コットン・クラブ(Cotton Club)
1920年代の禁酒法時代のニューヨークハーレム地区にあった高級ナイトクラブで客はすべて白人であった。
経営者はアイルランド系のギャングスターとして名の知れた
である。
コットン・クラブではジャズレビューに
デューク・エリントン
キャブ・キャロウェイ
ルイ・アームストロング
など一流の黒人ミュージシャンを多数出演させていた。
コットン・クラブの最盛期に客となった名士の中には
ジミー・デュランテ
ジョージ・ガーシュウィン
アル・ジョルソン
メイ・ウェスト
アーヴィング・バーリン
モス・ハート
チャーリー・チャップリン
ジミー・ウォーカーニューヨーク市長
などもいる。
同じ時代にアメリカ・イリノイ州クック郡にある工業都市シセロでもコットン・クラブというナイトクラブが存在しカポネ家の次男でアル・カポネの兄
ラルフ・カポネ
が経営しており、実力のあるジャズ・ミュージシャンならこぞって出演したがったという。
1920年、ヘビー級チャンピオンの
ジャック・ジョンソン
が「クラブ・デラックス」を142番街レノックスアベニューに開店した。
ギャングとして名高い
オウニー・マドゥン
がシンシン刑務所入所中の1923年に経営権を握り、店の名を「コットン・クラブ」に改名した。
1925年には酒類販売の容疑によりしばし閉鎖したがほどなく営業再開している。
1933年にマドゥンがシンシン刑務所に舞い戻ると、店の踊り子やストリッパーは塀の中のマドゥンのためにしばしば刑務所を慰問公演したという。
クラブでは当時の黒人への偏見を反映して、黒人をしばしばジャングルの土人や南部農園の黒人("darkies")として描いた。
また、露出度の高い衣装で出演するコーラス・ガールに対しては
"tall, tan, and terrific"
(すらっと高く、浅黒く、イカシテる)
つまり背の高さは5フィート6インチ以上、黒人としては明るめの肌、20歳以下であることを求めたのである。
エリントンは白人の客のために「ジャングル・ミュージック」を書くよう期待され、クラブは多くの黒人ミュージシャンを世に出した。
1923年、フレッチャー・ヘンダーソンは彼の最初の楽団を率いてクラブに出演している。
デューク・エリントン楽団は1927年から1931年までクラブの専属バンドであった。
クラブの演奏がラジオ放送されエリントンの名は全米に知れ渡った。
エリントンはこの期間に100曲以上もの自作曲をレコード化し、その後50年近く率いることとなるグループを築き上げた。
クラブが黒人客締め出しの厳しい規則を緩めたのは、エリントンの求めによるものであった。
1930年、キャブ・キャロウェイのオーケストラが
ブラウン・シュガー・レビュー
でクラブに登場し、1931年にはエリントンの後を受けてクラブ専属となった。
1934年からはジミー・ランスフォードの楽団が専属となる。
クラブは当時の白人ポップカルチャーの力も引き出した。
名義上のオーナーであった
ウォルター・ブルックス
は、ブロードウェイで成功したショー
「シャッフル・アロング」
を手がけた人物。
1935年のハーレム人種暴動のあと1936年にしばらく営業を中断した。
年内にブロードウェイの48番街で営業を再開したものの賃貸料の高騰と客の嗜好変化、およびマンハッタンのナイトクラブ所有者に対する連邦当局の脱税調査などで1940年に閉鎖した。
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