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2018年01月06日

パスカル・パオリ(Pascal Paoli) コルシカ民族主義の指導者


パスカル・パオリ(Pascal Paoli)
    1725年4月6日 - 1807年2月5日

 コルシカ独立戦争、コルシカ民族主義の指導者

 本名はフィリッポ・アントーニオ・パスクワーレ・ディ・パオリ(Filippo Antonio Pasquale di Paoli)

 コルシカのモロサリア出身で13世紀から続いていた海洋国家ジェノバ共和国のいよるコルシカ島の支配に抵抗して独立運動を進めた。

 1739年に抵抗運動への弾圧が強まり父と共にナポリ王国へと亡命した。
 1745年、ナポリ大学に学んだのちシチリア王国に渡り軍人となった。

 独立運動指導者のガッフォーリの暗殺を聞いてコルシカに帰還する決意を固めた。

 1755年、帰国すると、評議会の議決により、コルシカ王国の最高職であった「将軍」という地位に付いた。
 憲法等を発布して近代国家としてコルシカを整備しようとした。

 1768年にジェノヴァからコルシカの領有権を購入したフランス軍がコルシカ支配のため軍事侵攻し、2度目のフランスの侵攻
   ポンテ・ノーヴォの戦い
に敗れたパオリは、イギリスに亡命した。

 フランス革命後、フランス政府の許しを得て、コルシカに帰還した。

 パオリはコルシカの独立を心から望んでいたが、一方で、君主制主義者であった。

 8月10日事件で王制を打倒したのみならずルイ16世を処刑するに至った革命を嫌悪した。

 フランス軍の中尉となっていた
   ナポレオン・ボナパルト
は、初めこの英雄パオリを崇拝していた。

 彼は王制を打倒した革命(政権)を受け入れる立場で、次第に路線の違いが明らかになっていった。

 パオリとその腹心ポッツォ・ディ・ボルゴらはイギリスの間接統治を主張するパオリ派を形成した。

 これに対し、リュシアン・ボナパルトがトゥーロンで告発演説を行った。
 1793年、国民公会はパオリ逮捕命令を発した。

 しかしこれに従う者はおらず、アジャクシオで騒乱があって、パオリ派の支配する議会はボナパルト一族を島から追放した。

 1794年、パオリはイギリス統治を受け入れ
   アングロ=コルス王国
を成立させるがまもなく副王の
   ギルバート・エリオット
と対立するようになり、1795年にはイギリスによって島から出るように命じられ、3度目の亡命を強いられた。

 イタリア軍司令官となっていたナポレオンは、1796年にコルシカを再占領して奪回した。
 パオリはそれを亡命先のロンドンで知り、二度と島の地を踏むことなく、1807年に亡くなった。

 遺体は1889年になって郷里のモロサリアへ戻され、同地の教会に埋葬された。 

    
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2018年01月01日

ウンベルト・ヴァレンティ ニューヨーク最強のガンマン


ウンベルト・ヴァレンティ
     (Umberto Valenti)

   1891年8月14日 - 1922年8月11日

 ニューヨークのシチリア系マフィアの1人で
   ジョー・マッセリア
との銃撃戦で知られ「ニューヨーク最強のガンマン」と呼ばれた。
 
 シチリア島バルチェッローナ・ポッツォ・ディ・ゴット生まれた。
 1910年に家族とともに渡米し、ロウアー・イースト・サイドに定住した。

 シチリアマフィアの
の犯罪組織に加入したとも、モレロ一家の用心棒をやったとも言われているが経歴の詳細は不明な部分が多い。

 1914年5月、ダキーラのライバルだったイースト・ハーレムのモレロ一家の
   チャールズ・"フォーチュナト"・ロモンテ
を殺害した実行犯と見られており、殺害成功によりダキーラの
   トップヒットマン
の地位を確保したのち、多くの暗殺を請け負った。

 標的の暗殺後すぐ消えていなくなることから「ゴースト」の異名もあった。

 禁酒法時代にはロウアー・マンハッタンのイースト・ヴィレッジで酒の密売を始めた。

  
 1920年12月29日、ヴァレンティの密輸仲間
   サルヴァトーレ・マウーロ
が密輸ライバルの
を襲ったものの反撃され、銃撃戦の末、逆に殺された。

 この襲撃で捕まったマッセリアは自己防衛を主張して罪を逃れた。

 その後、ダキーラと衝突して暗殺ターゲットになるとシチリアに逃亡した。

 1922年1月帰国し、ダキーラと和解すると、モレロ一家に死の宣告を出していたダキーラの命でモレロ派打倒の前線に立つこととなった。

 1922年5月8日、モレロ一家の
を暗殺した。

 翌日、マッセリアに仕返しされ、グランド通りで襲撃されたものの、用心棒
   シルバ・タリアガンバ
が銃撃を受けて重傷を負うなか間一髪のところを逃げおおせた。

 マッセリアは殺害容疑で検挙されたが、裁判まで至らず放免されている。

 1922年8月8日、イーストヴィレッジのマッセリアの自宅近くで待ち伏せし、家を出たところを至近距離から3-4発撃った失敗し、近くの商店街に駆け込まれて逃げられた。

 ヴァレンティ一味もすぐに車でその場を離れたが、組合会議から解放された多数の労働者が5丁目通りの路上にいた。
 そちらの方向に逃走車が近づき、通行を阻止されたため、無理矢理突破しようと彼らに銃口を向け発砲した。
 この発砲で6人負傷し2人が死亡した。
 
 
 1922年8月11日昼11時45分頃、イースト・ヴィレッジのカフェで話し合いをしていた時に銃撃戦となり、敵の発砲の中をダッシュして走行中のタクシーに飛び乗った。
 しかし、胸に被弾しており座席内で崩れ落ち、病院に運ばれた。

 警察は事情聴取しようとしたがほとんど意識不明な状態で何も聞けず、銃撃から1時間後に死亡した。

 その後、警察はマッセリアを取り調べたが証拠がなく放免した。

 当時は、マッセリアが和解の話し合いと称してヴァレンティをおびき出し、謀殺したと噂されていた。
   

    
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2017年12月29日

イニャツィオ・ルポ(Ignazio Lupo) 組織犯罪「モレロ一家」の中核を担った幹部


イニャツィオ・ルポ
      (Ignazio Lupo)
         1877年3月19日 -
             1947年1月13日

 シチリア島パレルモ出身のニューヨークのマフィア
   モレロ一家
の組織犯罪の中核を担った幹部で、あだ名は「ウルフ」と呼ばれた。

 父親のロッコはシチリア島の地元マフィアの組員でrルポが10歳の時から父が経営する雑貨店の手伝いをやっていた。

 1898年10月、商売の競合相手を店で口論の末に射殺してしまった。
 そのため、警察に追われ1899年にシチリアからリバプール、カナダを経由して逃亡し米国に密入国した。

 NY市のマンハッタンのロウアー・イースト・サイドに流れ着いた。
 
 生活費を稼ぐため、慣れた商売の雑貨屋を開いたものの売れず、ブルックリンに拠点を変えて移り住んだ。 

 1901年には再びマンハッタンに戻り、リトルイタリーの一角でもあるプリンスストリートで輸入雑貨店を開いた。


 この店がシチリア島のコルレオーネ出身のマフィア
   ジュゼッペ・モレロ
の酒場の近くにあったため、モレロと懇意になり
   紙幣偽造
やイタリアからの移民を相手にした強請(ブラックハンド)を始めた。

 また、ピンハネを目論み、移民の商人に自分の品物を強制的に購入させたりした。
 こうした高い商品を買わないと店に放火したり爆弾を投げ込み、時には店を破産させる犯罪行為を繰り返し恐怖心を与えた。
 
 
 偽札や強請で稼いだ資金は合法ビジネスに回して、オリーブオイルやイタリア産レモンの
   輸入ビジネス
を拡大し、マンハッタンからブルックリンまで各所に支店を作っていった。

 なお、オリーブオイルやイタリア産レモンの輸入は
   年商50万ドル(当時)
とも言われニューヨークでも最大規模を誇った。

 こうして得た収益でリトルイタリー(モットストリート)に新たに本社を建てた。
 建物は豪華で、街中でひときわ目立ったという。

 商売道具の馬やワゴンは最上級のものを購入して、好んでリトルイタリーを馬車で派手に乗り回した。


 ルポの輸入ビジネスは
   合法の利益を増やす表の目的
   偽札の消化を隠ぺいする裏の目的
があり、ルポはモレロ一家の資金を管理する財政係として活動していた。

 また、潤沢な資金を使って組織内のパレルモ派閥を統括する存在とも言われた。
 
  
 1903年12月、モレロの義理の妹(テラノヴァ兄弟の実姉)と結婚しモレロとの姻戚関係を強化した。

 1906年3月7日には著名な銀行家の子供を誘拐・監禁したとして逮捕された。
 ただ、子供が法廷でルポと対面するとそれまでの証言を撤回したため、釈放された。
 
 
 1902年7月23日、雑貨商
   ジュゼッペ・カターニア
の袋詰めの遺体がベイリッジの岸辺で発見された。

 偽造犯罪の捜査でモレロ一家の張り込み監視をしていた
   シークレットサービス(USSS)
の監視記録にでは、カターニアの姿が確認できなくなる前にルポと一緒にいる姿が最後に目撃されていたという。

 ルポと居たのがカターニアを見た最後だったため、警察は、カターニアが紙幣偽造の仲間で、口封じで殺されたと推測した。
 ただ、明らかな証拠がなく起訴を見送った。

 1903年4月には一家のメンバーの親族
   ベネディット・マドニア
が木の樽入りの遺体で発見された。

 この事件は「バレルマーダー」事件と呼ばれ、モレロら12人と共にルポも逮捕された。
 ただ、この時も証拠が不十分で釈放されている。

 更に1902年に遡る紙幣偽造の件で再逮捕されたものの、これも証拠不十分で放免されている。

 1908年11月、不景気のあおりを受け会社は倒産、10万ドルの負債を残してルポは失踪した。


 ワインや雑貨など大量の物資を買い付けたうえ、その代金を支払うことなく失踪した。
 多くの取引相手は代金が支払われないためルポの家に集まったが、夜逃げしていた。

 同時期には不況の影響からかマンハッタンからブルックリンまで作為的に取り込み詐欺を働いたと見られる似たような雑貨会社の破産が相次いだ。
 こうした店舗の倒産による被害の総額は50万ドルに達したという。


 ルポは買い付けた大量の品物を倉庫に一旦保管したのち、秘密裡に輸出して故郷で売りさばいた。
 また、この商品を担保として銀行から巨額の金を借りたうえ、これを着服した。

 その他にも、抵当権が設定された建物を何も知らない商人にリースするなどで不正な不動産取引も行った。
 
 
 モレロ一家のアドバイザーで弁護士
   フィリップ・サイエッタ
はルポの銀行借入を仲介したり、破産詐欺の手口をアドバイスし犯罪行為に手を貸した。

 ルポの雑貨チェーンの傘下には、モレロ一家の
   アントニオ・チェカラ
   ジュゼッペ・パレルモ
   アントニオ・パッサナンティ
   フランク・ジト
などの組員がいた。

 1909年後半まで逃亡生活を続けたのちニューヨークに戻ると、銀行家や債権者を前にして
   「ブラックハンドから1万ドルを脅し取られ」
事業が立ち行かなくなったと自らが強請ギャングの被害者のように振る舞い主張した。

 物資の一部は既にイタリアに出荷され手に戻すことは出来なかったが残った物資は競売にかけられたものの被害の回収はできず
   被害者の証言
をもとに詐欺容疑でルポは逮捕された。

 ただ、1909年11月に証言していた被害者がルポの公判に出廷しなかったため、罪状は否認され釈放された。

 ルポが行方をくらましている1909年春、パレルモでマフィアの調査に来ていたニューヨーク市警の特別捜査官
   ジョゼッペ・ペトロジーノ
が暗殺された。

 この暗殺についてはモレロや現地のヴィト・カッショ・フェロと共に暗殺の謀議に加わっていた疑いがあるという。

 ペトロジーノは1900年代初めから
   モレロ一家の犯罪活動
を捜査しており、直近はイタリア系捜査官の特別チームを作るなど取締りを強化していた。
  
 ペトロジーノのイタリア出張行程は極秘だったが事前に新聞にリークされ、誰もが予定を知り所在を推測することができた。
 
 
 1908年半ば、モレロ一家は再び紙幣偽造の準備を始めた。

 ルポは北ニューヨークのハイランドの農場に作った紙幣偽造工場を時々視察し、進行状況をチェックした。

 1909年、不穏な動きをするモレロ一家にUSSSが反応し、メンバーを尾行してハイランドの拠点を突き止めた。

 1910年1月8日、バスビーチの自宅で
   ジュゼッペ・パレルモ
といるところを
   ウィリアム・J・フリン捜査官
が率いるUSSSチームが突入し逮捕された。

 1910年2月19日、先に逮捕されていたモレロと共に紙幣偽造の罪で30年刑で実刑判決を受け、アトランタ連邦刑務所に収監された。

 裁判中、判事の元に死の脅迫状が届き、裁判後にはフリン捜査官の暗殺を画策したが失敗に終わった。


 モレロ一家はその後もモレロのやルポの減刑・釈放を画策し、政治クラブまで作った。

 1920年6月、条件付きの恩赦で出所した。

 服役していた10年間に裏社会の勢力図は一変しており
   禁酒法
の下でギャングが激しい縄張り争いを展開していた。

 ルポのリトルイタリーやブルックリンの縄張りは、パレルモ系マフィアの
に侵食され支配されていた。


 1921年半ば、同じ頃出所したモレロと共にダキーラから「死の宣告」を受けた。
 そのため、同年11月頃シチリアに逃亡した。

 シチリアで味方の支持の取り付けに奔走し1922年5月、ニューヨークに戻ると、モレロはダキーラと戦った。
  
 ルポは再犯すると刑務所に逆戻りとなるため、モレロの異父弟の
   チロ・テラノヴァ
の家で隠遁していた。

 1923年12月に、ブルックリンでパレルモ派閥のマフィアとカラブリア系ギャングの縄張り争いの調停役を請われるなど一定の影響力を保持した。

 1927年テラノヴァの資金援助でブルックリンに家を建て、息子とフルーツ輸入やパン屋を始めた。

 ただ、ドル箱の酒の密輸には関与できず、強請ギャングを率いてイタリア系のパン職人組合に入り込み、会費を名目に日銭を稼いだ。

 また、フルーツ取引では葡萄の卸売をコントロールした。
 ブルックリンの販売利権を手中にしたほか、宝くじなど違法賭博も行った。

 1930年と1931年、ルポの葡萄利権に挑戦した商売敵を殺害した容疑などで2回逮捕されたmのの、証拠欠如で放免された。

 1935年、パン屋への強請行為で逮捕された。

 被害者のパン屋の多くは報復を恐れて証言しなかった。

 ただ、あるパン屋の女性は店に放火され爆弾で商品を台無しにされても強気で、ルポの脅迫暴力を法廷で証言した。

 この頃、長年のパトロンだったテラノヴァの裏社会のステイタスは低下していた。

 1936年7月、ルポは有罪となった。
 そのため、再犯によって恩赦資格が停止され、20年の残存刑期を服役すべくアトランタ刑務所に送り返された。

 
 1940年代、かつての仲間の多くは引退又は死亡し、同じ刑務所にいた比較的新しい部下達とは年齢が離れ過ぎて、1人で過ごす時間が増えた。

 孤独を紛らわすため宗教に走った。

 なお、規則を無視する問題児だった1910年代の監獄生活とは打って変わり、仕事の裁縫をきれいにこなして仕立て屋に褒められるなど模範囚になった。

 監獄医はルポが精神疾患を抱え、老年性痴呆の兆候があると診断した。

 1945年夏には、「ボケや子供じみた態度を取ることが増え、急速に容態が悪化している、家族が面倒をみられるうちに釈放した方がいい」と勧告した。

 恩赦破りの囚人の再出所は法手続で難航した。

 1946年12月21日、病気を理由に釈放された。持ち金が8ドルしかなく、刑務官から旅費を借りてニューヨークに戻った。

 妻は長年の貧窮から持家を売却してクイーンズの借家に移り、子供がしばしば訪れていた。
 釈放から3週間後、家族とクリスマスを過ごした後の翌年1月13日に死亡した。
  
  
     
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2017年12月27日

モレノの最後


 モレロの出所を脅威とみなしたシチリア系のサルヴァトーレ・ダキーラ一家は、ジュゼッペを含むモレロギャング全員に死の宣告を出した。

 モレロは潜伏し、一時シチリアに退避した。
 その間ダキーラは、当時ニューヨークの最強のガンマンと言われた
   ウンベルト・ヴァレンティ
を使ってジョー・マッセリアらモレロ派残党の暗殺を命じている。

 1922年8月、ヴァレンティがマッセリアに返り討ちにあい、謀殺された。

 モレロは組織のトップの座をマッセリアに譲り、自らはその相談役になった。

 出所後のモレロは派手な犯罪活動を控えるようになった。


 1920年代は賭博のポリシーゲームや土建業強請を収入源にした。

 1920年代後半、建設業界に大々的な強請を行った
   トミー・ガリアーノ
のユナイテッド・ラーシング・カンパニーの役員リストにモレロの名があったという。
 
 
 1930年2月、カステランマレーゼ戦争が起こると、マッセリアの参謀兼戦略アドバイザーを務めた。
 このため、マランツァーノ派から敵視されて命を狙われた。

 1930年7月15日、マランツァーノ派の重鎮
   ヴィト・ボンヴェントレ
が殺害された。

 その仕返しとして1930年8月15日、イーストハーレムの事務所で現金や領収書を整理しているところを、マランツァーノ派の2人の暗殺者に襲われ、5発の銃弾を浴びて殺された。
  
  
     
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ヴィンセント・テラノヴァ モレロ一家の幹部


ヴィンセント・テラノヴァ
      (Vincent Terranova)
     1886年5月15日 ― 1922年5月8日

 ニューヨークの犯罪組織モレロ一家の幹部
 酒の密輸で財を築き
   ハーレム・タイガー
   ヴィンセント・モレロ
とも呼ばれた。
 
 シチリア島コルレオーネで生まれ。地元マフィア
   ベルナルド・テラノヴァ
の息子で3人兄弟(次男チロ、三男ニコラス)の長男である。

 なお、ジュゼッペ・モレロは異父兄である。


 1892年一家で渡米し、ニューヨークからルイジアナ、テキサスなどを転々とした。
 1896年頃、ニューヨークに戻り、イースト・ハーレム地区に定住して学校に通いながら家族の左官業を手伝った。

 モレロ一家あるいは「107丁目ギャング」とも呼ばれた組織に加入した。


 1908年9月、ハーレムでイタリアンロッテリー(イタリア式富くじ)を運営していたライバルのサム・シッカ(Sam Sicca)を殺害した疑いで逮捕されたが、のち証拠不十分で釈放された。

 
 1910年、ジュゼッペ・モレロが逮捕収監されると弟チロやニコラスと共にモレロ一家のリーダーの一人となった。

 1915年5月、ナポリ系ギャングの大物
   ジョシュ・ガルッチ
を、ブルックリンのカモッラ勢(ペリグリーノ・モラノやネイビーストリートギャング)と共謀して殺害した。
 ガルッチの賭博利権を奪った。

 また、冷蔵庫のない時代の生活必需品である
   氷の配給ビジネス
に進出した。


 ブルックリンカモッラと同盟関係を結び、その後、「マフィア−カモッラ戦争」と呼ばれる
   対カモッラ抗争
で弟のニコラスと共に、ライバルの暗殺や反逆者への制裁を主導した。


 1916年9月、カモッラ勢によりニコラスが暗殺、身辺が騒がしくなりカモッラに執拗に命を狙われた。 


 1917年11月、カモッラの主要リーダーが
   内部密告
で芋づる式に逮捕されたことで目先の脅威は消えたうえ、カモッラに取られたハーレムの賭場の縄張りを奪い返した。


 1913年、レイナ一家(後のルッケーゼ一家)の
   ベルナルディナ・レイナ
と結婚した。
 

 禁酒法施行後、縁戚の
   ヴィンセント・サレミ
やナポリ系の
   "ジョー・ペッポ"ヴィセルティ
とハーレム向けのアルコール密売を始めた莫大な財を築いた。

 カラブリア系ギャングの
   フランキー・イェール
が経営する酒場ハーヴァード・インの経営に参画したことでカモッラ戦争以来となるブルックリン進出を図ることが出来た。


 懐が潤沢になったことでダイアモンドの指輪を付け、ピンストライプの高価なスーツとシルクのシャツを着こなした。

 素行が目立ったことから「ハーレムタイガー」の異名を得て、いち早く密輸成金の仲間入りをした。

 
 1920年3月になるとジュゼッペ・モレロが出所し、一家のボスに返り咲いた。

 1921年夏頃、モレロ一家が勢いを取り戻すのを恐れた
   サルヴァトーレ・ダキーラ
はモレロ一家全員に死の宣告を出し、抗争が勃発した。

 1921年10月、ヴィンセントの密輸仲間ジョー・ペッポが射殺された。

 
 1922年5月8日朝、ハーレム116丁目の自宅近くで、走行中の車からショットガンで銃撃され9発の兆弾を浴びて死亡した。
 なお、ヴィンセントは反射的に持っていた32口径リボルバーで撃ち返している。
 
 モレロ派のジョー・マッセリアに密輸仲間の
   サルヴァトーレ・マウーロ
を殺されたウンベルト・ヴァレンティの仕返しとされている。


 ニコラ・ジェンタイルによれば、ヴァレンティは元々ダキーラ配下で、ダキーラと喧嘩してモレロらと同じく死の標的にされていた。

 その後、和解してモレロ派を攻撃していたとされる。

 なお、ヴィンセント暗殺の3か月後にヴァレンティを謀殺したマッセリアが一家を継ぎ、ジュゼッペ・モレロがアドバイザーとなった。
   

    
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2017年12月23日

ジュゼッペを含むモレロギャング全員に死の宣告


 1912年、義弟
   ニコラス・テラノヴァ
はモレロが釈放されるよう、フリン捜査官の子供を誘拐することを企てた。

 さらに、モレロの復帰のため
   政治クラブ
を作ったりした。

 同年4月、モレロの息子
   カロゲロ・モレロ
が銃撃戦の末に殺された。
   

 1920年3月、減刑の請願が実り出所したのち一家のボスに復帰した。 

 モレロの出所を脅威とみなしたシチリア系のサルヴァトーレ・ダキーラ一家は、ジュゼッペを含むモレロギャング全員に死の宣告を出した。

 モレロは潜伏し、一時シチリアに退避した。
 その間ダキーラは、当時ニューヨークの最強のガンマンと言われた
   ウンベルト・ヴァレンティ
を使ってジョー・マッセリアらモレロ派残党の暗殺を命じている。

 1922年8月、ヴァレンティがマッセリアに返り討ちにあい、謀殺された。
  
  
     
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2017年12月21日

リーダーを失ったモレロ一家では派閥争いに突入


 1909年11月15日、モレロは自宅で
   ウィリアム・J・フリン
が率いるUSSS捜査チームに踏み込まれ、逮捕された。

 USSSは、モレロの紙幣偽造団に半ば強制されて加担させられていたカラブリア系印刷屋
   アントニオ・コミト
に照準を絞り、偽造活動や組織の内幕を自白させた。

 1910年1月、ルポら仲間7人と共に紙幣偽造の罪で起訴され、2月19日、コミトの証言が決定打となって懲役25年の有罪となった。

 控訴して減刑の根回しを図ったが却下され、同年4月20日、アトランタ連邦刑務所に収監された。
 収監中、減刑を画策して検察と書面の応酬を繰り返した。 

 リーダーを失ったモレロ一家では派閥争いに突入し、組織の求心力は急速に低下した。
  
  
     
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2017年12月17日

モレロ 組織のメンバーに厳しい沈黙の掟



 偽札犯罪担当の
   連邦シークレットサービス(USSS)
は、ニューヨーク市警と連携してシチリア系組織犯罪の
   モレロ一家
の捕縛を主導し、2度目の偽札事件があった1902年以降、個々のメンバーを常時監視対象としていた。
 イタリア系の捜査官は移民に変装して尾行や会話の盗み聞きを重ねた。
 しかし、持ち前の用心深さから決定的な手掛かりは与えなかった。

 組織のメンバーに厳しい
   沈黙の掟
を課しており、裏切り者は見せしめに残虐な方法で処刑した。

 死体を作業袋や樽に詰めて遺棄または架空の住所に送り付けて処理した。
 一説にはモレロが関わった殺人の数は60人とされている。
 
 
 1909年3月12日、USSSと連携してモレロ一家を追いかけていたニューヨーク市警の
   ジョゼッペ・ペトロジーノ
が訪問先のシチリア島パレルモで暗殺された。

 不景気の煽りを受けて1908年にはモレロの不動産会社やルポの雑貨ビジネスが資金難に陥った。

 再び紙幣偽造の準備を始めたが1909年、USSSはメンバーを尾行してニューヨーク郊外ハイランドでモレロ一家が立ち上げ中だった紙幣偽造工場を突き止め、メンバーを泳がせて物的証拠を積み重ねた。
  
  
     
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2017年12月16日

平野屋 末吉 孫左衛門(すえよし まござえもん) 徳川家康から朱印状を受けた豪商


末吉 孫左衛門(すえよし まござえもん)
 
    元亀元年(1570年) -
         元和3年3月26日(1617年5月1日)

 京都・伏見の銀座の頭取である摂津国平野郡平野庄(現在の大阪市)発祥の氏族
   平野勘兵衛利
後の末吉利方の長男に生まれ、江戸時代初期に徳川家康から朱印状を受け
   朱印船貿易
で活躍し大坂の豪商となった。名は吉安(吉康)という。
 なお、出家後は同円。
 
 同時期に朱印状を受けた商人としては荒木宗太郎や角倉了以らがいる。
 
 「末吉船」とよばれる大船を仕立てて、インドシナ・フィリピンなど南洋方面に出かけて貿易をした。
 大坂の陣には家康のために働き、平野、河内など2郡の代官となった。   

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2017年12月15日

出雲建(いずもたける)


出雲建(いずもたける)

 ヤマトタケル(倭建命/日本武尊)に征伐された出雲の豪族で「古事記」等に記載されて伝わる人物。
 「日本書紀」に記載はない。

 日本最古の歴史書のひとつでもある「古事記」の景行天皇段によれば
   倭建命(やまとたけるのみこと)
は天皇の命で
   熊曾建(くまそたける)
を討伐した。

 そののち、帰途に出雲を征服しようと同国に入った。
 臣従しない出雲建を殺そうと考え、まず出雲建と親しくなった。

 倭建命は密かに赤檮(イチイ)の木で木刀を作って偽の佩刀とした。

 出雲建と肥河(斐伊川)で水浴した際、先に川から上がって出雲建の刀を身に着けて刀の交換を提案した。
 果たして、遅れて川から上がった出雲建は偽の刀を身につけた。 

 倭建命が成敗しようと出雲建を襲ったところ、刀を抜くことが出来ずに討たれてしまった。


 「日本書紀」には出雲建に関する記述はない。
 ただ、同工異曲の説話として、崇神天皇60年7月条において
   出雲振根
による弟の飯入根の討伐伝承が記されている。

 名称の「イズモタケル」は、ヤマトタケル(倭建)やクマソタケル(熊曾建)と同様に、「(地名)+勇猛な人」の意になる表現と見られる。

 ただ、地方首長を「タケル」とするのは熊襲・出雲のみで、いずれもヤマトタケルに征伐されている。
 このため律令国家の体制が固まる時期に編纂された書籍であり、説話の形成時期のこれら辺境の2地域が、中央から見て対抗している勢力であり
   「征服されるべき地域」
として位置づけられていたとの見方ができる。 

    
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2017年12月13日

モレロ NY市警の警官を賄賂漬け


 1902年12月、組織メンバーの
   ジュゼッペ・ディプリモ
ら3人が偽造紙幣の操作を行っていた
   連邦シークレットサービス(USSS)
に尾行され、紙幣偽造の現行犯で検挙された。

 ディプリモは懲役4年で収監された。
 1903年4月、バッファローから来たディプリモの親族
   ・マドニア
はディプリモの仕事の取り分を貰おうと正面切って要求してきたため、USSSからの追及の恐れが強まったためベネディットを仲間のパン屋に誘い込み、口封じのため刃物で切り刻んで殺害した。

 殺した死体は木の樽に詰め、空き地に遺棄した。
 検視では首は殆ど切断され、60個の刺し傷があったという。

 新聞はその残虐な殺しぶりを「バレル・マーダー(木の樽殺し)」と呼び、大々的に報じた。

 
 木の樽は組織メンバーの
   ピエトロ・インゼリッロ
が経営するパン屋にあった砂糖の樽と同じものであった。

 この樽は発送元のパン製造工場からインゼリッロが砂糖を注文して付け届けられたことが捜査で判明した。

 また、木の樽の中にあった煙草の吸殻と同じイタリアブランドの黒い煙草がモレロの酒場にもあった。

 同4月にバレルマーダー事件の関連でメンバー11人と共に逮捕された。
 ただ直接犯行を結びつける証拠はなく、状況証拠としても不足していたため起訴には不十分で釈放された。
 

 コルレオーネ出身者を中心に、広くシチリア各地の出身者を取り込んで急速に犯罪組織としてのネットワークを拡大させ1905年頃までに一大勢力を築くことに成功した。

 犯罪組織では強請、高利貸し、イタリア式富くじ、強盗、紙幣偽造など組織的な犯罪活動を展開した。

 こうした違法ビジネスで得た収入を商店やレストラン、不動産ビジネスに回して闇資金をマネーロンダリングした。


 ニューヨーク市警の警官に対しては捜査状況を把握するため賄賂漬けにし、逮捕の動きなどがあると内部情報を漏らしてもらい逮捕される前に身を隠した。

 タマニー・ホールの有力政治家
   ティモシー・サリバン
とも人脈を築いて裁判を有利に運んだ。

 1908年頃からはルポら複数メンバーに地元商店を利用した破産詐欺を行わせた。

 モレロの組織は、「社長(ボス)」、社長に任命された「コーポラルCorporal(幹部)」3-4人、大勢の一般構成員から成っていると後年捕まった
   アントニオ・コミト
が捜査官に証言した。

 また、「コーポラル」が「社長」の命令を実行する責任を持つことや、大勢の構成員が手足となって動くという体制で、社長はモレロだったことを明らかにした。

 構成員は、1910年時点で100人程度と見られ「ザ・107丁目ギャング」または「ブラックハンド」と呼ばれ、米国の組織犯罪先駆けであった。
  
  
     
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2017年12月08日

モレロ 偽造した5ドル札のマネーロンダリング


  
 ジュゼッペ・モレロ(Giuseppe Morello)は1899年、シチリア島の犯罪組織のボス
と結託して、シチリア島で印刷した
   偽造5ドル札
をブルックリン港経由で密輸し持ち込んだ。


 ブルックリンではこの偽札が出回り、1900年6月11日、偽札犯罪担当の
   連邦シークレットサービス(USSS)
に逮捕された。
 しかし、証拠が乏しく起訴され無いまま放免されている。

 
 1902年7月23日、組織のメンバーでブルックリンの雑貨商の
   ジュゼッペ・カターニア
が袋詰めにされ両耳の根元まで喉を掻き切られた遺体で見つかった。

 警察では、偽造の犯行がバレルのを未然に防ごうとして、紙幣偽造に絡んだモレロによる口封じと推測したが、具体的な犯行を明らかにする証拠が揃得られず起訴を見送った。

 
 1902年、イタリアで印刷した5ドル紙幣を、オリーヴオイルの空き缶に詰めてニューヨークに運んだ。
 この偽造紙幣を経営する会社の株の配当の支払に使った。

 株主には配当の即時処分を義務付けて当局の追跡を遮断した。
 この偽札は前回より紙質が良く、より精巧に仕上がっていたという。

 偽造5ドル札が再び移民居住区で出回り、当局はモレロの仕業と判断して捜査を始めた。

 1903年1月、紙幣偽造の告発で逮捕されたものの証言者がモレロの関与を否定し、無罪となった。
 1908年までに刷った偽造紙幣は数十万ドルに及んだという。
  
  
     
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2017年12月05日

モレロ NYでギャング団を組織


ジュゼッペ・モレロ(Giuseppe Morello)はシチリアで殺人を犯したため島外に逃亡、1892年には渡米してニューヨークに密入国した。

 翌年にはジョゼッペの後を追って渡米した家族と共に、安定した職を求めてルイジアナやテキサスを転々としたという。

 季節労働のサトウキビの刈り入れや綿摘みなど低賃金で重労働の農作業に家族総出で従事したようだ。


 1894年7月、シチリアでは逃亡したジョゼッペ本人が不在のまま
   紙幣偽
造の有罪で6年の懲役を宣告されている。


 1896年頃、南部ではマラリアが流行したためニューヨークに戻り、イースト・ハーレムに定住した。
 ここで工場や石炭屋を開店したもののお客が集まらず商売が軌道に乗らなかったため、左官工に鞍替えした。

 
 モレロ・ギャングを組織し、ロウアー・イースト・サイドの
などと仲間になり、ハーレムやロウアーマンハッタンで地元商店への強請りを始めた。

 犯行としては商店を襲っては金品を奪い、店を守る名目で同じ店から
   用心棒代
を巻き上げるという悪辣な手口だった。

 こした要求に店主が従わなければ
   店の破壊や放火
をはじめ、子供の誘拐を行い、時に店を破産させるなど荒いものであった。

 1902年、ロウアー・マンハッタンのプリンス・ストリートの酒場を確保して組織のアジトにした。
 同年緒持て家業として不動産会社を興し、ビル建設や資材の販売、建てた家のリースを始めた。

 会社の運転資金を得るために会社の株券を広くイタリア移民を対象として無理やり買わせたりした。
 また、靴屋や理髪屋、スパゲティ屋などの商売を広げていき、犯罪の隠れ蓑に使ったりした。

 同年ルポがモレロの異父妹(テラノヴァ3兄弟の実姉)と結婚した。
  
  
     
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2017年12月04日

デイビット・ショー コンピュータ科学者で超並列コンピュータの研究者

 
デイビット・ショー(David E. Shaw)

     1951年生まれ

 コンピュータ科学者で超並列コンピュータの研究者として知られる。
 モルガンスタンレーの研究員を経て、1988に
   DEショー
というヘッジファンドを立ち上げ、平均して高いパフォーマンスを上げ続けた。
 
 このファンドの手法は公開されていない。
 高度な定量分析を組み合わせて、複数の国の株や金融商品を取引しているもの。

 企業家としても活躍し、ジュノ・オンライン・サービス(無料メールプロバイダ、後のUnited Online)、DESoft(金融テクノロジ、後にメリルリンチに売却)などを立ち上げた。
 
 なお、amazonの創業者
   ジェフ・ベソス
は企業する前DEショーで働いていた経験がある。   

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2017年12月03日

ジュゼッペ・モレロ シチリア出身のニューヨークのマフィアの首領


   
ジュゼッペ・モレロ(Giuseppe Morello)

   1867年5月2日 - 1930年8月15日

 シチリア出身のニューヨークのマフィアの首領

 20世紀初頭の米国で組織犯罪の初期段階でもあるモレロ一家を創始した。
 なお、ジョゼッペは米国流にピーター・モレロと呼ばれ、親称ピッドゥ“Piddu”、あだ名はクラッチハンドという。
  
 
 シチリア島コルレオーネで生まれ。父親
   カロゲロ・モレロ
が1872年早死にし、母が
   ベルナルド・テラノヴァ
と再婚した。

 モレロの子がジュゼッペで、テラノヴァの3人息子(「ハーレムタイガー」と呼ばれたヴィンセント、チロ、ニコラス)は異父弟である。


 叔父ジュゼッペ・バッタリアは地元マフィアでボスを務めていた。
 また、継父ベルナルドもマフィアの一員だった。

 犯罪組織に組み込まれた家庭環境からベルナルドが斡旋したことでマフィアの仲間入りを果たし、地元の
   紙幣偽造活動
に関わっていた。


 1889年、有力な若手マフィアの
   パオリーノ・ストリーヴァ
と組んで、大規模な牛泥棒を成功させた。

 しかし、警察の捜査が始まると、モレロらの仕業と見て逮捕に迫ってきた警官の
   ジオヴァンニ・ヴェッラ
を銃殺した。
 ただ、この殺人シーンを偶然目撃した女性が警察に密告しようとしたためモレロは背後からピストルで射殺している。

 そのため、モレロはさらに警察に追われることとなった。
  
  
     
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2017年10月26日

ジョシュ・ガルッチ(Giosue Gallucci) 「リトルイタリーの市長」と呼ばれたナポリ系ギャングのボス


ジョシュ・ガルッチ
    (Giosue Gallucci)
        1865年12月10日-
              1915年5月21日


 ニューヨークのナポリ系ギャングのボスでハーレム一帯を支配し、移民ビジネスで富豪になった。
 別名「リトルイタリーの市長」と呼ばれた。

 
 ナポリ出身の移民として1892年3月11日渡米したうえイーストハーレムに定住した。

 当初ロウアー・マンハッタンでワゴンに果物をいれて行商していたが後にハーレムに拠点を移しパン屋、タバコ屋、コーヒーショップなど多彩な商売をした。

 ハーレム109丁目の自宅は3階建ての煉瓦造りの家で1階がパン屋だった。

 1898年4月、愛人の
   ジョセフィーヌ・インセルマ
を殺害したとして逮捕されたが、証拠が揃わずに釈放された。

 事件を担当したニューヨーク市警のジョセフ・ペトロジーノはガルッチの身元をナポリ警察に照会している。
 「危険な犯罪者で、強請ギャングのメンバー。素行の悪さから警察の常時監視対象。窃盗、非行で数回有罪、窃盗、治安妨害、恐喝、傷害で9回逮捕」という回答が返ってきたという。

 石炭や氷など移民の生活必需品の流通を支配し、高値を付けて移民から金を搾り取ったブラックハンドのひとりとして頭角を表した。

 手にした豊富な資金を元に賭博ギャングに運営資金を貸し、ハーレムのポリシーゲーム(ナンバーズ賭博の一種)の営業を支配下に置いた。

 ただ、ガルッチの許可なしにポリシーを運営できなかった。

 イタリアン・ロッテリー(イタリア式富くじ)の販売所を自宅地下に開設し、ほぼ毎月の抽選で賞金は1等のみの1000ドルを払った。
 ただ、支払いと同時に、部下のギャングが当選者から賞金を取り返し八百長をお得意としていた。

 イタリアンロッテリーはニューヨーク近郊の都市に支部を置いて拡大し、多額の金を吸い上げていった。

 また、ハーレムの馬泥棒ギャング団がやっていた馬の転売からも一定の分け前を受け取った。
 売春宿を経営し、「キング・オブ・ホワイトスレイバリー(売春王)」のあだ名もついていた。

 シチリア系、ナポリ系ギャングを違法ギャンブルの防衛や反逆者の制裁など汚れ役の仕事に雇っていた。

 モレロ一家はロモンテ兄弟と懇意にし、政治組織タマニーホールと結託しtえ選挙になると政敵への妨害工作を仕切った。
 また、組織票を集めて地元の政治家を自在に動かしたことで警官や役人を支配下に置き、営業許可や建設許可はフリーパスとなり裁判では判事の援護を得たりしていた。

 1910年、モレロ一家のイニャツィオ・ルポやジュゼッペ・モレロが監獄送りになると、ハーレムにおけるテリトリーを拡大さえた。
 ボスとして振る舞い、権勢は頂点に達した。
 
 1910年代前半、ナポリ系ギャングの
   アニエロ・"ゾッポ"・プリスコ
に金を要求されため抗争に発展した。

 1912年9月、ガルッチのボディーガードで賞金稼ぎの元ボクサー
   アントニオ・ザラカ
がプリスコの手下に暗殺された。

 同年12月、和解と称して騙しプリスコを自宅のパン屋に招き寄せ、甥の
   ジョン・ルッソマノ
が背後から銃撃し即しさせた。

 ただ、プリスコに脅迫されて正当防衛で発砲したと主張し、無罪となった。 

 1913年2月、プリスコの仲間
   アマディオ・ブオノモ
はルッソマノやボディーガードのカパロンゴを襲撃し暗殺した。

 同年4月、仕返しに配下のギャングを使ってブオノモを銃殺した。
 以後、何度も命を狙われたが、逃れた。

 1913年7月、多発する殺人事件に業を煮やした当局が40人のハーレムギャングを一斉に摘発した。

 主目的はガルッチの犯罪組織を炙り出すことだが逮捕されたもののガルッチ、ルッソマノらとも保釈金を払って釈放されている。

 一連の抗争でガルッチのボディーガードが通算7人以上殺された。

 ガルッチのボディーガードになるとすぐ標的にされるため、ガルッチはボディーガードを雇うのを止めた。

 かつてプリスコとガルッチの会談場所を提供した理髪屋の
   デルゴーディオ兄弟
はイタリアンロッテリーを始めようとしてガルッチに拒絶され、揉めていた。

 1914年10月ニコラ・デルゴーディオが殺害され、ガルッチの仕業とされた。
 ガルッチの事業の護衛・執行を請け負っていたモレロ一家がデルゴーディオ暗殺に協力したとされている。

 ブオノモもデルゴーディオ兄弟も、ブルックリンのネイビーストリートギャングと繋がりがあった。
 元々の抗争の発端となったアニエロ・プリスコも、ハーレム利権を狙ったカモッラのペリグリーノ・モラノが裏で糸を引いていた。

 1915年5月17日、息子ルカとコーヒーショップにいるところを突然乱入した4人のガンマンに銃撃され、ルカは翌日死亡した。
 病院に運び込まれたガルッチは警察の事情聴取に自分で問題を解決すると言って証言を拒否したが3日後に死亡した。

 ガルッチの多彩な利権を狙ったモレロ一家とブルックリンカモッラの共謀とされる。
 ただ、部分的にカモッラ仲間を殺された仕返しとされている。

 実行犯は、ジョー・"チャック"・ナザーロ、トニー・ロマノ、アンドレア・リッチらカモッラのメンバーとされる。
 その後、ガルッチの賭博業その他多くの非合法ビジネスはモレロ一家が乗っ取り、ブルックリンの縄張りはカモッラが乗っ取った。

 葬列パレードは1万人の見物人に見守られ、ハーレム109丁目が交通麻痺になったという。

 葬列から埋葬まで、ガンファイト防止のため250人の警官や刑事が護衛した。
 
 出身地別に徒党を組むのが通例だった当時のギャング社会で、ガルッチはナポリ系ともシチリア系とも分け隔てなく付き合っていた。
   

    
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2017年10月22日

サルヴァトーレ・ダキーラ ガンビーノ一家の源流とされる組織を率いたボス


サルヴァトーレ・ダキーラ
     (Salvatore "Toto" D'Aquila)
         1878年11月9日 - 1928年10月10日


 シチリア島パレルモ出身のニューヨークのマフィアボスのひとり。
 ガンビーノ一家の源流とされる組織を率いたことで知られる。

 犯罪組織の各派閥にスパイを送り込み情報を把握したり、また
   傀儡のボス
を据えて間接支配するなど策謀に長けていた。
 
 1906年に家族とともに渡米し、マンハッタンのイースト・ハーレムに居住した。

 表向きは貿易商人としてシチリアなどから
   オリーブオイル
   チーズ
などを輸入していたという。

 1906年、1909年に詐欺などで逮捕歴があるが、検察で立件できずに放免されている。
 
 
 移住当初からパレルモ出身者の犯罪組織を率いており、シチリア移民1世の世代を中心に結成されたコルレオーネ系の
   モレロ一家
の傘下ないしパートナーとして頭角を現していった。


 1910年2月にモレロ一家ボス
   ジュゼッペ・モレロ
ら他の多くのメンバーが内部密告者の証言により紙幣偽造で有罪とな逮捕され刑務所に収監された時、「ボスの中のボス」を宣言した。

 モレロ派残党を吸収してハーレムの覇権を争って組織を拡大させた。
 また、モレロと共に監獄送りになったパレルモ派閥のボス
   イニャツィオ・ルポ
の後継者としてその縄張りを継いだとされる。

 モレロ一家のパレルモ派閥はもともと1つだった。
 ダキーラがルポの後継者に選出された後、反対派との対立が明らかになり2つに分裂し、ダキーラ派とアル・ミネオ派になった。

 ダキーラ派は、同盟軍(ミネオ派-カステランマレーゼ派-モレロ派)と縄張りの確保で抗争しながら
   ジュゼッペ・フォンタナ
   ジュゼッペ・ファナロ
らモレロ一家の有力者を自陣に引き入れた。

 1913年11月、両者は敵対するモレロ一家とミネオの共謀により相次いで暗殺された。

 1914、1915年にダキーラは仕返しにモレロ一家の
   ロモンテ兄弟
を相次いで暗殺した。
 なお、この実行犯は配下のウンベルト・ヴァレンティとされている。
   

 1916年、モレロ一家はナポリを中心とした出身者で構成された犯罪組織
   カモッラとの戦争
で戦闘員が消耗して弱体化していった。

 ダキーラはブルックリンに拠点を移し、ウォーターフロントの利権に進出した。


 1917年、警察の摘発で組織が崩壊したブルックリンのカモッラの残党を吸収して勢力を広げた。

 また、ハーレムやロウアー・イースト・サイドにも配下のギャングを置き、利権を拡大・保持していった。


 ハーレムのコルレオーネ派閥のボスに
   サルヴァトーレ・ロイアカノ(Salvatore Loiacano)
を据えtあうえで間接支配した。

 一家のメンバーには、ウンベルト・ヴァレンティ、アクルーソ・ディミノ、サルヴァトーレ・マソット、サヴィエロ・ポラシア、ジョゼフ・トライナ、フランク・スカリーチェジョゼフ・ビオンドなどがいた。

 ニューヨーク以外の地域では、クリーヴランドのジョゼフ・ロナルド、バッファローのパルメリ一家などと緊密なネットワークを築いていた。

 モレロは1920年に出所し、裏切り者
   ロイアカノ
を粛清してボスの座を奪い返した。
  
 これを脅威に感じたダキーラはギャング会議を開き、モレロらの勢力メンバー12人に対しまとめて死の宣告を出した。
 これによりモレロ派と再び流血抗争に突入した。

 利権でもある密輸抗争も絡んで復讐合戦となり、両サイド合わせ十数人の死者を出した。

 ただ、1922年8月、モレロの指示を得た
に刺客ヴァレンティを返り討ちにされたためモレロ派封じ込みは頓挫した。

 1920年代半ば、故郷パレルモでもマフィア抗争が起き、戦闘資金をシチリアに送金して一方を助けた。


 1926年時点でブルックリンのバスビーチに住み、近くにカラブリア系ヌドランゲタと呼ばれる犯罪組織
らが住んでいた。

 なお、離反者や裏切り者が相次いで勢力が衰えると、ブロンクスに拠点を移し立て直しを図った。

 1928年10月10日早朝、係りつけの医者を訪問した時、イースト・ヴィレッジの路上で
   モレロ
   アル・ミネオ
らが共謀した暗殺者3人の狙撃犯に計9発撃たれ、即死した。
 この時は身辺を警護するボディガードはおらず、妻と4人の子供の目の前で殺された。

 近くのドラッグストアの主人が目撃して警察に一部始終を話したものの、犯罪組織のボスが暗殺されたことが判ると、翌日何も見ていないと前日の発言を撤回している。

 同年7月フランキー・イェールが殺された。
 この背景としては南ブルックリンの縄張りを乗っ取ろうとしたことが発端とされている。。

 ダキーラを葬ったマッセリアはアル・ミネオをダキーラ一家の新たなボスに据え、組織を乗っ取った。

 ダキーラ派残党はこれに抵抗し、一部がカステランマレーゼ派との提携に走りカステランマレーゼ戦争の引き金になった。
   

    
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2017年10月19日

チロ・テラノヴァ(Ciro Terranova) 「アーティチョーク・キング」とも呼ばれたモレロ一家のリーダーの1人


チロ・テラノヴァ(Ciro Terranova)
     1889年7月20日 -
              1938年2月20日

 ニューヨークのイタリア系犯罪組織のボスでモレロ一家のリーダーの1人
 「アーティチョーク・キング」とも呼ばれた。
   
 
 シチリア島コルレオーネ生まれで地元マフィアの
   ベルナルド・テラノヴァ
の3人兄弟の次男(長男ヴィンセント、三男ニコラス)で、ジュゼッペ・モレロは異父兄にあたる。

 1892年一家で渡米し、ニューヨークからルイジアナ、テキサスを転々とした。

 1896年頃、ニューヨークに戻り、イースト・ハーレム地区に定住して学校に通いながら家族の左官業を手伝った。
 こののちジュゼッペ・モレロが経営していたイタリアンレストランのウエイターなどをやった。

 この後、モレロ組織(116丁目ギャング)に加入し1903年には
   イニャツィオ・ルポ
が姉のサルヴァトリーチェ(1880年-1968年)と結婚して親族関係となっている。

 1909年、テッシエ・カターニアと結婚した。

 1910年、ジュゼッペ・モレロが
   紙幣偽造
で監獄送りになった。
  

 ニコラスやヴィンセントと共にモレロ一家のリーダーとしてモレロの左官業を受け継ぎながら、ナポリ系の
   ジョシュ・ガルッチ
に雇われ用心棒グループに加わった。

 イタリア移民の食卓に不可欠な
   アーティチョーク(アザミ)
の市場に目をつけて、貨物列車でニューヨークに運ばれる
   カリフォルニア産アーティチョーク
を買い占めたうえで30%-40%のプレミアムを付けて業者に売りさばき莫大な利益を上げた。

 モレロの紙幣偽造と異なり合法な商売として長らく一家の収入源の1つになったため「アーティチョーク・キング」とも呼ばれた。


 モレロが暴力や殺人で問題を解決していた手法は目立つため、チロは役人や政治家に取り入り、賄賂漬けにして
   警察の追及を遮断すること
を本領としていた。

 ライバルギャングを当局に内通して罠にはめるなどして逮捕させた。

 ジュセッペ・モレロの収監後の一家は派閥争いに突入したがビジネス自体は堅調で、車を何台も所有したうえイーストハーレムを支配した。

 1916年、ブルックリン区のナポリ系ギャング
   ペリグリーノ・モラノ
らにニコラスが殺されると、兄ヴィンセントと共に一家を率いて全面戦争マフィア−カモッラ戦争)に突入した。

 敵対する組織に何度も命を狙われた。

 一時カモッラ勢の攻勢に押されてハーレムの縄張りを奪われたものの1917年にはカモッラが一斉検挙で組織が崩壊したのちに奪い返している。

 1918年、ジョー・ディマルコ殺害共謀容疑で起訴されたが無罪となった。

 1920年頃までに勢力を拡大したモレロ一派
   ジョー・マッセリア
の勢力に押され主従関係は逆転したが禁酒法時代となり酒の密輸ビジネスで大儲けした。

 家族を郊外ペルハム・マナーの豪邸に住まわせ、武装したリムジンを乗り回したりしていた。

 
 ジョゼフ・ヴァラキは回想で1923年頃のイーストハーレムは、「帝王」チロの天下であったと語った。

 当時ギャングのアジトだったハーレムの116丁目のレストラン「ヴェネチア」にはイタリア系ギャングの他に
   レプケ・バカルター
   ダイアモンド兄弟(レッグス・ダイアモンド
などユダヤ系・アイルランド系の強面ギャングが出入りしていたが、チロに比べればまるで小物だったと話している。
   


 1929年、ニューヨーク治安判事
   アルバート・ビターレ
の自宅パーティにいたことが新聞記者により暴露された。

 新聞にはニューヨークを牛耳る暗黒街の大物と度々紹介された。


 1930年にアイルランドギャングの
と提携し、ハーレムのナンバーズ賭博の一部(25%)をシェアした。

 この頃の部下にはマイク・コッポラ、フランク・リヴォーシ、ジョゼフ・ラオ、ジョゼフ・ストラーチ、フランク・アマト、カターニア兄弟(ジョゼフ、カロゲロ)などがいた。

 
 カステランマレーゼ戦争ではマッセリア側の同盟者と見られた。

 1930年10月頃
らを通じてサルヴァトーレ・マランツァーノにひそかに寝返った。

 1931年、マッセリアの強力な戦闘員でチロの妻の親族だった
   ジョゼフ・カターニア
がマランツァーノ派に殺害された時には棺の上に手を置き復讐を誓った。
  
 1931年4月、マッセリアの殺害に協力したものの、功績は認められず縄張りの分配からは排除された。

 ハーレムのナンバーズ賭博の利権は保持したものの仲間の多くを殺され、権威は失墜した。

 同年、五大ファミリーが再編されたのちはルチアーノ一家に属したが
   アーティチョークの利権
を部下に奪われた。

 1935年10月、シュルツが暗殺されたのを機にナンバーズ賭博の利権を奪った。
  

 ルチアーノはテラノヴァに引退勧告して配下の
   マイク・コッポラ
に縄張りを継がせた。
 このため、すべての賭博収入を失ったため、従っていた部下もコッポラに鞍替えした。

 同年、未納税金500数ドルを払えず破産を宣言し、ペルハム・マナーの豪邸が差し押さえられた。

 破産管財人に豪邸を明け渡すと少年時代住んでいたハーレムのアパートに引越し、晩年は借金で生計を立てていた。

 1937年、テラノヴァを長年敵視したニューヨーク市長
   ラガーディア
の意向のもと警察の嫌がらせで何度も微罪で捕まった。
 1938年、脳出血でベットの上で死去したが死んだときの手持ち資産が現金200ドルと株券2枚だったという。
 

    
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posted by まねきねこ at 20:11| 愛知 ☔| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

ペリグリーノ・モラノ(Pelligrino Morano) ブルックリンで一大勢力を築いたカモッラのボス


ペリグリーノ・モラノ
    (Pelligrino Morano)
             1877年 - 没年不明


 ニューヨークの1910年代、ブルックリンで一大勢力を築いたカモッラのボス。
 
 イタリア南部カンパニア州サレルノ近郊のプラータ生まれ。1892年渡米し ニューヨークのイースト・ハーレムに定住した。

 馬を盗んでは転売する馬泥棒で生活費を稼いだという。
 1904年にライバルを銃撃し、武器隠匿で逮捕され刑務所で収監されてから数年後ブルックリンのコニーアイランドに移った。

 1911年頃までにナポリ系ギャング「カモッラ」のボスとなった。

 1907年ニューヨーク市警の
   ジョゼフ・ペトロジーノ
により国外退去となったナポリ系ギャング
   エンリコ・アルファノ
の縄張りを継いだと言われている。

 イタリアン富くじなどのギャンブル、恐喝や強請ビジネスに手を広げ、コニーアイランドのレストラン
   サンタルチア
を拠点としてブルックリン一帯を支配した。

 副ボスにアンソニー・パレッティを据えて「コニーアイランドギャング」と呼ばれた。

 部下にフィラデルフィアのカモッラの
   アンドレア・リッチ
いる、カモッラ系のネイビーストリートギャング(リーダーは、レオポルド・ロウリターノ、アレッサンドロ・ヴォレロ)を取り込み、下部組織とした。
 

 1910年代前半、組織を拡大し、マンハッタンのイースト・ハーレムに進出した。
 ハーレムを地盤にしていたモレロ一家とは提携して、ポリシーゲームの賭場を開いた。

 1915年5月、独立系ナポリギャングの大物
   ジョシュ・ガルッチ
を、モレロ一家と共謀して暗殺した。

 1916年6月、モレロ一家のリーダー
   ニコラス・テラノヴァ
   スティーヴ・ラサール
らと会議を開き、ロウアー・マンハッタンのカジノに進出した
   ジョー・ディマルコ
の殺害を共謀し、7月、ネイビーストリートギャングの暗殺者を使ってディマルコを殺害した。
   

 モレロ一家に協調してきたモラノは、カモッラ内輪の会議を開催し戦略を転換した。

 ハーレムの賭場の上がりをモレロ一家に上納していたことで利益は少なく上納金で1500ドルを損したと主張した。

 シチリアマフィアと戦うより仲間でいたほうがいいという意見もあった。


 ネイビーストリートギャングのリーダー格
   アレッサンドロ・ボレロ
がハーレムのカモッラである
   ニコラ・デルゴーディオ
暗殺をモレロの仕業として怒るなど、シチリア人への不信感があったためモラノは、モレロ一家の縄張りを乗っ取ることに決めた。

 モレロ派のリーダー格の幹部をできる限り多くおびき出して一気に殺害する計画を立てた。

 同年9月7日、会議と称してモレロ一家をブルックリンに誘い出したものの
   ニコラス・テラノヴァ
と側近チャールズ・ウンブリアコの2人だけだった。

 カモッラの手下が2人を会合場所に案内する途中、道角に突然現れた暗殺者が2人を銃殺した。
 その後、敵方を見つけると殺しあうマフィア−カモッラ戦争と呼ばれる全面戦争に発展した。

 モレロ派の残りのリーダーを何度も狙ったが、不成功に終わった。
 この間、ギャンブルを始めアーティチョークや氷などの移民ビジネスをモレロ一家から奪取し、一時的に利益を得ることに成功した。

 
 1917年11月、ネイビーストリートギャングのラルフ・ダニエロが当局に捕まった。
 警察に一連の抗争で起こった多くの殺人を証言したため、主要メンバーが芋づる式に逮捕された。
 モラノも1918年4月、テラノヴァ、ウブリアコ殺害関与の容疑で逮捕された。


 ただ、モラノはダニエロに続いて減刑欲しさに証言協力するメンバーが相次いだが、最後まで沈黙を貫いた。

 懲役20年刑でシン・シン刑務所に収監され、その後消息が途絶えた。

 ボスと主要メンバーを根こそぎ失ったカモッラは分散瓦解し、以後、カモッラ単独の大きな組織は形成されなくなった。

 1920年代にかけてはシチリアマフィアに取り込まれていった。
   

    
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posted by まねきねこ at 10:30| 愛知 ☔| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月16日

ジョゼフ・ビオンド 生涯を通じて2度、大物マフィアボスの暗殺に関わったガンビーノ一家の副ボス


ジョゼフ・ビオンド
     (Joseph Biondo)
       1897年4月16日 - 1966年6月10日


 NYのイタリア系犯罪集団
の幹部で、ガンビーノ一家の副ボスを務めた。

 本名 ジュゼッペ・ビオンド
  
 ニックネームは
   ジョー・バンディ
で生涯を通じて2度、大物マフィアボスの暗殺に関わったとされる。
 
 
 シチリア島バルチェッローナ・ポッツォ・ディ・ゴットで生まれた。
 1898年頃、一家で渡米し、NY市マンハッタン区イースト・ヴィレッジに住み、父が酒場を経営し生計を立てた。
 1919年、麻薬所持で逮捕されている。

 ラッキー・ルチアーノとはイースト・ヴィレッジ界隈の幼馴染で、若い頃一緒にストリートギャングになるまで路上でスリなどをやって生活費を稼いでいた仲間。

 若い頃シチリア系マフィアの
   サルヴァトーレ・ダキーラ一家(現 ガンビーノ一家)
の組員ウンベルト・ヴァレンティのグループに属した。

 1922年、ダキーラ派とジェノヴェーゼ一家の前身
   モレロ・テラノヴァ派
との間の抗争でヴァレンティが殺されたのと同じ年に、ビオンドも路上の決闘に関わり、殺人罪で逮捕された。

 
 その後、1927年頃までにダキーラ一家のメンバー入りをしている、

 イースト・ヴィレッジで強請ギャング団を率い、小柄だったが武闘派として周囲に恐れられた。
 付き合いのある仲間として
   フランク・スカリーチェ
   ニコラ・ジェンタイル
らがいた。

 1925年結婚し、1927年に米国籍を取得している。

 ダキーラ暗殺に続く
   カステランマレーゼ戦争
では中立だった。

 ヴィンセント・マンガーノと行動を共にし、最後は勝馬に乗るべくサルヴァトーレ・マランツァーノの陣営に鞍替えしている。

 1931年、ジョー・マッセリアとの争いを制したマランツァーノは
   フランク・スカリーチェ
をマンガーノ暗殺を条件に旧ダキーラ一家ボスに据えた。
 ただ、スカリーチェは命じられた暗殺を果たせず、逆にマランツァーノの信頼を失う恐れがあったためビオンドに相談した。

 ビオンドは、マンガーノやルチアーノに相談し事態の収拾を図った。

 マランツァーノはその年9月に暗殺されたが、その暗殺謀議に関わったと信じられている。
マンガーノ一家幹部

 ルチアーノが推進していたNY五大ファミリー再編では、マンガーノ一家(現ガンビーノ一家)に幹部として配属になった。

 1930年代までにクイーンズのジャクソン・ハイツに転居した。

 19'30年代、タクシー会社の
   組合強請ギャング
を率いたが1938年、トーマス・デューイ検察官が率いる捜査チームにより暴行・強請で検挙された。

 1942年春、イタリアに追放されていたルチアーノを訪問したところ、ミラノで警察に尋問された。
 ただ、警察は何の証拠も得られなかったが、ルチアーノはビオンドに米国へのヘロインの密輸屋を紹介した。

 以後、ビオンドは密輸ルートの調整で何度もイタリアに飛んではルチアーノと接触したという。
 ルチアーノから米国内への麻薬密輸の監督を任され、北米の麻薬の上りをイタリアへ運んでいたと信じられている。

 1950年代初期、インターポールの麻薬犯罪者リストに掲載された。

 1951年、アブナー・ツヴィルマンらと共に米国議会上院の
   犯罪調査委員会
に召喚されるが証拠が集まらず特に何も告発されていない。

 1958年、連邦麻薬捜査局FBNは、シチリア在住の
   ニコラ・ジェンタイル
のビオンド宛の手紙を押収し、ジェンタイルから麻薬取引の情報を引き出した。
   

 1957年10月、アルバート・アナスタシアの死で実権を握った
により副ボスに据えられた。
 時はガンビーノと共に一家の最古参になった。

 ビオンドはアナスタシアに忠誠に仕えながらガンビーノに通じており、ステファン・アルモネ、アーノルド・ウィッテンバーグ、ステファン・グラマーウタの3人で構成された
   アナスタシア暗殺チーム
を率いていたとされるとされる。

 マフィアの内幕を暴露したジョゼフ・ヴァラキの証言をはじめ、アナスタシア暗殺に協力した報償に副ボスの座を得たようだ。

 表向きの家業は不動産ブローカーで、マイアミのナイトクラブや自動車会社なども所有していた。

 副ボス時代は、一家の収入をピンハネしたり、当局の注目を浴び社会から非難を受けやすい麻薬密輸を止めなかったとも言われ、ガンビーノの信頼を失った。

 1965年頃、副ボスの座を
に奪われ、兵隊に格下げになった。

 晩年フロリダのハレンダールのサウスオーシャンドライブの別荘に住んだ。
 1950年代後半から病気がちで、1966年、病死した。
   

    
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posted by まねきねこ at 22:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 

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