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2026年07月17日

スタンプス・スカラーシップ(Stamps Scholarship)学業・能力重視型(メリットベース)の学部奨学金制度

スタンプス・スカラーシップ(Stamps Scholarship)は、卓越した学生に
   並外れた教育体験の機会
を提供することを目的として、2006年に
   E・ロー・スタンプス(E. Roe Stamps)氏
   故ペニー(Penny)夫人
によって設立された、学業・能力重視型(メリットベース)の
   学部奨学金制度
である。
 全米(および英国)の提携大学において、
   奨学生(スカラー)
は年間5,400ドルから75,000ドルの給付を受ける。
 4年間の総額は平均21,600ドル〜300,000ドルとなる。
 さらに、夏季体験プログラム、海外渡航・留学、研究活動、リーダーシップ・プログラム、学会・会議への参加、インターンシップといった自己研鑽や活動を充実させるための追加資金も提供される。
 また、2年ごとに開催される全国大会への参加や、オンラインでの交流(ネットワーキング)の機会など、数多くの付加的な特典も用意されている。
 スタンプス・スカラーシップは、2006年にロー・スタンプス氏とペニー・スタンプス氏によって設立された。
 当初は、二人の母校であるミシガン大学とジョージア工科大学の学生を対象に奨学金が授与された。
 その後、2009年にはマイアミ大学が、2010年にはバリー大学、カリフォルニア工科大学、フロリダ大学、イリノイ大学、バージニア大学が対象校に加わり、プログラムは拡大した。
 現在では全米36の大学にまで広がり、これまでに2,600名以上の学生がスタンプス・スカラーに選ばれている。
 2021年には、256名の学生がスタンプス・スカラーシップを授与された。
 スタンプス・スカラーシップは通常、4年間の学費、必須諸費用、および居住・食費をカバーしている。
 また、奨学生は留学、インターンシップ、研究活動などに充てることができる「エンリッチメント・ファンド(活動充実資金)」も受け取る。
 スタンプス・スカラー・プログラムは、奨学生同士の連携や交流を促進するため、2年ごとに全国大会を主催している。
 この大会では、講演を聴いたり、多様なトピックについて議論したり、開催地の文化に触れたりする機会が提供される。
 また、奨学生自身によるパフォーマンスが披露されるタレントショーへの参加や観覧も行われる。
 スタンプス・スカラーシップの大きな利点の一つは、互いにつながることを望む奨学生や卒業生からなる全米規模のネットワークに参加できることである。
 奨学生は、検索可能なオンライン・ディレクトリへの登録を選択でき、自身のキャリアへの関心や情報を掲載することで、志を同じくする他のメンバーとつながることができる。
 また、キャリアの機会を広げるために、LinkedInやFacebook上の非公開グループへのアクセスも提供されている。
 スタンプス奨学金(Stamps Scholarship)は完全に
   能力・実績重視(メリットベース)
であり、
   経済的な必要性
は考慮されない。
 スタンプス・スカラー・プログラムおよび提携校は、学業成績、リーダーシップの可能性、そして人間性を評価の対象としている。
 スタンプス・スカラー(奨学生)は、ローズ奨学金、マーシャル奨学金、トルーマン奨学金、フルブライト奨学金など、国内外の権威ある奨学金や賞の受賞者にも名を連ねている。
 2019年には、米国人ローズ・スカラー32名のうち4名が、 また2023年には、マーシャル・スカラー51名のうち5名がスタンプス・スカラーであった。
◯スタンプス奨学金を提供する大学・機関
 ・バリー大学
 ・ボストン・カレッジ
 ・ウィリアム・アンド・メアリー大学
 ・ダートマス大学
 ・エリザベスタウン・カレッジ
 ・ジョージア州立大学
 ・ジョージア工科大学
 ・ルイジアナ州立大学
 ・マーサー大学
 ・モアハウス・カレッジ
 ・ノースイースタン大学
 ・オーバリン・カレッジ
 ・オハイオ州立大学
 ・パデュー大学
 ・ケンブリッジ大学クイーンズ・カレッジ
 ・テュレーン大学
 ・米国空軍士官学校
 ・米国陸軍士官学校
 ・米国海軍士官学校
 ・アリゾナ大学
 ・シカゴ大学
 ・コネチカット大学
 ・フロリダ大学
 ・ジョージア大学
 ・イリノイ大学
 ・マイアミ大学
 ・ミシガン大学
 ・ミシシッピ大学
 ・ミズーリ大学
 ・ノートルダム大学
 ・オレゴン大学
 ・ピッツバーグ大学
 ・サウスカロライナ大学
 ・南カリフォルニア大学
 ・テキサス大学オースティン校
 ・バージニア大学
 ・バージニア工科大学
 ・ウェイクフォレスト大学

   
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ロケットラボ(Rocket Lab)米国の航空宇宙機器メーカー兼打ち上げサービスプロバイダー

ロケットラボ・コーポレーション(Rocket Lab Corporation)は、株式を上場している航空宇宙機器メーカー兼打ち上げサービスプロバイダーである。
 同社の軌道投入用ロケット「エレクトロン」は小型衛星の打ち上げを行った。
 2026年1月時点で75回以上のミッションを成功させている。
 世界で運用されている小型ロケットの中で最も多くの打ち上げ実績を誇る。
 極超音速技術の開発を推進するための試験機として、エレクトロンの弾道飛行(サブオービタル)用派生型である「HASTE(Hypersonic Accelerator Suborbital Test Electron)」が開発された。
 また、衛星コンステレーションの展開、惑星間ミッション、有人宇宙飛行を支援するため、次世代の再使用型中型ロケット「ニュートロン」の開発も進められている。
 同社は、スタートラッカー、リアクションホイール、ソーラーパネル、電気推進システム、ソフトウェア無線(SDR)、複合材構造、分離システム、電気光学・赤外線(EO/IR)センサー、および飛行・地上用ソフトウェアといった衛星コンポーネントのサプライヤーでもある。
 同社は、垂直統合型の包括的な宇宙企業になるという戦略的ビジョンの一環として、
   衛星バス
   宇宙機(人工衛星本体)
の製造も行っている。
 ロケットラボ(Rocket Lab)は、2006年にニュージーランドで
   ピーター・ベック(Peter Beck)
によって設立された。
 2009年には、観測ロケット「Ātea-1(アテア・ワン)」の打ち上げに成功した。
 南半球初の宇宙に到達した民間企業となった。
 2013年には米国企業となり、カリフォルニア州ハンティントンビーチに本社を設立した。
 その後、2020年にロングビーチへ移転した。
 米国での拠点を確立した後、同社は
   軌道投入用ロケット「Electron(エレクトロン)」
の開発に向けてベンチャーキャピタルから資金を調達した。
 同ロケットは2017年の初飛行で宇宙に到達した。
 2018年の2回目の飛行で軌道投入に成功した。
 2020年には、エレクトロンのキックステージ(上段)を基に設計・製造した同社初の自社製衛星「First Light(ファースト・ライト)」を打ち上げた。
 同社は主要な宇宙機メーカーであり、
   グローバルスター(Globalstar)
のような商業コンステレーション事業者や、宇宙開発局(Space Development Agency)のような政府機関の顧客向けに衛星の製造・運用を行っている。
 ロケットラボはこれまでに7社を買収した。
 その内訳は、2020年4月の
   シンクレア・インタープラネタリー(Sinclair Interplanetary)
 2021年10月の
   Advanced Solutions, Inc. (ASI)
 2021年12月の
   Planetary Systems Corporation (PSC)
 2022年1月の
   SolAero Holdings, Inc.
 2025年8月の
   Geost, LLC
 2026年4月の
   Mynaric AG
そして2026年5月の
   Motiv Space Systems
である。
 2021年8月、同社は特別買収目的会社(SPAC)との合併を通じて、ナスダック(Nasdaq)証券取引所に上場した。
 2025年5月時点で、同社の従業員数は世界全体で2,600名を超えている。
 そのうち700名以上がニュージーランドを拠点としていた。

 売上高 6億200万米ドル(2025年)
 営業利益 -2億2,900万米ドル(2025年)
 純利益 -1億9,800万米ドル(2025年)
 総資産 23億2,400万米ドル(2025年12月)
 純資産 17億2,200万米ドル(2025年)
 従業員数 2,600名(2025年5月) 
   
 ロケットラボは、ピーター・ベックによって2006年6月にニュージーランドで設立された。
 これは彼が米国を訪問した後のことである。
 その訪問中、ベックは低コストの小型ロケットが持つ可能性と将来性に気づいた。
 投資家候補と接触する中で、彼は
   マーク・ロケット
と出会った。
 ロケットは後にシード投資家となり、2007年から2011年まで共同ディレクターを務めた。
 同社へのその他の投資家には、
   スティーブン・ティンダル
   ビノッド・コースラ
 そしてニュージーランド政府などが名を連ねていた。
 同社は2009年11月、観測ロケット「アテア1(Ātea-1)」を打ち上げ、南半球で初めて宇宙に到達した民間企業となった。
 なお、ペイロード(搭載物)は回収されず、打ち上げは失敗とみなされた。
 ペイロードは弾道計測用ダート(矢状の観測機器)であり、その軌道はブースト段階(加速段階)のみによって決定されるものであった。
 打ち上げはニュージーランド沖で行われた。
 場所はニュージーランドの銀行家でありロケットラボの投資家
   マイケル・フェイ
の私有地(グレート・マーキュリー島)であった。
 2010年12月、同社は米国政府の「即応宇宙運用室(ORS)」から、キューブサット(超小型衛星)を軌道に投入するための低コスト宇宙ロケットに関する調査契約を獲得した。
 NASAとの協定により、同社は商業打ち上げ事業のために、人員、施設、機器を含むNASAの限定的なリソースを利用できるようになった。
 2013年頃、同社は米国へ拠点を移した。
 カリフォルニア州ハンティントンビーチに本社を設立した。
 この移転は米国からの資金調達と時期が重なっている。
 米国政府の関与が強まったことも要因の一つであった。
 ニュージーランドの同社は、米国の法人の子会社となった。
 2020年、ロケットラボはロングビーチに移転しました。
 この移転は、増え続ける従業員に対応することと、サプライヤーや顧客の近くに拠点を置くことの必要性から行われました。
 新しい施設には、同社のロケット「エレクトロン(Electron)」を製造するための最先端の生産設備のほか、管理部門のオフィスやその他の支援施設が含まれています。
2013年には、コースラ・ベンチャーズ(Khosla Ventures)およびキャラハン・イノベーション(Callaghan Innovation:ニュージーランド政府機関)から資金を調達した。
 2014年にはベッセマー・ベンチャー・パートナーズ(Bessemer Venture Partners)、2015年にはロッキード・マーティン(Lockheed Martin)が出資を行った。
 ロケット・ラボ(Rocket Lab)は2017年3月、データ・コレクティブ(Data Collective)が主導し、プロムス・ベンチャーズ(Promus Ventures)や既存の投資家が参加したシリーズDラウンドにおいて、新たに7,500万米ドルを調達したと発表した。
 2017年5月には、キャラハン・イノベーションからの資金提供額が合計1,500万ニュージーランドドルに上ることが報じられた。
 2018年11月、同社はフューチャー・ファンド(Future Fund)が主導するシリーズEラウンドで1億5,000万ドルを調達したと発表した。
 2018年に打ち上げられた同社初のNASAミッションは、打ち上げサービス等を含め、NASAによって690万ドルの価値があると評価された。
 ロケット・ラボは以前、ロケットの回収や再利用を行う意図はないと公言していた。
 なお、2018年になって再使用可能な第1段ロケット技術の開発に着手した。
 2019年8月には、パラシュートと空中回収を用いる手法を想定し、エレクトロンの第1段ロケットを回収する可能性についての検討を進めていることを明らかにした。
 2019年12月、エレクトロンの10回目の飛行において、同社独自の空力熱減速装置(aerothermal decelerator)を用いた再突入技術の飛行試験を実施し、ロケットの減速および宇宙空間から下層大気への移行を成功させた。
 2022年11月、ロケット・ラボはNASAのステニス宇宙センター(Stennis Space Center)にて、エンジン「アルキメデス(Archimedes)」の試験施設の運用を開始した。
 2020年3月、同社は小型衛星用コンポーネントを製造するカナダ企業、シンクレア・インタープラネタリー(Sinclair Interplanetary)を買収したと発表した。
 ロケットラボは、同社の小型衛星バス「フォトン(Photon)」シリーズにシンクレアの技術を採用するほか、他社向けに販売される小型衛星用コンポーネントの生産拡大を支援すると表明した。
 その後、ロケットラボはシンクレア・インタープラネタリー製のコンポーネントをペイロードの一部または全部に使用したミッションを打ち上げた。
 2021年3月、同社は同年第2四半期に新規株式公開(IPO)を通じて上場する計画を発表した。
 このIPOは、Vector Acquisition Corporation(VACQ)という特別買収目的会社(SPAC)との合併によって実現される予定であった。
 この合併により、同社の評価額は41億米ドルとなり、メガコンステレーション(衛星群)展開市場をターゲットとした中型2段式軌道投入ロケット「Neutron(ニュートロン)」の開発を支援するための運転資金として7億9000万ドルが供給される見込みであった。
 Neutronは部分再使用型ロケットとして計画され、ブースター(第1段)が打ち上げ地点への帰還(RTLS)着陸を行い、改修を経て再打ち上げされることになっていた。
 同社は、評価額48億ドルでSPACであるVector Acquisitionと合併した後、2021年8月25日にナスダック証券取引所での取引を開始した。
 この取引により、7億7700万ドルの現金が調達された。
 当時、Rocket Labの従業員数は500名を超え、これまでに105機の衛星を軌道に投入することに成功していた。
 Rocket Labの打ち上げ事業の売上高は、2018年に1350万ドル、2019年に4800万ドル、2020年には推定3300万ドルを記録した。
 Rocket Labは、上場で調達した資金のうち2億5000万ドルから3億ドルをNeutronの開発に充てた。
 同社は2025年までのNeutron打ち上げを目指していた。
2021年8月時点で、同社はロケット製造用の新工場を米国に建設するほか、バージニア州ワロップス島にあるミッド・アトランティック・リージョナル・スペースポート(MARS)にNeutron用の打ち上げインフラを整備する計画を立てていた。
 2021年10月、同社はコロラド州を拠点とする宇宙機用フライトソフトウェア企業、Advanced Solutions, Inc.(ASI)を買収した。
 2021年11月、同社は衛星分離システムを製造するPlanetary Systems Corporation(PSC)を8,140万ドルで買収した。
 2022年1月には、宇宙用太陽光発電製品のサプライヤーであるSolAeroを買収した。
 2022年5月3日、同社は「There And Back Again(往って、また戻って)」ミッションにおいて、ニュージーランドから「エレクトロン」ロケットを打ち上げ、その回収を初めて試みた。
 落下するロケットブースターを空中(飛行中)で捕捉することに成功し、これは史上初の快挙となった。
 その後、ベック氏は、ブースターの吊り下げ状態が不適切であったため、パラシュートで海上に着水させ、船舶によって回収したと述べた。
 2022年8月、同社は民間企業として初めて金星に到達する計画を明らかにした。
 同社は「Venus Life Finder(VLF)」と呼ばれる小型探査機を開発中である。
 この探査機は、金星の上層大気(高度約47kmから60kmの範囲)に突入して約5分間飛行し、有機化合物を探索するように設計されている。
 2025年3月時点での計画では、エレクトロン・ロケットによる打ち上げ目標時期は2026年夏とされていた。
2023年10月、ロケットラボは「アルキメデス(Archimedes)」エンジンの開発を支援するため、カリフォルニア州ロングビーチにエンジン開発施設を正式に開設した。
 この施設は、機械や設備などの生産資産を含め、2023年5月にヴァージン・オービット社の破産手続きの一環として取得されたものである。
 2024年1月、ロケットラボは、米国宇宙軍(USSF)による5億1,500万ドル規模の軍事衛星プロジェクトの主契約者に選定された。
 これは同社にとって過去最大の契約である。
2024年4月、同社は顧客向けにカーボン複合材製品の販売を開始すると発表した。
 2024年時点で、同社はより大型の再利用型モノコック構造ロケット「ニュートロン(Neutron)」、複数の宇宙機バス(衛星プラットフォーム)、およびロケットエンジン(Rutherford、Curie、HyperCurie、Archimedes)の開発を進めていた。
 2024年半ばには、ニュートロンの開発プロセスにおけるエンジン試験段階に入りました。
2024年10月、緑の党の外交担当スポークスパーソンであるティアナウ・トゥイオノ(Teanau Tuiono)氏は、ジュディス・コリンズ宇宙担当大臣に対し、BlackSky Technology社が「イスラエル国防省に高頻度で撮影された画像と分析データを提供する契約を結んでいる」ことを認識しているか、またそれによってニュージーランドからの将来の打ち上げが禁止される可能性があるかについて質問した。
 ニュージーランドにおける宇宙活動は「2017年宇宙・高高度活動法(Outer Space and High-altitude Activities Act 2017)」に基づいて監視されており、トゥイオノ氏は国際関係を理由に打ち上げが拒否される可能性について問いかけた。
 過去には、内閣が特定のペイロード(搭載物)の打ち上げを許可しなかった事例もある。
2024年11月、Rocket Lab社が、同社が核兵器に関する米軍の管理・運用に関与していると指摘したニュージーランドの大学関係者に対し、名誉毀損訴訟を起こすと警告したことが報じられた。
 2025年5月、Rocket Lab社はGEOST社を買収する契約を締結した。
 これにより従業員数が115名増加し、同社の総従業員数は2,600名を超えた。
2025年10月、活動家グループ「パレスチナ連帯ネットワーク・アオテアロア(Palestine Solidarity Network Aotearoa)」は、ニュージーランドのクリストファー・ラクソン首相に対し、BlackSky Technology社の今後の打ち上げに関する承認を取り消すよう求めた。
  これらの打ち上げがイスラエル軍の諜報活動に関連している可能性があるためである。
2026年3月、ロケットラボは、同社のロケット「HASTE」を使用した一連の極超音速試験飛行を実施するため、米国国防総省と1億9000万米ドル(3億2700万ニュージーランドドル)の契約を締結しました。
2026年4月、ロケットラボは、レーザー光通信端末のサプライヤーであるMynaric AGを総額1億5530万ドルで買収した。
 買収後もMynaricはドイツに拠点を置き続けるため、この取引によりロケットラボは欧州における初の拠点を確保することとなった。
2026年4月、ロケットラボは、自社で設計・製造した衛星用電気推進システム「Gauss(ガウス)」の導入を発表した。
 発表時点で、同社は年間200基以上のGaussスラスタを製造可能な生産ラインをすでに構築済みであることを明らかにした。
 2026年5月、ロケットラボは、2機の静止軌道衛星の製造および運用を行うため、米国宇宙軍の宇宙システム・コマンド(SSC)と9000万ドルの契約を締結した。
 この契約は、当初GEOST社が受注した契約の下で開発された宇宙搭載型ペイロード「Heimdall(ヘイムダル)」2機のプロトタイプ製作作業を拡大し、それらをロケットラボ・オプティカル・システムズ(Rocket Lab Optical Systems)に統合するものである。
 2026年5月、ロケットラボは、宇宙用ロボティクス、モーションコントロールシステム、および宇宙機用精密機構の製造企業であるMotiv Space Systemsの買収を完了した。
 この買収には、Motiv社の50名のチームとカリフォルニア州パサデナにある製造施設が含まれていた。
 取引完了後、Motiv社は「Rocket Lab Robotics」へとリブランドされた。
 2026年6月、ロケットラボはIridium(イリジウム)社の買収を発表した。

    
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2026年07月15日

ベル(The Bell) ロシアの独立系オンライン新聞

The Bellはロシアの独立系オンライン新聞であり、2022年には
   ブルームバーグ
によって「依然として存続している数少ないロシアの独立系ニュースソースの一つ」と評された。
 The Bellは2017年、かつて
   ヴェドモスチ紙
   『フォーブス』ロシア版
の編集長を務めた
   エリザヴェータ・オセチンスカヤ
と、RBKグループ出身のジャーナリスト
   イリーナ・マルコワ
   ピョートル・ミロネンコ
によって創設された。
 RBKグループのジャーナリストらは、政府による過度な介入を理由に同社を離脱していた。
 The Bellはロシア政治に関する専門的な知見を有していることから、
   アクシオス(Axios)
をはじめとする欧米のメディアに度々引用されている。
 同紙はロシア政府に対して批判的な姿勢をとるだけでなく、ロシアによるウクライナ侵攻についても「挑発なき侵攻(unprovoked)」であると批判している。
 2023年、ロシア政府はThe Bellとその創設者を「外国の代理人(外国のエージェント)」に指定し、ロシア国内からの同サイトへのアクセスを全面的に遮断した。
 The Bellは、
   メディアゾナ(Mediazona)
   メドゥーザ(Meduza)
   ノーヴァヤ・ガゼータ(Novaya Gazeta)
と同様の命令によって禁止措置を受けた。
 人権団体は、この禁止措置を、ロシア政府が国内の情報を統制し、ウクライナ戦争に関する
   否定的な報道を阻止
しようとする試みであるとして非難している。
 2023年6月29日、ワグネル・グループによる反乱の失敗後、ロシア政府が
のメディア資産である
   パトリオット(Patriot)
   RIAファン(RIA FAN)
を接収していると報じ、The Bellは国際的な注目を集めた。

   
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2026年07月14日

全ロシア世論調査センターRussian Public Opinion Research Center)ロシア政府所有の世論調査機関

全ロシア世論調査センター(Russian Public Opinion Research Center  Всероссийский центр изучения общественного мнения、略称: VCIOM)は、1987年に設立されたロシア政府所有の世論調査機関である。
 1992年までは「全連邦世論調査センター」という名称であった。
 VCIOMは、ソ連崩壊後のロシアにおいて最も歴史のある世論調査機関であり、ロシアを代表する社会学・市場調査会社の一つである。
 同センターは1987年、
   全連邦労働組合中央評議会(VCSPS)
   ソ連国家労働委員会
の布告に基づき「全連邦世論調査センター」として設立された。
 1992年に現在の名称へと改称された。
 2003年には「完全国有の公開株式会社」へと移行した。
 VCIOMは、調査設計やデータ収集から、分析、そしてクライアントへの結果報告に至るまで、マーケティング、社会、政治に関する調査の「全工程(フルサイクル)」を自社で実施している。
 VCIOMはロシア国内の全7連邦管区に支社を置いている。
 自社の支社に加え、多数の地域調査会社とも提携関係を結んでいる。
 また、約5,000名からなる独自の調査員(インタビュアー)ネットワークを擁している。
 VCIOMは学術機関としての地位を有している。
 同センター内には、ロシアの社会学者、政治学者、マーケティング専門家、哲学者、歴史学者らで構成される学術専門家会議が設置されている。
 また、若手研究者を対象とした学術論文コンクールなども開催している。
 2003年からは、独自の学術誌『世論のモニタリング:経済と社会の変化(Monitoring of Public Opinion: Economic and Social Changes)』を年6回発行している。
 2009年以降は、インターネットを通じて(アーカイブおよび最新号の双方を)誰でも閲覧可能となっている。
 編集委員会には、ロシアの著名な社会学者(ロシア科学アカデミー、モスクワ国立大学、ロシア国立社会大学、高等経済学院、市場調査機関GfK-Rusなどの関係者)が名を連ねている。
 高等経済学院には2008年からVCIOM(全ロシア世論調査センター)の講座が、ロシア国立社会大学には同じく2008年からVCIOMの研究センターが設置・運営されている。
 同センターは、ロシアの
   世論状況
に関する社会学的研究の専門書や論文集を企画・出版している。
 近年の主な出版物には、
 『エリツィンからプーチンへ:ロシア人の歴史意識における3つの時代』(2007年)
 『政治的ロシア:選挙前ガイド2007』(2007年)
 『現代の政治用語辞典』(2006年)
 『第2期政権の岐路に立つロシア』(2005年)
などがある。
 1992年以前の世論調査データはアーカイブに保管されている。
 1992年以降の世論調査「エクスプレス(Express)」の結果は、「アーキビスト・データベース(Archivist Database)」に格納されている。
 VCIOMは、
   InterSearch
   Eurasian Monitor
といった国際的な専門家ネットワークのメンバーであり、
   欧州世論・市場調査協会(ESOMAR)
の基準や規範に準拠して活動している。
 モスクワの本社には70名以上の専門家(社会学、マーケティング、政治学、金融、心理学、統計学の専門知識を有する人材)が勤務しており、さらに国内各地の拠点にも数十名のスタッフが在籍している。
 同センターの代表は
   ヴァレリー・フョードロフ(Valery Fedorov)氏
である。
 VCIOM(当時は「全連邦」組織)を設立する決定は、1987年7月に開催されたソビエト連邦共産党中央委員会の会議で採択された。
 設立母体となったのは、
   全連邦労働組合中央評議会(VCSPS)
   ソ連労働国家委員会
であった。
 初代所長には、アカデミシャン(科学アカデミー会員)の
   タチアナ・ザスラフスカヤ
が就任した。
 ザスラフスカヤによれば、同センターの設立にあたっては、
   エリザベート・ノエル=ノイマン
が率いるドイツ連邦共和国の
   デモスコピー研究所(Institut für Demoskopie)
がモデルとされた。
 グルーシンは1987年から1988年にかけて、ソ連の各共和国やロシアの各地域に社会学調査センターのネットワークを構築するために尽力した。
 これにより、1988年11月には成人を対象とした代表サンプルによる初の大規模調査が実施可能となり、その1年後にはこうした調査が定期的・体系的に行われるようになった。
 1988年、ユーリ・レヴァダは教え子たち(レフ・グドコフ、ボリス・ドゥービン、アレクセイ・レヴィンソンら)と共にVCIOMでの活動を開始しました。
 当初は理論研究部門の責任者、1992年以降は同組織のトップを務めた。
 ユーリ・レヴァダはあるインタビューの中で、VCIOM発足当初の時期について語り、1987年の設立者としてタチアナ・ザスラフスカヤとボリス・グルーシンの名を挙げるとともに、彼らからVCIOMへの参加を誘われたと述べている。
 VCIOMは、ソ連国内および西側諸国の双方において、その客観性と専門性により広く評価されるようになった。
 1990年代に入ると、同機関の世論調査は極めて信頼性が高いものとして評判を博した。
 この期間中、VCIOMは1,000件を超える世論調査を実施した。
ソ連(およびロシア)初の社会学研究機関として、VCIOMは国内の数多くのマーケティング・センターや社会学調査センターを輩出する揺籃(ようらん)としての役割を果たした。
 1989年8月、
   ボリス・グルーシン
はVCIOMを離れ、世論調査を行う自身の組織「ヴォクス・ポプリ・グラス・ナローダ(Vox Populi - Glas Naroda:人々の声)」を設立した。
 1992年には、当初は慈善資金調達センターの一部門として設立された「世論財団(FOM)」がVCIOMから独立した。
 1999年、VCIOMは学術機関としての地位を獲得した。
 1992年のソビエト連邦崩壊から2003年にかけて、VCIOMは国家予算の交付を受けず、民間および公共部門からの世論調査の契約(助成金)によ って運営されていた。
 ただ、同機関がFGUP(連邦国家単一企業)という形態の国有企業のままであるという点については、
   ユーリ・レヴァダ
らによって十分に対処されていなかった。
 2003年、ロシア連邦国有資産省は、FGUP VCIOMを、国家が株式の100%を保有する株式会社「全ロシア世論調査センター(JSC VCIOM)」へと改組することを決定した。
 この際も国家予算は割り当てられず、同社は引き続き民間および公共機関からの資金提供に基づいて業務を行うこととされていた。
 しかし、ユーリ・レヴァダはこの変更を、VCIOMの調査結果に影響を及ぼそうとする試みであると捉えた。
 その結果、VCIOMの旧スタッフは同社を離れた。
 ユーリ・レヴァダに従って、新たに設立された非政府組織である「レヴァダ・センター」へと移った。
 若手政治学者の
   ヴァレリー・フョードロフ
が同機関のトップに就任した。
 一部の資料では、彼がロシア連邦大統領府に近い人物であったと指摘されている。
 VCIOMは、旧スタッフが導入した調査プログラムを継続し、学術誌『世論のモニタリング(Monitoring of Public Opinion)』の発行も続けた。
 一方、2003年には、かつての編集委員らが『世論の使者(Public Opinion Herald)』という新しい雑誌の発行を開始した。
 VCIOMの分裂に対する他のロシアの社会学者たちの反応については、相反する情報が存在します。
ある情報源は、すべての社会学者がレヴァダと共に去ったと報じている。
 一方で、グルーシンを除いて彼らは沈黙を守ったとする主張もある。
 社会学界におけるVCIOMブランドの使用の適法性をめぐる論争は2004年に決着した。
 連邦独占禁止庁はVCIOMに「VCIOM」ブランドの完全な使用権を認め、レヴァダ・センターによる同ブランドの使用を禁止する決定を下した。
 2003年9月に米国のコロンビア大学を訪問した際、VCIOMの経営陣交代について尋ねられたロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、この経営陣の交代を支持する姿勢を示した。
 今日の調査の重点分野は、政治的支持率、社会のムード(世相)指標、政府の施策、そして改革です。
 VCIOMは現在も、ロシアの主要な民間および公的機関のために調査を実施している。
 調査プログラムにおける実用的かつ応用的な姿勢は、スローガンの変更にも表れています。かつての「意見から理解へ(From opinion – towards understanding)」というスローガンに代わり、「成功のための情報(Information for success!)」が掲げられるようになった。
 同センターは、調査対象者から批判を受けることもある。
 ロシア連邦共産党の
   ゲンナジー・ジュガーノフ党首
は、レーニン廟に関するVCIOMの調査結果について、「これは専門的とは言えない調査だ」と述べ、その客観性を批判した。
 VCIOMの調査によれば、ロシア国民はレーニンの遺体を廟に安置し続けるよりも、墓地に埋葬することを支持していた。
 ベルリンを拠点とする
によれば、2019年のモスクワでの抗議デモに関するVCIOMの質問項目は、「政府の見解を裏付ける結果が出るように巧妙に設計されていた」とされている。
 VCIOMは、地域レベルおよび連邦レベルでの調査に加え、旧ソ連圏(旧ソ連諸国の同業者である「ユーラシア・モニター」機関のメンバーと共同で)やその他の国々でも調査を実施している。
    
    
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2026年07月13日

アナドル通信社(Anadolu Agency)トルコのアンカラに本社を置くトルコ国営の通信社

アナドル通信社(Anadolu Ajansı、直訳すると「アナトリア通信社」、略称: AA)は、トルコのアンカラに本社を置く国営の通信社である。
 100カ国以上で13言語を用いて活動している。
   
 従業員数 3,800人

 アナドル通信社は、トルコ独立戦争中の1920年、
の命により設立された。
 オスマン帝国の首都コンスタンティノープルがスルタンの支配下にあり、すべての新聞もスルタンおよび占領軍であるイギリスの統制下にあったため、革命政府にとってアナトリアとルメリアのための通信・報道網を構築することが必要であった。
 占領下の首都から逃れたジャーナリストの
   ユヌス・ナディ・アバルオール
と作家の
   ハリデ・エディブ
は、ゲイヴェで合流し、新たなトルコの通信社が必要であるとの結論に達した。
 同社は1920年4月6日、トルコ大国民議会が初めて招集される17日前に正式に発足した。
 同社は、トルコ共和国の樹立を定めた議会による最初の法案を公表した。
 1925年には議会法により自律的な機関と宣言されたが、その後も「準政府機関」としての役割を果たし続けた。
 公正発展党(AKP)が政権を掌握した後、
   アナドル通信社(AA)
は共に、政権の方針をより色濃く反映するよう組織改編された。
 2016年の学術論文によれば、「こうした公共のニュース制作機関は、特に公正発展党(AKP)政権の直近の任期中、党指導部に近い少数のネットワークに属する関係者によって統制されてきた」とされている。
 アナドル通信社の元総裁である
   ケマル・オズテュルク氏
によれば、同社は中東最大のアラビア語ニュース放送網を擁し、トルコ国内の全ニュースコンテンツの70パーセントを制作している。
 政治学者の
   オウズ・ギュネル氏
は、「AAは、トルコの外交政策のビジョン、世界に対するトルコの視点、そしてトルコの文化や歴史を国際社会に伝えている」と述べている。
   欧州通信社連盟(EANA)
の加盟機関である。
 また、1978年以来、アジア・太平洋通信社機構(OANA)の加盟機関でもる。

  
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2026年07月12日

米国がイランにホルムズ海峡の全航路開放巡り、公の声明の発表を要求

 米国はイランに対し、ホルムズ海峡の全ての航路が船舶の通航に開放されており、通航中の民間船舶を攻撃しないと、公の声明を発表するよう求めことが、複数のトランプ政権の高官がメディアの取材で明らかにした。
 匿名を条件に10日に記者団に説明を行った高官からは、イランとの緊張が再び高まっているものの、協議は継続されるとの見通しを示した。
 一方で、イランがこうした公的な保証を示さなければ
   相応の結果
を伴うことになると警告した。
 高官の1人は、米国の懸念を和らげるためにイランが何らかの声明を公表することを期待していると述べた。
 トランプ大統領は同日の早い時点で、米国がイランとの協議を継続している一方で、両国間の停戦は既に終了したとの認識を示した。
 また、政権はイラン側に対する追加制裁の発動に踏み切った。
 こうした展開に先立ち、米軍は数日にわたりイランの標的に対し空爆を行った。
 また、イランはそれに報復していた。
 一連の攻撃で原油相場は上昇し、一段と広範な和平合意に向けた協議の先行きにも疑問が生じている。
 最近の緊張の高まりに加え、イラン産原油の世界市場への販売を認めていた適用除外措置を米財務省が撤回したことは、米国とイランの暫定和平合意にとってこれまでで最大の試練となっている。
 米国は、ホルムズ海峡を通航する船舶への攻撃についてイランに責任があるとして非難し、イランの標的に対する攻撃を実施した。
 これに対しイランは、ペルシャ湾岸地域の米軍基地を攻撃して応酬した。
 米政府高官によると、イランは最近の船舶攻撃について、イスラム革命防衛隊(IRGC)の一部勢力による行動だったと説明しているという。
 イラン外務省は、同国が
   新たな協議
を米側に要請したとの主張を否定している。
 イランのアラグチ外相は今週末、ホルムズ海峡に関するオマーン当局者との協議のため、同国を訪問する予定であるものの、米国が先走って推測情報を垂れ流した可能性が高そうだ。
 米国とイランの協議では、ホルムズ海峡以外にも、凍結されたイラン資産の扱いや、イランの核開発計画などの問題を解決する必要がある。
 トランプ氏は、イランの核兵器保有を阻止するために戦争を始めたとしているが、イスラエルが保有しているとも言われている核兵器については問題視すらしていない。
 米政府高官は10日、イランが
   濃縮ウラン
を引き渡すまで最終合意は成立しないとの認識を示した。
 米国はこの濃縮ウランについて、米軍が攻撃した施設内に保管されているとしているが、トランク数個分で移動できる濃縮ウランの容器を探し出せのか疑問もある。
 屁理屈を並べて濃縮ウランを口実にして狙うはイランの石油資源といった構図がありそうだ。

    
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2026年07月11日

トランプ大統領 住宅関連法案の署名見送り表明  11日に自然成立の見通し

 トランプ米大統領は10日、自身のSNSで「米国議会両院を通過しホワイトハウスに送られた住宅関連法案に、私は署名しない」と表明したうえで、理由について「上院が「セーブ・アメリカ」法案を可決できないことへの抗議だ」と投稿した。
 自身が成立を求める別の法案が上院で可決されないことへの抗議だと主張している。
 トランプ大統領が署名を拒否した上下両院を通過した超党派の住宅関連法案は、
   生活費高騰への懸念
に対応するもので
   住宅価格
   家賃
の上昇を抑えることなどを目的としており、もともと不動産業者でもあるトランプが不動産業界の懐を直撃する法案の阻止に動いている構図だ。
 ただ、この住宅関連法案はすでに上下両院で可決されているため、トランプ大統領が拒否権を発動しない限り、11日に自動的に成立する見通しである。
 そのため、批判が広がる恐れもあるため、署名拒否は支援者の不動産業者に向けた単なるポーズの可能性もある。
 なお、トランプが拒否権を発動すれば議会に差し戻され再可決となる。
 米国民からイラン戦争を始めたトランプ大統領への嫌悪感が広がっており不支持は歴代大統領の中でも多い方となっており、逆風がより強くなるためか、いまのところ、拒否権発動の可能性には触れていません。
 一方、トランプ大統領が成立を求める「セーブ・アメリカ」法案は、2020年の大統領選挙で不正があったと主張し投票時に写真付き身分証明書の提示など本人確認の厳格化を求めているものである。
 こうしたなか米メディアは「セーブ・アメリカ」法案について有権者登録に必要とされる書類をすぐに提出できない有権者が2100万人以上いるとして、問題視している。
 
 
ひとこと
 劇場型政治家のお騒がせ男が大統領になったという話だが、社会に与えた害悪は歴代最悪であり、大統領職を使って、政策や発言で金融市場を大きく動揺させ、裏で私的利益の誘導拡大を続けている素行の悪さは、視点を変えればインサイダー取引に近い動きを繰り返しているものであり、エプスタイン問題での議会証言も醜聞の拡散に直結する発言が出る可能性もあり、大統領の威厳喪失に繋がりかねず、分断社会を作りだそうと暴走が続いているトランプに対しては早急に実施すべきだろう。
 ただ、議会証言を多忙という理由で拒否する可能性は高い。
 
    
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デニス・パブリッシング(Dennis Publishing)英国の出版社

デニス・パブリッシング(Dennis Publishing Ltd.)は、英国の出版社であった。
 1973年、フェリックス・デニスによって
   Sportscene Specialist Press
として設立された。
 最初の出版物はカンフー雑誌であった。
 現在、同社の出版物の大半は
   Future plc
が所有している。
 1980年代には、英国におけるコンピュータ愛好家向け雑誌の有力出版社となった。
 1990年代には米国市場へ進出し、ライフスタイル誌『Maxim』、家電・ガジェット誌『Stuff』、音楽誌『Blender』などを発行した。
 2007年には、『The Week』の米国版を除くすべての米国事業を売却した。
 フェリックス・デニスは2014年に死去し、同社の所有権は
   慈善団体「Heart of England Forest」
に遺された。
 2018年、同社は英国のプライベート・エクイティ・ファームである
   Exponent
に売却された。
 2021年8月、Future plcが同社と12の出版物を買収し、Future Publishingの事業に統合した。
 フェリックス・デニスは1960年代後半、カウンターカルチャー雑誌『OZ』の編集者の一人として雑誌ビジネスに関わり始めた。
 1973年に「Sportscene Specialist Press」を設立し、カンフー雑誌『Kung Fu Monthly』を創刊した。
 続いて1980年代初頭には、当時勃興していたコンピュータ愛好家向け市場で雑誌を発行し始め、『Your Spectrum』(後に『Your Sinclair』と改称され、Future Publishingに売却)などを手掛けた。
 それ以来、デニスはコンピュータ雑誌事業における地位を維持し続けた。
 1990年代後半に米国で『Maxim』が成功を収めるまでは、コンピュータ雑誌が同社の出版事業の主力であった。
 また、英国においてはFuture Publishingに次ぐ規模を誇っていた。
 1987年、同社は「デニス・パブリッシング(Dennis Publishing)」に社名を変更した。
 デニス・パブリッシング社は、米国で最も成功した現代の男性向けライフスタイル誌の一つである
   『Maxim』(発行部数250万部)
   『Stuff』(同130万部)
のほか音楽全般を扱う雑誌
   『Blender』(同80万部)
などを発行していた。
 2005年2月5日、シリウス・サテライト・ラジオ(Sirius Satellite Radio)にて「Maxim Radio」の放送が開始された。
 2008年11月12日にシリウスと
   XM
が合併し、その5日後にはシリウス・サテライト・ラジオのチャンネル108(Sirius)および139(XM)にて「Sirius XM Stars Too」の放送が始まった。
 2011年5月には、両サービスともチャンネル104へ移動した。
 2007年2月15日、デニス・パブリッシング社は、会社売却の可能性を含む様々な戦略的選択肢を検討するため、メディア関連の投資会社
   アレン・アンド・カンパニー(Allen & Company)
を専属の財務アドバイザーに選定したと発表した。
 2007年6月、デニス社の米国における全事業資産(『The Week』誌の米国版を除く)が、プライベート・エクイティ・ファンドである
   クアドラングル・グループ(Quadrangle Group)
に売却された。
 これには『Maxim』、『Stuff』、『Blender』の各誌が含まれていた。
 2008年1月、デニス・パブリッシング社は、オンラインニュースサイト「The First Post」を非公開の金額で買収した。
 2月には、ガジェットやコンシューマー向けテクノロジーを専門とする無料の隔週刊インタラクティブ・デジタル雑誌「iGizmo」の創刊(3月11日開始)を発表した。
 11月には、オンラインゲームおよびハードウェア愛好家向けウェブサイト「Bit-Tech」を非公開の金額で買収した。
 50誌以上の雑誌を手掛けるデニス・パブリッシング社の2012年度の業績は、グループの税引前利益が
   550万ポンド(前年は410万ポンド)
と前年比+35%増になった。
 グループ営業利益は12%近く増加し、490万ポンドに達した。
 合弁事業の収益分を除いたグループ売上高は、前年比で微増し、7,000万ポンド強となった。
 合弁事業分を含めた収益は3%増の7,770万ポンドであった。
 英国での事業が総売上高の約84%を占めていた。
 2014年にフェリックス・デニスが死去した後、デニス・パブリッシングは「ハート・オブ・イングランド・フォレスト・チャリティ(Heart of England Forest Charity)」の所有となった。
 これは、植林活動を行うためにデニス自身が設立した慈善団体である。
 2015年、デニス・パブリッシングは、発行部数30万部を誇る男性向け無料の健康・フィットネス誌『Coach』の創刊に300万ポンドを投じた。
 創刊時の編集長は
   エド・ニーダム
が務めた。
 2017年、米国やその他の市場における
   DoG Tech社
の急成長を受け、デニス・パブリッシングはDoG Tech LLCと合弁事業契約を締結した。
 2017年7月、デニス・パブリッシングは英国で最も売れている
   金融・経済誌『MoneyWeek』
を買収した。
 2018年7月、デニス・パブリッシング(Dennis Publishing)は、英国のプライベート・エクイティ・ファームである
   エクスポーネント(Exponent)
に買収された。
 売却益は慈善団体「ハート・オブ・イングランド・フォレスト(Heart of England Forest)」に寄付され、買収額は推定1億5,000万ポンドと報じられている。
 2018年10月、デニス・パブリッシングは、英国の消費者を対象に、ハイブリッド車や電気自動車のレビュー、ニュース、特集記事、動画などを提供するウェブサイト「Driving Electric」を立ち上げた。
 2019年2月、デニス・パブリッシングは、個人向け金融・ビジネス関連の出版物を手掛ける米国の出版社
   キプリンガー(Kiplinger)
を買収した。
 同社は、個人金融雑誌『Kiplinger's Personal Finance』や、ビジネス・経済予測に関する週刊ニュースレター『The Kiplinger Letter』などを発行しており、ウェブサイト「Kiplinger.com」も運営している。
 なお、この取引条件は公表されなかった。
 同年後半、デニス・パブリッシングは「Den of Geek World Limited」の保有株式を、パートナー企業である
   DoG Tech LLC
に売却した。
 2020年2月、デニス・パブリッシングは、8歳から14歳の子供を対象とした週刊の定期購読制印刷雑誌『The Week Junior』の米国版を創刊する計画を発表した。
 同誌は、2015年に英国で最初に創刊されたものである。
 2021年3月、エクスポーネントは、デニス・パブリッシングの自動車関連事業を、デニス社内の独立部門である「Autovia Limited」として分離・独立させた。
 2021年8月、Future plcがデニス・パブリッシングとその発行する12誌(『The Week』を含む)を買収した。
 一方、エクスポーネントは、『Cyclist』、『Expert Reviews』、『Fortean Times』、『Viz』といったブランドを、「Broadleaf Group」という別の持ち株会社に移管した。
 デニス・パブリッシングの自動車関連事業は、独立した「Autovia Limited」へと移管された。
 「Dennis Digital」(旧称:MaximNet、1999年設立)は、デニス・パブリッシングのインタラクティブ・インターネットおよびモバイル部門である。
 デニス・パブリッシングは、『Maxim』、『Stuff』、『The Week』といった雑誌を発行しているほか、かつては(現在は廃刊となった)『Blender』も発行していた。
◯Autovia Limitedへの分社化およびFuture plcによる買収に至るまでの、Dennis Publishingの主な刊行物
 ・Auto Express
 ・Carbuyer
 ・Carthrottle
 ・Channel Pro
 ・CloudPro
 ・Coach
 ・Computeract!ve
 ・Cyclist
 ・Driving Electric
 ・evo
 ・Fortean Times
 ・IT Pro
 ・Kiplinger's Personal Finance
 ・Minecraft World

    
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ブルランの戦い(Battle of Bull Run)

ブルランの戦い(Battle of Bull Run)
 南北戦争中に、バージニア州マナサスの近郊で戦われた二次におよぶ戦闘のこと。
 南軍側の呼称は「マナサスの戦い」とされている。
◯第一次ブルランの戦い(First Battle of Bull Run)
 南部での呼称は第一次マナサスの戦い
 南北戦争の陸上戦闘では最初の大会戦で1861年7月21日にバージニア州マナサスの近くで行われた。
 南軍北軍双方が急ごしらえの部隊で戦闘を行った。
 はじめはアービン・マクドウェル准将の指揮する北軍が攻勢を取り、ブルラン・クリーク(ポトマック川水系の支流の一つ)を渡った。
 やがて南軍が
   ジョセフ・ジョンストン
   P・G・T・ボーリガード
の両准将の指揮で押し返した。
 北軍をワシントンD.C.まで退却させた。
 南軍が南北戦争の本格化とともに緒戦に大勝したことは、戦争を長期化させる要因になった。
 エイブラハム・リンカーン大統領は
   北東バージニア軍
の指揮官に
   アービン・マクドウェル准将
を指名した。我慢強くない政治家やワシントン市民は、マクドウェルに北バージニアで早く南軍に対する勝利の報せを持ってくるよう突き上げを食らわせていた。
 ただ、まだ実戦経験の無い軍隊については心配なところがあった。
 アメリカ陸軍総司令官の
   ウィンフィールド・スコット少将
は、「お前達はまだ青二才だ。それは事実だが相手も青二才だ。みんな同じように青二才なんだ」と言った。
 アメリカ陸軍の大尉であった
   トーマス・ジョーダン
は、1860年中にワシントンに南部のスパイ網を構築していた。
 メンバーには社交界の有名人であり、広い交際範囲を持った
   ローズ・オニール・グリーンハウ
も含まれていた。
 ジョーダンはグリーンハウに暗号コードを与えていた。
 ジョーダンが南軍に投じてワシントンを離れた後、スパイ網はグリーンハウに委ねられた。
 引き続き情報が南軍に伝えられていた。
 1861年7月9日と7月16日、グリーンハウは南軍の
   ボーリガード准将
に対し、マクドウェルの計画を含む、第一次ブルランの戦いにつながる北軍の動きに関する重要なメッセージを送っている。
 マクドウェルは1861年7月16日にワシントンを出発し、作戦を開始した。
 なお、その軍隊はアメリカ大陸では過去最大となる約35,000名(戦闘勢力は28,452名)の勢力であった。
 マクドウェルの作戦は3隊で西に向かい、2隊はブルランで南軍に対して
   陽動攻撃
を行い、その間にもう1隊が南軍の右翼を南方に回り込んで、リッチモンドからの鉄道を抑え南軍の背後を脅かそうというものだった。
 マクドウェルの考えでは、これが成功すれば南軍はマナサス中継駅を放棄し、バージニアでの次の防衛線となるラッパハノック川まで後退を余儀なくされ、首都ワシントンに対する圧力が減るはずであった。
 対する南軍の
   ポトマック軍
は北軍の6割の戦闘勢力(21,883名)であった。
 ボーリガードの指揮でワシントンからは約25マイル (40 km)のマナサス中継駅付近に駐屯していた。
 マクドウェルの計画は、北東バージニア軍が数的に劣る敵ポトマック軍を攻撃し、同時にシェナンドー渓谷にいる
   ジョンストン
のシェナンドー軍(戦闘勢力8,884名にセオフィラス・ホームズ旅団1,465名が援軍になっていた)にポトマック軍を援護させないように、
   ロバート・パターソン少将
の18,000名の部隊がこれと対峙して戦うというものだった。
 北軍はうだるような暑さの中をゆっくりと2日間前進した。
 センタービルで休憩を取ったのち、マクドウェルはセ
   オドア・ラニオン准将
に5,000名を付けて全軍の後衛とした。
 その間に、ボーリガードが防衛戦をブルランまで引いたので、その側面を衝く方法を探していた。
 7月18日、ダニエル・タイラー准将の師団を送って南軍の右翼に回り込ませた。
 しかしタイラー師団はブルランのブラックバーン浅瀬で南軍との小競り合いに引き込まれ前進が止まった。
 マクドウェルは自身の作戦の失敗に憤り、代案として南軍の左翼(北西)を攻撃することに決めた。
 タイラー准将の師団がウォーレントン・ターンパイク沿いのストーン・ブリッジから攻撃をかけた。
 デイビッド・ハンターとサミュエル・ハインツェルマン両准将の師団が迂回路を通ってさらに西側のサドリー・スプリングス浅瀬を渡る作戦だった。
 そこまで行けば南軍の左翼後方に回り込めた。
 また、この主力部隊の攻撃を南軍に邪魔させないよう、タイラー師団隷下の
   イズラエル・リチャードソン大佐
の旅団をブラックバーン浅瀬に残し、南軍右翼に対して嫌がらせ攻撃を行うこととした。
 パターソン軍がジョンストン軍をシェナンドー渓谷に釘付けにしておけば、援軍は来ないはずであった。
 なお、マクドウェルの作戦は理論的には十分であったが、幾つか欠陥があった。
 1つ目は、敵を攻撃するときに時を同じくして開始する必要があった。
 しかし、急拵えの軍隊ではそこまで練度が上がっていなかった。
 2つ目は、ジョンストン軍を拘束するというパターソン軍の行動に頼るところがあったことだ。
 実際、パターソンは失敗した。
 そして、実際に最も大きな影響を及ぼした3つめの問題点で、マクドウェルがぐずぐずしている間に、シェナンドー渓谷のジョンストン軍は徒歩でマナサスギャップ鉄道のピードモント・ステーションに向かい、そこから鉄道でボーリガード軍を援護するためにマナサス中継駅に向かっていた。
 7月19日と20日、ブルランで戦陣を張る南軍にかなりの援軍が届いた。
 ジョンストン軍は移動中であった
   エドマンド・カービー・スミス准将
の旅団を除いて全軍が到着した。
 新参の部隊の多くはブラックバーン浅瀬の近辺に陣を布き、ボーリガードはそこから北のセンタービルに向けた攻撃を行おうと考えた。
 古参士官のジョンストンもその作戦に同意した。
 南北両軍の作戦が同時に行われた場合、互いに反時計廻りに回転して敵の左翼を攻めるという形になるところだった。
 マクドウェルは
   諜報員
からこれとは相反する情報を得ていた。
 このため、ワシントンの
   タデウス・ロー教授
がデモンストレーションをしたことのある
   熱気球エンタープライズ号
を要求し、空中から付近の偵察をすることとした。
 7月21日の朝、午前2時半にマクドウェルは
   ハンター
   ハインツェルマン
の師団合計約12,000名をセンタービルから進発させた。
 ウォーレントン・ターンパイクを通って南西に移動した。
 続いて北西に折れてサドリー・スプリングスに向かわせた。
 タイラー師団約8,000名は直接ストーン・ブリッジに向かった。
 経験の浅い部隊は直ちに
   兵站の問題
に直面した。
 タイラー師団がターンパイク上で主力である側面攻撃軍の前進を妨害することになった。
 側面攻撃隊が見付けたサドリー・スプリングスに向かう道路は荷車が1台やっと通れるような所が有り不適切だった。
 ブルランを渡り始めたのはやっと9時半であった。
 タイラー軍は6時にストーン・ブリッジに到着した。
 午前5時15分、リチャードソンの旅団はミッチェル浅瀬越しに南軍の右翼に向けて大砲を放った。
 そのうちの幾つかがまだ朝食を食べていたボーリガードの本部、ウィルマー・マクリーンの家に当たった。
 先制攻撃を打たれたことを知らされた。
 それにも拘わらず、当初の計画に従って北のセンタービルに残っている北軍に対して攻撃の構えをするよう命じた。
 お粗末な命令や伝達の不備でその命令は実行されなかった。
 ボーリガードは
   リチャード・イーウェル准将
の旅団に先陣を切らせるつもりだった。
 しかし、ユニオンミルズ浅瀬にいたイーウェルは、「待機し・・・命令が来れば前進する用意をしておく」よう命令を受けていた。
 デイビッド・ジョーンズ准将の旅団はイーウェルを支援して攻撃を始めることになっていた。
 そのため、単独で前進していることになった。
 テオフィラス・ホームズ准将の旅団も支援することになっていたが、命令は全く届かなかった。
 一方、南軍左翼に集結した北軍主力20,000名の前に立ちはだかったのは
   ネイサン・"シャンクス"・エバンス大佐
の旅団1,100名に過ぎなかった。
 エバンスは部隊を割いて、橋でタイラー師団の脅威を直接抑えさせた。
 なお、その先方である北軍
   ロバート・シェンク准将
の旅団の弱い攻撃は単なる見せかけだと疑い始めた。
 ボーリガードの通信隊長であり、8マイル南西のシグナルヒルから観察している
   エドワード・アレクサンダー大尉
から、北軍主力がサドリー・スプリングスを通って南軍の側面に回ろうとしていることを知らされた。
 戦闘で初めて使われた旗を用いた信号であったが、アレクサンダーは「貴隊の左翼を見張れ、配置が変わっている」という伝言を送った。
 エバンスは急遽900名を連れてストーン・ブリッジ正面から移動し、マシューズヒルの斜面に陣取った。
 以前の陣地よりも北西で少し高くなった所だった。
 エバンスは、
   バーナード・ビー准将
   フランシス・バートウ大佐
の2個旅団から援軍を受け、側面を2,800名で固めた。
 この部隊が、ハンター師団の先発隊である
   アンブローズ・バーンサイド准将
の旅団がブルラン・クリークの浅瀬を渡りヘンリーハウスヒルの北端にあるヤングズブランチを越えて前進する動きをうまく遅滞させた。
 しかし、タイラー師団の
   ウィリアム・シャーマン
が率いる旅団が守備隊のいない浅瀬を渡り、南軍守備隊の右翼を衝いた。
 この急襲がバーンサイドとジョージ・サイクス少佐による攻撃とかみ合って、午前11時半直前に南軍を崩壊させた。
 南軍は算を乱してヘンリーハウスヒルまで後退した。
 エバンス、ビーおよびバートウの残り部隊がマシューズヒルの陣地から撤退するときに、
   ジョン・インボーデン大尉
の砲兵隊の4門の6ポンド砲が支援し、南軍がヘンリーハウスヒルで再結集する間、北軍の前進を止めた。
 これらの部隊はM・ルイスの「ポーティシ」農園にあったジョンストン本部から到着したばかりの
   ジョンストン
   ボーリガード
両将軍と遭った。
 南軍にとって幸運だったのは、マクドウェルがこの攻勢をさらに進めて戦略的に重要な陣地を即座に取ろうとしなかったことでる。
 その代わりに
   ドーガンズリッジ
からジェイムズ・リケッツ大尉の砲兵中隊とチャールズ・グリフィン大尉の砲兵中隊の大砲で丘に向かって砲撃を開始した。
 正午頃に混乱した南軍を支援するために
   ストーンウォール・ジャクソン
のバージニア旅団が到着した。
 さらにウェイド・ハンプトン大佐の独立混成部隊とJ・E・B・スチュアートの騎兵隊が到着した。
 ジャクソンはその5個連隊を丘の反対側斜面に置いて直接砲火を浴びないようにした。
 防衛のために丘の頂上には13門の大砲を集めることができた。
 大砲を放った後はその反動で丘の反対斜面に下がり、次の弾充填を安全のうちに行うことができた。
 一方、マクドウェルはリケッツとグリフィンの砲兵中隊にドーガンズリッジから歩兵を支援できる丘に移動するよう命じた。
 その11門の大砲はジャクソンの13門と300ヤード (270 m)の距離を置いて激しく撃ち合った。
 南北戦争の他の多くの戦闘の場合とは異なり、この時の南軍砲兵隊には利点があった。
 北軍の大砲は南軍の滑腔砲の射程内にあり、北軍に多いライフル砲はそのような至近距離では効果が薄く、多くの砲弾が敵の頭上を飛びすぎた。 
 砲火の犠牲者の一人は85歳の寡婦で病身の
   ジュディス・カーター・ヘンリー
で、ヘンリーハウスの寝室から動けなかった。
 リケッツは砲弾を受け始めたときにヘンリーハウスから飛んでくるものと判断し、大砲をその建物に向けた。
 一発の砲弾が寝室の壁を突き破り、寡婦の足をもぎ取り、他にも多くの傷を与えた。
 彼女はその日遅くに死んだ。
 ビーはジャクソンに向かって「敵は我々を追い払おうとしている」と叫んだ。
 ジャクソンは元アメリカ陸軍士官でバージニア州立軍人養成大学の元教授であった。
 ただ、「諸君、彼らに銃剣をくれてやろう」と答えたと言われている。
 ビーは「そこにジャクソンが石の壁のように立っている。ここで死ぬことに決めよう。
 そして勝つんだ。俺に続け」と言って自部隊を鼓舞して再結集させた。
 ビーの発言と意図については戦後も議論があり、ビーがその後の戦いで瀕死の重傷を負い、部下の士官達も記録を残さなかったので、正確なところは分かっていない。
 ジョンストン将軍の参謀長
   バーネット・レット少佐
の報告では、ビーとバートウの旅団が厳しい圧力を受けているときにジャクソンが即座に助けに来なかったのでビーは怒っていたと主張した。
 この意見を支持する人々は、ビーの発言が軽蔑的な意味合いで「あそこに石壁のように立っているジャクソンを見よ」ということだったと信じている。
 北軍砲兵中隊長の
   グリフィン大尉
は南軍に対して縦射できるように、その大砲のうちの2門を戦列の南端に移動させることにした。
 午後3時頃、これらの大砲が南軍第33バージニア連隊に乗っ取られた。
 第33バージニア連隊は青い制服を着ていたので、グリフィンの上官である砲兵隊指揮官
   ウィリアム・バーリー少佐
は味方だと勘違いし、グリフィンに撃つなと命じた。
 砲兵隊を守っていた第11ニューヨーク志願歩兵連隊(エルスワースのズアーブ兵)の側面に至近距離から第33バージニア連隊とステュアートの騎兵隊からの一斉射撃が炸裂し、砲手の多くを殺し、歩兵を逃げ散らせた。
 この勝機に付け込んだジャクソンは2個連隊にリケッツの砲兵中隊への攻撃を命じ、首尾良く捕獲できた。
 そこに北軍の歩兵隊も押し寄せ、大砲の所有権が行ったり来たりした。
 北軍の大砲を奪ったことで戦闘の流れが変わった。
 マクドウェルはこの丘での戦いに15個連隊を注ぎ込み、数の上では2対1で勝っていた。
 しかし、2倍以上の兵力を同時に投入することはできなかった。
 ジャクソンはその攻撃の手を緩めず、第4バージニア歩兵連隊の兵士に向かって、「敵が50ヤード (45 m)の距離に近づくまで発砲せずに溜めろ。それから発砲して銃剣攻撃だ。突撃する時は怒ったように叫び声を上げろ。」と告げていた。
 北軍は初めて反乱軍の雄叫びを聞いた。
 午後4時頃、フィリップ・コック大佐の旅団の2個連隊による攻撃で、最後の北軍部隊がヘンリーハウスヒルから押し返された。
 この戦場の西方では、北軍ハインツェルマン師団の
   オリバー・ハワード大佐
の旅団がチンリッジを占領していた。
 やはり午後4時頃、シェナンドー渓谷から
   ジュバル・アーリー大佐
   カービー・スミス准将
の2個旅団が到着して、ハワードの旅団を打ち破った。
 ボーリガードは全軍に前進を命じた。
 マクドウェル軍は崩壊して撤退を始めた。
 この撤退はブルラン・クリークを渡るまでは比較的秩序だって行われた。
 しかし、北軍の士官はもはや指揮することが出来なくなっていた。
 カブラン・クリークに架かる橋の上で北軍の荷車に砲弾が当たって転覆した時、マクドウェル軍に恐怖が走った。
 兵士達が武器や装備もかなぐり捨ててセンタービルへ向けて這々の体で走り始めた。
 マクドウェルはディクソン・マイルズ大佐の師団に殿軍を務めるよう命令した。
 しかし、ワシントンの手前で部隊を再招集することは不可能だった。
 それに続く混乱の中で数百におよぶ北軍兵士が捕虜になった。
 そこから至近距離にあるワシントンからは、政治家やその家族を含む富裕な特権階級が北軍の容易な勝利を予測してピクニックに訪れ戦闘を観戦していた。
 北軍の兵士が無秩序に走って逃げてきたとき、ワシントンへ向かう道は恐怖に捕らわれて馬車で逃げようとする市民達で塞がれてしまった。
 ボーリガードとジョンストンはこの勝機を徹底的に押し通すまではやらなかった。
 アメリカ連合国大統領の
   ジェファーソン・デイヴィス
が北軍兵士が逃げる様を見るために戦場に到着した。
 追撃を奨励したものの、両将軍の軍隊も北軍と同じくらいに乱れきったままであった。
 ジョンストンが
   ミレッジ・ボーナム准将
   ジェイムズ・ロングストリート准将
の旅団を使って北軍の右側面から割り込ませようとしたが、失敗に終わった。
 2人の指揮官は互いに罵り合ったが、ボーナムの兵士が北軍殿軍の砲火を浴び、リチャードソンの旅団がセンタービルに向かう道路を塞いでいるのを見て、追撃を中止した。
 北部の日記文学者ジョージ・テンプルトン・ストロングは「今日という日はブラック・マンディとして知られるだろう。我が軍は連邦脱退主義者によって完全にみっともなく敗北し、圧倒され、笞打たれた。」と記録している。 
 北軍の損失は戦死460名、負傷1,124名、捕虜または不明が1,312名となった。
 南軍は戦死387名、負傷1,582名、不明13名となった。
 南軍の旅団指揮者としては
   フランシス・バートウ大佐
が最初の犠牲者になった。
 ビー将軍は瀕死の重傷を負い、翌日死んだ。
 北軍も北部市民も南軍がワシントン市に進軍してくることを恐れた。
 この時点ではそれを阻むことができる勢力はほとんどなかった。
7月24日、ロー教授が熱気球を飛ばしてマナサス中継駅やフェアファックスの辺りにいる南軍を観察した。
 南軍が大軍で居る兆候が無いことを確認したが、敵の支配地域内への着陸を余儀なくされた。
 ローは一晩掛かって救出され参謀本部に報告できた。
 ローの偵察報告は北軍の指揮官達を安堵させるものであった。
 ボーリガードはこの戦闘の英雄と見なされ、即日、デイヴィス大統領が南軍の大将に昇進させた。
 ストーンウォール・ジャクソンは疑いもなくこの勝利に対する戦術的貢献者であったが、特に表彰はなされなかった。
 その活躍は次のバレー方面作戦に持ち越されることになった。
 アービン・マクドウェルは北軍敗北に対する非難の矢面に立たされ、間もなくジョージ・マクレランにすげ替えられた。
 マクレランは北軍の総司令官にもなった。
 マクドウェルはこの13ヶ月後に行われた
   第二次ブルランの戦い
でジョン・ポープ少将が南軍の
   ロバート・E・リー将軍
に敗れたときも重大な責任があると非難され、パターソンも指揮官から外された。
 この戦闘の名前は1861年以来論議が分かれている。
 北軍は戦闘の局面の推移に関わった川やクリークの名前を戦闘名にすることが多かった。
 対する南軍では近くの町や農園の名前を戦闘名にすることが多かった。
 アメリカ合衆国国立公園局は南軍の命名による「マナサス」を採用し、戦場跡をマナサス国立戦場公園とした。
 ただ、北軍が命名したブルランは大衆文学などで広く使われている。
 この戦闘の時まで両軍の軍旗が似通っており混乱を招いた。
 南軍は「星とバー」(Stars and Bars)であり北軍は「星と筋」(Stars and Stripes)であった。
 この後、南軍は新しい軍旗(Stainless Banner)を採用し、これが南軍とその後の南部を象徴するものになった。
◯第二次ブルランの戦い(1862年8月28日から8月30日)
 第二次ブルランの戦い(Second Battle of Bull Run)南部での呼称は第二次マナサスの戦い(Battle of Second Manassas)は、南北戦争の東部戦線の一部であり、1862年8月28日から8月30日に戦われた。
 南軍の将軍ロバート・E・リーの
   北バージニア軍
によって、北軍のジョン・ポープ少将のバージニア軍に対抗して遂行された攻撃的作戦の頂点をなすものである。
 1861年に同じ場所で戦われた第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い)よりもはるかに大きな規模と戦力で戦われた。
 南軍のストーンウォール・ジャクソン少将は広範囲に及ぶ敵の側面に回り込む行軍に続いて、バージニア州マナサスの鉄道結節点にあった北軍の補給庫を占領した。
 北軍ポープ将軍のワシントンD.C.との通信線を脅かした。
 ジャクソンは北西へ数マイル後退し、ストーニー・リッジで防御的布陣を行った。
 1862年8月28日、ジャクソンはグラブトン近くのブローナー農園で北軍の1隊を攻撃したが、引き分けに終わった。
 同じ日、ジェイムズ・ロングストリート少将が指揮するリー軍の1翼が
   サラフェアギャップの戦い
で北軍の軽い抵抗を突破し、戦場に近付いた。
 ポープはジャクソンが罠に嵌ったと確信するようになり、その軍の主力をジャクソンに集中させた。
 8月29日、ポープは工事中の鉄道路盤に沿って陣取ったジャクソン軍に繰り返し攻撃を掛けさせた。
 この攻撃は両軍に大きな損失を与えたが北軍が撃退された。正午、ロングストリート軍がサラフェアギャップから戦場に到着し、ジャクソン軍の右翼に陣取った。8月30日、ポープは改めて攻撃を掛けさせたが、ロングストリートが戦場に到着したことを知らないようであった。
 北軍フィッツ・ジョン・ポーターの第5軍団による攻撃に対して南軍が集中砲火を浴びせて打撃を与えた。
 ロングストリートの5師団25,000名からなる右翼が反撃を行った。
 これは南北戦争の中でも最大の同時集中攻撃になった。
 北軍の左翼が崩壊し、ブルラン川の後方に撤退した。
 北軍後詰め部隊の効果的な行動により、第一次マナサスの戦いのような惨事の再現だけは免れた。
 それでもポープ軍のセンタービルへ向けた撤退は慌ただしいものだった。
 1862年6月の七日間の戦いでジョージ・マクレラン少将の
   半島方面作戦
が瓦解した後に、エイブラハム・リンカーン大統領は新しく結成したバージニア軍指揮官に
   ジョン・ポープ
を指名した。
 ポープは西部戦線で幾らかの成功を収めており、リンカーンはマクレランよりもより攻撃姿勢のある将軍を求めた。
 北軍のバージニア軍は総勢51,000名で3軍団に分かれ
 フランツ・シーゲル少将の第1軍団(後のポトマック軍第11軍団)
 ナサニエル・バンクス少将の第2軍団(後のポトマック軍第12軍団)
および第一次ブルランの戦いで敗北したときの指揮官、
 アービン・マクドウェル少将の第3軍団(元ポトマック軍第1軍団、後にポトマック軍に復帰)
だった。
 マクレランのポトマック軍から3個軍団(第3軍団、第5軍団および第6軍団)の一部と、アンブローズ・バーンサイド少将の第9軍団(ジェシー・リー・リノ少将が指揮)がこの戦闘に参戦し、結果的に総勢は77,000名となった。
 南軍の方では、ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍が総勢55,000名を2つの「翼」あるいは「指揮」に分けられた。
 「右翼」はジェイムズ・ロングストリート少将が、「左翼」はストーンウォール・ジャクソン少将が指揮した。
 J・E・B・スチュアート少将指揮下の騎兵師団がジャクソンの翼に付けられた。
 ポープの任務は幾つかの目的を果たすことだった。
 ワシントンとシェナンドー渓谷を守り、ゴードンスビルの方向に動いてマクレラン軍から南軍を引き離す事だった。
 七日間の戦いでマクレラン軍と対戦したリーの経験に基づけば、マクレランはもはやバージニア半島にあっても脅威ではないと認識した。
 自軍全軍をリッチモンドの守りに就けておく理由は無いと感じていた。
 このことで、ジャクソン軍をゴードンスビルに配置してポープ軍を堰き止め、バージニア中央鉄道を守らせることができた。
 リーは胸の内に大きな作戦を描いていた。
 北軍はマクレラン軍とポープ軍とに分かれており、その位置が大きく隔たっているので、マクレラン軍に注意を戻す前にポープ軍を叩き潰す機会だと捉えた。
 A・P・ヒル少将に12,000名の部隊をつけて、ジャクソン軍に合流させた。
 8月3日、北軍の総司令官ヘンリー・ハレックはマクレランに半島からの撤退を完了させた。
 ポープ軍を支援するために北バージニアに戻るよう指示した。
 この指示に対し、マクレランは抗議し、8月14日まで部隊の移動を始めなかった。
 8月9日、ナサニエル・バンクスの軍団がシーダー山の戦いでジャクソン軍を攻撃した。
 初めは調子が良かったが、A・P・ヒルに率いられた南軍が反撃してバンクス軍をシーダー・クリークの背後まで後退させた。
 しかし、ジャクソン軍の前進は北軍の
   ジェイムズ・B・リケッツ准将
の師団によって遮られた。
 この時までにジャクソンはポークの各軍団が集結しており、個別撃破しようという作戦を難しくしたことを知った。
 ジャクソンは8月12日までその陣地に留まり、その後ゴードンスビルまで後退した。
 8月13日、リーはロングストリート軍をジャクソンの補強に派遣した。
 8月22日から25日まで、両軍はラッパハノック川沿いで小さな戦闘を繰り返した。
 激しい雨で川水は脹れ上がり、リーは自軍に川を越させることができなかった。
 この時までに半島からポトマック軍からの増援が到着しつつあった。
 リーは北軍がこれらの追加軍を得て南軍を勢力的に上回った事態に直面した。
 その新しい作戦はジャクソンとスチュアートに全軍の半分の兵力を付けて、ポープの通信線であるオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道を切断するために回り込みを行わせることだった。
 ポープ軍は撤退を強いられ、動いて脆弱になった時に打ち破られるはずだった。
 ジャクソンは8月25日に出発し、その夜にセイラム(現在ではマーシャル)に到着した。
 8月26日の夕刻、ジャクソンの翼はサラフェアギャップを経由してポープ軍の右翼に回り込んだ後で、ブリストーでオレンジ・アレクサンドリア鉄道を攻撃した。
 8月27日の夜明け前にマナサス鉄道結節点にあった北軍の大規模補給庫を占領し破壊した。
 この急襲で、ポープはラッパハノック川沿いの防御的戦列から急速な後退を強いられた。
 8月27日から28日に掛けての夜の間、ジャクソンはその各師団を北にある第一次ブルランの戦場まで行軍させ、ストーニー・リッジ下にある未完成の鉄道路盤の背後に陣を構えた。
 この防御陣は良いものであった。深い森が南軍の部隊を隠し、南に数百ヤードに過ぎない北軍の行軍路と想定されるウォーレントン・ターンパイクは良く見通すことができた。
 ロングストリート軍がジャクソン軍に加わるとしても良い進入路があり、このことはもし時間通りに援軍が得られない場合でも、ブルラン山に向かってジャクソン軍が後退することも可能にしていた。
 また未完成の鉄道路盤は凸凹があって、誂えの塹壕の役目を果たせた。
 8月28日のサラフェアギャップの戦いでは、ロングストリートの翼が北軍のわずかな抵抗を突破し、渓谷を通ってジャクソン軍に合流した。
 この一見些細に見える行動で、リー軍の2つの翼がマナサスの戦場で合流できたので、来るべき戦いでポープ軍が敗れることを事実上確実にした。
 8月28日、ジョン・ブローナー家の農園近くでジャクソン軍が監視している中を北軍の縦隊がウォーレントン・ターンパイクに沿って動いたときに第二次ブルランの戦いが始まった。
 この部隊はルーファス・キング准将の師団に属する部隊だった。
 ジョン・P・ハッチ、ジョン・ギボン、アブナー・ダブルデイおよびマーセナ・R・パトリック各准将の旅団がセンタービルにいるポープ軍の残りに集結するために東方へ移動していた。
 キングはその日早くに重いてんかん性の発作を起こしていたので、自分の師団には同行していなかった。
 ジャクソンは、ロングストリート軍が合流するために進行中であることを知らされていたので安心して、北軍に自分自身の姿を見させるようにしたが、その存在は無視された。
 ポープが軍をブルラン川の背後に退いてマクレランの到着しつつある軍隊と合流するのではないかと心配し、攻撃を始めることを決断した。
 樹木が並ぶ前線の背後に戻ってから部下に、「兵士達を表に出せ、紳士諸君」と伝えた。
 午後6時半頃、南軍の大砲が前面にいる敵部隊、
   ジョン・ギボン
の黒帽子旅団(後に鉄の旅団と名付けられた)に向かって砲撃を開始した。
 元は砲兵であったギボンは、第4アメリカ砲兵隊B大隊からの応射で応えた。
 砲撃の開始でキングの縦隊が止まった。
 ハッチの旅団はその場所を通り過ぎており、後方にいたパトリックの旅団は隠れ場所を求めた。
 ギボンとダブルデイの旅団だけがジャクソンの攻撃に応じた。
 ギボンは、(ポープの情報に拠れば)ジャクソンはセンタービルにいると想像されていたので、この砲撃を単に
   J・E・B・スチュアート
の騎馬砲兵隊の大砲からのものだと思っていた。
 ダブルデイと協議した後で、第2ウィスコンシン歩兵連隊の古参兵を丘の上に送って、うるさい大砲を蹴散らさせることを提案した。
 左翼にいた我々の部隊は狂人のエネルギーと真に驚嘆すべき死を顧みない無謀さで弾を詰め発砲したが、人間の性質としてそのような恐ろしく浪費的な砲火をいつまでも辛抱していることができなかった。
 前線における大きな隙間を文字通り刈り取っていったが、孤立した部隊が共に集まり、まさに死に向かって飛び込んでいった。
 エドガー・オコーナー大佐の指揮する第2ウィスコンシン歩兵連隊はブローナーの森を抜けて前進した。
 430名の部隊が農家の南東の空き地に到着したとき、南軍でも最も名高い部隊である
   ウィリアム・S・ベイラー大佐
が指揮するストーンウォール旅団に遭遇した。
 この時は多くの戦いで消耗し800名に過ぎなかった。
 150ヤード (140 m)の距離を置いて、ウィスコンシン連隊はこのバージニア人に破壊的一斉射撃を行った。
 南軍は両軍の距離が80ヤード (73 m)まで接近したときに反撃した。
 両軍に応援が追加され、互いを至近距離に置きながら、ほとんど遮るものもないままに、2時間以上も一斉射撃を交わし続けた。
 ジャクソンはこの戦闘を「激しくて血に飢えた」と表現した。
 ギボンは第19インディアナ連隊を追加した。
 ジャクソンは、師団指揮官のリチャード・イーウェル少将に命令を出す代わりに、直接その連隊に指示を出しており、アレクサンダー・R・ロートン准将の旅団に属する3個ジョージア連隊を投入した。
 ギボンはこの攻勢に第7ウィスコンシン歩兵連隊を投入して対抗した。
 ジャクソンは、アイザック・R・トリンブル准将の旅団にロートン旅団を支えるように命じた。
 これがギボンの最後の連隊である第6ウィスコンシン歩兵連隊に対応した。
 トリンブル旅団が投入された後は、ギボンの部隊が甚だしい劣勢になり、ダブルデイに援軍を要請した。
 ダブルデイは第56ペンシルベニア連隊と第76ニューヨーク連隊を送って、第6と第7ウィスコンシン連隊の間の隙間を埋めた。
 これらの部隊は暗くなってから戦場に到着しており、トリンブルもロートンも連携が取れないままに攻撃を始めていた。
 ジョン・ペルハム大尉が指揮する騎兵砲兵隊がジャクソンに前進を命じられ、100ヤード (91 m)も無い距離から第19インディアナ連隊を砲撃した。
 戦いは午後9時頃に終了し、ギボンとダブルデイは連絡が取れないままに、整然とターンパイクまで後退した。
 南軍も疲れ果てており追撃できなかった。
 この戦闘は実質的に引き分けだったが、損失は大きく、北軍は1,150名、南軍は1,250名となった。
 第2ウィスコンシン連隊は参加した430名のうち276名を失った。
 ストーンウォール旅団は800名の内340名を失った。
 ジョージアの2個連隊、トリンブルの第21連隊とロートンの第26連隊は、それぞれその70%以上を失った。
 全体では、戦闘に参加した3人に1人が撃たれた。
 南軍のウィリアム・B・タリアフェーロ准将は、「この戦闘には操軍は無く、戦術もほとんど無かった。
 忍耐の問題であり、両軍共に耐えた。」と書き記した。
 タリアフェーロやイーウェルは負傷し、イーウェルの右足は切断された。
 数呼吸の間に我々の全戦列が敵との激しくて血に飢えた戦闘に突入した。
 1つの戦列が撃退されるともう1つがそれに取って代わり、多数を恃んで決められているかのように前進した。
 戦闘の激しさで我々の陣地から駆り出された。
 ジャクソンは勢力的に勝っていた(南軍6,200名に対しギボンの部隊は2,100名)にも拘わらず、決定的な勝利を得られなかった。
 これは、暗闇と、部隊をバラバラに投入したこと、および中心になる2人の将軍が負傷したことによっていた。
 しかし、ジョン・ポープの気を引くという戦略的な目論見は果たせた。
 ポープは、ブローナー農園の戦闘はジャクソンがセンタービルから退こうとしているときに起こったと、誤った解釈をした。
 ポープはジャクソンを「追い詰めた」と思っており、ロングストリートの援軍が到着する前にジャクソンを捕まえてしまいたかった。
 その夜。ポープがフィリップ・カーニー少将に送った伝言には、「マクドウェル将軍が敵の後退を遮り、今はその前面にいる。...彼が今夜北へ行くことのできる間道に逃れられなければ、きっと捕まるに違いない。」と書かれていた。
 ポープは部下に対して、ジャクソンを取り囲み明朝攻撃せよという命令を出した。
 ただ、幾つかの誤りを犯していた。
 マクドウェルとシーゲルはブルラン山に向かうジャクソンの退路を塞いでいると思っていた。
 しかし、この両隊の大半はマナサス・サドリー道路に沿ってジャクソンの南東にいた。
 ジャクソンが撤退しようとしているという思いこみは完全に間違っていた。
 ジャクソンは絶好の防衛陣地におり、ロングストリートの到着を待って、ポープ軍を攻撃しようとしていた。
 ロングストリート軍の動きに関する情報は入っていたが、ポープは不可解にもその到着が戦闘に与える効果を計算に入れていなかった。
 ジャクソンはロングストリートが北バージニア軍の残りを連れて到着するまでポープ軍を引き付けておくために、ブローナー農園で戦闘を始めた。
 ロングストリート軍25,000名は8月29日の午前6時にサラフェアギャップからの行軍を開始した。
 ジャクソンはスチュアートを派遣して、ロングストリート軍の最初の部隊を誘導した。
 ジャクソンが予め選んでおいた陣地に就かせるようにした。
 ジャクソンは到着を待つ間に、ポープ軍がその朝に攻撃してきた場合の防御陣を再配置させた。
 ストーニーリッジの南に3,000ヤード (2,700 m)の長さにわたって20,000名の配置を終えた。
 北軍シーゲルの第1軍団がマナサス・サドリー道路に沿って展開しているのに気付き、A・P・ヒルの旅団には左翼のサドリー教会近くの鉄道路盤の背後に就くように命じた。
 ヒルはその陣地が地形的に弱い(深い森のために大砲の効果的な配置が難しかった)ことに気付いた。
 所属する旅団、マクしー・グレッグ准将のサウスカロライナ旅団とエドワード・L・トーマス准将のジョージア旅団を前に2列に配置した。
 ジャクソンはその戦列の中央で、イーウェル師団の2個旅団(イーウェルが足を切断したので、アレクサンダー・ロートン准将が指揮を執っていた)を置き、右翼にはウィリアム・B・タリアフェーロ准将、そのときはウィリアム・E・スターク准将の指揮する師団を置いた。
 ポープの作戦はジャクソン軍の両翼に対して動くことだった。
 フィッツ・ジョン・ポーターにはゲインズビルに向かって動き、南軍の右翼と考えられるものに攻撃する司令を出した。
 シーゲルには夜明けと共にジャクソンの左翼を攻めるように命令した。
 シーゲルは、ジャクソンが再配置したことを知らず、
   ロバート・C・シェンク
の師団を広く展開させて前進させた。
 ジョン・F・レイノルズ准将の師団(ハインツェルマンの第3軍団)を左翼に、ロバート・H・ミルロイ准将の独立旅団を中央に、カール・シュルツ准将の師団を右翼に配置して支援させた。
 シュルツの2個旅団がマナサス・サドリー道路を北へ動き、午前7時頃に初めてジャクソンの部隊に遭遇した。
 シーゲルのA・P・ヒル師団に対する攻撃はその日のストーニーリッジ近くでの全ての戦闘に共通するやり方で行われた。
 未完成の鉄道路盤は幾つかの場所で自然の防御陣地になっていた。
 ただ、概して南軍は固定的な防御は避け、北軍の攻撃を吸収しては続いて活発な反撃を行った。
 これはジャクソンが数週間後の
   アンティータムの戦い
で採った戦術と同じだった。
 シュルツの
   アレクサンダー・シンメルフェニング准将
   ヴラジミエシュ・クルチザノーフスキー大佐
の指揮による2個旅団がグレッグとトーマスの部隊と激しく衝突した。
 両軍共にバラバラな戦い方となった。
 ミルロイが自隊の右手で起こった戦闘の音を聞き、その2個連隊にシュルツ軍の支援を行うよう命じた。
 彼らは幾らかは成功し、第82オハイオ連隊がダンプと呼ばれる窪地で南軍の前線を突破したが、結局は撃退された。
 シェンクとレイノルズは激しい砲火を浴びて、大砲で反撃したが、歩兵は前に進めなかった。
 シュルツは第3軍団カーニーの師団が自隊の支援準備をしていると考え、午前10時頃に再度ヒル軍への攻撃を命じた。
 しかし、カーニーの部隊は前進せず、2回目の攻撃は失敗した。
 歴史家達はカーニーのこの日の行動を責めて、カーニーがシーゲルに対して抱いていた個人的な悪意の性としている。
 午後1時までに、シーゲルの部隊は
   ジョセフ・フッカー少将
の師団(第3軍団)と
   アイザック・スティーブンス准将
の旅団(第9軍団)の増援を受けた。
 ポープも戦場に到着しその勝利の最高の場を見られるものと期待していた。
 なお、この時までにロングストリートの最初の部隊がジャクソンの右翼に配置された。
 ジョン・ベル・フッド准将の師団がターンパイクを跨いでジャクソンの右翼に大まかに連接することになった。
 フッド隊の右には
   ジェイムズ・L・ケンパー准将
   デイビッド・R・"ニーバー"・ジョーンズ准将
の各師団が就いた。
 カドマス・M・ウィルコックス准将の師団が最後に到着し、予備隊とされた。
 スチュアートの騎兵隊はマナサス・ゲインズビル道路を移動中のポーター、ハッチおよびマクドウェルの部隊と遭遇した。
 短時間の銃撃戦で北軍の動きを止めた。
 このとき、ポーターとマクドウェルに伝言を持った伝令が到着し、「連合命令」と呼ばれることになるポープからの議論の多い命令書を渡した。
 歴史家の
   ジョン・J・ヘネシー
は、この命令を「何十年もの論争の焦点となった矛盾と錯乱の傑作」と表現した。
 それには既に進行中だったジャクソン軍左翼への攻撃が書かれていた。
 ただ、ポーターとマクドウェルが何をすべきかが不明だった。
 この命令書の何処にも、ポープはポーターとマクドウェルに明白に攻撃を指示していないし、さらに「この命令から逸脱することで、もしかなりの利点が得られるならば、厳密に従わなくともよい」という言葉で締め括られており、軍事命令としては事実上使いようの無いものになっていた。
 一方、スチュアートの配下で
   トマス・ロッサー大佐
の騎兵隊が、木の枝を1個連隊の馬で引き摺ることで、大部隊の兵士が行軍中に挙げる砂塵に似せ、北軍の将軍達を欺いた。
 この時、マクドウェルは騎兵隊指揮官
   ジョン・ビュフォード准将
から報告書を受け取っており、17個歩兵連隊、1個砲兵大隊および500騎の騎兵が、午前8時15分にゲインズビルを通過したというものだった。
 これはサラフェアギャップから移動するロングストリートの部隊であり、2人の北軍将軍にこの先困難さが待ち受けていると警告した。
 北軍の前進が再び止まった。
 何らかの理由でマクドウェルはこの報告書をポープに回送することを怠った。
 そのため、ポープに渡ったのは午後7時頃となって、総軍指揮官は2つの甚だしく誤った認識の下に動いていた。
 つまりロングストリートは戦場から離れたところにおり、ポーターとマクドウェルはジャクソンの右翼攻撃に向かっているという認識だった。
 ロングストリートの部隊が最終配置に就くと、リー将軍は北軍左翼に対する攻勢を命じた。
 ロングストリートは後に、リーが実行できればできるだけ速やかに戦わせたいと考えていたが命令はしなかったことを思い出した。
 しかし、ロングストリートは北軍レイノルズとシェンクの師団が自軍の前線の半分を包み込むようにウォーレントン・ターンパイクの南に拡がっているのを目にして、この時攻撃を掛けることに反対を表明した。
 リーは、J・E・B・スチュアートがゲインズビル・マナサス道路の部隊は(ポーターとマクドウェル軍)は手強いと報告した時に、最終的に折れた。
 ポープは、彼が命令したと思っていた通りにジャクソン軍右翼に対する攻撃が進んでいると思っており、ポーターが最後の痛撃を与えるまで南軍の注意をそらせる意図で、ジャクソン軍正面に4度の別々の攻撃を承認した。
 キュビエ・グロバー准将の旅団がカーニー師団の支援があることを期待しながら、午後3時ころに攻撃した。
 グロバーは幸運にもトーマスとグレッグの部隊の間に開いた隙間を偶然に衝くことができた。
 その猛烈な銃剣攻撃は一時的に成功した。
 ただ、カーニーは今回も命令されたように前進せず、ポープは主攻撃を支援する意図が無かった。
 ドーシー・ペンダー准将の旅団が痛撃を加えて撃退した。
 レイノルズはターンパイクの南で妨害攻撃を行うよう命令されていた。
 ロングストリート部隊に出逢い、その示威行動を中止することになった。
 ポープはレイノルズの心配を誤った認識として片付け、ジャクソン軍の側面攻撃に備えていたポーターの第5軍団に分け入っただけだと主張した。
 ジェシー・レノは第9軍団の
   ジェイムズ・ネイグル大佐
の旅団に、再度ジャクソン軍前線の中央を攻撃するよう命じた。
 このときは、アイザック・R・トリンブルの旅団が鉄道の盛り土から後退させられた。
 ただ、南軍の反撃で前線を回復し、さらに北軍の砲兵隊がその前進を止めるまでネイグルの部隊を開けた戦場まで押し返した。
 午後4時半、ポープは最終的にポーターに明白な攻撃命令を送った。
 しかし、ポープの副官(かつその甥)は道を誤り、午後6時半まで伝言を届けられなかった。
 いずれにしても、ポーターはその時、その日早くに居た場所よりも攻撃に適した位置にはいなかった。
 ポープは襲ってくることのない攻撃を予測して、カーニーにジャクソン軍の最左翼を攻撃するよう命じ、前線の両端に強い圧力を掛けようとした。
 午後5時、この戦闘では初めて、カーニーの激しい攻撃的性格が現実に出てきて、10個連隊を使って押し寄せ、A・P・ヒルの消耗した師団を襲った。
 この日の最も激しい戦闘の中で、ローレンス・オブライアン・ブランチとジュバル・アーリー各准将の旅団による反撃で、北軍の前進は撃退された。
 南軍の右翼では、ロングストリートがその前線から距離を置いたマクドウェル軍の動きを観察していた。
 第1軍団はレイノルズを支援するためにヘンリー・ハウス・ヒルに師団を師団を動かした。
 この報告を受けたリーはその地域で攻勢に出る作戦を復活させた。
 ロングストリートは再度その作戦に反対を表明したが、このときは薄暮前の不適切な時間帯が理由だった。
 ロングストリートはその代わりに、敵軍の配置を探り、翌朝の攻撃に備えるために、威力偵察を提案した。
 リーは同意し、フッドの師団を前に押し出させた。
 これと同時に、ポープは、この時も南軍が退却しているという思いこみに囚われており、ジョン・P・ハッチの師団をターンパイクの西方に送って追求させた。
 フッド隊とハッチ隊はグラブトンの交差点で短時間衝突したが、短くも激しい対決は暗闇と共に終わり、両軍とも引き返した。
 ロングストリートとその部下達は再度リーに対して、強固な防御陣を布いていると考えられる敵軍に攻撃を仕掛けるべきではないと主張した。
 リーはその攻撃作戦を撤回したが、撤回はこれで3度目となった。
 ポープがマクドウェルからビュフォードの報告について知らされたとき、やっとロングストリート軍が戦場にいることを認識した。
 南軍全体が撤退するときにロングストリート軍はジャクソン軍を支援するためにそこにいる、という楽観的な思いこみをしていた。
 実際にフッドの師団は後退した。
 ポープはポーターの第5軍団に本隊との合流を命じ、8月30日の攻撃について作戦を練った。
 歴史家のA・ウィルソン・グリーンはこのポープの判断がこの戦闘の中でも最悪のものだとした。
 このとき北軍は南軍にたいして勢力的優位に立っておらず、地形的な利点も無かった。
 最も分別のあるやり方はブルラン川の後方まで退いて、近くにいた25,000名を擁するマクレランのポトマック軍と合流することだった。
 この戦闘に関する歴史家の間の議論の一つは、ジョージ・マクレランのポープとの連携に関するものである。
 8月遅くに、ポトマック軍の2個軍団(ウィリアム・B・フランクリンの第6軍団とエドウィン・V・サムナーの第2軍団)がアレクサンドリアに到着していたが、マクレランは砲兵、騎兵および輸送支援部隊が不適切と考えた。
 このために、マナサスへの進軍を認めなかった。
 マクレランは、ポープの立場を弱らせようと図ったとして政敵に非難された。
 8月10日にその妻に宛てた手紙の中で「ポープは2日のうちにひどく打ちのめされるだろう。...彼らはその窮状の救済を私に押しつけて喜ぶことだろう。私は全軍の支配を与えられなければ、それを引き受けない」と書いた時、歴史におけるその立場をあやうくした。
 マクレランは8月29日にエイブラハム・リンカーンに対して、「ポープをその窮地から出してやって、あらゆる手段を尽くして首都の完全な安全を守ること」が賢明だろうと伝えた。
 ロングストリート軍の最後の部隊であるリチャード・H・アンダーソン少将の師団が、17マイル (27 km)を行軍して、8月30日午前3時に戦場に到着した。
 彼らは疲れており地域に不案内だったのでグラブトンの東の尾根で停止した。
 夜明けにその場所が孤立しており、敵軍とも近すぎることを認識して、後退した。
 ポープの南軍は撤退しつつあるという考えは、前夜のフッド隊の後退に続いて起こったこの動きで補強された。
 午前8時、ポープ本部の作戦会議で、ポープの部下達はその指揮官に慎重に行動するよう説得を試みた。
 午前10時頃にストーニーリッジの南軍前線を探ると、ジャクソン軍は依然として強固な防御陣を布いていることが分かった。
 ジョン・F・レイノルズはターンパイクの南の南軍勢力は大きいと報告した。フィッツ・ジョン・ポーターは同じような情報を持ってその後に到着した。しかし、ハインツェルマンとマクドウェルはそれぞれの偵察を行った。
 ジャクソン軍の防御戦を見出すことが出来なかったので、ポープは最終的に撤退しつつある南軍に攻撃を掛ける決断をした。
 正午少し過ぎに、ポープはポーターの第5軍団に、ハッチとレイノルズによる支援を付けて、ターンパイクに沿って西に進軍する命令を発した。
 これと同時に、リケッツ、カーニーおよびフッカーは北軍の右翼を前進した。
 この2つの動きが撤退しつつある南軍を潰すだろうというものだった。
 しかし、南軍は撤退してはおらず、実際には攻撃を待っていた。
 リーは依然としてロングストリート軍による反撃の機会を待っていた。
 ポープがこの日に攻撃してくるかどうか確信を抱いていなかったが、スティーブン・D・リー大佐の大砲18門をブローナー農園北東の高台に据えさせた。
 そこはジャクソン軍陣地の前の開けた戦場への砲撃に適した場所だった。
 ポーターの軍団は実際にはターンパイクを西に進める位置ではなく、グラブトン近くのターンパイク北の森にいた。
 その前面にあるジャクソン軍に対する攻撃のために、10,000名の部隊を配列するには約2時間を要した。
 目標は、そのときウィリアム・E・スターク准将が指揮するジャクソンの古い師団だった。
 北軍の攻撃を先導する師団はジョージ・W・モレル少将に代わったダニエル・バターフィールド准将に指揮され、ヘンリー・ウィークス大佐の旅団が左翼に、チャールズ・W・ロバーツ大佐の旅団が中央に置かれた。
 ハッチの師団が軍団の右翼に就いた。ジョージ・サイクス准将指揮下の正規兵2個旅団は予備隊とされた。
 北軍は大変な任務に直面していた。
 バターフィールドの師団は、未亡人
   ルシンダ・ドーガン
が所有する600ヤード (550 m)の開けた牧草地を横切らねばならず、最後の150ヤード (140 m)は険しい上り坂であった。
 また、未完成の鉄道の陰の強固な陣地を攻撃しなければならなかった。
 ハッチの師団は300ヤード (270 m)だけだったが、南軍を正面から叩くためには銃火の中を複雑な右回りの行軍を行う必要があった。
 かれらはスティーブン・D・リーの砲兵隊から来る破壊的な砲火を浴びた。
 続いて前線に並ぶ歩兵からの容赦のない一斉射撃を浴びた。
 それでも南軍の前線を突破し、第48バージニア歩兵連隊を崩壊させた。
 ストーンウォール旅団が前線を保つために突入し、その指揮官
   ベイラー大佐
を含む大きな損失を出した。
 この戦闘の中で疑いもなく最も有名な出来事となったものは、
   ブラドリー・T・ジョンソン大佐
   レロイ・オーガスタス・スタフォード大佐
の旅団が激しく発砲したので、弾を使い果たし、大きな岩を第24ニューヨーク連隊に投げつける手段に訴えて損傷を与え、驚いたニューヨーク兵達はそれを投げ返した。
 ジャクソン軍の疲れ切った防御陣を支援するため、ロングストリートの砲兵隊が戦闘に分け入ろうとした北軍増援隊に砲弾を浴びせ、部隊をバラバラにした。
 ポーター軍は相当数の損失を受けていたが、サイクスの予備師団の投入を行わず、その攻撃を止めた。
 実質的に先導役をしていた旅団が支援もないままに脱出するに任せた。
 この撤退はさらに損失を生む行動になった。
 スタークの旅団の南軍兵は喜んで追撃に掛かったが、グラブトン・サドリー道路に控えていた北軍予備隊に撃退された。
 結局ジャクソン軍は消耗が激しく反撃できず、ポーター軍はターンパイクの北で立ち直る場を得た。
 しかし、ポーター軍の状態を心配したアービン・マクドウェルはレイノルズの師団にチンリッジの持ち場を離れポーターの支援に回るよう命じた。
 この判断はこの日の最悪の戦術的決断だったと言っても良い。
 ターンパイクの南にいたわずか2,200名の北軍兵がその10倍の南軍と向き合うことになった。
 リーとロングストリートは、このときこそ長い間待っていた攻撃の機会ということで合意した。
 目標を第一次ブルランの戦いで重要な地点となったヘンリー・ハウス・ヒルに定めた。
 ここを占領できれば北軍の撤退路となる可能性がある所を支配できた。
 ロングストリート軍5師団25,000名は、北のブローナー農園から南のマナサスギャップ鉄道まで1.5マイル (2.4 km)近くにわたって伸びていた。
 目標の丘に到達するために、1.5ないし2マイル(2.4ないし3.2 km)の距離を、尾根、小川や深い森を抜けて進む必要があった。
 ロングストリートはこの地形に拡がる戦列をうまく連携を取らせながら進ませることは出来ないと分かっていた。
 その師団指揮官達の指導力と独創性に任せることにせざるを得なかった。
 先導する師団は左翼のターンパイク近くに
   ジョン・ベル・フッド
のテキサス部隊が
   ネイサン・ジョージ・エバンス准将
のサウスカロライナ部隊に支援されて進んだ。
 フッドの右手にはケンパーとジョーンズの師団が進んだ。
 アンダーソンの師団は予備隊とされた。攻撃の直前に、リーはジャクソンに
    「ロングストリート将軍が前進している。その左翼に気を付け守ってくれ」
という内容で信号を送った。
 ターンパイク南の北軍守備隊はわずか2個旅団しかおらず、ナサニエル・マクリーン大佐(シーゲルの第1軍団シェンクの師団)とガバヌーア・ウォーレン大佐(ポーターの第5軍団サイクスの師団)が指揮していた
 。マクリーンがチンリッジを守り、ウォーレンは約800ヤード (730 m)西のグラブトン近くにいた。
 南軍のフッド隊は午後4時頃に攻撃を始め、たちまちウォーレンの2個連隊、第5ニューヨーク連隊(デュリーのズアーブ)と第10ニューヨーク連隊(ナショナル・ズアーブ)を圧倒した。
 接触から10分間で第5ニューヨーク連隊500名のうちほぼ300名が撃たれた。
 そのうち120名は瀕死の重傷だった。
 これは南北戦争全体でも単一の戦闘で歩兵連隊の受けた最大の戦死数となった。
 ポープとマクドウェルは事態の危険性を認識し、その部隊にヘンリー・ハウス・ヒルの占領を命令した。
 それが起こるまでに、マクリーンの旅団が南軍猛攻の唯一の標的にされた。
 合計1,200名のオハイオの4個連隊はチンリッジに西面して戦列を布いており、1個砲兵大隊が支援して、まずフッド隊、続いてシャンクス・エバンスの旅団(ケンパー師団)による2回の攻撃を撃退した。
 モンゴメリー・D・コース大佐の旅団(やはりケンパー師団)による3度目の攻撃が成功した。
 マクリーンの部隊兵は尾根の南の端から近付いてくる部隊を友軍と誤り、発砲を控えていた。
 その誤りに気付いたときに、至近距離での激しい銃火が10分間交わされた。
 なお、ルイジアナ砲兵大隊から砲撃が加わって北軍の戦列を崩壊させた。
 オハイオ旅団の損失率は33%にもなったが、これでポープが増援を送るための30分間を稼いだ。
 最初に到着した北軍の2個旅団は
   リケット師団
からのものであり、
   ジーラス・B・タワー准将
   ロバート・スタイルズ大佐
が指揮していた。
 タワーの旅団は3方から攻撃されて崩壊した。
 その砲兵大隊が捕獲され、タワーも重傷を負った。
 タワーに続いたスタイルズの旅団はケンパー師団から新たに到着した、マイカ・ジェンキンス准将とエッパ・ハントン大佐の指揮する2個旅団の餌食になった。
 この激しい戦闘の間に、第12マサチューセッツ連隊の指揮官フレッチャー・ウェブスター大佐(政治家ダニエル・ウェブスターの息子)が致命傷を負った。
 シーゲルの第1軍団からジョン・コルテス大佐とヴラジミエシュ・クルチザノーフスキー大佐が指揮する2個旅団がさらに投入された。
 なお、その前の部隊と比べても甚だしい成功は得られなかった。
 南軍ジョーンズ師団の先導隊、ジョージ・T・アンダーソン大佐とヘンリー・L・ベニング大佐の旅団は、午後6時までにチンリッジにおける北軍の抵抗を追い払ってしまった。
 しかし、南軍は攻撃に成功しても、兵士においても時間の面でも大きな損失があった。
 ヘンリー・ハウス・ヒルまではまだ数百ヤード向こうにあり、日没まで1時間ぐらいの余裕しかなかった。
 R・H・アンダーソンは、チンリッジでの3時間の戦闘で最も重要な利点を活かすことが出来ず、ヘンリー・ヒルは固まった。
 それができなかったために、南軍のポープ軍を破壊する最後の機会が日の光とともに凋んだ。
 南軍の攻撃から最初の2時間、ポープはヘンリー・ハウス・ヒルの防御に4個旅団を配置できた。
 2個旅団はレイノルズの師団から、1個はサイクスの師団から、最後の1個はロバート・H・ミルロイの独立旅団だった。
 リーはその攻撃を完遂させるためには戦闘力の追加が必要であることを認識し、予備隊としていたリチャード・アンダーソンの師団の動員を命じた。
 この部隊が移動している間に、D・R・ジョーンズがベニングとG・T・アンダーソンの旅団と共に丘への攻撃を始めた。
 この部隊は3,000名となり、この日の午後で最大の集中攻撃となった。
 ただ、部隊間の連携が取れず、北軍の4個旅団がその陣地を守った。
 アンダーソンの師団から新たにウィリアム・マホーン准将とアンブローズ・R・ライト准将の2個旅団が到着して再度圧力が掛けられた。
 サイクスの師団からの正規兵は戦列の端にいて自然の防御効果が無く、ヘンリー・ハウスの方向に撃退された。
 不可解なことにアンダーソンは自分の明けた穴に付け込むことを止めたが、おそらくこれは闇が深くなったためだった。
 ヘンリー・ハウス・ヒルは北軍が確保したままとなった。
 ジャクソンは、リーからの比較的曖昧な命令でロングストリート軍を支援しており、午後6時にターンパイクの北に攻撃を掛けた。
 このタイミングは恐らくその疲れ切った部隊が集まり次第直ぐにという形だった。
 歴史家のジョン・J・ヘネシーはジャクソンの遅れを「戦いの大きな謎の一つ」であり、戦いの「南軍による最も重大な誤りの一つ」と述べている。
 また、ジャクソンの進軍の価値を下げたと続けた。
 その攻撃は、ポープがヘンリー・ハウス・ヒル防衛の支援のためにターンパイク北の部隊の後退を命じたときと一致し、南軍はその激しい攻撃で多くの大砲と歩兵部隊を制圧することができた。
 しかし、午後7時までにポープ軍はヘンリー・ハウス・ヒルの部隊とを繋ぐ強固な防御戦を作り上げた。
 午後8時、全軍にセンタービルに通じるターンパイクでの撤退を命じた。
 第一次ブルランの戦いの時の悲惨な退却とは異なり、北軍の移動は静穏に秩序立って行われた。
 南軍は戦闘に疲れ、弾薬も尽きかけていたので、暗闇の中を追跡まではしなかった。
 リーは大きな勝利を得たが、ポープ軍を潰すという目標は果たせなかった。
 第二次ブルランの戦いに参加した北軍の損失は、62,000名のうち10.000名が戦死又は負傷となった。
 南軍50,000名の内、約1,300名が戦死、7,000名が負傷した。
 北軍はセンタービルに集合したが、リーは次の作戦を立てた。
 ポープ軍とワシントンの間にその軍を割り込ませるためにジャクソン軍をもう一度回り込ませる動きをさせた。
 ポープはこの動きに反応し、両軍は9月1日に
   シャンティリーの戦い(オックスヒルの戦いとも言われる)
で最後の決戦をした。
 リーはその後すぐ北バージニア軍の先導隊がポトマック川を越えた9月3日に次の作戦を始めた。
 メリーランド方面作戦にあたったポトマック軍との運命の戦い「アンティータムの戦い」に向かうことになった。
 ポープは1862年9月12日に指揮官職を解任された。
 その軍隊はポトマック軍に合流されて、マクレランの指揮でメリーランドに進んだ。
 ポープは戦争の残り期間、ミネソタ州の北西部方面軍で過ごし、
   ダコタ戦争
に対処した。
 ポープはその敗北の責を負わせるスケープゴートを探した。
 1862年11月25日、フィッツ・ジョン・ポーターが逮捕された。
 8月29日の行動で軍法会議に掛けられた。ポーターは
   命令不服従と不正行為の廉
で1863年1月10日に有罪を宣告され、1月21日に軍隊から除籍された。
 ポーターは残りの人生をこの宣告に対する戦いで過ごした。
 1878年、ジョン・M・スコフィールド将軍の下での特別委員会は、ポーターがロングストリート軍に対する攻撃を躊躇ったことでおそらくポープのバージニア軍をさらに大きな敗北から救ったとして、ポープの容疑を晴らした。
 8年後、チェスター・A・アーサー大統領はポーターに対する判決を撤回した。
 ロングストリートは戦闘中の功績について批判され、戦後の「南部の失われた大義」の主張者は彼の鈍さ、攻撃の躊躇い、および8月29日にリー将軍に従わなかったことが、1863年7月2日の
   ゲティスバーグの戦い
で出てきた議論を呼ぶ行動の前触れだったと主張した。
 リーの伝記作者ダグラス・サウソール・フリーマンは「ゲティスバーグの多くの悲劇の種はこの瞬間に撒かれた。
 リーがロングストリートに屈し、ロングストリートがそうできることを発見した瞬間である。」と書いた。

   
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2026年07月08日

海軍による船舶協力・指導(Naval co-operation and guidance for shipping NCAGS)

海軍による船舶協力・指導(Naval co-operation and guidance for shipping NCAGS)は、海軍の教義上の用語である。
 海軍要員は、平時、緊張時、危機時、戦時を問わず、世界中の商船の安全な航行を確保するために、NCAGSの実施、確立、助言を行う訓練を受けている。
 NCAGS要員は、軍司令官と民間当局との間の連絡役を務める。
 戦時中は、NCAGS組織が船団の編成を担当することもある。
 NCAGSは、ベルブイ演習などの演習において、多くのNATO加盟国で活用されている。
 NCAGSは、海軍予備役の重要な一部となっている。
 NCAGSは多くの場合、各国間の共同事業であり、NATOは英国ノースウッドにあるNATO海事司令部傘下のNATO海運センターに、NCAGS専門の拠点を設けている。
 NCAGSは、各国海軍と民間海運業界との連携強化を目的とした多国籍演習を実施している。
 NCAGS演習(例えば「ラッキー・マリナー演習」)は、NCAGSのスキルをテストするものである。
 NCAGSは、連合世界航行情報システム(AWNIS)と混同されることがありる。
 ただ、、AWNISはNCAGSオペレーターが訓練を受けているツールのひとつに過ぎない。
 2001年以降、英国海軍は、
   ソマリアの海賊行為
に対抗するため、アラビア海における商船との情報交換と調整を行う目的で、ドバイに海軍予備役要員で構成される
   英国海上貿易作戦(UKMTO)事務所
を設置した。
 この事務所は、商船がアラビア海、紅海、ペルシャ湾の軍事部隊と連絡を取り合うための主要な窓口となっている。
 英国ポーツマスにある
   海上貿易情報センター(MTIC)
は、UKMTOの活動を支援している。
 英国海上貿易作戦局(UKMTO)は、管轄海域における海上活動に関する警告や報告書を頻繁に発表している。
 例えば、海賊行為の事例を詳細に報告し、付近を航行する船舶に警告を発している。
 UKMTOは、2025年6月時点でX上で29,000人以上のフォロワーを抱えている。
 米国海軍のNCAGSにおいて、NCAGSは
   海軍予備役
によって運営される組織であり、2018年時点で、
 ・NCAGSノーフォーク(米国艦隊部隊支援)
 ・NCAGSサンディエゴ(米国第3艦隊支援)
 ・NCAGSヒューストン(米国第4艦隊支援)
 ・NCAGSシカゴ(米国第5艦隊支援)
 ・NCAGSニューヨーク(米国第6艦隊支援)
 ・NCAGSキトサップ(米国第7艦隊支援)
の拠点で構成されていた。

  
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2026年07月07日

ガレナ(Garena 競舞)デジタルサービス企業

ガレナ(Garena 競舞)は主に東南アジア地域を中心としてゲーム、eスポーツ、eコマースおよびデジタルファイナンス事業を行うデジタルサービス企業。
 現在の会長兼グループCEOの
   フォレスト・リー
が2009年にシンガポールで設立した。
 Garenaの親会社はSea Limitedである。
 Seaの製品は、主に
   Garena(ゲームプラットフォーム)
   Shopee(モバイル電子商取引サービス)
   AirPay(デジタル決済製品)
に分かれている。
 Garenaの最初の自社開発作品の『Free Fire』はモバイル用のバトルロイヤルゲームであり、2018年にiOSとGoogle Playストアの合計で世界で4番目に多くダウンロードされた。
 Garenaは東南アジア諸国と台湾の
   Garena+
でゲーム作品を配信している。
 これには、MOBAゲーム『League of Legends』と『Heroes of Newerth』、オンラインサッカーゲーム『FIFA Online 3』、モバイルレースゲーム『爆走ドリフターズ』などがある。
 2017年に同社は4億5000万人以上の登録ユーザーを抱える『Garena Free Fire』を開発した。
 Garena(「global arena」の短縮したもの)は2009年にシンガポールで設立された。
 2010年にリリースされた最初の製品は、人々がオンラインゲームを見つけ、ダウンロードしプレイできるオンラインゲームおよびソーシャルプラットフォーム「Garena+」である。
 2011年11月、Garenaは期待のチーム制シューティングゲーム『Firefall』の東南アジアおよび台湾での配信権の保有を発表した。
 Firefallは最初のチーム制のシューティングゲームであると主張されており、TenTonHammerのReaders Choiceコンテストで「Anticipated MMO of 2012」を受賞した。
 2011年12月、Garenaはオンラインゲーム開発者Changyouとのコラボレーションを発表した。
 人気の3D格闘ゲーム『鹿鼎記』の台湾での配信・運営を行った。
 このゲームは、Garena +で利用可能な最初のMMORPGゲームであり、古代中国のストーリーと最新の3Dレンダリング技術および映画品質のグラフィックを組み合わせている。
 鹿鼎記は、中国と韓国のオンラインゲームのトップ級のエキスパート数名によって制作された。
 中国で多大な人気を得た。
 また、2011年12月にGarena CEOのフォレスト・リーは、シンガポールとマレーシアのGarenaのLeague of Legendsプレイヤー向けに「Dominion」ゲームモードをリリースした。
 2014年、世界スタートアップレポートは10億米ドルのインターネット企業としてGarenaを評価した。
 同社をシンガポール最大のインターネット企業と位置付けた。
 2015年3月、世界最大の年金基金の1つ
   オンタリオ州教職員年金基金」(OTPP)
がGarenaに投資し、企業価値を25億米ドル以上と評価した。
 2015年8月、Garenaは配信ライセンスを更新できなかったため、
   BlackShot Online
を9月1日深夜に終了することを発表した。
 その結果、すべてのゲーム配信権がVertigo Gamesに返上され、Vertigoはゲーム配信を行う
   PlayOne Asia
を立ち上げた。
 その後、Garenaは別のFPS『Alliance of Valiant Arms』を配信した。
 2017年5月、Garenaグループの持株会社の社名が
   Sea Limited
へと変更された。
 ただし、Garenaはブランド名として保持された。
 Sea Limitedは2017年10月にニューヨーク証券取引所(NYSE)に新規株式公開(IPO)を申請し、10億米ドルの調達を目指した。
 IPOの前は、
がSea Limitedの39.7%の株式を保有する主要株主であり、その他の大株主にGarenaの創業者フォレスト・リーが設立した
   Blue Dolphins Venture
が15%、リー個人で20%、最高技術責任者のGang Yeが10%保有していた。
   

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2026年07月06日

グーグル・ブレイン(Google Brain)Googleの人工知能研究部門

Google Brainは、Googleの人工知能研究部門である
   Google AIに
統合される以前は、Google唯一のAI部門として機能していた
   深層学習AI研究チーム
として活動していた。
 2011年に設立されたGoogle Brainは、オープンエンド型の機械学習研究と情報システム、大規模コンピューティングリソースを融合させていた。
 一般ユーザーがニューラルネットワークを利用できる
   TensorFlow
などのツールや、複数の社内AI研究プロジェクトを開発し、機械学習と自然言語処理における研究機会の創出を目指していた。
 2023年4月、Googleの姉妹会社であった
   DeepMind
に統合され、
   Google DeepMind
が誕生した。
 Google Brainプロジェクトは、2011年にGoogleフェローの
   ジェフ・ディーン
とGoogle研究員のグ
   レッグ・コラード
によるパートタイムの研究協力として始まった。
 Google BrainはGoogle Xプロジェクトとしてスタートした。
 ただ、非常に成功を収めたため、Googleに復帰した。
 アストロ・テラーは、Google BrainがGoogle Xの費用全額を負担したと述べている。
 2012年6月、ニューヨーク・タイムズ紙は、人間の脳活動の一部を模倣するために設計された1,000台のコンピュータに搭載された16,000個のプロセッサからなるクラスターが、YouTube動画から取得した1,000万枚のデジタル画像に基づいて猫を認識するように自己学習することに成功したと報じた。
 このニュースは、
   ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)
でも取り上げられた。
2013年3月、Googleは深層学習分野の第一人者である
   ジェフリー・ヒントン
を採用し、ヒントンが率いる
   DNNResearch Inc.
を買収した。
 ヒントン氏は、今後は大学での研究とGoogleでの業務を両立させていくと述べた。
2023年4月、Google BrainはGoogleの姉妹会社である
   DeepMind
と合併し、Google DeepMindが設立された。
 これは、GoogleがAI開発を加速させるための継続的な取り組みの一環である。
 Google Brainは、Googleフェローの
   ジェフ・ディーン氏
とスタンフォード大学客員教授の
   アンドリュー・ン氏
によって設立された。
 2014年当時、チームメンバーは
   ジェフ・ディーン氏
   クオック・V・リー氏
   イリヤ・スツケバー氏
   アレックス・クリジェフスキー氏
   サミー・ベンジオ氏
   ヴィンセント・ヴァンホーク氏
であった。
 2017年には、
   アネリア・アンジェロヴァ氏
   サミー・ベンジオ氏
   グレッグ・コラード氏
   ジョージ・ダール氏
   マイケル・アイザード氏
   アンジュリ・カンナン氏
   ヒューゴ・ラロシェル氏
   クリス・オラー氏
   ブノワ・シュタイナー氏
   ヴィンセント・ヴァンホーク氏
   ヴィジャイ・ヴァスデヴァン氏
   フェルナンダ・ヴィエガス氏
がチームに加わった。
 Appleのプログラミング言語Swiftを開発した。
 その後テスラの自動運転チームを6ヶ月間率いた
   クリス・ラットナー
は、2017年8月にGoogle Brainに加わった。
 ラットナーは2020年1月にチームを離れ、
   SiFive
に移籍した。
 2021年時点で、Google Brainは
   ジェフ・ディーン
   ジェフリー・ヒントン
   ズービン・ガフラマニ
が率いていた。
 その他のメンバーには
   キャサリン・ヘラー
   ピチュアン・チャン
   イアン・サイモン
   ジャン=フィリップ・ヴェール
   ネヴェナ・ラジック
   アネリア・アンゲロヴァ
   ルカシュ・カイザー
   キャリー・ジュン・カイ
   エリック・ブレック
   ルオミン・パン
   カルロス・リケルム
   ヒューゴ・ラロシェル
   デビッド・ハ
などがいる。
 サミー・ベンジオは2021年4月にチームを離れ、ズービン・ガフラマニが後任となった。
 Google ResearchはGoogle Brainを擁し、マウンテンビューに拠点を置いている。
 また、アクラ、アムステルダム、アトランタ、北京、ベルリン、ケンブリッジ、イスラエル、ロサンゼルス、ロンドン、モントリオール、ミュンヘン、ニューヨーク、パリ、ピッツバーグ、プリンストン、サンフランシスコ、シアトル、東京、トロント、チューリッヒにもサテライトグループがある。

   
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2026年07月05日

RS-26 ルベジ(RS-26 Rubezh)ロシア戦略ミサイル部隊で使用されている中距離弾道ミサイル

RS-26 ルベジ
種類:中距離弾道ミサイル
原産国:ロシア
運用履歴:ロシア戦略ミサイル部隊で使用
製造履歴:
設計者:モスクワ熱工学研究所
製造年:2011年

RS-26 ルベジ( РС-26 Рубеж)
 意味は「国境」または「境界
 NATOコードネームSS-X-31で、ロシア製の
   固体燃料中距離ロケット
である。
 核弾頭を搭載した中距離弾道ミサイル(IRBM)であり、射程範囲はかろうじて
   大陸間弾道ミサイル(ICBM)
に分類される。
 熱核弾頭搭載型の多弾頭独立目標再突入体(MIRV)または多弾頭独立目標再突入体(MaRV)を搭載可能で
   極超音速滑空体「アバンガルド」の搭載
も想定されている。
 RS-26はRS-24ヤールをベースとしており、RS-24の段数を1段減らした短縮型である。
 RS-26の開発過程は、RT-21テンプ2Sの短縮型派生型であるRSD-10パイオニアの開発過程とほぼ同様である。
 RS-26の配備は、RSD-10と同様の戦略的影響をもたらすと推測されている。
◯仕様
  重量 36,000キログラム(80,000ポンド)
  弾頭 150/300キロトンMIRV(多弾頭独立目標再突入体)×4基
     ペイロード;アバンガルドの改良型。
     重量800kg(1,800ポンド)
  エンジン 固体燃料(最終段または弾頭ブロックは液体燃料も可)
  推進剤 固体、第3段または第4段(弾頭ブロック)は液体燃料も可
  運用距離 5,800km(実証済み)
  飛行高度 数十km
  最高速度:マッハ20以上(24,500km/h、15,200mph、6.81km/s)
  誘導システム 慣性誘導(GLONASS対応)
  精度 90〜250m CEP[要出典]
  発射プラットフォーム 移動式TEL
 
  2011年9月の試験発射は失敗に終わったものの、2012年5月26日、ロシア北西部の
   プレセツク宇宙基地
から試験発射に成功した。
 数分後にカムチャツカ半島のクラミサイル試験場(5,800km先)に着弾した。
 その後、2012年と2013年には、カプスティン・ヤールからサリ・シャガンへの試験も成功裏に実施された。
 2018年には、2027年までの
   国家兵器計画(GPV-27)
におけるRS-26の調達が凍結され、資金がアバンガルド極超音速滑空体の調達継続に振り向けられたと報じられた。
 ウクライナ空軍とウクライナ・プラウダ紙によると、2024年11月21日、ロシアによるウクライナ侵攻の際、ロシア連邦は非核弾頭搭載のRS-26ミサイルを数発発射した。
 なお、ウクライナ中部ドニプロ市の重要インフラを標的としたと報じられた。
 ロシア政府報道官ドミトリー・ペスコフはこの件について確認を求められたが、当時「この件については何も言うことはない」と回答を拒否した。
 西側当局者は、問題の攻撃に使用されたミサイルはICBMではないと述べた。
 同日、ウラジーミル・プーチン大統領は、攻撃はICBMではなく、非核極超音速弾頭を搭載した
   新型中距離弾道ミサイル(IRBM)「オレシュニク」
によるものだったと確認した。
 このミサイルは、西側諸国の防衛専門家から、(現在は失効している)
   中距離核戦力全廃条約(INF条約)
に間接的に違反しているとして批判された。
 INF条約は、米国とロシアが射程500〜5,500km(310〜3,420マイル)の核弾頭搭載型および通常弾頭搭載型の地上発射弾道ミサイル、巡航ミサイル、ミサイル発射装置を保有することを禁じていた。
 RS-26ミサイルは、ペイロードを軽度または無搭載の状態で実証され、条約で定められた5,500km(3,400マイル)の制限を超える射程を示した。
 しかし、その後の試験はすべて、条約の禁止範囲内に収まるように大幅に短い射程での飛行であった。
 RS-26は、約2,000km(1,200マイル)の距離で2回試験された。
 『ナショナル・インタレスト』誌によると、RS-26はINF条約で禁止されたRSD-10パイオニア(NATOではSS-20セイバーとして知られる)と全く同じコンセプトで、直接の後継機である。
 RS-26は欧州の首都に対する戦略的脅威となるよう設計されており、西ヨーロッパのNATO軍を標的とする能力を持つ。
 ジェフリー・ルイスによる「ロシアのミサイルの問題点」と題された記事によると、これらの兵器の目的は、ロシア国境に近いNATOの新規加盟国への西側諸国の支援を抑止することにある。

    
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建国250周年を記念し、トランプ氏署名入り米ドル紙幣発行すると財務長官

  ベッセント米財務長官は、米国の建国250周年を記念し、トランプ大統領の署名が入った米ドル紙幣を発行すると発表した。
 ベッセント氏は4日、トランプ氏がソーシャルメディアで公開した、自身の署名入り100ドル札の画像を添えた投稿をリポストし、同紙幣の発行を確認した。
 ベッセント氏は「わが国とトランプ大統領の歴史的な功績をたたえる手段として、同氏の署名が入った米ドル紙幣以上に力強いものはない」とし、「この歴史的な通貨が建国250周年に合わせて発行されるのは極めてふさわしい」と記した。
 米国の紙幣には通常、大統領ではなく、財務長官と財務官の署名が記されている。

 
ひとこと
 慣習を変える必然性がないだろう。
 日本の2000円札と同じ不人気な紙幣となりそうだ。
 
    
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2026年07月03日

リンクトイン(LinkedIn)米国のビジネスおよび雇用向けソーシャルネットワーキングサービス

リンクトイン(LinkedIn)は、世界中で利用されている米国のビジネスおよび雇用向けソーシャルネットワーキングサービスのこと。
 求職者は履歴書を、企業は求人情報を掲載できるため、主に専門家同士のネットワーク構築とキャリア開発に利用されている。
 2026年時点で、LinkedInには200以上の国と地域から12億人以上の登録会員がいる。
 2003年5月5日に
   リード・ホフマン
   エリック・ライ
によって設立された。
 設立後数年間でセコイア・キャピタルをはじめとする多くのベンチャーキャピタルから資金提供を受けた。
 ユーザーは、招待相手がすでにLinkedInの会員であるかどうかに関わらず、他のユーザーをプラットフォーム上でのつながりとして招待できる。
 プラットフォームの成長に伴い、その利用範囲は採用活動にとどまらず、起業家やビジネスリーダーの間で専門家としての認知度を高め、権威を構築するための主要なチャネルへと拡大した。
 LinkedInは、オフラインイベントの企画、グループの作成・参加、記事の執筆、写真や動画の投稿にも利用できる。
 2007年にはプラットフォームのユーザー数が1,000万人に達した。
 LinkedInはインド、オーストラリア、アイルランドなど世界各地にオフィスを開設した。
 2010年10月には、シリコンバレー・インサイダー誌が選ぶ最も価値のあるスタートアップ企業トップ100で10位にランクインした。
 2015年以降、同社の収益の大部分は、会員情報へのアクセスをリクルーターや営業担当者に販売することから得られている。
 また、LinkedInは企業がプラットフォーム上で広告を掲載できる独自の広告ポータル「LinkedIn Ads」も導入した。
 2016年12月、マイクロソフトはLinkedInを262億ドルで買収した。
 これは当時マイクロソフトにとって最大の買収であった。
 2017年以降、B2Bマーケターの94%がコンテンツ配信にLinkedInを利用している。
 LinkedInは、推薦機能やスパムメール送信に会員のメールアカウントを使用していることなど、その設計上の選択について批判を受けてきた。
 LinkedInの
   セキュリティ対策の不備
により、ウェブサイト上でいくつかの事件が発生した。
 2012年には約640万人のユーザーの暗号化ハッシュが盗まれ、オンラインで公開された。
 また、2016年には、1億1700万件のLinkedInユーザー名とパスワード(おそらく2012年のハッキングで流出したもの)が販売さた。
 さらに、このプラットフォームは、特にCOVID-19パンデミックや2020年の米国大統領選挙に関する誤情報や偽情報への対応の不備についても批判されている。
 なお、様々な国がLinkedInに対して禁止措置や制限を課している。
 2016年にはロシア、2021年にはカザフスタン、2023年には中国で禁止された。
 カリフォルニア州マウンテンビューで設立されたLinkedInは、現在もマウンテンビューに本社を置きいている。
 2024年2月11日時点で世界36か所にオフィスを展開している。
 2024年2月時点で、従業員数は約18,500人であった。
 LinkedInの現CEOは
   ダニエル・シャペロ
で、2026年4月にライアン・ロスランスキーの後任として就任した。
 元CEOのジェフ・ワイナーは現在、執行会長を務めている。
 LinkedInの創業者である
は取締役会長である。
 同社は、セコイア・キャピタル、グレイロック、ベイン・キャピタル・ベンチャーズベッセマー・ベンチャー・パートナーズ、ヨーロピアン・ファウンダーズ・ファンドから資金提供を受けている。
 LinkedInは2006年3月に黒字化を達成した。
 2011年1月以降、同社は総額1億300万ドル(2024年換算で約1億4100万ドル)の投資を受けている。
  LinkedInは2011年1月に新規株式公開(IPO)を申請した。
 5月にニューヨーク証券取引所(NYSE)でティッカーシンボル「LNKD」で株式取引を開始した。
 同社は2002年12月、リード・ホフマンとPayPalおよびSocialnet.comの創設メンバー
   アレン・ブルー
   エリック・ライ
   ジャン=リュック・ヴァイヤン
   リー・ハウアー
   コンスタンティン・ゲリッケ
   スティーブン・ベイツェル
   デビッド・イーブス
   イアン・マクニッシュ
   ヤン・プジャンテ
   クリス・サッケリ
によって設立された。
 2003年後半、セコイア・キャピタルが同社へのシリーズA投資を主導した。
 2004年8月、LinkedInのユーザー数は100万人に達した。
 2006年3月、LinkedInは初の黒字化を達成した。
 2007年4月、LinkedInのユーザー数は1000万人に達した。
 2008年2月、LinkedInはモバイル版サイトをリリースした。
 2008 年 6 月、Sequoia Capital、Greylock Partners、その他のベンチャーキャピタル企業が 5300 万ドルで同社の 5% の株式を取得し、投資後の評価額は約 10 億ドルとなった。
 2009 年 11 月、LinkedIn はムンバイにオフィスを開設した。
 その後すぐにシドニーにもオフィスを開設し、アジア太平洋チームの拡大を開始した。
 2010 年、LinkedIn はアイルランドのダブリンに国際本社を開設して、約 20 億ドルの評価額で
から 2000 万ドルの投資を受け た。
 最初の買収である
   Mspoke
を発表し、プレミアム購読率を 1% に改善した。
 同年 10 月、Silicon Valley Insider は同社を最も価値のあるスタートアップのトップ 100 リストで 10 位にランク付けした。
 12 月までに、同社の評価額は非公開市場で 15 億 7500 万ドルに達した。
 LinkedInは2009年にインドでの事業を開始し、最初の1年間はインドのプロフェッショナルを理解し、LinkedInをキャリア開発に活用できるよう会員を教育することに重点を置いた。
 LinkedInは2011年1月に新規株式公開(IPO)を申請した。
 同社は2011年5月19日にニューヨーク証券取引所(NYSE)でティッカーシンボル「LNKD」で株式を上場した。
 価格は1株あたり45ドル(2024年換算で約62ドル)であった。
 LinkedInの株価はニューヨーク証券取引所での上場初日に一時171%上昇し、終値はIPO価格を109%以上上回る94.25ドルとなった。
 IPO直後、サイトの基盤となるインフラストラクチャが改訂され、改訂・リリースサイクルの迅速化が可能になった。
 2011年、LinkedInは広告収入だけで1億5460万ドルを稼ぎ出し、1億3950万ドルを稼いだTwitterを上回った。
 2011年第4四半期のLinkedInの収益は、ソーシャルメディア業界における同社の成功拡大により急増した。
 この時点で、LinkedInの正社員数は2010年の500人から約2100人に増加していた。
 2012年7月、LinkedInはDiggの主要特許15件を400万ドルで買収した。
 その中には「ボタンをクリックして記事に賛成票を投じる」特許も含まれていた。
 2014年4月、LinkedInはサンフランシスコのソーマ地区に建設中の26階建てビル「222 Second Street」をリース契約したと発表した。
 このビルは最大2500人の従業員を収容できる規模で、リース期間は10年間である。
 目標は、サンフランシスコに拠点を置く全従業員(2016年1月時点で1,250名)を1つのビルに集約し、営業・マーケティング部門の従業員と研究開発チームを統合することだった。
 2016年3月、移転が開始された。
 2016年2月、決算発表後、LinkedInの株価は1日で43.6%下落し、1株あたり108.38ドルとなった。
 この日、LinkedInの時価総額は100億ドル減少した。
 2016年、LinkedInはロシア当局によってアクセスを遮断された。こ
 れは、ソーシャルメディアネットワークに対し、国民の個人データをロシア国内のサーバーに保存することを義務付ける2015年のロシア国内法に違反したためである。
 2016年6月、マイクロソフトはLinkedInを1株あたり196ドル、総額262億ドルで買収すると発表した。
 これは、2022年の
   アクティビジョン・ブリザード
の買収まで、マイクロソフトにとって最大の買収案件であった。
 買収は全額現金による負債融資で行われた。
 マイクロソフトはLinkedInが「独自のブランド、文化、独立性を維持する」ことを認めた。
 ウィーナー氏はCEOに留任し、マイクロソフトCEOの
   サティア・ナデラ氏
に報告することになった。
 アナリストは、マイクロソフトがLinkedInをOffice製品スイートに統合することで、プロフェッショナルネットワークシステムを自社製品とより効果的に連携させる機会を見出したと考えていた。
 なお、この買収は2016年12月8日に完了した。
 2016年後半、LinkedInはダブリンオフィスで200人の新規雇用を計画しており、これにより従業員総数は1,200人になる予定であった。
 2017年以降、B2Bマーケターの94%がコンテンツ配信にLinkedInを利用している。
 マイクロソフトによるLinkedIn買収後まもなく、LinkedInの新しいデスクトップ版が発表された。
 新バージョンは、モバイルとデスクトップでユーザーエクスペリエンスを統一することを目的としていた。
 以前リリースされたモバイルアプリからのフィードバックに基づいて、いくつかの変更が加えられた。
 なお、あまり利用されていない機能は削除された。
 例えば、連絡先のタグ付け機能とフィルタリング機能はサポートされなくなった。
 新しいユーザーインターフェース(UI)のリリース後、旧バージョンにあった機能がなくなったこと、動作が遅いこと、バグがあることなどについて、一部のユーザーから苦情が寄せられた。
 これらの問題は、無料ユーザーとプレミアムユーザーの両方、そしてデスクトップ版とモバイル版の両方で発生した。
 2019年、LinkedInはフリーランサーがプラットフォーム上で発見されやすくなる「Open for Business」機能をグローバルにリリースした。
 同年にはLinkedIn Eventsもリリースされた。
 2020年6月、ジェフ・ワイナーは11年間務めたCEOを退任し、執行会長に就任した。
 ライアン・ロスランスキーは、それまで製品担当上級副社長を務めていたが、CEOに昇格した。
 2020年7月下旬、LinkedInは人材獲得チームとグローバルセールスチームから960人(全従業員の約6%)を解雇すると発表した。
 CEOのライアン・ロスランスキーは全従業員へのメールで、この人員削減は世界的な
   COVID-19パンデミック
の影響によるものだと述べた。
 2021年4月、Cyber​​NewsはLinkedInのアカウント5億件がオンライン上に流出したと報じた。
 しかし、LinkedInは「販売目的で投稿されたとされるLinkedInデータについて調査した結果、実際には複数のウェブサイトや企業からのデータを集約したものであることが判明した」と発表した。
 2021年6月、PrivacySharksはハッカーフォーラムで7億件以上のLinkedInアカウントが販売されていると報じた。
 LinkedInは後に、これは情報漏洩ではなく、スクレイピングされたデータであり、利用規約違反にあたると述べた。
 2021年9月、LinkedInは中国で米国人ジャーナリスト
   ベサニー・アレン=エブラヒミアン
   メリッサ・チャン
   グレッグ・ブルーノ
   ジョイ・オルソン
   J・マイケル・コール
などのプロフィールをブロックした。
 マイクロソフトは2021年10月に中国でのLinkedIn事業を終了した。
 2022年、LinkedInの売上高は138億ドルに達し、2021年の103億ドルから増加した。
 2023年5月、LinkedInは従業員2万人のうち716人を削減した。
 CEOのライアン・ロスランスキー氏の書簡によると、この措置は事業運営の効率化を目的としていた。
 ロスランスキー氏はさらに、この決定により250人の雇用機会が創出されると述べている。
 また、LinkedInは中国向け求人アプリの提供終了も発表した。
 2024年6月、AxiosはLinkedInが有料プレミアムユーザー向けに新しいAIアシスタントをテストしていると報じた。
 2024年9月、LinkedInは
   英国情報コミッショナー事務局(ICO)
から懸念が示されたことを受け、AIモデルのトレーニングにおける英国ユーザーデータの利用を停止した。
 同プラットフォームは、世界中のユーザーに対し、AIトレーニングにおけるデータ利用を密かに承認していた。
 しかし、情報コミッショナーオフィス(ICO)からのフィードバックを受け、LinkedInは英国ユーザーに対するこの慣行を一時停止した。
 同社の広報担当者は、LinkedInは常にユーザーが自身のデータの利用方法を管理できるようにしており、現在では英国ユーザーにもオプトアウトの選択肢を提供していると述べている。
 2024年11月、LinkedInは、16歳未満のソーシャルメディアプラットフォームの利用を禁止しようとするオーストラリアの法律に対し、「未成年者にとって興味深く魅力的なコンテンツがない」ことを理由に異議を申し立てた。
 2025年10月、LinkedInラーニングキャリアハブが開設された。
 2026年5月、LinkedInは、広告主がプラットフォームの広告およびキャンペーンツールの利用経験を持つ企業を特定できるよう支援することを目的とした代理店認定制度を導入した。
 同月、Amazon AdsとLinkedInは、広告主がAmazon DSPを通じてターゲット型コネクテッドTV広告にLinkedInのオーディエンスデータを利用できる提携を発表した。
 2013年、LinkedIn社を相手取った集団訴訟「パーキンス対LinkedIn社」が提起された。
 この訴状では、LinkedIn社が会員のメールアドレス帳に登録されている連絡先に対し、許可なく自動的に招待状を送信したとされている。
 裁判所は、招待状の送信自体は許可されていたものの、その後の2通のリマインダーメールの送信は許可されていなかったというLinkedIn社の主張を認めた。
 LinkedIn社は2015年に1,300万ドル(2024年換算で約1,680万ドル)で和解した。
 多くの会員は、「集団訴訟和解に関する法的通知」という件名のメールを受け取っているはずです。事件番号は13-CV-04303-LHKです。
 2017年5月、LinkedInは、公開プロフィールからデータを収集し、そのデータ分析を顧客に提供するシリコンバレーのスタートアップ企業である
   hiQ Labs
に対し、停止命令書を送付した。
 この命令書は、hiQ LabsがCFAA(コンピュータ詐欺および濫用防止法)およびDMCA(デジタルミレニアム著作権法)に違反しているとして、LinkedInのサーバーからデータを「スクレイピング」することを直ちに停止するよう要求した。
 これに対し、hiQ Labsはサンフランシスコのカリフォルニア州北部地区連邦地方裁判所にLinkedInを提訴し、裁判所が審理を行う間、LinkedInがhiQ Labsの公開プロフィールへのアクセスを遮断することを差し止めるよう求めた。
 裁判所はLinkedInに対し仮差止命令を発令し、LinkedInはhiQ Labsが公開データの収集を継続することを許可せざるを得なくなった。 
 LinkedInはこの判決を不服として控訴した。
 しかし、2019年9月、控訴裁判所はLinkedInの主張を退け、仮差止命令を維持した。
 2026年5月、LinkedInは全世界の従業員数を約5%削減すると発表した。
 これは、エンジニアリング、製品、マーケティング部門の従業員約875名に影響を与えた。
 CEOのダニエル・シャペロ氏が発表したこの人員削減は、同社が同年初めに50億ドルを超える四半期売上高を記録的な水準で計上したにもかかわらず、AIインフラへの構造転換の一環として行われた。
   
    
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富途控股 香港、アメリカ、シンガポール、オーストラリア、日本、カナダ、マレーシア、ニュージーランドで、オンライン証券会社と財産管理プラットフォームを提供している香港の持株会社

フートゥーホールディングス(Futu Holdings Limited  富途控股有限公司)は、香港、アメリカ、シンガポール、オーストラリア、日本、カナダ、マレーシア、ニュージーランドで、オンライン証券会社と財産管理プラットフォームを提供している香港の持株会社。
 2021年末現在、Futuの最大の外部株主はテンセントである。
 総資産 US$52.3 billion (2021)
◯子会社
 ・Moomoo Financial Inc.
 ・moomoo証券株式会社
  
 Futuの創始者の
   李華
テンセントの元従業員である。
 2011年に香港で法人を設立した。
 2012年に香港で証券会社として営業開始した。
 2018年に米国法人Moomoo Financial Inc.を設立。香港国外ではmoomooのサービス名で営業を開始する。
 2019年3月8日、NASDAQに上場し、9000万ドルを集めた。
 会社は当初、FHLをコードとしてナスダックに上場したが、後にFUTUに変更した。
 2022年にひびき証券(現moomoo証券)を買収して日本に参入した。

      
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ダラー・ツリー(Dollar Tree)米国で展開する、複数の価格帯を扱うディスカウント・バラエティストア・チェーン

ダラー・ツリー・インク (Dollar Tree, Inc. 旧社名:Dollar Tree Stores, Inc.)は、米国で展開する、複数の価格帯を扱うディスカウント・バラエティストア・チェーンである。
 バージニア州チェサピークに本社を置き、フォーチュン500(フォーチュン200とも呼ばれる)企業の一つに数えられる。
 同社は、米国の本土48州(およびコロンビア特別区)とカナダ全域で15,115店舗を運営している。
 各店舗は、全米に展開する24か所の物流センターからなる物流ネットワークによって支えられている。
 Dollar Treeは、ダラーストア(均一価格店)および低価格帯の小売市場で競合している。
 各店舗では、ナショナルブランド、地域ブランド、プライベートブランドなど、多岐にわたる商品を取り扱っている。
 取り扱い部門には、ヘルス&ビューティー、食品・スナック、パーティー用品、季節の装飾品、家庭用品、ガラス製品、食器、家庭用清掃用品、キャンディ、玩具、ギフト・ギフトバッグ・包装資材、文房具、工作用品、教育用資材、自動車用品、家電製品、ペット用品、書籍などが含まれる。
 また、ほとんどの店舗で冷凍食品や乳製品(牛乳、卵、ピザ、アイスクリーム、冷凍調理済み食品、調理済みパン・菓子類など)も販売されている。
 2012年8月には、全店舗でメーカー発行のクーポンを利用できるようになった。
 Dollar Treeを含む一般的なダラーストアについては、「フードデザート(食の砂漠)」、すなわち健康的で手頃な価格の食品を入手するのが困難な地域を作り出しているとの指摘がなされることがある。
 これに対しDollar Tree側は、同社が存在しなければ「食の砂漠」となっていたであろう地域において、食品の選択肢を提供していると主張し、この指摘に反論している。
  
 売上高 255億900万米ドル(2021年1月30日終了会計年度)
 営業利益 18億8,700万米ドル(2021会計年度)
 純利益 13億4,100万米ドル(2021会計年度)
 総資産 206億9,600万米ドル(2021会計年度)
 純資産 72億8,500万米ドル(2021会計年度)
 従業員数 65,894人(フルタイム)(2024年)
 
◯事業部門 
 ・Dollar Tree Canada
 ・Dollar Tree Plus! Totally Halloween(旧称)
 ・Occasions
 ・Deals/Deal$
 ・Dollar Tree Market(旧称)
◯子会社
 ・Dollar Bill$
 ・Greenbacks
 ・99 Cent Stores

  
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2026年07月02日

ロシアの約半数の地域でミサイル警報、ウクライナ攻撃進化で射程圏に

 ロシアが2022年にウクライナへの全面侵攻を開始して以来初めて、ロシア北西部のノブゴロド州とプスコフ州でも、ミサイル警報が今週発令された。
 ロシア大統領府の
   ペスコフ報道官
はこの攻撃に対してコメントを控えた。
 ウクライナが開発したフラミンゴ巡航ミサイルが初めて1500キロメートルを超えて飛行し、沿ボルガ地方のチェボクサルにある
   防衛関連工場を攻撃
したとゼレンスキー氏が発表したのは5月だった。
 それ以降、ウクライナはドローン(無人機)に加え、国産の長距離巡航ミサイルの使用頻度を増やしており、ロシア領内深くにある軍事・産業上の標的を攻撃できるようになっている。

   
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2026年07月01日

アドズナ(Adzuna)求人広告の検索エンジンの開発企業

アドズナ(Adzuna)は2011年4月に
   ダグ・モンロー
   アンドリュー・ハンター
によって設立された求人広告の検索エンジンの開発企業のこと。
 他の求人検索エンジンと同様に、Adzunaは大手求人サイト、専門求人ポータル、企業ウェブサイトから求人情報を収集し、単一のデータベースに集約して表示している。
 2017年9月、Adzunaは改良版「ValueMyCV」のリニューアルを発表した。
 2023年6月、AdzunaはAI面接ツール「Prepper」を米国と英国でリリースした。
 2025年4月、AdzunaはAI求人検索エージェント「ApplyIQ」を米国と英国でローンチした。

 従業員数 約100名  

 Adzunaは、Gumtreeの元マーケティング責任者でQypeのマーケティング担当副社長を務めたアンドリュー・ハンターと、Gumtreeの元マネージングディレクターでZooplaのCOOを務めたダグ・モンローによって2011年に設立された。
 ベータ版サイトは、
   Passion Capital
とエンジェル投資家からの30万ポンドのシード投資を受けて2011年4月にローンチされ、同年7月にプレスリリースで正式発表された。
 2012年1月、Adzunaは
   Index Ventures
   The Accelerator Group
から50万ポンドの追加投資を受け、他の業種や国への事業拡大を発表した。
 2013年4月、Adzunaは同じ投資家からさらに100万ポンドを調達した。
 2014年1月、フェアファックス・メディアはオーストラリアで求人サイト大手SEEKに対抗するため、Adzunaとの合弁事業を発表した。
 2015年7月、AdzunaはクラウドファンディングプラットフォームCrowdcubeで500人以上の投資家から200万ポンドの資金調達に成功した。
 2018年5月、AdzunaはSmedvig Capitalから800万ポンドのシリーズC資金調達を発表した。
 2022年6月、AdzunaはGetworkを非公開の金額で買収したことを発表した。
 Adzunaが収集した膨大な求人広告データベースは、雇用市場の動向に関する様々な統計データの作成に役立っている。
 2012年11月、Adzunaの雇用・住宅市場データが、英国政府デジタルサービスがデービッド・キャメロン首相をはじめとする要人に主要経済指標の最新情報を提供するために開発したアプリ「Number 10 Dashboard」に提供されていることが報じられた。
 2018年には、Adzunaが英国政府の労働年金省の求人検索サービス「Find a Job」の提供契約を獲得したと報じられた。
 2020年には、英国国家統計局がAdzunaのデータを用いて週ごとの求人指数を発表し始めた。
 Adzunaは、Startups.co.ukにより2011年の英国トップ20スタートアップの1社に選出された。
 また、V3 Magazineにより2013年の英国有望テクノロジー系スタートアップのトップ10に選出された。
 同年、Wired誌によりロンドンのトップ10スタートアップの1社にも選ばれた。
 2015年には英国政府機関Tech Cityの「Future Fifty」高成長スタートアップアクセラレータープログラムに選出された。 
    
    
posted by まねきねこ at 23:00| 愛知 ☀| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ドイツテレコム(Deutsche Telekom AG) ドイツ政府が一部出資する電気通信事業者

ドイツテレコム(Deutsche Telekom AG)は、ドイツ・ボンに本社を置く、ドイツ政府が一部出資する電気通信事業者。
 売上高において欧州最大の通信事業者である。
 同社は、当時国営独占企業であった
   ドイツ連邦郵便(Deutsche Bundespost)
の再編に伴い、1995年に設立された。
 それ以来、ドイツテレコムは『フォーチュン』誌の「グローバル500」(売上高上位企業)に常に名を連ねている。
 2023年時点での順位は79位であった。
 2023年には、『フォーブス』誌の「グローバル2000」で41位にランクインした。
 同社は、携帯電話ブランドの「T-Mobile(Tモバイル)」をはじめ、世界中で複数の子会社を運営している。
 売上高において、世界第3位の通信事業者です。
 2020年4月時点で、ドイツ政府は同社株式の14.5%を直接保有している。
 さらに政府系銀行である
   ドイツ復興金融公庫(KfW)
を通じて17.4%を保有していた。
 2024年6月4日、ドイツ政府は保有する株式の合計比率を27.8%に引き下げた。
 同社は、株価指数であるDAXおよびEURO STOXX 50の構成銘柄となっている。
  
 売上高 1,191億ユーロ(2025年)
 営業利益 248億ユーロ(2025年)
 純利益  32億ユーロ(2025年)
 総資産 2,898億ユーロ(2025年)
 純資産 922億ユーロ(2025年)
 所有者  ドイツ連邦共和国(31.9%)
 市場流通株 68.1%
 従業員数 199,000人(2025年)
◯子会社
 ・T-Systems International GmbH
 ・Telekom Deutschland GmbH
 ・T-Mobile US (51.4%)
 ・Magenta Telekom
 ・T-Mobile Polska
 ・T-Mobile Czech Republic
 ・Slovak Telekom
 ・Magyar Telekom (59%)
 ・Hrvatski Telekom (53.5%)
 ・OTE (53.45%)
 ・Makedonski Telekom
 ・Crnogorski Telekom
   
 ドイツ連邦郵便(Deutsche Bundespost)は、第二次世界大戦で敗北した後の1947年に
   ドイツ国営郵便(Reichspost)
の後継として設立されたドイツ連邦政府の郵便事業体であった。
 また、西ドイツにおける主要な電話会社でもあった。
 1989年7月1日、郵便事業改革の一環としてドイツ連邦郵便は
   3つの事業体に分割
され、その一つが
となった。
 1995年1月1日、さらなる改革により
   ドイツ連邦郵便テレコム(Deutsche Bundespost Telekom)」
は「ドイツテレコムAG(Deutsche Telekom AG)」となり、1996年に民営化された。
 そのため、同じく民営化されたドイツ連邦郵便の事業体である
   ドイツポスト(DHL)
とは、共通のルーツを持っている。
 ドイツテレコムは、1995年の民営化までドイツにおける独占的なインターネットサービスプロバイダー(ISP)であり、民営化後も支配的なISPであり続けた。
 ドイツにおける初期の通信事業者の一つであったため、21世紀初頭に至るまで、ドイツ国内の個人や中小企業によるインターネットアクセスのほぼすべてを同社が管理していた。
 2001年12月6日、ドイツテレコムは2006年FIFAワールドカップの最初の公式パートナーとなった。
 2005年1月1日、ドイツテレコムは新たな企業体制を導入した。
 T-ComとT-Onlineの2つの事業部門は統合され、ブロードバンド/固定網(BBFN)戦略事業部門となった。 
 T-Onlineは2006年に親会社であるドイツテレコムと合併した。
 同部門は、約4,000万回線のナローバンド回線および900万回線以上のブロードバンド回線を提供している。
 なお、1,400万人のインターネット登録顧客を擁してる。
 2008年、組織体制が再び変更された。
 T-Onlineはドイツテレコムから分離され、T-Comと統合されて新たな事業部門「T-Home」が設立された。
 2010年9月、Orangeの親会社である
   フランス・テレコム
とT-Mobileの親会社である
   ドイツテレコム
は、英国における事業を統合し、同国最大のモバイルネットワーク事業者である「EE」を設立した。
 2010年4月、T-MobileはT-Homeと統合され、「ドイツテレコム・ドイツ(Telekom Deutschland GmbH)」が発足した。
 同部門は現在、個人顧客向けのすべての製品およびサービスを統括している。
 2012年10月、ドイツテレコムとOrangeは、調達業務を集約し規模の経済を活かすため、折半出資による合弁会社
   BuyIn
を設立した。
 2013年4月、T-Mobile USとMetroPCSは米国での事業を統合した。
 2014年2月、ドイツテレコムはT-Mobileチェコ共和国部門の残りの持分を約8億ユーロで取得した。
 取得した持分は40%に相当するものであった。
 2014年12月、ドイツテレコムがEEの売却を巡り
   BTグループ
と協議中であることが発表された。
 この取引には、完了時にドイツテレコムがBTグループの株式12%を取得し、同社の取締役会に議席を確保することも含まれていた。
 BTグループは2015年2月、125億ポンドでEEを買収することで合意したと発表した。
 2016年1月15日には競争・市場庁(CMA)から規制当局の承認を得た。
 この取引は2016年1月29日に完了した。
 2015年9月、ドイツテレコムはAndroid 5を搭載したタブレット端末「Puls tablet」を発売した。
 2016年2月、バルセロナで開催された
   モバイル・ワールド・コングレス(MWC)
において、ドイツテレコム
   Intel
   Nokia
   Facebook
   Equinix
   SK Telecom
などと共に「Telecom Infra Project(TIP)」を立ち上げた。
 これは、通信業界におけるイノベーションを加速させるため、
   「Open Compute Project」
のモデルを基盤として構築されたプロジェクトである。
 欧州における5G無線ネットワークへの中国企業の関与が懸念される中、ドイツテレコムは2019年、安全保障上の理由から中国のベンダーである
   ファーウェイ(Huawei)
を排除すべきか否かというドイツ国内での議論の決着を待つ間、5Gネットワ​​ーク機器の調達に関するすべての契約を一時的に保留した。
 2020年2月、ドイツテレコムはデジタル・ディバイド(情報格差)の解消を目指し、地球の成層圏における高高度飛行体の利用を促進する
   「HAPSアライアンス(HAPS Alliance)」
という新たなパートナーシップに参加した。
 2020年4月1日、
   スプリント(Sprint)
はT-Mobile USとの合併を完了させた。
 これによりT-Mobile USがスプリントを所有することとなった。
 スプリントのブランドが段階的に廃止されるまでの間、同社はT-Mobile USの子会社となった。
 この合併に伴い、スプリントの当時の親会社であった
は新T-Mobile(New T-Mobile)の株式を最大24%保有することになり、ドイツテレコムは最大43%を保有することになった。
 なお、残りの33%は一般株主が保有している。
 2021年9月、ドイツテレコムはT-Mobile Netherlandsを51億ユーロで投資会社の
   Apax Partners
   Warburg Pincus
に売却した。
 2022年9月、ドイツテレコムはブロックチェーン技術分野での事業拡大を開始した。
 同社の子会社である
   Deutsche Telekom MMS
は、バリデーションノード(検証ノード)という形で
   イーサリアム・ネットワーク
にインフラを提供している。
 2023年12月、ドイツテレコム
   ノキア(Nokia)
   富士通(Fujitsu)
と共に、マルチベンダー対応のオープン無線アクセスネットワーク(Open RAN)の導入を開始した。
 このネットワークは、Open RANに対応した「5G AirScale」を含め、ドイツテレコムの既存の商用ネットワークに完全に統合されている。
 2025年7月、産業用AIクラウドインフラを共同開発するためのドイツテレコムとNvidiaのパートナーシップが発表された。
 この提携にはミュンヘンでのデータセンター建設も含まれており、投資額は推定10億ユーロに上るものである。
 2026年4月、ドイツテレコムは、規制当局および株主の承認を前提として、同社が過半数株式を保有する子会社
   T-Mobile US
との合併の可能性を検討した。
 この合併が実現すれば、世界最大級の通信会社が誕生することになる。

   
posted by まねきねこ at 17:44| 愛知 ☁| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする