パナール(Panhard)はフランスの軍用車両メーカーである。
世界的には、19世紀末期から自動車生産を始めた世界有数の老舗自動車メーカーとして知られている。
特にその初期の1890年代から1900年代にかけては自動車技術の最先端を行く存在として、現代にまで通じるフロントエンジン・リアドライブ方式の考案・開発などで自動車の発達に大きく貢献すると共に、レースでも多くの勝利を重ねた。
20世紀に入ると一転して時流に遅れた保守的な高級車メーカーとなり、第二次世界大戦前はスリーブバルブ方式のエンジンに固執し続ける特異な方針を貫いたが、1930年代半ばからはラディカルな設計のモデルを登場させるようになる。
第二次世界大戦後の1946年からは高級車業界を撤退して小型車分野に転進、先進的な前輪駆動の小型乗用車の生産に専念した。
しかし、あまりに独創的な設計思想と小さな生産規模が災いし、経営不振から1955年以降シトロエンの系列下に入ることになる。
1965年にはシトロエンに吸収合併され、パナール・ブランドの乗用車生産は1967年で終了した。
以後はシトロエン(およびその後身のPSA・プジョーシトロエン)系列下の軍用車両専業メーカーとなるが、PSAグループは2005年4月、同じくフランスの小型軍用車メーカーであった
オーバーランド(Societe Nouvelle des Auomobiles Auverland)
に、パナールを売却した。 パ
ナールを買収したオーバーランドは、知名度の高さを主な理由に商標をパナールへと統一した。
これによりパナールの名は残され、軍用車両専業メーカー
パナール ジェネラル ディフェンス(Panhard General Defense)
として存続することになった。
「Panhard」のフランス語での正確な発音表記は「パンアール」の方が近いが、本稿では日本で定着している表記である「パナール」を用いる。また同社の正式な旧名は「パナール・エ・ルヴァッソール」であるが、日本では「エ」を抜いた「パナール・ルヴァッソール」と表記されることが多い。
1890年にガソリン自動車をフランスで最初に製作した。本格的な自動車メーカーとしてはドイツのダイムラーおよびベンツ(現・ダイムラー)にも先んじる世界最古の自動車メーカーである。
自動車生産開始当初の社名は
パナール・エ・ルヴァッソール社
(Panhard et Levassor)
であった。
旧社名の略称である「PL」は、同車の多くのモデルに後々まで車名やエンブレムとして用いられた。
元々は1845年、パリ郊外のイヴリーに
ジュール・ペリン(Jules Perin)
の手で設立された木工会社であった。
ただ、1867年、エコール・ポリテクニーク出身の
ルイ・フランソワ・ルネ・パナール
(Louis François Rene Penhard 1841-1908)
が入社した。
ルネ・パナールは優秀な技術者でペリンの信頼を得、まもなく社名は「ペリン・パナール」になった。
そしてルネ・パナールのエコール・ポリテクニークでの学友である
エミール・ルヴァッソール
(Emile Levassor 1843-1897)
が、1873年に入社した。
ペリンが後に引退することで、会社はパナールとルヴァッソールによって経営されることになった。
社名は「パナール・エ・ルヴァッソール」に変更となった。
社業は順調に拡大して木工に留まらない機械工作分野に進出した。 なお、1880年代にはミシンの生産にまで乗り出していた。
同社では取引のあったベルギー人弁理士
エドゥアール・サラザン
の依頼により、サラザンの取得していた
ゴットリープ・ダイムラー
のガソリンエンジンのフランスにおける製造ライセンスによって、1887年からエンジン生産体制構築に着手した。
途中、1887年12月にサラザンが急逝するアクシデントはあった。
その後、サラザン未亡人ルイーズの尽力でダイムラーとのライセンスを維持した。
更にルヴァッソールがルイーズと恋愛関係に陥って結婚してしまったことで、エンジンのライセンスはルヴァッソールに移った。
同じ頃、エンジン開発の本家であるダイムラーでは鋼管シャーシの四輪自動車開発を開始しており、これに刺激されたパナール社も高速軽量なガソリンエンジンの機能を活かして自動車開発を試みる。
1890年に、リアの床下寄りにエンジンを搭載した、フランス最初のガソリン自動車を開発した。
続いてガソリン自動車開発を企図したプジョーには、初期のエンジン供給を行っている。
しかし、リアエンジン試作車の性能は不十分であった。
このため、この克服策を研究した結果、1891年には車体前方にエンジンを置いて後輪を駆動する「フロントエンジン・リアドライブ方式」を世界のガソリン自動車で最初に実用化する。
従前主流であったリアエンジン方式よりも安定性に優れることから大きな成功を収めた。
更に1895年には、オイルを満たしたケースにギアセットを納める「密閉型ギアボックス」を備えたトランスミッションを実用化した。
また、続いて車体前端へのラジエターの設置や、丸ハンドルの導入など、現代にも通じる、自動車技術史上に残る重要な発明を成し遂げ、自動車の実用化、工業化に多大の貢献を行った。
この過程で、1895年から1903年にかけて多くの自動車レースにも勝利した。
中でも1895年のパリ・ボルドーレースでの勝利は、既に52歳で若くなかったエミール・ルヴァッソール自身が2気筒パナールのハンドル(丸ハンドル導入前で、直進性の悪い梶棒であった)を握り、往復1,200kmを昼夜兼行・50時間不眠不休で操縦するという超人的活躍で1着を達成したもので、モータースポーツ史の黎明期における名高い戦績である。
しかし、創業者の一人で技術的指導者の立場にあったルヴァッソールが1897年に急逝して以来、その技術・経営は徐々に保守化した。
ルヴァッソールの死は、1896年にレース事故で負傷した後遺症によるものと言われている。
残されたルネ・パナールや経営幹部でレーサーでもある
ルネ・ド・クニフ
らは、専ら大排気量化によって市場競争力を確保する、手堅いが凡庸な策を用いた。
1903年以後はダイムラー社の「メルセデス」に影響された追従的設計を用いるようになり、以降は、やや旧式な設計の大排気量車を生産する高級車メーカーとして存続することになった。
同社の旧弊さは、1906年まで木製フレームを用いて1910年代初頭まで最終減速部をチェーンに頼る初期パナール以来の方式を使い続けた。
また、1900年代後期に至っても4気筒車が主力で、競合メーカーのような6気筒車の量産化でも出遅れた。
1910年以降は、チャールズ・ナイトの特許によるスリーブバルブ方式(バルブレスを意味する「サン・スパブ」sans soupapes の通称で呼ばれた)搭載の、保守的な設計の大型乗用車を主力製品とし、その静粛性に固執する形で、長らくスリーブバルブエンジンを主力とすることになる。
しかし、低効率なスリーブバルブ方式にこだわりつつもその高性能化には熱意を示した。
1925年には4.8リットル(292ci)のレコードブレーカーで平均185.51km/hを記録するなど、当時の国際記録を多数更新した。
1930年代に入ると前面窓の隅に視界確保のためパノラミックウインドウを採用した「パノラミーク」(PANORAMIQUE 1932)や、センターステアリング配置と特異な流線型スタイル・バックボーンフレームに全トーションバー・スプリングの「ディナミーク」(DYNAMIC 1936)など、個性的な設計のモデルを次々に登場させるようになる。
しかしこれらの高級車も品質や静粛性こそ優れていたものの、1930年代には既に改良の限界で時代遅れとなっていたスリーブバルブエンジンを使用し続けており、市場での競争力は十分なものとは言えなかった。
第二次世界大戦による社会疲弊は、多くの名門高級車メーカーのブランドを過去の物とした。
その中でパナールは1946年に小型乗用車ディナXを発表、4CVを主力に据えたルノー同様、小型大衆車生産に転進して生き残りを図った。
ディナは、前輪駆動(FWD)乗用車設計のパイオニアとして知られる天才的な自動車設計者
J・A・グレゴワール
が、戦時中から構想していたアルミニウム多用の軽量な前輪駆動車コンセプト「アルミニウム・フランセ・グレゴワール」(AFG)を導入、ほぼ忠実に量産化した、極めてユニークな自動車であった。
アルミ系軽合金ALPAX製のプラットフォーム型セミモノコックに、後に高級車ファセル・ヴェガを生産したファセル・メタロン社に外注製造させたアルミボディを組み合わせ、600〜850ccの空冷水平対向エンジンで前輪を駆動した。
1953年には第二世代のディナZにモデルチェンジする。
プレス加工容易なアルミ・マグネシウム合金「デュラリノックス」が実用化され、ボディに至るまでの内製が可能になったことによるものであった。
当時、イギリスの名門自動車雑誌「オートカー」は、ディナZについて「これほど峻厳に効率を追求した自動車はかつて例を見ない」と高い評価を与えた。
オールアルミ合金の本格量産車としては最初の事例でもあり、その先進性・独創性によって後世からの歴史的評価も高い。
しかし、ルノーやシトロエンには生産規模で大きく水を開けられていたこともあり、ディナ系「X」「Z」各車の製造コストは非常に高かった。
慢性的な経営不振から、1955年以降はシトロエンの傘下に入り、一部工場ではシトロエン・2CVの生産を分担して稼働率を維持するようになる。
ディナZシリーズも1956年モデル以降、徐々にスチール製パーツの比率を高めるようになって重量増加した。
1960年以降はついに800kg超過のオールスチールボディとなって「PL17」と改称された。
虎柄の内装を持つ高出力バージョン「ティグル」(虎の意)が追加され、8-10HP程度の出力アップで重量増による性能低下を補った。
1963年からはシャルル・ドゥーチュの設計により、量産モデルの2気筒エンジン・サスペンション等を流用して超空力FRPボディ・バックボーンフレームと組み合わせたGTモデル「パナールCD」が少量生産された。
1965年まで製造されたこのモデルは車重わずか580kgに過ぎず、ティグル仕様の50HPエンジンで160km/h、70HP以上にハイチューンされた「ラリー」モデルでは180km/hに到達する高性能を見せた。
最後のパナール乗用車となるのは1964年登場の24シリーズで、PL17とコンポーネンツを共用しながらも、明らかにシトロエンの息がかかったデュアルライトのスマートなボディを備えたモデルであった。
特にフロントエンドには1967年以降のシトロエン・DSとの共通性が強く、デザインの先行例であったことが伺える。
新設計の2ドアセダン(24B=ベルリーヌ)、2ドアクーペ(24C=クーペ)はシトロエン・アミ6とID19の中間車種として、スペシャルティカー的位置づけを与えられていた。高
出力版「ティグル」も引き続き存在し、それぞれ24BT・24CTと呼ばれ、4輪ディスクブレーキが与えられた。
しかしニューモデルの投入をもってしても形勢挽回には至らず、1965年、シトロエンに乗用車部門を吸収された。
1967年には一般向け乗用車の生産を終了し軍用車両専門メーカーとなった。
1970年に発売されるシトロエン・GSには、24系のノウハウも生かされたと言われる。
パナールは、戦前から装甲車(パナール・178など)を製造していた。
1968年からはシトロエングループのもと、軍用車両の開発製造に特化した。このころから競合するメーカーはサビエム/ルノーグループであった。
2005年1月にPSAグループはパナールを、同じくフランスの軍用車両メーカーであるオーバーランドに売却した。
パナールを買収したオーバーランドは、同年12月に「パナール・ジェネラル・ディフェンス」へと社名を変更した。
現在は「パナール」ブランドで、軍用車両の製造を継続している。
第二次世界大戦後は1950年代から生産終了まで少数ながら継続して輸入され、1960年代前半には。稲畑産業の子会社・メーゾンイナバタが輸入し、当時シトロエンを扱っていた日仏自動車が販売を担当する体制であった。
ただし、主な納入先は自動車メーカーの研究用であった。
1950年代前半に輸入されたディナXはタクシーにも用いられたが、同時期の多くの欧州車の例に漏れず、当時の日本における過酷な道路事情で早期にトラブルが多発し、パーツ難から使用不能に追い込まれたと言われる。

