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2017年12月13日

モレロ NY市警の警官を賄賂漬け


 1902年12月、組織メンバーの
   ジュゼッペ・ディプリモ
ら3人が偽造紙幣の操作を行っていた
   連邦シークレットサービス(USSS)
に尾行され、紙幣偽造の現行犯で検挙された。

 ディプリモは懲役4年で収監された。
 1903年4月、バッファローから来たディプリモの親族
   ・マドニア
はディプリモの仕事の取り分を貰おうと正面切って要求してきたため、USSSからの追及の恐れが強まったためベネディットを仲間のパン屋に誘い込み、口封じのため刃物で切り刻んで殺害した。

 殺した死体は木の樽に詰め、空き地に遺棄した。
 検視では首は殆ど切断され、60個の刺し傷があったという。

 新聞はその残虐な殺しぶりを「バレル・マーダー(木の樽殺し)」と呼び、大々的に報じた。

 
 木の樽は組織メンバーの
   ピエトロ・インゼリッロ
が経営するパン屋にあった砂糖の樽と同じものであった。

 この樽は発送元のパン製造工場からインゼリッロが砂糖を注文して付け届けられたことが捜査で判明した。

 また、木の樽の中にあった煙草の吸殻と同じイタリアブランドの黒い煙草がモレロの酒場にもあった。

 同4月にバレルマーダー事件の関連でメンバー11人と共に逮捕された。
 ただ直接犯行を結びつける証拠はなく、状況証拠としても不足していたため起訴には不十分で釈放された。
 

 コルレオーネ出身者を中心に、広くシチリア各地の出身者を取り込んで急速に犯罪組織としてのネットワークを拡大させ1905年頃までに一大勢力を築くことに成功した。

 犯罪組織では強請、高利貸し、イタリア式富くじ、強盗、紙幣偽造など組織的な犯罪活動を展開した。

 こうした違法ビジネスで得た収入を商店やレストラン、不動産ビジネスに回して闇資金をマネーロンダリングした。


 ニューヨーク市警の警官に対しては捜査状況を把握するため賄賂漬けにし、逮捕の動きなどがあると内部情報を漏らしてもらい逮捕される前に身を隠した。

 タマニー・ホールの有力政治家
   ティモシー・サリバン
とも人脈を築いて裁判を有利に運んだ。

 1908年頃からはルポら複数メンバーに地元商店を利用した破産詐欺を行わせた。

 モレロの組織は、「社長(ボス)」、社長に任命された「コーポラルCorporal(幹部)」3-4人、大勢の一般構成員から成っていると後年捕まった
   アントニオ・コミト
が捜査官に証言した。

 また、「コーポラル」が「社長」の命令を実行する責任を持つことや、大勢の構成員が手足となって動くという体制で、社長はモレロだったことを明らかにした。

 構成員は、1910年時点で100人程度と見られ「ザ・107丁目ギャング」または「ブラックハンド」と呼ばれ、米国の組織犯罪先駆けであった。
  

  
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2017年12月08日

モレロ 偽造した5ドル札のマネーロンダリング


  
 ジュゼッペ・モレロ(Giuseppe Morello)は1899年、シチリア島の犯罪組織のボス
と結託して、シチリア島で印刷した
   偽造5ドル札
をブルックリン港経由で密輸し持ち込んだ。


 ブルックリンではこの偽札が出回り、1900年6月11日、偽札犯罪担当の
   連邦シークレットサービス(USSS)
に逮捕された。
 しかし、証拠が乏しく起訴され無いまま放免されている。

 
 1902年7月23日、組織のメンバーでブルックリンの雑貨商の
   ジュゼッペ・カターニア
が袋詰めにされ両耳の根元まで喉を掻き切られた遺体で見つかった。

 警察では、偽造の犯行がバレルのを未然に防ごうとして、紙幣偽造に絡んだモレロによる口封じと推測したが、具体的な犯行を明らかにする証拠が揃得られず起訴を見送った。

 
 1902年、イタリアで印刷した5ドル紙幣を、オリーヴオイルの空き缶に詰めてニューヨークに運んだ。
 この偽造紙幣を経営する会社の株の配当の支払に使った。

 株主には配当の即時処分を義務付けて当局の追跡を遮断した。
 この偽札は前回より紙質が良く、より精巧に仕上がっていたという。

 偽造5ドル札が再び移民居住区で出回り、当局はモレロの仕業と判断して捜査を始めた。

 1903年1月、紙幣偽造の告発で逮捕されたものの証言者がモレロの関与を否定し、無罪となった。
 1908年までに刷った偽造紙幣は数十万ドルに及んだという。
  

  
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2017年12月05日

モレロ NYでギャング団を組織


ジュゼッペ・モレロ(Giuseppe Morello)はシチリアで殺人を犯したため島外に逃亡、1892年には渡米してニューヨークに密入国した。

 翌年にはジョゼッペの後を追って渡米した家族と共に、安定した職を求めてルイジアナやテキサスを転々としたという。

 季節労働のサトウキビの刈り入れや綿摘みなど低賃金で重労働の農作業に家族総出で従事したようだ。


 1894年7月、シチリアでは逃亡したジョゼッペ本人が不在のまま
   紙幣偽
造の有罪で6年の懲役を宣告されている。


 1896年頃、南部ではマラリアが流行したためニューヨークに戻り、イースト・ハーレムに定住した。
 ここで工場や石炭屋を開店したもののお客が集まらず商売が軌道に乗らなかったため、左官工に鞍替えした。

 
 モレロ・ギャングを組織し、ロウアー・イースト・サイドの
などと仲間になり、ハーレムやロウアーマンハッタンで地元商店への強請りを始めた。

 犯行としては商店を襲っては金品を奪い、店を守る名目で同じ店から
   用心棒代
を巻き上げるという悪辣な手口だった。

 こした要求に店主が従わなければ
   店の破壊や放火
をはじめ、子供の誘拐を行い、時に店を破産させるなど荒いものであった。

 1902年、ロウアー・マンハッタンのプリンス・ストリートの酒場を確保して組織のアジトにした。
 同年緒持て家業として不動産会社を興し、ビル建設や資材の販売、建てた家のリースを始めた。

 会社の運転資金を得るために会社の株券を広くイタリア移民を対象として無理やり買わせたりした。
 また、靴屋や理髪屋、スパゲティ屋などの商売を広げていき、犯罪の隠れ蓑に使ったりした。

 同年ルポがモレロの異父妹(テラノヴァ3兄弟の実姉)と結婚した。
  

  
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2017年12月04日

デイビット・ショー コンピュータ科学者で超並列コンピュータの研究者

 
デイビット・ショー(David E. Shaw)

     1951年生まれ

 コンピュータ科学者で超並列コンピュータの研究者として知られる。
 モルガンスタンレーの研究員を経て、1988に
   DEショー
というヘッジファンドを立ち上げ、平均して高いパフォーマンスを上げ続けた。
 
 このファンドの手法は公開されていない。
 高度な定量分析を組み合わせて、複数の国の株や金融商品を取引しているもの。

 企業家としても活躍し、ジュノ・オンライン・サービス(無料メールプロバイダ、後のUnited Online)、DESoft(金融テクノロジ、後にメリルリンチに売却)などを立ち上げた。
 
 なお、amazonの創業者
   ジェフ・ベソス
は企業する前DEショーで働いていた経験がある。   

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2017年12月03日

ジュゼッペ・モレロ シチリア出身のニューヨークのマフィアの首領


   
ジュゼッペ・モレロ(Giuseppe Morello)

   1867年5月2日 - 1930年8月15日

 シチリア出身のニューヨークのマフィアの首領

 20世紀初頭の米国で組織犯罪の初期段階でもあるモレロ一家を創始した。
 なお、ジョゼッペは米国流にピーター・モレロと呼ばれ、親称ピッドゥ“Piddu”、あだ名はクラッチハンドという。
  
 
 シチリア島コルレオーネで生まれ。父親
   カロゲロ・モレロ
が1872年早死にし、母が
   ベルナルド・テラノヴァ
と再婚した。

 モレロの子がジュゼッペで、テラノヴァの3人息子(「ハーレムタイガー」と呼ばれたヴィンセント、チロ、ニコラス)は異父弟である。


 叔父ジュゼッペ・バッタリアは地元マフィアでボスを務めていた。
 また、継父ベルナルドもマフィアの一員だった。

 犯罪組織に組み込まれた家庭環境からベルナルドが斡旋したことでマフィアの仲間入りを果たし、地元の
   紙幣偽造活動
に関わっていた。


 1889年、有力な若手マフィアの
   パオリーノ・ストリーヴァ
と組んで、大規模な牛泥棒を成功させた。

 しかし、警察の捜査が始まると、モレロらの仕業と見て逮捕に迫ってきた警官の
   ジオヴァンニ・ヴェッラ
を銃殺した。
 ただ、この殺人シーンを偶然目撃した女性が警察に密告しようとしたためモレロは背後からピストルで射殺している。

 そのため、モレロはさらに警察に追われることとなった。
  

  
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2017年10月26日

ジョシュ・ガルッチ(Giosue Gallucci) 「リトルイタリーの市長」と呼ばれたナポリ系ギャングのボス


ジョシュ・ガルッチ
    (Giosue Gallucci)
        1865年12月10日-
              1915年5月21日


 ニューヨークのナポリ系ギャングのボスでハーレム一帯を支配し、移民ビジネスで富豪になった。
 別名「リトルイタリーの市長」と呼ばれた。

 
 ナポリ出身の移民として1892年3月11日渡米したうえイーストハーレムに定住した。

 当初ロウアー・マンハッタンでワゴンに果物をいれて行商していたが後にハーレムに拠点を移しパン屋、タバコ屋、コーヒーショップなど多彩な商売をした。

 ハーレム109丁目の自宅は3階建ての煉瓦造りの家で1階がパン屋だった。

 1898年4月、愛人の
   ジョセフィーヌ・インセルマ
を殺害したとして逮捕されたが、証拠が揃わずに釈放された。

 事件を担当したニューヨーク市警のジョセフ・ペトロジーノはガルッチの身元をナポリ警察に照会している。
 「危険な犯罪者で、強請ギャングのメンバー。素行の悪さから警察の常時監視対象。窃盗、非行で数回有罪、窃盗、治安妨害、恐喝、傷害で9回逮捕」という回答が返ってきたという。

 石炭や氷など移民の生活必需品の流通を支配し、高値を付けて移民から金を搾り取ったブラックハンドのひとりとして頭角を表した。

 手にした豊富な資金を元に賭博ギャングに運営資金を貸し、ハーレムのポリシーゲーム(ナンバーズ賭博の一種)の営業を支配下に置いた。

 ただ、ガルッチの許可なしにポリシーを運営できなかった。

 イタリアン・ロッテリー(イタリア式富くじ)の販売所を自宅地下に開設し、ほぼ毎月の抽選で賞金は1等のみの1000ドルを払った。
 ただ、支払いと同時に、部下のギャングが当選者から賞金を取り返し八百長をお得意としていた。

 イタリアンロッテリーはニューヨーク近郊の都市に支部を置いて拡大し、多額の金を吸い上げていった。

 また、ハーレムの馬泥棒ギャング団がやっていた馬の転売からも一定の分け前を受け取った。
 売春宿を経営し、「キング・オブ・ホワイトスレイバリー(売春王)」のあだ名もついていた。

 シチリア系、ナポリ系ギャングを違法ギャンブルの防衛や反逆者の制裁など汚れ役の仕事に雇っていた。

 モレロ一家はロモンテ兄弟と懇意にし、政治組織タマニーホールと結託しtえ選挙になると政敵への妨害工作を仕切った。
 また、組織票を集めて地元の政治家を自在に動かしたことで警官や役人を支配下に置き、営業許可や建設許可はフリーパスとなり裁判では判事の援護を得たりしていた。

 1910年、モレロ一家のイニャツィオ・ルポやジュゼッペ・モレロが監獄送りになると、ハーレムにおけるテリトリーを拡大さえた。
 ボスとして振る舞い、権勢は頂点に達した。
 
 1910年代前半、ナポリ系ギャングの
   アニエロ・"ゾッポ"・プリスコ
に金を要求されため抗争に発展した。

 1912年9月、ガルッチのボディーガードで賞金稼ぎの元ボクサー
   アントニオ・ザラカ
がプリスコの手下に暗殺された。

 同年12月、和解と称して騙しプリスコを自宅のパン屋に招き寄せ、甥の
   ジョン・ルッソマノ
が背後から銃撃し即しさせた。

 ただ、プリスコに脅迫されて正当防衛で発砲したと主張し、無罪となった。 

 1913年2月、プリスコの仲間
   アマディオ・ブオノモ
はルッソマノやボディーガードのカパロンゴを襲撃し暗殺した。

 同年4月、仕返しに配下のギャングを使ってブオノモを銃殺した。
 以後、何度も命を狙われたが、逃れた。

 1913年7月、多発する殺人事件に業を煮やした当局が40人のハーレムギャングを一斉に摘発した。

 主目的はガルッチの犯罪組織を炙り出すことだが逮捕されたもののガルッチ、ルッソマノらとも保釈金を払って釈放されている。

 一連の抗争でガルッチのボディーガードが通算7人以上殺された。

 ガルッチのボディーガードになるとすぐ標的にされるため、ガルッチはボディーガードを雇うのを止めた。

 かつてプリスコとガルッチの会談場所を提供した理髪屋の
   デルゴーディオ兄弟
はイタリアンロッテリーを始めようとしてガルッチに拒絶され、揉めていた。

 1914年10月ニコラ・デルゴーディオが殺害され、ガルッチの仕業とされた。
 ガルッチの事業の護衛・執行を請け負っていたモレロ一家がデルゴーディオ暗殺に協力したとされている。

 ブオノモもデルゴーディオ兄弟も、ブルックリンのネイビーストリートギャングと繋がりがあった。
 元々の抗争の発端となったアニエロ・プリスコも、ハーレム利権を狙ったカモッラのペリグリーノ・モラノが裏で糸を引いていた。

 1915年5月17日、息子ルカとコーヒーショップにいるところを突然乱入した4人のガンマンに銃撃され、ルカは翌日死亡した。
 病院に運び込まれたガルッチは警察の事情聴取に自分で問題を解決すると言って証言を拒否したが3日後に死亡した。

 ガルッチの多彩な利権を狙ったモレロ一家とブルックリンカモッラの共謀とされる。
 ただ、部分的にカモッラ仲間を殺された仕返しとされている。

 実行犯は、ジョー・"チャック"・ナザーロ、トニー・ロマノ、アンドレア・リッチらカモッラのメンバーとされる。
 その後、ガルッチの賭博業その他多くの非合法ビジネスはモレロ一家が乗っ取り、ブルックリンの縄張りはカモッラが乗っ取った。

 葬列パレードは1万人の見物人に見守られ、ハーレム109丁目が交通麻痺になったという。

 葬列から埋葬まで、ガンファイト防止のため250人の警官や刑事が護衛した。
 
 出身地別に徒党を組むのが通例だった当時のギャング社会で、ガルッチはナポリ系ともシチリア系とも分け隔てなく付き合っていた。
   

    
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2017年10月22日

サルヴァトーレ・ダキーラ ガンビーノ一家の源流とされる組織を率いたボス


サルヴァトーレ・ダキーラ
     (Salvatore "Toto" D'Aquila)
         1878年11月9日 - 1928年10月10日


 シチリア島パレルモ出身のニューヨークのマフィアボスのひとり。
 ガンビーノ一家の源流とされる組織を率いたことで知られる。

 犯罪組織の各派閥にスパイを送り込み情報を把握したり、また
   傀儡のボス
を据えて間接支配するなど策謀に長けていた。
 
 1906年に家族とともに渡米し、マンハッタンのイースト・ハーレムに居住した。

 表向きは貿易商人としてシチリアなどから
   オリーブオイル
   チーズ
などを輸入していたという。

 1906年、1909年に詐欺などで逮捕歴があるが、検察で立件できずに放免されている。
 
 
 移住当初からパレルモ出身者の犯罪組織を率いており、シチリア移民1世の世代を中心に結成されたコルレオーネ系の
   モレロ一家
の傘下ないしパートナーとして頭角を現していった。


 1910年2月にモレロ一家ボス
   ジュゼッペ・モレロ
ら他の多くのメンバーが内部密告者の証言により紙幣偽造で有罪とな逮捕され刑務所に収監された時、「ボスの中のボス」を宣言した。

 モレロ派残党を吸収してハーレムの覇権を争って組織を拡大させた。
 また、モレロと共に監獄送りになったパレルモ派閥のボス
   イニャツィオ・ルポ
の後継者としてその縄張りを継いだとされる。

 モレロ一家のパレルモ派閥はもともと1つだった。
 ダキーラがルポの後継者に選出された後、反対派との対立が明らかになり2つに分裂し、ダキーラ派とアル・ミネオ派になった。

 ダキーラ派は、同盟軍(ミネオ派-カステランマレーゼ派-モレロ派)と縄張りの確保で抗争しながら
   ジュゼッペ・フォンタナ
   ジュゼッペ・ファナロ
らモレロ一家の有力者を自陣に引き入れた。

 1913年11月、両者は敵対するモレロ一家とミネオの共謀により相次いで暗殺された。

 1914、1915年にダキーラは仕返しにモレロ一家の
   ロモンテ兄弟
を相次いで暗殺した。
 なお、この実行犯は配下のウンベルト・ヴァレンティとされている。
   

 1916年、モレロ一家はナポリを中心とした出身者で構成された犯罪組織
   カモッラとの戦争
で戦闘員が消耗して弱体化していった。

 ダキーラはブルックリンに拠点を移し、ウォーターフロントの利権に進出した。


 1917年、警察の摘発で組織が崩壊したブルックリンのカモッラの残党を吸収して勢力を広げた。

 また、ハーレムやロウアー・イースト・サイドにも配下のギャングを置き、利権を拡大・保持していった。


 ハーレムのコルレオーネ派閥のボスに
   サルヴァトーレ・ロイアカノ(Salvatore Loiacano)
を据えtあうえで間接支配した。

 一家のメンバーには、ウンベルト・ヴァレンティ、アクルーソ・ディミノ、サルヴァトーレ・マソット、サヴィエロ・ポラシア、ジョゼフ・トライナ、フランク・スカリーチェジョゼフ・ビオンドなどがいた。

 ニューヨーク以外の地域では、クリーヴランドのジョゼフ・ロナルド、バッファローのパルメリ一家などと緊密なネットワークを築いていた。

 モレロは1920年に出所し、裏切り者
   ロイアカノ
を粛清してボスの座を奪い返した。
  
 これを脅威に感じたダキーラはギャング会議を開き、モレロらの勢力メンバー12人に対しまとめて死の宣告を出した。
 これによりモレロ派と再び流血抗争に突入した。

 利権でもある密輸抗争も絡んで復讐合戦となり、両サイド合わせ十数人の死者を出した。

 ただ、1922年8月、モレロの指示を得た
に刺客ヴァレンティを返り討ちにされたためモレロ派封じ込みは頓挫した。

 1920年代半ば、故郷パレルモでもマフィア抗争が起き、戦闘資金をシチリアに送金して一方を助けた。


 1926年時点でブルックリンのバスビーチに住み、近くにカラブリア系ヌドランゲタと呼ばれる犯罪組織
らが住んでいた。

 なお、離反者や裏切り者が相次いで勢力が衰えると、ブロンクスに拠点を移し立て直しを図った。

 1928年10月10日早朝、係りつけの医者を訪問した時、イースト・ヴィレッジの路上で
   モレロ
   アル・ミネオ
らが共謀した暗殺者3人の狙撃犯に計9発撃たれ、即死した。
 この時は身辺を警護するボディガードはおらず、妻と4人の子供の目の前で殺された。

 近くのドラッグストアの主人が目撃して警察に一部始終を話したものの、犯罪組織のボスが暗殺されたことが判ると、翌日何も見ていないと前日の発言を撤回している。

 同年7月フランキー・イェールが殺された。
 この背景としては南ブルックリンの縄張りを乗っ取ろうとしたことが発端とされている。。

 ダキーラを葬ったマッセリアはアル・ミネオをダキーラ一家の新たなボスに据え、組織を乗っ取った。

 ダキーラ派残党はこれに抵抗し、一部がカステランマレーゼ派との提携に走りカステランマレーゼ戦争の引き金になった。
   

    
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2017年10月19日

チロ・テラノヴァ(Ciro Terranova) 「アーティチョーク・キング」とも呼ばれたモレロ一家のリーダーの1人


チロ・テラノヴァ(Ciro Terranova)
     1889年7月20日 -
              1938年2月20日

 ニューヨークのイタリア系犯罪組織のボスでモレロ一家のリーダーの1人
 「アーティチョーク・キング」とも呼ばれた。
   
 
 シチリア島コルレオーネ生まれで地元マフィアの
   ベルナルド・テラノヴァ
の3人兄弟の次男(長男ヴィンセント、三男ニコラス)で、ジュゼッペ・モレロは異父兄にあたる。

 1892年一家で渡米し、ニューヨークからルイジアナ、テキサスを転々とした。

 1896年頃、ニューヨークに戻り、イースト・ハーレム地区に定住して学校に通いながら家族の左官業を手伝った。
 こののちジュゼッペ・モレロが経営していたイタリアンレストランのウエイターなどをやった。

 この後、モレロ組織(116丁目ギャング)に加入し1903年には
   イニャツィオ・ルポ
が姉のサルヴァトリーチェ(1880年-1968年)と結婚して親族関係となっている。

 1909年、テッシエ・カターニアと結婚した。

 1910年、ジュゼッペ・モレロが
   紙幣偽造
で監獄送りになった。
  

 ニコラスやヴィンセントと共にモレロ一家のリーダーとしてモレロの左官業を受け継ぎながら、ナポリ系の
   ジョシュ・ガルッチ
に雇われ用心棒グループに加わった。

 イタリア移民の食卓に不可欠な
   アーティチョーク(アザミ)
の市場に目をつけて、貨物列車でニューヨークに運ばれる
   カリフォルニア産アーティチョーク
を買い占めたうえで30%-40%のプレミアムを付けて業者に売りさばき莫大な利益を上げた。

 モレロの紙幣偽造と異なり合法な商売として長らく一家の収入源の1つになったため「アーティチョーク・キング」とも呼ばれた。


 モレロが暴力や殺人で問題を解決していた手法は目立つため、チロは役人や政治家に取り入り、賄賂漬けにして
   警察の追及を遮断すること
を本領としていた。

 ライバルギャングを当局に内通して罠にはめるなどして逮捕させた。

 ジュセッペ・モレロの収監後の一家は派閥争いに突入したがビジネス自体は堅調で、車を何台も所有したうえイーストハーレムを支配した。

 1916年、ブルックリン区のナポリ系ギャング
   ペリグリーノ・モラノ
らにニコラスが殺されると、兄ヴィンセントと共に一家を率いて全面戦争マフィア−カモッラ戦争)に突入した。

 敵対する組織に何度も命を狙われた。

 一時カモッラ勢の攻勢に押されてハーレムの縄張りを奪われたものの1917年にはカモッラが一斉検挙で組織が崩壊したのちに奪い返している。

 1918年、ジョー・ディマルコ殺害共謀容疑で起訴されたが無罪となった。

 1920年頃までに勢力を拡大したモレロ一派
   ジョー・マッセリア
の勢力に押され主従関係は逆転したが禁酒法時代となり酒の密輸ビジネスで大儲けした。

 家族を郊外ペルハム・マナーの豪邸に住まわせ、武装したリムジンを乗り回したりしていた。

 
 ジョゼフ・ヴァラキは回想で1923年頃のイーストハーレムは、「帝王」チロの天下であったと語った。

 当時ギャングのアジトだったハーレムの116丁目のレストラン「ヴェネチア」にはイタリア系ギャングの他に
   レプケ・バカルター
   ダイアモンド兄弟(レッグス・ダイアモンド
などユダヤ系・アイルランド系の強面ギャングが出入りしていたが、チロに比べればまるで小物だったと話している。
   


 1929年、ニューヨーク治安判事
   アルバート・ビターレ
の自宅パーティにいたことが新聞記者により暴露された。

 新聞にはニューヨークを牛耳る暗黒街の大物と度々紹介された。


 1930年にアイルランドギャングの
と提携し、ハーレムのナンバーズ賭博の一部(25%)をシェアした。

 この頃の部下にはマイク・コッポラ、フランク・リヴォーシ、ジョゼフ・ラオ、ジョゼフ・ストラーチ、フランク・アマト、カターニア兄弟(ジョゼフ、カロゲロ)などがいた。

 
 カステランマレーゼ戦争ではマッセリア側の同盟者と見られた。

 1930年10月頃
らを通じてサルヴァトーレ・マランツァーノにひそかに寝返った。

 1931年、マッセリアの強力な戦闘員でチロの妻の親族だった
   ジョゼフ・カターニア
がマランツァーノ派に殺害された時には棺の上に手を置き復讐を誓った。
  
 1931年4月、マッセリアの殺害に協力したものの、功績は認められず縄張りの分配からは排除された。

 ハーレムのナンバーズ賭博の利権は保持したものの仲間の多くを殺され、権威は失墜した。

 同年、五大ファミリーが再編されたのちはルチアーノ一家に属したが
   アーティチョークの利権
を部下に奪われた。

 1935年10月、シュルツが暗殺されたのを機にナンバーズ賭博の利権を奪った。
  

 ルチアーノはテラノヴァに引退勧告して配下の
   マイク・コッポラ
に縄張りを継がせた。
 このため、すべての賭博収入を失ったため、従っていた部下もコッポラに鞍替えした。

 同年、未納税金500数ドルを払えず破産を宣言し、ペルハム・マナーの豪邸が差し押さえられた。

 破産管財人に豪邸を明け渡すと少年時代住んでいたハーレムのアパートに引越し、晩年は借金で生計を立てていた。

 1937年、テラノヴァを長年敵視したニューヨーク市長
   ラガーディア
の意向のもと警察の嫌がらせで何度も微罪で捕まった。
 1938年、脳出血でベットの上で死去したが死んだときの手持ち資産が現金200ドルと株券2枚だったという。
 

    
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2017年10月11日

ペリグリーノ・モラノ(Pelligrino Morano) ブルックリンで一大勢力を築いたカモッラのボス


ペリグリーノ・モラノ
    (Pelligrino Morano)
             1877年 - 没年不明


 ニューヨークの1910年代、ブルックリンで一大勢力を築いたカモッラのボス。
 
 イタリア南部カンパニア州サレルノ近郊のプラータ生まれ。1892年渡米し ニューヨークのイースト・ハーレムに定住した。

 馬を盗んでは転売する馬泥棒で生活費を稼いだという。
 1904年にライバルを銃撃し、武器隠匿で逮捕され刑務所で収監されてから数年後ブルックリンのコニーアイランドに移った。

 1911年頃までにナポリ系ギャング「カモッラ」のボスとなった。

 1907年ニューヨーク市警の
   ジョゼフ・ペトロジーノ
により国外退去となったナポリ系ギャング
   エンリコ・アルファノ
の縄張りを継いだと言われている。

 イタリアン富くじなどのギャンブル、恐喝や強請ビジネスに手を広げ、コニーアイランドのレストラン
   サンタルチア
を拠点としてブルックリン一帯を支配した。

 副ボスにアンソニー・パレッティを据えて「コニーアイランドギャング」と呼ばれた。

 部下にフィラデルフィアのカモッラの
   アンドレア・リッチ
いる、カモッラ系のネイビーストリートギャング(リーダーは、レオポルド・ロウリターノ、アレッサンドロ・ヴォレロ)を取り込み、下部組織とした。
 

 1910年代前半、組織を拡大し、マンハッタンのイースト・ハーレムに進出した。
 ハーレムを地盤にしていたモレロ一家とは提携して、ポリシーゲームの賭場を開いた。

 1915年5月、独立系ナポリギャングの大物
   ジョシュ・ガルッチ
を、モレロ一家と共謀して暗殺した。

 1916年6月、モレロ一家のリーダー
   ニコラス・テラノヴァ
   スティーヴ・ラサール
らと会議を開き、ロウアー・マンハッタンのカジノに進出した
   ジョー・ディマルコ
の殺害を共謀し、7月、ネイビーストリートギャングの暗殺者を使ってディマルコを殺害した。
   

 モレロ一家に協調してきたモラノは、カモッラ内輪の会議を開催し戦略を転換した。

 ハーレムの賭場の上がりをモレロ一家に上納していたことで利益は少なく上納金で1500ドルを損したと主張した。

 シチリアマフィアと戦うより仲間でいたほうがいいという意見もあった。


 ネイビーストリートギャングのリーダー格
   アレッサンドロ・ボレロ
がハーレムのカモッラである
   ニコラ・デルゴーディオ
暗殺をモレロの仕業として怒るなど、シチリア人への不信感があったためモラノは、モレロ一家の縄張りを乗っ取ることに決めた。

 モレロ派のリーダー格の幹部をできる限り多くおびき出して一気に殺害する計画を立てた。

 同年9月7日、会議と称してモレロ一家をブルックリンに誘い出したものの
   ニコラス・テラノヴァ
と側近チャールズ・ウンブリアコの2人だけだった。

 カモッラの手下が2人を会合場所に案内する途中、道角に突然現れた暗殺者が2人を銃殺した。
 その後、敵方を見つけると殺しあうマフィア−カモッラ戦争と呼ばれる全面戦争に発展した。

 モレロ派の残りのリーダーを何度も狙ったが、不成功に終わった。
 この間、ギャンブルを始めアーティチョークや氷などの移民ビジネスをモレロ一家から奪取し、一時的に利益を得ることに成功した。

 
 1917年11月、ネイビーストリートギャングのラルフ・ダニエロが当局に捕まった。
 警察に一連の抗争で起こった多くの殺人を証言したため、主要メンバーが芋づる式に逮捕された。
 モラノも1918年4月、テラノヴァ、ウブリアコ殺害関与の容疑で逮捕された。


 ただ、モラノはダニエロに続いて減刑欲しさに証言協力するメンバーが相次いだが、最後まで沈黙を貫いた。

 懲役20年刑でシン・シン刑務所に収監され、その後消息が途絶えた。

 ボスと主要メンバーを根こそぎ失ったカモッラは分散瓦解し、以後、カモッラ単独の大きな組織は形成されなくなった。

 1920年代にかけてはシチリアマフィアに取り込まれていった。
   

    
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2017年09月16日

ジョゼフ・ビオンド 生涯を通じて2度、大物マフィアボスの暗殺に関わったガンビーノ一家の副ボス


ジョゼフ・ビオンド
     (Joseph Biondo)
       1897年4月16日 - 1966年6月10日


 NYのイタリア系犯罪集団
の幹部で、ガンビーノ一家の副ボスを務めた。

 本名 ジュゼッペ・ビオンド
  
 ニックネームは
   ジョー・バンディ
で生涯を通じて2度、大物マフィアボスの暗殺に関わったとされる。
 
 
 シチリア島バルチェッローナ・ポッツォ・ディ・ゴットで生まれた。
 1898年頃、一家で渡米し、NY市マンハッタン区イースト・ヴィレッジに住み、父が酒場を経営し生計を立てた。
 1919年、麻薬所持で逮捕されている。

 ラッキー・ルチアーノとはイースト・ヴィレッジ界隈の幼馴染で、若い頃一緒にストリートギャングになるまで路上でスリなどをやって生活費を稼いでいた仲間。

 若い頃シチリア系マフィアの
   サルヴァトーレ・ダキーラ一家(現 ガンビーノ一家)
の組員ウンベルト・ヴァレンティのグループに属した。

 1922年、ダキーラ派とジェノヴェーゼ一家の前身
   モレロ・テラノヴァ派
との間の抗争でヴァレンティが殺されたのと同じ年に、ビオンドも路上の決闘に関わり、殺人罪で逮捕された。

 
 その後、1927年頃までにダキーラ一家のメンバー入りをしている、

 イースト・ヴィレッジで強請ギャング団を率い、小柄だったが武闘派として周囲に恐れられた。
 付き合いのある仲間として
   フランク・スカリーチェ
   ニコラ・ジェンタイル
らがいた。

 1925年結婚し、1927年に米国籍を取得している。

 ダキーラ暗殺に続く
   カステランマレーゼ戦争
では中立だった。

 ヴィンセント・マンガーノと行動を共にし、最後は勝馬に乗るべくサルヴァトーレ・マランツァーノの陣営に鞍替えしている。

 1931年、ジョー・マッセリアとの争いを制したマランツァーノは
   フランク・スカリーチェ
をマンガーノ暗殺を条件に旧ダキーラ一家ボスに据えた。
 ただ、スカリーチェは命じられた暗殺を果たせず、逆にマランツァーノの信頼を失う恐れがあったためビオンドに相談した。

 ビオンドは、マンガーノやルチアーノに相談し事態の収拾を図った。

 マランツァーノはその年9月に暗殺されたが、その暗殺謀議に関わったと信じられている。
マンガーノ一家幹部

 ルチアーノが推進していたNY五大ファミリー再編では、マンガーノ一家(現ガンビーノ一家)に幹部として配属になった。

 1930年代までにクイーンズのジャクソン・ハイツに転居した。

 19'30年代、タクシー会社の
   組合強請ギャング
を率いたが1938年、トーマス・デューイ検察官が率いる捜査チームにより暴行・強請で検挙された。

 1942年春、イタリアに追放されていたルチアーノを訪問したところ、ミラノで警察に尋問された。
 ただ、警察は何の証拠も得られなかったが、ルチアーノはビオンドに米国へのヘロインの密輸屋を紹介した。

 以後、ビオンドは密輸ルートの調整で何度もイタリアに飛んではルチアーノと接触したという。
 ルチアーノから米国内への麻薬密輸の監督を任され、北米の麻薬の上りをイタリアへ運んでいたと信じられている。

 1950年代初期、インターポールの麻薬犯罪者リストに掲載された。

 1951年、アブナー・ツヴィルマンらと共に米国議会上院の
   犯罪調査委員会
に召喚されるが証拠が集まらず特に何も告発されていない。

 1958年、連邦麻薬捜査局FBNは、シチリア在住の
   ニコラ・ジェンタイル
のビオンド宛の手紙を押収し、ジェンタイルから麻薬取引の情報を引き出した。
   

 1957年10月、アルバート・アナスタシアの死で実権を握った
により副ボスに据えられた。
 時はガンビーノと共に一家の最古参になった。

 ビオンドはアナスタシアに忠誠に仕えながらガンビーノに通じており、ステファン・アルモネ、アーノルド・ウィッテンバーグ、ステファン・グラマーウタの3人で構成された
   アナスタシア暗殺チーム
を率いていたとされるとされる。

 マフィアの内幕を暴露したジョゼフ・ヴァラキの証言をはじめ、アナスタシア暗殺に協力した報償に副ボスの座を得たようだ。

 表向きの家業は不動産ブローカーで、マイアミのナイトクラブや自動車会社なども所有していた。

 副ボス時代は、一家の収入をピンハネしたり、当局の注目を浴び社会から非難を受けやすい麻薬密輸を止めなかったとも言われ、ガンビーノの信頼を失った。

 1965年頃、副ボスの座を
に奪われ、兵隊に格下げになった。

 晩年フロリダのハレンダールのサウスオーシャンドライブの別荘に住んだ。
 1950年代後半から病気がちで、1966年、病死した。
   

    
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2017年09月11日

エド・サリヴァン(Ed Sullivan) 米国の娯楽作家兼テレビ司会者


エドワード・ヴィンセント・サリヴァン
          (Edward Vincent Sullivan)
             1901年9月28日 - 1974年10月13日

 エド・サリヴァン(Ed Sullivan)としてよく知られた米国の娯楽作家兼テレビ司会者

 1950年代から1960年代にかけて人気の頂点に登りつめ、その名を冠した『エド・サリヴァン・ショー』の司会者として最もよく知られている。
 
 1901年にニューヨーク州ニューヨーク市のハーレムに住む、税関官吏でアイルランド系の
   ピーター・アーサー・サリヴァン
の長男として生まれた。

 アルカポネとは幼友達だったという。

 ボクサーを目指していたものの、その後サリヴァンはスポーツ新聞の記者となった。
 ニューヨーク・デイリーニューズの劇場コラムニストとなり、コラムの多くはブロードウェイのショーとゴシップに関するものであった。

 また、サリヴァンはラジオでの報道原稿を執筆したりした。
 なお、サリヴァンはその放送経歴の全体に渡り、報道原稿を書き続けた。
 
 1948年にCBSネットワークが日曜夜のテレビ・バラエティショーのホストとしてサリヴァンを起用した。
 番組のタイトルは当初『トースト・オブ・ザ・タウン』であったが後に『エド・サリヴァン・ショー』に改名された。

 番組はニューヨークのCBSスタジオ50から放映され、1950年代から1960年代にかけて米国を代表するテレビ・バラエティーとして一世を風靡し、エルヴィス・プレスリーやジェームス・ブラウン、コール・ポーターやジャクソン5などのジャンルを問わず大スターがこぞって出演した。

 また、無名のスター候補を世に出したり、世界各国のスターをアメリカの一般大衆に紹介する役目も任じていた。
 ビートルズやローリング・ストーンズがアメリカにおける初のテレビ番組出演とした。
 このほか、日本からも、当時アメリカでは無名だったジャッキー吉川とブルーコメッツやザ・ピーナッツが出演した。

 サリヴァンはこの様なジャンルや人種、国籍を問わない出演者の選択方針を受け、公民権施行なども追い風となり白人中心社会からの改革を進めていた米国の大衆から大きな支持を受けた。

 これらの功績を受けて1967年にはCBSスタジオ50を『エド・サリヴァン・シアター』と改名。

 1971年になると、レジャーの多様化やベトナム戦争を経てアメリカ社会全体の価値観が変化し、マンネリ化した『エド・サリヴァン・ショー』の視聴率は20位にも届かなくなっていた。

 CBSの上層部は同年6月6日を持って番組を打ち切る方針を示し、サリヴァンは激怒した。
 1973年に『エド・サリヴァン・ショー』25周年スペシャル番組ほかの特番に出演するまでCBSとの関係を断ち切った。
   

    
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2017年09月08日

フランク・スカリーチェ 通称"ドン・チーチ"(Don Cheech)


フランク・スカリーチェ
     (Frank Scalice)
         1893年 - 1957年6月17日


 NYのマフィア組織の幹部で副ボスで
   通称"ドン・チーチ"(Don Cheech)
あるいは"ドン・チッチョ"(Don Ciccio)と呼ばれ、通り名ではScaliseとも書く。
 
 シチリア島のパレルモで生まれ、1912年に渡米し、ブルックリンに移り住んだ。

 ブルックリンを根城にした犯罪組織
   サルヴァトーレ・"トト"・ダキーラ一家
の配下の組員だったとされる。

 1928年10月、ジョー・マッセリアがダキーラを暗殺し、後釜ボスに
   アル・ミネオ
を据えたが、これに反発して、対立する
に付いてミネオとブルックリンの縄張りを争った。

 1930年カステランマレーゼ戦争が起こり、同年8月、マッセリアの参謀
   ジュゼッペ・モレロ
が暗殺された。
 この襲撃ではスカリーチェとアルバート・アナスタシアが実行したとされる。

 11月、アル・ミネオがマランツァーノ派の刺客に殺された。
 その縄張りはマランツァーノに与えられ、更に1931年4月にマッセリアが殺された。
 敵対する勢力がほぼ掃討されるとマランツァーノが五大ファミリーが再編されると、改めて一家のボスに任命された。

 1931年9月、マランツァーノを殺した
   ラッキー・ルチアーノ
によるファミリー再編ではボスの座を外されたうえ
   ヴィンセント・マンガーノ
の下に配属となった。

 マンハッタン東部やブロンクスを拠点に賭博や高利貸し業を運営し、建設業界への足がかりを築いた最初のマフィアの1人とされる。

 その後年に、イタリアに追放されたルチアーノらと
   国際的な麻薬密輸
に関わったとされ、しばしばイタリアに出向いてはルチアーノと情報調整を行ったとされる。

 1951年、アナスタシアがマンガーノを殺してボスの地位を確保すると副ボスに抜擢された。
 幹部のカルロ・ガンビーノと共に一家を統率した。

 次期ボスと目されたが、ヘロイン密輸のトラブルを起こし、またマフィア構成員のメンバーシップを5万ドルで売り捌いていたとの嫌疑を全国委員会からかけられた。

 全国委員会から排除の命令が下った1957年6月17日、ブロンクスの果物屋でフルーツを買い込み釣銭をポケットにしまいながら外に出たところを2人のヒットマンに4発撃たれて死亡した。

 この暗殺の実行犯はアナスタシア側近の殺し屋
   ヴィンセント・"ジェローム"・スキランテ
とされる。
 警察は重要参考人としてスキランテを事情聴取した。
 また、1955年米国議会上院の
   麻薬捜査委員会
で追及を受けており、警察は麻薬がらみの殺害と見ていたという。

 なお、魅力的な副収入になるマフィアメンバーシップの乱発がアナスタシア=ガンビーノ一家の構成員を異様に膨らませたと言われている。

 1957年9月、フランクの兄で一家の幹部ジョゼフもスキランテにより狙撃され殺されている。

 なお、1957年10月のアナスタシア暗殺は、ジェノヴェーゼとガンビーノの共謀というのが定説。
 ただ、マンガーノ兄弟、スカリーチェ兄弟とシチリア人を相次いで殺し勢力を広げていったアナスタシアに対する、ファミリーの垣根を越えたシチリア・マフィア総出の復讐ともいわれる。ア

 ナスタシアの死後一家はガンビーノの下でアナスタシア派の粛清が行われた。
 暗殺の首謀者であるスキランテは1960年に行方不明になった。
 これは、スカリーチェの配下
   アンソニー・"ニノ"・ガッジ
の報復で殺されたと見られている。
   

    
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2017年09月07日

ロバート・ボイル(Sir Robert Boyle) 「ボイルの法則」で知られている。


ロバート・ボイル
    (Sir Robert Boyle)
      1627年1月25日 - 1691年12月31日

 アイルランド、ウォーターフォード州リズモア出身の貴族で自然哲学者、化学者、物理学者、発明家である。
 また、神学に関する著書もある。

 ロンドン王立協会フェローで「ボイルの法則」で知られている。

 ボイルの研究は錬金術の伝統を根幹としているものの、近代化学の祖とされることが多い。
 特に著書『懐疑的化学者』 ( The Sceptical Chymist) は化学という分野の基礎を築いた。
 
 
 父親の初代コーク伯リチャード・ボイルは1588年にアイルランドに赴き
   復帰地副管理官
となり、ロバートが生まれたころには大地主になっていた。
  コーク伯リチャードの7番目の息子、14番目の子である

 兄たちと同様、幼いころに現地の一家に里子に出されたことで、ボイル家の子らは4年ほどで十分にアイルランド語を理解し、通訳ができるようになった。

 ロバートはラテン語、ギリシャ語、フランス語を学び、8歳のときに母が亡くなると、イングランドのイートン・カレッジに送られた。
 当時、父の友人 Henry Wotton が校長を務めていたという。

 イートン・カレッジでは、父が家庭教師
   Robert Carew
を雇い、息子たちの教育を任せた。

 ロバートはあまり家庭教師の言うことを聞かなかった。

 イートンで3年間を過ごした後、ロバートはフランス人家庭教師と共に海外へ遊学旅行に出た。
 1641年にはイタリアを訪れ、その年の冬はフィレンツェで過ごしたうえ
   ガリレオ・ガリレイ
に師事した(ガリレオは1642年没)。
 
 1644年、大陸ヨーロッパからイングランドに戻ったボイルは、科学的研究に強い関心を持った。

 父はその前年に亡くなり、イングランドはドーセットのスタルブリッジにある荘園とアイルランドはリムリック州の広大な地所を相続した。
 アイルランドの地所は父がクロムウェルのアイルランド侵略に乗じて取得した土地である。

 それ以降ボイルは科学的研究に生涯を捧げるようになり、後の王立協会の母体となった
   科学者集団 "Invisible College"
の一員となり、ロンドンのグレシャム・カレッジで頻繁に会合を開き、一部はオックスフォードでも会合を開いた。

 1647年に初めてアイルランドに所有する土地を訪れ、1652年にアイルランドに移住した。
 ただ、田舎ではなかなか研究が進まず焦燥感を持つようになった。

 アイルランドについて「野蛮な国で、化学について誤解されているし、化学用の器具もなかなか入手できないと手紙に書いたりした。
 また、アイルランドは錬金術には不向きな土地だと記している。

 1654年、アイルランドを後にしてオックスフォードに移り住むことにした。

 1657年にはオットー・フォン・ゲーリケの
   空気ポンプ
を目にし、ロバート・フックを助手として自ら空気ポンプの製作を始めた。

 1659年に "machina Boyleana" と名付けた空気ポンプを完成させ、一連の空気についての実験を始めた。

 オックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジには19世紀初めまで Cross Hall が建っており、ボイルはそのホールの一角を借りていた。

 空気ポンプを使った研究成果を New Experiments Physico-Mechanicall, Touching the Spring of the Air, and its Effects... と題して1660年に出版した。

 1663年、チャールズ2世の許可を得て "Invisible College" から王立協会が発足した。
 ボイルも設立協議会の一員で1680年、ボイルは王立協会会長に選ばれた。
 ただ、就任の際の誓いの内容にためらいを覚え、会長職を辞退している。

ボ イルは、「延命法」、「飛行技法」、「永久照明」、「鎧を極めて軽く硬くする技法」、「どんな風でも沈まない帆船」、「経度を確認する確実な方法」、「想像力や記憶などの能力を高める薬や苦痛を和らげる薬や悪夢を見ない安らかな眠りをもたらす薬」といった24の「発明したいものの一覧」を作った。

 この一覧に挙げられた発明は後にそのほとんどが実現している。

 ボイルはオックスフォード時代にナイト (Chevalier) となった。

 Chevalier はその数年前に王室政令によって制定されたと見られているもの。

 ボイルがオックスフォードにいたころは清教徒革命の後半にあたる。
 なお、Chevalier となったボイルがどういう役割を果たしたのかはよくわかっていない。

 1668年、ボイルはオックスフォードからロンドンに移り、姉妹の Lady Ranelagh の家に身を寄せ、1691年12月31日、何らかの疾病による麻痺が原因で死去している。
   

    
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2017年07月15日

ジョン・マローン(John C. Malone)  「ケーブル王」


ジョン・マローン(John C. Malone)
      1941年3月7日 -

 米国のメディア関連企業のリバティメディア会長
 リバティ・グローバル、ディレクTVグループの会長も兼務。
 また、2007年からMLB・アトランタ・ブレーブスのオーナーでもある。
 
 1963年エール大学卒業、1967年にはジョンズ・ホプキンス大学で博士号(工学博士)を取得した。
 ベル研究所、マッキンゼー・アンド・カンパニーなどで勤務した。

 1973年にTCIの社長兼CEO、1996年には会長に就任した。
 M&AによりTCIを全米最大のケーブルテレビMSO(Multiple System Operator、ケーブルテレビ統括会社)に育て上げ
   「ケーブル王」
とも呼ばれた。

 1990年には番組供給事業を統括するリバティメディアを設立した。

 TCIは1999年に520億ドルでAT&Tに買収された。
 
 1999年のAT&TによるTCI買収の際にTCIの海外部門やメディア投資部門・TCI Ventures Groupを統合させた。
 なお、2001年、AT&Tからスピンオフしている。
  

 TCI Ventures Groupは2004年に
   リバティメディア・インターナショナル
としてスピンオフさせたうえ、翌2005年にリバティメディア傘下のUnitedGlobalComと合併しリバティ・グローバルとなる。
 
 
 マローンのメディア投資スタイルとしては
   新興メディア事業者
の立ち上げに出資したうえ、利益をだすまで成長したところで他のメディア企業に売却または株式交換して投資資金を回収。
 また、スピンオフによる
   株式公開
で収益を上げることで知られる。
  
 企業売却の例としてはFOXスポーツネットやブラック・エンターテインメント・テレビジョン(BET、2000年バイアコムに売却)、テレムンド(2001年NBCに売却)などがある。

 また、株式交換の例としてはディスカバリー・コミュニケーションズ(リバティメディアの持ち分をディスカバリー・ホールディングとしてスピンオフ、2008年、他の所有者の持ち分と統合し新たな持株会社・ディスカバリー・コミュニケーションズを設立)、リバティ・エンターテイメント(2009年11月ディレクTVグループと合併)などがある。

 また、テッド・ターナーのターナー・ブロードキャスティング・システム(TBS、1996年タイム・ワーナーが買収)、QVCを追放されたバリー・ディラーにTCIが保有するホーム・ショッピング・ネットワーク(HSN)社の経営権を譲渡(現在のIAC/InteractiveCorpの前身)、破産直前だった衛星ラジオ・シリウスXMに対する出資など窮地に陥ったメディア事業者に対して救済を兼ねた出資などを行っている。
  
 マローンは元来、ルパート・マードックの米国進出のカウンターパートといえる存在。
 1996年にはリバティメディアとニューズ・コーポレーションとの折半出資により「FOX/Liberty Network」を設立した。

 リバティメディアが保有していたスポーツ専門チャンネル・Prime Sportsをベースとして、FOXスポーツネットを発足させた。

 1999年にはFOX/Libertyの持ち分を手放す代わり、株式交換により8%のニューズ社株式を取得した。

 2004年、リバティメディアはニューズ社株式を追加取得、17%まで出資比率を引き上げた。
 しかし、取得がニューズ社の同意なく行われたため関係は冷却化した。

 対抗措置としてニューズ社はポイズンピルを発動させた。
 結局2006年12月、ニューズ社が保有するディレクTVグループ株式38.5%およびFOXスポーツネットのうち3局との交換で同意した。
  

    
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2017年06月19日

龍山徳見(りゅうさんとくけん) 臨済宗の僧

   
龍山徳見(りゅうさんとくけん)
   弘安7年(1284年)−
      延文3年/正平13年11月13日(1358年12月14日)

 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧
 俗姓は千葉氏で下総国の出身

 諱は初め利見と称したが、のちに徳見と称した。
 道号は龍山、諡号は真源大照禅師。

13歳で鎌倉の扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院で鎌倉五山第3位の寺院
   寿福寺の寂庵上昭
に師事して出家した。

 その後、円覚寺の
   一山一寧
に参禅した。

 22歳の時、元王朝が支配する中国大陸に渡って天童山の東岩浄日・古林清茂などに参禅した。

 また、黄龍慧南から栄西にいたる臨済宗の法流を受けて兜率寺に住するなど、長期間元に滞在して1349年に帰国している。

 足利尊氏の弟足利直義の招きを受けて京都の
   建仁寺
の住持となり、その後は天竜寺・南禅寺にも住した。

    
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2017年06月12日

古林 清茂(くりん せいむ) 中国南宋朝から元朝時代の禅僧


古林 清茂(くりん せいむ)
        1262年 - 1329年

 中国南宋朝から元朝時代の禅僧
 俗姓は林、諱は清茂、字は古林、金剛憧・休居叟などと号した。

 中国商人を多く輩出した温州の人。

 横川如珙(おうせん にょこう、1222年 - 1289年、中国・南宋) の法嗣、門下に了庵清欲・竺仙梵僊がいる。
 同じく日本僧では月林道皎・石室善玖らがいる。

 元代一級の高僧
   中峰明本
と並んで元代中期の禅林の巨匠とされ、当時、日本からの渡航僧で古林に参ぜぬものなしといわれたほどの高僧。
 著としては『古林茂禅師語録』、『宗門統要続集』が知られる。

 古林は馮子振と交遊があり、書法に長じ、その書は格調高く貫禄を備えている。

 また、文学にも造詣が深く、入元僧はそのような古林の士大夫的教養に憧れてその門に学んだ。

 元代は南宋時代に増して禅林が様々な文化との関わりを強め、特に文学への関心が高かった。
 ただ、その内容は次第に世俗化し、禅僧の本分を弁えず大慧派の人々の詩文は一般の詩に同化していった。

 古林はこうした傾向を阻止しようと題材を仏教に限定した偈頌を重視した。
 しかし、大慧派の笑隠大訢の出現によって、禅林文学は偈頌から四六駢儷文にその中心を移したといわれている。

    
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2017年05月07日

#マイアー・アムシェル・ロートシルト Mayer Amschel Rothschild ロスチャイルド家初代

 
マイアー・アムシェル・ロートシルト

      Mayer Amschel Rothschild
        (1744年2月23日 - 1812年9月19日)
 

 ドイツの銀行家で有力ユダヤ系
   ロスチャイルド財閥
の祖として知られている。


 ドイツ系ユダヤ人で両替商及び絹布貿易を営んだ
   モーゼス・アムシェル・バウアー
          (? - 1755年10月6日)
の息子として、ヘッセン=カッセル方伯(在位 1670年 - 1730年)の時代にヘッセン州の最大都市
   フランクフルト・アム・マイン
          (Frankfurt am Main)
のユダヤ人街(ゲットー)で生まれ育った。
 

 生まれた時の姓名は
   マイアー・アムシェル・バウアー
だった。

 その後、事業が成功すると元の家名である
   ロートシルト(赤い楯)
に改姓した。

 なお、赤い楯はロートシルトの家紋でもあり、父親のモーゼスが経営していた両替商及び絹布貿易を営んだ店の紋章として使用していた。

 マイアーはゲットー内のユダヤ学校で、ヘブライ語の読み書きと聖書を学んだ。
 また、ユダヤ教の宗教的指導者「ラビ」となるよう一族の中では教育されていたといわれている。
  
 しかし、11歳の時に父を、12歳の時に母を相次いで亡くした。
 
 ユダヤ人社会では何事もコネがものをいう社会であり、後ろ盾となる「信頼性」というものが若年の孤児では維持できなかった。
 つまり、過去の取引や周囲の縁者の裏付けが必要となる
   ユダヤ商人
として生き抜くための強固な後ろ盾を失ってしまったことと同義となる。
 
 
 両親との死別後、親戚筋の紹介からハノーファー王国のユダヤ人銀行家
   オッペンハイム商会
へ丁稚奉公として働くようになった
 
 当時、オッペンハイム商会ではドイツなど多くの王侯貴族の宮廷に出入りすることが出来る
   御用商人達
がサロンが形作られ、諸国の情報を互いに交換・収集することで、商売に役立てる情報を得ようとして足繁く出入りしていた。
 
 商人らは王侯たちに対し、資金の調達を行うことにより莫大な利益をあげていた。

 
 マイアーはオッペンハイム商会で商売の基礎を叩き込まれた。
 ここで取引のコツを覚え、政府や王にお金を貸す方が一般の商人達に貸すよりも、より大きな利益があることを学んだといわれる。

 
 マイアーは収入が安定し、蓄えをして資産も持て、学校に通うことが出来るようになった。
 この時期に、自力で学ぶことで歴史や古銭についての知識を深く持つようになったという。

 
 当時、ヘッセン・カッセル伯爵に最も近い貴族の一人であった古銭収集で著名な
   フォン・エストルフ将軍
と知り合い親交を深め、古銭の取引を繰り返したことで、将軍の持っていた知識や見識などを吸収して商才を磨くことも出来たという。
 
 金融都市のフランクフルトに戻ったマイヤーは古銭・メダル商を始めた。


 欧州最大級の資産家であるヘッセン=カッセル方伯
   ヴィルヘルム9世
     (1743年6月3日〜1821年2月27日)
ともお金持ちの趣味とも言われる古銭の売買をとおして知遇を得た。


 1769年にはこうした縁故を活用して
   ヘッセン・ハーナウ候国宮廷御用商人
という地位を得るところとなり、その後の通商で大きな財産を作り出していった。 


 また、ナポレオン・ボナパルトの侵攻でヘッセン州が占領を受けた時期以降においては管財人として
   ヴィルヘルムの財産管理
を任されるようになった。

 ことから、飛躍的な資産の形成を図る手立て(ノウハウ)を作り出したと言われている。 
 


歴史上の人物に関連する記事
    
   
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 ■ 阿部市郎兵衛 近江国能登川の近江商人
 

  
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         腫瘍の根本的原因と予防について発表 




  
   
  (関連書籍)
      


 
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2017年05月03日

樋口健夫 アイデアマラソン発想法の考案者

 
樋口健夫

    1946年 -
 
 アイデアマラソン発想法の考案者

 京都府出身で大阪外国語大学英語学科卒業後、オーストラリアのマコーリー大学に留学した。
 
 
 三井物産(8031)に入社し、ラゴス・リヤド・ハノイの事務所に勤めた後
   東京通信ネットワーク
へ出向を経て、2000年から カトマンドゥ事務所長となり、四年半勤めたのち2004年8月退職している。
  

 商社マンとして働く傍ら、ノートを使った創造的自己啓発技法である
   「アイデアマラソン発想法」
       (通称、アイデアマラソン/IMS)
を考案、実践している。
 
 
  「アイデアマラソン研究所」を設立し、IMSの普及と開発を行っている。

 
 創造的自己啓発技法の基本的なルールとしては、オリジナルの発想を1日最低一個考えたうえでノートに記録すること。
 
 なお、オリジナルであれば、それを出す方法はどんなものでもよいという。

 
 
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歴史上の人物に関連する記事   

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 ■ 観阿弥 室町時代の猿楽師
  
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    (関連書籍)
       

 
   
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2017年04月30日

ラクシュミー.N.ミタル(ミッタル) 世界最大の鉄鋼会社の経営者

  
 ラクシュミー.N.ミタル
  (Lakshmi. N. Mittal)
    1950年1月15日生まれ−
 
 インド系米国人でヨーロッパ在住でインドの製鉄会社
   ミタル・スティール
の会長兼最高経営責任者である。
    
  
 
   
 ミタル・スティールは
   欧米鉄鋼会社の買収
を繰り返して傘下に吸収し規模を拡大していった結果、世界最大の鉄鋼メーカーとなった。
 
 なお、同社の87.4%はミタル氏一族が保有している。
 

 ミタル氏はインドの電気も通っていないラジャスタン州のChuru村に生まれた。
 
 1970年に父親モーハン・ラールは家族と一緒にカルカッタに出て小規模な鉄工所を経営し成功の道を歩み始めた。
 
 父親の事業の成功により一家には
   資金的な余裕
が生み出され、順調な経営で資本の蓄積が進んだ。
 
 父親により蓄積された資本をミタル氏が活用し、経営的な才覚により利用し事業を拡大する元手を作りあげた。
 
 ミタル氏は
   セント・ザビエル・カレッジ
    (St. Francis Xavier's College)
で商学を専攻した。
 
 父親が経営していた小さな鉄工所を手伝いつつ大学を卒業した。
 
 卒業後も暫くは見習いとして父親の鉄工所で働いていた。
 

 当時のインドは政府が国内の鉄鋼生産量を制限して保護する経済主義の時代にあたる。
 
 こうした状況の中、ミタル氏はインドネシアに会社の最新鋭の鉄鋼所を開設した。
 
 
 この時、生産される鉄鋼原料に鉄鉱石とともに使用するための鉄のスクラップを探し求めて
   トリニダード・トバコ
にまで足を運んだともいわれている。 

 この後、鉄のスクラップの購入ルートを確保したことが一つの大きな契機となった。
 
 
 インド国内外で
   小規模の製鉄所
の経営者を取りまとめ吸収して規模を拡大した。
 
 重要な要素となってLMNが成長し、メキシコからカザフスタンへと事業を拡大させた。
   
 
 1970年代にインドで鉄鋼王として台頭していった時にもこの戦略が取られた。
   
 
 2006年1月27日、ミタル氏はルクセンブルグに拠点を置く競合最大手
   アルセロール(Arcelor)
を小が大を飲み込むごとく237億ドルで買収している。
 
 
 規模の拡大を積極化させ強固な世界的鉄鋼企業へと質的向上を確保しながら事業の領域を拡大し良質の鉄鋼をフォード・モーターなどに提供することが可能となった。
 
 消費者である企業の求める鉄鋼製品を提供すべく需要を賄うため次々に同業者を買収して規模の拡大を図った。
 
 
 
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  インドの鉄人 世界をのみ込んだ最後の買収劇 [単行本] / ティム・ブーケイ バイロン・ウジー (著); 中島美重子 田中健彦 (翻訳); 産経新聞出版 (刊)    新日鉄VSミタル [単行本] / NHKスペシャル取材班 (著); ダイヤモンド社 (刊)
  
   
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2017年04月26日

田中 正平 純正調オルガンを発明

 
田中 正平
  1862年6月12日(文久2年5月15日)
      −1945年(昭和20年)10月16日


 純正調オルガンを発明
 鉄道技師
 
 淡路国三原郡賀集村(現在の兵庫県南あわじ市)に生まれた。
 1882年(明治15年)21歳という最年少で東京大学理学部物理学科を首席で卒業した。

 
 1884年(明治17年)8月、文部省代表として
   森鷗外
などと共にドイツベルリン大学へ留学した。
 
 ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの下で音響学と電磁気学について研究にあたった。

 
 1889年(明治22年)に純正調の
   リード・オルガン
を製作し、翌1890年(明治23年)にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の前でも演奏を行った。

 
 この純正調オルガンは
   ハンス・フォン・ビューロー
により「エンハルモニウム」と命名された。

 
 1892年(明治25年)には、ヨーゼフ・ヨアヒム、ヴィルヘルム2世、明治天皇や日本、ドイツ両国の文部省資金援助などの支援により純正調パイプ・オルガンを完成させた。

 
 また、この間、1890年(明治23年)には「純正律の研究」によりドイツからドクトルの学位を、1891年(明治24年)には日本から理学博士の学位が与えられた。

  
 1899年(明治32年)に帰国、美音会を組織し、邦楽演奏会などを多年に渡り開き続け、邦楽曲を約3000採譜した。

 さらに日本鉄道の汽車課長に就任した。その後、1907年(明治40年)に鉄道調査所(現・鉄道総合技術研究所)の技師に就任している。
  
 1911年(明治44年)に所長に昇進した。

 
 所長時代に田中が中心となって開発した新型の連動装置は、当時としては画期的な設計であった。
 装置は明治末期の鉄道技術界の話題をさらったといわれている。

 退官後は田中電機研究所を設立、鉄道用信号装置などの多くを発明した。

 また、前述の美音会など音楽振興にも尽くし、当時の社団法人日本音楽協会理事長、文部省国民精神文化研究員所員としても嘱託された。
 
 1940年(昭和15年)には論文「日本和声の基礎」を発表している。



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