スドノ・サリム(Sudono Salim)またはリム・シオ・リオン(Lim Sioe Liong)
1916年7月16日 - 2012年6月10日
オム(叔父)リエムとしても知られるインドネシアの銀行家、実業家である。
インドネシアで最も裕福な人物で複合企業
サリム・グループ
の創業者兼会長を務め、1992年に末息子の
アントニ・サリム(現在インドネシアで5番目に裕福な人物)
に経営権を譲った。
1916年、サリムは中国福建省福清市で
林紹良(リム・シオ・リオン)
として生まれた。
1936年、彼は福建省を離れ、兄の
リエム・シオ・ヒエ
と義弟の
鄭旭生
とともに中部ジャワ州クドゥスに移住した。
サリムは、彼らの
ピーナッツ油貿易会社
を、生産需要の高まりで急速に成長していたクローブ市場へと事業を多角化した。
クドゥス滞在中、彼の製造会社はインドネシア独立革命の兵士に医療物資を供給し、軍将校であった
スハルト
と接触を持つようになった。
スハルトは日本がオランダ植民地を占領中に日本軍が組織した
インドネシア治安部隊
に入り軍事混練を受けた。
第二次世界大戦が終結後、現地に残った日本軍将兵とともにインドネシアの独立闘争を戦い抜き、新しく編成されたインドネシア軍にスハルトらは入隊し、インドネシアの完全な独立が達成された後しばらくして少将の階級に昇進した。
スハルトらを支援したサリムは、オランダ軍に抵抗するインドネシア兵に武器を提供したという疑惑についてはオランダ軍からの事情聴取を受けたが否定した。
独立後、インドネシアの兵士たちが敵国資産でもあるオランダ系企業を接収する中で、サリムの事業はそれらの資産の多くを吸収した。
また、クローブ市場で独占的な地位を築いたものの、事業拡大においてスハルトと協力したという疑惑は否定した。
1952年、ジャカルタに移住後、サリムは香港とシンガポールの華僑実業家とそれぞれ関係を築き、ピーナッツ油貿易会社を拡大した。
彼の石鹸製造会社は、インドネシア国軍の主要サプライヤーの一つとなった。
その後、サリムは事業を繊維製造業と金融サービス業に拡大し、最終的には1957年にインドネシア最大の民間銀行である
バンク・セントラル・アジア
を設立した。
アジア金融危機後、彼は銀行の経営権を政府に譲渡せざるを得なくなった。
1968年、企業合併後、サリムはクローブ輸入における企業独占権を獲得した。
彼はまた、ホクチア系の別の実業家と合弁事業として
ボガサリ社
を設立し、同社は後にインドネシア最大の製粉・製粉・小麦粉供給会社となった。
これら2社からの莫大な利益が、1973年にセメント大手
インドセメント社
を設立するための資金源となったと言われている。
1990年には、インドネシア最大のインスタントラーメンメーカーである食品メーカー
インドフード社
を設立した。
1992年、サリムは複合企業サリム・グループの経営を息子のアントニ・サリムに引き継いだ。
1997年までに、サリム・グループは200億米ドルの資産を保有し、500社以上の子会社を擁し、20万人以上のインドネシア人を雇用するまでに成長した。
アジア金融危機が発生した際、このコングロマリットは48億米ドルの負債を抱えた。
1998年にバンク・セントラル・アジア(BCA)の経営権をインドネシア政府に譲渡し、その後、国有化された。
当時、BCAの株式の30%はスハルトの2人の息子が所有していた。
1998年5月の暴動の際、サリムはジャカルタの自宅が暴徒に焼き払われた。
その後、シンガポールに逃亡した。
彼の息子はインドネシアに残り、暴徒を鎮圧し、家業を再建した。
サリムは最終的にアメリカ合衆国ロサンゼルスに定住した。
フォーブス誌は2004年、彼の純資産を6億5500万米ドルとし、東南アジアで25番目に裕福な実業家として彼をランク付けした。
サリムには3人の息子と1人の娘がいた。
2012年6月10日、96歳の誕生日を1ヶ月後に控えたサリムは、シンガポールのラッフルズ病院で老衰のため死去した。
彼はリム・チュ・カン墓地に埋葬されている。

