当ブログ内の情報はあくまでも参考情報です。投資にあたっての判断は投資する人の自己責任でお願いします。
当ブログでは、一切の責任を負いませんでご了承下さい。

マーケット出来事貴金属とレアメタル宝石と宝飾品貴金属の取引方法貴金属取扱会社

2025年07月11日

中国政府が本土投資家の「ボンドコネクト」購入枠の倍増を検討

 中国政府当局は本土と香港の債券市場をつなぐ
   ボンドコネクト
について、資本移動の制限緩和を目指す動きのひとつとして、
   中国本土投資家向けの購入枠を倍増させる方向で検討
を進めていることが、この事情に詳しい関係者が非公開情報だとして匿名を条件にメディアの取材で明らかにした。
 当局は現在、いわゆる南向きの「南向通」の投資枠を
   最大1兆元(約20兆円)に拡大する案
について初期段階の協議を行っている。事情に詳しい関係者が匿名を条件に明らかにした。  
 大きな一歩となるこの拡大方針は、これまで売買枠の対象外とされていたノンバンク系の金融機関に対し、
   年間最大5000億元の割当枠
を新たに設ける形で実施される見通しだという。
 実現すれば、香港取引所を通じて取引可能な
   米ドル建て債
など、国際的な債券への中国企業による投資が一段と広がることになる。
 関係者によると、新たな割当枠の対象には中国最大級の投資信託も含まれる見込みというが、最終的な決定はまだ下されておらず、
   いかなる計画も関係当局の承認が必要
になると関係者は説明しており、投資家の資金の捕捉や簒奪等の目論見が背景にあるのかもわからない。
 ただ、南向きの投資枠拡大は、米中貿易戦争で経済取引における米ドルからの離脱を目論む中国政府が一帯一路で途上国を21世紀型植民地政策として利用、多様している人民元の国際化を直接促進するわけではないものの、元に対する懐疑論を後退させる一助として活用する可能性がある。
 人民元を巡っては、中国当局の
   資本規制
により同国の市場は実質的に世界から孤立しており、投資妙味に劣るとの批判があるが、規制を緩めたとしても、一時的な動きでしかなく、不都合な場合には規制が行われ、中国公安部門に常に監視され、身柄が突然拘束されて行方不明になるリスクがある。
 仮に投資枠の拡大が実現すれば、オフショア人民元建て債券(点心債)への需要が強まり、同市場の活性化につながる可能性がある。
 中国の投資家にとっては、
   点心債に資金を振り向けること
で大幅な利回り上昇が見込めるかもしれない。
 同一発行体でも、オンショア債より高利回りとなるケースが多いためだが、これも、規制が変わればただの紙屑になりかねないことを意識し、換金や資金移動が自由にできるかどうかだ。
 中国人民銀行(中央銀行)の
   潘功勝総裁
は先月、複数の基軸通貨から成る競争的な通貨体制が今後数年で定着するとの見方を表明した。
 また、「将来的に国際通貨体制は複数の主権通貨が共存し、競い合い、相互にけん制し合うような状況に向けて進化し続ける可能性がある」と続けた。
 一方、外国人投資家は同様の
   北向きの制度
を通じてオンショア債券を購入することが可能であり、こちらは投資枠の対象とはならない。
 つまりは、海外投資家の資金を引き込むのが目的なのだろう。
 なお、ブルームバーグ・ニュースの親会社であるブルームバーグLPは、ボンドコネクトに関連するサービスを提供している。
  
  
posted by まねきねこ at 02:00| 愛知 🌁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年07月10日

習金平主席側近の中国副首相が大阪万博で来日 日本産牛肉輸入で協議か

 中国の習近平国家主席の側近として知られる何立峰副首相が10日夜、来日したと関係筋が明らかにした。
 11日に開かれる大阪・関西万博の中国ナショナルデー行事に参加するとの予定だ。
 また自民党の森山裕幹事長と大阪府内で11日にも会談し、中国が規制する日本産牛肉の輸入再開などについて協議するという。
 ただ、中国国内で異常気象により、穀物生産大きく現象する事態となっており、場合によっては飢餓が発生しかねないといった情報も出ており、日本から中国に輸出してやる必要などない。
 なお、何氏は経済政策を担当し、トランプ米政権との関税協議の中国側代表も務めている。
 中国は万博行事を通じて友好ムードを高め、日中関係の安定化につなげたい考えだが、喧嘩を売り兆候を求めるかの如き中国とは一線を画するべきだろう。
 中国では、日本で2001年に牛海綿状脳症(BSE)が発生したのを受けて日本産牛肉の輸入を規制している。
 こうした事情に詳しい関係者によると、日中両政府は日本からの輸出の前提条件となる「動物衛生検疫協定」の早期発効に向けて調整していると伝えた。
 森山氏は10日、鹿児島県曽於市での講演で牛肉輸入再開を要請すると明らかにし「交渉ごとではあるが、ここで一つの方向を示すことができれば、畜産農家の皆さんも安心されるのではないか」と述べた。
   
   
posted by まねきねこ at 22:34| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウィリアム・モリヌー(William Molyneux 第2代セフトン伯爵2nd Earl of Sefton)ウォータールー・カップの創設者

ウィリアム・フィリップ・モリヌー(William Philip Molyneux 第2代セフトン伯爵)
   1772年9月18日 - 1838年11月20日
 スポーツマン、ギャンブラーであり、摂政皇太子(ジョージ・オーガスタス・フレデリック 後のGeorge IV )の友人でもあった。
 セフトン卿は、
   初代セフトン伯爵チャールズ・モリヌー
とハリントン伯爵の娘
   イザベラ・スタンホープ夫人
の一人息子として生まれた。
 1792年、第6代クレイヴン男爵ウィリアム・クレイヴンの娘
   マリア・クレイヴン
と結婚、4人の息子と6人の娘をもうけた。
 彼は1795年に爵位を継承し、1838年に死去すると、爵位は長男である第3代セフトン伯爵チャールズ・ウィリアム・モリニューに継承されました。
 チャールズ・グレヴィルはモリヌーについて「彼は宗教的信念や意見を全く持たなかったが、自らが完全に免除した宗教への敬意を表する自由を、他のすべての人に疑問の余地なく残していた。彼の一般的な行動には甚だしい不道徳さはなく、不名誉な行為を犯す必要など全くなかったため、彼の精神は常に高潔さの原則に染まっていた。しかしながら、他人の行動に関しては、それらの原則を軽々しく、安易に受け入れていた。それは無関心からというよりも、高潔な原則を厳格に適用すれば自身の都合や楽しみが損なわれるような特定のケースにおいて、彼自身に甘んじていたからである。」と記している。
 イートン校とオックスフォード大学で教育を受けたセフトンは、1818年にリバプール選出の国会議員に立候補したが落選した。
 1816年から1831年まで、ウォリックシャー州ドロイトウィッチ選出の国会議員を務めた。
 セフトンは、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の測量に反対した。
 1824年に鉄道建設を阻止しようと全力を尽くしたが、1830年の鉄道建設を阻止することは最終的にできなかった。
 1831年6月20日、彼は連合王国貴族のクロクステスの
   セフトン男爵
に叙せられ、貴族院議員に就任した。
 また、バークシャー州イーストハンドレッドの荘園管理職も受任した。
 セフトン卿は熱心なギャンブラーであり、スポーツマンでもあった。
 彼のスポーツにおける主な成功は、スポーツイベントの創設と運営である。
 彼はクォーン競馬場(1800〜1805年)のマスターに任命された3人目の人物である。
 1836年、彼はランカシャーのグレート・アルトカーで競馬のための
   ウォータールー・カップ
を創設した。
 このイベントは全盛期には非常に人気があり、多くの観客を集めた。
 最後のウォータールー・カップは2005年に開催された。
 長年にわたり、エイントリー競馬場はモリニュー家とスタンリー家を含む友人たちによるプライベートレースの開催地となっていた。
 セフトン卿は、エイントリー競馬場の土地をウォータールー・ホテル(リバプールのラネラグ・ストリートにあるホテル)に貸与し、現在のエイントリー競馬場の設立を支援した。
 エイントリー競馬場はグランド・ナショナル・スティープルチェイスの開催地であり、セフトン卿は同競馬場の主要スポンサーの一人であり、委員会メンバーでもあった。
 ロンドンでは、4頭立ての馬車で通りを駆け抜けるのを好んだことから、「ダシャロン卿」というあだ名がつけられた。
 セフトン卿は、ウースター卿、バリモア卿、ジョン・レード卿、バークレー大佐、チャールズ・バクストンとともに、フォー・イン・ハンド(フォー・ホースとしても知られる)クラブの創立メンバーだった。
 彼はロンドンのホワイトズ・クラブの会員であた。
 妻のモリヌー夫人は、彼の母が創立者を務めた
   アルマック・クラブ
の支援者である。
 モリヌー夫人は、ジョージット・ヘイヤーのいくつかの小説に脇役として登場している。
 彼の先祖の邸宅はリバプールのクロクステス・ホールであった。
 彼はまた、バークシャーのストーク・ファームとロンドンのアーリントン・ストリート21番地にも居住していた。
    
       
posted by まねきねこ at 18:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ビットコインが初の11万2000ドルを突破し最高値更新

 暗号資産(仮想通貨)ビットコインは初めて11万2000ドルを突破し、最高値を更新した。
 ビットコインは一時3.1%上昇し11万2009ドルに達した。
 年初来では約19%高となった。
 れまでの最高値は5月22日に付けていた。
  
   

posted by まねきねこ at 15:41| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

rue21 女性および男性向けのカジュアルアパレルとアクセサリーを扱う米国の専門小売業者

New rue21, LLC(rue21)
 ペンシルベニア州ピッツバーグ郊外ウォーレンデールに本社を置く、女性および男性向けのカジュアルアパレルとアクセサリーを扱う米国の専門小売業者である。
 彼らの服のコンセプトとしては、21歳になりたい、と願う、または感じている人々にアピールするようにデザインされているという。
 2013年に、世界的なプライベートエクイティ会社である
   Apax Partners
が、ファンドアドバイザーを通じて1株あたり42.00ドルの現金で同社を買収した。
 rue21は、2017年5月16日にチャプター11破産保護を申請した。
 会社の再建計画がペンシルベニア州西部地区の米国破産裁判所によって承認された。
 その後、2017年9月22日に復活した。
 新しい所有者には、ヘッジファンドの
   Southpaw Asset Management
が含まれている。
 2024年5月、rue21は再び破産を宣言し、ウェブサイトはサポートされなくなった。
 2024年6月28日現在、カナダの小売業者
   YM Inc. Fashion House
による買収の一環として、7店舗が賃貸契約を解除した。
 これは、公有資産が競売にかけられている間に行われたものである。
 同社は今後数ヶ月以内に最大120店舗の営業再開を計画している。

 本社 ペンシルベニア州ウォーレンデール
 店舗数 32(2024年7月26日現在) 
 親会社 YM Inc.

 同社は1970年にペンシルバニア・ファッションズ社として設立され、様々なブランド名で店舗を運営していた。
 1989年、キャリー・クライン氏が父親から同社を買収した後にrue21コンセプトを開発した。
 2002年2月、ペンシルバニア・ファッションズは連邦倒産法第11章の適用を申請した。
 クライン氏がコネチカット州スタンフォードに拠点を置く投資会社に株式の50%を売却してから3年後、SKMが筆頭株主となった。
 当時、約250店舗の売上高は年間1億8000万ドルから2億ドルと推定され、従業員数は約1800人だった。
 同社は自主再建を経て2003年5月に連邦倒産法第11章の適用を脱し、rue21に改名。rue21は同社の主要店舗コンセプトとなった。
 同社は今後5年間で170店舗に拡大するという野心的な計画を打ち出した。
 同社のサービスが行き届いていない市場への進出能力は、2009 年 7 月 23 日にテキサス州ハーリンジェンに 500 店舗目をオープンしてから、2013 年 11 月 14 日にオクラホマ州イーニッドに 1,000 店舗目をオープンするまでの店舗数の増加からも明らかである。
 rue21は2011年3月17日、ウェストバージニア州ウィアトンにある189,000平方フィート(17,600平方メートル)の配送センターを倍増させると発表し、成長と拡大を続けた。
 この拡張は、新しいパック・トゥ・ライトシステムと倉庫管理システムのアップグレードを含む配送センターのアップグレードから12か月後に行われた。
 CFOのキース・マクドノーは、「梱包能力の増強、新しいシステムとパフォーマンス指標を含む、最近完了した配送センターのアップグレードと、今回の計画的な拡張により、既存の店舗をサポートし、将来の成長計画に柔軟に対応できるようになります」と述べている。
 このアップグレードは2012年6月に完了した。
 2017年4月、rue21は約400店舗を閉鎖する計画を発表した。
 これは、アメリカの小売業界における店舗閉鎖現象「リテール・アポカリプス」の一部である。
 rue21は2017年5月16日に連邦破産法第11章の適用を申請し、ペンシルベニア州西部地区連邦破産裁判所による再建計画の承認を受けた。
 2017年9月22日に再建から脱却した。
 CEOのメラニー・コックス氏は、再建計画が裁判所によって承認された際の声明で、「比較的短期間で再建プロセスを完了できたことを大変嬉しく思っています」と述べている。
2020年2月、rue21は、今年第1四半期末までにさらに多くの店舗でプラスサイズの取り扱いを開始すると発表した。
 2024年5月1日、rue21は3度目の連邦破産法第11章の適用を申請し、1億ドルから5億ドルの負債を抱えた。
 同社は手続き中に事業売却を計画しており、関心のある関係者との交渉も進めています。この計画の一環として、rue21は全国に残る540店舗すべてを閉鎖した。
 清算セールは5月3日に開始され、店舗は5月30日までに清算セールを完了した。
 しかし、2024年6月29日、YM, Inc.がRue21の資産を買収した。
 YMはCharlotte RusseとUrban Planetも所有している。
 同社はタンガー・アウトレットセンター内にある7店舗を再開し、今後数か月以内に最大120店舗を再開する計画である。
 rue21は、自社ブランドと他社ブランドの両方を実店舗で取り扱っている。
 ウェブサイトには、実店舗で販売されている厳選された在庫が掲載されている。
 2013年11月現在、米国の顧客はリニューアルされたウェブサイトから商品を購入できるようになった。
 また、一部の店舗では、rue21はrueGuyという、より男性的なレイアウト、デザイン、そしてファッションセレクションを備えたメンズ部門を拡張した店舗も展開している。
 2014年11月6日、rue21はrue+ブランドにおいて、様々なカテゴリーの商品において、女性向けのプラスサイズの取り扱いを開始した。

    
posted by まねきねこ at 14:40| 愛知 ☀| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

社債市場がリスクオンに傾斜、CDSで波乱想定せず強気な持ち高を構築

 バークレイズとブルームバーグがまとめたデータによると、主要な米投資適格級CDS指数におけるポートフォリオマネージャーのポジションは現在、少なくともここ3年で最大となる
   1050億ドル(約15兆3700億円)超
に達しており、欧州市場でも同様の傾向が見られる。
 ポートフォリオマネジャーは
   クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)
の売却ペースを加速させており、
   ほとんどリスクを認識していないこと
を示している。
 通常は、市場に不安が広がる局面で
   企業の経営破綻
に備えてCDSを購入するのが一般的だが足元では、企業の財務健全性に対する自信から、CDSを使って
   投資適格級市場全体への強気なポジション
を構築する動きが顕著になっている。
 多くの企業が高金利時代に適応しており、
   企業のバランスシート
は今のところ、投資家にとって懸念材料とはなっていない。
 こうした投資戦略は、トランプ関税のいよる米国政府の政策による混乱から地合いが回復したことで弾みがつき、クレジット市場への資金流入も後押しした流れが起きている。
 バンク・オブ・アメリカ(BofA)はこの動きを「新世界のクレジット市場秩序」の一環だと位置づけている。 
 ただ、トランプ氏が来月、
   新たな関税措置
を導入した場合、市場が再び動揺する恐れがあるが、揺れが小さければ、虚言の垂れ流しとなり次第に投資家がリスクを呑みこみ、米国経済の孤立化を受け入れブロック経済が台頭していく可能性もある。
 また、ウクライナとロシアを天秤にかけているトランプ政治の思惑も、ウクライナ軍の開発した自爆型ドローンによるロシアへの重点的攻撃で大きな成果がでてきており、ロシアが負けること嫌う、トランプの支援制限と中国によるロシアへの軍事支援がいつまで続くかで 英シュローダー
   マルタン・クック氏
はこうした戦略を早くから採用した1人だ。4月の「解放の日」まではディフェンシブな姿勢を取っていたが、その後リスク選好に転じた。
 その一環として「一部のCDSを売却し、CDSの指数を通じてリスクを若干追加して、市場全般へのエクスポージャーを確保した」という。


posted by まねきねこ at 09:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日鉄のUSスチール買収で21%儲けた米ファンドが「理性」の粘り勝ち

 米投資会社ペントウォーター・キャピタル・マネジメントが運用するヘッジファンドは、6月に成績を伸ばし、上半期として過去最大級のリターンを記録した。
 右往左往して政治案件化した日本製鉄とUSスチールの統合実現を見込んだ巨額の賭けが奏功した。
 イベントドリブン戦略を取る「ペントウォーター・イベント・ファンド」および「マージャー・アービトラージ・ファンド」は、いずれも6月に7%超のリターンを上げ、年初来の成績は約21%に達した。
 この事情に詳しい複数の関係者が明らかにした。USスチールのほか、米レンタカー大手エイビス・バジェット・グループや米政府監督下にある住宅金融大手のファニーメイ(連邦住宅抵当金庫)とフレディマック(連邦住宅貸付抵当公社)などのポジションもリターンに寄与した。
 関係者は匿名を条件にメディアの取材で話した。
 同社が運用する規制対象の資産は2024年末時点で90億ドル(約1兆3000億円)余りだった。
 米鉄鋼業界を分断し、米国の政治問題にも発展した日鉄によるUSスチール買収劇は、18カ月にわたって繰り広げられた。
 ペントウォーターは一貫してUSスチールへの投資ポジションを維持し続けた。
 最近まで10億ドル超相当の株式を保有し、ヘッジファンドで最大のUSスチール株主となっていた。
 昨年の米大統領選期間中、当時のバイデン大統領と対抗馬だったトランプ現大統領はともに、USスチールを米国の手中にとどめるべきだと主張した。
 こうした主張でUSスチールの株価は大きく下落し、絶好の買い場を作り出した。
 バイデン氏は政権末期の今年1月にこの買収を阻止したが、トランプ氏は大統領就任後に姿勢を軟化した。
 日鉄がUSスチールへの巨額投資に合意したことを受けて、最終的に買収を承認した。
 ペントウォーターの創業者
   マシュー・ハルバウアー氏
は「バイデン氏は行動を誤った。トランプ氏の判断はペンシルベニア州の人々にとって良いことだった」と6月に発言している。
 また、「最終的には理性が勝った」と述べた。
   
   
posted by まねきねこ at 08:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジョン・ハンコック(John Hancock)大陸会議議長としては最長の在任期間を務めた政治家で商人

ジョン・ハンコック(John Hancock)
   1737年1月23日- 1793年10月8日
 アメリカ合衆国建国の父のひとり、商人、政治家
 大陸会議議長としては最長の在任期間を務め、第二回大陸会議の第2代議長、連合会議の第7代議長を務めた。
 また、マサチューセッツ州の初代および第三代知事も務めた。
 アメリカ合衆国独立宣言書に記された彼の大きくてスタイリッシュな署名から、「ジョン・ハンコック」あるいは「ハンコック」は署名を表す口語表現となった。
 また、連合規約にも署名した。
 1788年にはマサチューセッツ州がアメリカ合衆国憲法を批准するよう影響力を行使した。
 アメリカ独立戦争以前、ハンコックは13植民地で最も裕福な人物の一人であった。
 叔父から利益を生む商業事業を相続していた。
 彼はボストンで、地元の有力政治家
   サミュエル・アダムズ
の弟子として政治家としてのキャリアをスタートさせたが、後に二人は疎遠になった。
 1760年代、植民地人とイギリスの間の緊張が高まる中、ハンコックはその富を植民地の支援に活かした。
 彼はマサチューセッツで強い人気を博した。
 特に1768年にイギリス当局が彼のスループ船リバティ号を拿捕し、密輸の罪で告発した後は、その人気が高まった。
 これらの告発は最終的に取り下げられた。
 なお、歴史書ではしばしば密輸業者として描写されている。
 ハンコックは1737年1月23日、マサチューセッツ州ブレイントリー(後にクインシー市となる町の一部)で生まれた。
 彼はブレイントリーの
   ジョン・ハンコック・ジュニア大佐
と、近隣のヒンガム出身のサミュエル・サクスター・ジュニアの未​​亡人である
   メアリー・ホーク・サクスター
の息子として生まれた。
 幼少期、ハンコックは1735年にハンコック牧師によって洗礼を受けた
   ジョン・アダムズ
と親交を深めた。
 ハンコック一家は裕福な生活を送り、家事の手伝いとして奴隷を1人所有していた。
 1744年に父が亡くなった後、ハンコックは
   「ハウス・オブ・ハンコック」
という商会の経営者で、イギリスから工業製品を輸入し、ラム酒、鯨油、魚介類を輸出していた叔父夫婦
   トーマス・ハンコック
   リディア(ヘンチマン)・ハンコック
のもとに預けられた。
 トーマス・ハンコックは事業の大成功により、ボストンで最も裕福で有名な住人の一人となった。
 彼とリディアは、数人の使用人や奴隷とともにビーコン・ヒルのハンコック・マナーに住んでいた。
 子供を持たなかったこの夫婦は、ジョンの人生に大きな影響を与えた。
 ハンコックは1750年にボストン・ラテン・スクールを卒業した後、ハーバード大学に入学した。
 1754年に学士号を取得た。
 卒業後、フレンチ・インディアン戦争勃発のちょうどその頃、彼は叔父のために働き始めた。
 トーマス・ハンコックはマサチューセッツ州の知事と密接な関係を築き、戦争中は有利な政府契約を獲得した。
 ジョン・ハンコックはこの時期に叔父の事業について多くを学び、最終的には会社の共同経営者となるための訓練を受けた。
 ハンコックは懸命に働き、裕福な貴族を演じることにも喜びを感じ、高価な衣服への愛着を育んでいった。
 1760年から1761年にかけて、ハンコックは顧客や供給業者との関係を築きながらイギリスに滞在した。
 ボストンに戻った後、叔父の健康状態が悪化したため、ハンコックは徐々にハンコック家の経営を引き継いだ。
 1763年1月に共同経営者となった。
 彼は1762年10月にフリーメーソンの
   セントアンドリューロッジ
の会員となり、ボストンの有力者の多くと繋がりを持った。
 トーマス・ハンコックが1764年8月に死去すると、ジョンは事業であるハンコックマナー、2、3人の家事奴隷、数千エーカーの土地を相続し、植民地で最も裕福な人物の一人となった。
 家事奴隷たちはジョンと叔母のために働き続けたが、最終的にはトーマス・ハンコックの遺言により解放された。
 ジョン・ハンコックが奴隷を売買したという証拠はない。
 七年戦争1756年から1763年)での勝利後、大英帝国は深刻な負債を抱えた。
 新たな歳入源を模索し、英国議会は初めて
   植民地への直接課税
を試み、1764年に
   砂糖法
を制定した。
 それ以前の1733年の
   糖蜜法
は、西インド諸島からの積荷に課税するものであったものの、密輸によって取り零しており、ほとんど歳入がなかった。
 密輸は被害者のない犯罪と見なされ、広く行われており、植民地では密輸に対する社会的偏見がほとんどなかった。
 また、貿易が主要な富の源泉であった港湾都市では、密輸は地域社会から大きな支持を得ており、イギリス当局の摘発に備えて保険をかけることさえ可能であった。
 植民地の商人は、密輸品の原産地、国籍、輸送経路、内容を隠すための巧妙な隠蔽工作を巧みに編み出していた。
 これには、貨物が合法で認可されたように
   偽造書類
を頻繁に使用していた。
 イギリス当局にとって非常に苛立たしいことに、押収が行われた場合、地元の商人はしばしば同情的な地方裁判所を利用して没収品を取り戻し、訴訟を却下させることができた。
 例えば、ニューイングランドの税関長に任命された
   エドワード・ランドルフ
は、1680年から1682年末にかけて36件の押収品を裁判にかけ、そのうち2件を除いてすべて無罪となった。
 一方では、商人たちは自ら武力を用いるなど積極的な行動を起こし、押収された品物を盗み返すこともあった。
 そのため、1764年の砂糖法はボストンで激しい憤りを引き起こし、
   植民地の権利
を侵害するものとして広く認識された。
 ジェームズ・オーティスやサミュエル・アダムズといった商人らは、植民地人は議会に代表されていないため、議会から課税を受けることはできないと主張した。
 植民地人に課税できるのは、植民地人が代表を務める
   植民地議会
のみであるとも主張した。
 当時、ハンコックはまだ政治活動家ではなかったが、憲法上の理由ではなく経済的な理由から砂糖税を批判した。
 ハンコックは、イギリスとの緊張が高まる中、ボストンで有力な政治家として次第に台頭した。
 1765年3月、彼はボストンの5人の町議会議員の1人に選出された。
 なお、この役職は、彼の叔父が長年務めていた。
 その後まもなく、議会は
   1765年印紙法
を可決した。
 これは、遺言書などの法的文書に対する税金で、イギリスでは長年課されていた。
 しかし、植民地では猛烈に不評で、暴動や組織​​的な抵抗運動を引き起こした。
 ハンコックは当初、忠実なイギリス国民として、議会の判断は誤りだと考えていたものの、植民地の人々は同法に従うべきだと考え穏健な立場をとった。
 数ヶ月のうちにハンコックは考えを変えたが、暴力や暴徒による王室関係者への脅迫には依然として反対の立場を崩さなかった。
 ハンコックはイギリス製品のボイコットに参加することで1765年印紙法への抵抗に加わり、ボストンで人気を博した。
 ボストンの人々が印紙法の廃止が間近に迫っていることを知った後、ハンコックは1766年5月にマサチューセッツ州下院議員に選出された。
 ハンコックの政治的成功は、下院書記官であり、ボストンの「大衆党」(別名「ホイッグ党」、後に「愛国党」)の指導者でもあった
   サミュエル・アダムズ
の支援によるところが大きい。
 ただ、二人の協力関係は意外な組み合わせだった。
 ハンコックより15歳年上のアダムズは、陰鬱でピューリタン的な考え方を持っており、ハンコックの贅沢と浪費の嗜好とは対照的だった。
 伝説では、アダムズが商人ハンコックの政治的台頭を企み、その富をホイッグ党の政策推進に利用しようとしたとされている。
 歴史家ジェームズ・トラスロー・アダムズは、ハンコックを浅薄で虚栄心が強く、アダムズに簡単に操られた人物として描いている。
 歴史家ウィリアム・M・ファウラーは、この描写は誇張であり、二人の関係は共生関係であり、アダムズが師、ハンコックが弟子であったと主張している。
 印紙法の廃止後、議会は歳入増加のために別のアプローチを取った。
 1767年にタウンゼンド法を可決した。
 この法律は、様々な輸入品に新たな関税を設定し、アメリカ関税局を設立することで税関を強化した。
 イギリス政府は、多くの植民地アメリカ商人が密輸を行っていたため、より効率的な税関制度が必要だと考えていた。
 密輸業者は、大英帝国外の港と貿易を行い、輸入税を回避することで
   航海法
に違反していた。
 議会は、この新しい制度によって密輸が減少し、
   政府の歳入が増加すること
を期待した。
 植民地の商人たちは、密輸に関与していない者でさえ、この新たな規定を抑圧的だと感じた。
 他の植民地人たちは、新たな関税は議会が植民地の同意なしに課税しようとする新たな試みだと抗議した。
 ハンコックは他のボストン市民と共に、タウンゼンド関税が廃止されるまでイギリスからの輸入品のボイコットを呼びかけた。
 関税規則の施行にあたり、関税局はボストンで最も裕福なホイッグ党員であったハンコックを標的とした。
 こうした動きは、ハンコックが密輸業者であると疑っていた可能性もある。
 また、特にハンコックが
   フランシス・バーナード知事
を冷遇し、税関職員が出席する公務への出席を拒否したことを受けて、彼の政治的立場を理由に嫌がらせをしようとした可能性もある。
 1768年4月9日、潮汐船員と呼ばれた
   2人の税関職員
がボストン港でハンコックのブリッグ船リディア号に乗り込んだ。
 ハンコックは召喚されたものの、捜査官たちが
   捜査令状(一般捜索令状)
を所持していないことを知り、甲板下への立ち入りを許可しなかった。
 その後、捜査官の一人が船倉に侵入しようとしたが、ハンコックの部下たちはその検潮官を甲板に押し戻した。
 税関職員は告訴を試みたものの、マサチューセッツ州司法長官
   ジョナサン・セウォール
がハンコックに法律違反はないと判断したため、訴訟は取り下げられた。
 後に、ハンコックの熱烈な崇拝者の中には、この事件を植民地におけるイギリスの権威に対する
   最初の物理的抵抗行為
と呼び、ハンコックがアメリカ独立戦争の火付け役となったと称する者もいた。
 1768年5月9日の夜、ハンコックのスループ船リバティー号が
   マデイラワイン
を積んでボストン港に到着した。
 翌朝、税関職員が船を検査したところ、ワインは25本しか積まれておらず、船の積載量のわずか4分の1に過ぎなかった。
 ハンコックは25本のワインの関税を支払ったが、当局は彼が積荷全体の関税を支払わないように、前もって、夜間にさらにワインを荷降ろししたのではないかと疑った。
 しかし、船上で一晩過ごした2人の潮汐管理官が、何も荷降ろししていないと宣誓供述した。
 このため、この事実を証明する証拠は得られなかった。
 1ヶ月後、イギリス軍艦ロムニー号が港に停泊中、潮汐監視員の一人が証言を変えた。
 リバティー号が違法に荷降ろしされている間、船上で拘束されていたと主張した。
 潮汐監視員の証言に基づき、6月10日、税関職員がリバティー号を拿捕した。
 ボストン市民は、ロムニー号の船長が
   イギリス海軍の脱走兵
のほか、
   植民地の住民
も徴用していたことに既に憤慨していた。
 税関職員がリバティー号をロムニー号まで曳航し始めた際、暴動が発生した。
 リバティー号を拿捕するために上陸した水兵と海兵隊員が
   徴兵団
と間違えられたことで、対立が激化した。
 暴動後、税関職員は町では危険だと主張してロムニー号、そして
   キャッスル・ウィリアム(港湾内の島の要塞)
へと移動した。
 ホイッグ党は、ロンドンがボストンに軍隊を派遣するように、税関職員が危険性を誇張していると批判した。
 英国当局は、リバティー号事件に端を発する2つの訴訟を起こした。
 船に対する物的訴訟と、ハンコックに対する人身訴訟である。
 慣例により、裁判所が科す罰金は総督、密告者、そして国王にそれぞれ3分の1ずつ支払われることになっていた。
 このため、王室当局者とハンコックの告発者は金銭的に利益を得る立場にあった。
 1768年6月22日に提起された最初の訴訟の結果、8月にリバティー号は没収された。
 その後、税関職員は貿易規制の執行にこの船を利用した。
 翌年、ロードアイランドで怒り狂った入植者たちによって船は焼き払われた。
 2度目の裁判は1768年10月に始まり、ハンコックと他5名が、関税を支払わずにリバティー号からワイン100本を陸揚げしたとして告訴された。
 有罪判決を受けた場合、被告人はワインの3倍、つまり9,000ポンドの罰金を支払うことになる。
 ジョン・アダムズが弁護士を務め、ハンコックは
   海事裁判所
で大きく報道された裁判で起訴された。
 なお、この裁判には陪審員はおらず、弁護側は証人への反対尋問も認められなかった。
 約5ヶ月間も延々と続いた後、ハンコックに対する訴訟は理由もなく打ち切られた。
 ハンコックに対する告訴は取り下げられたものの、後に多くの作家が彼を密輸業者と描写した。
 ただ、この描写の正確性には疑問が投げかけられている。
 歴史家ジョン・W・タイラーは1986年に、「ハンコックの有罪か無罪か、そして彼に対する正確な告訴内容は、今もなお激しく議論されている」と記している。
 また、歴史家オリバー・ディッカーソンは、ハンコックはバーナード知事と税関職員による本質的に犯罪的な組織犯罪の犠牲者だったと主張している。
 ディッカーソンは、ハンコックがリバティー事件で有罪であったことを示す信頼できる証拠はなく、裁判の目的は政治的な理由でハンコックを罰し、彼の財産を略奪することだったと考えている。
 ジョン・アダムズの法的文書の編集者である
   キンヴィン・ロース
   ヒラー・ゾベル
はディッカーソンの解釈に反対し、、彼らは「ハンコックの無罪には疑問の余地がある」とし、英国当局の行動は賢明ではなかったとしても合法だったと主張した。
 弁護士で歴史家のバーナード・ノレンバーグは、税関職員にはハンコックの船を押収する権利があった。
 ただ、それをロムニーまで曳航したことは違法だったと結論付けている。
 法史家のジョン・フィリップ・リードは、双方の証言が政治的に偏っており、事件を客観的に再現することは不可能だと主張している。
 リバティ事件とは別に、ハンコックが植民地で広く行われていた可能性のある密輸にどの程度関与していたかについては疑問が持たれている。
 そもそも、密輸の秘密性から言えば、記録はほとんど作成されず、残ってもいない。
 ハンコックが密輸業者であったとしても、それを証明する文書は存在の有無も不確かであり、また、見つかってもいない。
 ジョン・W・タイラーは、独立戦争期のボストンの400人以上の商人に関する研究で23人の密輸業者を特定した。
 ただ、ハンコックがその一人であったことを示す文書は見つからなかったという。
 伝記作家のウィリアム・ファウラーは、ハンコックが何らかの密輸に関与していた可能性はあるものの、彼の取引のほとんどは合法的なものであり、後に彼が「植民地密輸王」と呼ばれたという評判は根拠のない作り話であると結論付けている。
 リバティー事件は、
   ボストンの騒乱を軍事力で鎮圧する
というイギリスの決定を、それ以前に下していたことを裏付けるものとなった。
 この決定は、サミュエル・アダムズが1768年にタウンゼンド諸法への抵抗を連携させることを期待して送られた他のイギリス領アメリカ植民地に送った回状に端を発していた。
 植民地担当大臣の
   ヒルズボロ卿
は、苦境に立たされた王室関係者を支援するため、イギリス陸軍4個連隊をボストンに派遣した。
 また、バーナード知事にマサチューセッツ州議会に回状の撤回を命じるよう指示した。
 ハンコックとマサチューセッツ州議会は回状の撤回に反対票を投じた。 
 代わりにバーナード知事の解任を求める請願書を作成した。
 バーナードが1769年にイギリスに帰国すると、ボストン市民は歓喜した。
 しかし、イギリス軍は留まり、兵士と民間人の間の緊張が高まった。
 1770年3月のボストン虐殺で民間人5人が殺害されるに至った。
 ハンコックはこの事件には関与していなかった。
 その後、ハンコックは委員会を率いて軍隊の撤退を求めた。
 バーナードの後任である
   トーマス・ハッチンソン知事
とイギリス軍の指揮官
   ウィリアム・ダルリンプル大佐
と会談したハンコックは、軍隊が撤退しなければ1万人の武装した入植者がボストンに進軍する準備ができていると脅した。
 ハッチンソンはハンコックがハッタリを言っていることを知っていた。
 ただ、町内に駐屯していた兵士たちは危険な状況にあったため、ダルリンプルは両連隊をキャッスル・ウィリアムに撤退させることに同意した。
 ハンコックは軍隊撤退の実現に貢献した功績により英雄として称えられた。
 こうした功績などで、5月に行われたマサチューセッツ州議会下院への再選はほぼ全会一致で可決された。
 1770年に議会がタウンゼンド関税を部分的に撤廃した後、ボストンのイギリス製品のボイコットは終了した。
 マサチューセッツの政治は静かになったが、緊張は残った。
 ハンコックはハッチンソン知事との関係改善に努めた。
 しかし、知事はハンコックをアダムズの影響から引き離そうとした。
 1772年4月、ハッチンソンは
   ボストン士官候補生隊
の大佐にハンコックが選出されることを承認した。
 ボストン士官候補生隊は、知事と議会の
   儀式的な護衛
を主な任務とする民兵部隊であった。
 5月には、ハッチンソンは議会の上院である評議会へのハンコックの選出も承認した。
 評議会のメンバーは下院によって選出されたが、知事の拒否権の対象でもあった。
 ハンコックは以前に評議会に選出されたが拒否されていた。
 このときハッチンソンは選挙の成立を認めたが、ハンコックは、知事に取り込まれたと思われたくないという理由で、その職を辞退した。
 しかしハンコックは、改善された関係を利用して、進行中の紛争を解決した。
 ボストンの敵対的な群衆を避けるため、ハッチンソンは議会をボストンの外で招集していた。
 今回、議会の再開を承認し、議員たちの安堵を買った。
 ハッチンソンはハンコックを味方につけ、アダムズの信用を失墜させられると大胆に期待していた。
 表向きはアダムズとハンコックは確かに対立しているように見えた。
 1772年11月、アダムズが植民地の権利を主張するために
   ボストン通信委員会
を結成した際、ハンコックは参加を辞退したことで、ホイッグ党内に分裂があるという印象を与えた。
 ただ、両者の意見の相違はさておき、1773年に再び大きな政治的混乱が再燃すると、ハンコックとアダムズは再び歩み寄った。
 彼らはトーマス・ハッチンソンの私信の暴露に協力した。
 その中でハッチンソンは植民地に秩序をもたらすために「いわゆる『英国の自由』の縮小」を勧告しているように見えた。
 マサチューセッツ下院は、ボストンの軍事占領をハッチンソンの責任とし、知事としての彼の解任を求めた。
 1773年茶法が議会で可決された後、さらに問題が起こった。
 11月5日、ハンコックはボストンの町会議の議長に選出された。
 この会議では、茶法を支持する者は「アメリカの敵」であると決議された。
 ハンコックらは、茶の積荷を受け取るために任命された
   代理人の辞任
を強要しようとしたが、失敗に終わった。
 3隻の茶船がボストン港に到着した後、彼らは茶の荷降ろしを阻止しようとした。
 ハンコックは12月16日の運命の会議に出席し、群衆に向かって「各人は自分の目に正しいと思うことを行えばよい」と語りかけたと伝えられている。
 ハンコックはその夜のボストン茶会には参加しなかったが、茶会の行為自体は承認していた。
 ただし、私有財産の破壊を公に称賛することは避けていた。
 その後数ヶ月、ハンコックは痛風で身体が不自由になり、その後数年間、痛風の症状はますます頻繁に現れるようになった。
 1774年3月5日、ハンコックはボストン虐殺を記念する第4回虐殺記念日の演説を行うまでに回復した。
 ハンコックの演説は、ボストンにおけるイギリス軍の存在を非難するもので、イギリス軍は「神も人間も彼らにその権限を与えていない議会の法令への服従を強制するために派遣された」と述べた。
 おそらくハンコックがアダムズ、ジョセフ・ウォーレンらと共同で執筆したとされるこの演説は出版され、広く再版された。
 この演説により、ハンコックの指導的愛国者としての地位を高めた。
 議会はティーパーティー事件に対し、
   ボストン港法
を制定した。
 これは、イギリスによる植民地支配を強化することを目的とした、いわゆる「強制法」の一つであった。
 ハッチンソンの後任として、1774年5月に
   トーマス・ゲージ将軍
が総督に就任した。
 6月17日、マサチューセッツ下院は、強制法に対する植民地の対応を調整するためにフィラデルフィアで開催されていた
   第1回大陸会議
に派遣する5人の代表を選出した。
 ハンコックは第1回大陸会議には参加しなかった。
 これは健康上の理由か、他の愛国者指導者が不在の間、指揮を執る必要があったためだったと考えられている。
 ゲージはハンコックをボストン士官候補生連隊大佐の職から解任した。
 1774年10月、ゲージは総会の予定をキャンセルした。
 これを受けて、下院はイギリスの支配から独立した機関であるマサチューセッツ植民地会議を招集した。
 ハンコックは植民地会議の議長に選出され、安全委員会の主要メンバーとなった。
 植民地会議は、いつでも行動を開始できる民兵からなる最初の
   ミニットマン中隊
を創設した。
 1774年12月1日、植民地会議は、病気のため第1回会議に出席できなかった
   ジェームズ・ボウディン
に代わり、ハンコックを第2回大陸会議の代表に選出した。
 ハンコックがフィラデルフィアで開催された大陸会議に報告する前の1775年2月、植民地会議は満場一致で彼を議長に再選した。
 ハンコックは様々な役職を務めたことでマサチューセッツで絶大な影響力を持った。
 1774年1月にはイギリス当局が彼の逮捕を検討していた。
 1775年4月にコンコードで開催された植民地会議に出席した後、ハンコックとサミュエル・アダムズはフィラデルフィアへ出発する前にボストンに戻るのは安全ではないと判断した。
 彼らは代わりに、ハンコックの幼少期を過ごしたレキシントンの家に滞在した。
 1775年4月14日、ゲージはダートマス卿から手紙を受け取り、「植民地議会における、あらゆる観点から見て反逆と反乱行為とみなされる議事進行の主役と幇助者を逮捕せよ」と勧告された。
 4月18日の夜、ゲージはアメリカ独立戦争の引き金となる運命的な任務に兵士の分遣隊を派遣した。
 イギリス軍の遠征隊の目的は、植民地人が
   コンコードに保管していた軍事物資
を押収し、破壊することだった。
 また、ゲージは部下にハンコックとアダムズの逮捕も指示した。
 ただ、ゲージが出した命令書には愛国者指導者の逮捕については一切触れられていない。
 ゲージは、ハンコックとアダムズを逮捕しても他の指導者が彼らの地位を奪い、イギリス軍が侵略者として描かれるだけなので、何の利益もないと判断した。
 ゲージは明らかにハンコックとアダムズを捕らえるつもりはなかった。
 ただ、愛国者たちは当初そうは考えていなかった。
 ボストンからジョセフ・ウォーレンは使者
   ポール・リビア
を派遣し、ハンコックとアダムズにイギリス軍が移動しており、彼らを逮捕しようとするかもしれないと警告させた。
 リビアは真夜中頃にレキシントンに到着し、警告を与えた。
 ハンコックは依然として民兵大佐の地位にあった。
 レキシントンで愛国者民兵と共に戦場に出たいと考えていた。
 アダムズらは、ハンコックは兵士よりも政治指導者としての方が価値があると主張し、戦闘を避けるよう説得した。
 ハンコックとアダムズが逃走した時、レキシントンとコンコードに向けて最初の砲弾が発射された。
 戦闘後まもなく、ゲージは「武器を捨て、平和的な臣民の義務に戻る」者全員に大赦を与えるという布告を出した。
 ただし、ハンコックとサミュエル・アダムズは例外であった。
 このようにハンコックとアダムズを特に取り上げたことで、愛国者の間での彼らの評判はさらに高まった。
 戦争が勃発する中、ハンコックは他のマサチューセッツ代表と共にフィラデルフィアで開催された大陸会議に赴いた。
 1775年5月24日、彼は全会一致で大陸会議議長に選出された。
 ヘンリー・ミドルトンが指名を辞退した
   ペイトン・ランドルフ
の後任となった。
 ハンコックが議長にふさわしい人物だったのにはいくつかの理由があった。
 彼はマサチューセッツ州の立法府や町会議で議長を務めた経験が豊富であった。
 彼の富と社会的地位は穏健派代表の信頼を勝ち得ており、ボストンの急進派との繋がりは他の急進派にも受け入れられていた。
 議長の役割が明確に定義されておらず、ランドルフが辞任したのか休職中なのかも不明であった。
 このため、ハンコックの立場はやや曖昧であった。
 他の議会議長と同様に、ハンコックの権限は主に議長としての権限に限られていた。
 彼はまた、大量の公文書を処理しなければならず、書類処理を手伝うために自費で事務員を雇う必要があることに気づいた。
 1775年6月15日、マサチューセッツ州選出の
   ジョン・アダムズ議員
は、当時ボストンに集結していた軍の総司令官に
   ジョージ・ワシントン
を指名した。
 ただ、数年後、アダムズはハンコックが指揮権を得られなかったことに深い失望を示したと記している。
 この1801年の短いコメントは、ハンコックが総司令官の座を狙っていたという、しばしば引用される主張の唯一の根拠となっている。
 20世紀初頭、歴史家ジェームズ・トラスロー・アダムズは、この事件がハンコックとワシントンの生涯にわたる不和の始まりとなったと記している。
 歴史家ドナルド・プロクターによると、「ハンコックが総司令官に任命される野心を抱いていたという当時の証拠はない。むしろその逆だ」と指摘している。
 ハンコックとワシントンはこの事件後も良好な関係を維持し、1778年にハンコックは一人息子にジョン・ジョージ・ワシントン・ハンコックと名付けている。
 ワシントンはハンコックの軍人任命の要請を丁重に断ったにもかかわらず、ハンコックはワシントン将軍を尊敬し、支持していた。
 1775年8月1日、議会が休会すると、ハンコックは婚約者の
   ドロシー・「ドリー」・クインシー
と8月28日、コネチカット州フェアフィールドで結婚した。
 二人の間には2人の子供が生まれたが、どちらも成人することはなかった。
 娘のリディア・ヘンチマン・ハンコックは1776年に生まれ、10ヶ月後に亡くなった。
 息子のジョンは1778年に生まれ、1787年にアイススケート中に頭部を負傷して亡くなった。
 ハンコックは議会議長時代にハーバード大学との長きにわたる論争に巻き込まれた。
 1773年から大学の会計係を務めていた彼は、大学の財務記録と約1万5000ポンドの現金および証券を託されていた。
 独立戦争勃発の慌ただしい状況の中、ハンコックは議会に向けて出発する前に、これらの資金と口座をハーバード大学に返却することができなかった。
 1777年、ボストンにおけるハンコックの最大の政治的・社会的ライバルであったジェームズ・ボウディンが率いるハーバード大学の委員会は、資金と記録を回収するためにフィラデルフィアに使者を派遣した。
 ハンコックは憤慨したが、記録のすべてではないものの、1万6000ポンド以上を大学に引き渡した。
 ハーバード大学がハンコックを財務担当官から交代させたとき、ハンコックの自尊心は傷つけられた。
 ボウディン大学やその他の政敵から圧力をかけられたにもかかわらず、何年もの間、口座の清算や保有していた資金の利息の支払いを拒否した。
 この問題はハンコックの死後まで引き延ばされ、最終的に彼の遺産相続人が大学に1,000ポンド以上を支払ってこの問題を解決した。
 ハンコックは、独立戦争の最も暗い時期を連邦議会で過ごした。
 1776年、イギリス軍はワシントンをニューヨークとニュージャージーから追い出し、連邦議会はボルチモアへ逃亡した。
 ハンコックと連邦議会は1777年3月にフィラデルフィアに戻りった。
 ただ、6ヶ月後にイギリス軍がフィラデルフィアを占領したため、再び逃亡を余儀なくされた。
 ハンコックは植民地の役人に数え切れないほどの手紙を書き、ワシントン軍のための資金、物資、そして兵員を集めた。
 また、彼は海軍委員会の委員長を務め、彼の名を冠したUSSハンコックを含む、アメリカのフリゲート艦の小規模な艦隊の創設に貢献したことを誇りとしていた。
 1777年10月、ハンコックは2年以上議会に在籍した後、休暇を要請した。
 彼はワシントンにボストンへの帰国のための軍の護衛を手配するよう依頼した。
 ワシントンは人員が不足していたにもかかわらず、ハンコックの帰路に同行するため15人の騎兵を派遣した。
 この頃、ハンコックはサミュエル・アダムズと疎遠になっていた。
 アダムズはハンコックの虚栄心と浪費を非難し、共和主義の指導者として不適切だと考えていた。
 議会が
   ハンコックの功績に感謝の意を表す決議
を採択した際、アダムズと他のマサチューセッツ州の代表は、他州の代表数名と同様に、この決議に反対票を投じた。
 ボストンに戻ったハンコックは下院議員に再選された。
 前年と同様に、彼の慈善活動は彼の人気を高めた。
 戦争で財政が大きく悪化したにもかかわらず、彼は貧しい人々に施しをし、未亡人や孤児を助け、友人に金を貸した。
 1777年12月、彼は大陸会議の代表とボストンの町会議の議長に再選された。
 ハンコックは1778年6月、ペンシルベニアで大陸会議に復帰した。
 ただ、短期間の滞在は満足のいくものではなかった。
 ハンコックの不在中に、会議は
   ヘンリー・ローレンス
を新議長に選出していた。
 留守中の政治的な動きは、議長職の奪還を期待していたハンコックにとって失望であった。
 ハンコックはサミュエル・アダムズとの関係が悪く、妻と生まれたばかりの息子を恋しく思っていた。
 1778年7月9日、ハンコックと他のマサチューセッツ代表は、他の7州の代表と共に連合規約に署名した。
 残りの州はまだ署名の準備が整っておらず、規約は1781年まで批准されなかった。
 ハンコックは1778年7月、ついに戦闘で兵士を率いる機会に意欲を燃やし、ボストンに戻った。
 1776年、彼はマサチューセッツ民兵隊の上級少将に任命された。
 フランス艦隊がアメリカ軍の救援に駆けつけたため、ワシントン将軍は
   ジョン・サリバン将軍
に、1778年8月にロードアイランド州ニューポートのイギリス軍守備隊への攻撃を指揮させるよう指示した。
 ハンコックはこの作戦で名目上6,000人の民兵を指揮した。
 ただ、作戦計画と命令はプロの軍人に任せていたが、作戦は失敗に終わり、フランスの
   デスタン提督
は作戦を放棄したことから、ハンコックの民兵のほとんどがサリバンが率いる大陸軍から離脱した。
 ハンコックはこの大失敗で批判を浴びたが、短い軍歴を経てもなお、高い人気を保った。
 長い遅延の後、マサチューセッツ州憲法は1780年10月にようやく発効した。
 誰もが予想した通り、ハンコックは90%以上の票を獲得し、圧倒的な票差でマサチューセッツ州知事に選出された。
 正式な政党政治が存在しなかったため、この選挙は人格、人気、そして愛国心を競うものとなった。
 ハンコックは絶大な人気を誇り、個人的な犠牲を払ったことや第二次大陸会議での指導力から見て、紛れもなく愛国心に満ちていた。
 一方、主要な対立候補であるボウディンは、健康状態が悪かったことを理由に第一次大陸会議への参加を拒否したことなどを理由に、ハンコックの支持者から非愛国的だと非難された。
 ボウディンの支持者たちは、主にマサチューセッツ州沿岸部の裕福な商業関係者であり、ハンコックを大衆迎合的なうぬぼれ屋の扇動家とみなした。
 ハンコックは独立戦争終結から戦後の経済的に困難な時期までマサチューセッツ州を統治し、何度も大差で再選を果たした。
 ハンコックは政治に介入せず、物議を醸す問題にはできるだけ関与しなかった。
 ウィリアム・ファウラーによれば、ハンコックは「真のリーダーシップを発揮したことはなく」、「州が直面する重大な問題に対処するために自らの力を発揮したこともなかった」と述べている。
 ハンコックは1785年1月29日に突然辞任するまで統治を続けた。
 ハンコックは健康状態の悪化を辞任の理由として挙げたが、地方で不安が高まっていることに気づき、事態が悪化する前に退陣したかったのかもしれない。
 ハンコックの批評家たちは、彼が困難な政治的状況を回避するために病気を理由にしていたと信じることもあった。
 歴史家ジェームズ・トラスロー・アダムズは、ハンコックの「二つの主要な資源は金と痛風であり、前者は常に人気を得るために、後者は人気を失うことを防ぐために使われていた」と記している。
 ハンコックが回避した混乱は、最終的に
   シェイズの反乱
として顕在化し、ハンコックの後継者
   ボウディン
が対処した。
 反乱後、ハンコックは1787年に再選され、直ちに反乱者全員を恩赦した。
 翌年、ボストンから3人の自由黒人が誘拐され、西インド諸島のフランス植民地マルティニークに奴隷として送られた。
 この違法行為が表立ち、論争が巻き起こりました。
 ハンコック総督は、彼らに代わって島々の総督たちに手紙を書いた。
 その結果、3人は釈放されマサチューセッツ州に戻った。
 ハンコックは残りの人生、毎年の任期で知事として再選された。
 1785年に知事を辞任したハンコックは、1781年の連合規約批准後、連合会議として知られる議会の代表に再び選出された。
 議会は独立戦争後、重要性が低下し、各州からもしばしば無視されていた。
 ハンコックは1785年11月23日に議長に選出されたが、健康状態が悪く、また無関心であったため、一度も出席しなかった。
 彼は1786年6月に議会に辞表を提出した。
 連合規約の欠陥を是正するため、代表はまず1786年の
   アナポリス会議
に、次いで1787年の
   フィラデルフィア会議
に派遣された。
 そこで合衆国憲法が起草され、。憲法はその後、各州に送付され、批准または否決された。
 フィラデルフィア会議には出席しなかったハンコックは、憲法に
   権利章典が
欠如していること、そして権力が中央政府に移っていることに懸念を抱いていた。
 1788年1月、ハンコックはマサチューセッツ州批准会議の議長に選出された。
 ただ、会議開始時には病気で欠席していた。
 ハンコックは激しい議論の間、ほとんど沈黙を守っていた。
 ただ、会議が閉幕に近づくと、批准を支持する演説を行った。
 サミュエル・アダムズが数年ぶりにハンコックの立場を支持した。
  ハンコックとアダムズの支持があったにもかかわらず、マサチューセッツ州会議は187対168の僅差で憲法を批准した。
 ハンコックの支持が批准の決め手となったと考えられる。
 ハンコックは1789年のアメリカ合衆国大統領選挙に立候補した。
 政治的野心が疑われていた時代の慣例に従い、彼は選挙活動もせず、公に大統領就任への関心を表明することさえしなかった。
 その代わりに、間接的に自身の希望を伝えた。
 他の皆と同様に、ハンコックもワシントンが初代大統領に選出されることを知っていた。
 ただ、健康状態が悪かったにもかかわらず、副大統領就任に関心があったのかもしれない。
 選挙で彼が獲得し​​た選挙人はわずか4票で、しかもそのうち彼の出身州からの票はゼロだった。
 マサチューセッツ州の選挙人全員が
   ジョン・アダムズ
に投票したためだ。
 なお、アダムズは2番目に多くの選挙人を獲得して副大統領となった。
 ハンコックは選挙での自身の結果に失望したものの、マサチューセッツ州では依然として人気を保っていた。
 健康状態が悪化したハンコックは、晩年の数年間を実質的に象徴的な知事として過ごした。
 1793年10月8日、妻に見守られながら56歳でベッドで亡くなった。
 知事代理サミュエル・アダムズの命令により、ハンコックの埋葬日は州の祝日となった。
 豪華な葬儀は当時のアメリカ人に行われた葬儀の中で最も壮大なものであったと言われている。

     
posted by まねきねこ at 06:21| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米消費者のインフレ期待がNY地区連銀の月次調査でトランプ関税前の水準に戻る

 米国の消費者の1年先インフレ期待はニューヨーク地区連銀の月次調査で6月に低下し、大規模関税を米政権が発表する前の1月と同水準に戻ったことが明らかになった。
 ただ、トランプ関税のじが交渉がまとまらずに、繰り返し先延ばしにされた結果か、労働市場に関しては強弱まちまちの兆候が示された。
 新たな職を見つけるのは困難との見方が多く、米企業が人員の採用も解雇も手控えていることを示すデータと一致する。
 1年先インフレ期待の中央値は2カ月連続で低下し、6月は3%(前月3.2%)となった。
 3年先と5年先のインフレ期待はそれぞれ3%と2.6%で変わらずだった。
 1−3年先の物価見通しを巡る不確実性は後退した格好となった。
 トランプ米大統領が4月に一連の大幅関税引き上げを発表して以降、企業と家計は物価上昇に備えてきた。
 米連邦準備制度理事会(FRB)当局者の間では、トランプ関税が米国企業により製品価格に転嫁する発言動きがの広がりに対して広がっており
   将来のインフレへの懸念
が強まった。
 ニューヨーク地区連銀の調査では、3年先と5年先のインフレ期待にそれほど大きな変化は見られなかったものの、1年先の見通しは1月の3%から4月には3.6%に跳ね上がった。
 一連の関税発動見送りや交渉による合意により、
   新たな関税の実効水準
は引き下げられ、
   雇用やインフレへの影響
は先送りされており、企業判断を変化させるには至っていない。
 ただしトランプ政権は今週、複数の主要な貿易相手に対する関税引き上げを改めて警告した。
 最終的に関税水準がどこに落ち着くのか、不透明感は増しており、トランプの思惑通りには交渉が進まず、中間選挙を睨んだ強気の姿勢がいつまで維持できるのかに注目だ。
 そもそも、労働市場に関する見方は楽観と悲観が交錯している。
 今後1年以内に職を失う可能性があるとの回答は、昨年12月以来の低水準に下げた。
 一方で、現在の職を失っても再就職は可能だとする回答率も低下しており、スタグフレーションの兆しを意識したような回答も含まれているのだろう。
 現状ではインフレが継続しても、トランプ関税による景気後退までには至っておらず、解雇への不安が4月以降一時的に和らぐ中、消費者は家計に対して楽観的な見方をわずかに強めた。
 1年後に家計状況が悪化するとの回答比率は6月に低下し、改善すると答えた割合が増えた。
 信用へのアクセスが困難だとの回答は減少し、今後1年間に困難に直面すると答えた割合も低下した。
 今後3カ月に債務の最低返済額を滞納する可能性については、昨年5月以来の低水準となった。
   
     
posted by まねきねこ at 02:00| 愛知 🌁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年07月09日

アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)米国第7代大統領

アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)
   1767年3月15日 - 1845年6月8日
 1829年から1837年までアメリカ合衆国第7代大統領を務めた。
 大統領就任前は陸軍将軍として名声を博し、連邦議会両院議員を務めた。
 彼の政治哲学は
   民主党
の基盤となった。
 ジャクソンの功績は賛否両論を巻き起こした。
 労働者階級の米国人を擁護し、州連合を維持したとして称賛された。
 一方では、特に先住民に対する人種差別的な政策を批判された。
 ジャクソンは、アメリカ独立戦争以前の植民地時代のカロライナ州に生まれた。
 開拓地で弁護士となり、
   レイチェル・ドネルソン・ロバーズ
と結婚した。
 テネシー州選出の下院議員および上院議員を短期間務めた。
 辞任後、1798年から1804年までテネシー州上級裁判所の判事を務めた。
 ジャクソンは後に
   ハーミテージ
として知られる農園を購入し、生涯を通じて何百人もの奴隷化されたアフリカ系アメリカ人の強制労働で利益を得た裕福な農園主となった。
 1801年、彼は
   テネシー民兵隊
の大佐に任命され、その指揮官に選出された。
 1811年のニューマドリード地震をきっかけに、クリーク族の間で
   伝統回帰運動
が起こり、内部対立が起こり、白人との対立となった。
 クリーク族の一部は「レッド・スティックス」と呼ばれ、白人入植者への襲撃を繰り返したためアメリカ軍は、クリーク族の襲撃に対抗するため、民兵を召集し、クリーク戦争が勃発した。
 1813年8月30日、レッド・スティックスはアラバマ州のミムズ砦を襲撃し、多数の白人入植者を殺害した。
 この襲撃をきっかけに、アメリカ軍はクリーク族への本格的な攻撃を開始し、1814年3月27日、アンドリュー・ジャクソン率いるアメリカ軍は、タラデガの戦いでクリーク族を破った。
 1814年8月9日、ジャクソンは
   ホースシュー・ベンドの戦い
で、クリーク族を殲滅して、この戦争は終結し、先住民クリーク族に現在のアラバマ州とジョージア州の広大な土地の明け渡しを要求するジャクソン砦条約の交渉を迫った。
 同時期に起こったイギリスとの戦争では、1815年に
   ニューオーリンズの戦い
で勝利し、国民的英雄となった。
 後に彼は第一次セミノール戦争でアメリカ軍を指揮し、この戦争で勝利し、スペインからフロリダを奪い取った。
 ジャクソンは上院に戻る前に、短期間フロリダ準州の初代知事を務めた。
 彼は1824年に大統領選に出馬し、一般投票と選挙人投票で最多得票した。
 ただ、選挙人投票で過半数を獲得した候補者はいなかった。
 ヘンリー・クレイの助力を得て、下院は
   ジョン・クィンシー・アダムズ
を大統領に選出した。
 ジャクソンの支持者たちは、アダムズとクレイ(アダムズの内閣に加わった)の間に「不正な取引」があったと主張し、1830年代に民主党となる新しい政治連合を作り始めた。
 ジャクソンは1828年に再出馬し、
   奴隷貿易
   「非正規」な結婚
といった問題を抱えながらも、アダムズを圧勝した。
 1830年、彼はインディアン移住法に署名し、
   先住民の民族浄化
と称されるこの法律は、ミシシッピ川東岸の先祖代々の故郷から数万人のネイティブアメリカンを追放し数千人の死者を出した「涙の道」と呼ばれる出来事を引き起こした。
 サウスカロライナ州が連邦政府が設定した
   高額な保護関税
を無効化すると脅迫した際、ジャクソンは
   連邦制の統一性に対する危機
に直面した。
 彼は関税を強制執行するために軍事力行使をちらつかせ脅したうえ、修正によって危機は収束させた。
 1832年、彼は第二合衆国銀行の再認可を求める議会の法案に対し、
   腐敗した機関
であるとして拒否権を発動した。
 その後、長きにわたる闘いの末、第二合衆国銀行は解体された。
 1835年、ジャクソンは
   国家債務
を完済した唯一の大統領となった。
 ジャクソンは退任後、
   マーティン・ヴァン・ビューレン
   ジェームズ・K・ポークの
大統領職、および
   テキサスの併合
を支持した。
 ジャクソンに対する現代の評価はしばしば二極化している。
 支持者は彼を民主主義とアメリカ合衆国憲法の擁護者と評した。
 一方で、批判者は彼を
   都合の良い時には法律を無視する扇動家
として評価している。
 アメリカ大統領の学術的ランキングでは、歴史的にジャクソンの大統領としての功績は平均以上と評価されてきた。
 なお、20世紀後半以降、彼の評価は低下し、21世紀には大統領ランキングにおける順位は下がった。
 アンドリュー・ジャクソンは1767年3月15日、カロライナ州ワックスホーズ地方で生まれた。
 両親はスコットランド系アイルランド人入植者
   アンドリュー・ジャクソン
   エリザベス・ハッチンソン
で、長老派教会員であった。
 彼らは1765年にアイルランドのアルスターから移住した。
 ジャクソンの父は1738年頃、アントリム州キャリクファーガスで生また。
 先祖は1690年の
   ボイン川の戦い
の後、スコットランドから北アイルランドに渡ってきた。
 ジャクソンには、両親と共にアイルランドから移住してきた
   ヒュー(1763年生まれ)
   ロバート(1764年生まれ)
という2人の兄がいた。
 母エリザベスはイギリスに対する強い憎悪を抱いており、それは息子たちにも受け継がれた。
 ジャクソンの正確な出生地は不明である。
 ジャクソンの父は1767年2月、息子アンドリューが生まれる3週間前に29歳で亡くなった。
 その後、エリザベスと3人の息子は、姉と義兄のジェーンとジェームズ・クロフォードの家に引っ越した。
 ジャクソンは後に、サウスカロライナ州ランカスター郡にある
   クロフォード農園
で生まれたと述べているが、間接的な証拠から、ノースカロライナ州の別の叔父の家で生まれた可能性が示唆されている。
 ジャクソンが幼い頃、エリザベスは彼が牧師になるかもしれないと考え、地元の牧師に教育を受けさせた。
 彼は読み書きと数字の処理を学び、ギリシャ語とラテン語にも触れた。
 ただ、牧師になるには意志が強く短気すぎた。
 ジャクソンと兄のヒュー、そして兄のロバートは、
   アメリカ独立戦争
中、愛国者側としてイギリス軍と戦った。
 ヒューはウィリアム・リチャードソン・デイビー大佐の指揮下で従軍した。
 1779年6月の
   ストノ・フェリーの戦い
の後、熱中症で亡くなった。
 1780年5月のワックスホーズの戦いの後、南部植民地で反英感情が高揚すると、エリザベスはアンドリューとロバートに民兵訓練への参加を奨励した。
 彼らは伝令として働き、1780年8月の
   ハンギング・ロックの戦い
にも参加した。
 アンドリューとロバートは、1781年4月、イギリス軍がクロフォード家の親戚の家を占拠した際に捕らえられた。
 イギリス軍将校が彼のブーツを磨くよう命令したが、アンドリューは拒否した。
 将校は彼を剣で切りつけ、左手と頭に傷跡を残した。
 また、ロバートも拒否し、頭部に一撃を受けた。
 兄弟はカムデンの捕虜収容所に連行され、
 サウスカロライナ州で栄養失調に陥り、天然痘に罹患した。
 晩春、兄弟は捕虜交換で母親の元へ解放された。
 ロバートは帰国後2日で亡くなったが、エリザベスはアンドリューを看病して健康を取り戻させた。
 アンドリューが回復すると、エリザベスはサウスカロライナ州チャールストン港のイギリスの捕虜船に収容されていたアメリカ人捕虜の看護を志願した。
 彼女はコレラに罹患し、その後まもなく死亡した。
 この戦争により、ジャクソンは14歳で孤児となった。
 イギリスに抱く価値観、特に貴族制と政治的特権に対する憎悪を募らせた。
 ジャクソンとレイチェルには子供はいなかった。
 ただ、レイチェルの兄弟セヴァーン・ドネルソンの息子
   アンドリュー・ジャクソン・ジュニア
を養子とした。
 ジャクソン夫妻は、レイチェルのもう一人の兄弟サミュエル・ドネルソンの子供たち
   ジョン・サミュエル
   ダニエル・スミス・ドネルソン
   アンドリュー・ジャクソン・ドネルソン
の後見人を務めた。
 また、レイチェルの孤児となった甥の孫
   A・J・ハッチングス
と、友人エドワード・バトラーの孤児となった子供たち
   キャロライン
   イライザ
   エドワード
   アンソニー
の後見人でもあった。
 これらの子供たちは父親の死後、ジャクソン夫妻と同居していた。
 ジャクソンの家族には、リンコヤ、セオドア、チャーリーという3人の先住民もいた。
 アメリカ合衆国史上唯一、未亡人となったジャクソンの非公式なファーストレディとして、2人の女性が同時に務めた。
 レイチェルの姪
   エミリー・ドネルソン
は、ジャクソンの個人秘書を務めた
   アンドリュー・ジャクソン・ドネルソン
と結婚し、ホワイトハウスでホステスを務めた。
 大統領とエミリーは
   ペティコート事件
で1年以上疎遠になったものの、最終的に和解し、彼女はホワイトハウスのホステスとしての職務に復帰した。
 アンドリュー・ジャクソン・ジュニアの妻サラ・ヨーク・ジャクソンは1834年にホワイトハウスの共同ホステスとなり、1836年にエミリーが結核で亡くなった後、ホステスとしての職務をすべて引き継いだ。
 ジャクソンは短気で暴力的という評判があった。
 それが対立候補を恐怖に陥れた。
 そのため、彼は自分の怒りを戦略的に利用し、目的を達成することができた。
 彼は必要に応じて怒りを抑えることができた。
 1824年の選挙運動中、上院議員としてワシントンD.C.を訪れた際、彼の振る舞いは友好的で洗練されていた。
 ヴァン・ビューレンによれば、彼は困難な状況でも冷静さを保ち、慎重に決断を下したという。
 彼は物事を
   個人的な問題
として捉える傾向があり、誰かが彼に逆らうと、しばしばそれを打ち負かすことに執着した。
 例えば、大統領任期最終日に、ジャクソンは後悔していることは、
   ヘンリー・クレイ
を射殺しなかったことと、
   ジョン・C・カルフーン
を絞首刑にしなかったことの二つだけだと宣言した。
 彼はまた、強い忠誠心を持っており、友人への脅威を自分への脅威とみなした。
 ジャクソンは自信家だったがものの、自己重要感を露わにすることはなかった。
 この自信が、逆境に耐え抜く力を与えたという。
 一度行動計画を決めたら、彼はそれを貫いた。
 こうした短気で自信家という評判は彼にとって有利に働いた。
 反対派は彼を単純で率直な人物だと誤解し、彼の政治的手腕を過小評価することが多かった。
 1838年、ジャクソンはナッシュビルの第一長老派教会の正式な会員となった。
 彼の母と妻は生涯を通じて敬虔な長老派教会員であったが、ジャクソンは政治的な理由で入会したという非難を避けるため、正式に入会を退職後まで延期していたと述べている。

    
posted by まねきねこ at 23:00| 愛知 ☔| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

混迷の劇場型政治家の幼稚で過激な言葉を駆使したトランプ交渉術は圧力ばかりの繰り返しでは合意が出来ずに関税を再延期?

 トランプ米大統領は「解放の日」とする4月2日、長年にわたり米国の労働者や企業を「搾取」してきた貿易が、ようやく米国に有利なものに変わると熱弁を振るったトランプ氏だが、自由裁量で行える関税政策は、米国を「まったく別の国」に生まれ変わらせる手段となる妄想を吐き出し、信じる愚かさを広げ失望感が高まり支持率も低下傾向が加速してきている。
 トランプ氏は身勝手な基準による「相互主義」とする自身の通商方針について、「彼らがわれわれにするなら、われわれも同じことをする。とてもシンプルで、これ以上ないほど明快だ」と述べたが、単純思考で米国企業は経営が崩壊するリスクが高まったままだ。
 それから3カ月がたち、その変革は当初の説明よりもはるかに困難に陥ってしまっており、進捗も鈍いことが明らかになってきた。
 7月9日の関税の適用停止期限が迫る中で、発表できる合意はごくわずかで、具体性も詰められておらず単に合意の枠組みに過ぎない状況であり、細部の交渉では破綻リスクを内側に置いたままだ。
 トランプ政権は米国主導による世界貿易体制の解体と再構築という当初の目標について、自ら課した期限が過度に楽観的だったことを実質的に認めつつあり、三文芝居を見せつけられてきたに等しい駄作作品だ。
 今週、上乗せ関税措置の発動を再び8月1日まで延期すると発表した背景には、交渉の余地があると見なす国・地域から最終的かつ最大限の譲歩を引き出す狙いがあるが、思惑通りには事が運ばないだろう。
 トランプ政権1期目で通商顧問を務め、現在は法律事務所アキン・ガンプのパートナーであるケリー・アン・ショー氏は「これはまさに最後のひと押しという印象だ」と語ったが崖っぷちに近づいている足元は見えていないのだろう。
 ただ今回の延期は、より現実的な事情を反映したものでトランプ効果はそもそも消えてしまっている。
 すなわち、関税発動までの90日間の猶予期間が終わる時点で、トランプ氏が期待していたような大幅な譲歩を引き出すには、米国の交渉チームの陣容が手薄そのもので花火を上げるも誰も感動しない小規模で見る人は限られた線香花火かもしれない。
 この事情に詳しい複数の関係者によると、インド、欧州連合(EU)、台湾との合意は今週初めの時点でほぼまとまっていたものの、9日までに大きな進展として発表できる見通しは立っていないという。
 ショー氏は「どの通商交渉も最終局面は難航するものだが、今回は世界の全ての国と同時に交渉している」と話し総スカンを食らう可能性もある。
 ただ、今後3週間以内に合意に至る可能性があると同氏は安易にみており、「今後さらに合意がまとまれば、多くの関税率は引き下げられると思う」と続けたが、トランプ支持派に塩を送る義理など無いのが他国の実態だろう。
 当初からトランプ政権の通商顧問の間では、90日間という期限は
   恣意的で現実的ではない
との声が元々上がっていた。
 4月2日以降の1週間で株式相場が急落したことに加え、経済チームの大半が関税賦課の一時停止を支持した。
 グローバル化に批判的な異質のナバロ大統領上級顧問が裏で誘導し続けて反対する中でも、最終的にトランプ氏を説得するに至った。
 こうして、関税の一時停止が各国を交渉のテーブルに引き出すという判断につながった。
 また、「きりのいい数字」を好むことで知られるトランプ氏は今回も、交渉を最終合意に導くにはもう少し時間が必要だとの説得に応じた。
 7日、トランプ氏は新たな期限が絶対的なものかどうかについて言及を避けた。
 8月1日の期限が各国にとって高関税を回避する最後の機会かと問われたトランプ氏は、「確固たるものだが、100%ではない」と回答した。
 また、「相手国から別のやり方で進めたいとの申し出があれば、柔軟に対応するつもりだ」と述べた。
 ホワイトハウスにとってのリスクは、こうした方針転換や延期が続くことで、迅速かつ果断な指導者というトランプ氏のイメージが損なわれかねない点にあるが、伸び切った政治手法ではどこで寸断してもおかしくはなくなっている。
 トランプ氏はこれまで、メキシコやカナダ、中国、EUなどに対し、自信満々に関税の賦課を表明しながら、その後に一時停止や引き下げに転じた例がある。
 ウォール街では「TACO(Trump Always Chickens Out、トランプはいつも尻込みする)」とやゆされており、トランプ氏はこうした見方に対して自尊心が強いため、いら立ちを隠せない。
 一方、トランプ氏の関税方針に直面する各国の中には、英国のように合意不在に伴う不確実性よりも、部分的な合意による一定の安定を選ぶ動きも出てきているが、詳細は決まっておらず単なるポーズでしかないため中身が無い合意だ。
 4月以降のトランプ政権の政策の迷走により、米国の輸入業者からは家計への影響を懸念する声が上がっている。
 全米靴流通販売業協会(FDRA)のマット・プリースト会長兼最高経営責任者(CEO)はブルームバーグテレビジョンのインタビューで、「数週間の猶予が与えられたとはいえ、高関税は引き続き課され、消費者物価の上昇を招く」と指摘した。
 また、「調達先を再検討するには、全ての政策カードが出そろう必要がある。それはわれわれの事業運営にとって極めて重要だ」と続けた。
 さらなる政策転換の可能性が高まる中、利害も一段と大きくなっている。
 ホワイトハウスのレビット報道官は7日、今回の関税を巡る書簡について、各国は猶予期間を「発動の意志がない」とは受け取るべきではないと強調し脅した。
 また、「各国は大統領を真剣に捉え、書簡を重く受け止めている。だからこそ、世界の首脳からの電話が鳴りやまず、合意を求める要請が絶えない」と述べ、「この政権は、米国民の利益にかなう形で合意を実現するために全力を尽くしている」と続けた。
 政権関係者は、新たな関税率の発効日を8月1日とする方針を崩していない。
 ただその実施には、税関・国境警備局(CBP)が事前にコンピューターシステムの再設定作業を始める必要があり、発効の少なくとも1週間以上前から準備を進めなければならない。
 トランプ氏は対中関税についても8月中旬に期限を迎える見通しで、それまでに合意がなければ、中国製品への関税が最大145%に引き上げられる可能性がある。
 当初、グリア米通商代表部(USTR)代表が「米国にとって素晴らしい枠組み」と称賛した合意案も、米側にとってはすぐに不満の種となった。
 中国がレアアース(希土類)の供給力をてこに、関税適用の一時停止条件について実質的に主導権を握ったため、そもそも発動も出来ない現実を見せつける可能性もある。

    
posted by まねきねこ at 12:00| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マスク氏が再び政治に関与する動きで何が起きるかわからない

 ウィリアム・ブレアの株式アナリスト
   ジェド・ドーシャイマー氏
は7日のリポートで「マスク氏による事業への注力が最も必要とされているこの局面に、同氏が再び政治に関与する動きを見せたことで、投資家の間で不満が高まっている」と指摘し、テスラの投資判断を「ホールド」相当に引き下げた。
   
  
ひとこと
 南アフリカからの移民であるマスク氏に対するトランプの対応が進めてきた移民政策の本質であり、敵対して献金等の必要もなくなり、役に立たなくなった移民起業家のマスク氏を場合によっては米国の市民権を剥奪する可能性も出て来る可能性も考えておくことになるだろう。
 当然、同じことはルパート・マードック氏など同様の移民で米国の市民権を取った多くの移民経営者も同じで独裁者として暴走を始めたトランプに抵抗するような動きをすれば同じ憂き目に遭いかねない問題が出始めたようだ。
 同じことはトランプ支持勢力に対しても、トランプ政治を批判する場合に表現の自由を許さず、強い対応が出てきかねないだろう。
 そのため、分断政治が過激化する可能性も考えられる。

   
posted by まねきねこ at 10:00| 愛知 🌁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5月の景気動向指数で4年10カ月ぶりに景気判断「悪化」に引き下げ

 内閣府が7日発表した5月の景気動向指数(速報値)で、一致指数の基調判断を「悪化」に引き下げた。
 同判断はコロナ禍の2019年8月から20年7月の12カ月間に示されて以来で、4年10カ月ぶりとなる。
 景気の現状を示す一致指数は5月に前月比0.1ポイント低下した115.9と、2カ月ぶりに低下した。
 指数を構成する10指標のうち生産や販売、雇用、輸出など5指標がマイナス要因となった。
 「悪化」の判断は、一致指数の3カ月移動平均が3カ月連続で低下し、前月比がマイナスであることに基づくもので、景気後退の可能性が高いことを示している。
 内閣府の担当者は、急激に指数が低下したコロナ禍と比べて今回の低下は小幅であり、「今後の指標の動きを慎重に見ていくべきというサインが出ている」と説明した。
 また、輸出数量指数について、米国向けは前月比マイナスだったと指摘した上で、関税政策の影響については「非常に見極めが難しい」と続けた。
 1−3月期の日本経済は4四半期ぶりのマイナス成長だった。
 物価高に賃金上昇が追いつかない状況で個人消費が力強さを欠き、米関税措置の影響で輸出も伸び悩んでおり、4−6月期にテクニカル上の景気後退(2期連続のマイナス成長)に陥るリスクにさらされている。
  
    
posted by まねきねこ at 09:00| 愛知 🌁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近く首脳会談を予定する欧州委員長が中国に過剰生産や補助金の是正を欧州議会本会議で批判

 欧州連合(EU)の執行機関、欧州委員会の
   フォンデアライエン委員長
は中国の
との首脳会談を2週間後に予定しているなか8日、仏ストラスブールの欧州議会本会議で演説し、
「私たちのパートナーシップを前進させるには、真の再均衡が必要だ。市場の歪みを減らし、中国から輸出される過剰生産能力を抑え、欧州企業にとって公正かつ相互的な市場アクセスを確保する必要がある」と呼びかけた。
 中国政府は
   レアアース(希土類)磁石
の輸出規制を導入しており、これがEUとの貿易関係の不均衡をさらに深刻化させていると続けた。
 米国のトランプ大統領による
   関税政策
をきっかけに、EUと中国には一時関係改善の兆しも見えたが、この措置によって潰えた。
 EUは、中国の電気自動車(EV)メーカーが、
   不公平な補助金の恩恵
を受けているとして、中国製EVに関税を課している。
 また、中国企業を
   医療機器の公共調達
から排除し、それに対して中国が
   報復措置
を取るという応酬も起きている。
 フォンデアライエン氏は「中国は安価で補助金を受けた製品を世界市場にあふれさせ、競合他社を排除しようとした」と批判した。
 また、「太陽光パネルから鉱物加工に至るまで、西側の産業がまるごと消滅し、中国が支配する状況になった」と述べた。
 長年にわたる貿易・経済問題で進展が見られないことなどが重なり、7月後半に予定されている中国とEUの首脳会談を前に、緊張が高まっている。
 中国政府は、当初2日間の開催が予定されていた首脳会談の一部を中止した。
   
 
ひとこと
 そもそもウクライナ戦争の長期化で火器弾薬類が欠乏しているロシア軍に対し兵站線の維持のため中国から火器弾薬類やドローンよう部品などの提供が繰り返され、ロシアを生かさず殺さずの程度で供給していることで戦闘が継続可能となっているのが実態だろう。
 中国政府が目論むロシアのシベリアや樺太などの地域にある天然ガスや原油などの地下資源の権益をロシアが軍事的に支配力を無くした時点で奪い取る戦略が背景に見え隠れしている。


posted by まねきねこ at 08:00| 愛知 🌁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゴールドマンがここ2カ月で2度目の変更、S&P500目標値を再び引き上げ

   デービッド・コスティン氏
が率いるチームは、8日付の顧客向けリポートで、米連邦公開市場委員会(FOMC)がより早期に利下げするとの見方から、向こう12カ月のS&P500種株価指数見通しを6900と、従来の6500から引き上げ、年末時点の目標値も6100から6600に上方修正し、ここ2カ月で2度目となる米国株の見通し引き上げを行った。
 米国債利回り低下や、米主要企業の堅調な業績も株価押し上げの要因になると分析している。
 リポートで、「1−3月(第1四半期)の好調な決算が結果的にわれわれの自信を深めた」と記した。
 ゴールドマンがS&P500種の目標値を修正するのは、今年に入ってこれが4度目となる。
 トランプ米大統領の下で
   変化の激しい米経済政策
への対応に苦慮するウォール街のストラテジストたちの現状を映し出している。
 コスティン氏は以前、
   リセッションリスク
の高まりや関税を巡る不透明感を理由に、S&P500種は5700まで下落する恐れがあると警告していた。
 最新予測に基づくと、S&P500種は年末までにさらに5.9%上昇することになる。
 米国のトランプ政権が一方的に関税などの圧力を繰り返しかけ始めた
   貿易戦争
が企業の業績見通しに不確実性をもたらしているものの、企業は
   コスト削減
や消費者へのコスト転嫁の前倒しなど
   価格戦略の見直し
を通じて、関税の影響を徐々に吸収していくと、コスティン氏らはみている。
 同氏は「関税の影響が市場に吸収されるには時間がかかるが、関税引き上げ前に在庫を積み増していた大手企業には一定のバッファーがあるようだ」と続けた。
 
 
ひとこと
 トランプ関税によるコストの転嫁が拡大する流れであり、消費が落ち込まなければの話だろう。
 貿易戦争を利用した米国民への増税となる構図で消費が落ちればすがグフレーションに陥ることになり本末転倒のトランプ政治の暴走で共和党を牛耳るトランプ支持勢力の力が中間選挙で壊滅的な打撃を受ける可能性もある。
 そのために,FRBに圧力を掛けて金利引下げを早急に実施したいのだろうが、うまくいくのか疑問だ。
 日本経済が沈没していく米国経済に足元を救われ巻き込まれないようにするため、自動車等の輸出など外需だよりの経済政策から大転換を図り、内需手動の経済対策を強化すべきだろう。
 また、ウクライナ戦争でウクライナ軍がロシアの首都圏にある国営工場をドローン攻撃で破壊し、弾薬類の供給不全で兵站線が維持できなくなっているとの戦果情報も増えており、日本の国防の上からも戦略を見直し、米国から押し付けられている欠陥戦闘機F35を使った運用問題が生じるリスクを避け、自爆型ドローンの確保やレールガンの開発・性能向上による配備を通して自主防衛を強化すべきだろう。
 トランプの如き信頼性の乏しい政権の出現を考えれば、ウクライナへの圧力が有事における日本への対応では安保条約など単なる米軍の金儲けの手段であり、無意味となりかねないことを意識する必要がある。

   
posted by まねきねこ at 07:00| 愛知 🌁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする