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2018年07月14日

不動産業者等が保有する資産価値の向上が目的


 
ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世
   (Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III)
               (1944年5月28日 - )

 ニューヨーク市長に就任したジュリアーニがニューヨーク市の治安回復と共に力を入れたのは、不動産業者等が保有する資産価値の向上が目的とも見られ、中心部の再開発であった。
 
 タイムズスクエアは長い間、危険な場所と認識されていた。
 犯罪が減少するにつれその利便性が見直され、同地の再開発は積極的に推進された。
 
 観光客・家族などを中心とする一般消費者が深夜まで安全に訪れることのできるエリアに生まれ変わり消費が増加していった。
 
 また、優良企業でもあるディズニー、MTVスタジオ、ABCスタジオなどが同地に移転し、不動産価格の大幅な上昇などもあり、一応の成功を収めている。
 
 また、ジュリアーニは自身でもラジオ番組を持ち、広報活動のために出演した。
 
 NY市の安全化によって観光客は増加し、税収がアップしたことで米国経済にも好影響を与えた。
 
 1997年にニューヨークを訪れた人々が使った金額は137億ドルに上り、ここから7億1000万ドルの税収がニューヨークにもたらされている。
 
    
            
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2018年07月11日

監獄実験の再現 



ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世
   (Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III)
               (1944年5月28日 - )

 ニューヨーク市長選挙に立候補し1993年に市長となったジュリアーニは治安の回復のため、警官を大幅に増やし、犯罪組織の温床となる収入源
   セックスビジネスの撲滅作戦
に乗り出すなど様々な手法を駆使してニューヨークの安全化に務めた。
 
 また、汚職警官を次々と告発・追放するなど、犯罪組織化していた警官の規律を正した。
 
 日本の交番制度を導入して各辻には警官が立つようになり、ハーレムの名物や出店も一掃された。
 また、風紀を正すため、オンボロで所々で火を噴いていたタクシーは新型車両に交換するようにしている。
 
 
 こうした権力的な支配の強化により、犯罪率を半減させることに成功し、全国水準より低く抑えた。
 これにより、目標は一般には達成されたと評価され、ニューヨーク市は全米でも最も安全な大都市となった。
 
 ニューヨーク市を浄化した市長として名声を博し、ギネスブックにおいても「最も多く犯罪率を削減させた市長」としてノミネートされている。
 
 
 ただ、人事評価として「検挙率の向上」が市警においては重要な課題となり、特にマイノリティ層を中心として市民的権利が警察により時に侵害されたとの批判も多く見られた。
 
 事例として白人警察官らが武器を携帯していなかったアフリカ系移民の
   アマドゥ・ディアロ
を指名手配犯と誤認し、41発もの弾丸を撃ち込み嬲り殺しにした事件で、市警の暴力や人種差別に対して聖職者や芸能界などの著名人も参加する大規模な抗議デモに発展している。
 
 その強権的な手法に批判的な市民や人権団体などから、名前のルドルフとかけて
   「ジュリアーニはアドルフ・ヒトラーだ」
と指摘され、イタリア系人のジュリアーニの苗字をファシズム理論を構築した独裁者ベニート・ムッソリーニに絡めて「マンハッタンのムッソリーニ」などの声が上がったこともある。
 
 
 ジュリアーニがニューヨーク市の治安回復と共に力を入れたのは、不動産業者等が保有する資産価値の向上が目的とも見られ、中心部の再開発であった。

   
            
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2018年07月04日

ジュリアーニ一族の中には警察官や消防士もいたが、犯罪者もいるなど多種多彩。

   
 
ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世
   (Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III)
               (1944年5月28日 - )
 米国の政治家で弁護士。

 両親はニューヨークに多いイタリア系移民の2世で、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリンで生まれた。
 カトリック教徒のジュリアーニ一族の中には警察官や消防士もいたが、犯罪者もいるなど多種多彩であった。
 
 なお、父親は暴力沙汰を起こし、警護が厳しいことで有名な
   シンシン刑務所
に服役している。
 
 この父親は釈放後、マフィア組織の一員として活動していた義弟が経営するブルックリンのレストランや賭博場、違法金融業の用心棒になり生活費を稼いでいた。
 
 こうした環境で育ったルドルフはマンハッタン・カレッジを準最優等で卒業。
 次いで1968年にニューヨーク大学・ロー・スクールを準最優等で修了した。
 
 ロー・スクール修了後はニューヨーク州南部地区連邦地裁で書記を務めた。
 1970年には連邦検察官に任官されている。
 
 その後は当時は民主党員として活動しながら司法副次官、司法次官の首席補佐官などを歴任した。
 
 1972年大統領選挙では民主党候補
   ジョージ・マクガヴァン
を支持した。
 
 1975年に共和党の
   ジェラルド・R・フォード政権
から司法次官補に抜擢され、民主党を離党している。
 
 
 1976年大統領選挙でフォードが敗退した際はジュリアーニも司法省を退官し、弁護士生活に戻った。
  
   
            
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2018年07月02日

東明聖王


東明聖王(とうめいせいおう 동명성왕)

 高句麗の初代とされる王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)
 東明王、都慕王

 姓は高、諱は朱蒙(しゅもう)または鄒牟(すうむ)、衆解(しゅうかい)とされている。

 黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた。


 扶余の7人の王子と対立し、卒本(ジョルボン 現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に亡命して
   高句麗
を建国した。
 
 「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説では、夫余・高句麗・百済に共通して見られる出来事。

 また、日本の神武天皇の東征伝説も東明伝説に酷似した内容。

 扶余建国神話の東明と高句麗始祖の朱蒙とは活躍した時代に齟齬があり、別の人物。

 これらの伝説の特徴は王の政治的権威の源泉を天に帰属させ、同時に
   農業生産
を左右する河神の権威を主張することにある。   
            
   
  
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2018年07月01日

ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世 テロリズムとの闘いを宣言し「世界の市長」とも称賛


  
ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世
   (Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III)
               (1944年5月28日 - )
 米国の政治家で弁護士。
 
 1994年1月1日から2001年12月31日までニューヨーク市長を務めた。
 凶悪犯罪の撲滅および市の治安改善に大きな成果を挙げたが手法が荒く非難も浴びた。
  
 米国でアルカイダ組織が実行した同時多発テロ事件発生時には大統領
   ジョージ・W・ブッシュ
と共にテロリズムとの闘いを宣言し
   「世界の市長」
とも称賛されている。
  
   
            
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2018年04月08日

ダグラス・マッカーサー  北朝鮮軍と中国人民志願軍の反抗が1951年になると本格化


 北朝鮮軍と中国人民志願軍の反抗が1951年になると本格化して再び戦線を押し戻すようになった。
 
 このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国の
   海上封鎖
と蒋介石が率いる中華民国の
   国民革命軍
の中華人民共和国統治地区への上陸、中華人民共和国領となった
   旧満州に対する空爆
さらに、中国への核攻撃の必要性を主張した。
 
 しかし、トルーマン大統領は
   「核兵器を使用」
することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない世の判断からこの意見を却下した。 

  
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2018年04月03日

兵站線の確保に苦心

   

 ダグラス・マッカーサー自身が成功率が低いと見積もっていた
   仁川への上陸作戦
は大成功に終わり、戦局は一気に逆転した。
 
 9月になると国連軍はソウルの奪回に成功し、マッカーサーの名声と人気を大きく高めた。


 その後、マッカーサーは勝利を重ねて朝鮮半島を北上した。
 
 トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。
 しかし、勢いに乗るマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていた。
 
 こうした状況判断の誤りがあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。

 その結果、中華人民共和国とソ連に過度に警戒心を抱かせ、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された
   「中国人民志願軍」
の参戦を招くに至った。
 
 その後「中国人民志願軍」は人海戦術で国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。 

    
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2018年03月28日

ダグラス・マッカーサー 仁川への上陸作戦


 ダグラス・マッカーサーは急遽在日米軍第八軍を援軍として派遣した。
 このほか、英国軍やオーストラリア軍を中心とした英国連邦軍も追加派遣した。
 しかし、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。

 マッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の
   仁川への上陸作戦
を提唱した。
 
 この作戦はマッカーサーが「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であった。
 
 そのため、統合参謀本部と海軍は反対で、ワシントンからはコリンズ陸軍参謀総長とシャーマン海軍作戦部長、ハワイからはラドフォード太平洋艦隊司令長官とシェパード太平洋艦隊海兵隊司令官を東京に送ってまで中止にさせようとした。
 
 こうした説得も効果なく、マッカーサーは作戦を強行した。 

    
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2018年03月21日

ダグラス・マッカーサー ソウルが北朝鮮軍に占領されショックを受ける。

 

 ダグラス・マッカーサーは北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際
   「考えたいから一人にさせてくれ」
と言い、日本の降伏から5年で平和が破られたことに衝撃を受けた。

 GHQ 外交局長だった
   ウィリアム・シーボルト
が記述した回顧録によると、マッカーサーは韓国軍は奇襲攻撃を受けて一時的にショックを受けているだけであり、それが収まれば必ず持ち直すに違いないと冷静に考え、あまり戦況を心配する様子を表に出さなかった。
 
 6月27日にマッカーサーは、朝鮮半島における米軍の全指揮権を国防総省から付与された。
 直ちに軍需物資の緊急輸送と米国の民間人救出のための船舶、飛行機の手配を行った。
 
 なお、朝鮮半島には国連軍として、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍や、ベルギー軍なども参軍展開した。

 28日にソウルが北朝鮮軍に占領された。
 
 僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き
   事の深刻さ
を再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛んだ。
 
 1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。
 北朝鮮の軍事侵攻に対処するためマッカーサーは李承晩大統領ら要人との会談を行い、マッカーサーはすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、その後前線視察を行い、兵士を激励鼓舞しすぐさま東京へ戻った。

 マッカーサーは、インフラストラクチャーが貧弱な上に、戦争により破壊された朝鮮半島に留まることを嫌った。
 その後も暮らし慣れた東京を拠点とし戦線に向かい、朝鮮半島に一時滞在するものの日帰りで東京へ戻るという指揮形態を繰り返した。

 ただ、こうした行動は現状を理解する妨げとなり、状勢判断を誤り、後に成立間もない中華人民共和国の
   人民解放軍参戦
を招く一因ともなった。

 7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓米軍、英国軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。
  
    
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2018年03月11日

ダグラス・マッカーサー 朝鮮戦争が勃発


 

 米国の国民や政治家の視線を気にせずに
   日本の占領政策
を施行できることを意味しており、共産主義を嫌う
   ダグラス・マッカーサー
は日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。
 
 なお、英国やソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点においては、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。
  

 第二次世界大戦後に南北(韓国と北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島においては、1950年6月25日に、ソ連の
   ヨシフ・スターリン
の許可を受けた
   金日成
が率いる朝鮮人民軍が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

 当時、マッカーサーは、米国中央情報局 (CIA) やマッカーサー麾下の
   諜報機関 (Z機関)
から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていた。
 
 この情報を棚上げにして朝鮮半島では軍事行動は発生しないとマッカーサーは信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。
  
    
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2018年03月07日

ダグラス・マッカーサー 候補に指名されれば大統領選に出馬

    

 ダグラス・マッカーサーは1947年からたびたび米国本国へ向かって
   日本への占領
を終わらせるようメッセージを送り続けた。

 1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。
 この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であったという。
 
 町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊った。
 日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。
 
 そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。

 マッカーサー候補はウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。
 
 6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得した
   トーマス・E・デューイ
が大統領候補に選出された。

 本選挙で大統領に選ばれたのは現職の民主党の
   ハリー・S・トルーマン
であった。
 
 なお、マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。
 
 マッカーサーは大統領への道を閉ざされた。
  
    
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2018年03月05日

ダグラス・マッカーサー 自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置くなど言論統制を強化

  

 ダグラス・マッカーサーは略装を好み、重要な場や自分より地位が高いものと同席する場合でも略装で臨むことが多かった。
 
 こうしたラフな対応について、その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともある。

 内務省は一時的に検閲を再開させたことが
   連合国軍最高司令官総司令部
の反発を招き
   東久邇宮内閣の退陣
の理由のひとつともなったといわれている。
  
   
   
 
 
 こののち GHQ は「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66) を指令した。
 
 日本政府の検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置くなど言論統制を強化した。
 また、連合国と中立国の記者のために
   日本外国特派員協会
の創設を指示した。

 連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だった。
 
 連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年の米国の大統領選挙に出馬する事を望んでいた。
 
 ただ、現役軍人は大統領になれないため、早く占領行政を終わらせ凱旋帰国を望んでいた。
  
    
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2018年03月02日

ダグラス・マッカーサー 昭和天皇とラフな姿で会談



 ダグラス・マッカーサーは1945年9月27日に昭和天皇を当時宿舎としていた
   駐日アメリカ大使館公邸
に招いて会談を行った。
 なお、この会談においてマッカーサーは昭和天皇を出迎えを行っていない。
 
 ただ、昭和天皇の退出時には、自ら玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。
 
 その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載された。
 
 このため、この写真を新聞で見た当時の国民には大きなショックであった。
  
    
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2018年02月28日

ダグラス・マッカーサー フィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸


 
 ダグラス・マッカーサーは10月23日にフィリピンの第3代大統領となる
   
セルヒオ・オスメニャ
とともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸した。
 
 フィリピンのゲリラにも助けられたものの、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で反撃を続けた。
 結果的に抵抗する日本軍の殲滅は出来なかった。
 
 この間、1944年12月に元帥に昇進した。

 1945年8月14日に日本は連合国に対し
   ポツダム宣言
の受諾を決定した。
 
 戦争終結のための調印式が、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権
   重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)
が英国や米国、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に行なわれ正式な降伏に至った。
 
 日本は米軍や英軍(イギリス連邦占領軍)、中華民国軍やフランス軍を中心とする連合軍の占領下に入った。

 なお、マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に
   専用機「バターン号」
で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。
  
    
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2018年02月26日

ダグラス・マッカーサー フィリピンへの反攻作戦



 ダグラス・マッカーサーは1942年4月18日、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する
   南西太平洋方面最高司令官
に任命され、日本の降伏文書調印の日まで、その地位にあった。
 
 
 1943年3月のビスマルク海海戦における勝利の報を聞き、第5航空軍司令官
   ジョージ・ケニー
によれば、マッカーサーがあれほど喜んだのは、ほかには見たことがないというぐらいに狂喜乱舞したという。

 このビスマルク海海戦はビスマルク海からダンピール海峡にかけての海域で、連合国軍が日本軍の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘で3000名が死亡し、爆撃機による爆撃などで輸送船団や護衛の駆逐艦が撃沈され壊滅した。

 大本営の無謀な作戦が悲劇を生んだといわれている。
 
 1944年のフィリピンへの反攻作戦については、米国陸軍参謀本部では
   「戦略上必要無し」
との判断であった。
 
 また、海軍もトップの
   アーネスト・キング作戦部長
をはじめとしてそれに同意する意見が多かった。
 
 マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。
 
 なお、マッカーサーがこの作戦をごり押しした理由としては、フィリピンからの
   敵前逃亡を行った汚名を削ぐこと
と、マッカーサー一族が多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復の2つがあったと言われている。 
 
 ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていた。
 そのため、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。
       

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2018年02月23日

ダグラス・マッカーサー フィリッピンに莫大な資産を保有


   
 フィリッピンに莫大な資産を保有していた
   ダグラス・マッカーサー
は日本軍に追い詰められた揚句コレヒドール島からの脱出を余儀なくされ
   「I shall return"(必ずや私は戻って来るだろう)」
と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出した。
 
 パイナップル畑の秘密飛行場からボーイング B-17 でオーストラリアに脱出した。

 日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。
 
 オーストラリアに逃亡したマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。
 
 なお、マッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。
       

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2018年02月22日

アムシェル・モーゼス・ロートシルト アム・マインの両替商と絹布貿易の経営者



アムシェル・モーゼス・ロートシルト
      (Amschel Moses Rothschild)

              ? - 1755年10月6日


 18世紀ドイツフランクフルト・アム・マインのゲットー(フランクフルト・ゲットー)において
   両替商
   絹布貿易
を営んだドイツ系ユダヤ人。

 モーゼス・カルマン・ロートシルト(Moses Kalman Rothschild、1735年10月19日没)の息子で妻はシェーンチェ・レクニッヒ(Schönche Lechnich、1756年没)であった。

 夫妻には8人の子どもがおり、4番目の子がロスチャイルド財閥を築いた
   マイアー・アムシェル・ロートシルト
である。

 天然痘によりフランクフルトのゲットーで1755年に死去した。
  
 ベルギーの外交官ロバート(1911-1998)は、アムシェル・モーゼスを祖先とするがマイヤー・アムシェルの家系ではないといわれる。 

    
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2018年02月20日

ダグラス・マッカーサー 中将に復帰 ルソン島に上陸した日本陸軍と戦う




 12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して奇襲攻撃を行い太平洋戦争が始まった。
 
 ダグラス・マッカーサー中将はルソン島に上陸した日本陸軍と戦うこととなった。
 
 日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機が破壊されるとマッカーサーは人種差別的発想から日本人を見下し、戦闘機を操縦しているのは日本の同盟国のドイツ人だ思い込み、その旨を報告した。
 

 大挙して進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦をとった。
 
 2ヶ月に渡って日本陸軍を相手に「善戦」していると米国本国では「英雄」として派手に宣伝された。
 そのため、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。
 
 ただ、実際には米軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しんでいた。
 兵站線が確保・維持できない状況から弾薬等の補給もままならないため、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

 ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていた。 
 
 しかし、マッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合
   米国民の士気
に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。
 
 ただ、マッカーサーはフイリッピン人のケソンの脱出には反対だった。
 
 ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえたうえ賄賂としてマッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。
 実際に脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であった。
 賄賂を受け取ったマッカーサーは仕方なく応じたといわれている。
       

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2018年02月19日

ダグラスマッカーサー 1937年12月に米陸軍を大将で退役



 ダグラスマッカーサーは1937年12月に米陸軍を退役した。
  
 後年、米陸軍に復帰してからも
   フィリピン軍元帥の制帽
を着用し続けた事はよく知られている。
 
 1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進して現役に復帰してフィリピン駐屯の米軍の極東軍司令官となり、米国が対日戦に突入後の12月18日付で大将に昇進した。

 ルーズベルトはもともとマッカーサーを嫌っていた。
 ただ、当時米国軍にはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。
 
 ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたものの、マッカーサーは大変な不満を持ったという。
 
 一度はマッカーサーが大将に就いていたことや、マッカーサーは中将なのに、同じく知り合いでもあったフィリピンを本拠地とする海軍のアジア艦隊司令長官
   トーマス・C・ハート
が大将なのも気に入らなかった。
 
 中将になってからも「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していたといわれる。
       

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2018年02月17日

ダグラス・マッカーサー 軍事予算の削減は「共産主義者の陰謀」



 フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称し
   軍事予算削減の方針
であった。
 
 ダグラス・マッカーサーはルーズベルト大統領が進めていた軍事予算の削減は
   「共産主義者の陰謀」
であると考え、大統領をあからさまに批判したため大統領の怒りを買った。
 
 1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻りフィリピン軍の軍事顧問に就任した。


 米国は自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定した。
 この為、フィリピン国民による軍が必要であった。
 
 初代大統領には
   マヌエル・ケソン
が予定されていた。
 ケソンはマッカーサーの友人であり、未来のフィリピン大統領から軍事顧問の依頼が行われたうえ
   「フィリピン軍元帥」
の称号を与えられた。
 
 この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。
 なお、この頃もアイゼンハワーはマッカーサーの副官を務めていた。

 マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていた
   マニラ・ホテル
スイート・ルームを住居として要求した。
 
 また、高等弁務官を兼任して
   高額の報酬
を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。

 また、米国資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。
 
 1936年1月17日にはマニラで米国系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加した。
 3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

 1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。
 ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れたものの、それ以後は本土へ戻らなかった。
       

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