当ブログ内の情報はあくまでも参考情報です。投資にあたっての判断は投資する人の自己責任でお願いします。
当ブログでは、一切の責任を負いませんでご了承下さい。

マーケット出来事貴金属とレアメタル宝石と宝飾品貴金属の取引方法貴金属取扱会社

2018年10月28日

首露王(しゅろおう、수로왕)


首露王(しゅろおう、수로왕)

 金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王で、金海金氏の始祖とされる。
 首露王は158年に建国し、妃はサータヴァーハナ朝の王女と伝わる許黄玉とされる。

   

 ただ、首露王についての記述は金官加羅国が滅亡した500年ほど後に書かれた駕洛国記が本となって伝承であり、史実か判断が難しい。
 金官加羅国とされる地域では須恵器に影響を与えた土器が発掘されている。
 
 13世紀末に高麗の高僧
   一然(1206年 - 1289年)
が書いた私撰の史書「三国遺事」に掲載された「駕洛国記」によると、亀旨峰の6個の金の卵から, (西暦42年)3月3日に首露王が生まれた[1]とされ6つ子として卵から孵って、九干たちに育てられた。

 韓国ではこの年代に、首露王を中心とした国家連合(六加耶連合、後の新羅の複伽耶会)が成立したとされる。

 金官国伽倻は中国の歴史書である三国志の中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝にある「魏志倭人伝」には
   狗邪韓国(くやかんこく、くうじゃかんこく)
と伝えられる国。

 なお、首露王は金の卵から生まれたという伝説により金姓を名乗った。


   

   
 こうした朝鮮の始祖もしくは神話上の王とされている人々は、高句麗の
   東明聖王
や新羅の
   朴赫居世
   脱解尼師今
など、卵から生まれたとする卵生説話を持つものが多い。

 これは、卵が神聖なものであったという思想家からきている。

 李氏朝鮮時代の1530年、中宗の命により、 李荇(イ・ヘン)、尹殷輔(ユン・ウンボ)、申公済(シン・コンジェ)等が編纂した官撰地理志
   新増東国輿地勝覧
には加耶山の女神である正見母主と天神「夷毗訶之」(イビガジ)から
   悩窒朱日ㆍ内珍朱智
が生まれ、その内珍朱智が首露王だとの記述がある。

 首露王の兄が大加耶を建国したというの内容を通じて、大伽耶が六加耶連合の盟主だった時に作られた神話との見方もある。
  
 なお金 (姓)は、前漢の武帝が匈奴の休屠王の子
   日磾
を捕えた時に、休屠王が祭祀に用いていた祭天金人から日磾に金 (姓)を賜ったことに始まるもの。

 ただ、韓国ドラマ『鉄の王 キム・スロ』では遊牧民族匈奴の一部族である祭天金人の族長の息子として生まれたという設定になっている。
   
『三国史記』の金庾信列伝によれば、新羅の武将
   金庾信
は金官加羅国の王家の子孫であり、首露王は黄帝の子・少昊(金天氏)の子孫であるという。
           
        
   
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

    
    
posted by まねきねこ at 05:31| 愛知 | Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月30日

柴宗訓(さい そうくん)  五代後周の第3代皇帝 恭帝


 
柴宗訓(さい そうくん)

 広順3年8月4日 (953年9月14日)
       −開宝6年3月1日 (973年4月6日)

 突厥沙陀部(とっけつさだく テュルク系)の血筋を引いている義理の弟
   郭威
が後周を建国して皇帝になると父親
   柴栄
が節度使を務めていた澶州(現在の河南省濮陽市)で宋訓が生まれた。 
 後周の第3代皇帝となる。

 長兄の越王柴宗誼らが北漢によって殺害されたので、実質的に太子となった。
 父の即位に際して梁王に封じられる。
 7歳の時に父帝の崩御によって皇帝に即位した。

 幼少の皇帝のため、皇太后符氏(小符皇后、のちに周太后と呼ばれる)が政務をみた。
 また、范質・王溥・趙匡胤らがこれを補佐した。

 顕徳7年(960年)正月、柴栄の死を知った契丹の流れを汲む
   遼・北漢の連合軍
が南下して鎮・定二州に侵入し、後周を攻撃した。


 皇太后らは禁軍の兵を擁していた殿前都点検
   趙匡胤
に迎撃を命じたところ、首都開封の東北の陳橋駅に到達したころ、幼帝に不安を抱いた将兵たちにより兵変が起こった。
 趙匡胤を皇帝に擁立して開封を占領したうえ洛陽に取って返し、柴宗訓が帝位を趙匡胤に禅譲して趙は宋王朝を建国した。

 趙匡胤(太祖)は、柴宗訓を鄭王に封じて房州(現在 湖北省北房県)に移した。

 そして房州の太守に自らの師である
   辛文悦
を任じたうえ柴宗訓の守役を兼ねさせた。

 これは従来の禅譲劇と違って柴宗訓を殺害する意思のないことを内外に示した人事であった。
 なお、柴宗訓は21歳の若さで病死した。

 この報を聞いた趙匡胤は深く悲しんで皇帝の形式による葬儀を執り行ったという。
                 
   
  
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

    
    
posted by まねきねこ at 20:23| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月27日

石 敬瑭(せき けいとう) 五代後晋の初代皇帝


石 敬瑭(せき けいとう)

  景福元年2月28日 (892年3月30日)
       −天福7年6月13日 (942年7月28日)

 五代後晋の初代皇帝
 廟号は高祖

 8世紀から10世紀頃まで、華北からオルドスから山西近辺の地域で繁栄した
   テュルク系民族
の突厥を構成した一部族「沙陀」の出身で、山西省の太原で勢力を持っていた。

 中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間を五代十国時代と呼ぶが、華北を支配した五代王朝のうち後唐、後晋、後漢の三つは沙陀人の皇帝が沙陀系軍閥の軍事力を背景に建国したものである。


 漢人系とされている
   孟知祥
の地方政権である後蜀や後周の
   郭威、柴栄
といった君主などの王朝創始者の多くが、沙陀族の
   劉知遠
に才能を見出されて沙陀系軍閥の将兵として台頭したものであり、沙陀系の各軍閥の軍事力を背景に建国した。

 その後、全中華を統一した漢民族とされる
   趙匡胤
の宋朝といっても、後周の国軍から台頭したもの。

 沙陀族は突厥の崩壊後、吐蕃につき後に唐に帰服して雲州など現在の山西省北部に定着し、勢力を強めて軍閥化したものの次第に宇う朴院文化を離脱して漢化していった。

 石氏はタシュケントを出自のソグド姓で、ソグド系突厥と呼ばれている。
 唐朝後半期から東突厥のもとで突厥から文化的及び血縁的に大きな影響を受けたソグド人の家系に属するとされる。


 父の石紹雍(臬捩鶏)は沙陀族長
   李克用
が率いる軍閥に従って転戦した功により、洺州刺史に任命された。
 
 幼少の頃に
   李嗣源(後唐の明宗)
に認められ、その娘婿となった。

 同光4年(926年)の
   魏州兵変
に際し、李嗣源と共に汴州に入り、その後洛陽を攻撃した。

 明宗が即位した後、保義、宣武、河東の節度使を歴任した。

 その後、李従珂(末帝、廃帝)が即位すると、石敬瑭の勢力を疎んじるようになった。
 理由をつけて、天平節度使に左遷されている。

 その後、国内の反乱に乗じ
   契丹の勢力
を背景にし皇帝を称した後に、契丹の兵を用いて天福元年(936年)に後唐を滅ぼし、後晋を建国した。


 即位後に燕雲十六州を契丹に割譲し、さらに
   毎年30万疋の絹
を献上する盟約を結んだ。

 また、自分より10歳年下の太宗を「父皇帝」と称し、自らを「児皇帝」と称し臣従した。

 高祖の帝国運営に不満を持つ
   安重栄や景延広
らと現状維持を続けてその間で国力の充実を図るべきとする
   桑維翰
らが激しく対立した。

 その後に河東節度使である劉知遠は西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族
   吐谷渾
の投降を受け入れていた。
 このため、しばしば契丹からの問責を受け、石 敬瑭は天福7年(942年)に憤死した。

 甥の石重貴(出帝)が帝位を継いだ。

 勢力の安定のために後世、特に民族主義の高まった近代では、漢奸の典型として、南宋の秦檜などとともに非難されることが多い。              
   
  
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

    
  
   
posted by まねきねこ at 07:17| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月23日

郭 威(かく い) 五代後周の初代皇帝


郭 威(かく い)

 五代後周の初代皇帝
 廟号 太祖
  
 邢州堯山(河北省隆堯県)の出身で郭簡と王氏の間の子として生まれた。


 中国の唐末期の軍閥指導者として
   鴉軍
と呼ばれる精鋭兵を率いて黄巣の乱鎮定に功績を挙げた独眼龍の異名を持つ猛将
   李克用(856年 - 908年)
が朱全忠と激しい権力争いを繰り広げるなか、郭威が3歳の頃に、刺史に任じられていた父親が戦乱に巻き込まれて戦死した。

 そのために家門は没落し、養母の韓氏に養育された。
 成長した郭威は、一兵卒から立身して、後漢の初代皇帝となる
   劉知遠
にその才能を見出され重臣となった。

 劉知遠が後漢を建国するに際し大功を挙げ、枢密副使にまで昇進した。

 なお、異民族とされる後唐朝は隆堯県が出身であり、唐朝の先祖の李煕・李天錫の2代の墓があるのも隆堯県。
 李天錫の息子が李虎であるように隆堯県は異民族の住地とされている。
 同じ異民族の安禄山も邢州出身だったことから郭威・柴栄はもともとは突厥沙陀部の血筋を引いていたようだ。
  
 948年、劉知遠が没して
   劉承祐(隠帝)
が即位すると枢密使に昇進した。

 さらに、契丹を撃退するなど多大な軍功があり、人望を集めたため、その実力を劉承祐が恐れ、一族が皆殺しにされた。
 その上、自身も命を狙われるようになったため、軍と共に逆に反乱を起こして劉承祐を殺害した。

 劉知遠の甥(劉崇の子)の
   劉贇(順帝湘陰公)
を名目のうえで皇帝に立てたものの、不要となりまもなく殺害して自ら皇帝として即位して
   後周
を建国した。


 即位してからの郭威は、農村復興や節度使の統制、軍事力の強化など、内治に力を注いだ。
 ただ、家族が皆殺しにされており帝国を支える親族が少なくなってしまったために、郭威とともに行動していて難を逃れた甥の柴栄(妻柴氏の兄の柴守礼の子)が後継者(世宗)となった。
          
   
  
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
  
    

    

   
posted by まねきねこ at 06:13| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月20日

劉 知遠(りゅう ちえん) 五代後漢の初代皇帝


劉 知遠(りゅう ちえん)

 乾寧2年2月4日 (895年3月4日)
     −乾祐元年1月27日 (948年3月10日)

 五代後漢の初代皇帝
 廟号は高祖
 太原の人。
 
 テュルク(トルコ)系突厥沙陀部出身で父の劉琠は後唐を建国した
   李克用
の将校として活躍した。

 後唐の二代目皇帝明宗に仕え、その後はソドク系契丹族の後晋の高祖
   石敬瑭
に仕えた。
 石敬瑭は保義、宣武、河東の節度使を歴任した後
   李従珂(末帝、廃帝)
が即位すると、石敬瑭の勢力を疎んじ天平節度使に左遷されたため、その後、国内の反乱に乗じて
   契丹の勢力
を頼って皇帝を称した。
 その後に、契丹の兵を用いて天福元年(936年)に後唐を滅ぼし、後晋を建国している。


 劉知遠は後晋の建国に大功を挙げ、天福9年(944年)に幽州道行営招討使に任じられるなど軍の要職を歴任した。


 建国において兵力の支援を受けた石敬瑭が契丹に燕雲十六州を割譲しようとしたときは強く反対したが、容れられなかった。


 出帝のとき、後晋は契丹による侵攻を受けたが、劉知遠は軍を出さなかった。
 そして出帝が契丹に捕らえられて後晋が滅亡したため、河東行軍司馬の張彦威に無主となった中原において、皇帝即位を薦められたが、この時は拒絶した。


 天福12年(947年)2月、開封にて自ら即位して国号を「漢」とし、翌948年1月に乾祐と改元したうえ、名をロと改めた。
 ただ、同年に崩御した。
          
   
  
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
  
    

    
   
posted by まねきねこ at 04:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月19日

史弘肇(しこうちょう) 後漢の政治家

  
史弘肇(しこうちょう)

   ?〜950

 
 字は化元
 鄭州(南北朝時代から民国初年にかけて、現在の河南省鄭州市一帯に設置された州)滎沢の出身
 驍勇にして寡黙な人物であったという。

 唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領
   朱全忠
が、907年に唐の昭宣帝より禅譲を受けて建国した後梁の末年に徴兵されて従軍した。

 後梁は継承帝などの問題など内紛で混乱し弱体化していった。
 この混乱異乗じて領土を後晋に侵食され呑み込まれて滅んだ。

 後晋が支配したときに控鶴小校となった。

 後漢を建国するテュルク系突厥沙陀部出身の
   劉知遠
が禁兵をつかさどると、その幕下として軍校となり、武節指揮・雷州刺史となった。

 軍を率いて規律が重んじた配下の兵は各地を転戦して、微細な罪を犯すことがなかったという。

 その後、忠武軍節度使・侍衛歩軍都指揮使に累進した。

 後漢の乾祐元年(948)、帰徳軍節度使・同平章事となった。

 高祖(劉知遠)の臨終にあたって、蘇逢吉・楊邠らとともに遺命を受け、のちに中書令に任ぜられた。


 ただ、政治にあたっては治安を重んじ、規律を守らせるため、酷刑を好んで用いる思考があり、微罪でも極刑で臨んだ。

 また、文人と折り合いが悪く、「禍乱を定めるのは長槍大剣であり、どうして毛筆を用いようか」と主張した。
 とくに、蘇逢吉との間柄は水火のごとく相容れなかったという。

 なお、こうした専横のことが2代皇帝の隠帝に憎まれ、参内の途中に楊邠・王章らとともに暗殺された。              
   
  
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

    
  
   
posted by まねきねこ at 05:37| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月15日

趙 匡義(ちょう きょうぎ) 宋2台目皇帝


趙 匡義(ちょう きょうぎ) 
  
   天福4年10月7日(939年11月20日)
           ―至道3年3月29日(997年5月8日)

 
 北宋の初代皇帝である太祖
   趙匡胤
の同母弟で趙弘胤の3男として生まれ、第2代皇帝(在位:976年 - 997年)
 諱は元は匡義であった。

 ただ、兄帝の名を避諱して光義(こうぎ)、即位してからはQ(けい)に改めている。
 廟号は太宗(たいそう)

 もともと、趙家は五代十国時代の動乱の中で歴代王朝に仕える鮮卑系遊牧民族の流れを汲む軍人の家柄で、趙匡胤もその縁で後周に仕えた。
 後周の第2代皇帝・世宗に仕えて数々の手柄を立ててその片腕となった。
  

 父は趙弘胤、母は昭憲太后杜氏、妻は将として光武帝の漢朝再興に貢献した馬援の娘
   明徳皇后
を出した李氏である。

 早くから後周に仕えて近衛軍の将校となり、兄を助けてその覇業を支えた。

 960年に趙匡胤が後周から禅譲を受ける際、趙普と共に
   陳橋の変
を起こしたと伝えられている。

 趙匡胤からは厚い信任を受け、趙匡胤の留守の最中には守備の任務を与えられた。
 973年には晋王に封じられその待遇は宰相より上位に置かれていた。


 976年に宋初代皇帝の趙匡胤が急病により崩御した。
 なお、趙匡胤には息子が数名いたが、皇位は弟の趙匡義が継承した。

 趙匡胤・趙匡義の生母である杜氏が生前に後周の世宗が崩御した際に幼児である恭帝に皇位を継承させたために滅んだ故事から、遺言で皇位を若い息子ではなく成人して経験も豊かな趙匡義に譲るように遺言していたことによるという。

 ただ、趙匡胤の遺児らは後年に相次いで趙匡義により暗殺・失脚されており、趙匡胤の急死は暗殺された可能性も指摘されている。。
 
 趙匡胤の時代に北宋は五代十国の時に乱立していた地方王朝の大半を打倒していた。

 趙匡義は依然として攻略できない呉越と北漢を倒して統一事業を完成させるべく邁進した。
 978年に呉越を平和裏の内に併合した。

 翌年、979年には北漢を滅ぼして五代十国を完全に終焉させた。
 その勢いに乗って、後晋(936年 - 946年)の時代に
   契丹(遼)
に割譲されていた
   燕雲十六州
の奪回を試みたが危うく太宗も遼の捕虜になりかける北宋軍の大敗に終わった。

 その後、2度目の遼遠征にも失敗して惨敗した。
 この2度による大敗は、後年の遼や西夏の北宋侵攻を許して将来の禍根を作ることとなった。


 太宗は内政においては兄の方針を継承し、中央集権的な
   官僚体制
の整備と皇帝独裁権の強化に努めた。

 五代十国の戦乱の原因になった節度使など地方政権化した
   藩鎮体制
に終止符を打った。

 最大の地方行政区画である路に運転使を置いて行政・財政・治安など広大な権限を与えた。
 また、専売制度や税制も整備して国庫財政を豊かにした。

 こうした政策により官僚の権力が強くなり、それまで権勢を振るった宦官や外戚の権力が縮小された。

 既に趙匡胤の時代から北宋は
   文治主義
の傾向が強まっていた。
 太宗自らが学者で書家としても優秀であった。
 また、碁の腕にも優れ、詩作を好む性格から、儒学が奨励されて経書の出版が促進された。

 百科事典の編纂が命じられるなど、その傾向はさらに強まっていった。

 太宗の宮廷には学者や画家が集まり、様々な書画が収集される文化サロンを形成していった。

 ただ、周辺の遊牧民国家が虎視眈々と宋の領土を狙うなか北宋の軍隊が文治化して弱体化した。

 太宗は兵隊を社会の最下層民から雇う
   傭兵制
を採用したため、この軍隊の練度で北方や西方の異民族と対抗できなくなっていった。

 後年に北宋が異民族の侵攻に苦しめられる端緒でもある。


 皇位継承においては、亡母の遺言に従うなら太宗の弟
   趙廷美
が候補であったが、太宗は自分の3男である趙恒を後継者にした。

 このため、趙廷美に何度も反乱を起こされた。
 また、この反乱に自分の長男である趙元佐も協力しており、家庭的には余り恵まれなかったとされる。

 997年に崩御(享年59)した。
 跡を3男の趙恒が真宗として継承した。

      
   
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

    
   
    
posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月14日

趙匡胤(ちょう きょういん) 北宋の初代皇帝


趙匡胤(ちょう きょういん)

 北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)
 廟号は太祖。
 
 河北省固安県の人で父は後唐の禁軍将校
   趙弘殷
で 母は杜氏。

   
>>続きを読む
posted by まねきねこ at 08:00| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月11日

李 昪(り べん) 十国南唐の初代皇帝


李 昪(り べん)

 十国南唐の初代皇帝で廟号は烈祖と呼ばれる。
 ただ、禅譲で建国した南唐を正統の王朝として認めない立場からは先主と呼ばれている。


  
>>続きを読む
posted by まねきねこ at 07:00| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月03日

蘇逢吉(?〜950) 「静獄」と称さる後漢の政治家


  
蘇逢吉(?〜950)
 
 京兆長安(三国時代から唐代にかけて存在した郡 現在の陝西省西安市一帯)の出身
 蘇悦の子。

 唐が滅亡して五代十国時代になると、後晋を建国した石敬瑭の重臣で陀突厥の出身の
   劉知遠
が北京留守河東節度使となり着任すると、節度判官となった。

 刑獄裁判を担当して、罪の軽重や理非曲直にかかわらず、囚人をことごとく殺した。
 その行為の凄まじさもあり「静獄」と称されていた。

 劉知遠が契丹と同盟を結び、契丹軍を利用して後晋を亡ぼして、後漢が建国されると、中書侍郎・同平章事・集賢殿大学士に任ぜられ、朝廷の大事について全てを取り計らうようになった。

 権力を奪うため、宰相李ッを謀略により陥れたうえ、その一族を滅ぼした。
 また、衛州刺史葉仁魯の不法をかばうなど、非行も多かった。

 後漢末期、河中の李守貞・長安の趙思綰・鳳翔の王景崇が相次いで叛乱を起こした。
 蝗害・水害の被害が深刻となり、各地では飢饉に伴う暴動が広がり、後漢朝は混乱に陥った。

 乾祐三年(950)、郭威が兵変を起こして南下し、二代目隠帝は乱兵の中で殺され、後漢が滅亡すると、自殺した。               
   
  
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

    
  
  
posted by まねきねこ at 05:38| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月02日

赤星 親武(あかぼし ちかたけ) 加藤十六将の一人


赤星 親武(あかぼし ちかたけ)

  安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将


 肥後国菊池氏の出身といわれている。
 明治維新の西郷隆盛も菊池氏の支族の流れを汲んでいるといわれる。

 豊臣秀吉の子飼いの家臣で秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となった加藤清正に仕えた。

 加藤十六将の一人に数えられた。
 その後、清正の紹介で豊臣秀頼の直参となった。

 大坂の陣では豊臣方で戦い、大坂夏の陣において天王寺口で戦死した。
 死ぬ直前に子の道重を戦場から脱出させている。

 道重は島原の乱の一揆勢指導者で天草十七人衆の一人。
             
  
   
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

    
    
posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月20日

五百蔵 左馬進(いおろい さまのしん) 長宗我部氏の家臣


 
五百蔵 左馬進(いおろい さまのしん)

    ?−慶長20年5月6日(1615年6月2日)

 別名 桑名藤次郎

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で長宗我部氏の家臣だった。

 桑名親光の次男として生まれ、初代五百蔵左馬進が戸次川の戦いで討死した。
 その後、左馬進の娘を娶り義父と同じ名を名乗った。

 この「戸次川の戦い」合戦は豊臣秀吉による九州平定の最中である天正14年12月12日(1587年1月20日)に、島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保率いる豊臣勢の間で行なわれた九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した。

 慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いに参加したが、西軍が敗れると長宗我部軍とに従い大坂に退却した。
 その後、長宗我部家が改易となったため、浅野家の家臣浅野良重を頼って紀伊の田辺に隠棲した。
  

 大坂方と徳川方との間が険悪になる中、慶長19年(1614年)9月に
   板倉勝重
は盛親に大坂入城の是非を詰問し、盛親は「此度は関東方に味方して戦功をたて微録を得たいと念願しており、浅野長晟とも旧約を結んでいる」と答えて勝重を油断させ、僅か6人の従者と共に京都を脱出した。

 10月6日に大坂入城を果たし、これに応じて長宗我部家の再興を願う中内総右衛門を初めとする旧臣たちも入城した。
 大坂城に集結した牢人衆の中では長曾我部の勢力は最大の手勢1,000人を持った。

 大坂の陣の際に盛親を慕って入城した五百蔵左馬進だが慶長20年5月6日に藤堂高虎軍を撃破した「八尾の戦い」の渦中、盛親の馬前で討死したという。
              
   
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

    
   
posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月14日

不動産業者等が保有する資産価値の向上が目的


 
ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世
   (Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III)
               (1944年5月28日 - )

 ニューヨーク市長に就任したジュリアーニがニューヨーク市の治安回復と共に力を入れたのは、不動産業者等が保有する資産価値の向上が目的とも見られ、中心部の再開発であった。
 
 タイムズスクエアは長い間、危険な場所と認識されていた。
 犯罪が減少するにつれその利便性が見直され、同地の再開発は積極的に推進された。
 
 観光客・家族などを中心とする一般消費者が深夜まで安全に訪れることのできるエリアに生まれ変わり消費が増加していった。
 
 また、優良企業でもあるディズニー、MTVスタジオ、ABCスタジオなどが同地に移転し、不動産価格の大幅な上昇などもあり、一応の成功を収めている。
 
 また、ジュリアーニは自身でもラジオ番組を持ち、広報活動のために出演した。
 
 NY市の安全化によって観光客は増加し、税収がアップしたことで米国経済にも好影響を与えた。
 
 1997年にニューヨークを訪れた人々が使った金額は137億ドルに上り、ここから7億1000万ドルの税収がニューヨークにもたらされている。
 
    
            
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

   

   
posted by まねきねこ at 11:00| 愛知 ☔| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月11日

監獄実験の再現 



ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世
   (Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III)
               (1944年5月28日 - )

 ニューヨーク市長選挙に立候補し1993年に市長となったジュリアーニは治安の回復のため、警官を大幅に増やし、犯罪組織の温床となる収入源
   セックスビジネスの撲滅作戦
に乗り出すなど様々な手法を駆使してニューヨークの安全化に務めた。
 
 また、汚職警官を次々と告発・追放するなど、犯罪組織化していた警官の規律を正した。
 
 日本の交番制度を導入して各辻には警官が立つようになり、ハーレムの名物や出店も一掃された。
 また、風紀を正すため、オンボロで所々で火を噴いていたタクシーは新型車両に交換するようにしている。
 
 
 こうした権力的な支配の強化により、犯罪率を半減させることに成功し、全国水準より低く抑えた。
 これにより、目標は一般には達成されたと評価され、ニューヨーク市は全米でも最も安全な大都市となった。
 
 ニューヨーク市を浄化した市長として名声を博し、ギネスブックにおいても「最も多く犯罪率を削減させた市長」としてノミネートされている。
 
 
 ただ、人事評価として「検挙率の向上」が市警においては重要な課題となり、特にマイノリティ層を中心として市民的権利が警察により時に侵害されたとの批判も多く見られた。
 
 事例として白人警察官らが武器を携帯していなかったアフリカ系移民の
   アマドゥ・ディアロ
を指名手配犯と誤認し、41発もの弾丸を撃ち込み嬲り殺しにした事件で、市警の暴力や人種差別に対して聖職者や芸能界などの著名人も参加する大規模な抗議デモに発展している。
 
 その強権的な手法に批判的な市民や人権団体などから、名前のルドルフとかけて
   「ジュリアーニはアドルフ・ヒトラーだ」
と指摘され、イタリア系人のジュリアーニの苗字をファシズム理論を構築した独裁者ベニート・ムッソリーニに絡めて「マンハッタンのムッソリーニ」などの声が上がったこともある。
 
 
 ジュリアーニがニューヨーク市の治安回復と共に力を入れたのは、不動産業者等が保有する資産価値の向上が目的とも見られ、中心部の再開発であった。

   
            
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

   

   
posted by まねきねこ at 10:00| 愛知 ☔| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月04日

ジュリアーニ一族の中には警察官や消防士もいたが、犯罪者もいるなど多種多彩。

   
 
ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世
   (Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III)
               (1944年5月28日 - )
 米国の政治家で弁護士。

 両親はニューヨークに多いイタリア系移民の2世で、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリンで生まれた。
 カトリック教徒のジュリアーニ一族の中には警察官や消防士もいたが、犯罪者もいるなど多種多彩であった。
 
 なお、父親は暴力沙汰を起こし、警護が厳しいことで有名な
   シンシン刑務所
に服役している。
 
 この父親は釈放後、マフィア組織の一員として活動していた義弟が経営するブルックリンのレストランや賭博場、違法金融業の用心棒になり生活費を稼いでいた。
 
 こうした環境で育ったルドルフはマンハッタン・カレッジを準最優等で卒業。
 次いで1968年にニューヨーク大学・ロー・スクールを準最優等で修了した。
 
 ロー・スクール修了後はニューヨーク州南部地区連邦地裁で書記を務めた。
 1970年には連邦検察官に任官されている。
 
 その後は当時は民主党員として活動しながら司法副次官、司法次官の首席補佐官などを歴任した。
 
 1972年大統領選挙では民主党候補
   ジョージ・マクガヴァン
を支持した。
 
 1975年に共和党の
   ジェラルド・R・フォード政権
から司法次官補に抜擢され、民主党を離党している。
 
 
 1976年大統領選挙でフォードが敗退した際はジュリアーニも司法省を退官し、弁護士生活に戻った。
  
   
            
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

   


   

 
 
posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月02日

東明聖王


東明聖王(とうめいせいおう 동명성왕)

 高句麗の初代とされる王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)
 東明王、都慕王

 姓は高、諱は朱蒙(しゅもう)または鄒牟(すうむ)、衆解(しゅうかい)とされている。

 黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた。


 扶余の7人の王子と対立し、卒本(ジョルボン 現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に亡命して
   高句麗
を建国した。
 
 「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説では、夫余・高句麗・百済に共通して見られる出来事。

 また、日本の神武天皇の東征伝説も東明伝説に酷似した内容。

 扶余建国神話の東明と高句麗始祖の朱蒙とは活躍した時代に齟齬があり、別の人物。

 これらの伝説の特徴は王の政治的権威の源泉を天に帰属させ、同時に
   農業生産
を左右する河神の権威を主張することにある。   
            
   
  
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

    
    
>>続きを読む
posted by まねきねこ at 08:44| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月01日

ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世 テロリズムとの闘いを宣言し「世界の市長」とも称賛


  
ルドルフ・ウィリアム・ルイス・ジュリアーニ3世
   (Rudolph William Louis "Rudy" Giuliani III)
               (1944年5月28日 - )
 米国の政治家で弁護士。
 
 1994年1月1日から2001年12月31日までニューヨーク市長を務めた。
 凶悪犯罪の撲滅および市の治安改善に大きな成果を挙げたが手法が荒く非難も浴びた。
  
 米国でアルカイダ組織が実行した同時多発テロ事件発生時には大統領
   ジョージ・W・ブッシュ
と共にテロリズムとの闘いを宣言し
   「世界の市長」
とも称賛されている。
  
   
            
      ↓ 参考になったらクリックお願いします。
   
    人気ブログランキングへ
 
    

   

  
posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月08日

ダグラス・マッカーサー  北朝鮮軍と中国人民志願軍の反抗が1951年になると本格化


 北朝鮮軍と中国人民志願軍の反抗が1951年になると本格化して再び戦線を押し戻すようになった。
 
 このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国の
   海上封鎖
と蒋介石が率いる中華民国の
   国民革命軍
の中華人民共和国統治地区への上陸、中華人民共和国領となった
   旧満州に対する空爆
さらに、中国への核攻撃の必要性を主張した。
 
 しかし、トルーマン大統領は
   「核兵器を使用」
することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない世の判断からこの意見を却下した。 

  
       ↓ 参考になったらクリックお願いします。

    人気ブログランキングへ
      


   

    
posted by まねきねこ at 16:28| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月03日

兵站線の確保に苦心

   

 ダグラス・マッカーサー自身が成功率が低いと見積もっていた
   仁川への上陸作戦
は大成功に終わり、戦局は一気に逆転した。
 
 9月になると国連軍はソウルの奪回に成功し、マッカーサーの名声と人気を大きく高めた。


 その後、マッカーサーは勝利を重ねて朝鮮半島を北上した。
 
 トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。
 しかし、勢いに乗るマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていた。
 
 こうした状況判断の誤りがあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。

 その結果、中華人民共和国とソ連に過度に警戒心を抱かせ、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された
   「中国人民志願軍」
の参戦を招くに至った。
 
 その後「中国人民志願軍」は人海戦術で国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。 

    
       ↓ 参考になったらクリックお願いします。

    人気ブログランキングへ
    
  


   

  
posted by まねきねこ at 21:10| 愛知 | Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月28日

ダグラス・マッカーサー 仁川への上陸作戦


 ダグラス・マッカーサーは急遽在日米軍第八軍を援軍として派遣した。
 このほか、英国軍やオーストラリア軍を中心とした英国連邦軍も追加派遣した。
 しかし、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。

 マッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の
   仁川への上陸作戦
を提唱した。
 
 この作戦はマッカーサーが「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であった。
 
 そのため、統合参謀本部と海軍は反対で、ワシントンからはコリンズ陸軍参謀総長とシャーマン海軍作戦部長、ハワイからはラドフォード太平洋艦隊司令長官とシェパード太平洋艦隊海兵隊司令官を東京に送ってまで中止にさせようとした。
 
 こうした説得も効果なく、マッカーサーは作戦を強行した。 

    
       ↓ 参考になったらクリックお願いします。

    人気ブログランキングへ
    
  


   
   

    
posted by まねきねこ at 08:00| 愛知 | Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 

[Most Recent Quotes from www.kitco.com]