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2018年02月12日

ダグラス・マッカーサー 退役軍人のデモに対し武力排除を強行


 
 ダグラス・マッカーサーは1928年(昭和3年)の
   アムステルダムオリンピック
では米国選手団を率いる団長となった。
 
 アムステルダムで新聞記者に囲まれたマッカーサーは自信満々に「我々は勝つためにやって来た」と答えたという。
 
 1930年、米陸軍最年少で参謀総長に就任した。
 それまで、このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。
 
 1933年から副官には、後の大統領となる
   ドワイト・D・アイゼンハワー
が付いた。

 1932年に、退役軍人の団体が
   恩給前払い
を求めてワシントンD.C.に居座った事件「ボーナスアーミー」で、陸軍による
   武力排除
が強行された。
 
 これは、米国政府が「退役軍人たちは
   共産党の支援
を受けてデモを起こしたのではないか」と疑念を抱いたもので、マッカーサーの計画案を許可して行われた。
 
 なお、マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。
       

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ヘンリー・リーマン リーマン・ブラザーズの創設者


ヘンリー・リーマン
     (Henry Lehman)
       1821年? - 1855年11月17日
 
 アシュケナージ系ユダヤの出身として知られる米国人の実業家
 リーマン・ブラザーズの創設者で初名はハインリヒ・レーマン(Heinrich Lehmann)

 ドイツ・バイエルン王国(現バイエルン州)のリンパーで生誕。

 1844年に米国に移住し、アラバマ州モンゴメリーに
   H・リーマン(H. Lehman)
という日用品店を扱う商会を作った。

 1847年に次弟のエマニュエル・リーマンが移住してきたので
   H・リーマン・アンド・ブラザー(H. Lehman and Bro.)
に社名を変更した。
 
 その後、1850年に末弟の
   メイヤー・リーマン
も移住してきたので
   リーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)
に社名を変更している。
 
 当時、米国南部では綿花生産が盛んで、兄弟は客から支払いでは現金の代わりに
   綿花の現物
を受け入れたことをきっかけに
   綿花取引
に経営の重点を移し、当時綿花取引の中心となりつつあったニューヨークにも事務所を構えた。

 1855年に黄熱のため長兄ヘンリーが死去した。

 残ったエマニュエルとメイヤーが経営を引き継ぎ、南北戦争で南部連合が敗戦した後、アラバマ州の復興を資金面で支え金融市場に参入していった。

 間もなく本部を綿花などの取引や金融の中心地であったニューヨークに移している。

 1870年にはニューヨーク綿花取引所が開設され、リーマンもこれに協力した。 

 エマニュエルは同取引所の取締役を1884年まで務めた。 

 この頃、リーマンは鉄道建設債券市場にも参入し、後に投資会社として主力業務となった金融アドバイザリーを開始している。
 
 なお、リーマン・ブラザーズ米国第4位の規模を持つ巨大証券会社・名門投資銀行の一つにまで成長したが、2008年9月15日に連邦倒産法第11章(日本の民事再生法に相当)の適用を連邦裁判所に申請し倒産した。世界金融危機顕在化の引き金となり倒産した。
  
   
    
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2018年02月10日

エドモンド・サフラ(Edmond J. Safra) ワイルの右腕として活躍した金融業者


エドモンド・サフラ
   (Edmond J. Safra)
      1932年8月6日 – 1999年12月3日

 シリアのユダヤ人銀行家で米国の大手金融グループ
   シティグループ
の会長サンフォード・ワイル(Sanford I. Weill)の右腕として活躍した。
 
 サフラのリパブリック銀行は、1865年に香港で創設された香港上海銀行を母体として1991年に設立された商業銀行HSBCが1999年5月に買収した。
 
 サフラ一族はオスマン帝国時代からその領内で地金取引を営んでいた。
 家族はオスマン帝国の皇帝が領内在住の外国人に対し、通商・居住の自由、租税免除、身体・財産・企業の安全など恩恵的に特権を認めたため、債務が急激に増えたため、欧州列国の意のままに第一次世界大戦等に引き込まれて帝国が滅んだ。
 
 帝国が滅ぶと安全な地域を求めてベイルートへ移り住んだ。
 
 第二次世界大戦後はミラノで成功した。
 1955年ブラジルにサフラ銀行を設立し50以上の支店をかかえるようになった。
 
 翌1956年には
   貿易開発銀行(Trade Development Bank)
を設立し、モンテカルロからマイアミまでのプライベート・バンキングを扱うようになった。
 
 ユーロダラーがインフレして交換性に影響しはじめた1966年、サフラが個人向け金融機関
   リパブリック銀行(Republic New York)
をNY市に設立した。

 1980年代アメリカン・エキスプレス(アメックス)でサフラはマーチャント・バンキング担当重役となっていた。
 
 このとき社長のワイルと組んで商業銀行の
   リーマン・ブラザーズ・クーン・ローブ
を買収し、シェアソン・リーマン・ブラザーズへ改組した。
 
 1983年アメックスがサフラが経営する貿易開発銀行を買収して、サフラが莫大な利益をあげた。
 
 1988年サフラはジュネーヴにリパブリック銀行を進出させた。
 
 サフラはこれを関連銀行と連動させて多国籍の金融帝国を拡大したが、アメックスで国際金融組織で麻薬密売益等を
   資金洗浄
が行われているというスキャンダルがおこった。

 このスキャンダルは司法当局の捜査などでは実証されなかったが、2012年HSBCの資金洗浄が報じられた。
 

 晩年、リパブリック銀行はニューヨークで預金高124億ドルを超えた。
 サフラ自身はリパブリックの3100万株(資本金で22億ドル相当、30%)を保有した。
 
 また、ジュネーヴの方でも21%を支配していた。

 これらのリパブリック銀行はアジア通貨危機から伝播して債券の暴落を引き起こす流れのなか1998年の
   ロシア財政危機
で大きな損失を出した。
 
 1999年米国司法省がロシアの犯罪組織とビッグビジネスをしている容疑でリパブリックを捜査するようになった。
 この捜査の結果、バンク・オブ・ニューヨークの口座に犯罪組織が100億ドルを保有していたことが判明した。
 
 
 1999年5月HSBCがリパブリック両行を買収すると発表した。
 同年9月にプリンストン債事件が発覚した。
 
 この事件は天才ファンドマネージャーとして一躍日本の公共放送が積極的に紹介するなどマスコミで話題になった
   マーティン・アームストロング氏
が首謀した巨大投資詐欺事件。
 
 
 アームストロング氏は、1998年のロシア危機で離れていった欧米顧客の穴を埋めるために、英国のつぶれかかったクレスベール証券(ケイマン籍のペーパーカンパニー)を買い取り、バブル崩壊で財テクの損失を隠したい日本企業の財務担当者に、プリンストン債という私募債を買わせたというもの。

 
 プリンストン債というNYのリパブリック銀行が保有する資産を担保にしたドル建て債券が発行され、米国の
   クレスベール証券(Cresvale International Ltd.)
が日本で販売していた。

 プリンストン債を使って、バブル崩壊の損失隠しを行ったともいわれる。
 
 例えばバブル崩壊で100億円の資産が半部の50億円まで下がったとする。この時価50億円の不良債権を額面100億円のプリンストン債と交換させた。
 この場合、企業の赤字50億円はプリンストン債に移転され、償還までの期限を長期の死金として維持するために10年程度と長くとっておくことで、運用がうまくいけば額面の100億円で償還できるという素人の読みで投資が行われた。

 結局、1999年9月にファンドが倒産し、アームストロング氏やクレスベール証券東京支店長などが逮捕された。
 
 日本企業から集めた巨額の資金は、アームストロング氏の豪遊生活に使われていたことが明らかになっている。
 
 高い利回りに誘われて、ブリンストン債に投資した日本企業は70社以上で総額1200億円以上に上った。
 
 内訳としては、額の多い順にアルプス電気217億8100万円、中電工130億、群栄化学工業117億9300万円、山洋電気78億4000万円、ヤクルト本社70億、アマダ60億、丸善56億2900万円、キッセイ薬品35億などといわれている。
  
   
 プリンストン債に投資していた信用組合も破綻した。 
 
 なお、企業担当者の中にはバブル時代の財テクによる巨額の損失を隠すためプリンストン債に70億円を投資、うち5億円をキックバックの賄賂として受け取っていた者までいた。

 11月30日リパブリック銀行の株主総会で買収が承認された。
 この年の12月3日、犯罪組織による口封じのためか、モナコでサフラは自宅に放火されて殺害された。
  
   
    
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2018年02月09日

ダグラス・マッカーサー 第一次世界大戦の欧州戦場においては2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章


 ダグラス・マッカーサーはレインボー師団の師団長として派遣された第一次世界大戦の欧州戦場においては2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章している

 ヨーロッパ派遣軍(AEF)の総司令官は
   ジョン・パーシング
であった。
 
 ただ、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けた。
 
 このため、部下との間に軋轢が生じることもあった。
 特にマッカーサーはこうしたパーシングの対応が気に食わずパーシングに批判的態度をとるようになっている。

 マッカーサーは戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。
       

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2018年02月08日

サンフォード・ワイル(Sanford I. "Sandy" Weill) 巨大金融帝国を作り上げたひとり


サンフォード・ワイル
   (Sanford I. "Sandy" Weill)

 1933年3月16日にNYブルックリンで生まれ、55年にコーネル大学を卒業後
   ベア・スターンズ
に入社、翌年ベア・スターンズのブローカーとなった。

 60年5月には証券会社を設立し、これが70年にCBWL・ヘイデン・ストーンとなった。
  
 72年にヘイデン・ストーン、74年にシェアソン・ハミルを買収して
   シェアソン・へイデン・ストーン
に社名を変更し、シーグラムの経営者でブロフマン一族の一人、79年に世界ユダヤ人会議会長の
   エドガー・ブロンフィマン
の一族が経営していた老舗のローブ・ローズ・ホーンブロワー(Loeb Rhoades Hornblower)と買収合併させ
   シェアソン・ローブ・ローズ
となった。

 ワイルのシェアソンは証券界でメリルリンチに次ぐ規模にまで成長した。
 
 ワイルは81年、シェアソン・ローブ・ローズを
   アメリカン・エキスプレス
に約9億3千万ドルで売却し、83年にはアメリカン・エキスプレスの社長に就任した。

 84年5月、シェアソンは
   リーマン・ブラザーズ・クーン・ローブ
と合併し、シェアソン・リーマン・ブラザーズとなった。

 86年にはワイル自身の金700万ドルを使って
   コマーシャル・クレジット
という小規模な消費者金融会社を買収して、経営を再建後IPOを実行した。

 87年には保険会社ガルフ・インシュランスを獲得した。
 88年、ワイルはプライメリカとスミス・バーニーを買収した。

 プライメリカは93年にアメリカン・エキスプレスからシェアソン・リーマンを買収した。
 さらに、プライメリカはトラヴェラーズを買収した。

 ワイルは、スミス・バーニーとシェアソン・リーマンを合体させて
   スミス・バーニー・シェアソン
と改称したうえリーマン・ブラザーズを分離した。
 なお、リーマン・ブラザーズは94年にプライメリカから独立したのち倒産し、世界の金融不安を引き起こした。

 ワイルが会長となったトラヴェラーズは97年に
   ソロモン・ブラザーズ
を約90億ドル買収した。
  

 このソロモンの会長には世界最大の投資持株会社である
   バークシャー・ハサウェイ
の筆頭株主で「オマハの賢人」とも称される
   ウォーレン・バフェット
が就任している。

 さらに1998年にスミス・バーニー・シェアソンとソロモンを合体させてソロモン・スミス・バーニーが発足した。

 そして、98年4月、トラヴェラーズがシティコープとの合併を発表し、10月8日にこの合併は完了、世界最大の金融機関シティグループが誕生した。

 シティコープ会長だったジョン・リードとワイルが共同会長に就任した。
 このころのワイルの年収は300億円で米報酬額トップだった。
  
   
    
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2018年02月06日

ダグラス・マッカーサー レインボー師団を率いる


 ダグラス・マッカーサーはウィルソン大統領に欧州に送り込む最初の師団は
   全州の州民から徴募
して創設した師団にしたいと提案した。
 
 米国兵は一丸となって戦いぬくという姿勢を示すことで米国民の戦意を鼓舞するためであったという。

 ウィルソン大統領はマッカーサーの提案を採用した。
 各州の州兵からなる第42師団を立ち上げた。
 
 マッカーサーはウィルソン大統領に
   「虹のように様々なカラー(気風)」
を持った各州住民が、大西洋にかかる虹のように戦場に向かうのですと説明した。
 これに感銘を受けたウィルソン大統領は第42師団に
   「レインボー師団」
の名前を与えた。

 発案したマッカーサーは第42師団「レインボー師団」の参謀長・旅団長に就任した。
 同師団は1918年(大正7年)2月に西部戦線に動員され、米軍で第一次世界大戦の実戦に参加した最初の部隊の1つとなった。
 
 マッカーサーは雨のような銃弾にもひるまずに
   突撃隊
を率いて果敢に敵の陣地を強襲した。
       

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2018年02月03日

ダグラス・マッカーサー 米国陸軍士官学校史上抜群で卒業


 マッカーサー家が元々は英国貴族の血筋で、祖父の
   アーサー・マッカーサー卿
の代に英国から米国に移民したもので祖父まではサーの称号を持っていた。

 幼少期は、母ピンキーによってフランスの風習に倣い女子の格好をさせられていた。
 こうした風習が人格形成への悪影響を危惧した父によって陸軍士官学校に無理やり入学させられることとなった。

 1899年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校にトップ入学した。
 1903年に陸軍少尉で卒業した。
 
 なお、この時期、子離れしないマッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住んでいたという。
 その成績は米国陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はロバート・リーなどこれまで二名しかいないという。

 卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉として米国の植民地であったフィリピンに配属となった。
 彼の長いフィリピン生活の始まりであった。
 
 1905年に父が駐日米大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。

 その後に陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長についた。
 
 1917年(大正6年)4月に米国が第一次世界大戦に参戦することが決まった。
       

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2018年02月02日

大 祚栄(だい そえい) 渤海の初代王


大 祚栄(だい そえい)

 ツングース系民族の靺鞨と呼ばれる民族で、渤海の初代王として唐から与えられた称号は
   渤海郡王
で、忽汗州都督府都督の官職を受けた。

 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して中国五代十国時代の後晋出帝の時に
   劉昫、張昭遠、王伸
らによって編纂された歴史書「旧唐書」には「渤海靺鞨の大祚栄、本は高麗の別種なり」と記し、「新唐書」ではより具体的に「本来高句麗に付いていた粟末靺鞨の者で、姓は大氏である」と記述している。
 
  
 万歳通天元年(696年)に営州地方(現在 遼寧省朝陽市)で父の
   乞乞仲象
と共に自立を画策し、聖暦元年(698年)には自立の動きに反対する
   武周軍
を破って震国を建国した。

 武周は震国を牽制するために、大祚栄に官職を与える懐柔策や、軍事的な圧力を加えることで緊張関係が継続した。
 神龍元年(705年)には復活した唐の招安に応じ、唐臣としての地位を確認している。

 唐では攻略が上手くいかず結局先天2年(713年)に「渤海郡王」の称号を与えた。
 これと同時に忽汗州都督府都督を兼任することで正式に冊封体制に組み込んだ。

 外交関係としては、唐との修好関係以外に突厥、契丹、新羅、日本との外交関係も構築した。
 なお、海を隔てた日本を除く4ヶ国との緩衝国家としての地位を評価する説がある。

 開元7年(719年)に薨去、その地位は次男の大武芸が継承した。
   

    
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2018年01月06日

パスカル・パオリ(Pascal Paoli) コルシカ民族主義の指導者


パスカル・パオリ
    (Pascal Paoli)
    
     1725年4月6日 - 1807年2月5日

 コルシカ独立戦争、コルシカ民族主義の指導者

 本名はフィリッポ・アントーニオ・パスクワーレ・ディ・パオリ(Filippo Antonio Pasquale di Paoli)

 コルシカのモロサリア出身で13世紀から続いていた海洋国家ジェノバ共和国のいよるコルシカ島の支配に抵抗して独立運動を進めた。

 1739年に抵抗運動への弾圧が強まり父と共にナポリ王国へと亡命した。
 1745年、ナポリ大学に学んだのちシチリア王国に渡り軍人となった。

 独立運動指導者のガッフォーリの暗殺を聞いてコルシカに帰還する決意を固めた。

 1755年、帰国すると、評議会の議決により、コルシカ王国の最高職であった「将軍」という地位に付いた。
 憲法等を発布して近代国家としてコルシカを整備しようとした。

   


 1768年にジェノヴァからコルシカの領有権を購入したフランス軍がコルシカ支配のため軍事侵攻し、2度目のフランスの侵攻
   ポンテ・ノーヴォの戦い
に敗れたパオリは、イギリスに亡命した。

 フランス革命後、フランス政府の許しを得て、コルシカに帰還した。

 パオリはコルシカの独立を心から望んでいたが、一方で、君主制主義者であった。

 8月10日事件で王制を打倒したのみならずルイ16世を処刑するに至った革命を嫌悪した。

 フランス軍の中尉となっていた
   ナポレオン・ボナパルト
は、初めこの英雄パオリを崇拝していた。

 彼は王制を打倒した革命(政権)を受け入れる立場で、次第に路線の違いが明らかになっていった。

 パオリとその腹心ポッツォ・ディ・ボルゴらはイギリスの間接統治を主張するパオリ派を形成した。

 これに対し、リュシアン・ボナパルトがトゥーロンで告発演説を行った。
 1793年、国民公会はパオリ逮捕命令を発した。

 しかしこれに従う者はおらず、アジャクシオで騒乱があって、パオリ派の支配する議会はボナパルト一族を島から追放した。

 1794年、パオリはイギリス統治を受け入れ
   アングロ=コルス王国
を成立させるがまもなく副王の
   ギルバート・エリオット
と対立するようになり、1795年にはイギリスによって島から出るように命じられ、3度目の亡命を強いられた。

 イタリア軍司令官となっていたナポレオンは、1796年にコルシカを再占領して奪回した。
 パオリはそれを亡命先のロンドンで知り、二度と島の地を踏むことなく、1807年に亡くなった。

 遺体は1889年になって郷里のモロサリアへ戻され、同地の教会に埋葬された。 

    
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2018年01月01日

ウンベルト・ヴァレンティ ニューヨーク最強のガンマン


ウンベルト・ヴァレンティ
     (Umberto Valenti)

   1891年8月14日 - 1922年8月11日

 ニューヨークのシチリア系マフィアの1人で
   ジョー・マッセリア
との銃撃戦で知られ「ニューヨーク最強のガンマン」と呼ばれた。
 
 シチリア島バルチェッローナ・ポッツォ・ディ・ゴット生まれた。
 1910年に家族とともに渡米し、ロウアー・イースト・サイドに定住した。

 シチリアマフィアの
の犯罪組織に加入したとも、モレロ一家の用心棒をやったとも言われているが経歴の詳細は不明な部分が多い。

 1914年5月、ダキーラのライバルだったイースト・ハーレムのモレロ一家の
   チャールズ・"フォーチュナト"・ロモンテ
を殺害した実行犯と見られており、殺害成功によりダキーラの
   トップヒットマン
の地位を確保したのち、多くの暗殺を請け負った。

 標的の暗殺後すぐ消えていなくなることから「ゴースト」の異名もあった。

 禁酒法時代にはロウアー・マンハッタンのイースト・ヴィレッジで酒の密売を始めた。

  
 1920年12月29日、ヴァレンティの密輸仲間
   サルヴァトーレ・マウーロ
が密輸ライバルの
を襲ったものの反撃され、銃撃戦の末、逆に殺された。

 この襲撃で捕まったマッセリアは自己防衛を主張して罪を逃れた。

 その後、ダキーラと衝突して暗殺ターゲットになるとシチリアに逃亡した。

 1922年1月帰国し、ダキーラと和解すると、モレロ一家に死の宣告を出していたダキーラの命でモレロ派打倒の前線に立つこととなった。

 1922年5月8日、モレロ一家の
を暗殺した。

 翌日、マッセリアに仕返しされ、グランド通りで襲撃されたものの、用心棒
   シルバ・タリアガンバ
が銃撃を受けて重傷を負うなか間一髪のところを逃げおおせた。

 マッセリアは殺害容疑で検挙されたが、裁判まで至らず放免されている。

 1922年8月8日、イーストヴィレッジのマッセリアの自宅近くで待ち伏せし、家を出たところを至近距離から3-4発撃った失敗し、近くの商店街に駆け込まれて逃げられた。

 ヴァレンティ一味もすぐに車でその場を離れたが、組合会議から解放された多数の労働者が5丁目通りの路上にいた。
 そちらの方向に逃走車が近づき、通行を阻止されたため、無理矢理突破しようと彼らに銃口を向け発砲した。
 この発砲で6人負傷し2人が死亡した。
 
 
 1922年8月11日昼11時45分頃、イースト・ヴィレッジのカフェで話し合いをしていた時に銃撃戦となり、敵の発砲の中をダッシュして走行中のタクシーに飛び乗った。
 しかし、胸に被弾しており座席内で崩れ落ち、病院に運ばれた。

 警察は事情聴取しようとしたがほとんど意識不明な状態で何も聞けず、銃撃から1時間後に死亡した。

 その後、警察はマッセリアを取り調べたが証拠がなく放免した。

 当時は、マッセリアが和解の話し合いと称してヴァレンティをおびき出し、謀殺したと噂されていた。
   

    
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2017年12月29日

イニャツィオ・ルポ(Ignazio Lupo) 組織犯罪「モレロ一家」の中核を担った幹部


イニャツィオ・ルポ
      (Ignazio Lupo)
         1877年3月19日 -
             1947年1月13日

 シチリア島パレルモ出身のニューヨークのマフィア
   モレロ一家
の組織犯罪の中核を担った幹部で、あだ名は「ウルフ」と呼ばれた。

 父親のロッコはシチリア島の地元マフィアの組員でrルポが10歳の時から父が経営する雑貨店の手伝いをやっていた。

 1898年10月、商売の競合相手を店で口論の末に射殺してしまった。
 そのため、警察に追われ1899年にシチリアからリバプール、カナダを経由して逃亡し米国に密入国した。

 NY市のマンハッタンのロウアー・イースト・サイドに流れ着いた。
 
 生活費を稼ぐため、慣れた商売の雑貨屋を開いたものの売れず、ブルックリンに拠点を変えて移り住んだ。 

 1901年には再びマンハッタンに戻り、リトルイタリーの一角でもあるプリンスストリートで輸入雑貨店を開いた。


 この店がシチリア島のコルレオーネ出身のマフィア
   ジュゼッペ・モレロ
の酒場の近くにあったため、モレロと懇意になり
   紙幣偽造
やイタリアからの移民を相手にした強請(ブラックハンド)を始めた。

 また、ピンハネを目論み、移民の商人に自分の品物を強制的に購入させたりした。
 こうした高い商品を買わないと店に放火したり爆弾を投げ込み、時には店を破産させる犯罪行為を繰り返し恐怖心を与えた。
 
 
 偽札や強請で稼いだ資金は合法ビジネスに回して、オリーブオイルやイタリア産レモンの
   輸入ビジネス
を拡大し、マンハッタンからブルックリンまで各所に支店を作っていった。

 なお、オリーブオイルやイタリア産レモンの輸入は
   年商50万ドル(当時)
とも言われニューヨークでも最大規模を誇った。

 こうして得た収益でリトルイタリー(モットストリート)に新たに本社を建てた。
 建物は豪華で、街中でひときわ目立ったという。

 商売道具の馬やワゴンは最上級のものを購入して、好んでリトルイタリーを馬車で派手に乗り回した。


 ルポの輸入ビジネスは
   合法の利益を増やす表の目的
   偽札の消化を隠ぺいする裏の目的
があり、ルポはモレロ一家の資金を管理する財政係として活動していた。

 また、潤沢な資金を使って組織内のパレルモ派閥を統括する存在とも言われた。
 
  
 1903年12月、モレロの義理の妹(テラノヴァ兄弟の実姉)と結婚しモレロとの姻戚関係を強化した。

 1906年3月7日には著名な銀行家の子供を誘拐・監禁したとして逮捕された。
 ただ、子供が法廷でルポと対面するとそれまでの証言を撤回したため、釈放された。
 
 
 1902年7月23日、雑貨商
   ジュゼッペ・カターニア
の袋詰めの遺体がベイリッジの岸辺で発見された。

 偽造犯罪の捜査でモレロ一家の張り込み監視をしていた
   シークレットサービス(USSS)
の監視記録にでは、カターニアの姿が確認できなくなる前にルポと一緒にいる姿が最後に目撃されていたという。

 ルポと居たのがカターニアを見た最後だったため、警察は、カターニアが紙幣偽造の仲間で、口封じで殺されたと推測した。
 ただ、明らかな証拠がなく起訴を見送った。

 1903年4月には一家のメンバーの親族
   ベネディット・マドニア
が木の樽入りの遺体で発見された。

 この事件は「バレルマーダー」事件と呼ばれ、モレロら12人と共にルポも逮捕された。
 ただ、この時も証拠が不十分で釈放されている。

 更に1902年に遡る紙幣偽造の件で再逮捕されたものの、これも証拠不十分で放免されている。

 1908年11月、不景気のあおりを受け会社は倒産、10万ドルの負債を残してルポは失踪した。


 ワインや雑貨など大量の物資を買い付けたうえ、その代金を支払うことなく失踪した。
 多くの取引相手は代金が支払われないためルポの家に集まったが、夜逃げしていた。

 同時期には不況の影響からかマンハッタンからブルックリンまで作為的に取り込み詐欺を働いたと見られる似たような雑貨会社の破産が相次いだ。
 こうした店舗の倒産による被害の総額は50万ドルに達したという。


 ルポは買い付けた大量の品物を倉庫に一旦保管したのち、秘密裡に輸出して故郷で売りさばいた。
 また、この商品を担保として銀行から巨額の金を借りたうえ、これを着服した。

 その他にも、抵当権が設定された建物を何も知らない商人にリースするなどで不正な不動産取引も行った。
 
 
 モレロ一家のアドバイザーで弁護士
   フィリップ・サイエッタ
はルポの銀行借入を仲介したり、破産詐欺の手口をアドバイスし犯罪行為に手を貸した。

 ルポの雑貨チェーンの傘下には、モレロ一家の
   アントニオ・チェカラ
   ジュゼッペ・パレルモ
   アントニオ・パッサナンティ
   フランク・ジト
などの組員がいた。

 1909年後半まで逃亡生活を続けたのちニューヨークに戻ると、銀行家や債権者を前にして
   「ブラックハンドから1万ドルを脅し取られ」
事業が立ち行かなくなったと自らが強請ギャングの被害者のように振る舞い主張した。

 物資の一部は既にイタリアに出荷され手に戻すことは出来なかったが残った物資は競売にかけられたものの被害の回収はできず
   被害者の証言
をもとに詐欺容疑でルポは逮捕された。

 ただ、1909年11月に証言していた被害者がルポの公判に出廷しなかったため、罪状は否認され釈放された。

 ルポが行方をくらましている1909年春、パレルモでマフィアの調査に来ていたニューヨーク市警の特別捜査官
   ジョゼッペ・ペトロジーノ
が暗殺された。

 この暗殺についてはモレロや現地のヴィト・カッショ・フェロと共に暗殺の謀議に加わっていた疑いがあるという。

 ペトロジーノは1900年代初めから
   モレロ一家の犯罪活動
を捜査しており、直近はイタリア系捜査官の特別チームを作るなど取締りを強化していた。
  
 ペトロジーノのイタリア出張行程は極秘だったが事前に新聞にリークされ、誰もが予定を知り所在を推測することができた。
 
 
 1908年半ば、モレロ一家は再び紙幣偽造の準備を始めた。

 ルポは北ニューヨークのハイランドの農場に作った紙幣偽造工場を時々視察し、進行状況をチェックした。

 1909年、不穏な動きをするモレロ一家にUSSSが反応し、メンバーを尾行してハイランドの拠点を突き止めた。

 1910年1月8日、バスビーチの自宅で
   ジュゼッペ・パレルモ
といるところを
   ウィリアム・J・フリン捜査官
が率いるUSSSチームが突入し逮捕された。

 1910年2月19日、先に逮捕されていたモレロと共に紙幣偽造の罪で30年刑で実刑判決を受け、アトランタ連邦刑務所に収監された。

 裁判中、判事の元に死の脅迫状が届き、裁判後にはフリン捜査官の暗殺を画策したが失敗に終わった。


 モレロ一家はその後もモレロのやルポの減刑・釈放を画策し、政治クラブまで作った。

 1920年6月、条件付きの恩赦で出所した。

 服役していた10年間に裏社会の勢力図は一変しており
   禁酒法
の下でギャングが激しい縄張り争いを展開していた。

 ルポのリトルイタリーやブルックリンの縄張りは、パレルモ系マフィアの
に侵食され支配されていた。


 1921年半ば、同じ頃出所したモレロと共にダキーラから「死の宣告」を受けた。
 そのため、同年11月頃シチリアに逃亡した。

 シチリアで味方の支持の取り付けに奔走し1922年5月、ニューヨークに戻ると、モレロはダキーラと戦った。
  
 ルポは再犯すると刑務所に逆戻りとなるため、モレロの異父弟の
   チロ・テラノヴァ
の家で隠遁していた。

 1923年12月に、ブルックリンでパレルモ派閥のマフィアとカラブリア系ギャングの縄張り争いの調停役を請われるなど一定の影響力を保持した。

 1927年テラノヴァの資金援助でブルックリンに家を建て、息子とフルーツ輸入やパン屋を始めた。

 ただ、ドル箱の酒の密輸には関与できず、強請ギャングを率いてイタリア系のパン職人組合に入り込み、会費を名目に日銭を稼いだ。

 また、フルーツ取引では葡萄の卸売をコントロールした。
 ブルックリンの販売利権を手中にしたほか、宝くじなど違法賭博も行った。

 1930年と1931年、ルポの葡萄利権に挑戦した商売敵を殺害した容疑などで2回逮捕されたmのの、証拠欠如で放免された。

 1935年、パン屋への強請行為で逮捕された。

 被害者のパン屋の多くは報復を恐れて証言しなかった。

 ただ、あるパン屋の女性は店に放火され爆弾で商品を台無しにされても強気で、ルポの脅迫暴力を法廷で証言した。

 この頃、長年のパトロンだったテラノヴァの裏社会のステイタスは低下していた。

 1936年7月、ルポは有罪となった。
 そのため、再犯によって恩赦資格が停止され、20年の残存刑期を服役すべくアトランタ刑務所に送り返された。

 
 1940年代、かつての仲間の多くは引退又は死亡し、同じ刑務所にいた比較的新しい部下達とは年齢が離れ過ぎて、1人で過ごす時間が増えた。

 孤独を紛らわすため宗教に走った。

 なお、規則を無視する問題児だった1910年代の監獄生活とは打って変わり、仕事の裁縫をきれいにこなして仕立て屋に褒められるなど模範囚になった。

 監獄医はルポが精神疾患を抱え、老年性痴呆の兆候があると診断した。

 1945年夏には、「ボケや子供じみた態度を取ることが増え、急速に容態が悪化している、家族が面倒をみられるうちに釈放した方がいい」と勧告した。

 恩赦破りの囚人の再出所は法手続で難航した。

 1946年12月21日、病気を理由に釈放された。持ち金が8ドルしかなく、刑務官から旅費を借りてニューヨークに戻った。

 妻は長年の貧窮から持家を売却してクイーンズの借家に移り、子供がしばしば訪れていた。
 釈放から3週間後、家族とクリスマスを過ごした後の翌年1月13日に死亡した。
  
  
     
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2017年12月27日

モレノの最後


 モレロの出所を脅威とみなしたシチリア系のサルヴァトーレ・ダキーラ一家は、ジュゼッペを含むモレロギャング全員に死の宣告を出した。

 モレロは潜伏し、一時シチリアに退避した。
 その間ダキーラは、当時ニューヨークの最強のガンマンと言われた
   ウンベルト・ヴァレンティ
を使ってジョー・マッセリアらモレロ派残党の暗殺を命じている。

 1922年8月、ヴァレンティがマッセリアに返り討ちにあい、謀殺された。

 モレロは組織のトップの座をマッセリアに譲り、自らはその相談役になった。

 出所後のモレロは派手な犯罪活動を控えるようになった。


 1920年代は賭博のポリシーゲームや土建業強請を収入源にした。

 1920年代後半、建設業界に大々的な強請を行った
   トミー・ガリアーノ
のユナイテッド・ラーシング・カンパニーの役員リストにモレロの名があったという。
 
 
 1930年2月、カステランマレーゼ戦争が起こると、マッセリアの参謀兼戦略アドバイザーを務めた。
 このため、マランツァーノ派から敵視されて命を狙われた。

 1930年7月15日、マランツァーノ派の重鎮
   ヴィト・ボンヴェントレ
が殺害された。

 その仕返しとして1930年8月15日、イーストハーレムの事務所で現金や領収書を整理しているところを、マランツァーノ派の2人の暗殺者に襲われ、5発の銃弾を浴びて殺された。
  
  
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ヴィンセント・テラノヴァ モレロ一家の幹部


ヴィンセント・テラノヴァ
      (Vincent Terranova)
     1886年5月15日 ― 1922年5月8日

 ニューヨークの犯罪組織モレロ一家の幹部
 酒の密輸で財を築き
   ハーレム・タイガー
   ヴィンセント・モレロ
とも呼ばれた。
 
 シチリア島コルレオーネで生まれ。地元マフィア
   ベルナルド・テラノヴァ
の息子で3人兄弟(次男チロ、三男ニコラス)の長男である。

 なお、ジュゼッペ・モレロは異父兄である。


 1892年一家で渡米し、ニューヨークからルイジアナ、テキサスなどを転々とした。
 1896年頃、ニューヨークに戻り、イースト・ハーレム地区に定住して学校に通いながら家族の左官業を手伝った。

 モレロ一家あるいは「107丁目ギャング」とも呼ばれた組織に加入した。


 1908年9月、ハーレムでイタリアンロッテリー(イタリア式富くじ)を運営していたライバルのサム・シッカ(Sam Sicca)を殺害した疑いで逮捕されたが、のち証拠不十分で釈放された。

 
 1910年、ジュゼッペ・モレロが逮捕収監されると弟チロやニコラスと共にモレロ一家のリーダーの一人となった。

 1915年5月、ナポリ系ギャングの大物
   ジョシュ・ガルッチ
を、ブルックリンのカモッラ勢(ペリグリーノ・モラノやネイビーストリートギャング)と共謀して殺害した。
 ガルッチの賭博利権を奪った。

 また、冷蔵庫のない時代の生活必需品である
   氷の配給ビジネス
に進出した。


 ブルックリンカモッラと同盟関係を結び、その後、「マフィア−カモッラ戦争」と呼ばれる
   対カモッラ抗争
で弟のニコラスと共に、ライバルの暗殺や反逆者への制裁を主導した。


 1916年9月、カモッラ勢によりニコラスが暗殺、身辺が騒がしくなりカモッラに執拗に命を狙われた。 


 1917年11月、カモッラの主要リーダーが
   内部密告
で芋づる式に逮捕されたことで目先の脅威は消えたうえ、カモッラに取られたハーレムの賭場の縄張りを奪い返した。


 1913年、レイナ一家(後のルッケーゼ一家)の
   ベルナルディナ・レイナ
と結婚した。
 

 禁酒法施行後、縁戚の
   ヴィンセント・サレミ
やナポリ系の
   "ジョー・ペッポ"ヴィセルティ
とハーレム向けのアルコール密売を始めた莫大な財を築いた。

 カラブリア系ギャングの
が経営する酒場ハーヴァード・インの経営に参画したことでカモッラ戦争以来となるブルックリン進出を図ることが出来た。


 懐が潤沢になったことでダイアモンドの指輪を付け、ピンストライプの高価なスーツとシルクのシャツを着こなした。

 素行が目立ったことから「ハーレムタイガー」の異名を得て、いち早く密輸成金の仲間入りをした。

 
 1920年3月になるとジュゼッペ・モレロが出所し、一家のボスに返り咲いた。

 1921年夏頃、モレロ一家が勢いを取り戻すのを恐れた
はモレロ一家全員に死の宣告を出し、抗争が勃発した。

 1921年10月、ヴィンセントの密輸仲間ジョー・ペッポが射殺された。

 
 1922年5月8日朝、ハーレム116丁目の自宅近くで、走行中の車からショットガンで銃撃され9発の兆弾を浴びて死亡した。
 なお、ヴィンセントは反射的に持っていた32口径リボルバーで撃ち返している。
 
 モレロ派のジョー・マッセリアに密輸仲間の
   サルヴァトーレ・マウーロ
を殺されたウンベルト・ヴァレンティの仕返しとされている。


 ニコラ・ジェンタイルによれば、ヴァレンティは元々ダキーラ配下で、ダキーラと喧嘩してモレロらと同じく死の標的にされていた。

 その後、和解してモレロ派を攻撃していたとされる。

 なお、ヴィンセント暗殺の3か月後にヴァレンティを謀殺したマッセリアが一家を継ぎ、ジュゼッペ・モレロがアドバイザーとなった。
   

    
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posted by まねきねこ at 17:27| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月23日

ジュゼッペを含むモレロギャング全員に死の宣告


 1912年、義弟
   ニコラス・テラノヴァ
はモレロが釈放されるよう、フリン捜査官の子供を誘拐することを企てた。

 さらに、モレロの復帰のため
   政治クラブ
を作ったりした。

 同年4月、モレロの息子
   カロゲロ・モレロ
が銃撃戦の末に殺された。
   

 1920年3月、減刑の請願が実り出所したのち一家のボスに復帰した。 

 モレロの出所を脅威とみなしたシチリア系のサルヴァトーレ・ダキーラ一家は、ジュゼッペを含むモレロギャング全員に死の宣告を出した。

 モレロは潜伏し、一時シチリアに退避した。
 その間ダキーラは、当時ニューヨークの最強のガンマンと言われた
   ウンベルト・ヴァレンティ
を使ってジョー・マッセリアらモレロ派残党の暗殺を命じている。

 1922年8月、ヴァレンティがマッセリアに返り討ちにあい、謀殺された。
  

  
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2017年12月21日

リーダーを失ったモレロ一家では派閥争いに突入


 1909年11月15日、モレロは自宅で
   ウィリアム・J・フリン
が率いるUSSS捜査チームに踏み込まれ、逮捕された。

 USSSは、モレロの紙幣偽造団に半ば強制されて加担させられていたカラブリア系印刷屋
   アントニオ・コミト
に照準を絞り、偽造活動や組織の内幕を自白させた。

 1910年1月、ルポら仲間7人と共に紙幣偽造の罪で起訴され、2月19日、コミトの証言が決定打となって懲役25年の有罪となった。

 控訴して減刑の根回しを図ったが却下され、同年4月20日、アトランタ連邦刑務所に収監された。
 収監中、減刑を画策して検察と書面の応酬を繰り返した。 

 リーダーを失ったモレロ一家では派閥争いに突入し、組織の求心力は急速に低下した。
  

  
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2017年12月17日

モレロ 組織のメンバーに厳しい沈黙の掟



 偽札犯罪担当の
   連邦シークレットサービス(USSS)
は、ニューヨーク市警と連携してシチリア系組織犯罪の
   モレロ一家
の捕縛を主導し、2度目の偽札事件があった1902年以降、個々のメンバーを常時監視対象としていた。
 イタリア系の捜査官は移民に変装して尾行や会話の盗み聞きを重ねた。
 しかし、持ち前の用心深さから決定的な手掛かりは与えなかった。

 組織のメンバーに厳しい
   沈黙の掟
を課しており、裏切り者は見せしめに残虐な方法で処刑した。

 死体を作業袋や樽に詰めて遺棄または架空の住所に送り付けて処理した。
 一説にはモレロが関わった殺人の数は60人とされている。
 
 
 1909年3月12日、USSSと連携してモレロ一家を追いかけていたニューヨーク市警の
   ジョゼッペ・ペトロジーノ
が訪問先のシチリア島パレルモで暗殺された。

 不景気の煽りを受けて1908年にはモレロの不動産会社やルポの雑貨ビジネスが資金難に陥った。

 再び紙幣偽造の準備を始めたが1909年、USSSはメンバーを尾行してニューヨーク郊外ハイランドでモレロ一家が立ち上げ中だった紙幣偽造工場を突き止め、メンバーを泳がせて物的証拠を積み重ねた。
  

  
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2017年12月16日

平野屋 末吉 孫左衛門(すえよし まござえもん) 徳川家康から朱印状を受けた豪商


末吉 孫左衛門(すえよし まござえもん)
 
    元亀元年(1570年) -
         元和3年3月26日(1617年5月1日)

 京都・伏見の銀座の頭取である摂津国平野郡平野庄(現在の大阪市)発祥の氏族
   平野勘兵衛利
後の末吉利方の長男に生まれ、江戸時代初期に徳川家康から朱印状を受け
   朱印船貿易
で活躍し大坂の豪商となった。名は吉安(吉康)という。
 なお、出家後は同円。
 
 同時期に朱印状を受けた商人としては荒木宗太郎や角倉了以らがいる。
 
 「末吉船」とよばれる大船を仕立てて、インドシナ・フィリピンなど南洋方面に出かけて貿易をした。
 大坂の陣には家康のために働き、平野、河内など2郡の代官となった。   

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2017年12月15日

出雲建(いずもたける)


出雲建(いずもたける)

 ヤマトタケル(倭建命/日本武尊)に征伐された出雲の豪族で「古事記」等に記載されて伝わる人物。
 「日本書紀」に記載はない。

 日本最古の歴史書のひとつでもある「古事記」の景行天皇段によれば
   倭建命(やまとたけるのみこと)
は天皇の命で
   熊曾建(くまそたける)
を討伐した。

 そののち、帰途に出雲を征服しようと同国に入った。
 臣従しない出雲建を殺そうと考え、まず出雲建と親しくなった。

 倭建命は密かに赤檮(イチイ)の木で木刀を作って偽の佩刀とした。

 出雲建と肥河(斐伊川)で水浴した際、先に川から上がって出雲建の刀を身に着けて刀の交換を提案した。
 果たして、遅れて川から上がった出雲建は偽の刀を身につけた。 

 倭建命が成敗しようと出雲建を襲ったところ、刀を抜くことが出来ずに討たれてしまった。


 「日本書紀」には出雲建に関する記述はない。
 ただ、同工異曲の説話として、崇神天皇60年7月条において
   出雲振根
による弟の飯入根の討伐伝承が記されている。

 名称の「イズモタケル」は、ヤマトタケル(倭建)やクマソタケル(熊曾建)と同様に、「(地名)+勇猛な人」の意になる表現と見られる。

 ただ、地方首長を「タケル」とするのは熊襲・出雲のみで、いずれもヤマトタケルに征伐されている。
 このため律令国家の体制が固まる時期に編纂された書籍であり、説話の形成時期のこれら辺境の2地域が、中央から見て対抗している勢力であり
   「征服されるべき地域」
として位置づけられていたとの見方ができる。 

    
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2017年12月13日

モレロ NY市警の警官を賄賂漬け


 1902年12月、組織メンバーの
   ジュゼッペ・ディプリモ
ら3人が偽造紙幣の操作を行っていた
   連邦シークレットサービス(USSS)
に尾行され、紙幣偽造の現行犯で検挙された。

 ディプリモは懲役4年で収監された。
 1903年4月、バッファローから来たディプリモの親族
   ・マドニア
はディプリモの仕事の取り分を貰おうと正面切って要求してきたため、USSSからの追及の恐れが強まったためベネディットを仲間のパン屋に誘い込み、口封じのため刃物で切り刻んで殺害した。

 殺した死体は木の樽に詰め、空き地に遺棄した。
 検視では首は殆ど切断され、60個の刺し傷があったという。

 新聞はその残虐な殺しぶりを「バレル・マーダー(木の樽殺し)」と呼び、大々的に報じた。

 
 木の樽は組織メンバーの
   ピエトロ・インゼリッロ
が経営するパン屋にあった砂糖の樽と同じものであった。

 この樽は発送元のパン製造工場からインゼリッロが砂糖を注文して付け届けられたことが捜査で判明した。

 また、木の樽の中にあった煙草の吸殻と同じイタリアブランドの黒い煙草がモレロの酒場にもあった。

 同4月にバレルマーダー事件の関連でメンバー11人と共に逮捕された。
 ただ直接犯行を結びつける証拠はなく、状況証拠としても不足していたため起訴には不十分で釈放された。
 

 コルレオーネ出身者を中心に、広くシチリア各地の出身者を取り込んで急速に犯罪組織としてのネットワークを拡大させ1905年頃までに一大勢力を築くことに成功した。

 犯罪組織では強請、高利貸し、イタリア式富くじ、強盗、紙幣偽造など組織的な犯罪活動を展開した。

 こうした違法ビジネスで得た収入を商店やレストラン、不動産ビジネスに回して闇資金をマネーロンダリングした。


 ニューヨーク市警の警官に対しては捜査状況を把握するため賄賂漬けにし、逮捕の動きなどがあると内部情報を漏らしてもらい逮捕される前に身を隠した。

 タマニー・ホールの有力政治家
   ティモシー・サリバン
とも人脈を築いて裁判を有利に運んだ。

 1908年頃からはルポら複数メンバーに地元商店を利用した破産詐欺を行わせた。

 モレロの組織は、「社長(ボス)」、社長に任命された「コーポラルCorporal(幹部)」3-4人、大勢の一般構成員から成っていると後年捕まった
   アントニオ・コミト
が捜査官に証言した。

 また、「コーポラル」が「社長」の命令を実行する責任を持つことや、大勢の構成員が手足となって動くという体制で、社長はモレロだったことを明らかにした。

 構成員は、1910年時点で100人程度と見られ「ザ・107丁目ギャング」または「ブラックハンド」と呼ばれ、米国の組織犯罪先駆けであった。
  

  
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2017年12月08日

モレロ 偽造した5ドル札のマネーロンダリング


  
 ジュゼッペ・モレロ(Giuseppe Morello)は1899年、シチリア島の犯罪組織のボス
と結託して、シチリア島で印刷した
   偽造5ドル札
をブルックリン港経由で密輸し持ち込んだ。


 ブルックリンではこの偽札が出回り、1900年6月11日、偽札犯罪担当の
   連邦シークレットサービス(USSS)
に逮捕された。
 しかし、証拠が乏しく起訴され無いまま放免されている。

 
 1902年7月23日、組織のメンバーでブルックリンの雑貨商の
   ジュゼッペ・カターニア
が袋詰めにされ両耳の根元まで喉を掻き切られた遺体で見つかった。

 警察では、偽造の犯行がバレルのを未然に防ごうとして、紙幣偽造に絡んだモレロによる口封じと推測したが、具体的な犯行を明らかにする証拠が揃得られず起訴を見送った。

 
 1902年、イタリアで印刷した5ドル紙幣を、オリーヴオイルの空き缶に詰めてニューヨークに運んだ。
 この偽造紙幣を経営する会社の株の配当の支払に使った。

 株主には配当の即時処分を義務付けて当局の追跡を遮断した。
 この偽札は前回より紙質が良く、より精巧に仕上がっていたという。

 偽造5ドル札が再び移民居住区で出回り、当局はモレロの仕業と判断して捜査を始めた。

 1903年1月、紙幣偽造の告発で逮捕されたものの証言者がモレロの関与を否定し、無罪となった。
 1908年までに刷った偽造紙幣は数十万ドルに及んだという。
  

  
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