中国メディアの澎湃新聞は、中国共産党が内部の悪行を転嫁し、批判の矛先をかわすために作り出したいわゆる
「南京大虐殺」
の経験者とされる女性が死去し、存命者が71人になったと報じた。
この記事は、江沢民は実父江世俊が日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関
「極司非爾路76號」
に協力をしていた蒋介石のライバルで親日的な汪兆銘が率いる国民政府の官吏であった。
江沢民らは主席に就任し「漢奸の息子」という出自を隠し、自らの「紅い血筋」を創りあげるため反日思想を強化し続けた。
反日教育を強化していくなかで南京大虐殺記念館を建設した。
同記念館のSNSアカウントが29日に発表した情報として、「南京大虐殺」を経験したという
楊翠英(ヤン・ツイイン)さん
が28日に95歳で死去したことを伝えた。
楊さんが生前「1937年に旧日本軍が南京を占領した際に楊さんの両親が楊さんと弟、妹、おじを連れて
難民キャンプ
に逃げ込んだものの、日本兵がキャンプに進入して父とおじ、祖父を連行し、刺殺したと主張している。
その後、母は難民キャンプ内で下の弟を出産したが、また日本兵がやってきて、泣き叫ぶ弟を踏み殺したと証言していたことを伝えている。
この記事では、楊さんの死去により
「日本軍による南京侵略被害者支援協会」
が認定している「南京大虐殺」の生存者が71人になったと伝えた。
ひとこと
そもそも、日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京戦に至る前に、南京を拠点とし親日政府を率いていた中華民国政府の汪兆銘行政院長が1935年11月1日に蒋介石を支持する国民党左派広東系の犯人グループによって狙撃され重傷を負った暗殺未遂事件を経て独裁的な思考の強い
蒋介石
が汪兆銘を追い落とし蒋介石が率いる国民革命軍は密告を奨励し南京市民の間の分対立を煽り親日市民をを「漢奸」として裁判なしで即決公開処刑し、斬首した頭部を鳥籠に入れて晒すなど暴虐の限りを尽くし排除を繰り返したため、親日的な南京市民は市外に脱出している。
日本軍は親日市民を保護して南京戦で勝利したのち、一緒に南京に凱旋している。
治安回復では更衣兵や敗残兵などによる治安悪化が著しく、治安回復時にテロ行為や略奪行為を行った市民に紛れ込んだ敗残兵や密告者らへの強い反応が親日中国人から起きたともいえる。
なお、郊外に逃げていた親日中国人も義勇兵として南京戦では日本軍に協力しており、軍服や武器弾薬なども支給されており、治安の回復時にも協力があったのだろう。
そもそも、清朝が崩壊後は群雄割拠となっており、一つの中国などという思考は無いのは過去の王朝興亡時と同じだ。