライアン・ブランチとジュバル・アーリー各准将の旅団による反撃で、北軍の前進は撃退された。
南軍の右翼では、ロングストリートがその前線から距離を置いたマクドウェル軍の動きを観察していた。
第1軍団はレイノルズを支援するためにヘンリー・ハウス・ヒルに師団を師団を動かした。
この報告を受けたリーはその地域で攻勢に出る作戦を復活させた。
ロングストリートは再度その作戦に反対を表明したが、このときは薄暮前の不適切な時間帯が理由だった。
ロングストリートはその代わりに、敵軍の配置を探り、翌朝の攻撃に備えるために、威力偵察を提案した。
リーは同意し、フッドの師団を前に押し出させた。
これと同時に、ポープは、この時も南軍が退却しているという思いこみに囚われており、ジョン・P・ハッチの師団をターンパイクの西方に送って追求させた。
フッド隊とハッチ隊はグラブトンの交差点で短時間衝突したが、短くも激しい対決は暗闇と共に終わり、両軍とも引き返した。
ロングストリートとその部下達は再度リーに対して、強固な防御陣を布いていると考えられる敵軍に攻撃を仕掛けるべきではないと主張した。
リーはその攻撃作戦を撤回したが、撤回はこれで3度目となった。
ポープがマクドウェルからビュフォードの報告について知らされたとき、やっとロングストリート軍が戦場にいることを認識した。
南軍全体が撤退するときにロングストリート軍はジャクソン軍を支援するためにそこにいる、という楽観的な思いこみをしていた。
実際にフッドの師団は後退した。
ポープはポーターの第5軍団に本隊との合流を命じ、8月30日の攻撃について作戦を練った。
歴史家のA・ウィルソン・グリーンはこのポープの判断がこの戦闘の中でも最悪のものだとした。
このとき北軍は南軍にたいして勢力的優位に立っておらず、地形的な利点も無かった。
最も分別のあるやり方はブルラン川の後方まで退いて、近くにいた25,000名を擁するマクレランのポトマック軍と合流することだった。
この戦闘に関する歴史家の間の議論の一つは、ジョージ・マクレランのポープとの連携に関するものである。
8月遅くに、ポトマック軍の2個軍団(ウィリアム・B・フランクリンの第6軍団とエドウィン・V・サムナーの第2軍団)がアレクサンドリアに到着していたが、マクレランは砲兵、騎兵および輸送支援部隊が不適切と考えた。
このために、マナサスへの進軍を認めなかった。
マクレランは、ポープの立場を弱らせようと図ったとして政敵に非難された。
8月10日にその妻に宛てた手紙の中で「ポープは2日のうちにひどく打ちのめされるだろう。...彼らはその窮状の救済を私に押しつけて喜ぶことだろう。私は全軍の支配を与えられなければ、それを引き受けない」と書いた時、歴史におけるその立場をあやうくした。
マクレランは8月29日にエイブラハム・リンカーンに対して、「ポープをその窮地から出してやって、あらゆる手段を尽くして首都の完全な安全を守ること」が賢明だろうと伝えた。
ロングストリート軍の最後の部隊であるリチャード・H・アンダーソン少将の師団が、17マイル (27 km)を行軍して、8月30日午前3時に戦場に到着した。
彼らは疲れており地域に不案内だったのでグラブトンの東の尾根で停止した。
夜明けにその場所が孤立しており、敵軍とも近すぎることを認識して、後退した。
ポープの南軍は撤退しつつあるという考えは、前夜のフッド隊の後退に続いて起こったこの動きで補強された。
午前8時、ポープ本部の作戦会議で、ポープの部下達はその指揮官に慎重に行動するよう説得を試みた。
午前10時頃にストーニーリッジの南軍前線を探ると、ジャクソン軍は依然として強固な防御陣を布いていることが分かった。
ジョン・F・レイノルズはターンパイクの南の南軍勢力は大きいと報告した。フィッツ・ジョン・ポーターは同じような情報を持ってその後に到着した。しかし、ハインツェルマンとマクドウェルはそれぞれの偵察を行った。
ジャクソン軍の防御戦を見出すことが出来なかったので、ポープは最終的に撤退しつつある南軍に攻撃を掛ける決断をした。
正午少し過ぎに、ポープはポーターの第5軍団に、ハッチとレイノルズによる支援を付けて、ターンパイクに沿って西に進軍する命令を発した。
これと同時に、リケッツ、カーニーおよびフッカーは北軍の右翼を前進した。
この2つの動きが撤退しつつある南軍を潰すだろうというものだった。
しかし、南軍は撤退してはおらず、実際には攻撃を待っていた。
リーは依然としてロングストリート軍による反撃の機会を待っていた。
ポープがこの日に攻撃してくるかどうか確信を抱いていなかったが、スティーブン・D・リー大佐の大砲18門をブローナー農園北東の高台に据えさせた。
そこはジャクソン軍陣地の前の開けた戦場への砲撃に適した場所だった。
ポーターの軍団は実際にはターンパイクを西に進める位置ではなく、グラブトン近くのターンパイク北の森にいた。
その前面にあるジャクソン軍に対する攻撃のために、10,000名の部隊を配列するには約2時間を要した。
目標は、そのときウィリアム・E・スターク准将が指揮するジャクソンの古い師団だった。
北軍の攻撃を先導する師団はジョージ・W・モレル少将に代わったダニエル・バターフィールド准将に指揮され、ヘンリー・ウィークス大佐の旅団が左翼に、チャールズ・W・ロバーツ大佐の旅団が中央に置かれた。
ハッチの師団が軍団の右翼に就いた。ジョージ・サイクス准将指揮下の正規兵2個旅団は予備隊とされた。
北軍は大変な任務に直面していた。
バターフィールドの師団は、未亡人
ルシンダ・ドーガン
が所有する600ヤード (550 m)の開けた牧草地を横切らねばならず、最後の150ヤード (140 m)は険しい上り坂であった。
また、未完成の鉄道の陰の強固な陣地を攻撃しなければならなかった。
ハッチの師団は300ヤード (270 m)だけだったが、南軍を正面から叩くためには銃火の中を複雑な右回りの行軍を行う必要があった。
かれらはスティーブン・D・リーの砲兵隊から来る破壊的な砲火を浴びた。
続いて前線に並ぶ歩兵からの容赦のない一斉射撃を浴びた。
それでも南軍の前線を突破し、第48バージニア歩兵連隊を崩壊させた。
ストーンウォール旅団が前線を保つために突入し、その指揮官
ベイラー大佐
を含む大きな損失を出した。
この戦闘の中で疑いもなく最も有名な出来事となったものは、
ブラドリー・T・ジョンソン大佐
レロイ・オーガスタス・スタフォード大佐
の旅団が激しく発砲したので、弾を使い果たし、大きな岩を第24ニューヨーク連隊に投げつける手段に訴えて損傷を与え、驚いたニューヨーク兵達はそれを投げ返した。
ジャクソン軍の疲れ切った防御陣を支援するため、ロングストリートの砲兵隊が戦闘に分け入ろうとした北軍増援隊に砲弾を浴びせ、部隊をバラバラにした。
ポーター軍は相当数の損失を受けていたが、サイクスの予備師団の投入を行わず、その攻撃を止めた。
実質的に先導役をしていた旅団が支援もないままに脱出するに任せた。
この撤退はさらに損失を生む行動になった。
スタークの旅団の南軍兵は喜んで追撃に掛かったが、グラブトン・サドリー道路に控えていた北軍予備隊に撃退された。
結局ジャクソン軍は消耗が激しく反撃できず、ポーター軍はターンパイクの北で立ち直る場を得た。
しかし、ポーター軍の状態を心配したアービン・マクドウェルはレイノルズの師団にチンリッジの持ち場を離れポーターの支援に回るよう命じた。
この判断はこの日の最悪の戦術的決断だったと言っても良い。
ターンパイクの南にいたわずか2,200名の北軍兵がその10倍の南軍と向き合うことになった。
リーとロングストリートは、このときこそ長い間待っていた攻撃の機会ということで合意した。
目標を第一次ブルランの戦いで重要な地点となったヘンリー・ハウス・ヒルに定めた。
ここを占領できれば北軍の撤退路となる可能性がある所を支配できた。
ロングストリート軍5師団25,000名は、北のブローナー農園から南のマナサスギャップ鉄道まで1.5マイル (2.4 km)近くにわたって伸びていた。
目標の丘に到達するために、1.5ないし2マイル(2.4ないし3.2 km)の距離を、尾根、小川や深い森を抜けて進む必要があった。
ロングストリートはこの地形に拡がる戦列をうまく連携を取らせながら進ませることは出来ないと分かっていた。
その師団指揮官達の指導力と独創性に任せることにせざるを得なかった。
先導する師団は左翼のターンパイク近くに
ジョン・ベル・フッド
のテキサス部隊が
ネイサン・ジョージ・エバンス准将
のサウスカロライナ部隊に支援されて進んだ。
フッドの右手にはケンパーとジョーンズの師団が進んだ。
アンダーソンの師団は予備隊とされた。攻撃の直前に、リーはジャクソンに
「ロングストリート将軍が前進している。その左翼に気を付け守ってくれ」
という内容で信号を送った。
ターンパイク南の北軍守備隊はわずか2個旅団しかおらず、ナサニエル・マクリーン大佐(シーゲルの第1軍団シェンクの師団)とガバヌーア・ウォーレン大佐(ポーターの第5軍団サイクスの師団)が指揮していた
。マクリーンがチンリッジを守り、ウォーレンは約800ヤード (730 m)西のグラブトン近くにいた。
南軍のフッド隊は午後4時頃に攻撃を始め、たちまちウォーレンの2個連隊、第5ニューヨーク連隊(デュリーのズアーブ)と第10ニューヨーク連隊(ナショナル・ズアーブ)を圧倒した。
接触から10分間で第5ニューヨーク連隊500名のうちほぼ300名が撃たれた。
そのうち120名は瀕死の重傷だった。
これは南北戦争全体でも単一の戦闘で歩兵連隊の受けた最大の戦死数となった。
ポープとマクドウェルは事態の危険性を認識し、その部隊にヘンリー・ハウス・ヒルの占領を命令した。
それが起こるまでに、マクリーンの旅団が南軍猛攻の唯一の標的にされた。
合計1,200名のオハイオの4個連隊はチンリッジに西面して戦列を布いており、1個砲兵大隊が支援して、まずフッド隊、続いてシャンクス・エバンスの旅団(ケンパー師団)による2回の攻撃を撃退した。
モンゴメリー・D・コース大佐の旅団(やはりケンパー師団)による3度目の攻撃が成功した。
マクリーンの部隊兵は尾根の南の端から近付いてくる部隊を友軍と誤り、発砲を控えていた。
その誤りに気付いたときに、至近距離での激しい銃火が10分間交わされた。
なお、ルイジアナ砲兵大隊から砲撃が加わって北軍の戦列を崩壊させた。
オハイオ旅団の損失率は33%にもなったが、これでポープが増援を送るための30分間を稼いだ。
最初に到着した北軍の2個旅団は
リケット師団
からのものであり、
ジーラス・B・タワー准将
ロバート・スタイルズ大佐
が指揮していた。
タワーの旅団は3方から攻撃されて崩壊した。
その砲兵大隊が捕獲され、タワーも重傷を負った。
タワーに続いたスタイルズの旅団はケンパー師団から新たに到着した、マイカ・ジェンキンス准将とエッパ・ハントン大佐の指揮する2個旅団の餌食になった。
この激しい戦闘の間に、第12マサチューセッツ連隊の指揮官フレッチャー・ウェブスター大佐(政治家ダニエル・ウェブスターの息子)が致命傷を負った。
シーゲルの第1軍団からジョン・コルテス大佐とヴラジミエシュ・クルチザノーフスキー大佐が指揮する2個旅団がさらに投入された。
なお、その前の部隊と比べても甚だしい成功は得られなかった。
南軍ジョーンズ師団の先導隊、ジョージ・T・アンダーソン大佐とヘンリー・L・ベニング大佐の旅団は、午後6時までにチンリッジにおける北軍の抵抗を追い払ってしまった。
しかし、南軍は攻撃に成功しても、兵士においても時間の面でも大きな損失があった。
ヘンリー・ハウス・ヒルまではまだ数百ヤード向こうにあり、日没まで1時間ぐらいの余裕しかなかった。
R・H・アンダーソンは、チンリッジでの3時間の戦闘で最も重要な利点を活かすことが出来ず、ヘンリー・ヒルは固まった。
それができなかったために、南軍のポープ軍を破壊する最後の機会が日の光とともに凋んだ。
南軍の攻撃から最初の2時間、ポープはヘンリー・ハウス・ヒルの防御に4個旅団を配置できた。
2個旅団はレイノルズの師団から、1個はサイクスの師団から、最後の1個はロバート・H・ミルロイの独立旅団だった。
リーはその攻撃を完遂させるためには戦闘力の追加が必要であることを認識し、予備隊としていたリチャード・アンダーソンの師団の動員を命じた。
この部隊が移動している間に、D・R・ジョーンズがベニングとG・T・アンダーソンの旅団と共に丘への攻撃を始めた。
この部隊は3,000名となり、この日の午後で最大の集中攻撃となった。
ただ、部隊間の連携が取れず、北軍の4個旅団がその陣地を守った。
アンダーソンの師団から新たにウィリアム・マホーン准将とアンブローズ・R・ライト准将の2個旅団が到着して再度圧力が掛けられた。
サイクスの師団からの正規兵は戦列の端にいて自然の防御効果が無く、ヘンリー・ハウスの方向に撃退された。
不可解なことにアンダーソンは自分の明けた穴に付け込むことを止めたが、おそらくこれは闇が深くなったためだった。
ヘンリー・ハウス・ヒルは北軍が確保したままとなった。
ジャクソンは、リーからの比較的曖昧な命令でロングストリート軍を支援しており、午後6時にターンパイクの北に攻撃を掛けた。
このタイミングは恐らくその疲れ切った部隊が集まり次第直ぐにという形だった。
歴史家のジョン・J・ヘネシーはジャクソンの遅れを「戦いの大きな謎の一つ」であり、戦いの「南軍による最も重大な誤りの一つ」と述べている。
また、ジャクソンの進軍の価値を下げたと続けた。
その攻撃は、ポープがヘンリー・ハウス・ヒル防衛の支援のためにターンパイク北の部隊の後退を命じたときと一致し、南軍はその激しい攻撃で多くの大砲と歩兵部隊を制圧することができた。
しかし、午後7時までにポープ軍はヘンリー・ハウス・ヒルの部隊とを繋ぐ強固な防御戦を作り上げた。
午後8時、全軍にセンタービルに通じるターンパイクでの撤退を命じた。
第一次ブルランの戦いの時の悲惨な退却とは異なり、北軍の移動は静穏に秩序立って行われた。
南軍は戦闘に疲れ、弾薬も尽きかけていたので、暗闇の中を追跡まではしなかった。
リーは大きな勝利を得たが、ポープ軍を潰すという目標は果たせなかった。
第二次ブルランの戦いに参加した北軍の損失は、62,000名のうち10.000名が戦死又は負傷となった。
南軍50,000名の内、約1,300名が戦死、7,000名が負傷した。
北軍はセンタービルに集合したが、リーは次の作戦を立てた。
ポープ軍とワシントンの間にその軍を割り込ませるためにジャクソン軍をもう一度回り込ませる動きをさせた。
ポープはこの動きに反応し、両軍は9月1日に
シャンティリーの戦い(オックスヒルの戦いとも言われる)
で最後の決戦をした。
リーはその後すぐ北バージニア軍の先導隊がポトマック川を越えた9月3日に次の作戦を始めた。
メリーランド方面作戦にあたったポトマック軍との運命の戦い「アンティータムの戦い」に向かうことになった。
ポープは1862年9月12日に指揮官職を解任された。
その軍隊はポトマック軍に合流されて、マクレランの指揮でメリーランドに進んだ。
ポープは戦争の残り期間、ミネソタ州の北西部方面軍で過ごし、
ダコタ戦争
に対処した。
ポープはその敗北の責を負わせるスケープゴートを探した。
1862年11月25日、フィッツ・ジョン・ポーターが逮捕された。
8月29日の行動で軍法会議に掛けられた。ポーターは
命令不服従と不正行為の廉
で1863年1月10日に有罪を宣告され、1月21日に軍隊から除籍された。
ポーターは残りの人生をこの宣告に対する戦いで過ごした。
1878年、ジョン・M・スコフィールド将軍の下での特別委員会は、ポーターがロングストリート軍に対する攻撃を躊躇ったことでおそらくポープのバージニア軍をさらに大きな敗北から救ったとして、ポープの容疑を晴らした。
8年後、チェスター・A・アーサー大統領はポーターに対する判決を撤回した。
ロングストリートは戦闘中の功績について批判され、戦後の「南部の失われた大義」の主張者は彼の鈍さ、攻撃の躊躇い、および8月29日にリー将軍に従わなかったことが、1863年7月2日の
ゲティスバーグの戦い
で出てきた議論を呼ぶ行動の前触れだったと主張した。
リーの伝記作者ダグラス・サウソール・フリーマンは「ゲティスバーグの多くの悲劇の種はこの瞬間に撒かれた。
リーがロングストリートに屈し、ロングストリートがそうできることを発見した瞬間である。」と書いた。