当ブログ内の情報はあくまでも参考情報です。投資にあたっての判断は投資する人の自己責任でお願いします。
当ブログでは、一切の責任を負いませんでご了承下さい。

マーケット出来事貴金属とレアメタル宝石と宝飾品貴金属の取引方法貴金属取扱会社

2025年03月13日

資産査定を条件に、セブンへの提案強化の可能性

 カナダのコンビニ大手でセブン&アイ・ホールディングスに買収提案しているアリマンタシォン・クシュタール
   アラン・ブシャール創業者兼会長
は13日、デューデリジェンス(資産査定)で財務状況を把握できるようになれば、その結果を基に買収提案を強化できる可能性があると述べた。

 同日都内で開いた会見で、ブシャール氏は改めて、デューデリジェンスに必要なデータにアクセスできていないと主張した。
 秘密保持契約を結んでデューデリジェンスができるよう、セブン側に求めた。
 また、セブンとの買収が実現すれば真の「チャンピオン」になれると強調し、敵対的買収は検討していないとも述べた。
 クシュタールは、セブン買収に対する株主や日本の消費者の理解を得るため、情報発信を強化している。
 自社の紹介や主張を掲載するウェブサイトも公開した。
 足元ではセブンとのつばぜり合いも垣間見える。
 同社が10日に公開した株主への書簡を受け、クシュタールは11日、セブンの対応が非常に限定的だとする声明を発表した。
 協議の焦点が米国の規制当局の承認関連ばかりで、失望していると述べていた。

 13日の会見でクシュタール経営陣は、日本事業への考えも示した。
 セブン買収で合意に至った場合、日本での店舗閉鎖や従業員解雇は考えておらず、投資や雇用を生み出す考えを強調した。
 フランチャイズモデルを尊重し、維持したいとしたほか、加盟店オーナーのサポートを強化し、利益率を改善したいとも述べた。

 クシュタールは昨年、買収額として1株18.19ドル(約2700円)を提示した。
 セブンの12日終値(2178.5円)を大きく上回る水準となっている。
 また1月にはセブンの要請に応じて円建ての非拘束的な修正提案を提出したという。
 具体的な換算額については言及しなかった。

 こうした中、今後焦点になるのは株主の動きだ。
 セブンの株主である米資産運用会社
   アーチザン・パートナーズ・アセット・マネジメント
は9日付でクシュタールとの交渉などを求める書簡を送ったほか、13日にはセブンの相次ぐ取締役辞任を受け経営陣の責任追及を株主に呼びかけた。
 セブンは全ての事実を把握していないアーチザンが、株主価値顕在化に向けたあらゆる選択肢を追究するというセブンの姿勢を誤って認識しており、遺憾と10日に反論していた。5月27日に株主総会を控える中、今後他の株主からも同様の要求をつきつけられる可能性もある。
  
 セブンは6日、買収提案を検討する特別委員会の委員長を務めた
   スティーブン・デイカス氏
が5月27日付で社長に就く人事を発表した。
 2030年度までに総額2兆円の自己株を取得することや、SEIの新規株式公開(IPO)計画なども明らかにしていた。

  
ひとこと
 円が100円から150円まで安くなれば5割も安く海外企業は日本企業を買えるということだ。
 円が、ここから100円まで上昇すれば、単純に5割の利益が購入した企業に転がり込む。
 
 
posted by まねきねこ at 21:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マイクロソフトの反トラスト調査をトランプ政権下でもFTCが継続

 米連邦取引委員会(FTC)は、
   反トラスト法
に基づきバイデン政権末期に開始した米マイクロソフトに対する調査を進めている。
 トランプ大統領に起用された
   ファーガソン新FTC委員長
が、ハイテク大手の監視に重点を置く姿勢がうかがえる。

 この事情に詳しい複数の関係者によると、FTC職員はここ数週間、企業や団体と会合を持ち情報を収集するなどマイクロソフトに対する調査を継続しているという。
 同関係者は部外秘の調査を理由に匿名で語った。

 FTCは昨年末、マイクロソフトに対し
   民事審査請求(CID)
を送付した。
 CIDは、モデル訓練やデータ取得のコストなど
   人工知能(AI)事業
に関する大量のデータを2016年までさかのぼって提出することを同社に義務付ける内容だった。
 データセンターや、顧客需要対応に十分な演算力を確保する難しさ、ソフトウエアのライセンス慣行について詳細情報を求めた。
 また、マイクロソフトオープンAIと合意を締結した後、自社AIプロジェクトへの支出削減を決めたことも調査対象となっている。
 これは、成長著しい
   AI市場で競争を阻害
していると判断される可能性がある。
 CIDによれば、FTCは、マイクロソフト
   別の事業で得た利益
が、他のAI企業に対する同社の優位性につながっているかを判断したい考えと見られる。
 また、クラウドコンピューティングサービスのコストをより深く把握するため、同社のデータセンター能力制約に関する詳細情報の入手も目指している。
 こうした情報は、FTCが訴訟提起の是非を判断する上で役立つ。

 マイクロソフトの広報担当アレックス・ホーレック氏は「われわれはFTCに協力している」と述べている。
  
   
posted by まねきねこ at 20:40| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フランク・ブッチェリ(Frank Buccieri)「フランク・ルッソ」または「ビッグ・フランク」としても知られる米国西海岸でマフィアの活動を指揮した米国人マフィア

フランク・ザ・ホース・ブッチェリ
        (Frank "The Horse" Buccieri)
   1919年1月23日 - 2004年3月8日
 「フランク・ルッソ」または「ビッグ・フランク」としても知られる。
 1970年代から1980年代にかけて米国西海岸でマフィアの活動を指揮した米国人マフィアである。
   フィオーレ・「フィフィ」・ブッチェリ
の兄弟であった。
 1936年、17歳のブッチェリは、シカゴの裁判所で
   軽窃盗の容疑
で起訴された。
 裁判官が、この容疑を大陪審に送るつもりだと言ったとき、ブッチェリの兄弟のフィオーレは、家族が代わりに彼を罰することができるかと尋ねた。
 裁判官は同意し、ブッチェリの親戚の一人が、5フィートの長さのゴムホースを2本重ねて、彼を5回鞭打ちにした。
 これは、ブッチェリが犯罪に手を染めた生涯で「唯一の逮捕」となった。
 1960年代、ブッチェリはシカゴの西側で違法賭博と高利貸し事業の経営者だった。
 1970年代後半、ブッチエリはカリフォルニア州パームスプリングスに家を購入した。
 1981年 6 月、ニューヨークに拠点を置く
   マフィア委員会
は、カリフォルニアでの犯罪活動の責任者として
   ブッチェリ
を任命した。
 ブッチェリは、殺害されたマフィアの
   フランク「ザ・ボンプ」ボンペンシエロ
   トミー・リッチャルディ
の後任となった。
 ブッチェリには、カリフォルニアでの日常業務を補助するため、ニューヨークの
   ルッケーゼ一家
からカポ(隊長) が任命された。
 ある捜査官は、「委員会は、カリフォルニアの儲かる犯罪を扱える信頼できる人物を求めており、今回は何も問題が起きないようにしたかった」と説明した。
 2004年3月8日、フランク・ブッチェリは自然死した。
  
   
posted by まねきねこ at 18:44| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マジック・ジョンソン(Magic Johnson) 米国の実業家、元プロバスケットボール選手。しばしば史上最高のポイントガードとみなされた。

アービン・"マジック"・ジョンソン・ジュニア(Earvin "Magic" Johnson Jr.)
   1959年8月14日生まれ
 米国の実業家、元プロバスケットボール選手。しばしば史上最高のポイントガードとみなされた。
 ジョンソンは、全米バスケットボール協会(NBA)の
   ロサンゼルス・レイカーズ
でキャリアを積んだ。
 1979年にミシガン州立スパルタンズで全米選手権に優勝した後、ジョンソンは1979年のNBAドラフトでレイカーズに全体1位で指名された。
 「ショータイム」時代にチームを5回のNBAチャンピオンに導いた。
 ジョンソンは1991年にHIVに感染したことを発表した後、突然引退した。
 1992年のオールスターゲームでプレーに復帰し、オールスターMVP賞を受賞した。
 同僚選手から復帰に抗議を受けた後、彼は再び4年間引退したが、1996年、36歳で復帰した。
 レイカーズで32試合に出場した後、3度目で最後の引退を果たした。

 並外れたコートビジョン、パス能力、リーダーシップで知られるジョンソンは、同時代で最も支配的な選手の一人であった。
 彼のキャリアの業績には、3回のNBA最優秀選手賞、3回のNBAファイナルMVP、9回のオールNBAファーストチーム選出、12回のオールスターゲーム選出が含まれる。
 レギュラーシーズンのアシスト数でリーグを4回リードし、レギュラーシーズン(1試合あたり11.19アシスト)とプレーオフ(1試合あたり12.35アシスト)の両方で、1試合あたりの平均アシスト数でNBAの歴代トップであった。
 彼はまた、プレーオフでの通算アシスト数とプレーオフでの通算トリプルダブルの記録を保持している。
 ジョンソンは、バルセロナで金メダルを獲得した1992年オリンピックの米国男子バスケットボールチーム(「ドリームチーム」)の共同キャプテンであった。
 1991年にNBAを離れた後、彼は
   マジック・ジョンソン・オールスターズ
を結成した。
 これは世界中を旅してエキシビションゲームを行う遠征チームである。
 ジョンソンは1996年にNBA史上最も偉大な50人の選手の一人として表彰された。
 また、2021年にはNBA75周年記念チームに選出された。
 ネイスミス・バスケットボール殿堂には2002年に個人としてのキャリアで、2010年にはドリームチームのメンバーとして2度殿堂入りを果たしている。 
 1979年のNCAA決勝戦や3度のNBAチャンピオンシップシリーズで対戦したボストン・セルティックスのスター、ラリー・バードとの友情やライバル関係はよく知られている。
 引退後、ジョンソンはHIV/AIDS予防とセーフセックスの提唱者であり、起業家、 慈善家、キャスター、モチベーショナルスピーカーでもある。

 アービン・ジョンソン・ジュニアはミシガン州ランシングで、
   ゼネラルモーターズ
の組立作業員アービン・シニアと学校用務員クリスティンの息子として生まれた。
 ジョンソンには6人の兄弟と、父親の前の結婚でできた3人の異母兄弟がいる。
 両親の強い労働倫理に影響を受けたと伝わっている。
 母親は毎晩仕事が終わると何時間もかけて家の掃除や翌日の食事の支度をし、父親は中古車販売店での清掃やゴミ収集の仕事をしていたが、その間もゼネラルモーターズで1日も休むことはなかった。
 ジョンソンはよく父親のゴミ収集を手伝い、近所の子供たちから「ゴミ男」と呼ばれてからかわれた。
 母親はジョンソンをセブンスデー・アドベンチスト教会で育てた。
 ジョンソンは若い頃からバスケットボールが好きだった。
 彼が子供の頃に好きだったバスケットボール選手は
   ビル・ラッセル
で、彼は運動能力よりも彼の数々の優勝を尊敬していた
 彼はまたアール・モンローやマルケス・ヘインズなどの選手を崇拝し、「一日中」練習していた。
 ジョンソンはスポーツ一家に育った。
 彼の父親は故郷のミシシッピ州で高校バスケットボールをしており、ジョンソンは父親からゲームの細かい点を学んだ。
 ノースカロライナ州出身のジョンソンの母親も子供の頃バスケットボールをしており、兄弟がバスケットボールをするのを見て育った。

 ジョンソンは8年生になる頃には、バスケットボール選手としての将来について考え始めていた。
 彼は中学時代は圧倒的な選手となり、1試合で48得点を挙げたこともある。
 ジョンソンは、バスケットボールチームが非常に成功し、歴史もあるセクストン高校でプレーすることを楽しみにしていた。
 たまたま自宅からわずか5ブロックのところにあった。
 しかし、黒人が大半を占めるセクストン高校ではなく、白人が大半を占めるエバレット高校にバスで通うことになると知り、彼の計画は劇的に変化した。
 ジョンソンの姉のパールと弟のラリーは前年にエバレット高校にバスで通っていたが、楽しい経験ではなかった。
 黒人の学生を乗せたバスに石が投げつけられたり、白人の親が子どもを学校に行かせるのを拒否したりするなど、人種差別的な事件もあった。

 練習中に衝突したラリーはバスケットボールチームから追い出され、弟に試合に出ないでと懇願した。
 ジョンソンはバスケットボールチームに入団したが、数日後、新しいチームメイトが練習中に彼を無視し、ボールをパスすらしなかった。
 このため、怒りを覚えた。
 ヘッドコーチのジョージ・フォックスが介入する前に、彼は他の選手と喧嘩になりそうになった。
 最終的にジョンソンは自分の状況を受け入れ、黒人学生の小さなグループは彼をリーダーとして見なした。
 自伝『私の人生』の中で、「今振り返ってみると、全体像は全く違って見えます。セクストンを逃すのは嫌だったのは事実です。
 そして最初の数か月はエバレットで惨めな思いをしました。しかし、エバレットにバスで通ったことは、私にとって人生最高の出来事の一つとなりました。それは私を自分の小さな世界から抜け出させ、白人を理解する方法、彼らとコミュニケーションをとり、付き合う方法を教えてくれました。」とエバレットで過ごした時間が自分をどのように変えたかを回想している。

 ジョンソンが初めて「マジック」と呼ばれたのは15歳の時、エバレット大学2年生として36 得点、18 リバウンド、16アシストのトリプルダブルを記録した時だった。
 試合後、ランシング・ステート・ジャーナル紙のスポーツ記者
   フレッド・ステイプリー・ジュニア
が彼にそのあだ名を付けた。
 ただ、敬虔なクリスチャンであるジョンソンの母親はその名前は冒涜的だと思っていた。
 
 ジョンソンはインディアナ大学やUCLAなどトップクラスの大学からスカウトされたが、地元でプレーすることを決めた。
 ジョンソンの大学選択はミシガン大学とイーストランシングのミシガン州立大学の2校に絞られた。
 最終的にミシガン州立大学に進学することを決めたのは、コーチの
   ジャド・ヒースコート
からポイントガードのポジションでプレーできると言われた時だった。ミ
 シガン州立大学にすでに名簿に載っていた才能も彼をこのプログラムに惹きつけた。

 ジョンソンは当初プロとしてプレーすることを志しておらず、代わりにコミュニケーション学 専攻に集中し、テレビ解説者になりたいと考えていた。
 ジョンソンは、将来のNBAドラフト指名選手であるグレッグ・ケルサー、ジェイ・ヴィンセント、マイク・ブルコビッチとともにプレーし、 1年生ながら平均17.0得点、7.9リバウンド、7.4アシストを記録し、スパルタンズを25勝5敗の成績、ビッグ・テン・カンファレンスのタイトル、 1978年のNCAAトーナメント出場に導いた。
 スパルタンズはエリートエイトまで進出したが、最終的に全国チャンピオンとなったケンタッキーに僅差で敗れた。

 ジョンソンは1979年にロサンゼルス・レイカーズに全体1位でドラフトされた。
 ジョンソンは、レイカーズに入団して「最も素晴らしいこと」は、チームの7フィート2インチ(2.18メートル)のセンターでNBA史上最多得点者となったカリーム・アブドゥル・ジャバーと一緒にプレイするチャンスがあったことだと語った。
 アブドゥル・ジャバーは圧倒的な活躍にもかかわらず、レイカーズで優勝を逃しており、ジョンソンはその目標達成に貢献すると期待されていた。 
 ジョンソンの5年目のシーズンが始まる前に、レイカーズのゼネラルマネージャーとなったウェストは、ボールハンドリングの責任分担からジョンソンを解放するためニクソンをトレードした。
 ジョンソンは1試合平均17.6得点、13.1アシスト、7.3リバウンドで、再びダブルダブルのシーズンを送った。
 レイカーズは3年連続でファイナルに進出し、ジョンソンのレイカーズとバードのセルティックスがポストシーズンで初めて対戦した。
 レイカーズは第1戦に勝利し、第2戦では試合終了18秒前に2点リードしたが、ジェラルド・ヘンダーソンのレイアップの後、ジョンソンは試合終了のブザーが鳴る前にシュートを打つことができず、レイカーズは延長戦で124対121で敗れた。
 ファイナル中、ジョンソンは平均18.0得点、シュート率.560、アシスト13.6、リバウンド7.7を記録した。
 ジョンソンは後にこのシリーズを「私たちが手にするべきだったが手にできなかった唯一のチャンピオンシップ」と表現した。
  
 1991-92年のNBAシーズン前の身体検査で、ジョンソンはHIV陽性反応を示した。
 1991年11月7日に行われた記者会見で、ジョンソンは即刻引退することを公表した。
 妻のクッキーと胎児はHIVに感染しておらず、「この致命的な病気と闘う」ために人生を捧げると述べた。
 ジョンソンは当初、どうやって感染したのかわからないと語っていたが、後に現役時代に多数の性的パートナーを持ったことで感染したと認めた。 
 ジョンソンは1992年バルセロナオリンピックにアメリカ代表として出場するよう選ばれ、NBAのスター選手が名を連ねていたことから「ドリームチーム」と呼ばれた。
 ジョンソンの他、バード、マイケル・ジョーダン、チャールズ・バークレーといった殿堂入り選手が所属するドリームチームは、無敵と思われていた。
 1992年のアメリカ大陸選手権で金メダルを獲得してオリンピック出場権を獲得した後、ドリームチームはオリンピック競技を圧倒し、8勝0敗の成績で金メダルを獲得し、平均43.8得点で対戦相手に勝利した。
 ジョンソンは、1992年のオリンピックに向けて肉体的にも非常に競争の激しい練習や練習試合があったにもかかわらず、同じチームメイトの何人かがNBAへの復帰に懸念を示したと語った。引退したのは「ゲームを傷つけたくなかった」からだと彼は語った。 
 2009年、ジョンソンとバードはジャーナリストのジャッキー・マクマランと共同で「 When the Game Was Ours」というノンフィクション本を出版した。
 この本では、彼らのコート上でのライバル関係と友情が詳しく描かれている。 

  
posted by まねきねこ at 10:00| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジョージ・ウェスティングハウス(George Westinghouse, Jr)電気産業の先駆者であり、ロータリースチームエンジン、道車両用の空気ブレーキ等を発明した。

ジョージ・ウェスティングハウス・ジュニア(1846年10月6日 - 1914年3月12日) 
 ペンシルベニア州ピッツバーグに拠点を置いた、多作な米国の発明家、技術者で起業家精神のある実業家であった。
 彼は、鉄道空気ブレーキの発明と、交流(AC)電力配電の開発と使用の先駆者として最もよく知られている。
 ウェスティングハウスは、そのキャリアを通じて、発明で362件の特許を取得し、61の会社を設立し、その多くは今日でも存在している。
 圧縮空気を使った
   列車ブレーキシステム
の発明は、世界中の鉄道業界に革命をもたらした。 
 1869年にウェスティングハウスは
   ウェスティングハウス・エアブレーキ社
を設立し、彼と彼のエンジニアたちは
   線路の切り替え
   信号システム
も開発し、1881年に は
   ユニオン・スイッチ&シグナル社
を設立した。
 1880 年代初頭、彼は
   天然ガス
の安全な生産、輸送、使用に関する発明を成し遂げ、まったく新しいエネルギー産業の創出につなげた。
 同時期に、ウェスティングハウスは
   電力配給
に交流 (AC) を使用する可能性を認識し、1886 年に
   ウェスティングハウス エレクトリック コーポレーション
を設立した。
 ウェスティングハウスの電気事業は、直流(DC) 電気を推進していた
   トーマス・エジソン
の事業と直接競合した。
 ウェスティングハウス エレクトリックは、シカゴで開催された 1893 年の
   コロンビア博覧会
で「ホワイト シティ」を照らす
   AC システムを披露する契約
を獲得した。
 さらに、1895年8月にオープンしたニューヨーク州ナイアガラ フォールズに
   世界初の大規模な AC 発電所
を設置した。
 皮肉なことに、ウェスティングハウスは他の多くの栄誉の中でも、1911年に「交流システムの開発に関連した功績」によりアメリカ電気学会から
   エジソンメダル
を受賞した。
 
 ジョージ・ウェスティングハウスは1846年にニューヨーク州セントラルブリッジ村で、農家で機械工場を経営する
   エメリン(ヴェダー)
   ジョージ・ウェスティングハウス・シニア
の息子として生まれた。 
 ウェスティングハウス家の先祖はドイツのヴェストファーレン出身で、最初はイギリスに移住し、最終的に米国に移住した。
 家名はウィスティングハウゼンから英語化されたものである。
 ウェスティングハウスは若い頃から機械とビジネスの才能を発揮した。
 彼は父親に奨励され、
   ウェスティングハウス社
の作業場で仕事を任された。
 同社はウェスティングハウス ファーム エンジンなどの農業機械を製造していた。

 1861年4月に
   南北戦争
が勃発すると、当時14歳だったウェスティングハウスは家出をし入隊しようとした。
 ただ、父親に止められたものの、1863年6月、両親は入隊を許可した。
 最初はニューヨーク州兵第12連隊、次にニューヨーク騎兵隊第16連隊に入隊した。
 1863年11月に名誉除隊される前に伍長に昇進した。
 1か月後、北軍海軍に入隊し、戦争が終わるまで、砲艦USS マスクータ、その後はUSS スターズ・アンド・ストライプスで代理三等技師として勤務した。 
 これらの艦は南部の港湾都市の封鎖に使用された。
 
 1865年8月に除隊した後、ウェスティングハウスは家族の元に戻り、スケネクタディのユニオン大学に入学したが、すぐに興味を失い、最初の学期で退学した。
 彼はさらに父の会社の工場で技術を磨いた。
 ウェスティングハウスが
   ロータリー蒸気エンジン
で最初の特許を取得したのは19歳の時だった。 
 21歳のとき、彼は脱線した車両を線路に戻すための装置である
   車両交換装置
と、異なる線路間で列車を切り替えるための
   可逆式「フロッグ」
であるレール接続部品を発明した。 
  
 ウェスティングハウスは旅行中に、同じ線路で接近していた2本の列車の機関士がお互いに気付いていたものの、既存のブレーキシステムのために間に合わず列車を止めることができなかった衝突事故の余波を目撃した。
 当時、ブレー​​キマンは車両上部の屋根通路に沿って走り、手動でブレーキをかけなければならなかった。そのプロセスの調整は難しく落下する恐れもあり危険だった。
 また、列車の長さは10両を超えることができず、毎年何千人ものブレーキマンが死亡または重傷を負っていた。
 1868年、ウェスティングハウスは妻とともにペンシルベニア州ピッツバーグに移り、鉄道フロッグの製造に使うより良質で安価な鋼材を入手し、そこで発明したばかりの
   鉄道空気ブレーキ
のコンセプトの開発を始めた。

 1869 年、23 歳のウェスティングハウスは、ピッツバーグで初めて革命的な新しい鉄道ブレーキ システムを公開した。
 このシステムは、圧縮空気システムを使用して列車を停止させるものであった。
 彼の最初のブレーキ システムでは、機関車に空気圧縮機と空気貯蔵庫を使用し、列車の全長にわたって 1 本の圧縮空気パイプが走り、車両間はフレキシブルに接続されていた。
 このラインでブレーキを制御し、機関士はすべての車両で同時にブレーキをかけたり解除したりできた。
 その後にウェスティングハウス エア ブレーキ カンパニーとなる会社の設立認可は、その年の 7月に提出された。
 エアブレーキシステムは、集まった目撃者の前で重大な事故を防ぐという成果をあげたが、決して安全とは言えなかった。
 空気ラインが破裂したり切断されたりすると、列車はブレーキが効かなくなった。
 その後2年間、ウェスティングハウスと彼のエンジニアたちは、プロセスを逆転させ、ライン内の圧力が一定であればブレーキが効かなくなるようなバルブを設計することで、この問題に対処した。
 また、各車両に空気タンクも設置された。
 こうして改良された設計により、ラインが中断したり切断されたりすると、列車は自動的に停止するようになった。

 次の10年間、ウェスティングハウスは初期の発明を基に、鉄道信号と線路切り替えシステムへの関心を広げていった。
 それまで、信号は石油ランプに依存し、線路切り替えは手動で行われていた。
 ウェスティングハウスの設計はそれをすべて変えた。
 1882年、ウェスティングハウスは
   ユニオン・スイッチ・アンド・シグナル・カンパニー
を設立し、これらの革新的な制御システムの製造、販売、設置、保守を行い、最終的には世界中の鉄道で採用された。
 
 1883 年までに、ウェスティングハウスは
   天然ガス
に興味を持つようになった。
 ペンシルバニア州マリーズビル近郊で最近ガスが発見され、1878 年に
   ヘイメーカー油井
で起きた壮大な噴出火災もあって、大きな注目を集めていた。
 油井を訪れて商業的可能性を認識した後、ウェスティングハウスはピッツバーグにある自分の土地、ソリチュード (現在のウェスティングハウス パーク) でガスの採掘に着手した。
 1884年5月21日の早朝、掘削作業員が深さ1500フィートのガス溜まりを発見した。
 土砂と水が噴き出して掘削機の上部が吹き飛んだ。
 ウェスティングハウスはガスの流出を止める方法を考案するのに1週間を要した。
 ウェスティングハウスは地域の家庭や事業所にガスを供給し、暖房や照明を供給するシステムを開発するよう促された。
 最終的に、彼の邸宅にあるビクトリア朝時代の庭園の上には天然ガス掘削機が数基そびえ立つようになった。 
 なお、現代では、これらの掘削機の地上の痕跡は残っていない。
 その年、ウェスティングハウスは「フィラデルフィア会社」の休眠中の公益事業認可を取得した。
 その後3年間で装置を開発し、この技術に関する30以上の特許を取得した。
 
 彼はフィラデルフィア会社を利用してガス井を開発し、商業用と住宅用の両方でガスの使用を促進した。
 1886年までにフィラデルフィア会社はピッツバーグ地域で58の井戸と184マイルの配水管を所有した。
 また、1887年までに州全体で12,000以上の個人住宅と582の産業顧客にサービスを提供した。
1889年、発電と配電への関与が急増し雑務が多くなったため、ウェスティングハウスはフィラデルフィア社の社長を辞任したものの、取締役には残った。
 天然ガス事業の成長は、供給問題と家庭や企業へのガス配給に関する継続的な安全上の懸念により、1890年代には鈍化した。
 なお、フィラデルフィア社は成長を続けその後、
   エクイタブル・ガス
   デュケイン・ライト
などの企業を生み出した。

 1880 年代初頭、ウェスティングハウスは鉄道の切り替えと天然ガスの配給に興味を持ち、当時新しい分野であった
   電力配給
に関わるようになった。
 アーク灯を使用した街路の電気照明は既に成長中のビジネスで、多くの企業が現地で発電された直流(DC) または交流(AC)で駆動するシステムを構築していた。
 同じ頃、トーマス・エジソンは、特許を取得した
   白熱電球
を使用して、家庭や企業を照らすために設計された最初の
   DC 電力会社
を立ち上げていた。
 1884年、ウェスティングハウスは独自の直流家庭用照明システムの開発を開始し、物理学者
   ウィリアム・スタンレー
を雇って開発を手伝わせた。
 1885年、ウェスティングハウスはフランス人の
   ルシアン・ゴラール
とイギリス人の
   ジョン・ギブス
が考案した変圧器の概念を知り、雇われていたイタリア人エンジニアの
   グイド・パンタレオーニ
は、ウェスティングハウスがすでに特許を取得している変圧器と、ロンドン、トリノ、ローマ近郊で数マイルも離れた場所に送電できるシステムについてウェスティングハウスに知らせた。
 
 彼らは、交流電気は送電用に変圧器で電圧を「上げ」、次に別の変圧器で電圧を下げて消費者に低電圧で供給できることを発見した。
 この革新により、大規模な集中型発電所で発電し、都市部や人口が分散している地域に長距離供給することが可能になった。
 これは、エジソンの電力会社が販売していた低電圧DCシステムに比べて大きな利点があった。
 低電圧と高電流の使用による電力が電線の抵抗により途中熱に変わって損失するため、発電所の送電範囲は約1マイルに制限されていた。
 ウェスティングハウスは、エジソンの特許を回避するのに十分なだけ異なる、ほとんど競争力のないDC照明システムを単純に組み合わせるのではなく、真に競争力のある電気システムを作成する方法として、より大きな規模の経済性を実現するACの可能性を認識した。
 1885年、ウェスティングハウスはピッツバーグで
   交流ネットワークの実験
を始めるため、数台のゴーラード・ギブス変圧器とシーメンス交流発電機を輸入した。
 スタンレーは技術者の
   アルバート・シュミット
   オリバー・B・シャレンバーガー
の助けを借りてゴーラード・ギブス変圧器の設計を劇的に改良した。
 初の実用的かつ製造可能な変圧器を作成した。 
 1886年、スタンレーはウェスティングハウスの支援を受けて、マサチューセッツ州グレート・バリントンに初の
   多電圧交流電力システム
を設置した。
 このデモ用照明システムは水力発電機で駆動され、500ボルトの交流を生成し、それを100ボルトに降圧して家庭や企業の白熱電球を点灯した。
 同年、ウェスティングハウスは「ウェスティングハウス・エレクトリック・アンド・マニュファクチャリング・カンパニー」を設立した。 
 1889年、彼はこれを「ウェスティングハウス・エレクトリック・コーポレーション」に改名した。

 ウェスティングハウス社は1年以内に30以上の交流照明システムを設置し、1887年末までに68の交流発電所を保有していた。
 競合するエジソンは7年間で121の直流発電所を設置していた。 
 このエジソンとの競争は、1880年代後半に「電流戦争」として知られるようになった戦争につながった。
 トーマス・エジソンと彼の会社はこれに加わり、交流配電で使用される高電圧は危険で致命的であるという世論の認識を意図的に広めた。
 エジソンは、ニューヨーク州の新しい電気椅子にウェスティングハウスの交流発電機を使用するべきだとさえ提案し、醜聞を広げようと画策した。

 ウェスティングハウスは、もう一つの交流ライバルである
   トムソン・ヒューストン・エレクトリック・カンパニー
とも取引をしなければならなかった。
 同社は1887年末までに22の発電所を建設したうえ、1889年までには別のライバルである
   ブラッシュ・エレクトリック・カンパニー
を買収していた。
 トムソン・ヒューストンは、ウェスティングハウスとの特許紛争を避けながら事業を拡大した。
 照明会社の管轄区域に関する協定、スタンレーの変圧器の特許を使用するためのロイヤリティの支払い、ウェスティングハウスにソーヤーマン白熱電球の特許を使用する許可などの取引をまとめていた。

 1890 年、エジソン社はトムソン・ヒューストン社と共謀して、ウェスティングハウス社の交流発電機で電力を供給する最初の電気椅子を手配した。
 ウェスティングハウス社は、当時最高の弁護士を雇って、電気椅子で死ぬ予定の最初の人物であるウィリアム・ケムラーの弁護を依頼し (失敗に終わりました)、この動きを阻止しようとしました。

 電流戦争は1892年に金融家
   JPモルガン
がエジソン・ゼネラル・エレクトリックに交流電力への切り替えを強制し、エジソンを自らが設立した会社から追放したことで終結した。 
 その後、エジソン・ゼネラル・エレクトリック社は
   トムソン・ヒューストン・エレクトリック社
と合併し、トムソン・ヒューストンの取締役会が支配する複合企業
   ゼネラル・エレクトリック
となった。
 この間、ウェスティングハウスは、完全に統合された交流システムを構築するという目標に資金とエンジニアリングリソースを注ぎ込み続けた。
 コンソリデーテッド・エレクトリック・ライト社を買収してソーヤーマンランプを手に入れ、誘導計などの部品を開発した。
 また、発明家ニコラ・テスラのブラシレス交流誘導モーターの権利と、新しいタイプの電力分配方法である多相交流の特許を取得した。
 ただ、実現可能な交流モーターの獲得により、ウェスティングハウスはシステムの重要な特許要素を手に入れたが、特許の買収とそれを構築するのに必要なエンジニアの雇用にかかる財政的負担のため、テスラのモーターの開発はしばらく保留せざるを得なかった。
 
 ロンドンの
   ベアリングス銀行
が破綻寸前となり、 1890年の金融恐慌が引き起こされ、投資家は融資の返済を迫られた。
 1891年、ウェスティングハウスの会社は突然の現金不足により、会社は債務の借り換えを余儀なくされ苦境に陥った。
 新たな主要貸し手は、ウェスティングハウスに対し、他社の買収、研究、特許への過剰な支出を削減するよう要求してきた。
 1891年、ウェスティングハウスはコロラド州オフィール近郊に水力交流発電所、エイムズ水力発電所を建設し、3.5マイル離れたゴールドキング鉱山に交流電力を供給した。
 これは産業用交流電力の長距離送電に初めて成功したもので、2台の100馬力ウェスティングハウス製交流発電機が使用された。
 1台は3,000ボルト、133ヘルツの単相交流を生成する発電機として機能し、もう1台は交流モーターとして使用された。
 1892年5月、ウェスティングハウス・エレクトリックは、シカゴで開催された1893年万国博覧会の電力と照明を交流で供給する入札に勝ち、ゼネラル・エレクトリックを大幅に下回る入札で契約を獲得した。
 この契約の要求を満たすために、彼は取得した
   ソーヤーマンの特許
に基づいて、エジソンの特許設計を侵害しないことを保証しながら、新しいタイプの白熱電球を急いで開発する必要があった。
 1893年初頭までに、ウェスティングハウスのエンジニアである
   ベンジャミン・ラム
は、テスラの誘導モーターの効率的なバージョンの開発で大きな進歩を遂げていた。
 その作業では、妹であり、ウェスティングハウスのエンジニア仲間である
   ベルタ・ラム・ファイヒト
の助けがあった。
 ウェスティングハウス・エレクトリックは、完全な多相交流システムを「テスラ多相システム」と名付け始めた。
 テスラの特許により他の交流システムよりも特許が優先されることを発表し、特許侵害者を訴える意向を表明した。
 
 この万国博覧会では電気展示用の建物が設けられた。
 これは交流電力の歴史において重要な出来事であり、ウェスティングハウスはアメリカ国民に完全に統合された交流システムの安全性、信頼性、効率性を実証した。

 ウェスティングハウス社がコロンビア万国博覧会で完全な交流システムを構築する能力を実証したことは、同社が1895年にニューヨーク州ナイアガラフォールズに2相交流発電システムであるアダムス発電所を建設する契約を獲得する上で重要な役割を果たした。
 同社はこの発電所で5,000馬力(3,700kW)25Hz交流発電機10台を建設する下請けとなった。
 ウェスティングハウス社のナイアガラ発電所第1号は当時はナイアガラ変電所で稼働を続け、1961年に老朽化に伴い閉鎖された。
 同時に、プロジェクトに必要な三相交流配電システムを構築する契約がゼネラル・エレクトリック社に授与された。
 1890年代前半から中頃にかけて、金融業者JPモルガンの支援を受けたゼネラル・エレクトリック社は、ウェスティングハウス・エレクトリック社との買収や特許争いに多額の費用を費やした。
 なお、この競争は費用がかかりすぎたため、1896年に両社の間で
   特許共有協定
が締結された。
 この協定は1911年まで有効であった。

 ナイアガラフォールズ初の発電所であるランキン発電所(カナダナイアガラ発電所としても知られる)の成功を受けて、カナダ人はウェスティングハウス社と契約し、テスラにヒントを得た同じ設計の25ヘルツ発電機11台を購入し、総発電容量100MWと評価された。
 この施設は1905年にオンタリオ州ナイアガラフォールズに開設された。
 ウェスティングハウスの他のプロジェクト「 蒸気機関、船舶推進装置、ショックアブソーバー」、他の事業では成功し続けていたものの、ウェスティングハウスの主な関心は電力に移った。
 当初、利用可能な発電源は、落水が利用できる場所では水力タービン、利用できない場所では往復蒸気エンジンであった。
 ウェスティングハウスは、既存の往復蒸気エンジンが扱いにくく非効率的であると感じ、より洗練された回転エンジンを開発したいと考えた。
 彼の最初の特許は回転蒸気エンジンでしたが、当時は実用的ではないことが判明した。

 1884年、イギリスの技術者
   チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ
が蒸気タービンの実験を開始し、10馬力(7.5kW)のタービンから始めた。
 1895年、ウェスティングハウス社が
   パーソンズタービンの権利
を購入し、同社の技術者らは技術を改良して規模を拡大した。
 1898年、ウェスティングハウス社は空気ブレーキ工場の往復エンジンに代わる300キロワットの発電ユニットを実証した。
 翌年、彼は
   ハートフォード電灯会社
向けに1.5MW、1200rpmのユニットを設置した。

 ウェスティングハウスは、船舶推進用の蒸気タービンも開発した。
 基本的な問題は、大型タービンは3000rpmでもっとも効率的に回転するのに対し、効率的なプロペラは100rpm程度でしか回転しないことであった。
 これには減速ギアが必要となったが、高回転と高出力の両方で作動する減速ギアの設計は
   「わずかなずれでも動力伝達系が壊れてしまう」
ため困難であった。
 ウェスティングハウスと彼のエンジニアは
   自動セルフアライメントシステム
を発明し、大型船舶でのタービン動力を実用化した。

 1889年、ウェスティングハウスはアリゾナ州南東部のパタゴニア山脈でいくつかの鉱山権益を購入し、
   デュケイン鉱山還元会社
を設立した。
 彼は、特に金属が豊富ではない
   「リーン」鉱石
から銅を採掘して抽出するより良い方法を発明したいと考えていた。
 この事業が成功すれば、銅を大量に使用する電気事業で競争するのに役立つはずだった。 
 しかし、彼はこのプロジェクトでは失敗に終わった。
 銅を還元する新しい方法は見つからず、鉱山は利益を生まなかった。
 彼はデュケインの町を会社の本社として設立したが、現在はゴーストタウンとなっている。
 デュケインの住民は1,000人を超え、鉱山は1910年代半ばに生産のピークを迎えた。
 
 ウェスティングハウスは、暖房と冷房を供給できるヒートポンプの開発にも着手した。
 ウェスティングハウスが
   永久機関の開発
を目指していると主張したとき、彼の多くの通信相手の一人であった英国の物理学者
   ウィリアム・トムソン(ケルビン卿)
は、そのような機械は熱力学の法則に反するだろうと彼に告げた。
 ウェスティングハウスは、そうかもしれないが、永久機関を作れなくても、特許を取得して販売できる
   ヒートポンプシステム
があるだろうと述べ、「それは何の違いもない」と答えた。

 また、自動車が広く普及した後、ウェスティングハウスはサスペンションシステム用の圧縮空気ショックアブソーバーを発明した。
 このショックアブソーバーは彼が取得した362件の特許のうち最後の1つであり、彼の死後2年後に授与された。

 ウェスティングハウスは、1881年6月から労働者に週5日半の労働時間を与えた米国初の産業雇用主である。
 土曜日は、地域社会への参加と個人の成長を促進するために半休日とされた。 ウェスティングハウスはイギリスを訪問した際にこの慣行を観察していた。
 ペンシルベニア州ウィルマーディングの計画都市には多くのウェスティングハウスの従業員が住み、ウェスティングハウス・エアブレーキをはじめとするいくつかの企業の本社を置いていた。
 ウェスティングハウス・エレクトリック・アンド・マニュファクチャリングは、ピッツバーグの東、タートルクリーク渓谷をさらに1マイル下ったところにあった。
 労働者住宅には水道、電気、ガスが備えられ、小さな庭のためのスペースも設けられていた。
 定期的な給与天引きによって住宅所有が容易になった。
 また、年金と保険制度もあった。
 工場は明るく換気も良く、医療施設や負傷者治療のための人員も備えられていた。
 ウェスティングハウスの費用で賄われたこうした設備は当時としては非常に革新的と考えられており、特に近隣の製鉄所の労働者が耐えてきた労働条件とは対照的であった。

 ウェスティングハウスは従業員から広く尊敬されていた。
 彼らは内心彼を「老人」と呼んでいた。
 彼の進歩的な姿勢の表れとして、ウェスティングハウスの技術者が何かを発明したとき、その使用権を会社に譲渡したものの、その特許に自分の名前を残すことが許されていた。
 ウェスティングハウスはこれを
   人間の尊厳
の一部であり、
   知的財産
の一部であるとみなしていた。
 ウェスティングハウスはエジソンとは異なり、共同発明者として会社のすべての特許に自分の名前を載せることはなかった。

 ウェスティングハウスは労働組合化には賛成しなかった。
 ただ、組合に所属する労働者を拒否することはなかったが、自社の工場の労働条件とは関係のない問題で労働者がストライキを起こす可能性がある団体交渉協定は好まなかった。
 ウェスティングハウスの会社で彼が経営に携わっていた間に起きたストライキは1件だけだった。
 それは1904年の
   セントルイス万国博覧会
の照明を急いでいた
   ウェスティングハウス・マシン社
での1903年のストライキだった。
 ウェスティングハウスはストライキを起こした従業員の代わりをすぐに雇うことで対応した。
 なお、こうしたウェスティングハウの行動にもかかわらず、米国の労働組合の組織者
   サミュエル・ゴンパーズ
は「すべてのビジネスリーダーや大物がジョージ・ウェスティングハウスと同じように従業員を扱えば、労働組合は必要なくなるだろう」と言ったと伝えられている。

 ウェスティングハウス工場内外の状況を映した短編映画シリーズが1904年に制作され、セントルイス万国博覧会で上映された。 
 
 1867年、ウェスティングハウスは列車で
   マーガレット・アースキン・ウォーカー
と出会い、その年の8月に結婚した。
 二人は47年間結婚生活を送り、
   ジョージ・ウェスティングハウス3世
という息子を一人授かり、その息子にはさらに6人の子供が生まれた。
 1871年以降、ジョージとマーガレット・ウェスティングハウスは、ジョージが1871年に購入した土地に既存の家を増築し、ピッツバーグにソリチュードと呼ばれる大きな家を所有していた。
 彼らは、ヘンリー・クレイ・フリック、ヘンリー・J・ハインツ、ウィリアム・ソー、アンドリュー・メロン、リチャード・ビーティー・メロンといった隣人や仲間、アンドリュー・カーネギーとトーマス・カーネギーの兄弟など、地元の非常に裕福な実業家や資産運用者の社会階級に属していた。
 彼らの客には、ニコラ・テスラ、ケルビン卿、下院議員(そして後の大統領)ウィリアム・マッキンリーなどがいた。

 1893年までに、彼らはマサチューセッツ州レノックスにアースキン・パークを建設し、夏の別荘として利用した。
 ピッツバーグの荒々しい工業環境からの休息の場としても利用した。
 この公園はマーガレットの祖父母の家族にちなんで名付けられた。

 1898年、ウェスティングハウス家はワシントンDCのブレイン・ハウス邸宅を借り、1901年に購入した。
 マーガレット・ウェスティングハウスはここで頻繁に豪華な娯楽を主催していたと評判だった。
 1918年、彼のかつてのピッツバーグの住居であるソリチュードは取り壊された。
 その土地はウェスティングハウス・パークを作るためにピッツバーグ市に寄付された。
 アースキン・パークの家は1917年に家族によって売却され、その後取り壊された。

 1894年、北軍の南北戦争退役軍人の友愛組織である
   グランド・アーミー・オブ・ザ・リパブリック
がピッツバーグで1週間の大会を開催した。
 ジョージ・ウェスティングハウスは退役軍人であったため、イーストピッツバーグのウェスティングハウス・エレクトリック・アンド・マニュファクチャリング・カンパニーの新築されたまだ使われていなかった本館で、5,000人以上の参加者を招いて夕食と娯楽の夜会を主催した。
 彼は必要な建物の準備費用と、人々を鉄道で現場まで輸送する費用をすべて負担した。
 
 エアブレーキに関する彼の功績に対する誇りは、1904年に発表されたコメント「いつの日か、エアブレーキによって私が文明に貢献し、人命の安全に貢献したと言われるなら、それで十分だろう。」に反映されている。
 
 ジョージ・ウェスティングハウスは、1907年の金融恐慌によりウェスティングハウス・エレクトリック社の経営から退くまで、アメリカ産業界の重鎮であり続けた。
 1911年までに彼はもはやビジネスに携わっておらず、健康も衰えていた。 
 ウェスティングハウスは1914年3月12日、67歳でニューヨーク市で亡くなった。
 彼は最初、ニューヨーク州ブロンクス区のウッドローン墓地に埋葬されたが、1915年12月14日に移転された。
 南北戦争の退役軍人であった彼は、妻のマーガレットと共にアーリントン国立墓地に埋葬された。
 マーガレットは彼より3か月長生きした。彼女も最初はウッドローンに埋葬されていたが、ジョージと同時に移転され、改葬された。
 
 ジョージ・ウェスティングハウスは同僚や従業員から高く評価されていた。例えば、彼と共に交流多相電力供給システムを開発した
   ニコラ・テスラ
は、1938年に彼について「ジョージ・ウェスティングハウスは、当時の状況下で私の交流システムを採用し、偏見や金の力との戦いに勝利できた地球上で唯一の人物だと私は考えます。彼は堂々とした先駆者であり、世界の真の貴族の一人で、アメリカは彼を誇りに思うべきであり、人類は彼に多大な恩義を負っています。」と語っている。

 1936 年、アメリカ機械学会は、ジョージ・ウェスティングハウス生誕 90 周年を記念して「ジョージ・ウェスティングハウスの経歴と業績を紹介する」という記念フォーラムを開催した。
 1953年以来、アメリカ機械学会は機械工学の動力分野においてジョージ・ウェスティングハウスメダルを授与している。
 また、1972年以降は金メダルと銀メダル(若手技術者向け)も授与されている。
 2021年、ウェスティングハウス生誕175周年(「生誕200周年」)が祝われ、ウェスティングハウス・パークは樹木園として認定され、国家歴史登録財への登録資格も認定された。
 
 2023年には、ウェスティングハウス・レガシー501.c3組織(501(c)(3)非営利団体)が設立され、ウェスティングハウスとその功績を伝える活動を行っている。
 この組織は、ジョージ・ウェスティングハウスに関する情報のオンラインアーカイブを構築し、彼の名前を冠したピッツバーグ公園で進行中のプロジェクトを推進して、公園の市のマスター開発計画の実施や考古学研究の長期プログラムの開発などを行っている。
   
   
  
    ↓ 参考になったらクリックお願いします。
  人気ブログランキングへ

    
posted by まねきねこ at 06:49| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

スウェーデンの24年における軍事装備品の輸出は安全保障懸念強まりから過去最高

 ロシアのウクライナ侵攻を受け安全保障への懸念が高まる中、スウェーデンの軍事装備品の輸出額は2024年、過去最高の
   290億スウェーデン・クローナ(約4200億円)
に達した。
 スウェーデンの戦略製品検査局(ISP)のデータによると、防衛物資の輸出額は2023年から63%増加した。
 ISP
   カール・ヨハン・ビースランデル局長
は10日に発表で「安全保障情勢の悪化が軍事装備品の輸出にどのような影響を与えているかは明らかだ」と述べた。
 輸出の70%強は、防衛や安全保障政策の分野でスウェーデンと協力関係を結んでいる39カ国向けだった。
 ISPによると、最大の輸出先はアラブ首長国連邦(UAE)で、米国とブラジルが続いた。
 対ウクライナでは、スウェーデン政府による供与と、スウェーデン防衛産業の販売の許可件数が2倍に増えた。
 スウェーデン最大の防衛企業サーブは、
   戦闘機「グリペン」
   早期警戒管制機「グローバルアイ」
   潜水艦
などを製造しており、軍事装備に対する世界的な需要の高まりで、大きな恩恵を受けている。
   
  
posted by まねきねこ at 02:00| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月12日

ノースロップ・グラマン(Northrop Grumman)世界最大の防衛関連請負業者の一つ

          (Northrop Grumman Corporation)
 米国の多国籍航空宇宙・防衛企業
 従業員数は97,000人[ 3 ]、年間収益は400億ドルを超え、世界最大級の兵器製造・軍事技術プロバイダーの一つ。
 ノースロップ・コーポレーションによる
   グラマン・エアロスペース
の買収により1994年に設立されたノースロップ・グラマンは、2022年現在、世界第3位の防衛請負業者にランクされている。
 同社は、2022年のアメリカ最大の企業のフォーチュン 500リストで101位にランクされている。
 ノースロップ・グラマンとその業界パートナーはコリアー・トロフィーを9回受賞している。
 最近では2021年に打ち上げられた軌道観測衛星ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の開発と製造で受賞した。
 ノースロップ・グラマンは、通常兵器と核兵器を投下できる
   長距離ステルス戦略爆撃機B-21 レイダー
の開発を主導している。
 同機は、世界で唯一知られているステルス爆撃機であるノースロップの
   B-2 スピリット
に代わるものである。
 同社の他のプロジェクトには、NASA のスペース・ローンチ・システム・プログラム用の固体ロケット・ブースターの製造がある。
 同社は、新型大陸間弾道ミサイルの開発と製造を目的とする空軍の地上配備型戦略抑止力プログラムの唯一の入札者であった。
  
 収益 410.3億米ドル(2024年)
 営業利益 43億7,000万米ドル(2024年)
 純利益 41億7,300万米ドル(2024年)
 総資産 493.6億米ドル(2024年)
 総資本 152.9億米ドル(2024年)
 従業員数約 97,000人(2024年)

 ノースロップ・グラマンの歴史は、20世紀初頭にニューヨーク州ロングアイランドでグラマン社が設立されたときに遡る。
 この地で、
   リロイ・R・グラマン
が1929年12月に
   グラマン・エアクラフト・エンジニアリング社
を設立した。
 1939年までに同社は事業を拡大し、ニューヨーク州ベスページに移転した。
 第二次世界大戦中、同社は米海軍の航空機のほとんどを製造した。
 戦後は、航空機に不要になった余剰資材を使用して、初のアルミニウム 製カヌーの製造に進出した。
 その後、同社は弾道ミサイル、全天候型レーダー、アポロ月着陸船、陸上および海上戦闘機、ステルス爆撃機など、無数の製品を生み出した。

 ノースロップ社は1939年に
   ジャック・ノースロップ
によってカリフォルニアで設立され、1985年にデラウェア州で再法人化された。
 ノースロップはF-5、YF-17、F-20などの一連の軽量戦闘機を製造した。
 しかし、ノースロップは1940年代後半から1950年代前半の実験的な
   全翼機 XB-35とYB-49
で最もよく知られていた。
 これらの全翼機は成功しなかったものの、ノースロップが主契約者となった
   B-2スピリットステルス爆撃機
への道を開くこととなった。
 冷戦終結後、ノースロップは一連の買収を行い、
   グラマン・エアロスペース
   ウェスティングハウス
   TRW社
その他多くの企業を買収した。
 2018年、ノースロップ・グラマンは
   オービタルATK
の買収を完了した。
 同社はノースロップ・グラマン・イノベーション・システムズに社名を変更した。
 ノースロップ・グラマンは世界最大の防衛関連請負業者の一つである。

 1994年、ノースロップ・エアクラフト社は
   アポロ月着陸船
を製造した
   グラマン・エアロスペース社
を買収し、
   ノースロップ・グラマン(NG)社
を設立した。
 同社は1992年9月に4500万ドルで最初の49%の株式を購入した。
 後に、1994年8月に
   ヴォート・エアクラフト社(ヴォート)
の残りの51%の株式を1億3000万ドルで購入して同社の完全な支配権を握った。
 1996年、新会社は
   ウェスティングハウス・エレクトリック・コーポレーション
の防衛および電子システム事業のほぼすべて、 レーダーシステムの大手メーカーである
   ウェスティングハウス・エレクトロニック・システムズ
を29億ドルで買収した。
 また、ゼトロン・コーポレーションも買収した。
 1997年には、1996年3月に
   ジオダイナミクス・コーポレーション
と1995年2月に
   シスコン・コーポレーション
を買収した防衛コンピュータ請負業者の
   ロジコン
が加わった。

 ノースロップは、先進戦術戦闘機の2つの候補のうちの1つであった。
 最終的には
   F-22ラプター
に敗れた革新的なYF-23の主契約者でした。
 ノースロップは後に
   F-35
でロッキードと提携し、ロッキード・マーティンの業界主導チームの主要メンバーを務めている。
 1998年、ノースロップ・グラマンと競合企業のロッキード・マーティンとの合併が検討された。
  しかし、国防総省と司法省の抵抗を受けて断念された。
 同年、同社は
   インターナショナル・リサーチ・インスティテュート社
を買収した。
 1999年には、監視システムと無人航空機の開発会社
   テレダイン・ライアン
   カリフォルニア・マイクロウェーブ社
   データ・プロキュアメント・コーポレーション
を買収した。
 1999年3月19日、ノースロップ・グラマンは、新興の衛星打ち上げ会社
   キスラー・エアロスペース社
との取引に関連した問題のため、第4四半期の業績を純損失に修正した。
 1999年、ノースロップ・グラマンと
   SAIC
は合弁会社として
   AMSEC LLC
を設立し、「2000年の収益1億ドルから2007年度には約5億ドルに成長」した。
   
 2000年にNGはFederal Data Corporation、Navia Aviation As、Comptek Research、Inc.、Sterling Software、Inc.を買収した。
 2001年、同社はアメリカ海軍向けの造船および防衛電子システムプロバイダーである
   リットンインダストリーズ
を買収した。
 この買収プロセス中に、デラウェア州の新しい持株会社である
   NNG, Inc.
が設立された。
 2001年4月に1対1の普通株交換によりノースロップグラマンと合併した。
 ノースロップグラマンとリットンの両社は新しい持株会社の子会社となった。
 元のノースロップグラマンコーポレーションはその後、「ノースロップグラマンシステムズコーポレーション」に社名を変更した。
 持株会社であるNNG, Inc.は「ノースロップグラマンコーポレーション」に社名を変更した。
 その年の後半に
   ニューポートニューズ造船
が加わった。
 2001年11月1日、ノースロップ・グラマンは、破産申請した
   アメリカン・クラシック・ボヤージュ社
向けの2隻の船舶の建造を中止した後、第3四半期の利益を再発表した。 

 2002年、ノースロップ・グラマンは
   TRW社
を買収した。
 同社は1997年に
   ブラドック・ダン・アンド・マクドナルド(BDM)
を買収しており、カリフォルニア州レドンドビーチに拠点を置く宇宙技術部門とバージニア州レストンに拠点を置くミッションシステム部門が誕生し、
   宇宙システム
   レーザーシステム
の製造を独占的に行うようになった。
 航空部門はグッドリッチに売却され、自動車部門はスピンオフしてTRWの名前を保持した。
 ノースロップ・グラマンは2000年代半ばから
   EADS
と提携し、米空軍のKC-Xタンカー競争に
   KC-30多目的タンカー輸送機
を提供した。
 2008年2月、米空軍はKC-30を選択したが、2008年9月に国防総省はタンカープログラムを一時停止した。
 2010年3月、ノースロップ・グラマンは、改訂された要件が
   ボーイングKC-46
に有利であると判断し、競争から撤退すると発表した。

 2006年1月1日、ノースロップ・グラマンは「テクニカルサービス」という事業部門を開設した。[
 ノースロップ・グラマンとボーイングはNASAの次期オリオン宇宙船(旧称クルー・エクスプロレーション・ビークル)の設計コンセプトを共同で作成した。
 2006年8月31日にその契約はライバルのロッキード・マーティンに譲渡された。 

 2006年、ノースロップ・グラマンはアメリカ空軍の次世代爆撃機の入札を予定していた。
 同社は1990年代にB-2スピリットの生産を終了して以来、大型有人機を製造していない。
 ただ、「その認識を覆すために、それを支える技術と能力で懸命に取り組んできた」が、2009年までに、そのプロジェクトに取り組んでいたチームは分散し、代わりにアメリカ空軍の焦点は長距離攻撃に移った。
 ノースロップ・グラマンは長距離攻撃爆撃機の競争に参加した2チームの1つであり、2015年10月に長距離攻撃爆撃機の契約を獲得した。

 2007年7月20日、ノースロップ・グラマンはバート・ルータンの
   スケールド・コンポジッツ
の唯一の所有者となった。
 2007年、ノースロップ・グラマンはオフショアリングに代わる手段として「ナショナル・ワークフォース・センター」を設立した。
 この拠点はアラバマ州オーバーン、テキサス州コーシカナ、ウェストバージニア州フェアモント、モンタナ州ヘレナ、ペンシルベニア州ジョンズタウン、バージニア州レバノンであり、サウスダコタ州ラピッドシティの拠点は2012年1月に閉鎖された。 

 2008年7月、ノースロップ・グラマンの従業員4人のうち3人(トーマス・ハウズ、マーク・ゴンサルベス、キース・スタンセル)が、コロンビアのジャングルでの飛行機墜落事故後5年間監禁されていた。
 彼らはジャック作戦中に解放された。
 4人目の従業員トム・ジャニスは、 2003年の墜落事故直後にFARCに殺害されていた。

 2008年1月、ノースロップ・グラマンはニューポート・ニューズと船舶システム部門を統合し
   ノースロップ・グラマン造船所
という新しい事業部門を設立した。
 2011年3月31日、この事業部門は
   ハンティントン・インガルス・インダストリーズ社(NYSE:  HII )
として分社化した。
 2010年11月、NASAは大型ロケットシステムのコンセプトと推進技術に関する契約の候補としてノースロップ・グラマン社を選定した。
 ノースロップ・グラマンは2013年からDARPAの
   戦術的偵察ノード(TERN)プログラム
に参加し、フェーズ1で290万ドル、フェーズ2で1900万ドルを受け取った。
 TERNプログラムは、中型船からUAVを発進・回収し、長距離情報収集を行うことを目的とする。

 2013年7月、ノースロップ・グラマンは、米空軍の
   次世代航空戦仮想訓練ネットワーク
を支援するために、潜在的に4億9000万ドル相当の訓練シミュレーション契約を獲得した。
 2018年現在、ノースロップ・グラマンは
   ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡
の主契約者となった。

 2015年10月、米軍はB-1とB-52の後継機(後にB-21と命名)の契約をノースロップ・グラマン社に発注したと発表した。
 当初の契約額は214億ドルで、最終的には800億ドルに達する可能性がある。
 2017年9月、ノースロップはミサイルおよびロケット製造会社
   オービタルATK社
を92億ドルで買収する意向を発表した。
 この内訳は現金78億ドル、純負債14億ドルだった。
 2017年11月29日、オービタルATKの株主は買収を承認した。
 2018年6月6日、FTCの最終承認を得て合併が完了した。
 買収した会社の資産と社名は吸収され、
   ノースロップ・グラマン・イノベーション・システムズ
という部門となった。
  
 2020年6月、NASAはノースロップ・グラマン社と、同社のシグナス貨物宇宙船をベースにした月面ゲートウェイ 居住・物流拠点(HALO)モジュールの9億3500万ドルの契約を締結した。
 2022年7月、ノースロップ社は、モジュール内の従業員と機器がWi-Fiアクセスできるようにする無線対応技術を提供するため、ソルスター社と下請け契約を結んだ。 

 2020年9月、ノースロップ・グラマンは、ロッキード・マーティンの下請け業者であった先進超高周波(AEHF)衛星プログラムの代替となる妨害電波対策通信衛星プログラムである
   Evolved Strategic Satcomプログラム
の2億9,800万ドルの単独契約を獲得した。
 2020年12月、ノースロップは連邦政府ITおよびミッションサポート事業を
   ベリタスキャピタル
に34億ドルの現金で売却した。
 ベリタスは同グループを
   ペラトン
の子会社化した。
 この売却は2021年2月に完了した。

 火星サンプルリターンミッションの火星上昇推進システム(アセントビークル)の契約は、2021年3月5日にノースロップ・グラマンに授与された。
 これによりノースロップ・グラマンは、火星サンプルリターンミッションのために、長さ3メートル、2段式、固体燃料の火星上昇ロケットを製造することになる。
 このミッションは、地球に持ち帰るためにパーセベランスのサンプルを収集することである。

 ノースロップ・グラマンは2022年8月、
   アンタレスロケット
のエンジンと構造物の生産をロシアとウクライナから米国に移管すると発表した。
 アンタレスの生産の米国への全面移転は、テキサス州に拠点を置く
   ファイアフライ・エアロスペース
との提携を通じて行われる。
 ノースロップ・グラマンはアンタレス230+シリーズの動力源としてロシア製のRD-181エンジンを購入しており、ロケット本体はウクライナのユジュマシュ国営企業によって製造された。
 ノースロップ・グラマン社のB-21レイダーは早ければ2023年後半にも試験飛行に入ると予想されており、アメリカ空軍は早ければ2030年に運用可能な航空機を取得すると予測されている。
 2023年10月にはB-21レイダーのタクシーテストが進行中であると報じられた。[

 2023年9月15日、ノースロップ・グラマンは米国の台湾への武器販売を理由に中国政府から制裁を受けた。 
 2024年5月、ノースロップ・グラマンは
   国防高等計画研究局(DARPA)向け
に開発された
   水中ドローン「マンタ・レイ」
を発表した。
 同名の海の生物に似たこのドローンは、海底での長時間の徘徊を含む、長期間の長距離軍事任務を遂行するように設計された。
 マンタ・レイの開発には、海水の腐食性を克服すること、海洋生物が可動部品に干渉するのを防ぐこと、太陽光を含む電磁放射がうまく伝播しない条件下で動作することなど、いくつかの技術的課題があった。

 この機体は、翼に2つの4枚羽根のプロペラを使用して、浮力を変化させることで水柱内を上下しながら前方に滑空する滑空システムによる推進力を強化している。
 人間の監視を最小限に抑えることを重視したマンタ・レイの開発は、無人水中車両(UUV)技術の大きな進歩を表しています。
 2024年9月、ノースロップ・グラマンは
   米国ミサイル防衛局(MDA)
の滑空段階迎撃ミサイル(GPI)の開発・製造の競争に勝利した。

 1990年から2002年まで、ノースロップ・グラマンは連邦選挙運動に850万ドルを寄付した。
 Source WatchがまとめたPAC概要データによると、同社は2005〜2006年の選挙期間中に連邦候補者に1,011,260ドルを寄付した。
 同じ選挙期間中にすべての防衛関連請負業者が寄付した金額は10,612,837ドルだった。
 この寄付額は、防衛業界では
   ジェネラル・ダイナミクス
   ロッキード・マーティン
に次ぐものだった。
 寄付の大部分、63%は共和党に渡った。
 ノースロップ・グラマン・エレクトロニクス・システムズの元最高責任者
   ジェームズ・G・ロッシュ
は、ジョージ・W・ブッシュ政権で2年間空軍長官を務めた。
 ロッシュは最終的に陸軍のトップに指名されたが、ボーイングとの契約管理を誤ったことと、2003年の空軍の性的暴行スキャンダルを適切に処理できなかったことの告発を受けて、指名を撤回した。

 CorpWatchによると、「少なくとも7人のノースロップ・グラマンの元役員、コンサルタント、または株主」が「ブッシュ政権で役職に就いていた...その中には、国防副長官のポール・ウォルフォウィッツ、副大統領首席補佐官のI・ルイス・リビー、国防総省の監査役のドブ・S・ザクハイム、 NASA長官のショーン・オキーフなどが含まれる」。ウォルフォウィッツとリビーは、スキャンダルの渦中にある政府を去った。
 同社は、利益を有する管轄区域において第三者のロビー活動会社と提携している。
 例えば、南オーストラリア州では、ロビー活動会社CMAXコミュニケーションズと提携している。

 1980年代後半から1990年代初頭にかけて、ノースロップはいくつかの注目を集める刑事事件と民事事件の標的となった 

 米国務省の捜査官らは、ノースロップ・グラマンが2000年に買収した子会社の
   リットン・インダストリーズ
が、1998年にエアフォースワンの誘導航法システムインターフェースに使用されたソースコードの一部を
   ロシアの企業に提供
していたことを発見した。
 ノースロップ・グラマンは、1998年9月から1998年11月の間に発生した
   武器輸出管理法および国際武器取引規則(ITAR)
の110件の違反に対して1500万ドルの罰金を支払うことに同意した。
 さらに、国務省が提出した文書によると、1994年から2003年の間にノースロップ・グラマンは、コンピュータ誘導システムがアンゴラ、インドネシア、イスラエル、中国、ウクライナ、イエメンに移送されていたことを米国国務省に通知していなかったとされている。

   
posted by まねきねこ at 14:00| 愛知 ☁| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米航空・小売り業界では個人消費減速受け、業績予想の下方修正が相次ぐ

 米国経済への懸念が高まる中、
   個人消費の減少
が加速していることを受け、航空業界や小売り業界で今後の業績への不安が広がっている。
 アメリカン航空グループとデルタ航空は相次いで業績見通しを下方修正した。
 アメリカン航空は11日、1−3月期(第1四半期)の
   損失予想をほぼ2倍
に引き上げた。
 その数時間前、デルタ航空も利益予測を半減させた。
 航空各社は今年、業界を支えてきた需要の広範かつ急速な反転に直面している。
 サウスウエスト航空も、同期の収益予想を引き下げた。
 発表によると、アメリカン航空は1−3月期、1株当たり80セントの損失を計上する見込みとなった。
 以前の予想は1株あたり40セント以下の損失だった。
 アナリストは平均28セントの損失を予想していた。
 アメリカン航空は「収益環境は当初の予想よりも厳しい」として、売上高予想も以前の最大5%増から、ほぼ横ばいに下方修正した。
  
 また、デルタ航空
   エド・バスティアン最高経営責任者(CEO)
は11日の投資家向け会議で、第1四半期は「最悪の事態が続いた」と述べた。

 航空業界は、経済の不安定さや悪天候、航空事故の多発による一部乗客の不安など、数多くの課題にさらされている。
 トランプ政権による追加関税や、大規模な連邦政府職員の削減といった政策により不確実性が高まっているため、個人消費が押し下げられている。

 デルタ航空の株価は、11日のニューヨーク市場で一時8.9%下落した。
 アメリカン航空ユナイテッド・エアラインズ・ホールディングスも下落した。
 一方、サウスウエスト航空は、預け入れ手荷物料金を新設して収益を増加させる計画を発表したことで、上昇に転じている。

 航空業界の動きと、スポーツ用品小売りの
   ディックス・スポーティング・グッズ
や、小売り大手コールズの弱気な業績予想が相まって、米国株式市場は急落している。
 トランプ関税や、トランプ氏が「移行期」にあるとする経済予測により、今年の成長見通しについて広く再評価が起きている。
  
 
ひとこと
 トランプ政権への過度な期待が失望感となり広がる流れが始めており、経済の底が抜ける可能性もありそうだ。

   
posted by まねきねこ at 13:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

欧州金融市況で米関税引き上げで株式市場は5週ぶり安値、国債も下落

 欧州株は11日、トランプ米大統領がカナダに対する関税を引き上げると表明したことが材料視され4日続落した。
 また、米国の航空会社の
   低調な利益見通し
を嫌気し、この日は航空株が売られた。
 ストックス欧州600指数は1.7%下落し、5週ぶり安値に沈んだ。
 トランプ氏は、カナダから輸入される鉄鋼およびアルミニウムに対する関税を50%に引き上げると、自身のソーシャルメディアプラットフォーム「トゥルース・ソーシャル」に投稿した。
 カナダのオンタリオ州が、米国向けの電力価格を25%引き上げたことへの報復としている。
 ドイツの自動車メーカー、フォルクスワーゲン(VW)は1.1%下落した。
 一時は上昇している場面もあった。
 また、ステランティスは5.2%値下がりした。

 欧州債は軒並み下落し、ドイツ債と英国債の利回り曲線はスティープ化した。
 予想されるドイツの
   財政支出拡大
が欧州での政府借り入れ増大につながるとの見方が背景にある。
 ドイツ10年債利回りは一時7ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)上昇して2.90%と、2023年10月以来の高水準をつけた先週の2.93%に迫った。
 また、2年債は1bp低下して2.20%だった。
 2年債と10年債のイールドカーブは08年以降で最長となる9営業日連続のスティープ化となった。
 なお、短期金融市場が織り込む年内の欧州中央銀行(ECB)の利下げは25bp未満となっている。


posted by まねきねこ at 11:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプ政策不確実性で「年内の米景気後退確率ほぼ50%」「ある種の過渡期」という考えは一切うまくいかないものと批判

 クリントン政権で財務長官を務めた
   ローレンス・サマーズ
はブルームバーグテレビジョンとのインタビューで、米国が今年リセッション(景気後退)に陥る確率がトランプ政権が示す
   さまざまな政策方針で信頼感が損なわれていること
を理由に挙げ、五分五分に近いとの考えを示した。 
 「われわれは不確実性の問題を抱えている。これを修復するのは難しいだろう」と語り、「予想と比べて減速するのはほぼ確実だ。リセッションの可能性は50%に近いだろう」と続けた。
 大規模な移民規制や連邦職員の大量解雇、トランプ大統領
   関税による米国の競争力低下
が重なり、米経済見通しが一変したと指摘した。
 その上で、米連邦公開市場委員会(FOMC)は来週の会合で、「不確実性が経済にもたらしている極めて甚大な損害を強調する必要がある」と話し、「こうした不確実性に彼らが対応できる能力は非常に限られているということも指摘しなければならない」と続けた。
 サマーズ氏はハーバード大学教授となっており、ブルームバーグTVなどでコメンをしている。

 トランプ米大統領は9日放送の保守系のFOXニュースの番組で、関税と連邦職員削減に重点を置く政策が市場の混乱を招く中、米経済は「過渡期にある」と主張し
   景気減速リスク
を巡る懸念をかわしたが、思い描く通りに経済が回復する道筋などを示すことは、トランプ政策が矛盾に満ち相互に利害の対立が生じるため不可能となり出来ていない現実を理解すらしていない問題が背景に横たわっている。

 サマーズ氏はバイデン前政権がコロナ感染の拡大で金融支援目的で市場への資金提供のバルブを広げたまま放置し、2021年のインフレ率上昇をすぐに収まる一過性のものものだと考え、あまり重要視しなかったことを引き合いに出し、 「『過渡期』は、『一過性』という言葉に似ていないだろうか」と問いかけた。
 また、「ある種の過渡期という考えは一切うまくいかないと思う」と続けた。
  
   
posted by まねきねこ at 10:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプ関税など政策の変更や見直しが頻繁に行われているため、多くの小売業者が今年の動向を予測するのは非常に難しい

 グローバルデータのマネージングディレクター
   ニール・サンダース氏
は「混乱が非常に多く、(トランプ関税など)政策の変更や見直しが頻繁に行われているため、多くの小売業者が今年の動向を予測するのは非常に難しいとしている」と指摘した。
 
   
posted by まねきねこ at 09:16| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプ関税が不安となり、金融市場が混乱。減税実現が急務だがインフレが加速しかねず別の時間軸を持ち出してトランプ氏は沈静化に躍起

 トランプ米大統領の関税政策が市場を混乱に陥れている中、同大統領の経済活性化策の柱である
   大規模な税制法案の可決
を急ぐべきだという圧力が強まっている。
 トランプ大統領のチームは、貿易と公共支出の抜本的な改革を進める中で、
   短期的な痛み
を警告し始め、米国民の支持を失う可能性が高まっている。
 減税措置は消費者の懐を潤し、打撃を和らげるのに役立つための動きだが、 理想なのは7月までに法案を可決できることだが、インフレ傾向が鎮静できないなど多くのハードルが待ち構えている。
 トランプ氏は任期1期目には、
   貿易戦争
を始める前に減税を実施したが今回はその逆の状況にある。
 金利上昇が住宅市場を圧迫し、インフレがなかなか収まらないなど、経済の背景はより不安定に見える。
 何よりも、カナダとメキシコに対する関税導入・延期が示すように、今回の関税はより厳しく、かつ予測が困難だ。
 これら全てが株式市場の低迷を招いており、
   景気後退のリスク
についての議論が巻き起こっているなか、減税は、2017年と同様に
   アニマルスピリット
を復活させる可能性があるが、民主党は富裕層が主に恩恵を受けると批判している。
 トランプ氏は減税法案に署名することが2026年の中間選挙で共和党が下院の支配を維持するのに役立つと期待している。 
 ただ、投資家や消費者が不安を募らせているため、早期の実現が必要だろう。
 
 トランプ氏に非公式に経済政策の助言を行っている
   スティーブ・ムーア氏
は、7月という目標よりもさらに早いスケジュールを希望しており、5月下旬のメモリアルデー(戦没者追悼記念日)までに法案に署名するよう呼び掛けた。
 関税の有効性に関するトランプ氏の見解に完全に同調しているわけではないムーア氏は、目標値を上回るインフレと住宅販売の低迷を潜在的な景気減速の兆候として指摘している。
 ムーア氏は「経済には刺激が必要だ。関税は刺激にはならないが、税制改革はなる」と語った。
 トランプ氏は9日、自身の
   通商政策が混乱を引き起こす可能性
があることを認めながらも、
   産業の復活
によって長期的には米国民の利益になると主張した。
 ただ、利益を受ける世代と混乱いともな痛みを受ける世代にはギャップがある現実を意識する必要があるだろう。
 
 FOXニュースとのインタビューで米経済がリセッション(景気後退)に陥ることを予想しているかと尋ねられたトランプ氏は「われわれがやっていることは非常に大きなことなので、過渡期がある」と答えた。
 関税は消費者物価を押し上げ、成長を鈍化させるとエコノミストは指摘している。
 ホワイトハウスの議論に詳しい関係者によると、これまでのところ経済データについて大統領執務室ではそれほど不安視されていない。
 それでも、貿易戦争は米企業を震撼させており、企業は規模の大小を問わず影響を受けている。
 
 
posted by まねきねこ at 09:13| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

プーチン氏は最大限をあえて要求するも、譲歩する意思などないそもそもないと西側当局者

 ロシアのプーチン大統領はいかなる和平協議においても、
   領土と平和維持軍
   ウクライナの中立性
に関する要求で譲歩するつもりはないと、西側の安全保障当局者は非公表の問題を話しているとして、匿名を要請してメディアの取材で述べた。
 トランプ政策に対する信頼性が市場では揺らいでおり、中間選挙に向けた成果をだすため急いでいる足元をプーチンに見透かされてしまっており、
   信頼に足る合意の確保
を目指すトランプ米大統領の取り組みは、嘘つきプーチンの術中に嵌まりつつあり、容易には行かなさそうだ。
 プーチン氏はウクライナや欧州諸国には受け入れられないことを認識したうえで、戦争終結の交渉に先立ち、あえて「最大限の」要求を突きつけていると、安全保障当局者は語った。
 この要求が通らないならプーチン氏は
   戦争を継続する覚悟
だという。
 プーチン氏の意図に関するこうした評価は、ウクライナとの現実的かつ永続的な和平の交渉を同氏が真剣に考えているのか、そもそも疑問を投げかけている。
 トランプ氏は7日にホワイトハウスで記者団に対し、プーチン氏は平和を望んでいると信じていると述べたが、全く的が外れていることになる。
 トランプ氏は「率直に言って、(ロシアとよりも)ウクライナに対する方が難しい」とも語っていたが、甘い認識ということだ。
  
 ロシア大統領府のペスコフ報道官は、同国の立場に関する西側安保当局者の評価について「事実ではない」と述べ、ウクライナが交渉を可能にする措置をとる必要があると主張した。
 「和平への努力や、ウクライナを巡る平和解決にロシアはオープンで、平和的・外交的手段によって目的を達成できる方が望ましいと実際のところ考えている」と説明した。
 また、「きょう明日にでもウクライナに交渉の用意があると明らかになるなら、話は変わってくる」とも語った。

 ブルームバーグは先週、ロシアが条件付きで停戦協議に応じる意思を示したと報道している。
 この条件には、ウクライナに駐留する
   平和維持軍の構成をロシアが決定すること
などが含まれているほか、ウクライナの
   中立国化
や併合地域がロシア領として国際的な承認を受けること、欧州の平和維持軍派遣への反対も、ロシアが長く続けている要求であり、ウクライナがロシアの侵略を正当化しかねない内容に合意する可能性は低い。
 ロシアが掲げるこれらの目標は、スターマー英首相やマクロン仏大統領ら米国の同盟国が目指す「公正で永続的な平和」の条件とは相いれないものだ。
 両首脳は停戦を確保するための「有志連合」を結成しようとしている。

 トランプ氏は戦争終結を公約するが、西側安保当局者の評価はプーチン氏がウクライナに対し長年とってきた強硬路線を軟化させる理由はほぼないとみていることを示唆している。
 ロシアの条件を丸のみするような条件での合意を拒むウクライナが非難され、欧州諸国の支援を受けながら戦争を継続する可能性もある。
 そうなれば、ロシア寄りの姿勢を見せ、欧州により大きな責任を担うよう求めるトランプ氏の下で既にあらわになりつつある
   北大西洋条約機構(NATO)内の亀裂
は、一段と急速に広がることになる。
 欧州の安全保障に対する
   米国のコミットメント
を欧州首脳が公然と疑問視し、欧州諸国が防衛費を急速に増やすなど、ロシアがNATO分裂という目標を達しつつある兆しも見られる。
 ロシアはウクライナのNATO加盟を断念させるだけでなく、最近ではNATOをポーランドやルーマニアなど東欧諸国が加盟する前の1997年の状態に戻すことも主張している。
 これはトランプ氏の
   融和的なアプローチがロシアを助長させていること
の表れとも捉えられる。
 ロシアのラブロフ外相は先週、欧州軍をウクライナに駐留する平和維持部隊として認めるような合意には「断固」反対するとし、「妥協の余地はない」とモスクワで記者団に述べていた。
  
 
ひとこと
 トランプ政治の浅い思考では世界が大混乱するだけだろう。
 プーチンとしても、ロシア国内での反発が大きくなり打倒されるリスクは反対派のみならず、ウクライナ戦争での犠牲や戦費の増加で後戻りすらできなくなってしまっており、安易な妥協はロシア軍部とプーチン指示の情報機関との対立が激化しロシアが内部分裂しかねない背景もあるため、求心力を維持するため強硬に戦闘を継続させたい思惑が働いている。
 こうした思考は政権維持目的で軍事作戦を展開しているイスラエルのネタニアフと同じだろう。
 ネタニアフも平和になれば、奇襲攻撃に伴い棚の上においていた汚職問題が再び表に出て、政権を手放す圧力を受けるためだ。
  
  
posted by まねきねこ at 08:03| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウクライナが30日間停戦の米国案を受け入れる用意があると共同声明で発表

 ウクライナが11日行われたサウジアラビアでの米国との協議を受けて、米国が提案した
   ロシアとの30日間の停戦(案)
を受け入れる用意があると発表した。
 ウクライナ大統領府が共同声明をウェブサイトに掲載した。

 米国はこの案をロシアに持って行き、合意を探ると、8時間に及ぶ協議を終えた後でウォルツ米大統領補佐官(国家安全保障担当)がジェッダで記者団に語った。

 トランプ大統領もウクライナへの
   情報共有と安全保障の支援再開
に合意した。
 この共同声明によると、米国とウクライナは停戦期間中に
   ロシアと戦争捕虜の交換
を行う必要性についても協議した。

 ウォルツ氏は「ウクライナ側は完全な停戦に向けた米国案を受け入れただけでなく、具体的な措置と具体的な案を提示した」と評価した。
 また、「この戦争をどのように恒久的に終わらせ、長期的な安全保障や繁栄のためウクライナがどのような保証を得るかについて、このおぞましい戦闘を最終的に終わらせるには何が必要かについて、実質的な詳細にもわれわれは踏み込んだ」と続けた。

 この共同声明によると、米ウ双方は
   天然資源取引
を可及的速やかに締結することでも合意した。

 ルビオ国務長官は会談に先立ち、今回の目的はウクライナが和平確保に何を譲歩できるのか理解することが目的だと述べていた。
 会談後に同氏は、「われわれが提案し」、ウクライナが受け入れたと記者団に語った。
  
   
ひとこと
 ロシア軍が30日間の停戦に合意し、その間に戦域における将兵や火器弾薬類等の移動補給などをウクライナ軍と同様に兵站線の強化を行うことになるだろう。
 そもそも、ロシアのプーチンら諜報部門がロシア政治を牛耳る状態でロシアの軍属の権益を削ぎ、プーチン配下のオリガリヒ(新興財閥)やシロビキの権益拡大を進めてきたため、簡単に手を引けば権力機構が瓦解し、ロシア内のプーチンの政敵となったオリガリヒ等を含む反対派に倒されるリスクがあるため、一時的なものであり、5月になれば戦闘が再開し、いつまでも継続する可能性が高い。
 アメリカのレアメタル確保の取り組みであり、対中国戦略の一環だが、キッシンジャーらが構築した中国権益と正面衝突しかねない領域に入りつつあり、調整できるかどうかも注目したい。
 そもそも、軍産複合体制を維持し軍事産業が基軸の米国産業であり、武器や火器弾薬類の販売と消費が経済を潤わせてきたため、平和になることを臨んでいるのかどうかも疑問で、定期的に紛争等を引き起こしてきたことも事実だろう。

  
posted by まねきねこ at 08:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

景気後退を警戒するも、買いの準備は周到さが必要

 JPモルガン・アセット・マネジメントのマルチアセット戦略チームは、米国経済がリセッション(に陥る確率を15%から20%に引き上げた。 
 なお、同チームを率いる
   デービッド・レボビッツ氏
が顧客に伝えているのは
   「押し目買いの準備を整えよ」
という楽観的なメッセージだ。

 10日の米金融市場では株式が売り込まれる一方、国債には逃避買いが膨らんだ。
 トランプ政権の関税や連邦政府職員の大量解雇による景気悪化懸念が強まった。
 こうした動きに対し、レボビッツ氏が投資家に届ける言葉は、不安を和らげるものだった。
 リスクプレミアムは急上昇したが、
   「クレジット市場はまだ底割れしておらず」
経済指標も今のところは景気拡大の継続を示唆しているという内容だった。
 リセッションへの不安は深まったもののレボビッツ氏の見方では相場が下落しているのは投機的な資産だと指摘した。
 米経済はなんとか切り抜けるとの確信から、同氏はS&P500種株価指数が5500を割り込んだら、
   米ハイテク株と米金融株に買いを入れるチャンス
だと推奨した。
 この水準は10日終値から2%ほど下げたレベルいあるn。

 レボビッツ氏は「今の売り浴びせがもう少し続く可能性は十分にあるが、だからといって逃げ出すのではない」と語り、
   3兆6000億ドル(約530兆円)の資産配分
で優先順位の形成に関わる同氏は「クレジット市場から伝わるのはどちらかというと、経済が問題なく推移しているというメッセージだ。金利や株価だけを見ている場合に受ける印象とは対照的だ」と説明した。

 トランプ政権の動きが迷走しており、政治的な不透明感が深まる中、ウォール街のストラテジストらは
   リスク志向の戦略
を今後どうするか頭を抱えている状態ともいえる。
 減税と規制緩和を掲げるトランプ政権の誕生で、ビジネスが活況を迎えると期待していた市場では、
   先行き観の変化
が鮮明になっている。
 JPモルガン・アセット・マネジメントは年末のS&P500種水準を6400と予想。現在から14%の上昇する余地があるとみている。
  
 レボビッツ氏は
   2月の米雇用統計
で雇用者数が着実に伸びたほか、最新の企業決算が「かなり好調」だったと指摘した。
 なお、「政府は貿易と移民に関する痛みを伴うアジェンダを先行し、その先にニンジンがぶら下がっているとわれわれは考えていた」と述べ、「今の市場は特に混乱している」と続けた。

 同氏とそのチームはこの数週間、株式のエクスポージャーを縮小しており、その分を高利回り債に振り向けるよう投資家に推奨してきた。
 株式の中でも米国ではなく中国や日本に機会があると分析したほか、アンダーウエートとしていた欧州のポジションを解消した。
 なお、関税と政府支出削減が
   米経済の成長を損なう懸念
にもかかわらず、レボビッツ氏は米国のビジネスサイクルに対しておおむね建設的な見方を変えていない。

 「経済はアニメのワイリー・コヨーテとは違い、崖から転落してはいない」と話したうえ「しかし成長ペースが減速しつつあるのは間違いない」と続けた。
 
 
ひとこと
 誰もが信頼する規模の大きな金融機関等の動きだが、リーマンショックをひこ起こした米国の基軸として存在したリーマン・ブラザーズが最後は倒産したことも意識しておくことが必要だろう。
 なお、サブプライムの問題もリスクヘッジで金融派生商品に組み込んで世界にリスクを拡散させるのに10年程度使っており、根源をたどればアジア通貨危機でのグリーンスFRB総裁がNY地区連邦保準備銀行に指示したLTCMへの低利融資まで遡ることが出来るだろう。 
 押し目が踊り場で信用崩壊が進めば、底が割れることもある。
 規模が大きな金融機関が鴨ネギ投資家に割り当てるためには不安要素は棚の上に置いたり、一時的に反発させて買いを煽ってはめ込むこともあるだろう。
 その逆もあり、流れに乗るのも降りるのも適時適切さの判断は難しい。
   
     
posted by まねきねこ at 07:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする