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2018年04月08日

ダグラス・マッカーサー  北朝鮮軍と中国人民志願軍の反抗が1951年になると本格化


 北朝鮮軍と中国人民志願軍の反抗が1951年になると本格化して再び戦線を押し戻すようになった。
 
 このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国の
   海上封鎖
と蒋介石が率いる中華民国の
   国民革命軍
の中華人民共和国統治地区への上陸、中華人民共和国領となった
   旧満州に対する空爆
さらに、中国への核攻撃の必要性を主張した。
 
 しかし、トルーマン大統領は
   「核兵器を使用」
することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない世の判断からこの意見を却下した。 

  
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2018年04月03日

兵站線の確保に苦心

   

 ダグラス・マッカーサー自身が成功率が低いと見積もっていた
   仁川への上陸作戦
は大成功に終わり、戦局は一気に逆転した。
 
 9月になると国連軍はソウルの奪回に成功し、マッカーサーの名声と人気を大きく高めた。


 その後、マッカーサーは勝利を重ねて朝鮮半島を北上した。
 
 トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。
 しかし、勢いに乗るマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていた。
 
 こうした状況判断の誤りがあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。

 その結果、中華人民共和国とソ連に過度に警戒心を抱かせ、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された
   「中国人民志願軍」
の参戦を招くに至った。
 
 その後「中国人民志願軍」は人海戦術で国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。 

    
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2018年03月28日

ダグラス・マッカーサー 仁川への上陸作戦


 ダグラス・マッカーサーは急遽在日米軍第八軍を援軍として派遣した。
 このほか、英国軍やオーストラリア軍を中心とした英国連邦軍も追加派遣した。
 しかし、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。

 マッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の
   仁川への上陸作戦
を提唱した。
 
 この作戦はマッカーサーが「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であった。
 
 そのため、統合参謀本部と海軍は反対で、ワシントンからはコリンズ陸軍参謀総長とシャーマン海軍作戦部長、ハワイからはラドフォード太平洋艦隊司令長官とシェパード太平洋艦隊海兵隊司令官を東京に送ってまで中止にさせようとした。
 
 こうした説得も効果なく、マッカーサーは作戦を強行した。 

    
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2018年03月21日

ダグラス・マッカーサー ソウルが北朝鮮軍に占領されショックを受ける。

 

 ダグラス・マッカーサーは北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際
   「考えたいから一人にさせてくれ」
と言い、日本の降伏から5年で平和が破られたことに衝撃を受けた。

 GHQ 外交局長だった
   ウィリアム・シーボルト
が記述した回顧録によると、マッカーサーは韓国軍は奇襲攻撃を受けて一時的にショックを受けているだけであり、それが収まれば必ず持ち直すに違いないと冷静に考え、あまり戦況を心配する様子を表に出さなかった。
 
 6月27日にマッカーサーは、朝鮮半島における米軍の全指揮権を国防総省から付与された。
 直ちに軍需物資の緊急輸送と米国の民間人救出のための船舶、飛行機の手配を行った。
 
 なお、朝鮮半島には国連軍として、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍や、ベルギー軍なども参軍展開した。

 28日にソウルが北朝鮮軍に占領された。
 
 僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き
   事の深刻さ
を再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛んだ。
 
 1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。
 北朝鮮の軍事侵攻に対処するためマッカーサーは李承晩大統領ら要人との会談を行い、マッカーサーはすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、その後前線視察を行い、兵士を激励鼓舞しすぐさま東京へ戻った。

 マッカーサーは、インフラストラクチャーが貧弱な上に、戦争により破壊された朝鮮半島に留まることを嫌った。
 その後も暮らし慣れた東京を拠点とし戦線に向かい、朝鮮半島に一時滞在するものの日帰りで東京へ戻るという指揮形態を繰り返した。

 ただ、こうした行動は現状を理解する妨げとなり、状勢判断を誤り、後に成立間もない中華人民共和国の
   人民解放軍参戦
を招く一因ともなった。

 7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓米軍、英国軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。
  
    
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2018年03月11日

ダグラス・マッカーサー 朝鮮戦争が勃発


 

 米国の国民や政治家の視線を気にせずに
   日本の占領政策
を施行できることを意味しており、共産主義を嫌う
   ダグラス・マッカーサー
は日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。
 
 なお、英国やソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点においては、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。
  

 第二次世界大戦後に南北(韓国と北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島においては、1950年6月25日に、ソ連の
   ヨシフ・スターリン
の許可を受けた
   金日成
が率いる朝鮮人民軍が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

 当時、マッカーサーは、米国中央情報局 (CIA) やマッカーサー麾下の
   諜報機関 (Z機関)
から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていた。
 
 この情報を棚上げにして朝鮮半島では軍事行動は発生しないとマッカーサーは信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。
  
    
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2018年03月07日

ダグラス・マッカーサー 候補に指名されれば大統領選に出馬

    

 ダグラス・マッカーサーは1947年からたびたび米国本国へ向かって
   日本への占領
を終わらせるようメッセージを送り続けた。

 1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。
 この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であったという。
 
 町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊った。
 日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。
 
 そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。

 マッカーサー候補はウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。
 
 6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得した
   トーマス・E・デューイ
が大統領候補に選出された。

 本選挙で大統領に選ばれたのは現職の民主党の
   ハリー・S・トルーマン
であった。
 
 なお、マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。
 
 マッカーサーは大統領への道を閉ざされた。
  
    
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2018年03月05日

ダグラス・マッカーサー 自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置くなど言論統制を強化

  

 ダグラス・マッカーサーは略装を好み、重要な場や自分より地位が高いものと同席する場合でも略装で臨むことが多かった。
 
 こうしたラフな対応について、その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともある。

 内務省は一時的に検閲を再開させたことが
   連合国軍最高司令官総司令部
の反発を招き
   東久邇宮内閣の退陣
の理由のひとつともなったといわれている。
  
   
   
 
 
 こののち GHQ は「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66) を指令した。
 
 日本政府の検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置くなど言論統制を強化した。
 また、連合国と中立国の記者のために
   日本外国特派員協会
の創設を指示した。

 連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だった。
 
 連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年の米国の大統領選挙に出馬する事を望んでいた。
 
 ただ、現役軍人は大統領になれないため、早く占領行政を終わらせ凱旋帰国を望んでいた。
  
    
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2018年03月02日

ダグラス・マッカーサー 昭和天皇とラフな姿で会談



 ダグラス・マッカーサーは1945年9月27日に昭和天皇を当時宿舎としていた
   駐日アメリカ大使館公邸
に招いて会談を行った。
 なお、この会談においてマッカーサーは昭和天皇を出迎えを行っていない。
 
 ただ、昭和天皇の退出時には、自ら玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。
 
 その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載された。
 
 このため、この写真を新聞で見た当時の国民には大きなショックであった。
  
    
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2018年02月28日

ダグラス・マッカーサー フィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸


 
 ダグラス・マッカーサーは10月23日にフィリピンの第3代大統領となる
   
セルヒオ・オスメニャ
とともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸した。
 
 フィリピンのゲリラにも助けられたものの、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で反撃を続けた。
 結果的に抵抗する日本軍の殲滅は出来なかった。
 
 この間、1944年12月に元帥に昇進した。

 1945年8月14日に日本は連合国に対し
   ポツダム宣言
の受諾を決定した。
 
 戦争終結のための調印式が、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権
   重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)
が英国や米国、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に行なわれ正式な降伏に至った。
 
 日本は米軍や英軍(イギリス連邦占領軍)、中華民国軍やフランス軍を中心とする連合軍の占領下に入った。

 なお、マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に
   専用機「バターン号」
で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。
  
    
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2018年02月26日

ダグラス・マッカーサー フィリピンへの反攻作戦



 ダグラス・マッカーサーは1942年4月18日、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する
   南西太平洋方面最高司令官
に任命され、日本の降伏文書調印の日まで、その地位にあった。
 
 
 1943年3月のビスマルク海海戦における勝利の報を聞き、第5航空軍司令官
   ジョージ・ケニー
によれば、マッカーサーがあれほど喜んだのは、ほかには見たことがないというぐらいに狂喜乱舞したという。

 このビスマルク海海戦はビスマルク海からダンピール海峡にかけての海域で、連合国軍が日本軍の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘で3000名が死亡し、爆撃機による爆撃などで輸送船団や護衛の駆逐艦が撃沈され壊滅した。

 大本営の無謀な作戦が悲劇を生んだといわれている。
 
 1944年のフィリピンへの反攻作戦については、米国陸軍参謀本部では
   「戦略上必要無し」
との判断であった。
 
 また、海軍もトップの
   アーネスト・キング作戦部長
をはじめとしてそれに同意する意見が多かった。
 
 マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。
 
 なお、マッカーサーがこの作戦をごり押しした理由としては、フィリピンからの
   敵前逃亡を行った汚名を削ぐこと
と、マッカーサー一族が多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復の2つがあったと言われている。 
 
 ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていた。
 そのため、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。
       

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2018年02月23日

ダグラス・マッカーサー フィリッピンに莫大な資産を保有


   
 フィリッピンに莫大な資産を保有していた
   ダグラス・マッカーサー
は日本軍に追い詰められた揚句コレヒドール島からの脱出を余儀なくされ
   「I shall return"(必ずや私は戻って来るだろう)」
と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出した。
 
 パイナップル畑の秘密飛行場からボーイング B-17 でオーストラリアに脱出した。

 日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。
 
 オーストラリアに逃亡したマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。
 
 なお、マッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。
       

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2018年02月22日

アムシェル・モーゼス・ロートシルト アム・マインの両替商と絹布貿易の経営者



アムシェル・モーゼス・ロートシルト
      (Amschel Moses Rothschild)

              ? - 1755年10月6日


 18世紀ドイツフランクフルト・アム・マインのゲットー(フランクフルト・ゲットー)において
   両替商
   絹布貿易
を営んだドイツ系ユダヤ人。

 モーゼス・カルマン・ロートシルト(Moses Kalman Rothschild、1735年10月19日没)の息子で妻はシェーンチェ・レクニッヒ(Schönche Lechnich、1756年没)であった。

 夫妻には8人の子どもがおり、4番目の子がロスチャイルド財閥を築いた
   マイアー・アムシェル・ロートシルト
である。

 天然痘によりフランクフルトのゲットーで1755年に死去した。
  
 ベルギーの外交官ロバート(1911-1998)は、アムシェル・モーゼスを祖先とするがマイヤー・アムシェルの家系ではないといわれる。 

    
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2018年02月20日

ダグラス・マッカーサー 中将に復帰 ルソン島に上陸した日本陸軍と戦う




 12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して奇襲攻撃を行い太平洋戦争が始まった。
 
 ダグラス・マッカーサー中将はルソン島に上陸した日本陸軍と戦うこととなった。
 
 日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機が破壊されるとマッカーサーは人種差別的発想から日本人を見下し、戦闘機を操縦しているのは日本の同盟国のドイツ人だ思い込み、その旨を報告した。
 

 大挙して進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦をとった。
 
 2ヶ月に渡って日本陸軍を相手に「善戦」していると米国本国では「英雄」として派手に宣伝された。
 そのため、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。
 
 ただ、実際には米軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しんでいた。
 兵站線が確保・維持できない状況から弾薬等の補給もままならないため、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

 ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていた。 
 
 しかし、マッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合
   米国民の士気
に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。
 
 ただ、マッカーサーはフイリッピン人のケソンの脱出には反対だった。
 
 ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえたうえ賄賂としてマッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。
 実際に脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であった。
 賄賂を受け取ったマッカーサーは仕方なく応じたといわれている。
       

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2018年02月19日

ダグラスマッカーサー 1937年12月に米陸軍を大将で退役



 ダグラスマッカーサーは1937年12月に米陸軍を退役した。
  
 後年、米陸軍に復帰してからも
   フィリピン軍元帥の制帽
を着用し続けた事はよく知られている。
 
 1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進して現役に復帰してフィリピン駐屯の米軍の極東軍司令官となり、米国が対日戦に突入後の12月18日付で大将に昇進した。

 ルーズベルトはもともとマッカーサーを嫌っていた。
 ただ、当時米国軍にはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。
 
 ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたものの、マッカーサーは大変な不満を持ったという。
 
 一度はマッカーサーが大将に就いていたことや、マッカーサーは中将なのに、同じく知り合いでもあったフィリピンを本拠地とする海軍のアジア艦隊司令長官
   トーマス・C・ハート
が大将なのも気に入らなかった。
 
 中将になってからも「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していたといわれる。
       

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2018年02月17日

ダグラス・マッカーサー 軍事予算の削減は「共産主義者の陰謀」



 フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称し
   軍事予算削減の方針
であった。
 
 ダグラス・マッカーサーはルーズベルト大統領が進めていた軍事予算の削減は
   「共産主義者の陰謀」
であると考え、大統領をあからさまに批判したため大統領の怒りを買った。
 
 1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻りフィリピン軍の軍事顧問に就任した。


 米国は自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定した。
 この為、フィリピン国民による軍が必要であった。
 
 初代大統領には
   マヌエル・ケソン
が予定されていた。
 ケソンはマッカーサーの友人であり、未来のフィリピン大統領から軍事顧問の依頼が行われたうえ
   「フィリピン軍元帥」
の称号を与えられた。
 
 この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。
 なお、この頃もアイゼンハワーはマッカーサーの副官を務めていた。

 マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていた
   マニラ・ホテル
スイート・ルームを住居として要求した。
 
 また、高等弁務官を兼任して
   高額の報酬
を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。

 また、米国資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。
 
 1936年1月17日にはマニラで米国系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加した。
 3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

 1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。
 ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れたものの、それ以後は本土へ戻らなかった。
       

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2018年02月12日

ダグラス・マッカーサー 退役軍人のデモに対し武力排除を強行


 
 ダグラス・マッカーサーは1928年(昭和3年)の
   アムステルダムオリンピック
では米国選手団を率いる団長となった。
 
 アムステルダムで新聞記者に囲まれたマッカーサーは自信満々に「我々は勝つためにやって来た」と答えたという。
 
 1930年、米陸軍最年少で参謀総長に就任した。
 それまで、このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。
 
 1933年から副官には、後の大統領となる
   ドワイト・D・アイゼンハワー
が付いた。

 1932年に、退役軍人の団体が
   恩給前払い
を求めてワシントンD.C.に居座った事件「ボーナスアーミー」で、陸軍による
   武力排除
が強行された。
 
 これは、米国政府が「退役軍人たちは
   共産党の支援
を受けてデモを起こしたのではないか」と疑念を抱いたもので、マッカーサーの計画案を許可して行われた。
 
 なお、マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。
       

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ヘンリー・リーマン リーマン・ブラザーズの創設者


ヘンリー・リーマン
     (Henry Lehman)
       1821年? - 1855年11月17日
 
 アシュケナージ系ユダヤの出身として知られる米国人の実業家
 リーマン・ブラザーズの創設者で初名はハインリヒ・レーマン(Heinrich Lehmann)

 ドイツ・バイエルン王国(現バイエルン州)のリンパーで生誕。

 1844年に米国に移住し、アラバマ州モンゴメリーに
   H・リーマン(H. Lehman)
という日用品店を扱う商会を作った。

 1847年に次弟のエマニュエル・リーマンが移住してきたので
   H・リーマン・アンド・ブラザー(H. Lehman and Bro.)
に社名を変更した。
 
 その後、1850年に末弟の
   メイヤー・リーマン
も移住してきたので
   リーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)
に社名を変更している。
 
 当時、米国南部では綿花生産が盛んで、兄弟は客から支払いでは現金の代わりに
   綿花の現物
を受け入れたことをきっかけに
   綿花取引
に経営の重点を移し、当時綿花取引の中心となりつつあったニューヨークにも事務所を構えた。

 1855年に黄熱のため長兄ヘンリーが死去した。

 残ったエマニュエルとメイヤーが経営を引き継ぎ、南北戦争で南部連合が敗戦した後、アラバマ州の復興を資金面で支え金融市場に参入していった。

 間もなく本部を綿花などの取引や金融の中心地であったニューヨークに移している。

 1870年にはニューヨーク綿花取引所が開設され、リーマンもこれに協力した。 

 エマニュエルは同取引所の取締役を1884年まで務めた。 

 この頃、リーマンは鉄道建設債券市場にも参入し、後に投資会社として主力業務となった金融アドバイザリーを開始している。
 
 なお、リーマン・ブラザーズ米国第4位の規模を持つ巨大証券会社・名門投資銀行の一つにまで成長したが、2008年9月15日に連邦倒産法第11章(日本の民事再生法に相当)の適用を連邦裁判所に申請し倒産した。世界金融危機顕在化の引き金となり倒産した。
  
   
    
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2018年02月10日

エドモンド・サフラ(Edmond J. Safra) ワイルの右腕として活躍した金融業者


エドモンド・サフラ
   (Edmond J. Safra)
      1932年8月6日 – 1999年12月3日

 シリアのユダヤ人銀行家で米国の大手金融グループ
   シティグループ
の会長サンフォード・ワイル(Sanford I. Weill)の右腕として活躍した。
 
 サフラのリパブリック銀行は、1865年に香港で創設された香港上海銀行を母体として1991年に設立された商業銀行HSBCが1999年5月に買収した。
 
 サフラ一族はオスマン帝国時代からその領内で地金取引を営んでいた。
 家族はオスマン帝国の皇帝が領内在住の外国人に対し、通商・居住の自由、租税免除、身体・財産・企業の安全など恩恵的に特権を認めたため、債務が急激に増えたため、欧州列国の意のままに第一次世界大戦等に引き込まれて帝国が滅んだ。
 
 帝国が滅ぶと安全な地域を求めてベイルートへ移り住んだ。
 
 第二次世界大戦後はミラノで成功した。
 1955年ブラジルにサフラ銀行を設立し50以上の支店をかかえるようになった。
 
 翌1956年には
   貿易開発銀行(Trade Development Bank)
を設立し、モンテカルロからマイアミまでのプライベート・バンキングを扱うようになった。
 
 ユーロダラーがインフレして交換性に影響しはじめた1966年、サフラが個人向け金融機関
   リパブリック銀行(Republic New York)
をNY市に設立した。

 1980年代アメリカン・エキスプレス(アメックス)でサフラはマーチャント・バンキング担当重役となっていた。
 
 このとき社長のワイルと組んで商業銀行の
   リーマン・ブラザーズ・クーン・ローブ
を買収し、シェアソン・リーマン・ブラザーズへ改組した。
 
 1983年アメックスがサフラが経営する貿易開発銀行を買収して、サフラが莫大な利益をあげた。
 
 1988年サフラはジュネーヴにリパブリック銀行を進出させた。
 
 サフラはこれを関連銀行と連動させて多国籍の金融帝国を拡大したが、アメックスで国際金融組織で麻薬密売益等を
   資金洗浄
が行われているというスキャンダルがおこった。

 このスキャンダルは司法当局の捜査などでは実証されなかったが、2012年HSBCの資金洗浄が報じられた。
 

 晩年、リパブリック銀行はニューヨークで預金高124億ドルを超えた。
 サフラ自身はリパブリックの3100万株(資本金で22億ドル相当、30%)を保有した。
 
 また、ジュネーヴの方でも21%を支配していた。

 これらのリパブリック銀行はアジア通貨危機から伝播して債券の暴落を引き起こす流れのなか1998年の
   ロシア財政危機
で大きな損失を出した。
 
 1999年米国司法省がロシアの犯罪組織とビッグビジネスをしている容疑でリパブリックを捜査するようになった。
 この捜査の結果、バンク・オブ・ニューヨークの口座に犯罪組織が100億ドルを保有していたことが判明した。
 
 
 1999年5月HSBCがリパブリック両行を買収すると発表した。
 同年9月にプリンストン債事件が発覚した。
 
 この事件は天才ファンドマネージャーとして一躍日本の公共放送が積極的に紹介するなどマスコミで話題になった
   マーティン・アームストロング氏
が首謀した巨大投資詐欺事件。
 
 
 アームストロング氏は、1998年のロシア危機で離れていった欧米顧客の穴を埋めるために、英国のつぶれかかったクレスベール証券(ケイマン籍のペーパーカンパニー)を買い取り、バブル崩壊で財テクの損失を隠したい日本企業の財務担当者に、プリンストン債という私募債を買わせたというもの。

 
 プリンストン債というNYのリパブリック銀行が保有する資産を担保にしたドル建て債券が発行され、米国の
   クレスベール証券(Cresvale International Ltd.)
が日本で販売していた。

 プリンストン債を使って、バブル崩壊の損失隠しを行ったともいわれる。
 
 例えばバブル崩壊で100億円の資産が半部の50億円まで下がったとする。この時価50億円の不良債権を額面100億円のプリンストン債と交換させた。
 この場合、企業の赤字50億円はプリンストン債に移転され、償還までの期限を長期の死金として維持するために10年程度と長くとっておくことで、運用がうまくいけば額面の100億円で償還できるという素人の読みで投資が行われた。

 結局、1999年9月にファンドが倒産し、アームストロング氏やクレスベール証券東京支店長などが逮捕された。
 
 日本企業から集めた巨額の資金は、アームストロング氏の豪遊生活に使われていたことが明らかになっている。
 
 高い利回りに誘われて、ブリンストン債に投資した日本企業は70社以上で総額1200億円以上に上った。
 
 内訳としては、額の多い順にアルプス電気217億8100万円、中電工130億、群栄化学工業117億9300万円、山洋電気78億4000万円、ヤクルト本社70億、アマダ60億、丸善56億2900万円、キッセイ薬品35億などといわれている。
  
   
 プリンストン債に投資していた信用組合も破綻した。 
 
 なお、企業担当者の中にはバブル時代の財テクによる巨額の損失を隠すためプリンストン債に70億円を投資、うち5億円をキックバックの賄賂として受け取っていた者までいた。

 11月30日リパブリック銀行の株主総会で買収が承認された。
 この年の12月3日、犯罪組織による口封じのためか、モナコでサフラは自宅に放火されて殺害された。
  
   
    
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posted by まねきねこ at 06:39| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月09日

ダグラス・マッカーサー 第一次世界大戦の欧州戦場においては2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章


 ダグラス・マッカーサーはレインボー師団の師団長として派遣された第一次世界大戦の欧州戦場においては2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章している

 ヨーロッパ派遣軍(AEF)の総司令官は
   ジョン・パーシング
であった。
 
 ただ、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けた。
 
 このため、部下との間に軋轢が生じることもあった。
 特にマッカーサーはこうしたパーシングの対応が気に食わずパーシングに批判的態度をとるようになっている。

 マッカーサーは戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。
       

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2018年02月08日

サンフォード・ワイル(Sanford I. "Sandy" Weill) 巨大金融帝国を作り上げたひとり


サンフォード・ワイル
   (Sanford I. "Sandy" Weill)

 1933年3月16日にNYブルックリンで生まれ、55年にコーネル大学を卒業後
   ベア・スターンズ
に入社、翌年ベア・スターンズのブローカーとなった。

 60年5月には証券会社を設立し、これが70年にCBWL・ヘイデン・ストーンとなった。
  
 72年にヘイデン・ストーン、74年にシェアソン・ハミルを買収して
   シェアソン・へイデン・ストーン
に社名を変更し、シーグラムの経営者でブロフマン一族の一人、79年に世界ユダヤ人会議会長の
   エドガー・ブロンフィマン
の一族が経営していた老舗のローブ・ローズ・ホーンブロワー(Loeb Rhoades Hornblower)と買収合併させ
   シェアソン・ローブ・ローズ
となった。

 ワイルのシェアソンは証券界でメリルリンチに次ぐ規模にまで成長した。
 
 ワイルは81年、シェアソン・ローブ・ローズを
   アメリカン・エキスプレス
に約9億3千万ドルで売却し、83年にはアメリカン・エキスプレスの社長に就任した。

 84年5月、シェアソンは
   リーマン・ブラザーズ・クーン・ローブ
と合併し、シェアソン・リーマン・ブラザーズとなった。

 86年にはワイル自身の金700万ドルを使って
   コマーシャル・クレジット
という小規模な消費者金融会社を買収して、経営を再建後IPOを実行した。

 87年には保険会社ガルフ・インシュランスを獲得した。
 88年、ワイルはプライメリカとスミス・バーニーを買収した。

 プライメリカは93年にアメリカン・エキスプレスからシェアソン・リーマンを買収した。
 さらに、プライメリカはトラヴェラーズを買収した。

 ワイルは、スミス・バーニーとシェアソン・リーマンを合体させて
   スミス・バーニー・シェアソン
と改称したうえリーマン・ブラザーズを分離した。
 なお、リーマン・ブラザーズは94年にプライメリカから独立したのち倒産し、世界の金融不安を引き起こした。

 ワイルが会長となったトラヴェラーズは97年に
   ソロモン・ブラザーズ
を約90億ドル買収した。
  

 このソロモンの会長には世界最大の投資持株会社である
   バークシャー・ハサウェイ
の筆頭株主で「オマハの賢人」とも称される
   ウォーレン・バフェット
が就任している。

 さらに1998年にスミス・バーニー・シェアソンとソロモンを合体させてソロモン・スミス・バーニーが発足した。

 そして、98年4月、トラヴェラーズがシティコープとの合併を発表し、10月8日にこの合併は完了、世界最大の金融機関シティグループが誕生した。

 シティコープ会長だったジョン・リードとワイルが共同会長に就任した。
 このころのワイルの年収は300億円で米報酬額トップだった。
  
   
    
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posted by まねきねこ at 02:38| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 

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