当ブログ内の情報はあくまでも参考情報です。投資にあたっての判断は投資する人の自己責任でお願いします。
当ブログでは、一切の責任を負いませんでご了承下さい。

マーケット出来事貴金属とレアメタル宝石と宝飾品貴金属の取引方法貴金属取扱会社

2025年03月15日

2025年春闘の賃上げ率が2年連続で5%を超え、34年ぶりの高水準となったことに注目する日銀

 TJM FXの戦略責任者
   アルバロ・ビバンコ氏
は、2025年春闘の賃上げ率が2年連続で5%を超え、34年ぶりの高水準となったことについて、「日銀にとって無視できないデータだ」と述べた。
 
   
posted by まねきねこ at 10:28| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

単純に非常に売られ過ぎというだけ

 ジャニー・モンゴメリー・スコット
   ダン・ワントロブスキ氏
は株式市場で「売られ過ぎからの反発の動きが再び出ている」と指摘した。
 また、「だが、下げ止まりの初期の兆候を見てすぐに飛び込まないよう注意を促したい。ほぼ誰もが底値を探りながら、どこかで押し目買いを入れることを狙っているが、テクニカル面からみて現在の市場の状況に実質的な改善を示すものはない。単純に非常に売られ過ぎというだけだ」と述べた。

   
posted by まねきねこ at 10:26| 愛知 ☁| Comment(0) | マーケットの動き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ドイツが財政拡張めぐる憲法改正へ前進!!緑の党の合意を取り付けた。

 ドイツの次期首相候補の
   メルツ・キリスト教民主同盟 (CDU)党首
は14日、防衛・インフラ支出のための
   財政改革パッケージ
を巡り、緑の党と合意に達した。
 来週の議会での採決に向け、大きなハードルを乗り越えたことになる。
 
 憲法上の債務制限改正に必要な議会3分の2の賛成を確保するため、CDUを中心とする保守系会派とショルツ首相の社会民主党(SPD)は、緑の党の支持を取り付けようとこれまで腐心していた。
 緑の党は当初の財政パッケージを拒否し、
   気候変動対策
への積極的な取り組みを求めていた。
 メルツ氏は数週間後、ショルツ氏の後任となる見込みだ。
 
 メルツ氏は14日ベルリンで、同党議員らとの会談後、「ドイツは復活した」と記者団に語った。

 メルツ氏らは防衛費を
   債務制限の対象外
とし、5000億ユーロ(約80兆7600億円)の
   インフラ投資基金
を設立するという大々的な計画について、両院の支持を獲得しようとしている。
 この法案は18日、連邦議会(下院)で採決される予定だ。
 合意内容によるとインフラ基金は
   新規プロジェクト
に充当されるが、緑の党の要求を受け、うち1000億ユーロは
   既存の気候変動対策移行基金
に充てられる。
 また、防衛費の枠組みも拡大され、ウクライナへの支援とインテリジェンスが含まれることになった。
 30億ユーロのウクライナ支援パッケージも、来週には署名される可能性が高いとメルツ氏は述べた。
 合意を受けて、ドイツの債券価格は一時大幅安となり、10年債利回りは一時8ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)上昇し2.94%となった。
 その後は下げ幅を縮小した。
 ユーロは対ドルで上昇し、ドイツの主要株価指数であるDAX指数は1.9%高で引けた。
  
 合意が成立した今、両党は議員たちを取り込みに入った。
 メルツ氏とSPDは、25日に新連邦議会が招集される前に、法案を議会で可決させようと急いでいる。
 極右「ドイツのための選択肢(AfD)」と反資本主義政党「左派党」が勢力を拡大している中、新議会では
   憲法改正
に必要な支持を集めるハードルがさらに高くなるためだ。
 緑の党のハッセルマン共同代表は14日、議員会合後に記者団に対し「緑の党の議員団についてはまったく心配していない」と述べ、同党が合意を支持することに疑いはないと述べた。
  
 法案の採択に向けては、連邦議会に続き連邦参議院(上院)でも3分の2以上の賛成を得る必要がある。
 なお、緑の党の支持があれば、このシナリオは実現する可能性が高い。
 
 社会民主党のクリングバイル共同党首は、緑の党との合意は
   ドイツを「解放する」
と称賛したうえ、「敗者はいない」と述べ、「勝者は大勢いる。一番の勝者はドイツという国だ」と続けた。

 
ひとこと
 トランプ政治への危機感がドイツの政治家にはあるということだろう。
 烏合の衆でしかない日本の与野党政治家や宦官となりはてたともいえる官僚組織とは異なる動きだ。
 
  
posted by まねきねこ at 10:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

カーネル・サンダース(Colonel Sanders)ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創設者

カーネル・ ハーランド・デイビッド・サンダース(Colonel Harland David Sanders)
   1890年9月9日 - 1980年12月16日
 米国の実業家であり、ファーストフードのチキンレストランチェーン
   ケンタッキーフライドチキン(KFC としても知られる)
の創設者である。
 彼は後に同社のブランド大使およびシンボルとして活躍した。
 彼の名前とイメージは今でも同社のシンボルとなっている。
 サンダースは若い頃、蒸気機関のストーカー、保険のセールスマン、ガソリンスタンドのオペレーターなど、いくつかの仕事を経験した。
 大恐慌の時期に、ケンタッキー州ノースコービンの道路沿いのレストランでフライドチキンの販売を始めた。
 その頃、サンダースは
   「秘密のレシピ」
   圧力フライヤー
でチキンを調理する特許取得済みの方法を開発した。
 サンダースはレストランのフランチャイズ化のコンセプトの可能性を認識して1952年にユタ州サウスソルトレイクに最初の
   KFCフランチャイズ
をオープンした。
 最初のレストランが閉店した後、彼はフライドチキンを全米にフランチャイズ化することに専念して取り組んだ。
 ただ、サンダースにとって、全米および海外での会社の急速な拡大は手に負えないものとなった。
 1964年、当時73歳だった彼は、
   ジョン・Y・ブラウン・ジュニア
   ジャック・C・マッセイ
が率いる投資家グループに会社を200万ドル(現在の価値で1960万ドル)で売却した。
 ただ、彼はカナダでの事業の支配権は保持して、ケンタッキーフライドチキンの有給ブランド大使となった。
 晩年、彼はKFCレストランで提供される料理と、コスト削減策によって品質が低下したと激しく批判した。
 また、料理を「壁紙のような味」の「ひどい汚物」と呼んだ。

 ハーランド・デイビッド・サンダースは、1890年9月9日、インディアナ州ヘンリービルの東3マイル(5km)にある4部屋がある家で生まれた。
 彼はウィルバー・デイビッドとマーガレット・アン(旧姓ダンレヴィ)サンダースの3人兄弟の長男だった。
 彼の母親はアイルランド系とオランダ系だった。
 家族はアドベント・クリスチャン教会に通っていた。
 彼の父親は温厚で愛情深い人で、転倒し​​て足を骨折するまで80エーカー(32ヘクタール)の農場を経営していた。
 その後、ヘンリービルで2年間肉屋として働いた。
 サンダースの母親は敬虔なキリスト教徒で厳格な親で、子供たちに「アルコール、タバコ、ギャンブル、
   日曜日の口笛の害」
について常に警告していた。

 サンダースの父親は1895年に亡くなった。
 母親はトマト缶詰工場で働き始め、幼いハーランドは兄弟の世話と料理を任された。
 1897年、7歳になるまでに、彼はパンと野菜の調理に熟練し、肉料理も上達したと伝えられている。
 母親が何日も仕事で留守にしている間、子供たちは食料を探し回った。
 1899年、母親は
   エドワード・パーク
と結婚したが、1900年の国勢調査によると、母親はまたもや未亡人となった。
 1900年、10歳になったサンダースは
   農場労働者
として働き始めた。
 1902年、サンダースの母親は
   ウィリアム・ブロードダス
と結婚し、家族はインディアナ州グリーンウッドに引っ越した。
 サンダースは継父との関係が不安定だった。
 1903年、12歳のとき、彼は7年生を中退し(後に「代数学が彼を遠ざけた」と述べている)、近くの農場で暮らし、働き始めた。
 13歳のとき、彼は家を出てインディアナポリスで
   馬車の塗装の仕事
に就いた。
 14歳のとき、彼は農場労働者として働くためにインディアナ州南部に引っ越した。
 
 1906年、母親の許可を得てサンダースはこの地域を離れ、インディアナ州ニューアルバニーに住む叔父のもとへ移った。
 叔父は路面電車会社
   サザン鉄道
に勤めており、サンダースに
   車掌の仕事
を与えた。
 サンダースは生年月日を偽り、1906年10月(16歳)に米国陸軍に入隊し、キューバで
   荷馬車の御者
としての任務を全うし、キューバ平定勲章(陸軍)を受章した。
 1907年2月に名誉除隊となり、叔父が住むアラバマ州シェフィールドに戻った。
 そこで、同じく義父から逃れるために移住してきた兄の
   クラレンス
と再会出した。
 叔父はサザン鉄道に勤務しており、サンダースに工房の
   鍛冶屋助手
としての仕事を紹介した。
 2ヵ月後、サンダースはアラバマ州ジャスパーに移住し、運行を終えた
   ノーザンアラバマ鉄道(サザン鉄道の一部門)
の機関車の
   灰受けを掃除する仕事
に就いた。
 サンダースは16歳から給料の良い火夫(蒸気機関車のストーカー)になった。

 彼は3年近くその仕事に従事するなか、組合活動にも関わり、労働者を解雇から守ったが、結局は病気になり、
   不服従を理由
に会社から解雇され、自分の仕事も失うことになった。
 サンダースは1909年から
   ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道
で労働職に就いた。
 鉄道勤務中にアラバマ州ジャスパーの
   ジョセフィン・キング
と出会い、1909年6月15日にジャスパーで結婚した。
 彼らには3人の子供
   マーガレット・ジョセフィン・サンダース(1910年3月29日ー2001年10月19日)
   ハーランド・デイビッド・サンダース・ジュニア(1912年4月23日ー1932年9月15日)
     扁桃腺の感染症で死去
   ミルドレッド・マリー・サンダース・ラグルズ(1919年10月15日ー2010年9月21日
が生まれた。
 その後、彼は
   イリノイ中央鉄道
で機関士として働き、家族とテネシー州ジャクソンに引っ越した。
 サンダースは同僚と口論した後、イリノイで職を失った。
 サンダースが
   ロックアイランド鉄道
で働くために引っ越した間、ジョセフィーンと子供たちは彼女の両親と一緒に暮らした。
 しばらくして、サンダースはリトルロックで弁護士として働き始めた。
 3年間その仕事を続け、家族が彼と一緒に引っ越すのに十分な報酬を稼いだ。
 ただ、サンダースは法廷での依頼人との乱闘で評判が落ち、彼の弁護士としてのキャリアは終わった。
 この時期はサンダースにとって最低の時期だった。
 伝記作家のジョン・エド・ピアースが書いたように、「サンダースは主に頑固さ、自制心の欠如、せっかちさ、独善的な外交力の欠如により、何度も失敗を経験していた。」という。
 事件後、サンダースはヘンリービルの母親のもとに戻ることを余儀なくされ、
   ペンシルバニア鉄道
の労働者として働き始めた。
 1916年、家族はジェファーソンビルに移り、サンダースは
   プルデンシャル生命保険会社
で生命保険の販売員として働き始めた。
 サンダースは結局、不服従を理由に解雇された。
 彼はルイビルに移り、ニュージャージー州の
   ミューチュアル・ベネフィット生命保険
で販売員として働き始めた。 
 1920年、30歳のとき、サンダースはオハイオ川でジェファーソンビルとルイビルの間を運航する
   フェリー会社
を設立した。
 彼は資金集めをし、自ら少数株主となり、会社の秘書に任命された。
 フェリーはたちまち成功した。
 1922年頃、彼はインディアナ州コロンバスの商工会議所の秘書に就任した。
 彼は仕事があまり上手くなかったと認め、1年も経たないうちに辞職した。
 サンダースはフェリー会社の株式を2万2千ドル(現在の価値で39万3千ドル)で換金し、そのお金で
   アセチレンランプを製造する会社
を設立した。
 この事業は、
   デルコ
が電球を掛け売りで発売したために失敗した。
 サンダースはケンタッキー州ウィンチェスターに移り、
   ミシュランタイヤ会社
のセールスマンとして働いた。
 1924年にミシュランがニュージャージーの製造工場を閉鎖したため、彼は職を失った。
 1924年に、彼は偶然、ケンタッキー州
   スタンダード石油
のゼネラルマネージャーと出会い、ニコラスビルでガソリンスタンドを経営するよう依頼された。
 ただ、1930年、そのスタンドは大恐慌の影響で閉鎖された。
 
 1930年、シェル石油会社は、売り上げの一定割合を会社に支払うことと引き換えに、サンダースにケンタッキー州ノースコービンのガソリンスタンドを無料で提供した。
 また、ガソリンスタンドに併設してサンダースはチキン料理やカントリーハム、ステーキなどの食事の提供を開始した。
 当初はレストランを開店する前は、隣接する住居の客にサービスを提供していた。
 この時期に、サンダースは地元の競争相手である
   マット・スチュワート
との銃撃戦に巻き込まれた。
 スチュワートはサンダースのガソリンスタンドへの交通誘導の標識を塗りつぶすなど妨害行為をしていた。
 スチュワートはサンダースと一緒にいたシェルの従業員を殺害し、殺人罪で有罪となり身柄を拘束され、サンダースの競争相手は排除された。
 サンダースは1935年にケンタッキー州知事ルビー・ラフォンによってケンタッキー州大佐に任命された。
 地元での彼の人気は高まり、1939年には料理評論家のダンカン・ハインズがサンダースのレストランを訪れ、全米のレストランガイドである 
   Adventures in Good Eating
にそのレストランを掲載した。
 このエントリーには
 41 − 25 号線との交差点、25 号線東。コービンの北 1/2 マイル。クリスマス以外は年中無休。
 カンバーランド フォールズやグレート スモーキー山脈へ向かう途中に立ち寄るのに最高の場所です。
 24 時間営業。ジュージューと焼けるステーキ、フライド チキン、カントリー ハム、ホット ビスケット。
 ランチ 50 セントから 1 ドル、ディナー 60 セントから 1 ドル
と書いてあった。
 1939年7月、サンダースはノースカロライナ州アッシュビルのモーテルを買収した。
 ノースコービンのレストラン兼モーテルは1939年11月に火事で焼失し、サンダースは140席のレストランを備えたモーテルとして再建した。
 1940年7月(50歳)までに、サンダースは圧力フライヤーで鶏肉を揚げる「秘密のレシピ」を完成させた。
 このレシピではフライパンで揚げるよりも早く鶏肉を調理できた。
 1941年12月に米国が第二次世界大戦に参戦すると、ガソリンは配給制となり、観光客が減った。
 このため、サンダースはアッシュビルのモーテルを閉鎖せざるを得なくなった。
 彼は1942年後半までシアトルで監督として働いた。
 その後、テネシー州の兵器工場で政府の食堂を運営し、続いてテネシー州オークリッジで食堂の副支配人として働いた。
 彼は愛人の
   クラウディア・レディントン・プライス
をノース・コービンのレストランとモーテルの支配人に任命した。
 1942年に彼はアッシュビルの事業を売却した。
 1947年に彼とジョセフィーンは離婚し、サンダースは長年の望み通り1949年にクラウディアと結婚した。
 サンダースは1950年に友人のローレンス・ウェザービー知事によってケンタッキー州大佐に「再任」された。

 1952年、サンダースは秘伝のレシピである「ケンタッキーフライドチキン」を、ユタ州サウスソルトレイクの同市最大級のレストランを経営するピート・ハーマンに初めてフランチャイズ化した。
 商品を販売した最初の年、レストランの売上は3倍以上に伸び、そのうち75%はフライドチキンの売上によるものだった。
 ハーマンにとって、フライドチキンを加えることは、自分のレストランを競合他社と差別化する手段だった。
 ユタ州では、ケンタッキー産の商品はユニークで、南部のおもてなしのイメージを呼び起こした。
 ハーマンに雇われた看板画家のドン・アンダーソンが、ケンタッキーフライドチキンという名前を作った。
 ハーマンの成功の後、他の数軒のレストランオーナーがこのコンセプトをフランチャイズ化し、サンダースに1羽あたり0.04ドル(2023年の0.46ドルに相当)を支払った。
 サンダースはノースコービンのレストランはいつまでも繁盛すると信じていたが、新しい州間高速道路75号線の開通により客足が減ったため、65歳で店を売却した。
 貯金と社会保障からの月額105ドル(2023年には1,194ドルに相当)しか残されていなかったサンダースは、本格的にチキンのコンセプトをフランチャイズ化することを決意し、アメリカ中を旅して適当なレストランを探した。
 ノースコービンの店を閉めた後、サンダースとクラウディアは1959年にシェルビービルに新しいレストランと会社の本社をオープンした。
 サンダースは車の後部座席で寝ることが多かったが、レストランを訪れては自分のチキンを調理することを申し出て、従業員が気に入ればフランチャイズ権の交渉を行った。
 このような訪問には多くの時間を要したが、最終的にフランチャイズ加盟希望者はサンダースを訪問するようになった。
 サンダースは会社を経営し、クラウディアはスパイスを調合してレストランに出荷した。
 フランチャイズ方式は大成功を収め、KFCは国際的に拡大した最初のファストフードチェーンの1つとなり、1960年代半ばまでにカナダに店舗をオープンし、後にイギリス、オーストラリア、メキシコ、ジャマイカにも店舗をオープンした。
 サンダースは1962年に鶏肉の圧力揚げ法を保護する特許を取得し、1963年に「指をなめるほどおいしい」というフレーズを商標登録した。
 会社の600を超える店舗への急速な拡大は、高齢のサンダースにとって手に負えないものとなった。
 1964年、当時73歳だった彼は、ケンタッキーフライドチキン社を、29歳の弁護士で後にケンタッキー州知事となる
   ジョン・Y・ブラウン・ジュニア
と、ベンチャーキャピタリストで起業家の
   ジャック・C・マッシー
が率いるケンタッキーの実業家のパートナーシップに200万ドル(現在の価値で1960万ドル)で売却した。
 サンダースは給与制のブランドアンバサダーになった。
 最初の契約には、サンダースが保持したカナダでの事業や、サンダースが既に他社に売却していた英国、フロリダ、ユタ、モンタナのフランチャイズ権は含まれていなかった。
 1965年、サンダースはカナダのフランチャイズを統括するためにトロント郊外のオンタリオ州ミシサガに移り、カナダと米国の両方でフランチャイズ料と出演料を徴収し続けた。
 サンダースは1965年から1980年に亡くなるまで、ミシサガのレイクビュー地区にあるメルトンドライブ1337番地にバンガローを購入して住んでいた。
 1970年9月、彼と妻はジョーダン川で洗礼を受けた。
 彼はまた、ビリー・グラハムやジェリー・ファルウェルとも親交を深めた。

 サンダースは会社を売却した後も会社のシンボルであり続け、会社のために年間20万マイル (32万キロ) を旅し、多くのテレビコマーシャルや出演をこなした。
 彼は幹部やフランチャイズ店に大きな影響力を持ち続け、彼らは彼の料理の専門知識を尊敬し、レストランや会社が幹部が「カーネルのチキン」と表現した料理と異なる料理を作ったときに、ザ・ニューヨーカー誌が「彼の罵り言葉の強さと多様性」と表現したことを恐れていた。
 会社が行った変更の1つはグレービーソースで、サンダースは「チキンを捨ててグレービーソースだけ食べたくなる」ほどおいしいと自慢していたが、会社は時間とコストを削減するためにそれを簡素化した。
 1979年になってもサンダースはKFCのレストランに突然訪問し、料理にがっかりすると、フランチャイズ店に「ひどい汚物」と非難したり、床に押し付けたりした。
 1973年、サンダースは、自身が開発に携わっていない商品の宣伝に自身のイメージを不当に使用したとして、ケンタッキーフライドチキンの当時の親会社である
   ヒューブライン社
を訴えた。
 1975年、ヒューブライン社は、サンダースが同社のグレービーソースを「壁紙のような味」の「ヘドロ」だと公に表現した後、名誉毀損でサンダースを訴えたが、敗訴した。

 サンダースと彼の妻はシェルビービルのレストランを
   「クラウディア・サンダース、ザ・カーネルズ・レディ」
として再オープンした。
 店ではフルサービスのディナーメニューの一部としてKFC風チキンを提供し、レストランをチェーン展開することについて話し合った。
 彼は会社から訴えられた。
 ヒューブラインとの和解に達した後、彼はカーネルズ・レディ・レストランを売却し、現在はクラウディア・サンダース・ディナーハウスとして営業を続けている。
 ここでは彼の「オリジナルレシピ」のフライドチキンをファストフードではないディナーメニューの一部として提供しており、フライドチキンの公式レシピを提供する唯一のKFC以外のレストランである。
 サンダースはケンタッキーフライドチキンの食品に対して批判的であり続けた。
 1975年10月8日にルイビル・クーリエ・ジャーナル紙に掲載された記事の中で、彼はジャーナリストの
   ダン・カウフマン
に「なんてこった、あのグレービーソースは最悪だ。水道水を1000ガロンあたり15〜20セントで買って、小麦粉と澱粉と混ぜて、純粋な壁紙のりを作るんだ。
 壁紙のりなんて、母が作るのを見たことがあるから、神に誓って知っている。… 栄養なんてないし、売ってはいけない。… クリスピーなフライドチキンのレシピなんて、揚げたての生地を鶏肉にくっつけただけのもの。」と語っている。
 
 1950年にローレンス・ウェザービー知事から
   ケンタッキー州大佐
に再任された後、サンダースはあごひげを生やし、黒いフロックコート(後に白いスーツに変更)を着てネクタイを締め、自らを「大佐」と呼ぶなど、その役にふさわしい服装をするようになった。
 伝記作家ジョシュ・オゼルスキーによると、彼の仲間は「最初は冗談で、その後真剣に」この称号変更に同調した。
彼は人生の最後の20年間、公の場ではこれ以外の服を着ることはなく、冬には厚手のウールのスーツ、夏には薄手の綿のスーツを着ていた。
 彼は白髪に合わせて口ひげとあごひげを脱色した。
 ジョン・Y・ブラウン・ジュニアはサンダースを「食に対するグルメなセンスを持ち、先見の明があり、偉大なモチベーターであり、ショーマンのようなスタイルとヴィンス・ロンバルディのような規律を持った素晴らしい人物」と回想している。

 サンダースは1980年6月に急性白血病と診断された。
 彼は6ヵ月後の12月16日にルイビルのジューイッシュ病院で肺炎のため90歳で亡くなった。
 サンダースは死の1ヵ月前まで活動を続け、白いスーツを着て群衆の前に現れた。
 彼の遺体は南部バプテスト神学校礼拝堂での葬儀の後、フランクフォートのケンタッキー州議会議事堂の円形ホールに安置され、500人以上が参列した。
 彼の遺体はルイビルのKFC本社で行われた追悼式でも開いた棺に入れられて公開された。
 約1,000〜1,200人が式に参列した。
 サンダースは特徴的な白いスーツと黒いウエスタンタイを着用した状態でルイビルのケイブヒル墓地に埋葬された。
 彼の妻クラウディアは1996年12月31日に94歳で亡くなった。
 サンダースが亡くなった時点で、KFCの店舗数は世界48カ国に6,000店に達し、年間売上高は20億ドルに達していたと推定される。

   
posted by まねきねこ at 10:00| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米国金融市況で株式は反発、リスクオンで国債には売り優勢、ドル相場は148円台半ば

 米国株式相場は14日、株式投資家には一定の安心感をもたらし反発した。
 ただ、関税を巡るトランプ大統領の場当たり的な発言は世界の市場を揺らし、消費者心理にも影響していることが示されている。
 S&P500種株価指数は2.1%値上がり。上昇率は昨年の米大統領選後に大幅高を記録して以来の大きさとなった。
 ただ週間ベースでは4週連続で下落。これは昨年8月以来の長期連続安となる。
 朝方発表された
   3月の米ミシガン大学消費者マインド指数
は2022年11月以来の水準に沈んだものの、相場が崩れることはなかった。
 また、同データでは1年先のインフレ期待が22年以来の高水準、5−10年先のインフレ期待は32年ぶり高水準となった。
 この1週間は、めまぐるしく変化する
   トランプ大統領の関税に関する発言
に振り回される展開となった。
 さらに、リセッション(景気後退)への懸念、地政学情勢、米政府機関の閉鎖リスクといった多くの材料に市場は対応を迫られた。
 こうした中、究極の安全資産とされる
   金相場
は一時、1オンス=3000ドルを突破した。
 この日はハイテク大手が上昇を主導し、エヌビディアは5.3%、テスラは3.9%それぞれ値上がりした。
 ナスダック100指数は2.5%高、ダウ工業株30種平均は1.7%高でそれぞれ終えた。

 CFRAリサーチのデータによると、直近高値から10%余り下落したものの、その後に弱気相場入りを逃れたケースは過去に24回あり、最高値を更新するまでに平均で8カ月を要した。
 トランプ政権下で同様の流れになる仮定し、その通りの展開なら、2月19日につけた最高値の更新は10月中旬になる。
 これらのケースでは、高値からの下落率が平均で14%だったが、ただ、経済を取り巻く環境は環境は同じではない。
 
  
posted by まねきねこ at 09:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米株の反発が材料視されNY原油は上昇

 ニューヨーク原油先物相場は米株の反発が材料視され上昇した。
 また、ロシアとウクライナの
   和平協議に進展
が見られなかったことから、ロシア産原油が近く市場に戻るとの見方が後退したことも背景にある。
 なお、NY原油は、週間ベースでは8週ぶりの上昇となった。

 ロシアのプーチン大統領は、同国クルスク州のウクライナ兵の
   武器放棄
を求めたが、ウクライナ側はこの要請を拒否した。
 こうした状況を受け、停戦がいつ実現するのかとの疑問が広がった。

 この日は一時1.4%高まで上げを拡大する場面があった。
 トランプ政権が13日にイランのバクネジャド石油相らへの制裁を発表した。
 このほか、エネルギー関連の決済制限を通じて対ロシア制裁を強化したことも相場上昇の背景にある。

 制裁を巡る動きは、トランプ発言が垂れ流される中、実際に発動されるまでは全て言葉に過ぎないことから、最近は
   「ニュースに対する市場の反応が鈍くなっている」
との声も聞かれている。

 ニューヨーク商業取引所(NYMEX)のWTI先物4月限は
   1バレル=67.18ドル
と前日比+63セント(0.9%)高で終了した。
 ロンドンICEの北海ブレント5月限は1%上昇し70.58ドルで引けた。
  
   
posted by まねきねこ at 08:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NY外国為替市場では、ブルームバーグ・ドル・スポット指数が下落

 ニューヨーク外国為替市場では、ブルームバーグ・ドル・スポット指数が下落した。
 世界的に株価が値上がりしたほか、米政府機関の閉鎖が回避できる見込みとなり、リスク選好が回復した。
 週間ベースでもドル指数は2週連続安となった。
 円は対ドルで下落し、一時は148円90銭近くまで売られた。
 世界的な株高で
   リスクオンの流れ
となり、円やスイス・フランなどの安全通貨が売られた。
 欧州のトレーダーは「実需筋と自動売買がドル・円のショートポジションを削減し、148円50銭を上回る水準まで円安方向に振れた」と指摘している。

   
posted by まねきねこ at 07:22| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月14日

ワシントンポスト(Washington Post)米国の日刊紙

ワシントン・ポスト(Washington Post The Post  WaPo  WP)
 米国の首都ワシントンD.C.で発行されている米国の日刊紙である。ワシントン首都圏で最も広く発行されている新聞である。
 全国的な読者層を持っている。
 2023年時点で、ワシントン・ポストの 印刷版購読者数は13万人、デジタル版購読者数は250万人。
 いずれもニューヨーク・タイムズとウォール・ストリート・ジャーナルに次いで米国の新聞の中で3番目に多い規模であった。

 ワシントン・ポストは1877年に創刊された。
 創刊当初は数人のオーナーが代わって、財政的にも編集的にも苦戦した。
 1933年、投資家の
   ユージン・マイヤー
が破産した同紙を買い取り、健全な経営と評判を取り戻した。
 この仕事は、マイヤーの娘と義理の息子である後継者の
   フィル・グラハム
によって引き継がれ、彼らはいくつかのライバル紙を買収した。
 ワシントン・ポストが1971年に
   ペンタゴン・ペーパーズ
を出版したことは、ベトナム戦争反対の機運を盛り上げることにつながった。
 記者のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインは、民主党全国委員会への侵入事件の調査を主導した。
 ウォーターゲート事件と1974年の
   リチャード・ニクソン大統領
の辞任に発展した。
 2013年10月、グラハム家は
が所有する持ち株会社
   ナッシュ・ホールディングス
に同紙を2億5000万ドルで売却した。
 2024年現在、同紙はピューリッツァー賞を76回受賞している。
 これはニューヨーク・タイムズに次いで2番目に多い受賞回数である。
 同紙は米国で記録的な新聞とみなされている同紙の記者は
   18のニーマン・フェローシップ
   368のホワイトハウス報道写真家協会賞
を受賞している。
 同紙は政治報道でよく知られており、海外支局を運営する数少ない米国の新聞の一つである。
 ロンドンとソウルに国際速報拠点を置いている。

 ワシントン・ポストは、ニューヨーク・タイムズ、ロサンゼルス・タイムズ、ウォール・ストリート・ジャーナルと並んで、アメリカを代表する日刊紙の一つとみなされている。
 ワシントン・ポストは、ホワイトハウス、議会、その他のアメリカ政府の活動に関する政治報道で際立っており、米国では記録に残る新聞とみなされている。
 ワシントンポストは東海岸以外への配布を目的とした版を印刷していない。
 2009年、同紙は発行部数の減少により全国週刊版の発行を中止した。
 2023年3月現在、ポスト紙の平日平均発行部数は139,232部で、発行部数では国内第3位の新聞となっている。
  
 この新聞は1877年に
   スティルソン・ハッチンス(1838-1912)
によって創刊され、1880年に日曜版が追加され、市内で初めて週7日発行の新聞となった。
 1878年4月、創刊から約4か月後、『ワシントン・ポスト』は、 1877年後半に
   ジョン・リンチ
が創刊した競合新聞『ワシントン・ユニオン』を買収した。
 ユニオンは買収当時、創刊からわずか6か月しか経っていなかった。
 合併した新聞は、1878年4月15日からグローブ・ビルで『ワシントン・ポスト・アンド・ユニオン』として発行され、発行部数は13,000部だった。
 ポスト・アンド・ユニオンという名前は、1878年4月29日まで約2週間使用され、翌日には元の社名に戻った。

 1889年、ハッチンズは元郵政長官の
   フランク・ハットン
とオハイオ州の元民主党下院議員
   ベリア・ウィルキンス
に新聞社を売却した。
 新オーナーは新聞社の宣伝のため、アメリカ海兵隊バンドのリーダー
   ジョン・フィリップ・スーザ
に新聞社のエッセイコンテスト授賞式用の行進曲の作曲を依頼した。
 スーザは『ワシントン・ポスト』を作曲した。
 この曲は19世紀後半に流行したツーステップの伴奏音楽として定番となり、スーザの最もよく知られた作品の一つとなっている。
 1893年、新聞社は14番街とEストリートNWの建物に移転し、1950年までそこにあった。
 この建物には新聞社のすべての機能(編集室、広告、植字、印刷)が1つの本部に統合され、24時間稼働していた。

 1898年、米西戦争中にポスト紙は
   クリフォード・K・ベリーマン
の古典的な挿絵『メイン州を忘れるな』を掲載した。
 これは戦争中、アメリカの水兵たちの鬨の声となった。1902年、ベリーマンはポスト紙に別の有名な漫画『ミシシッピで一線を引く』を掲載した。
 この漫画はセオドア・ルーズベルト大統領が小さな熊の子に同情する様子を描いたもので、ニューヨークの店主モリス・ミクトムにテディベアを創作するインスピレーションを与えた。
 ウィルキンスは1894年、ハットンの死去に伴い新聞社の株式を取得した。

 1903年にウィルキンスが死去した後、息子のジョンとロバートが2年間ポスト紙を経営した。
 1905年にシンシナティ・エンクワイアラーの所有者である
   ジョン・ロール・マクリーン
に売却した。
 ウィルソン大統領の任期中、ポスト紙はワシントンDC史上「最も有名な新聞の誤植」を犯したとリーズン誌は評している。
 ポスト紙はウィルソン大統領が将来の妻となるゴルト夫人を「もてなしていた」と報じるつもりだったが、ゴルト夫人と「関係を持っていた」と書いたのである。
 1916年にマクリーンが亡くなったとき、彼は息子のプレイボーイ
   エドワード・「ネッド」・マクリーン
が遺産の一部として新聞を管理できるとは思えず、新聞を信託に預けた。
 ネッドは法廷に出て信託を破棄したが、彼の経営下で新聞は破綻に向かっていった。
 彼は贅沢な生活のために新聞を赤字にし、それを政治目的の推進に利用した。
 1919年の赤い夏の間に、ポスト紙は
   白人暴徒を支援
し、白人軍人がワシントンの黒人住民を襲撃するために集合する予定の場所を宣伝する記事を一面に掲載した。
 1929年、第一次世界大戦以来戦時金融公社を運営していた金融家
   ユージン・マイヤー
が秘密裏にワシントン・ポストに500万ドルの買収提案をしたが、ネッド・マクリーンに拒否された。
 1933年6月1日、マイヤーは連邦準備制度理事会議長を退任した3週間後に破産競売で同紙を82万5000ドルで買収した。
 彼は匿名で入札し、他の入札者よりはるかに高い200万ドルまで入札する用意があった。
 これらの入札者の中には、ワシントンでの自身の新聞事業を強化するために経営難のワシントン・ポストを廃刊にしたいと長い間望んでいた
   ウィリアム・ランドルフ・ハースト
も含まれていた。
 ポスト紙の健全性と評判は、マイヤーの所有下で回復した。
 1946年、義理の息子の
   フィリップ・グラハム
が発行人の地位を引き継いだ。
 マイヤーは最終的に、1939年に合併してタイムズ・ヘラルド紙となる前に旧ワシントン・タイムズ紙とヘラルド紙を所有していたハースト紙に対して最後の笑いを取ることができた。
 タイムズ・ヘラルド紙も1954年にポスト紙に買収され、合併された。
 合併後の新聞は1973年まで正式に
   ワシントン・ポスト・アンド・タイムズ・ヘラルド紙
と名付けられていたが、時が経つにつれて紙名のタイムズ・ヘラルド部分は次第に目立たなくなっていった。
 この合併により、ワシントン・ポストには
   ワシントン・スター(イブニング・スター)
   ワシントン・デイリー・ニュース
という2つの地元紙が残った。
 1972年にこの2つの紙が合併し、
   ワシントン・スター・ニュース
が誕生した。

 1963年にグラハムが死去した後、ワシントン・ポスト社の経営権は妻の
   キャサリン・グラハム(1917年 - 2001年)
に引き継がれた。グラハムは
   ユージン・マイヤー
の娘でもあった。
 米国では著名な全国紙を経営する女性はほとんどいなかった。
 キャサリン・グラハムは自伝の中で、指導的立場に就いたときの不安と自信のなさについて述べている。[要出典]彼女は1969年から1979年まで発行人を務めた。

 グラハムはペンタゴン文書論争の最中の1971年6月15日にワシントンポスト社を株式公開した。
 合計129万4000株が1株26ドルで公開された。
 グラハムのCEOとしての任期が終わる1991年までに、中間の4対1の株式分割の影響を除いて、株価は1株あたり888ドルになった。
 グラハムはまた、1984年にポスト社による営利教育・研修会社カプラン社の4000万ドルでの買収を監督した。
 20年後、カプランはポスト紙を抜いて同社の最大の収入源となり、2010年までにカプランは同社の収入全体の60%以上を占めるようになった。 

 編集長ベン・ブラッドリーは、新聞の評判とリソースを、ボブ・ウッドワード記者とカール・バーンスタイン記者に注ぎ込んだ。
 彼らは、長い一連の記事で、1972年にワシントンのウォーターゲートビルにある民主党全国委員会の事務所が強盗された事件の背後にある真実を少しずつ明らかにしていった。
 ワシントン・ポスト紙の粘り強い報道は、最終的に
   リチャード・ニクソン大統領
の辞任に大きく貢献し、 1973年に同紙はピューリッツァー賞を受賞した。 

 1972年、「ブックワールド」セクションが開設され、ピューリッツァー賞受賞批評家の
   ウィリアム・マクファーソン
が初代編集者となった。
 このセクションには、ジョナサン・ヤードリーやマイケル・ダーダなどのピューリッツァー賞受賞批評家が参加し、後者はワシントン・ポスト紙で批評家としてのキャリアを確立した。
 2009年、37年を経て、読者の激しい抗議と抗議により、ワシントン・ポスト紙のブックワールド単独の挿入は廃止され、最終号は2009年2月15日日曜日となった。
 同時に、日曜版の社説を「アウトルック」セクションではなくメインフロントセクションの裏ページに置き、他の地域向けの「オピニオン」レターや論評を他のセクションに配布するなど、紙面の全体的な再編が行われた。
 しかし、日曜版のアウトルックセクション、その他の曜日はスタイルセクションに書評が掲載され、オンラインでも公開されている。

 1975年、新聞社組合がストライキを起こした。ワシントンポスト紙は新聞社組合の代わりとなる労働者を雇い、他の組合も1976年2月に仕事に戻った。
 キャサリンの息子である
   ドナルド・E・グラハム
は1979年に出版者として彼女の後を継いだ。
 1995年、ドメイン名 washingtonpost.com が購入された。
 同年、Digital Ink と呼ばれるオンラインニュースリポジトリを作成するという失敗に終わった試みが開始された。
 翌年、それは閉鎖され、最初のウェブサイトは 1996 年 6 月に開始された。
ジェフ・ベゾス時代(2013年以降)

 2013年8月、ジェフ・ベゾスはワシントン・ポストとその他の地方紙、ウェブサイト、不動産を2億5000万ドルで購入し、所有権をベゾスの個人投資会社である
   ナッシュ・ホールディングスLLC
に譲渡した。
 カプランやテレビ局グループなどの他の資産を保持していた同紙の元親会社は、売却後まもなくグラハム・ホールディングスに改名された。
 ポストを含むナッシュ・ホールディングスは、ベゾスが創業し、2022年現在、取締役会長および筆頭株主であり、議決権の12.7%を保有するテクノロジー企業
   アマゾン
とは別個に運営されている。

 ジベゾス氏は、「ワシントン・ポストを、単なる個々の記事の集まりではなく、まとめて読むという『毎日の儀式』」を再現するというビジョンを持っていると語った。
 彼は「干渉しないオーナー」と評され、2週間ごとに編集長のマーティン・バロンと電話会議を行っている。
 ベゾス氏はフレッド・ライアン氏(ポリティコの創設者兼CEO )を発行人兼最高経営責任者に任命した。
 これは、ワシントン・ポストを、国内および世界中の読者を対象に、よりデジタル中心にシフトするというベゾスの意図を示している。 

 2019年、コビントン・カトリック高校の生徒
   ニック・サンドマン
は、 2019年1月にリンカーン記念館で起きたコビントンの学生と先住民の行進との対立に関する7つの記事で名誉を毀損されたとして、ワシントン・ポスト紙を相手取って名誉毀損訴訟を起こした。
 連邦判事は、サンドマンが名誉毀損だと主張したワシントン・ポスト紙の33の発言のうち30は名誉毀損ではないとの判決を下し、訴訟を却下したが、3つの発言についてはサンドマンが修正訴状を提出することを認めた。
 サンドマンの弁護士が訴状を修正した後、訴訟は2019年10月28日に再開された。
 2020年、ワシントン・ポスト紙はサンドマン氏が起こした訴訟を非公開の金額で和解した。
 
 ワシントンポストの 論説やコラムの多くは批判を招いており、その中にはコラムニストの
   リチャード・コーエン
による長年にわたる人種に関する数々のコメントや、ジョージ・ウィルによる2014年の大学での性的暴行に関する物議を醸したコラムなどがある。
 イエメンのフーシ派指導者
   モハメド・アリ・アル・フーシ
の論説を掲載するというワシントン・ポストの決定は、それが「イランに支援された反欧米・反ユダヤ主義のグループ」にプラットフォームを提供するものだとして、一部の活動家から批判された。
 2020年の「大統領選出においてエリート層にもっと大きな発言権を与えるべき時が来た」と題された論説の見出しは、反発を受けて編集者注なしに変更された。
 2022年、女優のジョニー・デップは、元妻のアンバー・ハードがワシントン・ポスト紙に寄稿した論説で、夫を家庭内暴力で公に告発した2年後に、自身を家庭内暴力を代表する公人であると評したことを理由に、アンバー・ハードを訴えて勝訴した。
 ドナルド・トランプ氏は2020年2月6日、ホワイトハウスのイーストルームで演説中にワシントンポスト紙を掲げている。
 ホワイトハウスのロン・ジーグラー報道官はリチャード・ニクソンに代わって、ウォーターゲート事件に焦点を当てたワシントン・ポスト紙を「みすぼらしいジャーナリズム」と非難したが、ニクソンに対する非難報道が正しかったことが証明されると謝罪した。

 第45代/第47代大統領ドナルド・トランプは、自身のツイッターアカウントでワシントン・ポスト紙を繰り返し非難した。
 2018年8月までに「大統領選挙運動以来、20回以上、同紙をアマゾンと結び付けて批判するツイートやリツイートを行った」。
 トランプは同紙自体を頻繁に攻撃するだけでなく、ツイッターを使ってワシントン・ポスト紙のさまざまなジャーナリストやコラムニストを激しく非難した。
 2020年の民主党大統領予備選挙中、
   バーニー・サンダース上院議員
はワシントン・ポスト紙を繰り返し批判し、同紙の自身の選挙活動に関する報道は自分に不利に偏っており、その理由はジェフ・ベゾスによる同紙買収にあると述べた。
 サンダースの批判は社会主義雑誌ジャコビン]や進歩的なジャーナリスト監視団体「報道の公正さと正確性」でも繰り返された。
 ワシントン・ポスト紙編集長
   マーティン・バロンは
サンダースの批判は「根拠がなく陰謀的だ」と反論した。
  
 インターセプト、ネイション、デスモッグによる調査で、ワシントンポストは化石燃料産業の広告を掲載する主要メディアの一つであることが判明した。 
 ワシントンポストで気候変動を報道するジャーナリストは、気候変動を引き起こし、行動を妨害した企業や業界との利益相反により、気候変動に関する報道の信頼性が低下し、読者が気候危機を軽視することになるのではないかと懸念している。
 
    
posted by まねきねこ at 20:00| 愛知 ☀| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ロシアとの「紛争の凍結」にウクライナ大統領府長官は同意せずと公表

 ウクライナのイェルマーク大統領府長官は13日、ウクライナは米国が提示した
   30日間の停戦案
を受け入れたものの、ロシアとの
   「紛争の凍結」には同意しない
と述べた。
 イェルマーク長官は11日にサウジアラビアで行われた米国との高官会合に参加した。
 同会合で、ウクライナは「凍結された紛争」には決して同意しないと明確に伝えたと明らかにし、米国もそうした状態に反対していると明らかにした。 
 その上で、ウクライナと米国は
   和平プロセス
に欧州が確実に参加することで合意したと続けた。
 また、「ウクライナは孤立していない。ウクライナはパートナーと共にある」と語った。
 2014年にロシアがクリミアを一方的に「併合」し、ウクライナ東部に代理勢力を送り込んだ後のいわゆる「凍結された紛争」状態をウクライナはこれまでも非難している。

     
posted by まねきねこ at 06:59| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

対ロシアでG7の連携重要 「安全の保証」求める声?ロシアが破るための保証など意味があるのか疑問だ

 カナダ東部シャルルボワで開かれている
   先進7カ国(G7)外相会合
は2日目の13日の本格的討議でロシアの侵攻を受けるウクライナが受け入れを表明した米国の
   一時停戦案について協議
し、ロシアから前向きな対応を引き出すには、
   G7の連携が重要
と指摘する声が上がった。
 会合では、ルビオ米国務長官が11日にサウジアラビアで行ったウクライナとの高官協議に関し説明した。
 各国は米国の和平に向けた取り組みを評価した。
 また、停戦後にウクライナが再侵攻を受けないよう「安全の保証」を確保することが重要だとする意見が出た。
 会合に臨んだ
   岩屋毅外相
は、和平の在り方は欧州だけでなくインド太平洋地域や国際秩序にも影響を与えると指摘した。
 また、「誤った教訓が導き出され得る状況が生まれることを許してはならない」と述べた。
 ロシアに有利な形での停戦となる事態を避ける必要があると訴えた。
 ロシアに融和的で、
   同盟国に対しても関税
を発動するトランプ米政権の発足後、G7の結束が揺らいでいる。
 議長国カナダのジョリー外相は会合の冒頭「われわれは多くの課題に直面しており、協力しなくてはならない」と語り、団結を促した。会合は14日に閉幕する。


ひとこと
 トランプ政権は中間選挙までに成果を出したいという焦りが強く、前のめりで突き進んでおり、わずかの小石につまずき大怪我をしか寝ない状況になっているが、全く気づいていない愚かさが出始めている。
 自己中心的な思考で和平案を出したが、ロシアが受け入れないといった発言がロシアの報道官から出ている。
 ロシアが約束しても、時間稼ぎのために結ぶ約束など意味がああるのかどうか疑問だ。
 第2次世界大戦時のヒトラーやスターリンの約束の反故を意識すべきだろう。
 状況が不利な場合の約束は、状況が改善すれば破るための時間稼ぎでしかないといった思考が根底にあるのがロシアの政治家だろう。

    

   
posted by まねきねこ at 06:26| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

議会の承認なき「トランプ関税」に対する「取り消しの可能性」を下院が封じ込める

   カナダとの貿易戦争
を激化させる中、米議会下院では共和党議員らが
   関税取り消しにつながりかねない決議案
が採決される可能性を封じ込めた。
 共和党が予算審議のためにまとめ、11日に可決された
   議事進行規制案
には、2月1日に発令された国境地帯に関連した
   国家非常事態の解除を巡る採決を阻止する条項
が盛り込まれていた。
 トランプ氏は自分で発令した
   非常事態の宣言
を根拠に、議会の承認を得ずにカナダとメキシコへの関税を発動させている。
 下院外交委員会メンバーの
   ミークス下院議員(民主党)
は、非常事態を解除する決議案を提起しており、今月中に採決を強行する計画だった。 
 トランプ大統領の関税政策が株式市場に動揺を起こしている。
 このため、多くの共和党議員にとってこうした採決は政治的に困難を伴うことになる。
 関税措置を否定する側につけば、大統領と対立することになる。
 一方で、賛成に回れば
   景気悪化の責任を負う
ため四面楚歌に陥る可能性があり、中間選挙において大きな逆風に遭いかねないという構図が作られていくとも考えられる。

  
posted by まねきねこ at 03:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ECBナーゲル氏がインフレ率は年末までに目標の2%に戻る

 欧州中央銀行(ECB)政策委員会メンバーの
   ナーゲル・ドイツ連邦銀行総裁
BBCとのインタビューで「われわれは今年中に物価安定を実現するだろう」と述べ、インフレ率は「年末には目標値に戻る。これは良いニュースだ」と続けた。
 
 ナーゲル氏はユーロ圏のインフレ率が2025年末までに中銀の目標である2%に戻るとの見通しを示した。
 ECBは先週、インフレ率が26年序盤に2%に戻るとの予測を発表したが、予測の基になるデータの締め切り後にエネルギー価格が下落した。
 欧州の軍事およびインフラ支出増加計画について尋ねられたナーゲル氏は、「今こそ欧州でより多くのことを行う好機だ。より少なくではなくより多くを手に入れるべきだ」と述べ、それは防衛支出にとどまらないはずだと付け加えた。

 また、ドイツはトランプ米大統領の貿易関税に対して特に脆弱だとして「輸出志向型のモデルの経済は、関税が高くなり多くの不確実性や未知の要素がある状況で、より大きな影響を受ける」と説明した。
 関税合戦は今年、不況を引き起こす可能性さえあると付け加えた。
  
   
posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☁| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米国株の調整が最悪期を脱した公算大、信用市場が示唆(JPモルガン)

 JPモルガン・チェースのストラテジスト
   ニコラオス・パニグリツグルー
   ミカ・インキネン
両氏を含むストラテジストが12日付のリポートで「米株市場の調整は最悪期を脱した可能性が高い」との見方を示した。
 クレジット市場は株式市場ほどリセッションリスクを織り込んでいないと指摘した。
 クレジット市場からのシグナルは過去2年の間に何度も正しさが証明されたが、現在は「株式市場や金利市場よりも米国の景気後退リスクを低く見積もっている」と続けた。
 JPモルガンの分析によると、国内経済への感応度が高い小型株は米国の景気後退の可能性を50%織り込んでいるが、クレジット市場は9−12%。金利市場と商品市場も株式市場と同様の確率を見ているという。
 こうしたJPモルガンの見方は米経済が縮小し株価が調整局面入りするのではないかという投資家の不安を和らげるものだ。
 ただ、ゴールドマン・サックス・グループシティグループのアナリストは今週、成長への懸念を理由に米国株の見通しを下方修正した。
 エド・ヤルデニ氏をはじめとする市場予測の専門家は2025年についての強気見通しを後退させている。
 トランプ米大統領の行きつ戻りつする貿易政策と政府職員の削減がセンチメントを悪化させ、S&P500種株価指数は2月に付けた過去最高値からほぼ9%下落した。
 また、ハイテク株は調整局面に入った。

 JPモルガンのストラテジストは、最近の株価下落はクオンツファンドのポジション調整によるものが大きく、ファンダメンタルズや米国の景気後退リスクを再評価している運用者の売りによる部分はそれほど大きくないと分析した。

 マルチ戦略のヘッジファンドの中には、一斉売りにより集中していた取引を急速に解消せざるを得なくなり難局に直面しているところもある。
 JPモルガンのストラテジストは米国株に投資する上場投資信託(ETF)への資金流入が続けば市場が支えられるとみている。
 投資信託や米国の確定給付年金基金、一部の政府系ファンド(SWF)による月末や四半期末のリバランスによる買いによって株式相場が押し上げられる可能性も指摘した。
  
   
posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月13日

アメリカとウクライナが合意の停戦案にロシア大統領補佐官が「何も得られない」と否定的な見解

 タス通信などによりますと、ロシアの大統領府のウシャコフ大統領補佐官は13日公開のインタビューで、
   アメリカとウクライナが合意した30日の停戦案
をめぐり「ロシアは何も得られない」「ウクライナ軍にとっての一時的な休息に過ぎない」と述べ、否定的な見解を示した。
 両国の停戦案は「偽りの和平への取り組みであり、誰も必要としていない」と批判した上で、「我々の正当な利益が考慮された、長期的な和平を目指す」と主張した。
 こうした見解はアメリカのウォルツ大統領補佐官との12日の電話会談で、すでに伝えたという。


ひとこと
 やはり、トランプ政治の浅はかな対応では何も合意できないということだろう。
 金儲けのみ選考している米国政府の思い描くロードマップは迷路ばかりということだろう。

  
posted by まねきねこ at 22:05| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

植田日銀総裁が実質賃金・消費は今後「もう少し良い姿が見込まれる」といつもの頼りなき、評論家の如き発言で大丈夫か?

 日本銀行の植田和男総裁は13日、参院財政金融委員会で
   物価変動
の影響を除いた
   実質賃金
や個人消費について、
   先行きは改善が見込まれる
との見解を示した。
 植田総裁は、引き続き賃金上昇は強い姿が続いているとし、「今後、実質賃金あるいは消費についてはもう少し良い姿が見込まれる」と続けた。
 人手不足の強まりに伴って賃金・物価は上がりにくいという慣行も変化しており、この継続が2%の物価目標の持続的・安定的な実現に重要だとの認識も示した。
 日銀の1月利上げ後も堅調な賃金・物価動向などを背景に、市場に早期の追加利上げ観測がくすぶる一方、米トランプ政権の関税措置などを受けて
   世界経済の不確実性
が増している。
 金融政策運営が難しいかじ取りを迫られる中、植田総裁は賃金と物価の好循環の継続に期待感を示したものの、単なる観察者や評論家の如き発言であり、金融を主導する組織の長としては力不足このうえないもので話にもならない。
 総裁は物価動向について「足元のインフレ率は高い」としつつ、輸入物価上昇の価格転嫁や食料品の値上がりに伴う部分は時間の経過とともに低下していくと説明したが、そもそも、スタグフレーションに突入する恐れや、日本国民の資産価値の劣化の責任すら感じていないようだ。
 日銀が重視する基調的な物価上昇率は「現在ちょっと2%を下回っている」ものの、景気が緩やかな回復を続ける下で、徐々に2%に向けて高まっていくと述べた。
 ただ、モノの質や量の減少を見れば2%ではなく、実質20%から30%のインフレとなっている現実を見るべきだろう。
 植田総裁の発言後、金融政策の正常化に前向きとの見方を背景に、債券市場では現物債に戻り売りが出ており、先物相場は下落に転じている。
 また、円相場は1ドル=147円台に上昇しているが単なるトランプ関税における市場の揺らぎでしかなく、主体に動かす事もできていない他力本願でしかない。
    
   
posted by まねきねこ at 22:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする