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2019年03月25日

ポール・ケリー(Paul Kelly) 死ぬまで労働組合に関わった組織犯罪のボス。


ポール・ケリー(Paul Kelly)

    1876年 - 1936年


 米国のイタリア系犯罪組織
 本名はパオロ・アントニオ・ヴァッカレリ(Paolo Antonio Vaccarelli)
 
 ニューヨーク生でまれ。親はイタリア南部バジリカータ州ポテンツァの移民だった。
 職を転々とし、波止場の荷役人夫として働いた。

 1896年バンタム級プロボクサーになり、数々の懸賞試合に出場した。
 ただ、成績は浮き沈みがあったが、技術的で娯楽性に富むボクサーとして有名だった。

 1901年7月、ボクサーとしては最後の試合でキッド・グリッフォと試合を行った。

 ボクサーを辞め、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドでストリートギャングとして生活費を稼いだ。

 1901年、マルベリー・ストリートに
   ポール・ケリー協会(Paul Kelly Association)
を設立して、賭博と売春を手がけた。

 また、政治組織タマニーホールの汚職政治家
   ティモシー・サリヴァン
の汚れ役仕事を請け負い、不正投票や政敵の妨害工作を行った。

 武闘グループを組織し、ポン引き、ボクサー崩れを雇っては暴力的にトラブルを解消した。

 商店やレストランに用心棒代を要求し、従わないと見せしめに店を破壊した。

 非合法のスポーツイベントを開催し、プロレスやボクシングの試合を組んで客を集めた。
 当時、ボクシングはアイルランド系移民の催し物だったが世紀の変わり目からイタリア系やユダヤ系が興行を始めていた。

 1903年5月14日、自らレスラーとしてエキシビションマッチに出場した。


 ゲットー・チャンピオンの異名を持つ
   ジョー・バーンスタイン
と戦ったが、15分でルール無用の喧嘩に変わった。
 なお、試合はバーンスタインの反則負けだった。


 警察の度重なるガサ入れで何度もアジトを変えて生き延びた。
 1903年9月、バワリーのニューブリトンに拠点を据え、イースト・ハーレムやニュージャージーにも支部を設けて、勢力を拡大した。

 1903年9月19日、イーストマンズとリヴィングトンで壮絶な銃撃戦を行い、100発以上の発砲があったという。


 ニューブリトン・アスレティッククラブ(New Brighton Athletic Club)ではボクシングマッチが行われ、連日盛況だった。
 隣に開店したリトル・ナポリ・カフェ(Little Naples Café)は、ギャングの巣窟になった。

 チック・トリッカー、ルーイ・ザ・ランプ、キッド・グリッフォ、ラフ・ハウス・ホーガン、ビフ・エリソンといった名だたるギャングが出入りし、喧嘩が絶えず、時として銃撃戦も起きた。

 用心棒にはジャック・マクマナスを雇った。


 1905年4月、アスレティッククラブに警察の抜き打ちのガサ入れがあった。
 他のメンバーと共に逮捕されたが、タマニー・ホールの息のかかった判事がケリーに無罪を言い渡した。
 傍聴席にいた数百人のギャングメンバーの間から拍手が巻き起こった。

 1905年夏、外套メーカーの組合のスト破りに抜擢され、同時に組合に労働者の統率役で雇われた。
 レイバースラッギング分野でこれが初めてのケリーの記録となった。
 
 ファイブ・ポインツ・ギャングの
   ジャック・シロッコ
とは提携していたが、仲間割れして抗争に発展した。

 1905年5月26日、ジャック・マクマナスがファイブポインツに銃撃され、殺された。
 1905年11月23日、ニューブリトンで銃撃を受け、負傷している。
 なお、一緒にいた用心棒のビル・ハリントンは死亡した。

 元ファイブポインターでアイルランド系ギャング「ゴファーズ」の頭領となった
   ビフ・エリソン
の仕業とされた。

 銃撃事件後、ロウアー・イースト・サイドで起きるギャング抗争に嫌気がさし、賭博や売春の縄張りをジャック・シロッコや"ジミー・ケリー"・ディサルヴィオらファイブポインターに明け渡してロウアー・イースト・サイドを引き払った。


 ハーレムを拠点にして、弟の不動産会社の経営者に名を連ねた。
 正業のビジネスマンを装い裏で労働組合の強請業に進出した。

 1907年6月、船舶会社White Star shipping lineのストライキ組合員との衝突に対応し、スト破り要員50名を雇った。

 1910年9月14日、名前をヴァッカレリに戻した。
 組合の武闘グループを組織しながら、数々のフロント会社を設立し、合法的な社交クラブも立ち上げた。

 犯罪組織の拡大を止める警察からは執拗にマークされ、尾行やいやがらせを受けた。
 ケリーは、1912年5月、記者会見を開いて「自分はギャング稼業から足を洗い、今は正業のビジネスマンだ」と説明したうえ、金をもらったマスコミを動員して警察を非難して見せた。

 1915年までに東海岸港湾組合 (I.L.A) の副支部長に就任した。
 波止場の荷役人夫を統率して
   ストライキ
を武器に輸送会社から金を搾り取った。

 労働者の給料単価を釣り上げ、会社側が要求に応じないとストを実施した。
 波止場を使えず鉄道輸送に切り替えるとコストは数倍に膨れ上がった。

 波止場の労働者からも
   協賛金
の名目で金を吸い上げ、ストに参加しない労働者には配下のギャング団が脅迫・嫌がらせを行い痛い目に遭わせた。

 1920年代は同組合のスト調停の委員長を務めた。
 労働争議の武闘ギャングを率いて多くの組合のアドバイザーやコンサルタントにもなった。


 1931年夏、Loyal Labor Legion委員長に就任すると、組合員・非組合員の別なく待遇は平等にすべきだと主張した。
 時代を先駆けするキャンペーンを開始するなど1936年に死ぬまで労働組合に関わった。

 1963年、マフィアの内幕を暴露したジョゼフ・ヴァラキは、ポール・ケリーは死ぬぎりぎりまでマフィアとビジネスをしていたと暴露した。
       
   
   
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2019年03月24日

ベンジャミン・ファイン (Benjamin Fein) 禁酒法以前のニューヨークで最も悪名高かいユダヤ系ギャングスター


ベンジャミン・ファイン (Benjamin Fein)

 1887年頃 - 1962年/1977年?

 米国のユダヤ系ギャングスターで禁酒法以前のニューヨークで最も悪名高かった。
 目の病気の影響から目が半分閉じたようになっていたため
   「ドーピー・ベニー("Dopey Benny"、眠そうなベニー)」
と呼ばれ、体は大きく、性格は凶暴、何事にも無神経といった典型的なギャングスター。


 犯罪歴はスリから始まっており、スリ志願者には金を取って手口を教えることを生業として金を稼いだ。
 その後は、殺し屋となり10代の頃に逮捕されニューヨーク北部にあるエルマイラ少年院に入れられた
 少年院からの出所後は、経済不況にあえぎ労使対立が激化していた労働界に目をつけた。

 1900年代から10年代にかけてニューヨークの
   ローワー・イースト・サイド
で労働運動に介入して足場を築いた。

 労働問題を種にして、労働組合から金をもらって会社側が雇ったギャングを躊躇もなく始末したり、労働運動の邪魔になる者を暴力的に排除していくのが主な仕事となった。

 単純に暴力を働いたのではなくそれをビジネスとして、組合にも自分にも利益をもたらした。
 ローワー・イースト・サイドで起こっていた労働紛争の中心人物に成長していった。

 この頃、暴力ビジネスの単価表を作成し「相手の腕を折る=200ドル」など仕事の料金表があったという。

 1912年のベニーの年収は1万5千ドル - 2千ドルの間になっていたという。

 不況下でもあり仕事をもらいにニューヨーク中の凶暴なギャングが集まっていた。
 元ファイブ・ポインツ・ギャングの
とは組合利権を争奪で銃撃戦が起きている。


 1914年1月10日にはイースト・ヴィレッジのアーリントン・ホールでシロッコ率のギャング組織に奇襲をかけ銃撃戦を展開した。敵味方とも死者はいなかった。
 ただ、流れ弾にあたった通行人が死亡した。

 フェインはワキシー・ゴードンら仲間3人と共に殺人容疑で逮捕された。
 取り調べでは警察の捜査に協力することで5年刑を宣告されたものの、司法取引で投獄を免れている。

 仲間を売ったことが影響し、犯罪組織としての人望は無くなり勢いを失った。
 当然、戦闘員も少なくなり組合の支配力も目に見えて落ちていったという。


 その後は、たびたび傷害事件で逮捕され、1941年には検察官
   トマス・E・デューイ
の意向により盗品の衣服の売買のかどで逮捕され、終身刑の判決を受けている。
 その後に10年~20年に減刑されたが、ニューヨークの刑務所The Tombsに収監後は消息不明となった。

 ベニーのギャング団の中にはユダヤ系のワキシー・ゴードン、ルイス・バカルター、ジェイコブ・"グラ"・シャピロやジェイコブ・"リトル・オーギー"・オーゲンが所属していた。 
      
   
   
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2019年03月22日

ワキシー・ゴードン(Waxey Gordon) 労働組合を利用し莫大な利益を上げた組織犯罪者のひとり


ワキシー・ゴードン(Waxey Gordon)
    1888年1月19日 - 1952年6月24日

 ポーランド系ユダヤ人の組織犯罪のボス 
 本名アービング・ウェクスラー

 若い頃の巧みなスリの手口から「Waxey」のあだ名がある。


 ニューヨークのロウアー・イースト・サイドのスラム街の貧困家庭に生まれた。
 幼い頃は「スリの常習犯」であったためニューヨーク近郊を転々とした。

 1910年代、労働組合ゴロ
   ベンジャミン・ファイン
の組織に入り、ストライキを扇動して暴力沙汰を何度も起こした。

 1914年1月、労働争議の支配を巡って
とファインのギャング間で銃撃戦が起こり、ゴードンはファインら3人と共に殺人容疑で逮捕された。

 同じ頃ニューヨークとフィラデルフィアの犯罪組織の仲介でコカイン取引を手掛けた。
 1914年、恐喝暴行の罪でシンシン刑務所に送られ、1916年出所した。

 
 1920年頃、組合ゴロの
の指揮を受けガーメント地区の組合を拠点に活動していた時
の資金援助を得て酒の密輸に乗り出した。

 密輸ではマックス・グリーンバーグと組んで、フィラデルフィアを拠点に
   カナダ産ウイスキー
の密輸シンジケートを立ち上げている。

 手法としてはニュージャージーやニューヨークの沖合から自前のボートに酒を積み替えて岸に運んだ。
 倉庫に貯蔵した後に消費先であるマンハッタンのレストラン、クラブ、スピークイージーにトラックで輸送した。

 若い頃の知人等を雇い入れて組織を拡大していった。

 その後、ロススタインの子分になったラッキー・ルチアーノ、マイヤー・ランスキーらとスコッチの密輸ルートも仕切った。
 後にロススタインのニューヨークとニュージャージーの酒の輸入利権を引き継ぎ東海岸の密輸グループ"ビッグ・セヴン"の一角を占めるようになった。

 1920年代半ばまでに密輸による利益の増加で年収は100-200万ドル規模に膨れ上がった。

 マンハッタンの42番街の高級スイートに事務所を構え、ナイトクラブ、スピークイージー、地下賭博場を運営した。
 自宅は2つ、セントラルパークウェストの高級マンションとニュージャージー南部の濠で囲まれた城を保有するまでになった。
 リムジンを乗り回して豪奢な生活を送ったという。
 また、金のためには形振り構わず、闇賭博の他、麻薬密売にも手を染めるようになった。

 1925年、実入りの少なかったゴードン配下の
   密輸船船長
が当局に密告したため逮捕されたものの、その船長は当局の厳重な護衛付のホテルルームで「謎の死」を遂げている。
 このため、証人が居なくなったため不起訴処分となった。


 以後船を使った密輸ビジネスから手を引いた。

 ジミー・ハッセル、マックス・グリーンバーグなどとニュージャージー北部のハドソン郡に密造酒の製造工場を幾つも建設した。
 自前の酒を造り始め、合法と非合法の醸造酒を造り分けて販売し、輸送の安全を確保するため、のちに
   「ニュージャージーのアル・カポネ」
の異名をもつことになる
   アブナー・ツヴィルマン
を雇い、ジャージーシティ市長フランク・ヘイグに賄賂を贈って政治的な保護を得た。

 1928年ロススタインが死ぬとバックがなくなり勢いは衰えた。

 ルチアーノらが主宰した1929年5月、全米ギャングの大集会アトランティック会議に参加した。

 1930年代、禁酒法の終焉を見越して、将来の合法ビール事業のイニシアティブを握ろうとユダヤ系ギャングの
の勢力と抗争した。
  
 ルチアーノ、ランスキールイス・バカルターらと酒の密売で同盟し勢力を広げていたものの、1930年頃から酒の輸送利権を巡るトラブルから
   ランスキー
とは対立関係となった。
 このため、全米シンジケートへの組織統合の企てに一切協力しなくなった。
  
 両者の溝は修復不可能と判断され、1933年、ランスキーとルチアーノが共謀し
   ゴードンの脱税
を検察に密告した。
 この情報に基づき脱税の罪でトーマス・デューイ検事に起訴された。

 デューイはゴードンが年間200万ドルを稼ぎながらその実たったの8125ドルしか納税していないことを明らかにした。

 密輸パートナーだったマックス・グリーンバーグがマーダー・インクのヒットマンに暗殺された。
 その後、北ニューヨークのキャッツキルの狩猟ロッジに潜伏していたものの、捜査官に連れ戻された。

 家族を犯罪と無縁な環境に置き、理想的な
   ミドルクラス
の家族像を演じていた。
 裁判では長年の犯罪キャリアが露見し、傍聴席にいた妻は人目も気にせず泣き喚いたという。

 更に裁判中に、大学在学中だった最愛の息子を交通事故で亡くした。
 その後、獄中からランスキーやベンジャミン・シーゲルの暗殺を手配したものの、失敗に終わった。

  
 フィラデルフィアの利権は
らが引き継いでいだ。
 
 1940年に7年の服役を経て出所した時には、家族も昔の仲間も失い、政治家とのコネも無くしていた。

 第二次世界大戦中、闇市の砂糖取引に関わり、再び捕まり1年服役した。
 戦後は麻薬取引に関わり、2回取引を成功させた。

 その後、1951年8月2日、連邦麻薬捜査局FBNの
   おとり捜査官
にヘロインを売りつけ逮捕された。

 ゴードンは昔の犯罪人脈を頼りに麻薬コネクションを構築していたと伝えられた。

 同年12月13日、懲役25年の判決を受け収監された。

 1952年4月10日、国際的麻薬密輸組織に関与した容疑で再起訴された後、6月24日、アルカトラズ刑務所で心臓発作で死去した。
 ただ、連邦検事によればゴードンは減刑のため他の麻薬犯の犯行について証言する予定だったという。
       
   
   
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2019年03月20日

マックス・ツヴェルバッハ(Max Zwerbach) 「キッド・ツイスト」と呼ばれた男


マックス・ツヴェルバッハ(Max Zwerbach)
   1884年3月14日 - 1908年5月14日

 ニューヨークを拠点に活動したユダヤ系ギャング
 1890年代半ばにモンク・イーストマンが結成した
   イーストマンズ
の二代目ボスで通称は
   キッド・ツイスト
と呼ばれた。
 
 幼少時代はブルックリン区で過ごし、ロウアー・イースト・サイドで暗黒街の世界に入った。
 持ち前の機敏さと残虐さでモンク・イーストマンの右腕とのしあがった。

 1903年にはイタリア系「ファイブ・ポインツ・ギャング」と抗争を繰り広げた
   通称「リヴィングトン街の銃撃戦」
で写真にとられたのが最初にメンバーとして確認されたもの。

 モンクが警察に検挙されたときには即時釈放を求めて大掛かりな示威行為を行っている。

 1903年8月17日、トランプ後の口論から、ライバルギャングの
   ジョン・ベイヤード
を殺害した。

 モンクが投獄されると組織の指揮権を巡ってライバルの
   リッチー・フィッツパトリック
と内部抗争を行った。

 1904年11月1日、和解と称してフィッツパトリックをシェリフストリートの酒場に誘い出し手下のハリス・スタールに指示して暗殺した。

 身辺警護に元レスラーの
   バッチ・ルイス("サイクロン・ルーイ")
を従え、ハリス・スタールを副ボスに据え、ユダヤ系の犯罪組織ファイブ・ポインツと抗争した[1]。

 1907年5月、ファイブ・ポインターの
   チャールズ・グリーンウィッチ(通称"ボトラー")
がやっていたサフォークストリートの賭場を乗っ取るため
   ハリス・スタール
に攻撃を仕掛けさせた。

 1907年5月31日、スタールとボトラーが銃撃戦を展開したが2人とも警察に拘留された。

 翌6月1日の晩、両者のアジトの間で再び銃撃戦となり、キッド・ツイストとスタールがアリバイ作りに現場を離れている隙に
   サイクロン・ルーイ
に指示してボトラーを暗殺した。


 妻子持ちだったがコニー・アイランドのダンスホールのカナダ人歌手
   キャロル・テリー
と恋仲になった。
 テリーは元々マンハッタンで働いていた時に付き合っていたファイブ・ポインツ・ギャングの
   ルイス・ピオッジ("ルーイ・ザ・ランプ")
と縁を切ってコニー・アイランドに職場を移していた。
 未練があったピオッジは彼女を追ってコニー・アイランドにやって来て復縁を迫った。
 ただ、テリーからキッド・ツイストと付き合っていると言われ断られた。


 キッド・ツイストとサイクロン・ルーイは1908年5月14日、サーフアヴェニューの酒場で1人で飲んでいるピオッジを偶然見つけ、テリーとの破局をネタにからかった。 

 怒ったピオッジは喧嘩しようとしたが、2人がすぐにピストルを抜いたため、ピオッジは2階の窓から飛び降り、足を挫いた。

 2人は、足を引きずりながら逃げていくピオッジを窓から見て、大笑いした。
 同日の晩8時半頃、まだ酒場にいた2人に、見知らぬ子供が恋人テリーのメッセージが書かれた伝言メモを渡した。

 そのメモを片手に店の外に出たところをピオッジにいきなり射殺された。
 キッド・ツイストは頭に1発、サイクロンは5発の銃弾を浴びていた。

 その後、その場に現れたテリーにも発砲し、怪我を負わせた。

 キッド・ツイストに侮辱されたピオッジは、ファイブ・ポインツのボス
   ポール・ケリー
に殺害許可をもらい、多数の戦闘員をコニー・アイランドに派遣して、逃げれない様に周囲に張り込んでいた。

 なお、2日後に行われた2人の合同葬儀には、500人のギャングが参列した。

 当時のメディアには「これだけ大勢のギャングが葬式に集まるのは異例」と報じられた。
 後年、ユダヤ系の殺し屋エイブ・レルズがこの伝説多きボスから"キッド・ツイスト"というあだ名をもらった。
       
   
   
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2019年03月13日

ジャック・シロッコ(Jack Sirocco) 「ファイブ・ポインツ・ギャング」の副ボス


ジャック・シロッコ(Jack Sirocco)

 1882年 - 1954年

 イタリア系組織犯罪グループ「ファイブ・ポインツ・ギャング」の副ボス
 
 ニューヨークで生まれ、両親はイタリア移民だった。

 民主党系の政治団体タマニー・ホールの有力者トム・フォーリー配下の
   マイク・ソールター
に雇われギャングとして頭角を現した。

 1890年代、ボクシングを通じて知り合った
   ジオヴァンニ・"ジミー・ケリー"・ディサルヴィオ
とホワイト・ストリートにファイブ・ポインツ・ソーシャルクラブを立ち上げた。

 タマニー・ホールの武力闘争を請け負い、ストリートギャングから戦闘員を雇い入れ組織を強化した。
 選挙戦では政敵を封じ込め、組織票を集めた。

 マンハッタンのフォーリー・スクエアにあったダンスホール「パールハウス(Pearl House dance hall) 」を拠点とした[3]。クラブではボクシング興行やダンスイベントを興行し、ギャングを集めて、賭博や売春、スリを組織的に行なった。
 
 1902年9月29日、ユダヤ系犯罪組織「イーストマンズ」の戦闘員60人がファイブ・ポインツの縄張りに侵入し戦闘になった。

 1902年10月4日、ファイブ・ポインツの戦闘員35人が9月29日の仕返しでイーストマンズのアジトを急襲した。

 同年10月、タマニー・ホールのトム・フォーリーの仲介でイーストマンズと平和協定を結んだ。

 ポール・ケリーとボクシングを通じて知り合い、提携していた。
 その後、仲間割れし、1905年抗争に発展した。

 最終的にはポール・ケリーをロウアーイーストサイドから追い出し、縄張りを奪った。
 その後、独自のギャングを結成した
   ジミー・ケリー(ディサルヴィオ)
と抗争し、ファイブ・ポインツが分裂した。

 側近チック・トリッカーと共に イーストマンズの乗っ取りを画策した。

 1911年、強盗に失敗した後、怪我したボス
   ジャック・ゼリグ
を置き去りにした。
 ゼリグは逮捕され収監された。

 ゼリグを保釈金で救い出す代わりに、ゼリグのイーストマンズを乗っ取ろうと画策した。

 トリッカーと共にゼリグの暗殺を試み、刺客
   ジュールス・モレーロ
を派遣したが1911年12月2日、ゼリグは部下の内通でモレーロを返り討ちにし。

 イーストマンズはそれから1年ほど、2派閥に分かれて抗争したが互いに消耗し組織は空中分解した。

 その後、シロッコは新たにギャング団を結成して、組合利権を広げていった。

 企業側の武装団を率いてスト破りを指揮し、組合側の
   ベンジャミン・ファイン
と派手な銃撃戦で抗争した。

 この抗争の真っ只中、警察の手入れが厳しくなる中ニューヨークの裏社会から忽然と姿を消した。
 1930年の人口調査では、ブルックリンに住み、職業は料理人となっていたという。
 
      
   
   
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2019年03月05日

平尾賛平商店(ひらおさんぺいしょうてん) レート(仏語: LAIT)ブランドで知られる。


 平尾賛平商店(ひらおさんぺいしょうてん)
 東京に存在した日本の化粧品メーカー
 1878年に開業し、1954年に廃業した。
 レート(仏語: LAIT)ブランドで知られている。
 
 「lait」はフランス語で「乳」を意味する言葉で、フランス語を化粧品名にした日本初の企業。
   
 1878年(明治11年)、静岡出身の
   平尾賛平(初代)
が東京市日本橋区馬喰町1丁目6番地(現東京都中央区日本橋馬喰町1丁目)で化粧品店を開業したことに始まる。
 
 これが平尾賛平商店の創業とされる。
 同年、化粧水「小町水」を発売した。
 翌年1879年(明治12年)2月、屋号を「岳陽堂」に改称した。

 
 1891年(明治24年)、慶應義塾在学中の二代目の平尾賛平の命名により
   「ダイヤモンド歯磨」
を発売するした。

 初代賛平は、彫刻家の高村光雲、後藤貞行との交流があり、とくに東京美術学校(現東京藝術大学)教員時代の高村光雲には積極的に資金援助し、谷中に持ち家を持たせもした。
 1898年(明治31年)1月、初代平尾賛平が死去した。
 
       
  
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2019年02月12日

セルジュ・アレクサンドル・スタヴィスキー スタヴィスキー事件 


スタヴィスキー事件

 1933年末にフランスで発生した疑獄事件
 政権をも揺るがす一大スキャンダルとなりフランスの左右両翼の対立が激化する大きな原因となった。
 
 ウクライナ・キエフ出身のユダヤ人
   セルジュ・アレクサンドル・スタヴィスキー
は、1931年にバイヨンヌ市立信用金庫を自ら設立した。
 同信用金庫を使って債券
   5億フラン
を発行した。
  
 1933年12月末、スペイン国境付近の小都市バイヨンヌの市立信用金庫が倒産した。

 巨額の債券の担保として供された宝石類が、盗品あるいは模造品であったことが発覚し信用不安を引き起こした。
 更に、この詐欺行為には多くの要人が関係しスタヴィスキーに対し長期間の保釈が許可されていたことがメディアに報じられ、事件が重大化した。

 この事件の当初は新聞も大きく取り上げてはいなかったものの程なくして同信用金庫を舞台とする詐欺の疑惑が浮上したため衆目を集め話題となった。
  
  
 1934年1月3日、急進社会党の第2次カミーユ・ショータン内閣の植民相
   アルベール・ダリミエ(Albert Dalimier)
が労働相であった当時に償還不能なこの公債を公然と推奨していた事実が暴露された。

 この責任を取りダリミエは1月8日に辞任した。 
 また、ショータンの親族が事件に関与していたことも露見し、内閣は激しい批判を受けた。
 

 スタヴィスキーは事件が発覚すると、警視総監
   ジャン・シアップ
の旅行免状を用意してパリを脱出した。
 警察による捜索の結果、1月8日、スイス国境のシャモニーにある別荘にて、頭に銃弾を受けて倒れているのを発見された。
 なお、病院に搬送されたが2時間後に死亡した。

 警察当局は「警官隊に包囲され逃げられないと悟ったスタヴィスキーが、自ら命を絶った」と発表した。

 
 ただ、大半の新聞はこの発表の信憑性を疑い、「真相発覚を恐れた政界上層部が警察を使って行った口封じである」との見方を示した。
 なお、国粋主義団体の機関紙はこうした糾弾を強めた。
  

 政治の腐敗に対する世論の反発を勢力拡大の好機とみた
   アクション・フランセーズ
   クロア・ド・フー
などの国粋主義団体は、左派、右派を問わず数多くの政治家が事件に関与しても
   左派勢力(ひいては議会主義)
を激しく指弾する煽動を行ったため、1月27日にショータン内閣が総辞職した。
 
 1月30日、ショータンの後任としてエドゥアール・ダラディエを首班とする内閣が成立。
 新首相に就任したダラディエは2月3日、左派勢力から
   「真相の隠蔽」
を図っているのではないかとの疑念を持たれていた警視総監シアップを解任した。
 シアップは当時フランスの保護領であったモロッコに左遷された。

 ただ、この措置は右派閣僚の反発を招き、内閣は機能不全に陥った。


 この事件の捜査を指揮したピエール・ボニー警部は一連の捜査で名声を高めた。
 ただ、不正が発覚したことから1937年に免職された。
 その後ナチス・ドイツ占領下でフランス人アウトローの
   アンリ・シャンベルラン(ラフォン)
に雇われ、ゲシュタポやドイツ軍に協力したため、連合国軍によるフランスの解放後にレジスタンスにより逮捕・処刑された。
 
       
   
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2019年02月01日

マルト・アノー(Marthe Hanau) フランスの金融界を揺るがせた女性銀行家


マルト・アノー(Marthe Hanau)
   1886年1月1日−
       1935年7月14日

1920年代は第一次世界大戦の惨禍を越え、新しい自由な価. 値観が力強く模索された時代
   狂乱の時代
とも呼ばれた。
 フランスの金融界を揺るがせた女性銀行家
 
 両親はアルザス出身のユダヤ人で商店主だった。
 パリで生まれ、ビジネスマンと結婚し、離婚した。
 その元夫とともに、1925年に投資情報誌
   La Gazette du Franc et des Nations
を創刊した。
   
 景気低迷で低金利だった当時にあって、8%という高金利を謳って顧客を集めた。
  
 それを元に株式運用しいたが、競合相手の銀行の調査から、アノーが扱った株が仲間内の取引で実態のない
   ペーパーカンパニー
のもので、詐欺行為であると非難された。
 政治家に賄賂をおくって噂の火消しを図ったものの1928年の暮れに逮捕された。

 マルトはすべての顧客へ返金を約束して保釈を求めたものの裁判所は認めず
   サンラザール刑務所
に収監された。
 刑務所でハンガー・ストライキを始めて無実と保釈を主張し、病院送りとなった。
 下着のままセーブルのコートをまとって病院から逃げ出し、タクシーで刑務所に戻った。

 1932年2月の裁判開始で賄賂を渡した政治家たちの名前を明らかにした。
 このため、一大スキャンダルに発展した。

 判決で懲役2年の判決が下されたが、すでに収監期間が長かったため釈放された。

 自由の身となり「Forces」という週刊の金融専門誌を買い取った。
 1932年4月の記事で金融市場のいかがわしさについての暴露情報を掲載し政界・金融界を激震させた。
 ただ、この記事の一部が不当な情報漏洩に当たるとして再び1934年に逮捕され、懲役3年の刑を言い渡された。
 1935年7月にフレンヌ刑務所内で睡眠薬自殺した。
 
       
   
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2018年10月28日

首露王(しゅろおう、수로왕)


首露王(しゅろおう、수로왕)

 金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王で、金海金氏の始祖とされる。
 首露王は158年に建国し、妃はサータヴァーハナ朝の王女と伝わる許黄玉とされる。

   

 ただ、首露王についての記述は金官加羅国が滅亡した500年ほど後に書かれた駕洛国記が本となって伝承であり、史実か判断が難しい。
 金官加羅国とされる地域では須恵器に影響を与えた土器が発掘されている。
 
 13世紀末に高麗の高僧
   一然(1206年 - 1289年)
が書いた私撰の史書「三国遺事」に掲載された「駕洛国記」によると、亀旨峰の6個の金の卵から, (西暦42年)3月3日に首露王が生まれた[1]とされ6つ子として卵から孵って、九干たちに育てられた。

 韓国ではこの年代に、首露王を中心とした国家連合(六加耶連合、後の新羅の複伽耶会)が成立したとされる。

 金官国伽倻は中国の歴史書である三国志の中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝にある「魏志倭人伝」には
   狗邪韓国(くやかんこく、くうじゃかんこく)
と伝えられる国。

 なお、首露王は金の卵から生まれたという伝説により金姓を名乗った。


   

   
 こうした朝鮮の始祖もしくは神話上の王とされている人々は、高句麗の
   東明聖王
や新羅の
   朴赫居世
   脱解尼師今
など、卵から生まれたとする卵生説話を持つものが多い。

 これは、卵が神聖なものであったという思想家からきている。

 李氏朝鮮時代の1530年、中宗の命により、 李荇(イ・ヘン)、尹殷輔(ユン・ウンボ)、申公済(シン・コンジェ)等が編纂した官撰地理志
   新増東国輿地勝覧
には加耶山の女神である正見母主と天神「夷毗訶之」(イビガジ)から
   悩窒朱日ㆍ内珍朱智
が生まれ、その内珍朱智が首露王だとの記述がある。

 首露王の兄が大加耶を建国したというの内容を通じて、大伽耶が六加耶連合の盟主だった時に作られた神話との見方もある。
  
 なお金 (姓)は、前漢の武帝が匈奴の休屠王の子
   日磾
を捕えた時に、休屠王が祭祀に用いていた祭天金人から日磾に金 (姓)を賜ったことに始まるもの。

 ただ、韓国ドラマ『鉄の王 キム・スロ』では遊牧民族匈奴の一部族である祭天金人の族長の息子として生まれたという設定になっている。
   
『三国史記』の金庾信列伝によれば、新羅の武将
   金庾信
は金官加羅国の王家の子孫であり、首露王は黄帝の子・少昊(金天氏)の子孫であるという。
           
        
   
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2018年08月30日

柴宗訓(さい そうくん)  五代後周の第3代皇帝 恭帝


 
柴宗訓(さい そうくん)

 広順3年8月4日 (953年9月14日)
       −開宝6年3月1日 (973年4月6日)

 突厥沙陀部(とっけつさだく テュルク系)の血筋を引いている義理の弟
   郭威
が後周を建国して皇帝になると父親
   柴栄
が節度使を務めていた澶州(現在の河南省濮陽市)で宋訓が生まれた。 
 後周の第3代皇帝となる。

 長兄の越王柴宗誼らが北漢によって殺害されたので、実質的に太子となった。
 父の即位に際して梁王に封じられる。
 7歳の時に父帝の崩御によって皇帝に即位した。

 幼少の皇帝のため、皇太后符氏(小符皇后、のちに周太后と呼ばれる)が政務をみた。
 また、范質・王溥・趙匡胤らがこれを補佐した。

 顕徳7年(960年)正月、柴栄の死を知った契丹の流れを汲む
   遼・北漢の連合軍
が南下して鎮・定二州に侵入し、後周を攻撃した。


 皇太后らは禁軍の兵を擁していた殿前都点検
   趙匡胤
に迎撃を命じたところ、首都開封の東北の陳橋駅に到達したころ、幼帝に不安を抱いた将兵たちにより兵変が起こった。
 趙匡胤を皇帝に擁立して開封を占領したうえ洛陽に取って返し、柴宗訓が帝位を趙匡胤に禅譲して趙は宋王朝を建国した。

 趙匡胤(太祖)は、柴宗訓を鄭王に封じて房州(現在 湖北省北房県)に移した。

 そして房州の太守に自らの師である
   辛文悦
を任じたうえ柴宗訓の守役を兼ねさせた。

 これは従来の禅譲劇と違って柴宗訓を殺害する意思のないことを内外に示した人事であった。
 なお、柴宗訓は21歳の若さで病死した。

 この報を聞いた趙匡胤は深く悲しんで皇帝の形式による葬儀を執り行ったという。
                 
   
  
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2018年08月27日

石 敬瑭(せき けいとう) 五代後晋の初代皇帝


石 敬瑭(せき けいとう)

  景福元年2月28日 (892年3月30日)
       −天福7年6月13日 (942年7月28日)

 五代後晋の初代皇帝
 廟号は高祖

 8世紀から10世紀頃まで、華北からオルドスから山西近辺の地域で繁栄した
   テュルク系民族
の突厥を構成した一部族「沙陀」の出身で、山西省の太原で勢力を持っていた。

 中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間を五代十国時代と呼ぶが、華北を支配した五代王朝のうち後唐、後晋、後漢の三つは沙陀人の皇帝が沙陀系軍閥の軍事力を背景に建国したものである。


 漢人系とされている
   孟知祥
の地方政権である後蜀や後周の
   郭威、柴栄
といった君主などの王朝創始者の多くが、沙陀族の
   劉知遠
に才能を見出されて沙陀系軍閥の将兵として台頭したものであり、沙陀系の各軍閥の軍事力を背景に建国した。

 その後、全中華を統一した漢民族とされる
   趙匡胤
の宋朝といっても、後周の国軍から台頭したもの。

 沙陀族は突厥の崩壊後、吐蕃につき後に唐に帰服して雲州など現在の山西省北部に定着し、勢力を強めて軍閥化したものの次第に宇う朴院文化を離脱して漢化していった。

 石氏はタシュケントを出自のソグド姓で、ソグド系突厥と呼ばれている。
 唐朝後半期から東突厥のもとで突厥から文化的及び血縁的に大きな影響を受けたソグド人の家系に属するとされる。


 父の石紹雍(臬捩鶏)は沙陀族長
   李克用
が率いる軍閥に従って転戦した功により、洺州刺史に任命された。
 
 幼少の頃に
   李嗣源(後唐の明宗)
に認められ、その娘婿となった。

 同光4年(926年)の
   魏州兵変
に際し、李嗣源と共に汴州に入り、その後洛陽を攻撃した。

 明宗が即位した後、保義、宣武、河東の節度使を歴任した。

 その後、李従珂(末帝、廃帝)が即位すると、石敬瑭の勢力を疎んじるようになった。
 理由をつけて、天平節度使に左遷されている。

 その後、国内の反乱に乗じ
   契丹の勢力
を背景にし皇帝を称した後に、契丹の兵を用いて天福元年(936年)に後唐を滅ぼし、後晋を建国した。


 即位後に燕雲十六州を契丹に割譲し、さらに
   毎年30万疋の絹
を献上する盟約を結んだ。

 また、自分より10歳年下の太宗を「父皇帝」と称し、自らを「児皇帝」と称し臣従した。

 高祖の帝国運営に不満を持つ
   安重栄や景延広
らと現状維持を続けてその間で国力の充実を図るべきとする
   桑維翰
らが激しく対立した。

 その後に河東節度使である劉知遠は西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族
   吐谷渾
の投降を受け入れていた。
 このため、しばしば契丹からの問責を受け、石 敬瑭は天福7年(942年)に憤死した。

 甥の石重貴(出帝)が帝位を継いだ。

 勢力の安定のために後世、特に民族主義の高まった近代では、漢奸の典型として、南宋の秦檜などとともに非難されることが多い。              
   
  
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2018年08月23日

郭 威(かく い) 五代後周の初代皇帝


郭 威(かく い)

 五代後周の初代皇帝
 廟号 太祖
  
 邢州堯山(河北省隆堯県)の出身で郭簡と王氏の間の子として生まれた。


 中国の唐末期の軍閥指導者として
   鴉軍
と呼ばれる精鋭兵を率いて黄巣の乱鎮定に功績を挙げた独眼龍の異名を持つ猛将
   李克用(856年 - 908年)
が朱全忠と激しい権力争いを繰り広げるなか、郭威が3歳の頃に、刺史に任じられていた父親が戦乱に巻き込まれて戦死した。

 そのために家門は没落し、養母の韓氏に養育された。
 成長した郭威は、一兵卒から立身して、後漢の初代皇帝となる
   劉知遠
にその才能を見出され重臣となった。

 劉知遠が後漢を建国するに際し大功を挙げ、枢密副使にまで昇進した。

 なお、異民族とされる後唐朝は隆堯県が出身であり、唐朝の先祖の李煕・李天錫の2代の墓があるのも隆堯県。
 李天錫の息子が李虎であるように隆堯県は異民族の住地とされている。
 同じ異民族の安禄山も邢州出身だったことから郭威・柴栄はもともとは突厥沙陀部の血筋を引いていたようだ。
  
 948年、劉知遠が没して
   劉承祐(隠帝)
が即位すると枢密使に昇進した。

 さらに、契丹を撃退するなど多大な軍功があり、人望を集めたため、その実力を劉承祐が恐れ、一族が皆殺しにされた。
 その上、自身も命を狙われるようになったため、軍と共に逆に反乱を起こして劉承祐を殺害した。

 劉知遠の甥(劉崇の子)の
   劉贇(順帝湘陰公)
を名目のうえで皇帝に立てたものの、不要となりまもなく殺害して自ら皇帝として即位して
   後周
を建国した。


 即位してからの郭威は、農村復興や節度使の統制、軍事力の強化など、内治に力を注いだ。
 ただ、家族が皆殺しにされており帝国を支える親族が少なくなってしまったために、郭威とともに行動していて難を逃れた甥の柴栄(妻柴氏の兄の柴守礼の子)が後継者(世宗)となった。
          
   
  
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2018年08月20日

劉 知遠(りゅう ちえん) 五代後漢の初代皇帝


劉 知遠(りゅう ちえん)

 乾寧2年2月4日 (895年3月4日)
     −乾祐元年1月27日 (948年3月10日)

 五代後漢の初代皇帝
 廟号は高祖
 太原の人。
 
 テュルク(トルコ)系突厥沙陀部出身で父の劉琠は後唐を建国した
   李克用
の将校として活躍した。

 後唐の二代目皇帝明宗に仕え、その後はソドク系契丹族の後晋の高祖
   石敬瑭
に仕えた。
 石敬瑭は保義、宣武、河東の節度使を歴任した後
   李従珂(末帝、廃帝)
が即位すると、石敬瑭の勢力を疎んじ天平節度使に左遷されたため、その後、国内の反乱に乗じて
   契丹の勢力
を頼って皇帝を称した。
 その後に、契丹の兵を用いて天福元年(936年)に後唐を滅ぼし、後晋を建国している。


 劉知遠は後晋の建国に大功を挙げ、天福9年(944年)に幽州道行営招討使に任じられるなど軍の要職を歴任した。


 建国において兵力の支援を受けた石敬瑭が契丹に燕雲十六州を割譲しようとしたときは強く反対したが、容れられなかった。


 出帝のとき、後晋は契丹による侵攻を受けたが、劉知遠は軍を出さなかった。
 そして出帝が契丹に捕らえられて後晋が滅亡したため、河東行軍司馬の張彦威に無主となった中原において、皇帝即位を薦められたが、この時は拒絶した。


 天福12年(947年)2月、開封にて自ら即位して国号を「漢」とし、翌948年1月に乾祐と改元したうえ、名をロと改めた。
 ただ、同年に崩御した。
          
   
  
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2018年08月19日

史弘肇(しこうちょう) 後漢の政治家

  
史弘肇(しこうちょう)

   ?〜950

 
 字は化元
 鄭州(南北朝時代から民国初年にかけて、現在の河南省鄭州市一帯に設置された州)滎沢の出身
 驍勇にして寡黙な人物であったという。

 唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領
   朱全忠
が、907年に唐の昭宣帝より禅譲を受けて建国した後梁の末年に徴兵されて従軍した。

 後梁は継承帝などの問題など内紛で混乱し弱体化していった。
 この混乱異乗じて領土を後晋に侵食され呑み込まれて滅んだ。

 後晋が支配したときに控鶴小校となった。

 後漢を建国するテュルク系突厥沙陀部出身の
   劉知遠
が禁兵をつかさどると、その幕下として軍校となり、武節指揮・雷州刺史となった。

 軍を率いて規律が重んじた配下の兵は各地を転戦して、微細な罪を犯すことがなかったという。

 その後、忠武軍節度使・侍衛歩軍都指揮使に累進した。

 後漢の乾祐元年(948)、帰徳軍節度使・同平章事となった。

 高祖(劉知遠)の臨終にあたって、蘇逢吉・楊邠らとともに遺命を受け、のちに中書令に任ぜられた。


 ただ、政治にあたっては治安を重んじ、規律を守らせるため、酷刑を好んで用いる思考があり、微罪でも極刑で臨んだ。

 また、文人と折り合いが悪く、「禍乱を定めるのは長槍大剣であり、どうして毛筆を用いようか」と主張した。
 とくに、蘇逢吉との間柄は水火のごとく相容れなかったという。

 なお、こうした専横のことが2代皇帝の隠帝に憎まれ、参内の途中に楊邠・王章らとともに暗殺された。              
   
  
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2018年08月15日

趙 匡義(ちょう きょうぎ) 宋2台目皇帝


趙 匡義(ちょう きょうぎ) 
  
   天福4年10月7日(939年11月20日)
           ―至道3年3月29日(997年5月8日)

 
 北宋の初代皇帝である太祖
   趙匡胤
の同母弟で趙弘胤の3男として生まれ、第2代皇帝(在位:976年 - 997年)
 諱は元は匡義であった。

 ただ、兄帝の名を避諱して光義(こうぎ)、即位してからはQ(けい)に改めている。
 廟号は太宗(たいそう)

 もともと、趙家は五代十国時代の動乱の中で歴代王朝に仕える鮮卑系遊牧民族の流れを汲む軍人の家柄で、趙匡胤もその縁で後周に仕えた。
 後周の第2代皇帝・世宗に仕えて数々の手柄を立ててその片腕となった。
  

 父は趙弘胤、母は昭憲太后杜氏、妻は将として光武帝の漢朝再興に貢献した馬援の娘
   明徳皇后
を出した李氏である。

 早くから後周に仕えて近衛軍の将校となり、兄を助けてその覇業を支えた。

 960年に趙匡胤が後周から禅譲を受ける際、趙普と共に
   陳橋の変
を起こしたと伝えられている。

 趙匡胤からは厚い信任を受け、趙匡胤の留守の最中には守備の任務を与えられた。
 973年には晋王に封じられその待遇は宰相より上位に置かれていた。


 976年に宋初代皇帝の趙匡胤が急病により崩御した。
 なお、趙匡胤には息子が数名いたが、皇位は弟の趙匡義が継承した。

 趙匡胤・趙匡義の生母である杜氏が生前に後周の世宗が崩御した際に幼児である恭帝に皇位を継承させたために滅んだ故事から、遺言で皇位を若い息子ではなく成人して経験も豊かな趙匡義に譲るように遺言していたことによるという。

 ただ、趙匡胤の遺児らは後年に相次いで趙匡義により暗殺・失脚されており、趙匡胤の急死は暗殺された可能性も指摘されている。。
 
 趙匡胤の時代に北宋は五代十国の時に乱立していた地方王朝の大半を打倒していた。

 趙匡義は依然として攻略できない呉越と北漢を倒して統一事業を完成させるべく邁進した。
 978年に呉越を平和裏の内に併合した。

 翌年、979年には北漢を滅ぼして五代十国を完全に終焉させた。
 その勢いに乗って、後晋(936年 - 946年)の時代に
   契丹(遼)
に割譲されていた
   燕雲十六州
の奪回を試みたが危うく太宗も遼の捕虜になりかける北宋軍の大敗に終わった。

 その後、2度目の遼遠征にも失敗して惨敗した。
 この2度による大敗は、後年の遼や西夏の北宋侵攻を許して将来の禍根を作ることとなった。


 太宗は内政においては兄の方針を継承し、中央集権的な
   官僚体制
の整備と皇帝独裁権の強化に努めた。

 五代十国の戦乱の原因になった節度使など地方政権化した
   藩鎮体制
に終止符を打った。

 最大の地方行政区画である路に運転使を置いて行政・財政・治安など広大な権限を与えた。
 また、専売制度や税制も整備して国庫財政を豊かにした。

 こうした政策により官僚の権力が強くなり、それまで権勢を振るった宦官や外戚の権力が縮小された。

 既に趙匡胤の時代から北宋は
   文治主義
の傾向が強まっていた。
 太宗自らが学者で書家としても優秀であった。
 また、碁の腕にも優れ、詩作を好む性格から、儒学が奨励されて経書の出版が促進された。

 百科事典の編纂が命じられるなど、その傾向はさらに強まっていった。

 太宗の宮廷には学者や画家が集まり、様々な書画が収集される文化サロンを形成していった。

 ただ、周辺の遊牧民国家が虎視眈々と宋の領土を狙うなか北宋の軍隊が文治化して弱体化した。

 太宗は兵隊を社会の最下層民から雇う
   傭兵制
を採用したため、この軍隊の練度で北方や西方の異民族と対抗できなくなっていった。

 後年に北宋が異民族の侵攻に苦しめられる端緒でもある。


 皇位継承においては、亡母の遺言に従うなら太宗の弟
   趙廷美
が候補であったが、太宗は自分の3男である趙恒を後継者にした。

 このため、趙廷美に何度も反乱を起こされた。
 また、この反乱に自分の長男である趙元佐も協力しており、家庭的には余り恵まれなかったとされる。

 997年に崩御(享年59)した。
 跡を3男の趙恒が真宗として継承した。

      
   
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2018年08月14日

趙匡胤(ちょう きょういん) 北宋の初代皇帝


趙匡胤(ちょう きょういん)

 北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)
 廟号は太祖。
 
 河北省固安県の人で父は後唐の禁軍将校
   趙弘殷
で 母は杜氏。

   
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2018年08月11日

李 昪(り べん) 十国南唐の初代皇帝


李 昪(り べん)

 十国南唐の初代皇帝で廟号は烈祖と呼ばれる。
 ただ、禅譲で建国した南唐を正統の王朝として認めない立場からは先主と呼ばれている。


  
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2018年08月03日

蘇逢吉(?〜950) 「静獄」と称さる後漢の政治家


  
蘇逢吉(?〜950)
 
 京兆長安(三国時代から唐代にかけて存在した郡 現在の陝西省西安市一帯)の出身
 蘇悦の子。

 唐が滅亡して五代十国時代になると、後晋を建国した石敬瑭の重臣で陀突厥の出身の
   劉知遠
が北京留守河東節度使となり着任すると、節度判官となった。

 刑獄裁判を担当して、罪の軽重や理非曲直にかかわらず、囚人をことごとく殺した。
 その行為の凄まじさもあり「静獄」と称されていた。

 劉知遠が契丹と同盟を結び、契丹軍を利用して後晋を亡ぼして、後漢が建国されると、中書侍郎・同平章事・集賢殿大学士に任ぜられ、朝廷の大事について全てを取り計らうようになった。

 権力を奪うため、宰相李ッを謀略により陥れたうえ、その一族を滅ぼした。
 また、衛州刺史葉仁魯の不法をかばうなど、非行も多かった。

 後漢末期、河中の李守貞・長安の趙思綰・鳳翔の王景崇が相次いで叛乱を起こした。
 蝗害・水害の被害が深刻となり、各地では飢饉に伴う暴動が広がり、後漢朝は混乱に陥った。

 乾祐三年(950)、郭威が兵変を起こして南下し、二代目隠帝は乱兵の中で殺され、後漢が滅亡すると、自殺した。               
   
  
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2018年08月02日

赤星 親武(あかぼし ちかたけ) 加藤十六将の一人


赤星 親武(あかぼし ちかたけ)

  安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将


 肥後国菊池氏の出身といわれている。
 明治維新の西郷隆盛も菊池氏の支族の流れを汲んでいるといわれる。

 豊臣秀吉の子飼いの家臣で秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となった加藤清正に仕えた。

 加藤十六将の一人に数えられた。
 その後、清正の紹介で豊臣秀頼の直参となった。

 大坂の陣では豊臣方で戦い、大坂夏の陣において天王寺口で戦死した。
 死ぬ直前に子の道重を戦場から脱出させている。

 道重は島原の乱の一揆勢指導者で天草十七人衆の一人。
             
  
   
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2018年07月20日

五百蔵 左馬進(いおろい さまのしん) 長宗我部氏の家臣


 
五百蔵 左馬進(いおろい さまのしん)

    ?−慶長20年5月6日(1615年6月2日)

 別名 桑名藤次郎

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で長宗我部氏の家臣だった。

 桑名親光の次男として生まれ、初代五百蔵左馬進が戸次川の戦いで討死した。
 その後、左馬進の娘を娶り義父と同じ名を名乗った。

 この「戸次川の戦い」合戦は豊臣秀吉による九州平定の最中である天正14年12月12日(1587年1月20日)に、島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保率いる豊臣勢の間で行なわれた九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した。

 慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いに参加したが、西軍が敗れると長宗我部軍とに従い大坂に退却した。
 その後、長宗我部家が改易となったため、浅野家の家臣浅野良重を頼って紀伊の田辺に隠棲した。
  

 大坂方と徳川方との間が険悪になる中、慶長19年(1614年)9月に
   板倉勝重
は盛親に大坂入城の是非を詰問し、盛親は「此度は関東方に味方して戦功をたて微録を得たいと念願しており、浅野長晟とも旧約を結んでいる」と答えて勝重を油断させ、僅か6人の従者と共に京都を脱出した。

 10月6日に大坂入城を果たし、これに応じて長宗我部家の再興を願う中内総右衛門を初めとする旧臣たちも入城した。
 大坂城に集結した牢人衆の中では長曾我部の勢力は最大の手勢1,000人を持った。

 大坂の陣の際に盛親を慕って入城した五百蔵左馬進だが慶長20年5月6日に藤堂高虎軍を撃破した「八尾の戦い」の渦中、盛親の馬前で討死したという。
              
   
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