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2017年07月15日

ジョン・マローン(John C. Malone)  「ケーブル王」


ジョン・マローン(John C. Malone)
      1941年3月7日 -

 米国のメディア関連企業のリバティメディア会長
 リバティ・グローバル、ディレクTVグループの会長も兼務。
 また、2007年からMLB・アトランタ・ブレーブスのオーナーでもある。
 
 1963年エール大学卒業、1967年にはジョンズ・ホプキンス大学で博士号(工学博士)を取得した。
 ベル研究所、マッキンゼー・アンド・カンパニーなどで勤務した。

 1973年にTCIの社長兼CEO、1996年には会長に就任した。
 M&AによりTCIを全米最大のケーブルテレビMSO(Multiple System Operator、ケーブルテレビ統括会社)に育て上げ
   「ケーブル王」
とも呼ばれた。

 1990年には番組供給事業を統括するリバティメディアを設立した。

 TCIは1999年に520億ドルでAT&Tに買収された。
 
 1999年のAT&TによるTCI買収の際にTCIの海外部門やメディア投資部門・TCI Ventures Groupを統合させた。
 なお、2001年、AT&Tからスピンオフしている。
  

 TCI Ventures Groupは2004年に
   リバティメディア・インターナショナル
としてスピンオフさせたうえ、翌2005年にリバティメディア傘下のUnitedGlobalComと合併しリバティ・グローバルとなる。
 
 
 マローンのメディア投資スタイルとしては
   新興メディア事業者
の立ち上げに出資したうえ、利益をだすまで成長したところで他のメディア企業に売却または株式交換して投資資金を回収。
 また、スピンオフによる
   株式公開
で収益を上げることで知られる。
  
 企業売却の例としてはFOXスポーツネットやブラック・エンターテインメント・テレビジョン(BET、2000年バイアコムに売却)、テレムンド(2001年NBCに売却)などがある。

 また、株式交換の例としてはディスカバリー・コミュニケーションズ(リバティメディアの持ち分をディスカバリー・ホールディングとしてスピンオフ、2008年、他の所有者の持ち分と統合し新たな持株会社・ディスカバリー・コミュニケーションズを設立)、リバティ・エンターテイメント(2009年11月ディレクTVグループと合併)などがある。

 また、テッド・ターナーのターナー・ブロードキャスティング・システム(TBS、1996年タイム・ワーナーが買収)、QVCを追放されたバリー・ディラーにTCIが保有するホーム・ショッピング・ネットワーク(HSN)社の経営権を譲渡(現在のIAC/InteractiveCorpの前身)、破産直前だった衛星ラジオ・シリウスXMに対する出資など窮地に陥ったメディア事業者に対して救済を兼ねた出資などを行っている。
  
 マローンは元来、ルパート・マードックの米国進出のカウンターパートといえる存在。
 1996年にはリバティメディアとニューズ・コーポレーションとの折半出資により「FOX/Liberty Network」を設立した。

 リバティメディアが保有していたスポーツ専門チャンネル・Prime Sportsをベースとして、FOXスポーツネットを発足させた。

 1999年にはFOX/Libertyの持ち分を手放す代わり、株式交換により8%のニューズ社株式を取得した。

 2004年、リバティメディアはニューズ社株式を追加取得、17%まで出資比率を引き上げた。
 しかし、取得がニューズ社の同意なく行われたため関係は冷却化した。

 対抗措置としてニューズ社はポイズンピルを発動させた。
 結局2006年12月、ニューズ社が保有するディレクTVグループ株式38.5%およびFOXスポーツネットのうち3局との交換で同意した。
  

    
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2017年06月19日

龍山徳見(りゅうさんとくけん) 臨済宗の僧

   
龍山徳見(りゅうさんとくけん)
   弘安7年(1284年)−
      延文3年/正平13年11月13日(1358年12月14日)

 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧
 俗姓は千葉氏で下総国の出身

 諱は初め利見と称したが、のちに徳見と称した。
 道号は龍山、諡号は真源大照禅師。

13歳で鎌倉の扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院で鎌倉五山第3位の寺院
   寿福寺の寂庵上昭
に師事して出家した。

 その後、円覚寺の
   一山一寧
に参禅した。

 22歳の時、元王朝が支配する中国大陸に渡って天童山の東岩浄日・古林清茂などに参禅した。

 また、黄龍慧南から栄西にいたる臨済宗の法流を受けて兜率寺に住するなど、長期間元に滞在して1349年に帰国している。

 足利尊氏の弟足利直義の招きを受けて京都の
   建仁寺
の住持となり、その後は天竜寺・南禅寺にも住した。

    
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2017年06月12日

古林 清茂(くりん せいむ) 中国南宋朝から元朝時代の禅僧


古林 清茂(くりん せいむ)
        1262年 - 1329年

 中国南宋朝から元朝時代の禅僧
 俗姓は林、諱は清茂、字は古林、金剛憧・休居叟などと号した。

 中国商人を多く輩出した温州の人。

 横川如珙(おうせん にょこう、1222年 - 1289年、中国・南宋) の法嗣、門下に了庵清欲・竺仙梵僊がいる。
 同じく日本僧では月林道皎・石室善玖らがいる。

 元代一級の高僧
   中峰明本
と並んで元代中期の禅林の巨匠とされ、当時、日本からの渡航僧で古林に参ぜぬものなしといわれたほどの高僧。
 著としては『古林茂禅師語録』、『宗門統要続集』が知られる。

 古林は馮子振と交遊があり、書法に長じ、その書は格調高く貫禄を備えている。

 また、文学にも造詣が深く、入元僧はそのような古林の士大夫的教養に憧れてその門に学んだ。

 元代は南宋時代に増して禅林が様々な文化との関わりを強め、特に文学への関心が高かった。
 ただ、その内容は次第に世俗化し、禅僧の本分を弁えず大慧派の人々の詩文は一般の詩に同化していった。

 古林はこうした傾向を阻止しようと題材を仏教に限定した偈頌を重視した。
 しかし、大慧派の笑隠大訢の出現によって、禅林文学は偈頌から四六駢儷文にその中心を移したといわれている。

    
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2017年05月07日

#マイアー・アムシェル・ロートシルト Mayer Amschel Rothschild ロスチャイルド家初代

 
マイアー・アムシェル・ロートシルト

      Mayer Amschel Rothschild
        (1744年2月23日 - 1812年9月19日)
 

 ドイツの銀行家で有力ユダヤ系
   ロスチャイルド財閥
の祖として知られている。


 ドイツ系ユダヤ人で両替商及び絹布貿易を営んだ
   モーゼス・アムシェル・バウアー
          (? - 1755年10月6日)
の息子として、ヘッセン=カッセル方伯(在位 1670年 - 1730年)の時代にヘッセン州の最大都市
   フランクフルト・アム・マイン
          (Frankfurt am Main)
のユダヤ人街(ゲットー)で生まれ育った。
 

 生まれた時の姓名は
   マイアー・アムシェル・バウアー
だった。

 その後、事業が成功すると元の家名である
   ロートシルト(赤い楯)
に改姓した。

 なお、赤い楯はロートシルトの家紋でもあり、父親のモーゼスが経営していた両替商及び絹布貿易を営んだ店の紋章として使用していた。

 マイアーはゲットー内のユダヤ学校で、ヘブライ語の読み書きと聖書を学んだ。
 また、ユダヤ教の宗教的指導者「ラビ」となるよう一族の中では教育されていたといわれている。
  
 しかし、11歳の時に父を、12歳の時に母を相次いで亡くした。
 
 ユダヤ人社会では何事もコネがものをいう社会であり、後ろ盾となる「信頼性」というものが若年の孤児では維持できなかった。
 つまり、過去の取引や周囲の縁者の裏付けが必要となる
   ユダヤ商人
として生き抜くための強固な後ろ盾を失ってしまったことと同義となる。
 
 
 両親との死別後、親戚筋の紹介からハノーファー王国のユダヤ人銀行家
   オッペンハイム商会
へ丁稚奉公として働くようになった
 
 当時、オッペンハイム商会ではドイツなど多くの王侯貴族の宮廷に出入りすることが出来る
   御用商人達
がサロンが形作られ、諸国の情報を互いに交換・収集することで、商売に役立てる情報を得ようとして足繁く出入りしていた。
 
 商人らは王侯たちに対し、資金の調達を行うことにより莫大な利益をあげていた。

 
 マイアーはオッペンハイム商会で商売の基礎を叩き込まれた。
 ここで取引のコツを覚え、政府や王にお金を貸す方が一般の商人達に貸すよりも、より大きな利益があることを学んだといわれる。

 
 マイアーは収入が安定し、蓄えをして資産も持て、学校に通うことが出来るようになった。
 この時期に、自力で学ぶことで歴史や古銭についての知識を深く持つようになったという。

 
 当時、ヘッセン・カッセル伯爵に最も近い貴族の一人であった古銭収集で著名な
   フォン・エストルフ将軍
と知り合い親交を深め、古銭の取引を繰り返したことで、将軍の持っていた知識や見識などを吸収して商才を磨くことも出来たという。
 
 金融都市のフランクフルトに戻ったマイヤーは古銭・メダル商を始めた。


 欧州最大級の資産家であるヘッセン=カッセル方伯
   ヴィルヘルム9世
     (1743年6月3日〜1821年2月27日)
ともお金持ちの趣味とも言われる古銭の売買をとおして知遇を得た。


 1769年にはこうした縁故を活用して
   ヘッセン・ハーナウ候国宮廷御用商人
という地位を得るところとなり、その後の通商で大きな財産を作り出していった。 


 また、ナポレオン・ボナパルトの侵攻でヘッセン州が占領を受けた時期以降においては管財人として
   ヴィルヘルムの財産管理
を任されるようになった。

 ことから、飛躍的な資産の形成を図る手立て(ノウハウ)を作り出したと言われている。 
 


歴史上の人物に関連する記事
    
   
 ■ ルイ・シャルル=ジョゼフ・ブレリオ フランス航空界の先駆者
  
 ■ 阿部市郎兵衛 近江国能登川の近江商人
 

  
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最近の経済関連記事など
 
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 ■ オットー・ハインリッヒ・ウォーバーグ
         腫瘍の根本的原因と予防について発表 




  
   
  (関連書籍)
      


 
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2017年05月03日

樋口健夫 アイデアマラソン発想法の考案者

 
樋口健夫

    1946年 -
 
 アイデアマラソン発想法の考案者

 京都府出身で大阪外国語大学英語学科卒業後、オーストラリアのマコーリー大学に留学した。
 
 
 三井物産(8031)に入社し、ラゴス・リヤド・ハノイの事務所に勤めた後
   東京通信ネットワーク
へ出向を経て、2000年から カトマンドゥ事務所長となり、四年半勤めたのち2004年8月退職している。
  

 商社マンとして働く傍ら、ノートを使った創造的自己啓発技法である
   「アイデアマラソン発想法」
       (通称、アイデアマラソン/IMS)
を考案、実践している。
 
 
  「アイデアマラソン研究所」を設立し、IMSの普及と開発を行っている。

 
 創造的自己啓発技法の基本的なルールとしては、オリジナルの発想を1日最低一個考えたうえでノートに記録すること。
 
 なお、オリジナルであれば、それを出す方法はどんなものでもよいという。

 
 
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歴史上の人物に関連する記事   

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 ■ 観阿弥 室町時代の猿楽師
  
 ■ ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(Gian Galeazzo Visconti)
 
   



 
    (関連書籍)
       

 
   
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2017年04月30日

ラクシュミー.N.ミタル(ミッタル) 世界最大の鉄鋼会社の経営者

  
 ラクシュミー.N.ミタル
  (Lakshmi. N. Mittal)
    1950年1月15日生まれ−
 
 インド系米国人でヨーロッパ在住でインドの製鉄会社
   ミタル・スティール
の会長兼最高経営責任者である。
    
  
 
   
 ミタル・スティールは
   欧米鉄鋼会社の買収
を繰り返して傘下に吸収し規模を拡大していった結果、世界最大の鉄鋼メーカーとなった。
 
 なお、同社の87.4%はミタル氏一族が保有している。
 

 ミタル氏はインドの電気も通っていないラジャスタン州のChuru村に生まれた。
 
 1970年に父親モーハン・ラールは家族と一緒にカルカッタに出て小規模な鉄工所を経営し成功の道を歩み始めた。
 
 父親の事業の成功により一家には
   資金的な余裕
が生み出され、順調な経営で資本の蓄積が進んだ。
 
 父親により蓄積された資本をミタル氏が活用し、経営的な才覚により利用し事業を拡大する元手を作りあげた。
 
 ミタル氏は
   セント・ザビエル・カレッジ
    (St. Francis Xavier's College)
で商学を専攻した。
 
 父親が経営していた小さな鉄工所を手伝いつつ大学を卒業した。
 
 卒業後も暫くは見習いとして父親の鉄工所で働いていた。
 

 当時のインドは政府が国内の鉄鋼生産量を制限して保護する経済主義の時代にあたる。
 
 こうした状況の中、ミタル氏はインドネシアに会社の最新鋭の鉄鋼所を開設した。
 
 
 この時、生産される鉄鋼原料に鉄鉱石とともに使用するための鉄のスクラップを探し求めて
   トリニダード・トバコ
にまで足を運んだともいわれている。 

 この後、鉄のスクラップの購入ルートを確保したことが一つの大きな契機となった。
 
 
 インド国内外で
   小規模の製鉄所
の経営者を取りまとめ吸収して規模を拡大した。
 
 重要な要素となってLMNが成長し、メキシコからカザフスタンへと事業を拡大させた。
   
 
 1970年代にインドで鉄鋼王として台頭していった時にもこの戦略が取られた。
   
 
 2006年1月27日、ミタル氏はルクセンブルグに拠点を置く競合最大手
   アルセロール(Arcelor)
を小が大を飲み込むごとく237億ドルで買収している。
 
 
 規模の拡大を積極化させ強固な世界的鉄鋼企業へと質的向上を確保しながら事業の領域を拡大し良質の鉄鋼をフォード・モーターなどに提供することが可能となった。
 
 消費者である企業の求める鉄鋼製品を提供すべく需要を賄うため次々に同業者を買収して規模の拡大を図った。
 
 
 
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  インドの鉄人 世界をのみ込んだ最後の買収劇 [単行本] / ティム・ブーケイ バイロン・ウジー (著); 中島美重子 田中健彦 (翻訳); 産経新聞出版 (刊)    新日鉄VSミタル [単行本] / NHKスペシャル取材班 (著); ダイヤモンド社 (刊)
  
   
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2017年04月26日

田中 正平 純正調オルガンを発明

 
田中 正平
  1862年6月12日(文久2年5月15日)
      −1945年(昭和20年)10月16日


 純正調オルガンを発明
 鉄道技師
 
 淡路国三原郡賀集村(現在の兵庫県南あわじ市)に生まれた。
 1882年(明治15年)21歳という最年少で東京大学理学部物理学科を首席で卒業した。

 
 1884年(明治17年)8月、文部省代表として
   森鷗外
などと共にドイツベルリン大学へ留学した。
 
 ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの下で音響学と電磁気学について研究にあたった。

 
 1889年(明治22年)に純正調の
   リード・オルガン
を製作し、翌1890年(明治23年)にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の前でも演奏を行った。

 
 この純正調オルガンは
   ハンス・フォン・ビューロー
により「エンハルモニウム」と命名された。

 
 1892年(明治25年)には、ヨーゼフ・ヨアヒム、ヴィルヘルム2世、明治天皇や日本、ドイツ両国の文部省資金援助などの支援により純正調パイプ・オルガンを完成させた。

 
 また、この間、1890年(明治23年)には「純正律の研究」によりドイツからドクトルの学位を、1891年(明治24年)には日本から理学博士の学位が与えられた。

  
 1899年(明治32年)に帰国、美音会を組織し、邦楽演奏会などを多年に渡り開き続け、邦楽曲を約3000採譜した。

 さらに日本鉄道の汽車課長に就任した。その後、1907年(明治40年)に鉄道調査所(現・鉄道総合技術研究所)の技師に就任している。
  
 1911年(明治44年)に所長に昇進した。

 
 所長時代に田中が中心となって開発した新型の連動装置は、当時としては画期的な設計であった。
 装置は明治末期の鉄道技術界の話題をさらったといわれている。

 退官後は田中電機研究所を設立、鉄道用信号装置などの多くを発明した。

 また、前述の美音会など音楽振興にも尽くし、当時の社団法人日本音楽協会理事長、文部省国民精神文化研究員所員としても嘱託された。
 
 1940年(昭和15年)には論文「日本和声の基礎」を発表している。



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2017年04月23日

ウィリアム・ハブマイアー William Frederick Havemeyer ドミノシュガーの創業者


ウィリアム・ハブマイアー

  William Frederick Havemeyer
           (1804年2月12日- 1874年11月30日)
 
 
 ニューヨークでドイツ系移民の家で生まれ
   NY市長
を3回勤めたうえ
   北アメリカ銀行協会会長
を歴任した政治家、実業家である。
 
 
 祖先はシャウムブルク=リッペ侯国(Schaumburg-Lippe ドイツ)の中産階級の出自で、家系記録としては1644年に
   ヘルマン・ハブマイアー
が19人の仲間と
   パン屋ギルド
を結成したとの記述が残っている。
 
 
 1725年に生まれた
   ディートリッヒ・ヴィルヘルム・ハブマイアー
はパン屋ギルドの中心的な人物として活躍していた。
  
 また、ディートリッヒは市会議員に就任し政治家としても活動している。
 
 
 プロイセンを中心としたドイツ諸侯とフランス・オーストリア同盟軍といった大きな人口格差がある国家間で
   7年戦争(1756年 - 1763年)
と呼ばれる戦争がプロイセンの領土内を主戦場として勃発したため、焦土化作戦が徹底され兵站物資が提供されないように家屋等が無差別に破壊・焼却され、国土が荒廃して経済が悪化していった。
 
 1756年8月29日に始まり、祖国戦争となったため生存を懸けたプロイセン国民の総動員戦となったため従軍している。
  
 
 ドイツ国土が戦場となるとフランス・オーストリア同盟軍は抵抗を削ぐために侵攻する軍事作戦として兵站線を破壊するため焦土戦が実行された。
 戦闘地域では財産等が灰燼に帰すのを目にした住民が自暴自棄的に抵抗する動きが強く出て、多くの戦死者を生み出した。
 
 ウィリアムは父親のディートリッヒを焦土戦のなかで亡くしたため、孤児としてその後過ごした。
 
 
 ウィリアムは1785年(15歳の時)に丁稚奉公のため、ドイツからロンドン(英国)に移住し
   砂糖貿易取引
を覚えた。
 
 その後、ドイツから米国に移住した移民の最初のグループに加わり1799年(29歳の時)にNYに上陸している。
 
 
 NYのパインストリート(Pine Street) で
   Edmund Seaman & Co
との契約に基づき、経験のある砂糖取引を中心とした商売を始めた。
 
 1807年には単独で、バンダムストリートでNY市内で始めての砂糖精製事業を始めた。
 
 なお、同年に父親のウィリアムは米国籍を取り帰化している。
  
 
 コロンビア大学を1823年に卒業、父親の経営していた砂糖の精製事業に参画しビジネスを覚え、1828年に、従兄弟の
  フレデリック・クリスチャン・ハブマイアー
         (Frederick Christian Havemeyer)
と共同で製糖会社
   WF&FCハブマイアー
を設立した。
  
 
 その後、社名を
   ドミノシュガー
      (Domino Sugar
に変更し発展する基礎を築きながら、米国内でほぼ独占的に事業を拡大させ1842年頃までには大きく資産を増やした。
  
 
 事業が軌道に乗った後、1844年には持ち株を従兄弟に売り渡した。
  
 
 第11代アメリカ合衆国大統領の
   ジェームズ・K・ポーク
      (第11代大統領 1795〜1849)
を支持する民主党員として政界に進出、ジェームズ・ハーパーを破りNY市長となった。
 
 
 ニューヨーク州議会は、1844年5月7日に治安維持のため
   警備員制度
を廃止しニューヨーク市警察を設立させた。
 
 1857年の経済危機ではペンシルベニア石炭会社とロングアイランド鉄道保険や他の企業の大株主となった。
 
  
  
  
 
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歴史上の人物に関連する記事  

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 ■ 孫 武 兵法の極意は「戦わずして勝つ」
  
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2017年02月18日

ポール・エクマン(Paul Ekman) 人の感情と表情に関する先駆的な研究を行った米国の心理学者


ポール・エクマン(Paul Ekman)

     1934年−

 人の感情と表情に関する先駆的な研究を行った米国の心理学者で20世紀の傑出した心理学者100人に選ばれた。

 米国の人気テレビドラマ
   Lie to Me(ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間)
の主人公カル・ライトマン博士のモデルでもある。(公式サイト

 

   
   (出典:https://www.youtube.com/embed/l9vYSBR9nio


 
 小児科医の息子としてワシントンD.C.で生まれ、ニュージャージー、ワシントン、オレゴン、南カリフォルニアで育った。

 国立精神衛生研究所(The National Institute of Mental Health)から研究科学者賞を1971年以降6回にわたって受賞。
 2001年に英国の喜劇役者でコメディー・グループモンティ・パイソンのメンバー
   ジョン・クリーズ
とともにBBCのドキュメンタリ番組
   The human Face
の製作に関わった。

   


 2004年にカリフォルニア大学サンフランシスコ校の教授を定年退職した。


 エクマン氏は
   表情
が文化依存的ではなくて
   人類に普遍的な特徴
であり生得的基盤を持つことを明らかにした。

 このの発見は現在科学者から広く受け入れられている。

 エクマンが普遍的であると結論したのは
   「怒り、嫌悪、恐れ、喜び、悲しみ、驚き」
である。

 なお、「軽蔑」に関しては普遍的であることを示す予備的な証拠があるが、まだ議論は決着していない。

 エクマン氏はあらゆる表情を分類するために
   FACS(Facial Action Coding System、顔動作記述システム)
を考案した。

   

 現在、このシステムは表情に関連する精神医学や犯罪捜査の分野で幅広く利用されている。

 また、表情以外にも広く非言語コミュニケーションの研究を行っている。

 同情、利他的行為や平和的な個人関係の科学的解明にも尽くした。

 さらに人々が嘘をつくこと、嘘を見破ることの社会的な側面の研究にも貢献した。
 ディミトリス・メタクサスとともに
   視覚的嘘発見器
の開発を行っている。
  
 また、エクマン氏はパプアニューギニアの部族民などを調査することで
   孤立し石器時代の文化
で暮らす人々が
   他の異なる文化の人の表情
を写した写真から意図を正しく読み取れることを確認し
   基本的な感情のリスト
を作成した。

 この証拠によって、エクマンは「 怒り、嫌悪、恐れ、幸福感、悲しみ、驚き、おもしろさ、軽蔑、満足、困惑、興奮、罪悪感、功績に基づく自負心、安心、納得感、喜び、恥」といった感情が全人類に普遍的であり、生物学的基盤を持つとの結論を導きだした。


       
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2017年01月15日

山城屋 和助(やましろや わすけ) 日本に初めて西欧式の牛革製の鞄を紹介した人物


山城屋 和助(やましろや わすけ)

    天保7年(1836年)
         - 明治5年11月29日(1872年12月29日)

 本名は野村三千三(のむら みちぞう)
 日本に初めて西欧式の牛革製の鞄を紹介した人物として知られる。

 長州藩の藩士
   高杉晋作
らがの発案によって文久3年(1863年)と同4年(1864年)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく
   イギリス・フランス・オランダ・米国
の列強四国との間に起きた
   下関戦争
の後に組織された戦闘部隊「奇兵隊の隊士で明治維新後に陸軍省御用商人となった。

 明治初期に起こった公金不正融資事件にからみ割腹自殺したことで知られる。

 周防国玖珂郡山代荘本郷村で、医師野村信高右の四男として生まれた。

 幼少時に両親と死別し、親戚により萩の寺「龍昌院」に預けられ、僧侶となった。

 文久3年(1863年)に還俗し、高杉晋作が創設した奇兵隊に入。
 山縣有朋の部下として
   戊辰戦争
に参戦し、越後口では高台寺党とも呼ばれた御陵衛士残党の
   篠原泰之進
   高鍋藩兵
と共に戦った。

 
 明治維新後に山城屋和助と名をかえ、新政府の軍政に関係し山縣有朋の縁故で兵部省御用商人となった。
 横浜の南仲通り3丁目に店舗を構え明治4年には、東京の本石町にも店を出した。

 長州人脈を活かし、軍需品納入の商売は繁盛した。

 明治5年(1872年)、彼は山縣ら長州系の官僚の口利きを利用し
   陸軍省公金15万ドル
を借り、生糸市場に手を出した。

 なお、長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされている。

 軍が融資した金額は総額64万8000円に達した。
 山城屋は一時は500人以上の店員を使うほど隆盛したものの、欧州で勃発して
   普仏戦争
の影響でヨーロッパでの生糸相場で投機に失敗してしまった。

 山城屋は、陸軍省から更に公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとフランスに渡ったが、パリのホテルに滞在し観劇や競馬に興じ、女優との交際や富豪令嬢との婚約話などといった、商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まった。

 これを不審に思った駐仏公使
   鮫島尚信
が日本の外務省に報告、総額約65万円にのぼる公金貸し付けが発覚した。

 当時、陸軍省では、長州閥が主導権を握っていたため、この事件を好機と捉えた他藩出身官僚が陸軍長州閥を糾弾した。

 山城屋と最も緊密だった山縣有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻した。

 しかし、高島嘉右衛門や堀越角次郎ら豪商に協力を求めたが協力を得られず、借りた公金を返済する能力が無い事が明らかになった。

 金の切れ目が縁の切れ目のごとく山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶った。

 窮地に立たされた山城屋は、同年11月29日、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山縣への面会を申し入れるが拒絶されている。

 そのため、万事窮すとなり面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。

 山城屋の自殺により、山城屋事件の真相は究明されないまま終結させている。
  
 ただ、山縣有朋の作成した書簡に死後も司法省によって事件が追及されていたとの記述がある。
    

   
    
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2017年01月10日

鄭芝龍 中国南部および日本などで活躍した武装貿易商人のひとり。


鄭 芝龍(てい しりゅう)

   1604年(万暦32年)
         - 1661年(順治12年)


 中国明朝末期に中国南部および日本などで活躍した武装貿易商人のひとり。
 
 閩南語、南京官話、日本語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語を話した。
 剣道を得意とし、スパニッシュ・ギターも弾けたという]。

 兄弟に鄭芝虎、鄭鴻逵(鄭芝鳳)、鄭芝莞(鄭芝豹がおり、子に鄭成功(国姓爺)と田川七左衛門の2人の息子がいる。
 
 1604年、福建省南安市に生まれ、18歳の時に父が死亡した。

 母方の叔父を頼りマカオに赴き
   黄程
から経済学を学んだ。

 カトリックの洗礼を受け、Nicholas という洗礼名を授けられている。

 1621年頃、台湾や東南アジアと朱印船貿易を行っていた中国系商人
   李旦や顔思斉
の配下となった。

 日本の肥前国平戸島(現長崎県平戸市平戸島)を中心に活動を強め平戸藩士田川七左衛門の娘であるマツと結婚した。
 この後に、息子の鄭成功と田川七左衛門が生まれている。

 1624年には活動拠点を日本から台湾笨港(現:北港付近)に移した。

 1625年、リーダーの李旦か顔思斉が死亡した。
 リーダーが取りまとめて運営していた船団を受け継ぐこととなった。

 船団は千隻もの船を保有して武装化も進めるなど海賊としての側面も有した。

 台湾南部が東インド会社を経営するオランダ人の入植がはじまると、妻子を連れて中国大陸へと渡った。
 当時、福建省周辺でもっとも強い勢力をもった武装商団に成長していた。

 1628年には福建遊撃に任命された。

 李魁奇、鐘斌、劉香などのかつての海賊の仲間たちを征伐している。

 福建省に旱魃が襲うと、住民をひきつれて台湾へ移り住み、豊富な資金援助を持って、開拓を進めた。

 当時、台湾南部はオランダ東インド会社が統治しており、オランダとの国際貿易を強化して巨万の富を築いた。

 1644年には亡命政権である南明の福王から南安伯に封じられた。
 福建省全域の清朝に対する抵抗軍として責を負っている。

 1646年には黄道周との対立などで南明政権から離れ清朝に寝返っている。
 なお、この時、意見の違いから子の成功らとも別れている。

 成功は父の勢力を引き継いで台湾に拠り、明の復興運動を行い清に抵抗した。

 このため、芝龍は成功の懐柔を命じられたが、成功がこれに応じなかったことが猜疑心を生み、謀反の罪を問われて、1661年に北京で処刑されている。
       
   
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2017年01月08日

蒲 寿庚(ほ じゅこう) 元初期のアラブ系イスラム教徒の商人

  
蒲 寿庚(ほ じゅこう)

        生没年不詳

 中国南宋末から元初期のアラブ系イスラム教徒の商人、軍人、政治家

 元代の「色目人官僚」の嚆矢ともいえる人物。

 南宋時代泉州において貿易商として財を成し、地域の有力者として頭角を表した。
 朝廷にその実力を認められ、招撫使に任じられ福建水軍の司令官となる。
   

 1276年南宋末期の動乱時、端宗を奉じた宰相
   陳宜中
らを中心とする南宋首脳部は蒲寿庚の財力、軍事力を頼り、福州から泉州への遷都を計画したものの、利を考えて元に寝返ったうえ南宋に叛旗を翻した。

 投降の際、泉州城内の宋の皇族を処刑し、元に忠誠を誓った。

 騎馬民族である元の軍隊は水戦を苦手としていた。
 水軍の司令官でもあった蒲寿庚の投降により元軍に置ける水軍勢力を強化し、南宋の亡命政府を克Rに追い詰めて滅ぼした(崖山の戦い)。

 元代に入っても引き続き重用され、泉州を当時中国最大級の貿易港へと発展させた。
       
   
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2017年01月07日

韓 山童(かん さんどう) 「紅巾の乱」と呼ばれる争乱の引き金となった人物


韓 山童(かん さんどう)

     生年不詳 - 1351年
   

 中国の元朝末期に河北省欒城県の人物で、反体制組織である
   白蓮教(明教)
を組織、広く農民に伝えられ勢力を拡大させ天候不順の影響から生活が立ち行かなくなったため暴徒化し
   紅巾の乱
と呼ばれる争乱の引き金となった人物。
 
 
 1351年、韓山童は秘密裡に片目の石人像を彫らせたうえで黄河堤防に前もって埋めておき
   「石人一隻眼、黄河を挑動して天下叛す」
と説いたことが拡散したところで、何も知らない農民たちが黄河堤防で石像を見つけ、韓山童をより信じるようになった。
  
  
 韓山童は、芸術面では北宋朝で最高の一人と言われる8代皇帝
   徽宗
の子孫を名乗り、蜂起を企てた。

 これが紅巾の乱の発端となったものの、官軍の討伐で反乱が初期の段階で叩きつぶされたうえ捕まり誅殺された。

 1355年になると息子の韓林児が小明王(皇帝)を称して、国号を宋とした。
        
   
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2017年01月06日

張 士誠(ちょう しせい) 至正14年(1354年)には誠王と称し、国号を大周、元号を天祐と定めた人物

  
張 士誠(ちょう しせい)

 モンゴル族が建国した元朝末の群雄の一人で娘婿に潘元紹がいる。

 蘇州を拠点として江東に強大な勢力を誇った。
 明朝を起こした朱元璋、大漢を建国した陳友諒と覇を競ったが、最終的には朱元璋によって滅ぼされた。

 元末に蜂起した群雄の多くは
   白蓮教
の影響を受けた紅巾軍の系譜に属していた。

 紅巾軍には属していない張士誠は泰州白駒場(現在の江蘇省塩城市大豊区)の人で郷里で官塩の舟運の傍ら、私塩の密売にも携わっていた。

 財を軽んじて人を施すのを好んだので、衆人の心を得ていたという。
 ただ、役人、土豪とは利害が対立していた。
   

 至正13年(1353年)に土豪から侮辱を受けたため
   張士義
   張士徳
   張士信
ら3人の弟を含めた18人を率いて報復のために挙兵した。

 日頃から不満を抱いていた多数の塩丁らがこれを加わり、たちまち泰州を落として参政の
   趙l
を処刑し、更に興化、高郵など江北の要地を占領していった。

 翌至正14年(1354年)には誠王と称し、国号を大周、元号を天祐と定めた。
 
 反乱が起こった淮東は、全国最大の塩の生産地であり、かつ江南の物資を京師に輸送する大動脈である大運河が通っている地域であったため、張士誠の反乱を元朝は極めて深刻に受け止めた。

 塩の専売を最大の財源としていた元朝としては、経済面で江南の豊かな物資に依存しており、死活問題であった。
 そのため、右丞相のトクト(脱脱)を司令官とする大規模な討伐軍を編成し鎮圧に向かわせた。

 高麗や、西域からも兵を参集させトクト率いる大軍は、張士誠の拠点を次々に攻略した。

 高郵を包囲された張士誠は絶体絶命の窮地に陥った。

 朝廷内部での権力闘争が強まりトクトは忠誠が疑われ失脚、司令官の職を罷免されて連行された。
 これにより混乱に陥った元軍は容易く破らえれ張士誠は危機を脱することができた。

 元朝の江南に対する影響力は著しく低下したため造反勢力が割拠することとなった。
  

 張士誠は天候不順に伴う飢饉を乗り切るため食料を確保するために南侵し、天祐3年(1356年)には江南の経済と文化の中心地である平江路(現在の江蘇省蘇州)を占領し、隆平府と改めて、国都に定めた。

 紅巾軍傘下の造反勢力の一つであった朱元璋は、集慶路(現在の江蘇省南京)を占領して、応天府と改めて拠点とした。
 また嘉興は、苗族である楊完者の軍勢が占拠していた。

 天祐4年(1357年)、張士誠は水軍を用いて朱元璋、楊完者を攻撃したが力を殺ぐことは出来なかった。

 元朝の江浙等処行中書省丞相
   タシ・テムル(達識鉄木児)
と手を結んで楊完者を謀殺したうえ嘉興を手中に収めた。

 なお、楊完者の軍勢は住民に掠奪暴行を働いていたため、張士誠は解放者として歓迎された。

 楊完者を滅ぼした勢いで、朱元璋に対しても攻撃をかけた。

 反撃に遭い、懐刀であった弟の張士徳を失った。

 朱元璋に脅威を感じた張士誠は、一旦国号や年号を廃して元に帰順したうえで太尉の任官を受けた。
 また、敵対関係にあった方国珍とも関係改善を行い、後顧の憂いをなくした。


 張士誠は、蘇州一帯を占領した当初は水利事業、水田の開墾、産業の振興、新貨幣の鋳造、軍事面での改良をおこなった。
 その後は弟に政治を任せ自分は放蕩に耽った。

 贅沢な生活が好きで広壮な宮殿を造営し革命意識が低かったこともあってその現状を維持するために一時的に元朝と手を結んだ。

 幸運によって支配地域が拡大するとその享楽生活に拍車をかけ家臣もまた、堕落していき軍隊もまともに運営されなくなった。

 元末に各地に割拠した群雄の中では張士誠が経済的に最も富強で、文化面でも最先進地域を支配した。
 ただ、奢侈への傾倒が著しく、勢力拡大への意欲が欠けていたため滅亡の原因となったとされる。



 至正23年(1363年)3月には、紅巾軍の実力者
   劉福通
を安豊に攻め、敗死させた。
 このため帰順する必要がなくなった元朝から再び離反した張士誠は呉王を称し、弟の張士信を丞相とした。

 張士誠の支配地域は、北は徐州から南は紹興に至った。

 応天府に拠る朱元璋は湖北から江西の一帯を支配して大漢皇帝を称する陳友諒の両雄と並び立つようになっていた。
  

 呉王を称したが張士誠の勢力拡張の動きは鈍かった。

 陳友諒が張士誠に使者を送って、朱元璋を東西から挟撃しようと誘ったものの
   漁夫の利
を狙っていた張士誠はこの話には乗らなかった。

 
 朱元璋は着々と力を増しており至正23年(1363年)に
   鄱陽湖の戦い
で西の宿敵陳友諒を敗死に追い込んだ。

 翌至正24年(1364年)には陳友諒の跡を継いだ子の陳理を降伏させ、自軍に吸収した。
 湖北、江西の一帯を版図に治めた朱元璋は矛先を東に転じ、張士誠に対する本格的な進攻を開始した。

 
 至正26年(1366年)、朱元璋の軍勢は張士誠の本拠地である隆平府を包囲した。
 長期の包囲戦の末、隆平府は翌至正27年(1367年)9月に陥落した。

 捕らえられた張士誠は、応天府に送られる途上で自縊して果てた。
 このとき享年47だった。
  

   
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2017年01月05日

李 師師(り しし) 北宋末期の美妓


李 師師(り しし)

 北宋末期の美妓
 芸術面では北宋最高の一人と言われた第8代皇帝
   徽宗
の妃嬪
 
 染匠の王寅の娘。母は難産のため死去し、父も早くに亡くしたため養祖母の姓である李姓を称した。

 北宋の首都であった開封の名妓として知られ
   趙 元奴
と共に最優秀な女性歌手として評価されたという。

 なお、開封は11世紀から13世紀の世界最大の都市。

 秦観、周邦彦らの詩人とことごとく知り合った後、趙元奴などと共に徽宗の寵姫となって、多くの財帛を賞賜され瀛国夫人を授されて才人にいたった。


 反乱軍の首領
   宋江
も、徽宗から招安のため李師師に賄賂を贈ったという。

 宋江は河朔(黄河北岸)で反乱軍を立ち上げ、1121年に淮南の諸地方を荒らした後、官軍の追討を受けて京東(北宋の首都開封の東、現在の山東省西部)、江北(長江北岸)を転戦し十郡を攻略した。

 宋江の勢いを恐れた北宋朝廷は
   侯蒙の建策
に従って宋江の罪を赦して将軍に取り立て同時期に江南を席巻していた
   方臘の乱
の反乱軍を討伐させようと画策した。
 しかし、侯蒙の死によって実現しなかった。

 宋江は山東半島の海州に侵攻したところで知州の
   張叔夜
に敗れ、降伏した。

 宣和7年(1125年)、徽宗が金に対する
   詐術的な外交政策
に失敗し、金が大軍で侵攻してきた。

 同年12月23日(西暦で1126年1月25日)、徽宗は「自らを罪する詔」を出し、帝位を欽宗に譲り太上皇となった。

 翌年(西暦で同年)、金が開封を包囲すると欽宗は
   李綱
を任用して防御に当たった。

 交渉が成立して賠償金の支払いと領土を割譲する条件で金と和議となった。

 欽宗が皇帝に即位すると、軍費のため李師師の財帛は全て没収された。

 開封を包囲していた金軍が和議で撤退すると、宋の官人の間では金に対する強硬論が主張され、賠償金や領土割譲を拒否する方針に転換した。

 この宋の違約に、怒った金は再び開封を攻めて陥落させた。

 徽宗と欽宗は金軍により捕虜となった。

 金の天会5年(1127年)2月丙寅に金の太宗の詔で、徽宗・欽宗は共に庶人に落とされた。
 その後、上京に連行されたうえ翌天会6年(1128年)8月丁丑、素服を着せられて太祖廟に跪拝させられ、続いて乾元殿において太宗に目通りさせられた。

 ここで徽宗は昏徳公、欽宗は重昏侯に封ぜられると、10月戊寅に韓州(吉林省梨樹県)、天会8年(1130年)に東北の五国城(黒竜江省依蘭県)へと追放された。

 二帝と共に、徽宗の妃韋氏、欽宗の皇后朱氏など、宋の宮廷の皇后、妃嬪、皇女、その他宗室の女性や女官、宮女たちは
   金軍の慰安用
へと連行され、後宮に入れられた。

 その後、1128年6月には金の官設の妓楼である
   洗衣院
に身柄を移され、金の皇族や貴族を客とする娼婦となった。

 なお、朱皇后はその境遇に耐えかね、入水自殺している。

 李師師は金の侵攻で帝国が崩壊し混乱するなか行方不明となったようで記録はない。
  

   
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2017年01月03日

鄭 夢周(チョン・モンジュ) 「東方理学之祖」


鄭 夢周(チョン・モンジュ)
      1337年 - 1392年

 高麗王朝(首都 開城 918年 - 1392年)末の儒学者
 号は圃隠

 慶尚北道で生まれ、朱子学を学び、科挙に首席で及第した。

 高麗王朝が中国の元が撤退するといった内憂外患の中、元朝軍に従軍していた女真族出身の高麗軍人
   李成桂(のちの李氏朝鮮王朝太祖)
らとともに女真や倭寇(前期倭寇)の征伐に参加して功績を立てた。
  
   
 1377年には日本に赴き、室町幕府の九州探題
   今川貞世(了俊)
と倭寇の取り締まりについて折衝にあたった。

 貞世に倭寇禁圧を約束させ、高麗人の解放を果たした。

 1374年に恭愍王が親元派の宦官に暗殺され、子の禑王(辛禑)が即位した。

 倭寇(前期倭寇)平定に功績があった李成桂や崔瑩らがこの時期に政界で台頭した。
 対明政策における対立から、親明派の李成桂は1388年にクーデター(威化島回軍)を行ったうえで、禑王を廃して暗殺し、子の昌王(辛昌)を即位させた。

 今度は1389年に昌王は正当な王位継承者ではない偽王として暗殺したうえで、恭譲王を擁立させた。
  

 高麗王李成桂は、禅譲を受けて李氏朝鮮を開こうと画策し対立関係となり、李成桂の子
   李芳遠(のちの太宗)
が仕組んだ刺客の手で善竹橋で鄭夢周は暗殺された。

 なお、鄭夢周は教育にも力を注いで多くの弟子を育成し、のちに「東方理学之祖」と称えられた。
   

     
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偉人・貴人、有名人たちの足跡

  




        

    


    
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2017年01月02日

富田造酒之助 「糸造酒」と呼ばれた

 
富田造酒之助

    1844〜1915(弘化4〜大正4)
 
 甲州北都留郡大鶴村(上野原市)で生まれ、廃屋を興して富田姓を名乗った。
 
 明治初年横浜に出て政商
   山城屋和助
の薫陶を受けたという。
 
 明治12年(1879)、八王子の生糸市場にはじめて富田の名を示した。
 以来「糸造酒」の名で飛ぶ鳥も落とす勢いであったという。
 
 しかし、20年代後半に急速に没落してしまい明治の末年には失意のどん底にあった。
 みかねた同業者は、寄付を募り、生活費と生前に墓を建てて慰めた。
 山城屋和助

   
 
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2017年01月01日

趙 元奴(ちょう げんど) 北宋末期の美妓


趙 元奴(ちょう げんど) 

 北宋末期の美妓で芸術面では北宋最高の一人と言われた第8代皇帝
   徽宗
の妃嬪

 北宋の首都である開封の名妓として知られ
   李師師
などと共に徽宗の寵姫となって、多くの財帛を賞賜され、才人を授けられた。

 第9代皇帝欽宗が皇帝に即位すると、軍費のため趙元奴の財帛は全て没収された。

 靖康元年(1126年)、金軍が開封を陥落させたため、徽宗は青城に監禁されtあ。

 開封府に手紙を書いて衣服、針線、牛羊肉、石鹸など生活用品を要求した。
 その際に名指しで才人趙元奴も要求したが、以後、趙元奴に関する記録はない。
   
 
 金軍の侵攻の際に、金の兵士多数に凌辱されて妊娠した
   邵元奴
という才人がいたという記録があり、音の一致から、趙元奴と同一人物の可能性も考えられている。

 邵元奴は、金に到着後は妊婦だったことを考慮され、連行途中で出産した
   小王婕、
や他の4人の妊娠させられた妃嬪と一緒に、昏徳公(徽宗)のもとに帰された。

 翌年(金の天会6年)2月19日(1128年4月13日)、邵元奴は女子を産んだが、その後の記録もない。
  

   
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2016年12月18日

「戦いの女王」 ブーディカ


ブーディカ(Boudica Boudicca)
         生年不詳 – 60年/61年?) 

 英国東ブリタンニア、ノーフォーク地域を統治していたケルト人イケニ族の女王。

 夫プラスタグス王の死に乗じて王国を略奪するローマ帝国の侵略軍に対し、数多くの部族を結集し
   大規模な反乱
を起こしたことで知られている。

  
   

    
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   Boudica: The British Revolt Against Rome AD 60 (Roman Conquest of Britain) -   Boudica: Queen of The British (English Edition) -  
  



    
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2016年11月11日

スタンレー・ドラッケンミラー ポンド暴落など金融危機の仕掛け人のひとり


スタンレー・ドラッケンミラー
       1953年6月−

 米国の鉄鋼生産の中心地であるペンシルベニア州ピッツバーグで生まれた。
 1950年代人口が丁度ピークアウトとなる時期でUSスチールの鉄鋼の生産量もピークに達していた。

 ITバブルの崩壊などの影響から景気後退に陥って経営破綻したビッグ3の一角
   ゼネラルモーターズ
がある自動車産業都市デトロイトの人口も同時期にピークに達し、大戦の復興需要で欧州への資材供給拠点として莫大な資金が流入して経済が活発化してた。
 なお、その後、デトロイト市中心から人が周辺地に流出しており、周辺地域の人口が2000年代に頂点に達し下落に転じ、デトロイト市は2013年7月財政破綻した。

 貿易の自由化に伴い、通貨の固定相場制により日本は輸出主導で発展した。
 スミソニアン体制の崩壊ともいえる1971年に金とドルの兌換を停止後、円の切り上げとなった。

 スタンはバージニア州リッチモンドの高校を卒業後、1975年にリベラルアーツカレッジの一つ、メイン州の
   ボードイン・カレッジ
で英語と経済学を学び学士号を取得、1976年に結婚した。
 1977年に卒業後しピッツバーグ・ナショナル銀行で働き始めた。

 1980年にスタンは離婚した。
 1981年には投資会社
   デュケインキャピタルマネジメント
を設立し百万ドルで運用を開始した。

 1988年ビクター・ニーダーホッファーの後釜として
   ジョージ・ソロス
に2000年まで雇われた。

 同年にモルガンスタンレーのストラテジスト
   バートン・ビッグス
の姪でドレフュスの株式シニアアナリスト
   フィオナ・キャサリン・ビッグス
と結婚した。
  
 クウォンタムファンドを運用し成功した事例として1992年のポンド売り、1997年7月のアジア通貨危機がよく知られている。

 なお、ボンド通貨危機として知られるソロス対英国中央銀行の鬩ぎ合いでポンド売りのドイツマルク買いの決定でソロスに自身があるのなら増やすべきだとアドバイスして積みまして行ったと言われている。

 なお、議会承認などで予算が整わず英国中央銀行の資金が細って防戦側の予算の限界があったともいいます。

 アジア通貨危機ではマレーシアからは取引手法について悪く言われている。
 売り浴びせたのち底値付近で買って浚う動きをしたようです。
 
 
 1999年7月には金融市場がドットコムバブルであると指摘しtあものの2000年
   テクノロジー株
の暴落から逃れられず多大な損失を出してしまいソロスの元を離れることになった。
  

 なお、テクノロジー株が上昇する中
   ウォーレンバフェット
は良く分からないものには投資しないというスタイルを貫いて暴落の直撃を免れたと言われている。

 スタンはこれ以降デュケインの業務に集中していった。

 2003年バートン・ビッグスはモルガンスタンレーを離れtえヘッジファンドのトラクシス・パートナーズを設立した。

 2010年8月スタンは30年を区切りに事業から引退すると表明した。

 損失を出すこと無く続けて来たファンドではあっても常に高いパフォーマンスを維持するということの難しさを知っており、30年というのは丁度良い区切りであった。

 なお、年末にデュケインのスタッフが新たにファンドを立ち上げると発表した。

 引退後は自己資産管理、ゴルフ、テレビ出演でのコメンテーターなどをしている。

  
     
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posted by まねきねこ at 06:04| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 

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