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2017年02月18日

ポール・エクマン(Paul Ekman) 人の感情と表情に関する先駆的な研究を行った米国の心理学者


ポール・エクマン(Paul Ekman)

     1934年−

 人の感情と表情に関する先駆的な研究を行った米国の心理学者で20世紀の傑出した心理学者100人に選ばれた。

 米国の人気テレビドラマ
   Lie to Me(ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間)
の主人公カル・ライトマン博士のモデルでもある。(公式サイト

 

   
   (出典:https://www.youtube.com/embed/l9vYSBR9nio


 
 小児科医の息子としてワシントンD.C.で生まれ、ニュージャージー、ワシントン、オレゴン、南カリフォルニアで育った。

 国立精神衛生研究所(The National Institute of Mental Health)から研究科学者賞を1971年以降6回にわたって受賞。
 2001年に英国の喜劇役者でコメディー・グループモンティ・パイソンのメンバー
   ジョン・クリーズ
とともにBBCのドキュメンタリ番組
   The human Face
の製作に関わった。

   


 2004年にカリフォルニア大学サンフランシスコ校の教授を定年退職した。


 エクマン氏は
   表情
が文化依存的ではなくて
   人類に普遍的な特徴
であり生得的基盤を持つことを明らかにした。

 このの発見は現在科学者から広く受け入れられている。

 エクマンが普遍的であると結論したのは
   「怒り、嫌悪、恐れ、喜び、悲しみ、驚き」
である。

 なお、「軽蔑」に関しては普遍的であることを示す予備的な証拠があるが、まだ議論は決着していない。

 エクマン氏はあらゆる表情を分類するために
   FACS(Facial Action Coding System、顔動作記述システム)
を考案した。

   

 現在、このシステムは表情に関連する精神医学や犯罪捜査の分野で幅広く利用されている。

 また、表情以外にも広く非言語コミュニケーションの研究を行っている。

 同情、利他的行為や平和的な個人関係の科学的解明にも尽くした。

 さらに人々が嘘をつくこと、嘘を見破ることの社会的な側面の研究にも貢献した。
 ディミトリス・メタクサスとともに
   視覚的嘘発見器
の開発を行っている。
  
 また、エクマン氏はパプアニューギニアの部族民などを調査することで
   孤立し石器時代の文化
で暮らす人々が
   他の異なる文化の人の表情
を写した写真から意図を正しく読み取れることを確認し
   基本的な感情のリスト
を作成した。

 この証拠によって、エクマンは「 怒り、嫌悪、恐れ、幸福感、悲しみ、驚き、おもしろさ、軽蔑、満足、困惑、興奮、罪悪感、功績に基づく自負心、安心、納得感、喜び、恥」といった感情が全人類に普遍的であり、生物学的基盤を持つとの結論を導きだした。


       
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2017年01月15日

山城屋 和助(やましろや わすけ) 日本に初めて西欧式の牛革製の鞄を紹介した人物


山城屋 和助(やましろや わすけ)

    天保7年(1836年)
         - 明治5年11月29日(1872年12月29日)

 本名は野村三千三(のむら みちぞう)
 日本に初めて西欧式の牛革製の鞄を紹介した人物として知られる。

 長州藩の藩士
   高杉晋作
らがの発案によって文久3年(1863年)と同4年(1864年)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく
   イギリス・フランス・オランダ・米国
の列強四国との間に起きた
   下関戦争
の後に組織された戦闘部隊「奇兵隊の隊士で明治維新後に陸軍省御用商人となった。

 明治初期に起こった公金不正融資事件にからみ割腹自殺したことで知られる。

 周防国玖珂郡山代荘本郷村で、医師野村信高右の四男として生まれた。

 幼少時に両親と死別し、親戚により萩の寺「龍昌院」に預けられ、僧侶となった。

 文久3年(1863年)に還俗し、高杉晋作が創設した奇兵隊に入。
 山縣有朋の部下として
   戊辰戦争
に参戦し、越後口では高台寺党とも呼ばれた御陵衛士残党の
   篠原泰之進
   高鍋藩兵
と共に戦った。

 
 明治維新後に山城屋和助と名をかえ、新政府の軍政に関係し山縣有朋の縁故で兵部省御用商人となった。
 横浜の南仲通り3丁目に店舗を構え明治4年には、東京の本石町にも店を出した。

 長州人脈を活かし、軍需品納入の商売は繁盛した。

 明治5年(1872年)、彼は山縣ら長州系の官僚の口利きを利用し
   陸軍省公金15万ドル
を借り、生糸市場に手を出した。

 なお、長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされている。

 軍が融資した金額は総額64万8000円に達した。
 山城屋は一時は500人以上の店員を使うほど隆盛したものの、欧州で勃発して
   普仏戦争
の影響でヨーロッパでの生糸相場で投機に失敗してしまった。

 山城屋は、陸軍省から更に公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとフランスに渡ったが、パリのホテルに滞在し観劇や競馬に興じ、女優との交際や富豪令嬢との婚約話などといった、商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まった。

 これを不審に思った駐仏公使
   鮫島尚信
が日本の外務省に報告、総額約65万円にのぼる公金貸し付けが発覚した。

 当時、陸軍省では、長州閥が主導権を握っていたため、この事件を好機と捉えた他藩出身官僚が陸軍長州閥を糾弾した。

 山城屋と最も緊密だった山縣有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻した。

 しかし、高島嘉右衛門や堀越角次郎ら豪商に協力を求めたが協力を得られず、借りた公金を返済する能力が無い事が明らかになった。

 金の切れ目が縁の切れ目のごとく山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶った。

 窮地に立たされた山城屋は、同年11月29日、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山縣への面会を申し入れるが拒絶されている。

 そのため、万事窮すとなり面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。

 山城屋の自殺により、山城屋事件の真相は究明されないまま終結させている。
  
 ただ、山縣有朋の作成した書簡に死後も司法省によって事件が追及されていたとの記述がある。
    

   
    
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2017年01月10日

鄭芝龍 中国南部および日本などで活躍した武装貿易商人のひとり。


鄭 芝龍(てい しりゅう)

   1604年(万暦32年)
         - 1661年(順治12年)


 中国明朝末期に中国南部および日本などで活躍した武装貿易商人のひとり。
 
 閩南語、南京官話、日本語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語を話した。
 剣道を得意とし、スパニッシュ・ギターも弾けたという]。

 兄弟に鄭芝虎、鄭鴻逵(鄭芝鳳)、鄭芝莞(鄭芝豹がおり、子に鄭成功(国姓爺)と田川七左衛門の2人の息子がいる。
 
 1604年、福建省南安市に生まれ、18歳の時に父が死亡した。

 母方の叔父を頼りマカオに赴き
   黄程
から経済学を学んだ。

 カトリックの洗礼を受け、Nicholas という洗礼名を授けられている。

 1621年頃、台湾や東南アジアと朱印船貿易を行っていた中国系商人
   李旦や顔思斉
の配下となった。

 日本の肥前国平戸島(現長崎県平戸市平戸島)を中心に活動を強め平戸藩士田川七左衛門の娘であるマツと結婚した。
 この後に、息子の鄭成功と田川七左衛門が生まれている。

 1624年には活動拠点を日本から台湾笨港(現:北港付近)に移した。

 1625年、リーダーの李旦か顔思斉が死亡した。
 リーダーが取りまとめて運営していた船団を受け継ぐこととなった。

 船団は千隻もの船を保有して武装化も進めるなど海賊としての側面も有した。

 台湾南部が東インド会社を経営するオランダ人の入植がはじまると、妻子を連れて中国大陸へと渡った。
 当時、福建省周辺でもっとも強い勢力をもった武装商団に成長していた。

 1628年には福建遊撃に任命された。

 李魁奇、鐘斌、劉香などのかつての海賊の仲間たちを征伐している。

 福建省に旱魃が襲うと、住民をひきつれて台湾へ移り住み、豊富な資金援助を持って、開拓を進めた。

 当時、台湾南部はオランダ東インド会社が統治しており、オランダとの国際貿易を強化して巨万の富を築いた。

 1644年には亡命政権である南明の福王から南安伯に封じられた。
 福建省全域の清朝に対する抵抗軍として責を負っている。

 1646年には黄道周との対立などで南明政権から離れ清朝に寝返っている。
 なお、この時、意見の違いから子の成功らとも別れている。

 成功は父の勢力を引き継いで台湾に拠り、明の復興運動を行い清に抵抗した。

 このため、芝龍は成功の懐柔を命じられたが、成功がこれに応じなかったことが猜疑心を生み、謀反の罪を問われて、1661年に北京で処刑されている。
       
   
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2017年01月08日

蒲 寿庚(ほ じゅこう) 元初期のアラブ系イスラム教徒の商人

  
蒲 寿庚(ほ じゅこう)

        生没年不詳

 中国南宋末から元初期のアラブ系イスラム教徒の商人、軍人、政治家

 元代の「色目人官僚」の嚆矢ともいえる人物。

 南宋時代泉州において貿易商として財を成し、地域の有力者として頭角を表した。
 朝廷にその実力を認められ、招撫使に任じられ福建水軍の司令官となる。
   

 1276年南宋末期の動乱時、端宗を奉じた宰相
   陳宜中
らを中心とする南宋首脳部は蒲寿庚の財力、軍事力を頼り、福州から泉州への遷都を計画したものの、利を考えて元に寝返ったうえ南宋に叛旗を翻した。

 投降の際、泉州城内の宋の皇族を処刑し、元に忠誠を誓った。

 騎馬民族である元の軍隊は水戦を苦手としていた。
 水軍の司令官でもあった蒲寿庚の投降により元軍に置ける水軍勢力を強化し、南宋の亡命政府を克Rに追い詰めて滅ぼした(崖山の戦い)。

 元代に入っても引き続き重用され、泉州を当時中国最大級の貿易港へと発展させた。
       
   
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2017年01月07日

韓 山童(かん さんどう) 「紅巾の乱」と呼ばれる争乱の引き金となった人物


韓 山童(かん さんどう)

     生年不詳 - 1351年
   

 中国の元朝末期に河北省欒城県の人物で、反体制組織である
   白蓮教(明教)
を組織、広く農民に伝えられ勢力を拡大させ天候不順の影響から生活が立ち行かなくなったため暴徒化し
   紅巾の乱
と呼ばれる争乱の引き金となった人物。
 
 
 1351年、韓山童は秘密裡に片目の石人像を彫らせたうえで黄河堤防に前もって埋めておき
   「石人一隻眼、黄河を挑動して天下叛す」
と説いたことが拡散したところで、何も知らない農民たちが黄河堤防で石像を見つけ、韓山童をより信じるようになった。
  
  
 韓山童は、芸術面では北宋朝で最高の一人と言われる8代皇帝
   徽宗
の子孫を名乗り、蜂起を企てた。

 これが紅巾の乱の発端となったものの、官軍の討伐で反乱が初期の段階で叩きつぶされたうえ捕まり誅殺された。

 1355年になると息子の韓林児が小明王(皇帝)を称して、国号を宋とした。
        
   
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2017年01月06日

張 士誠(ちょう しせい) 至正14年(1354年)には誠王と称し、国号を大周、元号を天祐と定めた人物

  
張 士誠(ちょう しせい)

 モンゴル族が建国した元朝末の群雄の一人で娘婿に潘元紹がいる。

 蘇州を拠点として江東に強大な勢力を誇った。
 明朝を起こした朱元璋、大漢を建国した陳友諒と覇を競ったが、最終的には朱元璋によって滅ぼされた。

 元末に蜂起した群雄の多くは
   白蓮教
の影響を受けた紅巾軍の系譜に属していた。

 紅巾軍には属していない張士誠は泰州白駒場(現在の江蘇省塩城市大豊区)の人で郷里で官塩の舟運の傍ら、私塩の密売にも携わっていた。

 財を軽んじて人を施すのを好んだので、衆人の心を得ていたという。
 ただ、役人、土豪とは利害が対立していた。
   

 至正13年(1353年)に土豪から侮辱を受けたため
   張士義
   張士徳
   張士信
ら3人の弟を含めた18人を率いて報復のために挙兵した。

 日頃から不満を抱いていた多数の塩丁らがこれを加わり、たちまち泰州を落として参政の
   趙l
を処刑し、更に興化、高郵など江北の要地を占領していった。

 翌至正14年(1354年)には誠王と称し、国号を大周、元号を天祐と定めた。
 
 反乱が起こった淮東は、全国最大の塩の生産地であり、かつ江南の物資を京師に輸送する大動脈である大運河が通っている地域であったため、張士誠の反乱を元朝は極めて深刻に受け止めた。

 塩の専売を最大の財源としていた元朝としては、経済面で江南の豊かな物資に依存しており、死活問題であった。
 そのため、右丞相のトクト(脱脱)を司令官とする大規模な討伐軍を編成し鎮圧に向かわせた。

 高麗や、西域からも兵を参集させトクト率いる大軍は、張士誠の拠点を次々に攻略した。

 高郵を包囲された張士誠は絶体絶命の窮地に陥った。

 朝廷内部での権力闘争が強まりトクトは忠誠が疑われ失脚、司令官の職を罷免されて連行された。
 これにより混乱に陥った元軍は容易く破らえれ張士誠は危機を脱することができた。

 元朝の江南に対する影響力は著しく低下したため造反勢力が割拠することとなった。
  

 張士誠は天候不順に伴う飢饉を乗り切るため食料を確保するために南侵し、天祐3年(1356年)には江南の経済と文化の中心地である平江路(現在の江蘇省蘇州)を占領し、隆平府と改めて、国都に定めた。

 紅巾軍傘下の造反勢力の一つであった朱元璋は、集慶路(現在の江蘇省南京)を占領して、応天府と改めて拠点とした。
 また嘉興は、苗族である楊完者の軍勢が占拠していた。

 天祐4年(1357年)、張士誠は水軍を用いて朱元璋、楊完者を攻撃したが力を殺ぐことは出来なかった。

 元朝の江浙等処行中書省丞相
   タシ・テムル(達識鉄木児)
と手を結んで楊完者を謀殺したうえ嘉興を手中に収めた。

 なお、楊完者の軍勢は住民に掠奪暴行を働いていたため、張士誠は解放者として歓迎された。

 楊完者を滅ぼした勢いで、朱元璋に対しても攻撃をかけた。

 反撃に遭い、懐刀であった弟の張士徳を失った。

 朱元璋に脅威を感じた張士誠は、一旦国号や年号を廃して元に帰順したうえで太尉の任官を受けた。
 また、敵対関係にあった方国珍とも関係改善を行い、後顧の憂いをなくした。


 張士誠は、蘇州一帯を占領した当初は水利事業、水田の開墾、産業の振興、新貨幣の鋳造、軍事面での改良をおこなった。
 その後は弟に政治を任せ自分は放蕩に耽った。

 贅沢な生活が好きで広壮な宮殿を造営し革命意識が低かったこともあってその現状を維持するために一時的に元朝と手を結んだ。

 幸運によって支配地域が拡大するとその享楽生活に拍車をかけ家臣もまた、堕落していき軍隊もまともに運営されなくなった。

 元末に各地に割拠した群雄の中では張士誠が経済的に最も富強で、文化面でも最先進地域を支配した。
 ただ、奢侈への傾倒が著しく、勢力拡大への意欲が欠けていたため滅亡の原因となったとされる。



 至正23年(1363年)3月には、紅巾軍の実力者
   劉福通
を安豊に攻め、敗死させた。
 このため帰順する必要がなくなった元朝から再び離反した張士誠は呉王を称し、弟の張士信を丞相とした。

 張士誠の支配地域は、北は徐州から南は紹興に至った。

 応天府に拠る朱元璋は湖北から江西の一帯を支配して大漢皇帝を称する陳友諒の両雄と並び立つようになっていた。
  

 呉王を称したが張士誠の勢力拡張の動きは鈍かった。

 陳友諒が張士誠に使者を送って、朱元璋を東西から挟撃しようと誘ったものの
   漁夫の利
を狙っていた張士誠はこの話には乗らなかった。

 
 朱元璋は着々と力を増しており至正23年(1363年)に
   鄱陽湖の戦い
で西の宿敵陳友諒を敗死に追い込んだ。

 翌至正24年(1364年)には陳友諒の跡を継いだ子の陳理を降伏させ、自軍に吸収した。
 湖北、江西の一帯を版図に治めた朱元璋は矛先を東に転じ、張士誠に対する本格的な進攻を開始した。

 
 至正26年(1366年)、朱元璋の軍勢は張士誠の本拠地である隆平府を包囲した。
 長期の包囲戦の末、隆平府は翌至正27年(1367年)9月に陥落した。

 捕らえられた張士誠は、応天府に送られる途上で自縊して果てた。
 このとき享年47だった。
  

   
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2017年01月05日

李 師師(り しし) 北宋末期の美妓


李 師師(り しし)

 北宋末期の美妓
 芸術面では北宋最高の一人と言われた第8代皇帝
   徽宗
の妃嬪
 
 染匠の王寅の娘。母は難産のため死去し、父も早くに亡くしたため養祖母の姓である李姓を称した。

 北宋の首都であった開封の名妓として知られ
   趙 元奴
と共に最優秀な女性歌手として評価されたという。

 なお、開封は11世紀から13世紀の世界最大の都市。

 秦観、周邦彦らの詩人とことごとく知り合った後、趙元奴などと共に徽宗の寵姫となって、多くの財帛を賞賜され瀛国夫人を授されて才人にいたった。


 反乱軍の首領
   宋江
も、徽宗から招安のため李師師に賄賂を贈ったという。

 宋江は河朔(黄河北岸)で反乱軍を立ち上げ、1121年に淮南の諸地方を荒らした後、官軍の追討を受けて京東(北宋の首都開封の東、現在の山東省西部)、江北(長江北岸)を転戦し十郡を攻略した。

 宋江の勢いを恐れた北宋朝廷は
   侯蒙の建策
に従って宋江の罪を赦して将軍に取り立て同時期に江南を席巻していた
   方臘の乱
の反乱軍を討伐させようと画策した。
 しかし、侯蒙の死によって実現しなかった。

 宋江は山東半島の海州に侵攻したところで知州の
   張叔夜
に敗れ、降伏した。

 宣和7年(1125年)、徽宗が金に対する
   詐術的な外交政策
に失敗し、金が大軍で侵攻してきた。

 同年12月23日(西暦で1126年1月25日)、徽宗は「自らを罪する詔」を出し、帝位を欽宗に譲り太上皇となった。

 翌年(西暦で同年)、金が開封を包囲すると欽宗は
   李綱
を任用して防御に当たった。

 交渉が成立して賠償金の支払いと領土を割譲する条件で金と和議となった。

 欽宗が皇帝に即位すると、軍費のため李師師の財帛は全て没収された。

 開封を包囲していた金軍が和議で撤退すると、宋の官人の間では金に対する強硬論が主張され、賠償金や領土割譲を拒否する方針に転換した。

 この宋の違約に、怒った金は再び開封を攻めて陥落させた。

 徽宗と欽宗は金軍により捕虜となった。

 金の天会5年(1127年)2月丙寅に金の太宗の詔で、徽宗・欽宗は共に庶人に落とされた。
 その後、上京に連行されたうえ翌天会6年(1128年)8月丁丑、素服を着せられて太祖廟に跪拝させられ、続いて乾元殿において太宗に目通りさせられた。

 ここで徽宗は昏徳公、欽宗は重昏侯に封ぜられると、10月戊寅に韓州(吉林省梨樹県)、天会8年(1130年)に東北の五国城(黒竜江省依蘭県)へと追放された。

 二帝と共に、徽宗の妃韋氏、欽宗の皇后朱氏など、宋の宮廷の皇后、妃嬪、皇女、その他宗室の女性や女官、宮女たちは
   金軍の慰安用
へと連行され、後宮に入れられた。

 その後、1128年6月には金の官設の妓楼である
   洗衣院
に身柄を移され、金の皇族や貴族を客とする娼婦となった。

 なお、朱皇后はその境遇に耐えかね、入水自殺している。

 李師師は金の侵攻で帝国が崩壊し混乱するなか行方不明となったようで記録はない。
  

   
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2017年01月03日

鄭 夢周(チョン・モンジュ) 「東方理学之祖」


鄭 夢周(チョン・モンジュ)
      1337年 - 1392年

 高麗王朝(首都 開城 918年 - 1392年)末の儒学者
 号は圃隠

 慶尚北道で生まれ、朱子学を学び、科挙に首席で及第した。

 高麗王朝が中国の元が撤退するといった内憂外患の中、元朝軍に従軍していた女真族出身の高麗軍人
   李成桂(のちの李氏朝鮮王朝太祖)
らとともに女真や倭寇(前期倭寇)の征伐に参加して功績を立てた。
  
   
 1377年には日本に赴き、室町幕府の九州探題
   今川貞世(了俊)
と倭寇の取り締まりについて折衝にあたった。

 貞世に倭寇禁圧を約束させ、高麗人の解放を果たした。

 1374年に恭愍王が親元派の宦官に暗殺され、子の禑王(辛禑)が即位した。

 倭寇(前期倭寇)平定に功績があった李成桂や崔瑩らがこの時期に政界で台頭した。
 対明政策における対立から、親明派の李成桂は1388年にクーデター(威化島回軍)を行ったうえで、禑王を廃して暗殺し、子の昌王(辛昌)を即位させた。

 今度は1389年に昌王は正当な王位継承者ではない偽王として暗殺したうえで、恭譲王を擁立させた。
  

 高麗王李成桂は、禅譲を受けて李氏朝鮮を開こうと画策し対立関係となり、李成桂の子
   李芳遠(のちの太宗)
が仕組んだ刺客の手で善竹橋で鄭夢周は暗殺された。

 なお、鄭夢周は教育にも力を注いで多くの弟子を育成し、のちに「東方理学之祖」と称えられた。
   

     
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偉人・貴人、有名人たちの足跡

  




        

    


    
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2017年01月02日

富田造酒之助 「糸造酒」と呼ばれた

 
富田造酒之助

    1844〜1915(弘化4〜大正4)
 
 甲州北都留郡大鶴村(上野原市)で生まれ、廃屋を興して富田姓を名乗った。
 
 明治初年横浜に出て政商
   山城屋和助
の薫陶を受けたという。
 
 明治12年(1879)、八王子の生糸市場にはじめて富田の名を示した。
 以来「糸造酒」の名で飛ぶ鳥も落とす勢いであったという。
 
 しかし、20年代後半に急速に没落してしまい明治の末年には失意のどん底にあった。
 みかねた同業者は、寄付を募り、生活費と生前に墓を建てて慰めた。
 山城屋和助

   
 
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2017年01月01日

趙 元奴(ちょう げんど) 北宋末期の美妓


趙 元奴(ちょう げんど) 

 北宋末期の美妓で芸術面では北宋最高の一人と言われた第8代皇帝
   徽宗
の妃嬪

 北宋の首都である開封の名妓として知られ
   李師師
などと共に徽宗の寵姫となって、多くの財帛を賞賜され、才人を授けられた。

 第9代皇帝欽宗が皇帝に即位すると、軍費のため趙元奴の財帛は全て没収された。

 靖康元年(1126年)、金軍が開封を陥落させたため、徽宗は青城に監禁されtあ。

 開封府に手紙を書いて衣服、針線、牛羊肉、石鹸など生活用品を要求した。
 その際に名指しで才人趙元奴も要求したが、以後、趙元奴に関する記録はない。
   
 
 金軍の侵攻の際に、金の兵士多数に凌辱されて妊娠した
   邵元奴
という才人がいたという記録があり、音の一致から、趙元奴と同一人物の可能性も考えられている。

 邵元奴は、金に到着後は妊婦だったことを考慮され、連行途中で出産した
   小王婕、
や他の4人の妊娠させられた妃嬪と一緒に、昏徳公(徽宗)のもとに帰された。

 翌年(金の天会6年)2月19日(1128年4月13日)、邵元奴は女子を産んだが、その後の記録もない。
  

   
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2016年12月18日

「戦いの女王」 ブーディカ


ブーディカ(Boudica Boudicca)
         生年不詳 – 60年/61年?) 

 英国東ブリタンニア、ノーフォーク地域を統治していたケルト人イケニ族の女王。

 夫プラスタグス王の死に乗じて王国を略奪するローマ帝国の侵略軍に対し、数多くの部族を結集し
   大規模な反乱
を起こしたことで知られている。

  
   

    
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   Boudica: The British Revolt Against Rome AD 60 (Roman Conquest of Britain) -   Boudica: Queen of The British (English Edition) -  
  



    
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2016年11月11日

スタンレー・ドラッケンミラー ポンド暴落など金融危機の仕掛け人のひとり


スタンレー・ドラッケンミラー
       1953年6月−

 米国の鉄鋼生産の中心地であるペンシルベニア州ピッツバーグで生まれた。
 1950年代人口が丁度ピークアウトとなる時期でUSスチールの鉄鋼の生産量もピークに達していた。

 ITバブルの崩壊などの影響から景気後退に陥って経営破綻したビッグ3の一角
   ゼネラルモーターズ
がある自動車産業都市デトロイトの人口も同時期にピークに達し、大戦の復興需要で欧州への資材供給拠点として莫大な資金が流入して経済が活発化してた。
 なお、その後、デトロイト市中心から人が周辺地に流出しており、周辺地域の人口が2000年代に頂点に達し下落に転じ、デトロイト市は2013年7月財政破綻した。

 貿易の自由化に伴い、通貨の固定相場制により日本は輸出主導で発展した。
 スミソニアン体制の崩壊ともいえる1971年に金とドルの兌換を停止後、円の切り上げとなった。

 スタンはバージニア州リッチモンドの高校を卒業後、1975年にリベラルアーツカレッジの一つ、メイン州の
   ボードイン・カレッジ
で英語と経済学を学び学士号を取得、1976年に結婚した。
 1977年に卒業後しピッツバーグ・ナショナル銀行で働き始めた。

 1980年にスタンは離婚した。
 1981年には投資会社
   デュケインキャピタルマネジメント
を設立し百万ドルで運用を開始した。

 1988年ビクター・ニーダーホッファーの後釜として
   ジョージ・ソロス
に2000年まで雇われた。

 同年にモルガンスタンレーのストラテジスト
   バートン・ビッグス
の姪でドレフュスの株式シニアアナリスト
   フィオナ・キャサリン・ビッグス
と結婚した。
  
 クウォンタムファンドを運用し成功した事例として1992年のポンド売り、1997年7月のアジア通貨危機がよく知られている。

 なお、ボンド通貨危機として知られるソロス対英国中央銀行の鬩ぎ合いでポンド売りのドイツマルク買いの決定でソロスに自身があるのなら増やすべきだとアドバイスして積みまして行ったと言われている。

 なお、議会承認などで予算が整わず英国中央銀行の資金が細って防戦側の予算の限界があったともいいます。

 アジア通貨危機ではマレーシアからは取引手法について悪く言われている。
 売り浴びせたのち底値付近で買って浚う動きをしたようです。
 
 
 1999年7月には金融市場がドットコムバブルであると指摘しtあものの2000年
   テクノロジー株
の暴落から逃れられず多大な損失を出してしまいソロスの元を離れることになった。
  

 なお、テクノロジー株が上昇する中
   ウォーレンバフェット
は良く分からないものには投資しないというスタイルを貫いて暴落の直撃を免れたと言われている。

 スタンはこれ以降デュケインの業務に集中していった。

 2003年バートン・ビッグスはモルガンスタンレーを離れtえヘッジファンドのトラクシス・パートナーズを設立した。

 2010年8月スタンは30年を区切りに事業から引退すると表明した。

 損失を出すこと無く続けて来たファンドではあっても常に高いパフォーマンスを維持するということの難しさを知っており、30年というのは丁度良い区切りであった。

 なお、年末にデュケインのスタッフが新たにファンドを立ち上げると発表した。

 引退後は自己資産管理、ゴルフ、テレビ出演でのコメンテーターなどをしている。

  
     
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2016年10月30日

ウィリアム・H・ウェブスター CIA長官とFBI長官の両方を歴任した唯一のアメリカ人


ウィリアム・H・ウェブスター
       (William Hedgcock Webster)

             1924年3月6日 − 

 英国の弁護士で法学者
 連邦捜査局(FBI)長官、中央情報局(CIA)長官、国土安全保障諮問委員会議長を歴任した。


 ミズーリ州セントルイスで生まれ、ウェブスター・グローブスで早期教育を受けた。
 Barron'sやPrinceton Reviewなどの主要な大学ランキングでも「最も入学が困難な大学(Most Competitive)」のひとつに選ばれている
   アマースト大学
を卒業後の1949年、セントルイスにある私立ワシントン大学ロースクールを修了し法学博士となった。

 弁護士から、1960年ミズーリ州東部地区連邦地裁判事となた。
 73年セント・ルイス高等裁判所判事を経て、1978年から1987年までFBI長官、1987年から1991年までCIA長官を歴任した。
  
 なお、CIA長官とFBI長官の両方を歴任した唯一のアメリカ人である。

  
     
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2016年10月29日

チャールズ・ジョゼフ・ボナパルト FBIの創設者


チャールズ・ジョゼフ・ボナパルト
      (Charles Joseph Bonaparte)

         1851年6月9日 - 1921年6月28日

 米国の政治家で第25代、同26代の
   セオドア・ルーズベルト大統領
の下で1905年から1906年まで第37代海軍長官を、1906年から1909年まで第46代司法長官を歴任した。
 
 メリーランド州ボルチモアで次男として生まれ、父親はナポレオン・ボナパルトの末弟
   ジェローム
とボルチモアの富豪の娘
   エリザベス・パターソン
の息子ジェローム・ナポレオン・ボナパルト。
 母親はボルチモアの富裕な商人の娘
   スーザン・メイ・ウィリアムズ
であった。

 地元ボルチモアのフランス人学校と家庭教師の下で学び、1872年にハーバード大学を卒業、74年にハーバード大学法学大学院を修了し、法律の学位を取得した。

 1875年9月1日にロードアイランド州ニューポートで弁護士トマス・ミル・デイの娘エレン・チャニング・デイと結婚した。

 大学院を卒業後、ボルチモアで弁護士業を開業。
 地方の革新運動や全国的な革新運動に参加し、著名な存在となっていった。

 1891年にハーバード大学の監督職員として採用され、1901年まで10年間その職に就いた。

 1894年にボルチモア改革連盟および全国自治体連盟の創設に関与し、それらの連盟の創設に際して、後の大統領
   セオドア・ルーズベルト
の知古を得た。

 ボナパルトは1902年から1904年まで
   インディアン委員会
の委員を務めた。
 また、1904年に全国公務員制度改革連盟の会長を務め、アメリカ・カトリック大学の理事にも任命された。
 ボナパルトは全国自治体連盟の創設者の1人として、1905年に同連盟の会長を務めた。

 1905年7月、ボナパルトは時の大統領セオドア・ルーズベルトから海軍長官として任命を受け1906年12月まで務めた。

 前任の海軍長官ポール・モートンが1905年2月、州際通商委員会から
   コロラド燃料鉄鋼社
の社長として不正行為を働いたとして訴追を受けた影響から職を辞任したことに伴う措置であった。

 海軍長官としてボナパルトは「より大きな海軍」を主張し、大統領の「巨大艦船の海軍」論を支持した。

 1906年12月からは司法長官を任された。
 これも前任の司法長官ウィリアム・ヘンリー・ムーディの辞任に伴う措置であった。

 ルーズベルト大統領の任期満了となる1909年3月まで司法長官を務めた。

 司法長官としては、ルーズベルト大統領の
   「反トラスト運動」
の一員に加わり、トラストに関する訴訟について積極的に対応、タバコ市場の独占解体を主導した。
 
 
 また、司法省の調査能力向上のため
   特別捜査官
の採用を決定した。

 1908年、ボナパルトは司法省内に数人規模の捜査局(現在 連邦捜査局 FBI)を設置した。
 なお、この捜査局の設置は、ボナパルトの最も重要な業績として挙げられている。

  
     
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2016年10月25日

セシル・ローズ  デ・ビアスの創業者

 
セシル・ジョン・ローズ

    Cecil John Rhodes
  (1853年7 月5日 - 1902年3 月26日)
 
 
 イギリスの政治家
 
 英国の地主階級にあった牧師の子として生まれた。
 幼少期は病弱であり、これを心配した父親が気候が英国よりもよい南アフリカで金鉱堀りをしていたローズの兄のもとに彼を送り出した。
 
 温暖な気候の南アフリカで健康になり体力もつけたローズは、兄とともにキンバリーで坑夫としてつるはしを振るった。


   
   (出典:https://www.youtube.com/watch?v=gc7kIvmWVGA
   
 
 ダイアモンドを掘り当てて作った資金を運用して、ダイアモンドの採掘権への投機を行ったり、採掘場への揚水ポンプの貸し出しで儲けた。
 
 こうした動きがロンドンのユダヤ人財閥ロスチャイルドの目に留まり、ロスチャイルドからの融資もとりつけて、1880年に
   デ・ビアス鉱業会社
を設立した。
  
 その後、会社は、資金の有効活用を目論むロスチャイルドの全面的な協力もあって、ほぼ全キンバリーのダイアモンド鉱山をその支配下に組み込んいった。
 最終的には、全世界のダイアモンド産額の9割を独占するに至った。
 

 ロンドンの金市場を支配していたロスチャイルドの影響を受け、ローズはデ・ビアス鉱業会社を通じてトランスヴァール共和国の産金業にも進出した。
 
 世界最大の産金王に君臨し、南アフリカの鉄道・電信・新聞業をもその支配下に組み込んでいった。
 

 ローズは獲得した経済力をバックに政界へ進出した。
 1880年、ケープ植民地議会の議員、84年にケープ植民地政府の財務相になり、90年には遂に首相にまで上り詰めた。
 

 政治家の時代にマタベリ人の首長に武器弾薬を提供した。
  
 それと引き換えに鉱山の利権を獲得したり、イギリス本国政府の要人を1889年に買収して、征服地に対する警察権・統治権をもつ民間会社
   イギリス南アフリカ会社
を設立する特許を獲得したりしている。
 
 こうした「民間会社」は国際問題が発生した場合に政府とは異なるとの主張をして国家間の問題まで発展させないようにするための欧米で用いられる一般的な手法でもある。
 

 ローズは1894年に、この会社を活用して、遠征軍を編成したうえでマタベリ人やマショナ人の居住区に侵攻させ抵抗する勢力を殲滅し、イギリス本国の4倍半にも相当する広大な土地を奪って南アフリカ会社の統治下に置いた。
 
 会社はこの地を、征服者ローズの名にちなんでローデシアと命名した。 
 
 
 
  
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2016年10月23日

ミゲル・アンヘル・トレビーニョ・モラレス 麻薬カルテル「ロス・セタス」の最高幹部 


ミゲル・アンヘル・トレビーニョ・モラレス
   (Miguel Ángel Treviño Morales 別名: Z-40)

         1970年11月18日 -


 メキシコの麻薬カルテル「ロス・セタス」の最高幹部

 2012年10月、メキシコ北部コアウイラ州でメキシコ軍との銃撃戦で死亡した
   エリベルト・ラスカーノ
の後継として、ロス・セタスの最高幹部に就任した。

 誘拐した不法移民250人以上を処刑するように命令した。また、麻薬密輸や資金洗浄などの罪に問われ、アメリカ国務省が500万ドル(約5億円)の懸賞金をかけて行方を追っていた。


   
   (出典:https://www.youtube.com/watch?v
 

 2013年7月15日早朝、ピックアップトラックでタマウリパス州ヌエボ・ラレドを移動中にメキシコ海軍によって逮捕された。
 組織の後継には、アメリカ国内で資金洗浄に従事し、同じく指名手配されている弟
   オマール・トレビーニョ・モラレス(別名: Z-42)
が就任した。

     

     
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2016年10月22日

ロス・セタス メキシコの犯罪組織


ロス・セタス

 メキシコの犯罪組織、麻薬カルテル
 米国連邦捜査局(FBIは「メキシコで最も危険な麻薬カルテルである」としている
 
 ガルフ・カルテルに所属していた元メキシコ陸軍特殊部隊隊長
   アルトゥーロ・グスマン・デセナ大尉
が、元同僚や部下の隊員30人を高額の報酬で雇用し同カルテルの傭兵部隊として結成した。

 2003年にシナロア・カルテルとの抗争に参加して千人以上の死者が出る壮絶な抗争を行い、シナロア側を交渉に追い込みガルフ・カルテルの存続を助けた。

 2010年2月にガルフ・カルテルから分離独立し、現在対立関係にある

 
 ロス・セタスの収入のおよそ半数が麻薬密売による収益となっている。

 初期の構成員らは元特殊部隊員で構成されていたが、初期の構成員が逮捕・殺害され戦闘能力が低下するとグアテマラの元特殊部隊員を雇用て補充した。

 メキシコの軍人や警官を高給優遇するなどとした広告で戦闘員を集めるなどして戦力を維持している。
 また、これらの戦闘員は能力を高めるためセタスが独自に設立した基地で特殊部隊式の訓練を受けている。

 防弾チョッキや重機関銃などの重装備、対空ミサイルや攻撃ヘリコプターを所有するなどした高度な戦闘能力が特徴となっている。

 警官や軍人、敵対組織の売人、麻薬組織を批判した弁護士、麻薬栽培を拒否した農民を拉致・拷問・殺害したうえで恐怖心を煽るため遺体を解体し、遺体に「Z」の文字を刻印し路上にばら撒いて放置するなどした残虐性を持っている。

 メキシコ最大の麻薬カルテルであるシナロア・カルテルより組織の存在感が強く意識される。

 セタスの登場以降、シナロア・カルテルやガルフ・カルテルなど他の麻薬カルテルも対抗措置として軍隊式の重装備や特殊部隊に属した隊員などの戦闘員の募集をする傾向がある。

     

     
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2016年10月21日

アルトゥーロ・グスマン・デセーナ 麻薬カルテル「ロス・セタス」創設の中心人物


アルトゥーロ・グスマン・デセーナ
 (Arturo Guzmán Decena、別名: Z-1)
  
      1976年1月13日 - 2002年11月21日


 メキシコ陸軍特殊部隊の元軍人で麻薬カルテル「ロス・セタス」創設の中心人物。
 特殊部隊の元同僚や部下の軍人を高給で雇い入れ組織化するなど、中心的な役割を果たした。
 
 プエブラ州の貧しい家庭に生まれ育った。
 貧困から脱出するため、若くしてメキシコ陸軍に入隊sいた。
 軍務において頭角を現し、1990年代半ばに選抜され殊部隊に入隊した。

 米軍とイスラエル軍の特殊部隊から高度な戦闘、暴動鎮圧、爆発物の取り扱いについての訓練を受けた。


   
  

 1994年にチアパス州を中心として活動するゲリラ組織
   サパティスタ民族解放軍
     (Ejército Zapatista de Liberación Nacional、EZLN)
の掃討任務に参加して実戦を経験した。

 この後に犯罪組織
   ガルフ・カルテル
のリクルートを受けて、秘密裏に同僚や部下を同カルテルに加入させ1997年には自身も陸軍を退役しカルテルの一員となった。

2 002年11月21日、マタモロスで発生したメキシコ軍との銃撃戦で死亡した。
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2016年10月19日

エリベルト・ラスカーノ・ラスカーノ 麻薬カルテル「ロス・セタス」の最高幹部


エリベルト・ラスカーノ・ラスカーノ
    (Heriberto Lazcano Lazcano 別名: Z-3)
    
         1974年12月25日 - 2012年10月7日


 メキシコの麻薬カルテル「ロス・セタス」の最高幹部
 創設の中心的な人物である
   アルトゥーロ・グスマン・デセナ
と同様メキシコ軍特殊部隊の出身。

 2012年10月7日に発生したメキシコ海軍との銃撃戦で死亡した。


   

 

 競馬と金髪女性を好んでいたというが、私生活については謎が多い人物。

 野心的で冷酷な性格であったといわれ敵対する相手を捕らえると、生きたまま頭部を切り落とした。
 あるいは、食べ物を与えず飢えさせ、野生動物のエサにするなどして楽しむなど凶暴性があったとされる。

メキシコ当局によると12年10月10日、同氏の遺体が葬儀場に押し入ってきた武装集団によって奪われたという。

 組織の後釜にはミゲル・アンヘル・トレビーニョ・モラレス(Miguel Ángel Treviño Morales、別名: Z-40、1970年11月18日 - )が就任した。

     

     
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2016年10月07日

張 良(ちょう りょう) 漢王朝の創成時に活躍した軍師


張 良
 (? - 紀元前186年)

 秦末期から前漢初期の政治家であり、漢王朝の創成時に活躍した軍師

 漢王朝の初代皇帝となった
   劉邦(高祖 前202年2月28日 - 前195年6月1日)
に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた功臣のひとり。

 蕭何・韓信と共に漢の三傑とされている。


 秦を倒し漢朝が成立した後は、劉邦より
   留(江蘇省徐州市沛県の東南)
に領地を授かったので留侯とも呼ばれた。
 子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。

 
 祖父の
   張開地
は韓の昭侯・宣恵王・ 襄王の宰相、父の張平は釐王・桓恵王の宰相を務めていた。

 戦国時代の韓は七雄の中では最弱であり、常に西の秦からの侵攻に怯え備える必要があった。

 父の張平が死んでから20年が経った紀元前230年、秦が韓の首都新鄭を攻略し陥落、滅亡した。
 秦は韓の領地を潁川郡と呼び改め統治下に置いた。


 張良は祖国を秦に滅ぼされたことで秦に対し復讐を誓い、全財産を売り払ってその資金とした。
 志を貫徹するため、弟が死んでも、復讐の費用の支出を惜しんで葬式を出さなかったという。
  
 張良はこの企ての同志を求めて東へ旅をし酋長の
   倉海君
という人物に出会った。

 屈強な力士を借り受け紀元前218年頃に博狼沙(現在の河南省陽武の南)を通った
   始皇帝
を襲撃し暗殺する計画であった。

 襲撃方法としては重さ120斤(約30kg)の鉄槌を投げつけ、始皇帝が乗った車を潰すというものであった。
 しかし、鉄槌は護衛の副車に当たってしまって暗殺は失敗に終わり、張良たちはその場を一目散に逃亡した。

 
 始皇帝は自らを暗殺しようとした者を捕らえ厳罰にするため、全国に触れを回した。

 そこで張良は偽名を使って下邳(現在の江蘇省徐州の東の邳州市)に隠れたという。
 
 この下邳での逃亡生活の時に、項羽の叔父である
   項伯
が人を殺して逃げ込んできたので、これを匿まった逸話もある。
 
 
 秦朝末期に起きた動乱のきっかけとなった
   「陳勝・呉広の乱」
が起こると、張良も兵を集めて参加しようとした。
 しかし、資金も人望もなかったため100人ほどしか集まらなかった。

 陳勝の死後に楚王に擁立された楚の旧王族の
   景駒
が留にいたので、この反乱軍に参加しようと向かう途中に、劉邦と出会い合流した。

 
 張良は自らの将としての不足を自覚しており、それまでも何度か大将たちに出会っては自らの兵法を説いた。
 ただ、自分を用いるように希望していたものの誰も聞く耳を持つ者はいなかった。 


 劉邦は張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使ってみた。
 これに張良は「沛公(劉邦)はまことに天授の英傑だ」と思わず感動したという。

 劉邦はその後、景駒を敗走させた項梁の下に入って一方の軍を任されるようになった。

 項梁は新しい旗頭として懐王(後の義帝)を立てた。

 そこで張良は韓の公子であった横陽君の成を韓王に立てるように項梁に進言した。

 項梁もこれを認めて成を韓王とし、張良をその申徒に任命した。

 その後、韓王成に従い、千人ほどの手勢を引き連れて旧韓の城を攻めて占領した。
 ただ、兵の数の圧倒的な差により城を防衛することは不可能であったため、押し寄せた兵力に勝る秦によって奪い返された。


 城を明け渡したのちに張良は正面から当たる不利を悟り、ゲリラ戦法を用いる戦闘を用いた。

 そこに劉邦が兵を引き連れて合流し、戦略的な正攻法で旧韓の城を十数城攻め取り、韓を再興した。

 
 張良は主君の韓王成を城の一つに留めると、自らは劉邦に従って秦へ攻め上って秦の東南の関である武関に至った。


 劉邦はすぐに攻めかかろうとしたものの、張良は力攻めでは兵力を消耗し時間を使うため、秦の応援兵力が来襲することを心配した。
 武関の守将は商人出身であることに目をつけ、張良は買収して少数の者を入れさせるため関を開かせたうえ、相手が油断したところを狙い守将を襲撃して暗殺し、最小の被害で関中に入った。
 

 関中に入った劉邦は、秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都咸陽に入城した。


 帝都が栄耀栄華で満ちた都の甘美な環境を垂涎の思いで楽しみたいと無頼漢出身の劉邦は思った。
 これまでの苦労を一緒に歩んできた兵士も同じ気分であったという。

 そのため、将軍の樊噲(はんかい)から、一時的な占領地で遊行娯楽に現を抜かすのではなく、ここを出て郊外に宿営しようと諫められても聞こうとしなかった。

 そこで張良は秦が無道を行なったので、沛公は咸陽に入城できました。
 なのにここで楽しもうとするのは秦と同じでしょうと劉邦を諫めた。

 ただ、戦勝に酔っていた劉邦はためなかなか動かない。
 そのため、劉邦に対し、忠言は耳に逆らえども行いに利あり、毒薬は口に苦けれども病に利あり、と申しますと再び諌言した。

 劉邦はその諌言を今度は素直に受け容れて、咸陽を出た。
 

 その頃、東で秦の大軍を打ち破った項羽は、東の関である函谷関に迫っていた。

 既に劉邦が関中に入り、自分を差し置いて
   関中の王
のように咸陽で振舞っているのを見て激怒した。

 函谷関を打ち破って関中へ入り、劉邦を攻め殺そうとした。

 その日の夜、旧友の項伯が項羽の陣営から張良の下にやって来て「私と一緒に逃げよう」と誘った。


 張良は私は韓王のために沛公をここまで送って来たのですと述べた。
 そのため、今、こういう状況だからといって逃げるのは不義となると言って丁重に断り、項伯を劉邦に会わせた。


 劉邦は項伯と姻戚関係を結ぶ約束をして項羽に対して釈明をしてもらえるよう頼み込んだ。

 項伯の釈明により
   項羽の怒り
はやや収まり、項羽と劉邦は会談を行うことになった。
 これが「鴻門の会」とよばれるものである。

 なお、鴻門の会で劉邦は命を狙われたが、張良や樊噲の「機敏な働き」によって危機を逃れている。
 

 項羽は根拠地としていた彭城(現在 徐州市)に帰り、反秦戦争の参加者に対する論功行賞を行った。

 これにより劉邦は巴蜀・漢中の王となった。


 劉邦が巴蜀へ行くに当たり、張良は桟道を焼くように進言した。
 案の定、項羽は追撃の軍を差し向けたが、桟橋が焼却して無くなっており、再度設けるための資材の確保も必要であったため、追撃を諦めた。

 この桟道とは、蜀に至る険しい山道を少しでも通り易くするために、木の板を道の横に並べたもので追撃を防ぐ手立てになっていたもの。


 とりあえずの危機は去ったものの、劉邦はまだ項羽に警戒されており、何かの口実で討伐されかねなかった。

 道を焼いて通行困難にすることで、軍を起こして打って出る道を不可能とする意思を示し、謀反の意思がないことを示した。
 これは、同時に謀反の疑いで攻め込まれたり、斥候などの間者が入り込めないようにした措置でもあった。

 
 劉邦が巴蜀へ去った後、張良は韓王成の下へ戻った。
 ただ、項羽は韓王成が劉邦に味方したことを不快に思い、成を手許にとどめて韓に戻らせようとしなかった。 


 張良は項羽に漢王は桟道を焼いており、大王に逆らう意図はありませんと申し開きをした。

 それより斉では田栄らが背いていますとの手紙を出した。
 なお、項羽はこれで劉邦に対する疑いを解いて、直ちに田栄らの討伐に向かった。
 
 
 ただ、項羽はその後も、韓王成を韓へは返そうとせず軟禁状態にしていた。

 劉邦を脅威に思っており、范増は幾度も項羽らに劉邦暗殺を行うように進言した。
 范増は軍事的な脅威として、もし劉邦が東進してくれば恩義のある韓がまず協力するだろうと見たための措置として韓王信を暗殺した。

 韓王信に仕えていた張良は自らに害が及ぶのを避けるため、その場から逃亡して劉邦に仕えるようになった。

 なお、劉邦は韓王の一族の信を探し出して、これを成信侯に封じた。

 張良は韓王の臣下であり、それまでは劉邦にとって客将といった地位であったが、以後は正式に劉邦に仕えることになった。

 
 劉邦はその後関中を占領し、東へ出て項羽の本拠地である彭城を占領すした。
 項羽の軍の反撃により城は破られてしまい命からがら逃亡した。
 しかし、追撃はすさまじく逃げ切れずに滎陽(河南省滎陽)で項羽軍に包囲されてしまった。

 包囲戦の途中、儒者
   酈食其
が項羽はかつての戦国七雄のうち六国の子孫たちを皆殺しにした。
 そのうえ領地を奪っていると述べ大王がその子孫を諸侯に封じれば、みな喜んで大王の臣下になるでしょうと説いた。

 このため、劉邦もこれを受け容れた。


 その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、酈食其の策を話した。

 張良はこんな策を実行すれば陛下の大事は去りますと反対した。

 劉邦が理由を尋ねたところ、張良は劉邦の箸をとって説明を始めた。


 張良は昔、湯王や武王が桀や紂の子孫を諸侯に封じたのは、彼らを制する力があったからだと説明した。
 今、大王に項羽を制する力がありますか?これが一つ目の理由ですと答えた。
 
 武王は殷に入ると賢人商容の徳を褒め、捕えられていた箕子を釈放し、比干の墓を修築した。
 大王にこのようなことができますか?これが二つ目の理由です。
 
 武王は財を放って困窮の者を援けました。
 大王にはできますか?これが三つ目の理由です。
 
 武王は殷を平定すると武器を捨てて戦をしないことを天下に示しました。
 今、大王にこれができますか?これが四つ目の理由です。
 
 武王は戦に使う馬を華山の麓に放ち、戦が終わったことを天下に示しました。
 今、大王にこれができますか?これが五つ目の理由です。
 
 武王は兵糧を運ぶ牛を桃林に放ち、輸送が必要ないことを天下に示しました。
 今、大王にそれができますか?これが六つ目の理由です。
 
 かつての六国の遺臣たちが大王に付き従っているのは、何か功績を挙げていつの日か恩賞の土地を貰わんがためです。

 もし大王が六国を復活させればみんな故郷へと帰ってそれぞれの主君に仕えるようになるでしょう。

 大王は誰と天下をお取りになるおつもりですか?これが七つ目の理由です。
 
 もし、その六国が楚に脅かされ、楚に従うようになってしまったら、大王はどうやって六国の上に立つおつもりですか?
 これが八つ目の理由です。

と答えた。


 劉邦は食べていた食事を吐き出したうえ、「竪儒」に大事を潰されるところだった!と慌てて儒者の策を取り止めた。

 紀元前203年、劉邦と項羽は滎陽の北の広武山で対陣した。
 兵站線が途切れたため、両軍とも食料が切れたので、和睦して互いにその根拠地へと戻る合意がなされた。

 ここで張良は陳平と共に
   退却する項羽軍
の後方を襲うよう劉邦に進言した。

 張良は韓信と彭越の活躍により項羽の軍は戦力を低下させ疲弊しているが、このまま根拠地に戻って休養して回復すればその強さも戻ってしまうと諌めた。

 油断している今を置いて勝機はないと進言したことを劉邦は受け入れた。
 劉邦は韓信と彭越の2人の武将も一緒に項羽を攻めるように命令した。


 しかし、韓信と彭越は軍律を重んじ、こうした策は武将の信義に反するとして、追撃する陳平の軍への合流地には現れず、単独で追撃した劉邦は項羽軍に敗れた。


 張良は劉邦に韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないからですと答えた。

 劉邦は「彼らには十分禄は出している。韓信は斉王にしてやった」と反論したところ、張良は韓信には肩書きだけで斉の地を与えたわけではありませんと述べ、彭越も補給路を断つなどの活躍しましたが、肩書きの一つでも与えていません。

 それに、彼らも漢楚が争っているからこそ価値があるとわかっているため、争いが終わってしまえば自分たちは不用となると不安なのですと切り返した。

 なおも納得ができない劉邦は「では、恩賞が少ないからと言って我々を見捨て、漢が滅びればどうなる。彼らも滅びてしまうではないか。それに天下が定まらない状況で恩賞など出せるか」と問うた。

 張良は「彼らは漢が滅びるとは思っていません。功績と恩賞が見合っていないと思っているだけです。先の戦で大王は天下の半分をお取りになりました。それは一体誰のお陰ですか?大王の『恩賞は天下が定まってから』というお考えはよく理解できますが、天下の人々には『劉邦は天下の半分を取りながら恩賞を出し惜しんでいる』としか見えません。

 私は大王が物を惜しんでいないのはよく存じております。しかし、天下の人々にもそう見えなければ意味がありません。

 だから彼らも、恥じることも悪びれることもなく動かなかったのですと答えた。これに劉邦も納得し、両者に対して戦後も韓信を斉王に、彭越を梁王に封じる約束をし、喜んだ両者の軍を合わせて項羽軍を垓下に包囲し、項羽を討ち取った(垓下の戦い)。
 

 激戦の末に遂に、項羽を滅ぼした劉邦は皇帝に即位したうえ、臣下に対して恩賞を分配し始めた。


 張良は野戦の功績は一度もなかったが
   「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」
と高祖に言わしめ、3万戸を領地として斉の国内の好きな所に選べといわれた。

 しかし張良は辞退して「私はかつて陛下と初めてお会いした留をいただければ、それで充分です」と答え、留に封ぜられ、留侯となった。

 
 高祖は功績が多大な家臣を先に褒賞したが、後の者はそれから決めようとしていた。

 ただ、恩賞が遅れるためかあちらこちらで家臣らが密談をしているところを目撃した。

 高祖が張良に彼らは何を話しているのかと聞いたところ、張良は「彼らは謀反を起こす相談をしているのです」と答えた。
 驚いた高祖が理由を問うと、今までに褒賞された人は、蕭何や曹参など陛下の親しい人ばかりです。
 天下の土地全てでも彼ら全てに与えるだけはなく、彼らも忠義などではなく恩賞を求めて仕えてきたのです。

 彼らは陛下に誅殺されるのではないかと恐れ、ならば謀反を起こそうかと密談しているのですと答えた。

 高祖が対策を問うと、張良は功績はあるが陛下が一番憎んでおり、それを皆が知っているのは誰ですかと聞いた。



 高祖は雍歯だ。昔に裏切られ大いに苦しませられ、殺したいほど憎い。だが功績があるから我慢していると答えた。

 張良はならば雍歯に先に恩賞を与えれば、皆は安心しましょうと進言した。

 高祖がその通りに雍歯の恩賞を発表すると、皆は「あの憎まれている雍歯ですら賞されたのだから、自分にも恩賞が下るに違いない」と安堵し、あちこちの密談はぴたりと止んだ。

 洛陽を都にしようとしていた高祖に対し、劉敬(婁敬)が長安を都とするよう進言した。

 張良は周囲が開けているため、攻められやすく守り難い洛陽の短所と長天険に囲まれ防衛が容易という利点を述べて劉敬に賛成し、長安に決定させた。
 

 張良は元々病弱であったが、体制が確立されて以後は病気と称して家に籠るようになった。

 その中で導引術の研究に取り組み、穀物を絶って体を軽くし、神仙になろうとした。

 このことは本気で長生術を信じていたというよりも、統一後の高祖・呂雉による粛清を避ける意味もあったと思われる。

 高祖の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏がその子・劉如意を皇太子にしようと画策し始めた。


 劉邦もその気になったため、既に皇太子に立てられていた劉盈(後 恵帝)とその母・呂雉は危機感を抱いて張良に助言を求めてきた。

 張良は高祖がたびたび招聘に失敗した高名な学者たち
   東園公
   甪里先生
   綺里季
   夏黄公
を劉盈の師として招くように助言し、これらの学者たちは劉盈の師となった。
 
 高祖はたびたび招聘しても応じなかった彼らが劉盈の後ろに居ることに驚き、何故か聞いた。

 彼らは陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでした。

 ですが、皇太子殿下は徳も礼も備えており、人民も慕っているとのこと。なので参内したのですと言った。

 高祖は劉盈を改めて認め、皇太子の更迭は取り止められた。

 張良は、高祖の死の9年後の紀元前186年に死去し、子の不疑が留侯の地位を継いだ。
 紀元前175年に不敬罪で侯を免じられ、領地を没収された。
   

     
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posted by まねきねこ at 17:11| 愛知 | Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 

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