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2025年11月13日

自動車の下取り額がローン残高を下回る「逆ざや」状態に陥るケースも増加

 調査会社エドマンズ・ドット・コムによれば、新車購入時に下取りに出す車のうち、査定額がローン残高を下回る「ネガティブエクイティー」の割合は7−9月(第3四半期)に28%強に達した。
 2021年1−3月(第1四半期)以来の高水準となった一方で、米国では新車の平均価格が9月に初めて5万ドル(約770万円)を突破した。

  
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内需の拡大により、景気回復を目論む決意すらない愚かさ

 米政府機関の閉鎖が近く解除されて米景気の減速懸念が和らぐとの見方から前日終値比で一時0.6%安の155円04銭まで売られた。
 ただ、高市首相が国内産業、特に内需の拡大により、景気回復を目論む決意すら感じられず、輸出主導の企業を優先した取り組みばかりが目立っている。
 10月30日以降下げ止まっていた154円50銭付近を抜け、下げが加速し年末にかけて原油・穀物・鉄鉱石・石炭・天然ガスなどといった輸入物価の上昇でインフレが更に進むが、統計の数値が隠れインフレのままで放置した日銀の経済統計では表に出ることはない状況でインフレと言わないだんまり状態が続いている。
 このままでは日本国民が蓄えてきた資金の流出が加速する動きを放置し続け、安倍政権、小泉政権など与野党政治家の政権が行ってきた財政改革を旗頭にした民営化、規制緩和、事業仕分けといった政策の継続で米国政府の忖度ばかりがマスコミを利用した正義として刷り込稀てしまっている。
 TVのクイズ番組や世界の常識などと言ったものから外国人に聞いた情報などパブロフの犬の如き日本国民を量産化しているに過ぎないものだ。
 円売りの要因として、日銀の早期利上げ観測が後退していることも要因のひとつだ。
 政府サイドから利上げをけん制するような動きが相次ぎ、スワップ市場が織り込む12月の利上げ確率は約40%にとどまっている。
 政府は経済財政諮問会議の民間議員に、積極的な金融緩和を主張するリフレ派の
   若田部昌澄前日銀副総裁
と、第一生命経済研究所の首席エコノミスト
   永浜利広氏
を起用したことも国民資産の消耗を加速させる問題のひとつであり、民間議員の片寄りが見られる

  
ひとこと
 機関投資家が投資効果を無視して企業内部に資金を積みますことが利益相反となっている問題を放置すべきではない。
 投資に見合った配当金の支払いや投資資金の回収を強化し、投資企業に派遣した役員等が私益として流用させている問題等もあり、役員報酬の低さと累進課税の高さなど税制を含めて改善すべきであり、配当金の源泉徴収税率は10%に引き下げるべきだ。
 企業経営者の卑しさを助長するような社用費を流用を遮断するのも必要であり、基礎控除等の引き上げで生活保護世帯の補助が年金世帯よりも高いのがそもそも問題であり、年金制度を消費税と一体化し課税は止めれば良い。
 政治家の数が米国から比較すれば人口比でいいえば、参議院は各都道府県3人として141人、秀吟は300人程度まですべきであり、たかが1割の削減では代議士の特権を維持するものでしかないだろう。
 
   
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2025年11月12日

イギリスの組織犯罪

イギリスの組織犯罪はオランダのペノーズやフランスのミリューと同様に、伝統的に、
   多数の違法ビジネス
に関与する国内の組織犯罪グループによって支配されてきた。
 犯罪組織は英国に起源を持つさまざまな民族的背景を持つ。
 その中で最も支配的なのは依然として白人イギリス人グループである。
 英国全土には
   約7,500の異なる組織犯罪グループ
が存在し、犯罪と収益損失で
   1日あたり1億ポンドの損害
を与えていると言われている。
 1978年、英国とスペインの間で100年続いた犯罪人引渡し条約が失効した。
 1985年に条約が置き換えられた頃には、スペイン南岸のコスタ・デル・ソルは英国在住の犯罪者や逃亡者の拠点となっており、
   「コスタ・デル・クライム」
という言葉すら生まれている。
 2006年には、スペインで逃亡中の英国法執行機関に指名手配されている犯罪者を拘束するための複数機関による作戦
   オペレーション・カプトゥーラ
が開始され、 2019年6月までに96人の逃亡者がリストに載ったが2020年2月までに10人を除く全員が逮捕された。
 イギリス人、特にリバプール人の麻薬密売人は、1980年代初頭からオランダで活動している。
 アムステルダムの英語圏の麻薬密売人の間で3件の殺人事件が発生した後、警察は1992年7月に捜査チームを設置した。
 捜査により、市内で活動する約150人の主にイギリス人の麻薬売人のネットワークが明らかになった。
 コロンビアやオランダの卸売業者から仕入れたコカイン、ハシシ、合成麻薬を消費地であるイギリス、スカンジナビア、オーストラリア、アメリカに持ち込み密売していた。
 オランダは麻薬密売の物流拠点としての地位にあるだけでなく、イギリス人逃亡犯の避難所にもなっている。
 その理由としては、確立された犯罪ネットワーク、言語の壁が低いことやイギリスとの文化的類似性などが挙げられている。
 1990年代、イギリス人の犯罪者や逃亡者が東南アジアのタイで活動を始めた。
 タイは物価が低く、偽造ビザや渡航文書が簡単に手に入り、
   警察の汚職が蔓延している国
であり、偽造品取引に携わるイギリス人駐在員にとって、比較的リスクのない犯罪活動の場となっている。
 イギリス人もタイでミャンマーやラオス等の大麻生産国に近く、麻薬取引やマネーロンダリングに関与している。
 イングランドとスコットランドの犯罪グループ、アイルランドの ギャング、トルコ系キプロス人(アリフ家など)の起源は、治安が悪く貧しい白人労働者階級の地域に広がっている。
 これらの犯罪グループは主に家族経営の組織犯罪グループで、それぞれの地域で多くの違法行為に関与している。
 なお、外国人ギャングの流入や少数民族で構成される国内のギャングの台頭にもかかわらず、英国の白人グループは依然として法執行機関にとって大きな懸念事項のままであり、英国の主要都市で活動している。
 土着の犯罪組織は、主に地元の犯罪者の大家族を中心に構成されている。
 ロンドンの犯罪組織は伝統的にイーストエンド・オブ・ロンドンに集中しておいる。
 なかでも、悪名高いクレイ兄弟が最も有名である。
 彼らは一卵性双生児の兄弟で、1950年代後半から1967年にかけて活動した組織犯罪者であった。
 クレイ兄弟は、
   ザ・ファーム
として知られるギャング団とともに、殺人、武装強盗、放火、みかじめ料、賭博、暴行に関与していた。
 1960年代の絶頂期には、ロンドン社交界の著名人と交流した。
 デイヴィッド・ベイリーに写真を撮られ、テレビでインタビューを受けるなど、ある程度の有名人としての地位を獲得した。
 当時、サウスロンドンは
   リチャードソン・ギャング団
によって支配されており、彼らはクレイ兄弟の直接のライバルとみなされていた。
 「拷問ギャング」としても知られる彼らは、ロンドンで最もサディスティックなギャング団の一員として悪名が高かった。
 彼らの特技には、ペンチを使って歯を抜いたり、ボルトカッターを使って足の指を切断したり、6インチの釘を使って被害者を床に釘付けにしたりすることが含まれていた。
 イーストエンドの再編と、その地域への継続的な移民の流入により、伝統的な
   コックニーの不アミリー
は拠点をサウスロンドン、ノースロンドンの一部(主にイズリントン)、ロンドン周辺の郡(エセックスやケントなど)に移した。
 労働者階級の近隣には、麻薬密売、恐喝、売春、武装強盗、殺人、マネーロンダリング、偽造、誘拐に関与する家族ベースの犯罪グループの本拠地が依然として残っている。
 サウスロンドンの悪名高い犯罪組織には、
   ブリンドルズ
   ウォーカーズ
などがあり、
 なかでも、アリフ家はロンドンの南東部の近隣で最も悪名高い犯罪組織となっている。
 デイヴィッド・ハントが率いる
   ハント犯罪シンジケート(別名カニング・タウン・カルテル)
は、ロンドン最大の犯罪組織の一つである。
 ロンドン警視庁の情報筋はハントを「壊滅させるには大きすぎる」と評しており、これまでのところ法執行機関の介入を免れている大規模な犯罪帝国を運営している。
 このシンジケートは、暴力、詐欺、売春、マネーロンダリング、殺人と関連している。
 2016年には、ハントを捜査していた3人の警察官を暗殺する計画の詳細がBBCのパノラマのエピソードで詳細に明らかにされた。
 100万ポンドの契約で、ハントはヤーディーの殺し屋
   カール「ザ・ドレッド」ロビンソン
をマルベーリャのボートに呼び出し、警察官を殺害するよう指示した。
 対象となった刑事たちは彼らに対する契約があることを密告されていた。
 ただ、上司はこれを捜査する代わりに、3人の警察官を停職処分にして
   汚職の疑い
で捜査した。
 その後、彼らは不正行為の疑いからは解放された。
 ロンドンの犯罪組織としてよく知られているもうひとつは、イズリントンの
   クラーケンウェル犯罪シンジケート
で、別名「アダムス・ファミリー」とも呼ばれ、1980年代、
   テレンス・「テリー」・ジョージ・アダムス
は、兄弟の
   トーマス・「トミー」・ショーン・アダムス
   パトリック・「パッツィ」・ダニエル・ジョン・アダムス
とともに、それぞれ資金提供者と執行者としてシンジケートを結成した。
 兄弟はアイルランド人の両親のもとに生まれ、イズリントンのバーンズベリーで育った11人兄弟の大家族の一員だった。
 彼らは英国で最も強力な組織のひとつとされている。
 メディアの報道によると、彼らの資産は2億ポンドに上るという。
 ロンドンの犯罪組織はより地域的であるが、マネーロンダリングや麻薬密売、特にコカインやエクスタシーの取引において国際的に活動することもある。
 リバプール・マフィアは、リバプール市を拠点とする非公式の麻薬密売カルテルの一種とされる。
 1970年代後半、犯罪ボス
   トミー・「タッカー」・カマーフォード
が英国初のカルテルを結成し、
   「リバプール・マフィア」
として知られるようになった。
 白人の中年の元武装強盗団の集団は、腐敗した港湾職員を使い、腐敗した警察に保護され、リバプール港から大量のアンフェタミン、大麻、コカイン、ヘロイン、LSDを密輸していた。
 リバプール・マフィアは、1981年の
   トクステス暴動
の後、若い黒人ギャングとの戦略的同盟を仲介することで勢力を拡大し、英国で最も裕福な犯罪グループとなった。
 カルテルはIRA、特にリバプール周辺で20件以上の麻薬関連の暗殺に関与したとされる
   準軍事組織「クリーナーズ」
と呼ばれる殺人請負組織と密接な関係を築くことで、その権力基盤を守っていた。
 リバプールのマフィアは長年にわたりいくつかの強力なグループを抱えており、そのうちのいくつかは協力し、あるいはさまざまな時期にカルテルの支配権をめぐって争ってきた。
 最も著名な人物や組織としては、
   カーティス・ウォーレン
   ジョン・ハーゼ
   フィッツギボンズ
   ヒュートン商会
   クラーク家
   コリン・「スミガー」・スミス
などがあげられる。
 かつてインターポールのターゲット・ナンバー1だったカーティス・ウォーレンは、ヨーロッパ最大の麻薬王の一人となっており、大陸に麻薬を氾濫させた。
 推定個人資産が2億ポンドを超える
   コリン・スミス
は、ポンプアクション式ショットガンで至近距離から処刑された。
 警察は、彼の暗殺が
   コロンビア・カルテル
が英国で認可した最初の暗殺だと推測している。
 また、スミスを殺してビジネスを乗っ取ろうと話し合っていたリバプールの
   トップ・ギャング
の何人かが彼の殺害を命じたとも報じられている。
 リバプール市内の組織犯罪と麻薬密売は現在、主に、1990年代に結成された
   ヒュートン・ファーム(別名キャントリル・ファーム・カルテル)
と呼ばれる秘密カルテルによって支配されている。
 ヒュートン・ファームはリバプールのヒュートン地区出身の2人の兄弟によって運営されている。
 このギャングは英国中にコカインを氾濫させ、リバプール中で
   深刻な暴力行為
を引き起こしてきた。
 彼らは国際的に活動しており、アイルランド、ロシア、北アフリカのヨーロッパの重要な犯罪組織と同じサークル内に存在している。
 英国の捜査機関
   国家犯罪庁
は、20年以上彼らに有罪判決を下そうとしている。
 マージーサイド警察の上級刑事は、兄弟はマージーサイドの主流の犯罪者とは異なるレベルで活動していると述べた。
 2002年、リバプール市内中心部の
   クリストファー・「バスター」・ブレイディ
という若い男性が、スペイン南部のギャングのために働きに行った。
 同年後半、彼の遺体がベナルマデナ近くの砂利の海岸に打ち上げられた。
 この男は
   カントリル・ファーム・カルテル
のために働く執行官たちに捕まり、拷問を受け、窒息させられ、下肢を切断されていたと噂されている。
 ロンドンの犯罪組織とは対照的に、リバプールの犯罪グループは領土的ではなく、より国際的に活動している。
 リバプールの犯罪グループの主な収入源は、イギリス本土やスペイン、ポルトガル、オランダなどの国へのコカインとヘロインの密売である。
 武器の密売や殺人契約も好んで行われる活動である。
 リバプールの犯罪グループは、アイルランドの犯罪シンジケートやリアルIRAと密接な関係を築いてきた。
 リバプールのギャングは
   縄張り意識が強い
というよりは
   企業家精神に富む傾向
があり、異なる派閥が複数の犯罪活動で協力することが多いとされ、組織犯罪に対するより
   地域的な統制
に関しては互いに衝突することもある。
 リバプール・マフィアはかつて市内で活動する白人系イギリス人犯罪組織やカルテルを指していた。
 しかし、現在ではリバプールの黒人コミュニティであるトックステスで活動する強力なギャングも含むようになった。
 いくつかの白人系犯罪組織と、
   ブラック・コーカス
と呼ばれるトックステスを拠点とするギャングの間で戦略的同盟が結ばれると、
   カーティス・ウォーレン
が率いるギャングを含むいくつかの黒人ギャングが勢力を拡大した。
 街頭犯罪から白人ギャングが活動し支配する組織犯罪へとステップアップしていった。
 リバプールの組織犯罪「企業」は、国内および国際レベルで活動している。
 主に麻薬取引に焦点を当てているが、他の形態の犯罪も行っている。
 リバプールの犯罪グループはオランダでの麻薬密売でよく知られており、アイルランド、英国、さらには地中海のリゾート地での違法薬物の流通ネットワークは、現在、マルベーリャやイビサなどのリバプールのさまざまなギャングによって支配されているとも言われている。
 ロンドンと同様、グラスゴー市は麻薬密売、武器密売、恐喝、誘拐、スクラップ取引、殺人に関与するスコットランドの犯罪組織の本拠地である。
 グラスゴーの犯罪組織の代表例としては
   アーサー・トンプソン
   トーマス・マグロー
のシンジケートなどがある。
 グラスゴーのギャングの性質としては、アイルランドから持ち込まれた宗派主義の影響もある。
 グラスゴーの犯罪組織は、
   ダニエル一家
   ライオンズ犯罪一家
の間の復讐のように、暴力的な抗争に巻き込まれることが多いという。
 イギリスの白人系犯罪組織はイギリスの他の多くの都市でも活動しており、ニューカッスル、ノッティンガム、マンチェスターなどがその中心地として知られている。
 ロンドン、リバプール、グラスゴーなどのよく知られた地域以外では、マンチェスターのヌーナンズやニューカッスルのセイヤーズなどの組織が活動している。
 トッテナム・マンデムやチーサム・ヒルビリーズなどのイギリスの
   黒人ストリートギャング
は、一般的に伝統的なイギリスの犯罪組織の一部とはみなされておらず、
   労働者階級の地区のイギリスの白人の犯罪組織
とより関連している。
 それでもイギリスの黒人ストリートギャングはイギリスの裏社会で活発に活動し
   アダムス一家
などの白人の組織とつながりがある可能性も指摘されている。
◯英国を拠点とする組織犯罪グループ
 ・ヒュートン・ファーム(Huyton Firm)
 ・ヘルバニアンツ(Hellbanianz)
 ・ライオンズ犯罪一家(Lyons Crime Family)
 ・クラーケンウェル犯罪シンジケート(Clerkenwell crime syndicate)
 ・ハントシンジケート(The Hunt syndicate)
 ・クレイ兄弟(The Kray Twins)
 ・リチャードソンギャング(The Richardson Gang)
 ・カーティス・ウォーレン・カルテル(Curtis Warren Cartel)
 ・マグロウ・ファーム(McGraw firm)
 ・ヌーナン・ファーム(Noonan firm)
 ・アリフ家(Arif family)
 ・リバプールマフィア(Liverpool Mafia)
 ・ピーキー・ブラインダーズ(Peaky Blinders)
 ・チータム・ヒルビリーズ(Cheetham Hillbillies)
 ・ウーリッジ・ボーイズ(Woolwich Boys)
 ・ホイットニー・ギャング(The Whitney Gang)
 ・ジョン・ハース・ファーム(John Haase firm)
 ・フィッツギボンズ(The Fitzgibbons)
 ・クラーク家(The Clarkes)
 ・ケネス・ノイエ・ファーム(Kenneth Noye firm)
 ・シンジケート(The Syndicate)
 ・バーミンガムボーイズ(Birmingham Boys)
 ・チャールズ・サビニ・ギャング(Charles Sabini Gang)
 ・エレファント・アンド・キャッスル・モブ(Elephant and Castle Mob)
 ・ホワイト一家(The White Family)
 ・ビリーヒル・ファーム(Billy Hill Firm)
 ・ジャック・“スポット”・カマーのギャング(Jack “Spot” Comer’s Gang)
 ・スカトラーズ(Scuttlers)
 ・モホック(Mohocks)
   
   
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2025年11月10日

外国為替投資家にとって、全体的に弱い今年のリターンは、今後数カ月にわたって市場に影響を及ぼす可能性

 スコシアバンクのチーフ通貨ストラテジスト
   ショーン・オズボーン氏
は今週のリポートで、「今年は外国為替投資家にとって総じて厳しい年になりつつある」とバークレイヘッジの指数を引用して指摘した。
 同指数は為替先物やキャッシュフォワードを取引する25の通貨プログラムを追跡する。
 「全体的に弱い今年のリターンは、今後数カ月にわたって市場に影響を及ぼす可能性がある」と述べ、リターンの低迷が続くようなら、トレーダーは「リスクポジションを拡大することに一段と慎重になる」だろうと続けた。
 主要経済データの欠如が追い打ちをかける前から、為替トレーダーは既に厳しい局面に見舞われていた。
 関税を巡る混乱の中、長年維持されてきた複数の相関関係が崩れ、市場は追跡が難しい資金フローやヘッジ戦略の変化に左右されるようになった。
 その結果、多くの投資家がポジションを縮小し、慎重な姿勢を強めた。世界で最も取引量の多い通貨ペアである
   ユーロ・ドル相場の先行き信頼感
を示す指標は、過去最低水準に近づいている。
 こうした中、資金フローに関する独自の分析指標に加え、
   ADPリサーチ・インスティテュート
   米供給管理協会(ISM)
などの民間データが、これまで以上に重要な役割を果たしている。
  
   
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2025年11月06日

第二次マフィア戦争(Second Mafia War)

第二次マフィア戦争(Second Mafia War)は、1981年から1983年にかけて
   シチリア・マフィア
を巻き込んだ紛争の期間の出来事で
   大マフィア戦争
   マッタンツァ(イタリア語で「虐殺」)
とも呼ばれるこの戦争は、マフィア全体を巻き込み、組織内の勢力バランスを根本的に変えた。
 マフィア内部の暴力に加え、裁判官、検察官、刑事、政治家、活動家、その他イデオロギー上の敵対者に対する意図的な暗殺運動など、国家に対する暴力も発生した。
 この戦争は、構成員の間の暴力的消耗戦が広がり無節操な殺戮が繰り返されたためイタリア国民の怒りが強まり、マフィアに対する大規模な取り締まりをもたらした。
 多くの友人や親族を戦闘で失った後、当局に協力した
   ペンティティ
と呼ばれるマフィア組織の内部からの支援も増加したた。
 事実上、この紛争はマフィアの秘密主義に終止符を打った。
これまでの出来事
 第二次マフィア戦争の扇動者は、コルレオーネ町出身のマフィア・ファミリー
であったが、他の多くのマフィア・ファミリーの支援も受けていた。
 小さな田舎町出身のコルレオーネシは、他のマフィア・ファミリー、特に首都パレルモの有力な都市化ボスたちからは、しばしば「農民」(シチリア語で「イ・ヴィッダーニ」)と呼ばれていた。
 1960年代、残忍で野心的な
の指揮の下、コルレオーネシの権力と名声が高まり、状況は変化し始めた。
 レッジョは、かつてのボス、
を射殺するという粗野ながらも効果的な手段で、コルレオーネのボスに就任した。
 1960年代のマフィア裁判が有罪判決をほとんど出さずに終わった。
 その後、1970年代、シチリアのマフィアは、通常の違法ビジネスを再開した。
 コルレオーネシの主なライバルは、
で、彼らはパレルモの様々な有力マフィア・ファミリーのボスであった。
 シチリア・マフィア委員会は1970年に再設立された。
 ボンターデバダラメンティは委員会の3人のリーダーのうち2人を占めた。
 3人目はレッジョであったが、レッジョはイタリア本土に潜伏していたため、
が代理を務めていた。
 レッジョは、1974年にレッジョが逮捕されて以降、腹心のトト・リーナが会議に出席することが多かった。
 リーナ
と共に徐々にコルレオーネシの実権を握っていった。
 これと同時に、コルレオーネシは他のマフィア・ファミリーからも支持を獲得し始めた。
 コルレオーネシと同盟を結んだ者の中には、パレルモ・ポルタ・ヌオーヴァのボス
コルソ・デイ・ミッレのボス
   フィリッポ・マルケーゼ
パルタンナ・モンデッロのボス
などがいた。
 1978年、リーナはバダラメンティを委員会から追放することに成功した。
 バダラメンティはヴァレルンガのボスでありコルレオーネシの盟友であった
   フランチェスコ・マドニア
の暗殺を企てたとして告発された。
 その後、マフィアとシチリア島から追放された。
 バダラメンティの後任には、同じくリーナと同盟を結んでいたチャクッリのゴッドファーザー
が就任した。
 グレコカロ、マルケーゼ、リッコボーノと同様に、ボンターデインゼリーロといった人物から同盟関係を秘密にしていた。
 1978年、リーナはリージとカターニアのボス、ジュゼッペ・ディ・クリスティーナとジュゼッペ・カルデローネの殺害を画策した。
 二人はボンターデインゼリーロの盟友であり、後継者たちもリーナの盟友であり、リーナは彼らを後援していた。
 徐々に、パレルモのボスとその手下たちは孤立していった。
 1981年4月23日の夕方、ステファノ・ボンターデはアルファロメオ・ジュリエッタで帰宅途中、パレルモ郊外で暗殺者に待ち伏せ攻撃で殺害された。
 彼はコルレオーネシの暗殺者
に射殺された。
 グレコはジュゼッペ・ルッケーゼが運転するホンダCBのバイクの座席から、AK-47で彼を射殺した。
 数週間後の5月11日、サルヴァトーレ・インゼリーロは恋人の家の前で、AK-47アサルトライフルとショットガンで武装した3人の殺し屋に殺害された。
 その後、二人の親族や関係者の多くが殺害されたり、跡形もなく行方不明になったりした。
 その中には、殺害された父親の復讐を誓ったために残酷な拷問を受けた後、殺害されたインゼリーロの10代の息子も含まれていた。
 同年9月29日、ボンターデインゼリーロもう一人の側近、
   カロジェロ・ピッツート
が、混雑したバーで、罪のない通行人2人と共に射殺された。
 バダラメンティは1970年代後半にコルレオーネシによって追放された後、シチリア島から逃亡することでようやく生き延びることができた。
 その後2年間、殺人事件はさらに増加した。
 1982年11月30日、パレルモで12人のマフィアが12件の別々の事件で殺害された。
 殺人事件は大西洋を越え、インゼリーロの兄弟の1人が米国に逃亡した後、ニュージャージー州で遺体で発見された。
 バダラメンティの甥の1人のバラバラ遺体はドイツの野原で発見された。
 コルレオーネシとその同盟一族が操る多くの殺し屋の中には、チャクッリ出身の
もいた。
 ジュゼッペ・グレコは、叔父のミケーレ「教皇」グレコが率いるチャクッリ一族の一員であったが、主にリーナの指示下に置かれていた。
 ジュゼッペ・グレコは、ボンターデやインゼリッロを含む約80人をリーナのために殺害した疑いがある。
 彼は
   マリオ・プレスティフィリッポ
   ジュゼッペ・ルケーゼ
   ジュゼッペ・ジャコモ・ガンビーノ
   ヴィンチェンツォ・プッチョ
   ジャンバティスタ・プララ
   アントニーノ・マルケーゼ
 コルソ・デイ・ミッレのボスである
   フィリッポ・マルケーゼ
 そして1月に逮捕された甥でアントニーノ・マルケーゼの弟
を含む「死の部隊」を率いた。
 1981年から1984年にかけて、パレルモでは少なくとも400人のマフィアによる殺害があった。
 シチリア全土でも同様の殺人事件があった。
 さらに、少なくとも160件のマフィアとその仲間が行方不明になった事例があった。
 彼らは、遺体を完全に破壊するか、決して発見されないよう埋める
と呼ばれる行為の犠牲者であった。
 コルレオーネシとその仲間たちは、この戦争で圧倒的な勝利を収め、犠牲者はほとんど出ていない。
 その理由の一つは、彼らの生来の秘密主義が影響していた。
 一部のマフィアは、世間体を気にせず堂々と生活していた。
 ただ、リーナプロヴェンツァーノレオルカ・バガレッラ、そして多くの殺し屋たちは、長年逃亡生活を送り、仲間のマフィアはもちろん、ましてや一般の人々に見られることはほとんどなかった。
 多くのボスがコルレオーネシと手を組んでいた。
 にもかかわらず、他のマフィアには告げていなかったという事実があった。
 そのため、コルレオーネシの敵から不当な信頼を得続け、この戦争を有利に進めることが出来た。
 5月下旬に起きた典型的な事例は、ボンターデインゼリーロのマフィア・ファミリーの構成員6人が、友人とされる人物との会合に招かれたというものがある。
 この「友人」は実際にはコルレオーネシと手を組んでおり、同行した6人は姿を消した。
 その中には、ボンターデの古くからの盟友である
のもとに身を寄せていた
   エマヌエーレ・ダゴスティーノ
も含まれていた。
 リッコボーノもまたコルレオーネシと密かに手を組んでおり、ダゴスティーノとその息子も同様に抹殺された。
 6人のうち唯一生き残ったのは
   ルヴァトーレ・コントルノ
だった。
 コントルノはその後、殺人未遂事件に巻き込まれながらも生き延び、1982年3月に警察に逮捕されるまで潜伏していた。
 逃亡中、コントルノは警察に匿名の手紙を送り、戦争に関する重要な情報を提供した。
 これは当局にとって非常に貴重な情報となった。
 当局は、敗北した一族と同様に、この流血事件の真相をほとんど把握していなかった。
 マフィアは普段から
   非常に秘密主義的
なのは明らかで、第二次マフィア戦争当時、当局は
   戦争の正確な同盟関係や動機
を把握できずにいた。
 例えば、ボンターデが殺害された際、警察はしばらくの間、インゼリーロによる裏切りで殺害されたと考えていた。
 なお、結局彼自身も殺害された。
 コルレオーネシもまた、
   意図的な偽情報工作
を行っていた。
 インゼリーロが死亡した際、彼は3年前の
   ジュゼッペ・ディ・クリスティーナ殺害
の容疑で指名手配されていた。
 しかし、実際にはコルレオーネシがディ・クリスティーナを殺害し、彼に罪を着せるために、インゼリーロの縄張り内で意図的に殺害した。
 1982年末までに、コルレオーネシとその同盟者たちはほぼ勝利を収めた。
 旧一族の生き残りの多くが降伏し、勝利者側に忠誠を誓った。
 ただ、殺戮はこれで終わらなかった。
 コルレオーネシは主要な同盟者たちの抹殺を決意した。
 まずロザリオ・リッコボーノが1982年末に20人以上の仲間や友人と共に殺害された。
 続いてフィリッポ・マルケーゼも殺害された。
 マルケーゼは、彼の手によって殺害された多くの人々と同様に、絞殺され、酸で溶かされた。
 コルレオーネシの裏切りと、マフィア全体における
   覇権確保への欲望
の結果、暴力は1980年代後半まで続いた。
 リッコボーノとマルケーゼは1983年初頭には既に排除されていた。
 その後も殺人事件が続き、主にチャクーリの殺し屋として
   マリオ・プレスティフィリッポ
   ヴィンチェンツォ・プッチョ
のほか、ボンターデからリーナへと寝返った
が関与した。
 この4人は1980年代前半を通してコルレオーネシにとって非常に貴重な存在であり、合わせて文字通り数百件もの殺人を成し遂げた。
 しかし、1985年から1989年の間にかけて、コルレオーネシのボスたちの命令で全員殺害された。
 ボスたちは、彼らの役目を終えたと見なし、あるいは野心が強すぎて脅威とみなした背景がある。
 プッチョの二人の兄弟もマフィアの一員であり、同様に殺害された。
 当局は、1989年10月にアゴスティーノ・マリーノ・マンノイアの弟
によって確認されるまで、マフィアという閉鎖的な世界におけるこうした新たな出来事についてほとんど把握していなかった。
 マンノイアは1985年から
   ヘロイン密売
で投獄されていたが、定期的に面会に訪れた
   アゴスティーノ
から事件の最新情報を得ていた。
 フランチェスコ・マンノイアによると、プッチョの弟
   ヴィンチェンツォ・プッチョ
とプッチョの二人の兄弟は、リーナによってプッチョ転覆を企てていたことが発覚した後に殺害されたという。
 ジュゼッペ・グレコとマリオ・プレスティフィリッポは、野心が強すぎたために殺害されたとみられる。
 マンノイアから表に出た情報は、1992年に
   レオナルド・メッシーナ
を含む複数のペンティーティによって確認された。
 1980年代半ばのペンティーティとは異なり、これらの男たちは第二次マフィア戦争の勝利側であり、かつてコルレオーネシの盟友だった。
 彼らは皆、リーナをはじめ​​とするコルレオーネシのボスたちが、役に立たなくなったり潜在的な脅威とみなされたりした盟友を見捨てたり、排除したりしたと、同じ不満を漏らしていた。
 リーナの盟友として生き残る唯一の方法は、彼の言うことを忠実に守ることだった。
 1992年のボルセリーノ紙とのインタビューで、
   メッシーナ
コルレオーネシのボスたちは「我々を利用して古いボスを排除した。
 その後、ジュゼッペ・グレコやマリオ・プレスティフィリッポ、そし、「[ヴィンチェンツォ]プッチョなど、頭角を現した者たちを皆排除した…残ったのは人格のない男たち、彼らの操り人形だけだ」と述べて、この状況を要約した。
 1982年9月11日、ブシェッタの最初の妻との間に生まれた2人の息子、ベネデットとアントニオが失踪し、二度と発見されなかった。
 これが彼がイタリア当局に協力するきっかけとなった。
 これに続き、兄のヴィンチェンツォ、義理の息子のジュゼッペ・ジェノヴァ、義理の兄弟のピエトロ、そして甥のドメニコとベネデット・ブシェッタ、そしてオラツィオとアントニオ・ダミーコが殺害された。
 その後、戦争により
を含むブシェッタの多くの仲間が死亡した。
 ブシェッタは1983年10月23日、ブラジルのサンパウロで再び逮捕された。
 1984年6月28日、イタリアに送還されたが、バルビツール酸系薬物を服用して自殺を図った。
 が失敗に終わると、マフィアに完全に幻滅したと考えた。
との面会を希望し、ペンティートと呼ばれる情報提供者としてのキャリアをスタートさせた。
 シチリアのマフィアは、アメリカのマフィアよりも権力者を殺害する傾向が強いものの、これは通常、最後の手段として行われる。
 ただ、コルレオーネシとその仲間たちは、国家要人暗殺という具体的な作戦を開始した。
 「優良死体」として知られる犠牲者の中には、警察署長の
   エマヌエーレ・バジーレ
   ボリス・ジュリアーノ
のほか、政治家の
   ピエルサンティ・マッタレッラ
が含まれていた。
 マフィアによる最も大胆な暗殺事件の一つとして、当時パレルモの知事を務めていたカラビニエリ警察の元将軍
   カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ
が、妻と護衛の
   ドメニコ・ルッソ
と共に殺害された事件がある。
 彼らは、ジュゼッペ・グレコが率いるAK-47を携えたバイクに乗った銃撃犯たちに銃撃された。
 それでもなお、
   パオロ・ボルセリーノ
   アントニーノ・カポネット
を含む反マフィア検察官チームは、マフィアと暴力の増大、そして戦争の背後で支配していたヘロインの流通に対抗するための一致団結した取り組みを組織しようと尽力した。
 マフィアとの戦争は1986年の
   マキシ裁判
に発展し、数百人のマフィアが数々の犯罪で有罪判決を受けた。
 リーナプロヴェンツァーノといった被告の多くは、裁判当時まだ逃亡中であった。
 このため、欠席裁判で終身刑を宣告された。
 この裁判は、後にペンティティとして知られるようになる
   サルヴァトーレ・コントルノ
など、戦争に敗れた側のマフィアが証言台に立ち、かつての仲間のマフィアに不利な証言を行った点で、意義深いものとなった。
 反マフィア弾圧は報復として爆破事件や銃撃事件を引き起こした。
 カラビニエリ隊長の
   マリオ・ダレオ
   ジュゼッペ・ボンマリート
   ピエトロ・モリチ
   ジュリアーノ・グアッツェリ元帥
は銃撃されるか爆破された。
 ファルコーネ自身、妻、そして3人の警察護衛は1992年の
   カパチ爆破事件
で死亡した。
 2か月後、ヴィア・ダメリオ爆破事件では、反マフィアの
   パオロ・ボルセリーノ判事
と5人の警察官が死亡した。
 チルコンヴァッラツィオーネの虐殺でも、カラビニエリ護衛の
   サルヴァトーレ・ライティ
   シルヴァーノ・フランツォリン
   ルイジ・ディ・バルカ
の3人が死亡した。
 また、ジョヴァンニ・リッツィオ警部もこの戦争で死亡した。
 第二次マフィア抗争の主な成果は、コルレオネージとそのボス
の勝利であった。
 1980年代半ばまでに彼らはマフィアの大部分を事実上掌握し、多くの仲間が排除されたり投獄されたりした。
 その後、80年代末には犯罪組織の覇権を事実上掌握した。
 このことは、マキシ裁判で第二次マフィア抗争の「勝者」と「敗者」について問われた
   サルヴァトーレ・コントルノ
の言葉に要約されている。
 彼は「勝ち組も負け組も存在しない。敗者が存在しないからだ。コルレオネージは彼らを皆殺しにしたのだ。」と断言した。
 イタリア政府による継続的な取り締まりは、最終的にコルレオネージの権力を弱体化させた。
 多くの重要人物が逮捕・逮捕された。
 1993年1月15日、リーナはついにパレロモでカラビニエリに捕まり、この地域の暴力に終止符が打たれた。
 リーナほど暴力的ではない他のリーダーたちは、1995年6月24日のバガレッラを皮切りに、その後倒れた。
 リーナの殺し屋の一人で、ファルコーネを殺害した爆弾を自ら起爆させた
   ジョヴァンニ・ブルスカ
は、1996年に逮捕された後、国家証人(ペンティート)となった。
 戦争中の最後の一族の長である
   プロヴェンツァーノ
の勝利であった。
 リーナは、2006年4月11日コルレオーネで捕まった。

    
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マルコヴィッチ事件(Marković affair)

マルコヴィッチ事件(Marković affair)は、1968年にフランスで発生した
   政治スキャンダル
で、俳優アラン・ドロンの友人でありボディガードでもあった
   ステファン・マルコヴィッチ
の暴力的な死をきっかけに起きた。
 1968年10月1日、マルコヴィッチの遺体はパリ西部イヴリーヌ県エランクール村の公共ゴミ捨て場で発見された。
 その後、マルコヴィッチの死後、彼の車内の捜索で、フランス大統領
   ジョルジュ・ポンピドゥー
の妻クロード・ポンピドゥーのものとされる性的に露骨な写真が発見された。

 アラン・ドロンは「極めて怪しげなフランスのギャングの幹部たち」との知古があり、
   フランソワ・マルカントーニ
の親友でもあったとされている。
 ドロンのボディガード、マルコヴィッチが不審な死を遂げた際、マルカントーニとドロンが容疑をかけられた。
 その一因となったのが、マルコヴィッチが弟の
   アレクサンダル
に宛てた手紙の中で、マルコヴィッチは、「もし自分に危害が加えられた場合、
   アラン・ドロン
   フランソワ・マルカントーニ
が犯人だ」と示唆していた。
 マスコミはドロンの関与を疑った。
 ドロンの長年の友人でギャングの
   フランソワ・マルカントーニ
が逮捕され、当初殺人罪で起訴されたが、警察の尋問を受けた後、最終的に容疑は取り下げられ、1969年に保釈された。
 この事件は未解決のまま、1973年に証拠不十分で棄却された。
 ただ、マルコヴィッチの死は「多くの噂」を引き起こし、その多くはポンピドゥー夫人との集団セックス写真の存在を示唆していた。
 当時大統領選の選挙運動を行っていた
   ジョルジュ・ポンピドゥー
は、これらの噂を一刻も早く払拭したいと考えていた。
 彼はマルコヴィッチ事件に関する噂はすべて噂に過ぎないと公式に国民に伝えた。
 ポンピドゥーは、自身と妻がマルコヴィッチとドロンとパーティーに出席したことを認めたが、
   ルイ・ワロン
   アンリ・カピタン
がフランスの諜報機関
   SDECE
を利用して自分を陥れようとしたと非難した。
 ポンピドゥーがマルコヴィッチの妻の写真への復讐としてマルコヴィッチの殺害を命じたという説もあった。
 写真に写っていた女性は
   妻に似ているだけの売春婦だ
と主張していたにもかかわらず、これらの噂は当初、ポンピドゥーの選挙運動に悪影響を及ぼした。
 ポンピドゥーは噂を乗り越え、1969年の選挙に勝利した。
 その後、SDECE長官に
   アレクサンドル・ド・マランシュ
を任命し、改革を指示した。
 写真回収の責任者と目されていた元警察署長
   リュシアン・エメ=ブラン
は、写真はポンピドゥーに反対する既存のドゴール派の一派によって仕込まれたものだと述べた。
 その後、写真の信憑性が疑問視された。
 このマルコヴィッチ事件はジョルジュ・ポンピドゥー夫人の評判を傷つけるため、
   妻のイメージを攻撃する策略
に過ぎなかったといった推測もある。
 後に、写真に写っていたのはポンピドゥー夫人ではなく、SDECEと長い繋がりを持つ元警察署長
   リュシアン・エメ=ブラン
が雇った売春婦だったことが判明した。
 エメ=ブランは回顧録の中で、
   匿名の友人
から40代の金髪の売春婦をスカウトするよう依頼され、ポンピドゥー夫人のそっくりさんとして、別の女性と不名誉なポーズで写真を撮られたと主張している。
 ステファン・マルコヴィッチは1937年5月10日、ベオグラードで生まれた。
 1950年代、マルコヴィッチと友人の
   ミロス・ミロス(ミロシュ・ミロシェヴィッチ)
はベオグラードでストリートファイトに関わっていた。
 二人は、当時若き映画スターだったドロンと出会っている。
 ドロンはすでにユーゴスラビアのスタジオと共同製作した映画をベオグラードで制作していた。
 ドロンは当初ミロス・ミロスをボディガードと、後にマルコヴィッチもボディガードとして雇った。
 マルコヴィッチはセルビアのギャング
   ニコラ・ミリンコヴィッチ
の友人で、ニコラの葬儀では護送隊の先頭列に並んでいたと言われている。
 賭博に熱中し、しばしば不正行為を疑われたマルコヴィッチは、高級パーティーで知られ、家中、特に寝室に隠しカメラを設置していたとされている。
 こうして彼は、出席者の社会的地位を傷つけかねない、多くの不名誉な写真を収集した。
 彼は複数の新聞社に写真を売却しようと持ちかけていた。
 驚くべきことに、写真の中にはドロンとマルカントーニ自身を直接標的にしたものとされるものもあったと言われている。
 しかし、マルコヴィッチが所有していたとされる最も重要な写真は、ポンピドゥーの妻のスキャンダラスな写真だった。
 これは、大統領選への出馬を控えていたポンピドゥーにとって大きな懸念事項でもあった。
 この事件は、2020年のテレビミニシリーズ「ド・ゴール、光と秘密」の第6話で描かれている。
 ドラマではポンピドゥーが
   シャルル・ド・ゴール大統領
の自宅を訪れ、ド・ゴールに介入を求めるシーンがある。
 ド・ゴールは、自分が情報を入手したらすぐに側近にポンピドゥーに情報を提供するよう指示するなど、できる限りのことをしたと答え、スキャンダルは公人生活の一部であり、それを忘れて前に進むべきだとポンピドゥーに助言している。
 ポンピドゥーはこれに不満を抱き、犯人の意図がもし人々を困惑させることだったなら成功だったが、もし政治的に彼を抑止することが目的だったなら失敗だったと反論した。
 ベルナール・ヴィオレは、アラン・ドロンに関する著書『ドロン秘話』を執筆し、2000年に出版した。
 この本は、フランスの法制史上初めて、正式に販売が許可される前に当局によって
   発禁処分
を受けた。
 これは、事件に関与した数少ない生存者の一人であるドロンが、その販売を阻止しようとしたためとされている。
 しかし、最終的に発禁処分は解除され、この本はフランスで販売された。

    
  
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2025年11月04日

ユニオン・コルス(Unione Corse)コルシカ島の組織犯罪全体を指すことば

ユニオン・コルス(ウニオン・コルス Unione Corse)とは、1930年代から1970年代にかけての
   コルシカ島の組織犯罪全体
を指す用語である。
 当時トルコ、南フランス、アメリカ合衆国間で運営されていた
   国際的なヘロイン取引ネットワーク「フレンチ・コネクション」
の文脈で用いられた。
 1972年のタイム誌の記事では、「ウニオン・コルス」は、アメリカの五大ファミリーに類似した、コルシカ島を拠点とする統一された秘密主義の犯罪シンジケートであると描写されている。
 ただ、この時期の南フランスの状況は実際にはより複雑で、主にコルシカ島系とイタリア系フランス系の一族が、状況と機会に応じて協力したり、互いに抗争したりしていた。
 これらの一族は、1950年代から1970年代初頭にかけてマルセイユ産のヘロインをアメリカ市場に大量に流入させ、より広範なフレンチ・コネクションの重要拠点を構成していたが、はるかに強力なイタリア系アメリカ人マフィアの影に隠れて活動していた。
  
 設立地 フランス、マルセイユ
 活動期間 1930年代〜1970年代
 領 土 フランス(主にコルシカ島とプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域)
 民 族 コルシカ系およびイタリア系フランス人
 犯罪活動 恐喝、麻薬密売、賭博、恐喝、強盗、高利貸し、武器密売
      ポン引き、詐欺、殺人、贈賄、駆け引き
 
◯同盟
 ・アメリカン・マフィア
 ・シチリア・マフィア
 ・カモッラ
 
 地中海に位置するマルセイユとコルシカ島は、1950年代初頭から1970年代初頭にかけてフレンチ・コネクションの戦略的拠点となった。
 1930年代にマルセイユの組織犯罪を牛耳っていたコルシカ島出身のマフィア
とイタリア出身のマフィア
は、アメリカ合衆国向け流通ルートとして最初のアヘン加工チェーンを確立し、フランス市場の基礎を築いた。
 トルコ、マルセイユ、ニューヨークを結ぶ国際麻薬ルートは、1950年代初頭以降に隆盛を極めた。
 これは、第二次世界大戦後に米国から国外追放されたマフィアの
とイタリア系アメリカ人マフィアが、それまでの供給源であった合法的なイタリアの医薬品生産がカモッラに乗っ取られ、1951年に停止された後に構築したものである。
 チュリ一族、グエリーニ一族を含む約15のコルシカ人一族からなる、アメリカのマフィアファミリーのような活動を行う統一された犯罪シンジケートの存在が言及された。
 タイム誌の記事では、「ウニオン・コルセはシチリアのウニオン・コルセよりも結束が強く、秘密主義的」であり、家族の絆が構成員の間に強い絆を作るだけでなく、構成員のいずれかに侵入したり情報を収集しようとする部外者から守ってくれると主張している。
 記事によると、ウニオン・コルセのシンボルはコルシカ島のシンボルと同じムーア人の頭で、白地に額にぼろ布を巻いた黒い人間の頭が描かれている。
 この団体のメンバーは、ペンダントや懐中時計としてこれを身に着けることがある。
 フレンチ・コネクションに参加していたコルシカの氏族は1970年代初頭まで比較的無罪放免だったと認めている。
 ただ、フランスとアメリカの識者の多くは、タイム誌が描写したような
   コルシカの犯罪シンジケート
の存在は当時の現実を誇張したものだと考えている。
 そもそも、米国のように単一の委員会によって運営され、国家に深く浸透した
   ピラミッド型のコルシカマフィア
など存在しなかった。
 調査ジャーナリストの
   ジャック・フォロル
は、現地の状況は「時に同盟者、時に敵対者となる、ばらばらの氏族の銀河が、特定の歴史的状況を利用して繁栄し、自らを守るために政治・行政機構と何らかの関係を築く方法を知っている」と記している。
 また、作家の
   ローラン・ムッキエリ
によると、この多数のネットワークの階層構造は「権威と名声、そして復讐の原則に基づいていた。」「起源と、時折結託して有利な取引を行うという点のみを共通点とする、競合するファミリーとして組織されていた。」と語っている。
 フランス・コネクションに対する当初のフランス政府の対応が、アメリカ当局によって
   現地の政治エリート
と組織犯罪の関係を示す証拠とみなされ、あるいは利用されたとすれば、学者たちは他の可能性の高い説明を挙げている。
 冷戦時代、西ヨーロッパへの共産主義の蔓延を恐れたアメリカとフランスの両当局は、1940年代後半から1950年代初頭にかけて、
   封じ込め政策
を展開する中で
   マルセイユの港湾労働者のストライキ
を鎮圧するために、イタリア系コルシカ人の犯罪組織と協力関係を構築した。
 ただ、マルセイユ地域の地方自治体に対するイタリア系コルシカ人の組織犯罪の影響は、1930年代に高まり、フレンチ・コネクションが繁栄した第二次世界大戦後には衰退したとの主張もある。
 研究者のパオラ・モンジーニによれば、犯罪組織による
   人身売買
が増加するにつれて、地方政治家との和解の重要性は薄れていくと主張している。
 また、1960年代末までのフランスにおける
   麻薬使用の低水準
や1962年までの
   アルジェリア戦争
に必要な多大な努力、そして米国による介入に対する抵抗などがある。
 与党ドゴール派の活動家たちも、フランスと米国の協力関係を背景に、1970年代初頭に最終的にネットワークが閉鎖される前に、フレンチ・コネクションに対するフランスとアメリカの協力関係が築かれていたことを示唆している。
 これは、1964年に著名なコルシカ人化学者
   ジョー・チェザーリ
がマルセイユ近郊で逮捕されたことにも影響が見られる。

  
   
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2025年11月03日

プチ・バー・ギャング(Petit Bar Gang)コルシカ島出身の組織犯罪グループ

プチ・バー・ギャング(Petit Bar Gang)は、コルシカ島出身の組織犯罪グループで
   アジャクシオ(ナポレオン通り)
にあった「プチ・バー」にちなんで名付けられた。
 この店は、ジャン=ジェローム・コロンナの副官であった
   アンジュ=マリー・ミケロージ
が経営しており、コロンナのギャングから派生したとされている。
 商人に対する恐喝を常習的に行い、アジャクシオ大都市圏だけでなく、本土や海外でも活動していた。
 2022年には、コルシカ島で
   最も強力な犯罪組織
として、「真のマフィアにふさわしい政治的・経済的影響力を持つネットワークを構築することに成功した唯一の組織」として紹介された。

 活動期間 2000年代〜現在
 活動地域 フランス(コルシカ島、マルセイユ、パリを含む)、イタリア、ルクセンブルク、マルタ、スイス、香港
 民 族 コルシカ系
 構成員 数十人
 犯罪活動 恐喝、賭博、高利貸し、マネーロンダリング、恐喝、贈賄、詐欺、汚職、ホテル、ナイトクラブ、カジノの経営
◯敵対勢力
 ・ギャング・ド・ラ・ブリーズ・ド・メール
 ・民族自決運動(オルソニ一族)
    
 2007年5月 メンバーとされる4人が逮捕された。
 30歳、商人または公務員の子息。コルシカ島分離主義者との関連は不明だ。
 2008年7月8日にはグロッセート・プルーニャ(ポルティッチョ)で
   アンジュ・マリー・ミケロージ
が暗殺された。
 2011年4月21日にアンジュ=マリー・ミケロージの妹で元グロッセート=プリューニャ市長の
   マリー=ジャンヌ・ボッツィ
が暗殺された。
 2013年10月3日にギャングのリーダー
   ジャック・サントーニ
に対して、
   アントワーヌ・ニヴァジョーニ(2010年)
   アントワーヌ・ソラカロ(2012年)
の暗殺を命じた容疑で逮捕したほか、
   シルル・セルヴォーニ
に対する殺人未遂の容疑で2018年に裁判にかけた。
 ジャック・サントーニは、2019年に
   アントワーヌ・ニヴァジョーニ殺害
で起訴された2人の実行犯の裁判で共犯者として再び挙げられた。
 2人はそれぞれ25年と10年の懲役刑を言い渡された。
 ただ、ジャック・サントーニの責任は立証されていない。
 2018年9月13日にアジャクシオで
   アラン・オルソーニ
の息子でギー・オルソーニの甥である
   ギー・オルソーニ
に対する暗殺未遂事件が発生した。
 2017年9月22日にアジャクシオのレストラン「ル・グロボ」で発生した火災に関し、2020年10月23日に
   ジャック・パスティーニ
   フィリップ・ポリ
   ジャン=ローラン・サラスカ
らは、「人命に危険を及ぼす手段を用いて他人の財産を毀損または損壊した共謀」の罪で懲役2年の判決を受けた。
 ジャック・サントーニは2020年9月30日、「組織犯罪における殺人共謀」および「犯罪組織への関与」の罪で起訴された。
 2021年1月10日にマルセイユ国際刑事裁判所(JIRS)による4800万ユーロの
   マネーロンダリング事件
の捜査の一環として、20人が逮捕された。
 ジャック・サントーニが起訴され、収監された。
 2021年1月16日に警察官1人が2020年9月28日の警察の捜査についてギャングのメンバーに密告した「スパイ」の疑いで拘束された。
 なお、この警察官は最終的に「何の容疑もかけられることなく」釈放された。
 このギャングのメンバーは、アジャクシオ弁護士会元会長で、ナショナリストの
   イヴァン・コロンナ
とアラン・オルソーニの弁護人であった弁護士
   アントワーヌ・ソラカロ
の暗殺に関与した疑いがあるとされている。
 この暗殺事件で2013年4月、
   アンドレ・バッチョレッリ
   ミカエル・エットーリパスカル・ポリ
は「共謀罪とオートバイ窃盗の隠蔽」で起訴された。
 ただ、これらの訴追は、3人の男と殺人に使用されたオートバイを特定した
   メカニックの証人
が証言を撤回したことを受け、2014年にエクス=アン=プロヴァンス捜査委員会によって取り下げられた。
 2015年、ギャングの元親友である
   パトリック・ジョヴァンノーニ
は、ジャック・サントーニから自分たちが犯人だと告げられたと裁判官に証言した。
 ジャック・サントーニとアンドレ・バッチョレッリが再び起訴された。
 事件は現在も捜査中であり、被告人には無罪推定の原則が適用されている。
 ステファン・レイビエを含むプチ・バール・ギャング団に近い6人の男は、2008年にアジャクシオで元民族主義指導者
   アラン・オルソニの暗殺
を企てたとして、2011年にマルセイユ裁判所から懲役刑を宣告された。
 このグループは、2018年9月に、民族自決運動(MPA)の元指導者アラン・オルソニの息子であり、ギー・オルソニ(1983年6月17日に暗殺された)の甥である
   ギー・オルソニ
に対する暗殺未遂事件を起こした疑いがあった。
 コルシカ島ではこの事件に関連して、2020年9月28日にギー・オルソーニ暗殺未遂事件の捜査の一環として、
   プチ・バール・チーム
に対する警察の捜査が開始され、一連の逮捕が相次いだ。
 ジャック・サントーニは2020年9月30日に「犯罪共謀罪」で起訴された。
 また、フィリップ・ポリも起訴されている。
 フランソワ・ケイとアンジュ=マリー・ガフォリーの2人は既に拘留されていた。
 なお、ギー・オルソーニ暗殺未遂事件に後方支援を提供した疑いのある
   ジョセフ・メンコーニ
は、捜査官の携帯電話から電話をかけることを許可され、警察からの情報漏洩により、
   パスカル・ポリ
   ミカエル・エットーリ
   アンドレ・バッチョレッリ
の3人は逃亡した。
 マルセイユのJIRS(国際犯罪捜査局)の判事は、コルシカ島の司法警察と組織犯罪対策局の職員が、警察に拘留されていたコルシカの盗賊団の一員
   ジョセフ・メンコーニ(通称「ホセ」)
の電話を警察署から仲間に残していたことを発見した。
 彼の電話回線は、別の事件のためにJIRSによって盗聴されていた。
 この事件をきっかけに、コルシカ司法警察は憲兵隊に業務を委譲され、数名の警察官がコルシカ司法警察から離職した。
◯構成員と推定される人物
 ・アンドレ・バッチョレッリ(André Bacchiolelli)
    通称「デデ(Dédé)」
   2021年7月5日にアジャクシオで逮捕
     組織犯罪組織による
     殺人未遂、犯罪組織への加担、組織犯罪組織への隠匿
   の罪で起訴され、収監された。
 ・ヨハン・カルタ(Johann Carta)
    通称「プチ・バーの執事(the steward of the Petit Ba)」
   ビーチハウス「ラ・プラージュ・ダルジャン(La Plage d’Argent)」の経営者。
   同組織の不動産および商業活動において中心的な役割を果たしているとみられる。
   2022年からはプロサッカークラブ
     「ガゼレック・ダジャクシオ」(Gazélec d’Ajaccio GFCA)
   の会長を務めている。
 ・ミカエル・エットーリ(Mickael Ettori)
    通称「ミカ(Micka)」
   2020年に逃亡。
 ・アンジュ=マリー・ガフォリー(Ange-Marie Gaffory)
     マルセル・フランシス家(the family of Marcel Francisci)
     ローランド・フランシス家(the family ofRoland Francisci)
   の出身で投資家
     ステファン・フランシス(Stéphane Francisci)
   と親しいと言われている。
 ・アンジュ=マリー・ミケロシ(Ange-Marie Michelosi)
   プチ・バーの元店長。
   2008年7月8日、グロッセート=プルニャ(ポルティッチョ)で殺害された。
 ・ピエール=フランソワ・ルッチオーニ(Pierre-François Luccion)
   プチ・バーの元店長。
 ・ジャック・パスティーニ(Jacques Pastini)
 ・パスカル・ポリ(Pascal Porri)
    通称「電球(the bulb)」
   2011年に「犯罪組織への参加」の罪で懲役6年の判決を受けた。
   2019年に妻の
     ヴァレリー・モラン(Valérie Mouren)
   と起業家の
     アントニー・ペリーノ(Antony Perrino)
   と共に、
     企業資産の横領
     マネーロンダリングを隠蔽した罪
   で懲役16ヶ月の判決を受けた。
   彼は2021年9月15日にポルト・ヴェッキオで逮捕された。
 ・フィリップ・ポリ(Philippe Porri)
 ・ステファン・レイビエ(Stéphane Raybie)
   ジャック・サントーニの幼なじみで、ギャングの創設メンバー。
   彼は2021年2月に獄中で自殺した。
 ・ジャン=ローラン・サラスカ(Jean-Laurent Salasca)
 ・ジャック・サントーニ(Jacques Santoni)
   1978年2月4日、アジャクシオ生まれ
   16歳で学校を中退し、父親と共にレストラン業を営んでいた。
   結婚して2児の父である彼は、2003年のバイク事故以来、四肢麻痺となった。
   2013年には月額2,000ユーロの成人障害者手当を受給していた。
   2021年1月10日、パリで自宅軟禁中に警察に拘束され
     マネーロンダリング
     犯罪組織への関与
     資金提供の不当性
で起訴され、拘留された。
   彼は、義理の兄弟である
     ジャン=ローラン・スシニ(Jean-Laurent Susini)
   が当選した460万ユーロの宝くじを通じて
     230万ユーロをマネーロンダリングした疑い
   がある。

   
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2025年11月02日

フレンチ・コネクション(French Connection)ヘロインをインドシナからトルコを経由してフランスへ、そしてアメリカ合衆国とカナダへ密輸する計画

フレンチ・コネクション(French Connection)は、ヘロインをインドシナからトルコを経由してフランスへ、そしてアメリカ合衆国とカナダへ密輸する計画でした。
 この計画は1930年代に始まり、1960年代にピークを迎え、1970年代に解体さた。
 当時、アメリカ合衆国で使用されていたヘロインの大部分を供給していた。
 この計画を率いたのは、コルシカ島出身の
   アントワーヌ・ゲリーニ
であった。
 他に、オーギュスト・リコード、ポール・モンドローニ、サルヴァトーレ・グレコも関与していた。
 違法ヘロイン製造施設は、1937年にフランスのマルセイユ近郊で初めて発見された。
 これらの製造施設は、コルシカ島出身のギャング団のリーダー
によって運営されていた。
 長年にわたり、コルシカの裏社会はヘロインの製造と密売に関与した。
 主にアメリカ合衆国に輸出されていた。
 このヘロイン・ネットワークが、後に「フレンチ・コネクション」として知られるようになった。
 第二次世界大戦後、
   コルシカ・ギャング
は、フランス共産党によるマルセイユ旧港の支配を阻止する代わりに、
   中央情報局(CIA)
   SDECE(国家保安省)
によって保護された
 歴史的に、アメリカ合衆国で消費されるヘロインの原料の大部分は、インドシナ半島、そしてトルコから輸入されていた。
 トルコの農家は、合法的な製薬会社への販売用にケシの栽培許可を得ていた。
 ただ、その多くは余剰分を裏社会市場に売却した。
 そこでヘロインに加工されてアメリカ合衆国に輸送されていた。
 モルヒネペーストは、地中海西部で最も活気のある港の一つであり、あらゆる種類の違法品の積み出しで知られるマルセイユに設置された
   コルシカの研究所
で精製された。
 マルセイユ産のヘロインは高品質と考えられていた。
 マルセイユ港の利便性と、
   アヘン生産国からの船舶の頻繁な寄港
により、極東または近東からマルセイユへの
   モルヒネ原料の密輸
は容易であった。
 フランスの地下組織は、マルセイユからニューヨーク市へ大量のヘロインを輸送した。
 第二次世界大戦後の最初の重要な押収は、1947年2月5日にニューヨークで行われた。
 フランスから到着したばかりの船から下船したコルシカ島の船員から、7ポンド(3.2kg)のヘロインが押収された。
 フランスの地下組織が
   アヘンの違法取引への関与
だけでなく、
   ヘロイン密売における専門知識と効率性
も向上させていることがすぐに明らかになった。
 1947年3月17日、フランスの定期船サントロペ号で28ポンド(13kg)のヘロインが発見された。
 1949年1月7日、フランス船バティスタ号で50ポンド(23kg)を超えるアヘンとヘロインが押収された。
 ポール・カルボネの死後、ゲリーニ一族は
   ウニオン・コルセ
の支配者となり、トルコやその他の中東諸国からのアヘンの密輸を組織的に行っていた。
 ゲリーニ一族は、マルセイユのマフィアのボス
   アントワーヌ・ゲリーニ
とその兄弟、
   バルテルミー
   フランソワ
   パスカル
によって率いられていた。
 1957年10月、パレルモのグランド・ホテル・エ・デ・パルムで、
   シチリア・マフィア
   アメリカ・マフィア
の構成員による会合が開催された。
 この会合ではフレンチ・コネクションにおける国際的な違法ヘロイン取引について議論された。
 1960年代におけるフレンチ・コネクションによる最初の大規模な押収は6月に始まった。
 情報提供者がレバノンの麻薬取締官に、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク駐在のグアテマラ大使
   マウリシオ・ロサール
がベイルートからマルセイユへモルヒネを密輸しているとの情報を提供した。
 麻薬取締官は通常、年間約200ポンド(91kg)のヘロインを押収していた。
 コルシカ島の密売人が隔​​週で200ポンド(91kg)を密輸していることが判明した。
 ロサールだけでも、外交官としての地位を利用して、1年間で約440ポンド(200kg)のヘロインを持ち込んでいた。
 連邦麻薬局(FBA)の1960年度年次報告書は、フランスから米国に年間2,600〜5,000ポンド(1,200〜2,300kg)のヘロインが流入していると推定している。
 フランスの密売業者たちは違法薬物の需要を搾取し続けた。
 1969年までに米国にヘロインの80%を供給していた。
 1968年4月26日、記録的な押収量となった。
 SSフランス号(1960年製)の豪華客船シトロエンDSに隠匿され、ニューヨークに密輸された246ポンド(111.6kg)のヘロインです。
 逮捕された密輸業者
   ジャック・ブスケ
によると、この車1台で何度も大西洋を横断した航海で密輸されたヘロインの総量は1,606ポンド(728.5kg)に上った。
 コルシカ島カルテルへの最も近い供給源を制限するため、米国当局はトルコを訪れ、アヘン生産の段階的廃止について交渉した。
 当初、トルコ政府は1968年の収穫分からアヘン生産を制限することに同意した。
 1960年代末、アントワーヌ・ゲリーニに
   ロベール・ブレマン
が暗殺された後、
   カジノ収入をめぐる争い
からマルセイユでギャング抗争が勃発した。
 ブレマンの仲間である
   マルセル・フランシス
は、その後もこの抗争を継続した。
 元ニューヨーク市警察麻薬取締局刑事の
   ソニー・グロッソ
は、1950年代から60年代にかけてフレンチ・コネクションのヘロイン密売組織の首謀者はコルシカ島出身の
   ジャン・ジェアン
だったと述べている。
 ジェアンは1962年に64ポンドの「純粋」ヘロインを密輸したという有名な取引を画策したと伝えられている。
 ただ、国際ヘロイン密輸への関与で逮捕されることはなかった。
 グロッソによると、ジェアンの逮捕状はすべて未執行のままであった。
 その後、何年もの間、ジェアンはヨーロッパ各地で麻薬取引を画策し、実行していたと報じられている。
 1971年の映画『フレンチ・コネクション』の監督
   ウィリアム・フリードキン
によると、第二次世界大戦中、ナチス占領に対する
   フランス抵抗運動
にジェアンが参加していたため、フランスの法執行機関は彼の逮捕を拒否した。
 フリードキンは、ジェアンがコルシカ島の自宅で老衰のため安らかに亡くなったと聞かされた。
 その後5年間の譲歩と国際協力を経て、トルコ政府は1971年6月29日発効のアヘン生産用トルコ産ケシ栽培の全面禁止に合意した。
 この長引く交渉の間、法執行機関は活動を開始した。
 大規模な一斉検挙の一つは1972年1月4日に始まり、米国麻薬取締局(BNDD)とフランス当局の捜査官がパリ空港で50キログラム(110ポンド)のヘロインを押収した。
 その後、マルセイユで密売人の
   ジャン=バティスト・クローチェ
   ジョセフ・マリ
が逮捕された。
 1973年には、フランスがフレンチ・コネクションから押収したヘロイン210ポンド(95キログラム)、3,800万ドル相当が押収された。
 1972年2月、フランスの密売組織がアメリカ陸軍軍曹に対し、240ポンド(110kg)のヘロインをアメリカに密輸する見返りに9万6000ドル(2024年の72万1642ドル相当)の報酬を提示した。
 軍曹はこれを上官に報告し、上官はBNDDに通報した。
 この捜査の結果、ニューヨークで5人、パリで2人の男が264ポンド(120kg)のヘロイン(末端価格5000万ドル相当)を所持して逮捕された。
 1972年2月から14ヶ月の間に、フランス麻薬取締局は
   アメリカ麻薬取締局(DEA)
の捜査官と協力し、マルセイユ郊外にある主要な違法ヘロイン製造施設6か所を押収・解体した。
 1972年2月29日、フランス当局はマルセイユ沖でマイアミに向けて出航していたエビ漁船「カプリス・デ・タン」号を拿捕した。
 この船には915ポンド(415kg)のヘロインが積まれていた。
 フランスにおける麻薬逮捕件数は、1970年の57件から1972年には3,016件へと急増した。
 この捜査の一環として、アメリカのマフィア、ルッケーゼ・ファミリーのボス
の一味も摘発された。
 この一味には、
   アンソニー・ロリア・シニア
   ヴァージル・アレッシ
などがいた。
 この組織化されたギャング団は、1970年代初頭にアメリカ東海岸全域で100万ドル近くのヘロインを流通させた。
 それがニューヨーク市警(NYPD)の大規模な汚職計画につながった。
 この計画の規模と深刻さは未だに不明である。
 ただ、当局は、腐敗したニューヨーク市警の警官がパパ、アレッシ、ロリアにニューヨーク市警の財産・証拠保管室への立ち入りを許可したと疑っている。
 そこには、今や悪名高いフレンチ・コネクションの摘発で押収された数百キログラムのヘロインが保管されていた。
 3人はそこから勝手にヘロインを取り出し、摘発を逃れるために小麦粉とコーンスターチでヘロインをすり替えていた。
 すり替えが発覚したのは、警察官が「ヘロイン」の袋をすべて虫が食べているのに気づいた時である。
 その時点で、末端価格約7000万ドル相当のヘロインが既に押収されていた。
 この計画は明るみに出され、逮捕者が出た。
 パパを含む一部の共謀者は実刑判決を受けた。
 パパは後にジョージア州アトランタの連邦刑務所で殺害された。
最終的に、ゲリーニ一族はフランスの裏社会における内紛の中で壊滅した。
 1971年、マルセル・フランシスは、マルセイユとニューヨーク市間のヘロイン密売に関与したとして米国麻薬局に告発された。
(関連暴力団一覧)
◯ウニオーネ・コルセのメンバー
 ・ポール・カーボーン(Paul Carbone)
 ・マルセル・フランシシ(Marcel Francisci)
 ・アントワーヌ・ゲリーニ(Antoine Guérini)
 ・バルテルミー・ゲリーニ(Barthélemy Guérini)
 ・ポール・モンドローニ(Paul Mondoloni)
 ・ジョゼフ・コルシーニ(Joseph Corsini)
 ・フランソワ・スピリト(Francois Spirito)
◯イタリア系カナダ人のギャング
 ・ジョニー・パパリア(Johnny Papalia)
   オンタリオ州ハミルトン
 ・ヴィト・アグエチ(Vito Agueci)
   ハミルトン
 ・アルベルト・アグエチ(Alberto Agueci)
   ハミルトン
 ・ヴィック・コトロニ(Vic Cotroni)
   モントリオールのコトロニ犯罪一家のボス
   ボナーノ犯罪一家のモントリオール派のカポ/ボス
◯イタリア系アメリカ人のギャング
 ・イグナシオ・アンティノリ(Ignacio Antinori)
   フロリダ州タンパ、トラフィカンテ犯罪一家を創設したギャング
 ・フランク・カルーソ(Frank Caruso)
 ・ラッキー・ルチアーノ(Lucky Luciano)
   ジェノベーゼ犯罪一家を創設したファイブ・ファミリーズのギャングスター
 ・ヴィニー・マウロ(Vinnie Mauro)
 ・フランク・ラガノ(Frank Ragano)
   フロリダ州タンパ、トラフィカンテ犯罪家族を支援する弁護士
 ・ジョセフ「ホーボーケン・ジョー」スタッシ(Joseph "Hoboken Joe" Stassi)
   別名「ジョー・ロジャース」
   独立系だが組織犯罪で優位な立場にある
ボナンノ一家の構成員
 ・ジョセフ・ボナンノ(Joseph Bonanno)
   ボナンノ一家のボス
 ・カーマイン・ガランテ(Carmine Galante)
ガンビーノ一家の構成員
 ・ジョセフ・アルモーネ(Joseph Armone)
ルッケーゼ一家の構成員
 ・ジョヴァンニ「ビッグ・ジョン」オルメント(Giovanni "Big John" Ormento)
   大規模麻薬密売に関与するボス
 ・サルヴァトーレ・ロ・プロト(Salvatore Lo Proto)
   ビッグ・ジョンの麻薬密売組織の重要メンバー
 ・アンジェロ・M・ロイアカーノ(Angelo M. Loiacano)
   ビッグ・ジョン・オルメントの麻薬密売組織の卸売業者
 ・アンジェロ「リトル・アンジー」トゥミナロ
            (Angelo "Little Angie" Tuminaro)
   麻薬密売に関与する仲間
 ・パスクアーレ「パッツィ」フカ(Pasquale "Patsy" Fuca)
   トゥミナロの甥
   麻薬取引に関与
 ・アンソニーディパスクア(Anthony DiPasqua)
   麻薬密売人
 ・ヴィンセント・パパ(Vincent Papa)
   「フレンチ・コネクション強盗事件」の首謀者
 ・アンソニー・ロリア(Anthony Loria)
   「フレンチ・コネクション強盗事件」で
      ヴィンセント・パパ
   と共謀していた
◯黒人メンバー
 ・フランク・マシューズ(Frank Matthews)
  
  
    
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2025年11月01日

ファースト・ブランズ・グループ(First Brands Group)米国の自動車部品会社

ファースト・ブランズ・グループ(First Brands Group)は、CEOの
   パトリック・ジェームズ(Patrick James)氏
が所有するアメリカの自動車部品会社である。
 同社は2013年にオハイオ州でジェームズ氏によって
   クラウン・グループ(Crowne Group
として設立された。
 2020年にファースト・ブランズ・グループに社名変更した。
 ジェームズ氏はワイパーメーカーの
   トリコ(Trico)社
を買収し、その後も借入金を利用して多数の自動車部品メーカーを買収した。
 同社のウェブサイトによると、その数は合計で約24社に上った。
 2020年8月には、ブレーキメーカーの
   レイベストス(Raybestos)社
を買収した。
 また、同社はフィルターメーカーの
   FRAM社
と、スパークプラグおよび点火プラグセットのブランドである
   オートライト社
を所有している。
 2025年9月、ファースト・ブランズはテキサス州で連邦倒産法第11章の適用を申請した。
 これは、収益の大幅な減少と、100億ドルの資産に対して100億ドルから500億ドルの負債を抱え、その資金が
   不透明なオフバランス・ファイナンス(opaque off-balance sheet financing
によって賄われていることに対する債権者の懸念によるものであった。
 2025年10月8日、UBSファースト・ブランズの破産事件を調査すると発表した。
 UBSは、サプライチェーン・ファイナンスに関する契約を通じて、ファースト・ブランズの破産により
   5億ドル以上のリスク
にさらされていると主張した。
 同日、カツミ・グローバルはファースト・ブランズから17億ドルの債務を負っていると主張した。
 ジェフリーズ・グループファースト・ブランズの破産事件の影響を受けることになり、同社が運用するファンドである
ファースト・ブランズに関連する7億1500万ドルの売掛金を保有していると主張した。
 ジェフリーズは、ルーカディアが管理する
   ポイント・ボニータ・キャピタル
の債務者への支払いをファースト・ブランズが怠ったと非難した。
 モルガン・スタンレーのアナリストは、ジェフリーズが破産手続きの結果、4,000万ドル以上の損失を被ると予測した。
 10月9日、ファースト・ブランズが23億ドル以上の資金が行方不明になっていることが判明した。
 米国司法省による連邦刑事捜査を受ける可能性があると報じられた。
 司法省では、同社が「第三者投資家に売掛金を二重担保した」と非難した。
 ファースト・ブランズの債権者である
   レイストーン
は、23億ドルが同社から「消えた」と主張した。
 同日遅く、日本の
   農林中央金庫
   三井物産
の合弁会社は、ファースト・ブランズに17億5,000万ドルの資金が流出したと主張し、同社に
   貿易金融
を提供していたと述べた。
 10月10日、パトリック・ジェームズは、同社のCEOを退任する可能性について協議すると発表した。
 2025年10月12日、ジェフリーズファースト・ブランズの破産による影響は限定的であり、株価の大幅な下落を踏まえれば
   潜在的な損失
は容易に管理できると主張した。
 2025年10月13日、ジェームズはCEOを辞任し、同社のCFOである
   チャールズ・ムーア
が後任としてCEOに就任すると発表した。
 また、ジェームズは弟の
   エドワード・ジェームズ
が同社の上級管理職を辞任することも発表した。
   貿易信用保険会社
   再保険会社
に及ぼす信用への影響について考察したリサーチノートを公表した。
 信用格付け機関によると、「ファースト・ブランズの破綻は、保険付売掛金と民間信用の交差点にある
   貿易信用エコシステム
にとって、現実的なストレステストとなる可能性が高い」と明らかにしている。
 モーニングスターDBRSは、ファースト・ブランズの売掛金プログラムに関連する保険損失総額の当初ベースケースを3億ドルから6億ドルと想定しており、この範囲は業界にとって資本負担のない収益イベントとして管理可能な水準にとどまると見ている。
 モーニングスターDBRSは、不利なシナリオにおいて、「より広範な請求認識、引当金の積み増し、そして貿易信用保険会社と再保険会社全体で10億ドルを超える可能性のある総損失を予測している」としている。
 より広範なTCI市場については、
   高レバレッジの被保険者
   複雑なサプライチェーン・ファイナンス構造
に関連する売掛金の全般的な価格改定を予想しているとしている。

   
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マヤルド一族(Mallardo clan)ナポリ市北部のカンパニア州ジュリアーノを拠点とするカモッラ一族

マヤルド一族(Mallardo clan)はナポリ市北部のカンパニア州ジュリアーノを拠点とするカモッラ一族である。
 また、マヤルド一族は、セコンディリアーノ同盟に属する一族の一つでもあり、当局は現在も活動を続ける最も強力なカモッラ・グループと見なしている。

 創設者 フランチェスコ・マヤルド
 設立地 カンパニア州ジュリアーノ
 活動期間 1970年代〜現在
 管轄地域 カンパニア州ジュリアーノ、クアリアーノ、ヴィッラリッカ
 犯罪活動 組織犯罪、密輸、恐喝、麻薬密売
  
◯同盟
 ・リッチャルディ一族(Allies Licciardi clan)
 ・コンティーニ一族(Contini clan)
 ・カザレージ一族(Casalesi clan)
 ・チェザラーノ一族(Cesarano clan)
 ・ポルヴェリーノ一族(Polverino clan)
 ・カターニア・マフィア・ファミリー(Catania Mafia family)
  
 小規模なタバコ密輸業者
   ドメニコ・マヤルド
は1967年8月2日、ジュリアーノのアンヌンツィアータ広場近くの自宅前で殺害された。
 後に司法協力者らが述べたところによると、殺害はナポリ北部でカモッラのボスとして君臨していた
   アルフレド・マイスト(Alfredo Maisto
の息子の一人と、二人の共犯者によって実行されたことが明らかになった。
 ドメニコの息子
   フランチェスコ・マヤルド
と弟のジュゼッペはまだ十代で、父親を亡くした。
 フランチェスコはすぐに犯罪に手を染め、最初は軽窃盗から始まり、後に強盗や売春組織へと手を広げた。
 ジュゼッペは当初、家具店で働くことでまともな生活を送ろうとしていたが、彼もまた最終的に犯罪の世界に引き込まれた。
 1970年代初頭、チッチョ・エ・カルラントニオとして知られる
   フランチェスコ・マヤルド
は、故郷カンパニア州ジュリアーノで支配権を確立できなかった後、その外へと犯罪活動を拡大し始め
   マヤルド一族(Mallardo clan)
を創設した。
 彼はナポリのヴァスト地区とアレナッチャ地区に拠点を移し、
   パトリツィオ・ボスティ
といった裏社会の有力者と密接な関係を築いた。
 アイエタ姉妹との結婚を通じて、その関係はより強固なものとした。
 彼はまた、セコンディリアーノの
とも重要な同盟を結んだ。
 なお、リッチャルディは後にセコンディリアーノ同盟の共同設立者となる人物である。
 この一族の権力と名声の台頭は、
と密接に結びついている。
 3つの一族は、ナポリの麻薬密売と恐喝組織を掌握するため、
と呼ばれる連合を結成した。
 1990年代にはナポリの裏社会を支配した。
 マヤルドはすぐにイタリアで最も危険な逃亡者30人のリストに加えられ、最終的に2003年8月に逮捕された。
 2011年5月10日、イタリア警察はマヤルド一族の所有とされる6億ユーロ相当の資産を押収した。
 資産には、約900件の不動産、23の企業、200の銀行口座が含まれていた。
 一族のメンバーと疑われていた複数の人物が逮捕され、その中にはボスと疑われていた
   フェリチャーノ・マヤルド
も含まれていた。
 警察によると、「一族の企業は、コーヒーの生産・流通から賭博場、飲料や医薬品の卸売業に至るまで、経済セクター全体を掌握していた」とのことである。
 2015年5月、フランチェスコ・マラルドの従兄弟で、マラルド一族の重要人物で、「オ・スフレジャート」の愛称で知られる
   フェリチャーノ・マラルド
が、癌との闘病の末、ラクイラ刑務所の病院で亡くなった。
 2011年にマフィア関連の犯罪で逮捕され、厳格な41-bis法の下で拘留されていたマラルドは、病気のため刑務所の病院に移送された。
 2019年11月21日、ジュゼッペとフランチェスコの兄弟である
   フェリチャーノ・マラルド(同名の従兄弟がいる)
が車内で死亡しているのが発見された。
 捜査によると、心臓発作によるものであった。
 フェリチャーノは、兄弟が投獄された後、組織の指揮権を握っていた。
 2020年4月29日、イタリア警察は一族の所有物であった5,000万ユーロを押収した。
 この措置は、合計112件の不動産、15社、多数の銀行口座、高級車4台、馬小屋2棟を対象としていた。
 押収された不動産には、ホテル、レストラン、入浴施設などが含まれていた。
 2023年、イタリアの反マフィア局の200人以上の職員が参加した大規模な反マフィア作戦が、イタリア中部および南部の果物と野菜の取引と輸送サービスを支配する犯罪ネットワークを標的とした。
 この作戦は、以前の捜査「スッド・ポンティーノ」および「ストア」と関連しており、多数の逮捕者、10社の輸送会社、および1億ユーロ相当の資産の押収につながった。
 マヤルド一族とカザレージ一族は、カターニア・マフィアのコーザ・ノストラ・ファミリーと結託し、フォンディとジュリアーノの主要卸売市場を暴力的に支配していた。
 2010年に行われた初期の取り締まりにもかかわらず、犯罪組織の影響力は徐々に再燃し、マヤルド一族と繋がりのある運送業者
   ドメニコ・パニコの射殺事件
といった近年の暴力事件にまで発展し、犯罪ネットワーク内部の権力闘争を示唆した。
 一族のボスとして名を馳せ、歴史的にも名を馳せていたフランチェスコ・マヤルドは、2025年5月29日の朝、74歳で亡くなった。
 彼はパルマの診療所で自宅軟禁状態にあり、30年の懲役刑に服していた。
 健康上の問題により、死の直前にパルマのリハビリ施設に移送されていた。

   
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2025年10月31日

リチャルディ一族(Licciardi clan)ナポリのカモッラ一族の中でも有力な一族

リチャルディ一族(Licciardi clan)は、ナポリのカモッラ一族の中でも有力な一族で、ナポリの辺境地域、特にセコンディリアーノ地区とその拠点であるマッセリア・カルドーネで活動している。
 その勢力圏は、スカンピア、キアイアーノ、ミアーノ、サン・ピエトロ・ア・パティエルノにまで及んでいる。
 
 設立場所 ナポリ、セコンディリアーノ
 活動期間 1980年代〜現在
 領 土 スカンピア、キアイアーノ、ミアーノ、サン・ピエトロ・ア・パティエルノの領土
     イタリア国外では、ルーマニアとオランダにも組織が存在している。
 犯罪活動:恐喝、詐欺、密輸、恐喝、麻薬密売、売春

◯同盟
 ・コンティーニ一族(Contini clan)
 ・マッヤルド一族(Mallardo clan)
 ・ヌヴォレッタ一族(Nuvoletta clan)
 ・ポルヴェリーノ一族(Polverino clan)
 ・モッチャ一族(Moccia clan)
 ・ジュリアーノ一族(Giuliano clan)
 ・カターニア・マフィア・ファミリー(Catania Mafia family)
 ・ンドランゲタ('Ndrangheta)
◯敵対勢力
 ・ロ・ルッソ一族(Lo Russo clan 解散)

 1980年代半ば、「猿の皮を被った男」として知られる
は、フォルチェッラのジュリアーノ一族のセコンディリアーノ地区における長であった。
 当時、リッチャルディはボスの
   ルイジ・ジュリアーノ
の副官であった。
 セコンディリアーノ地区の郊外は、他のカモッラ一族のボスたちから重要視されておらず、数年後、ジェンナーロ・リッチャルディは完全に独立した一族を結成し、この地域を麻薬の保管と密売の戦略的な拠点へと変貌させた。
 彼はまた、ナポリ郊外の多くの地域で麻薬密売と恐喝組織を掌握していた有力なカモッラ一族の連合体である
   セコンディリアーノ同盟
の創設メンバーにもなった。
 この同盟には、リッチャルディ一族に加え、
   ロ・ルッソ一族
   スタービレ一族
   プレスティエリ一族
   ボッケッティ一族
   ディ・ラウロ一族
が含まれていた。
 1994年8月3日、ヴォゲーラ刑務所でジェンナーロが敗血症により死亡した。
 その後、一族の統制はピエトロ(ローマ皇帝)と弟ヴィンチェンツォ、そして「ラ・ピッコリーナ」(「小さな子」)として知られる姉の
に完全に委ねられた。
 リチャルディ一族は、その影響力を行使して、ディ・ラウロ一族と、ナポリ北郊のディ・ラウロ一族から分離したいわゆる「分離派」(イタリア語で「scissionisti」)との間の仲介役を務めた。
 分離派は、この地域における麻薬および売春組織の支配権を握ろうとしていた。
 そのため、スカンピア紛争の終結に重要な役割を果たした。
 2008年5月9日、カラビニエリは3億ユーロ相当の物品を押収し、リチャルディ一族の構成員44人を逮捕した
 2018年3月21日、ローマで、
   リッチャルディ一族
   フィリッポーネ・ンドリーナ
   ガッリコ・ンドリーナ
の構成員とされる19人が麻薬密売の容疑で逮捕された。
 2019年2月、マリア・リチャルディの息子である
   ジュゼッペ・ムゼッラ
が逮捕された。
 捜査によると、彼は現在の一族のリーダーであった。
 ムゼッラは、スカンピアで犯罪組織への関与、強盗、誘拐の容疑で逮捕された。
 反マフィア委員会の元委員長
   フランチェスコ・フォルジョーネ氏
によると、リッチャルディ一族はオランダで活動しており、同国を利用して偽造衣料を製造していると明かした。
 ◯指導者
 ・1980年代〜1994年 ジェンナーロ・リッチャルディ(通称「スキニャ」)
             1994年に獄中死
            2008年に逮捕
 ・1994年〜現在 マリア・リチャルディ
           通称ラ・マドリーナ
  
   
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2025年10月30日

ディラウロ一族(Di Lauro clan)ナポリのカモッラに分類されるイタリアの犯罪一族

ディラウロ一族(Di Lauro clan)は、ナポリのカモッラに分類されるイタリアの犯罪一族である。
 この一族は、セコンディリアーノ、スカンピア、ミアーノ、マリアネッラ、ピシノーラ、そして隣接するカザヴァトーレ、メリート、アルツァーノ、ヴィッラリッカ、ムニャーノ(いずれもナポリ県)の各市町村で活動してる。
 1990年代半ばから2000年代初頭にかけての最盛期には、麻薬販売だけで1日50万ユーロ以上の収益を上げていた。
 セコンディリアーノはヨーロッパ最大の青空麻薬市場となっていた。
 一族の創設者は、セコンディリアーノのクパ・デル・アルコ通りに住む
   パオロ・ディ・ラウロ(通称「大富豪」)
である。

 設立場所 セコンディリアーノ
 活動期間 1982 年から現在まで
 領 土  ピーク時にはイタリアのセカンディリアーノ、スカンピア、ミアーノ
     マリアネッラ、ピシノーラ、カサヴァトーレ、メリト、アルツァーノ
     ビジャリッカ、ムニャーノ。
     フランス、オランダ、スペインの他の地域
 活動内容 殺人、恐喝、麻薬密売、密輸、マネーロンダリング
  
◯同盟
 ・セコンディリアーノ同盟(Secondigliano Alliance)
  ・コンティーニ一族(Contini clan)
  ・リチャルディ一族(Licciardi clan)
  ・マジャルド一族(Mallardo clan)
 ・サクラ コロナ ウニタ(Sacra Corona Unita)
 ・ダレッサンドロ一族(D'Alessandro clan)
 ・ジュリアーノ一族(Giuliano clan 消滅)
◯敵対勢力
 ・シシオニスティ・ディ・セコンディリアーノ(Scissionisti di Secondigliano)
 ・ルオッコ族(Ruocco clan)
 ・アッビナンテ一族(Abbinante clan)
 ・サッコ・ボッケッティ一族(Sacco-Bocchetti clan)

 イタリアの反マフィア地区総局(Direzione Distrettuale Antimafia)は2002年に初めてこの一族の捜査を行った。
 ディ・ラウロと結託していたアッビナンテ一族のボス
   ラファエレ・「パパレ・エ・マラーノ」・アッビナンテ
を含む、最も影響力のあるメンバーが投獄された。
 ただ、捜査の網を掻い潜った
   パオロ・ディ・ラウロ
は逃亡を続けた。
 この捜査当局等の追求にもかかわらず、一族は勢力を拡大した。
 逮捕されたメンバーの代わりに、
   コジモ・ディ・ラウロ(1973年生まれ)
   チーロ・ディ・ラウロ(1978年生まれ)
   マルコ・ディ・ラウロ(1980年生まれ)
を含む、ディ・ラウロの10人の息子が犯罪組織に加入している。
 また、セコンディリアーノ同盟において、他の一族とのつながりが強化され、一族の「古参」は権力を失った。
 ディ・ラウロのかつての同盟者の一部は離脱して対立する同盟
   シシオニスティ・ディ・セコンディリアーノ
を結成した。
 2004年には
   スカンピア抗争
として知られる血みどろの権力闘争を開始した。
 2021年に発表された反マフィア当局の報告書によると、組織を弱体化させるために多くの活動が行われていた。
 ただ、構成員の大半が逮捕されたが、一族は実際には、
   ビジネス志向
のビジネスモデルへと移行し、
   恐喝などの「街頭犯罪」
への関与を縮​​小し、過激さを目立たないよう地下に潜って復活を遂げつつある。
 ディ・ラウロ一族は、内部構造の度重なる改革、特に
   新たな資金洗浄
の手法によって、権威と経済的基盤を維持しようとした。
 当局によると、組織の新たな指導者はパオロ・ディ・ラウロの息子の一人が率いており、主に
   外国製タバコの国際密輸
に資金を投じ、ヨーロッパ全土で
   偽造品の製造
を再開している。
 2000年代初頭、イタリアの捜査当局は、同一族の麻薬収入を年間約2億ユーロと推定した。
 パオロ・ディ・ラウロの支配下、一族の拠点であるセコンディリアーノはヨーロッパ最大の露天麻薬市場となった。
 ディ・ラウロ一族は、その資金を
   不動産投資
に注ぎ込み、ナポリに数十戸の
   マンション
フランスとオランダに
   店舗、毛皮、フェイクファー、ランジェリーの輸入事業
を買収した。
 コジモ・ディ・ラウロは、フランスにおける一族の事業を統括するために、パリに出向くこともあった。
 また、同一族はオランダで偽造衣料も製造している。
 アントニオ・アックルソの記録によると、ディ・ラウロ一族は麻薬密売に関して、
コンティーニ一族の一員である
   チーロ・コンティーニ
とも関係があるという。
 2019年7月12日、イタリア警察は、ディ・ラウロ一族と関係があるとみられる実業家
   アントニオ・パサレッリ氏
の所有する不動産600件、車両16台、多数の銀行口座を含む3億ユーロ相当の押収を行った。
 さらに、2021年10月、スペイン警察はマラガで、スペインにおける同組織のタバコ密輸活動の責任者とみられる人物を逮捕した。
 パオロ・ディ・ラウロは2002年に逃亡し、事業を息子のコジモとヴィンチェンツォ・ディ・ラウロ(1975年生まれ)に相続させた。
 「デザイナー・ドン」として知られるコジモ・ディ・ラウロは2005年に逮捕され、終身刑を宣告された。
 コジモは2022年6月に獄中で死亡した。
 マルコ・ディ・ラウロは2019年3月2日にナポリで逮捕された。
 終身刑を宣告された。
 ヌンツィオ・ディ・ラウロは2008年3月3日に逮捕された。
 ジャーナリストの
   ロベルト・サビアーノ
によると、マルコの逮捕後、組織の新しいリーダーはヴィンチェンツォとチーロ・ディ・ラウロだった。
 チーロ・ディ・ラウロは2004年後半に初めて逮捕された。
 また、2022年2月、彼は2004年に発生した2件の殺人事件の容疑で再逮捕された。
 ヴィンチェンツォ・ディ・ラウロは2007年3月に逮捕された。
 2021年現在、ヴィンチェンツォ・ディ・ラウロは自宅軟禁状態にある。
 テッレモト(地震)として知られる
   サルヴァトーレ・ディ・ラウロ
は、刑務所を何度も出入りしていた経歴を持つにもかかわらず、2021年9月に釈放された。
 パオロ・ディ・ラウロが一族の長であった時代に、彼は傘下のメンバーに対していくつかの行動規範を定めた。
 その中には、経済的な理由で互いを暗殺することは禁じられており、メンバーまたは傘下のメンバー間で
   経済的な問題
が発生した場合、組織のトップが会議を開き、交渉を行うことが含まれていた。
 また、カモッラ一族間の絶え間ない
   領土争いに関する規則
もあった。
 ディ・ラウロ一族では、一族のリーダー全員で構成される
   全会一致の承認
を得ない限り、この理由で敵対する一族のメンバーを暗殺することは許されていなかった。
 また、一族は
   メンバーの不倫
   メンバーまたは傘下のメンバーのパートナーへの求愛
については非常に厳格に対応した。
 これらの規則のいずれかに違反した者を殺害することは許されていた。

   
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2025年10月26日

ヌオーヴァ ・カモッラ・ オーガニッツァータ(Nuova Camorra Organizzata)カンパニア州で設立されたイタリアのカモッラ系犯罪組織

ヌオーヴァ カモッラ オーガニッツァータ(Nuova Camorra Organizzata New Organized Camorra NCO)は、1970年10月24日に設立にナポリ出身のカモッリスタ(カモッリスタ)である
   ラファエレ・クトロ
によってカンパニア州で設立されたイタリアのカモッラ系犯罪組織である。
 NCOの頭文字でも知られている。
 この組織は、ナポリの果物市場で
   密輸タバコや恐喝
を行っていた
   旧来の農村カモッラ
を刷新することを目的として設立された。
 この目的のため、クトロは、通常は断片化されている伝統的なカモッラの氏族とは対照的に、構造化され階層化された組織を作り上げた。
  NCOのメンバーは、ライバル関係にあるカモッリスタやイタリアの法執行機関からしばしば
   「クトリアーニ(Cutoliani)」
と呼ばれていた。
 イタリア司法省によれば、1981年までにNCOは最強のカモッラ一族、そして国内で最も有力な犯罪組織の一つとなり、ナポリ地域だけで少なくとも20万人の生活を支えていた。
 シチリアマフィアとは明確に敵対していたが、プーリア州の
の前身である
   ヌオーヴァ・グランデ・カモッラ・プーリアーゼ
に加え、カラブリアの多くのンドランゲタ一族と同盟を結んでいた。
 最終的には、コーザ・ノストラと強い関係を持つカモッラのボス
や、マラーノ出身の
   ヌヴォレッタ一族
 サン・シプリアーノ・ダヴェルサ出身の
   アントニオ・バルデッリーノ
そして
   ギオンタ一族(トッレ・アヌンツィアータ出身)
カルミネ率いるサビアーノの
   アルフィエーリ一族
であるカザール・ディ・プリンチペからなる氏族連合である
   ヌオーヴァ・ファミリア
に取って代わられた。
 アルフィエーリ、ポッジョマリーノのパスクワーレ・ガラッソ率いる
   ガラッソ一族
やナポリ地区フォルチェッラのルイジ・ジュリアーノが率いる
   ジュリアーノ一族
ポルティチのルイジ・ヴォッラーロが率いる
   ヴォッラーロ一族
などがいた。
 1980年代後半、多くのボスやメンバーが殺害または投獄されたため、カモッラは消滅したとみなされた。
 クトゥーロのカモッラは、保護料を専門とする失業中の若者の「大衆カモッラ」と評された。
 カルミネ・アルフィエーリのカモッラは、政治的コネを通じて公共部門の契約を獲得する能力から「政治的カモッラ」と見なされた。
 また、ロレンツォ・ヌヴォレッタのカモッラは、1980年の地震後に麻薬資金を建設業に再投資する「ビジネス・カモッラ」と見なされた。

 設立場所 イタリア、カンパニア州オッタヴィアーノ
 活動期間 1970 〜 1980 年代後半
 領 土 ナポリ都市圏、ミラノ、リミニ、ローマ、南ラツィオ州、イタリアのプーリア州
     ヨーロッパの他の地域も同様
 民 族 イタリア人、主にカンパニア州出身
 会員数(推定) 正会員7,000名
 犯罪活動 組織犯罪、殺人、違法賭博、麻薬密売、恐喝、高利貸し、マネーロンダリング
      売春、詐欺、汚職、廃棄物処理、強盗、トトネーロ(賭博)
◯同盟
 ・ヌオーヴァ・グランデ・カモッラ・プーリアーゼ
 ・バンダ・デッラ・マリアーナ
 ・トゥラテッロ・クルー
 ・ンドランゲタ
◯敵対勢力
 ・シチリア・マフィア
 ・ヌオーヴァ・ファミリア(解散)
 ・ヌオーヴァ・カモッラ・オルガニッツァータ(新組織カモッラ)
   
 この組織の創設者である
   ラファエレ・クトゥーロ(別名「教授」)
は、1941年12月20日、ナポリの奥地にある村、オッタヴィアーノに生まれた。
 1963年2月24日、18歳で最初の殺人を犯した。
 裁判では有罪判決を受け終身刑を宣告されたが、控訴により24年に減刑された。
 彼はナポリのポッジョレアーレ刑務所に収監された。
 殺人罪で刑務所に入ったことで、クトロは犯罪界のルールを学んだうえ「タフガイ」となった。
 獄中で名誉ある男となり、権力のある囚人に敬意を払い、際立った個性で個人的威信を高めていった。
 彼は野心と、ナポリ裏社会の最大のボスの一人になるという願望を決して失わなかった。
 クトロがボスとしての地位を確立していた頃、
   アントニオ・スパヴォーネ
         通称「オ・マロンモ(悪党)」
がポッジョレアーレ刑務所に移送された。
 彼は中庭でスパヴォーネに「オ・ディキアラメント(宣言)」と呼ばれる慣習からナイフファイトを挑んだ。
 しかしスパヴォーネは拒否した。
 挑発されたボスは、「今の若者はどんな手段を使っても若死にしたい」とだけ答えたとされている。
 スパヴォーネはこの事件の直後に釈放された。
 クトロは独房からスパヴォーネの殺害を命じた。
 クトロの友人とされる殺し屋が、ショットガンでスパヴォーネの顔を至近距離から撃った。
 スパヴォーンは待ち伏せ攻撃を生き延びたものの、ショットガンの爆発により顔面に深刻な損傷を受けた。
 治療として整形手術が必要となった。
 スパヴォーンは直ちにカモッラのボスという目立った役割を辞任した。
 クトロはナポリのポッジョレアーレ刑務所からNCOを築き上げた。
 彼はまず、刑務所に慣れていない若い受刑者たちと親しくなり、彼らに
   アイデンティティ
   自己肯定感
を与えた。
 その結果、彼らは釈放後にクトロに「花」(つまりお金)を送るようになり、クトロは人脈を広げることができた。
 貧しい受刑者には、刑務所内の売店で食料を買ったり、外部から食料を届けてもらったりして援助した。
 こうしてクトロは多くの「借金」や「雨天小切手」を作り出し、都合の良い時に現金化した。
 支持者が増えるにつれ、彼は多くの刑務所で暴力を独占するようになり、刑務所における権力を増大させた。
 1970年代初頭までに、クトロは非常に大きな権力を握るようになった。
 支持者の誰をどの刑務所に移送するかを決定したり、刑務所長の電話を使って世界中に電話をかけたり、さらには刑務所長が独房を捜索した際に平手打ちを食らわせたりしたと伝えられている。
 クトロが築いたもう一つの重要な絆は、刑務所に送られた下士官の家族への定期的な支払いであった。
 これによって囚人とその家族の忠誠心を確保した。
 クトロはすぐに少数の囚人を集め、その中核が後に下士官学校の指導者
   アントニーノ・クオモ(通称「マランギエッロ」(棍棒)
   パスクアーレ・バーラ(通称「ニマーレ」(動物)
   ジュゼッペ・プーカ(通称「日本人」)
   パスクアーレ・ダミーコ(通称「カルトゥナーロ」(段ボール拾い)
   ヴィンチェンツォ・カシージョ(通称「ニローネ」(大黒))
が就任した。
 釈放後、彼らは刑務所の外において最初の犯罪活動を開始し、クトロは刑務所システム内から直接、これらの犯罪活動を管理することになる。 
下士官は二つの並行した構造を構築した。
 一つは刑務所内に「cielo coperto(覆われた空)」、もう一つは刑務所外に「cielo scoperto(晴れた空)」と呼ばれる構造である。クトロ自身と多くの下士官が終身刑に服していた。
 このため、この二つの構造間の連絡は極めて重要だった。
 クトロは自身の指導力を維持するために、外部の下士官に効果的かつ確実に命令を伝えると同時に、拡張によって得られる利益の一部を刑務所に還元し、採用活動を拡大する必要があった。
 ポッジョレアーレ刑務所はナポリ西部地区の中心という戦略的な立地条件に加え、仮釈放違反者やその親族といった人々の絶え間ない往来という特殊な環境にあり、下士官は刑務所を拠点として犯罪活動を巧みに統括することができた。
 下士官はこの絶え間ない往来を利用して、刑務所に金品を運び込み、また、外部活動のための指示を仲間に送っていた。
 毎日面会可能な親族は主要な運び屋として利用されていたが、面会できない場合は、近隣の様々な自治体、特にクトロのオッタヴィアーノ市役所の親切な事務員の厚意により、これらの仲間の何人かが書類上で親族として認定されていた。
 司法省が1983年に明らかにしたように、1977年7月から1978年12月まで、クトロは
   ジュゼッペ・プーカ
の面会を毎日受けていた。
 プーカはオッタヴィアーノ市役所からクトロの従兄弟であることを証明する書類を所持していた。
 彼はまた、下士官候補生の
   ジュゼッペ・ロマーノ
から3度の訪問を受けていた。
 1度目はクトロの義理の兄弟として、1度目は比較として、そして最後は従兄弟としてだった。
 下士官候補生は、比較、従兄弟、そして近親者に基づく新たな親族制度の組織原理となり、これは地元の役人の協力を得て市町村の登記簿に正式に記載された。
 最初のNCOグループが活動を開始し、利益を上げ始めると、クトロは
   ソッコルソ・ヴェルデ(緑の十字)
を設立し、囚人からNCOが新メンバーを募集できるよう支援した。
 メンバーには衣服、弁護士、法的助言、自身と家族のための資金、さらには贅沢品まで提供された。
 囚人への資金配分には、規則的な手続きがあった。
 当初から、クトロは部下に、成功した作戦ごとに50万リラを囚人のための基金として積み立てさせた。
 この基金は、ラファエレの妹
   ロゼッタ・クトロ
と数人のNCO副官による通信網を通じて、イタリア全土のNCO所属の囚人に分配された。
 地域全体を支配しようと、NCOは都市部のカモッラのファミリー組織を凌駕した。
 NCOは開かれた組織であり、毎年1,000人のペースで新メンバーが加わった。
 メンバー資格は誰にでも与えられ、主な条件は
   クトロへの忠誠を誓うこと
   共通の犯罪活動に貢献すること
であった。
 なお、組織の活動が拡大し、より多くの人員が必要になると、採用活動はより積極的になり、後には強制的に採用されるようになった。刑務所では、下士官候補生への加入が強制的に求められた。
 そして、加入を拒否した囚人は、しばしば殺害されることになった。
 この組織は様々なギャングの連合体であり、それぞれが独自の活動地域を持っていた。
 ただ、ラファエレ・クトロによって階層的に統制され、厳重に管理されていた。
 ペンティート(刑務所)で発見された文書
   パスクアーレ・ダミコ
によると、この組織は「下着とランジェリーを専門とする訪問販売業」と記されていた。
 クトロがCEOを務めていた。
 副CEO(クトロは投獄により対応が遅れたため、緊急時にはヴィンチェンツォ・カシージョが代役を務めた)
 執行委員会(元のグループのメンバーが参加)、地域マネージャー、支店長、そして毎週の集金を担当するセールスマンがいた。
 刑務所の外では15日ごとに執行委員会が開かれ、ボスの妹であるロゼッタ・クトロは、刑務所内でもボスと容易に連絡を取ることができた。
 クトロにはイデオロギーがあり、これもまた、根無し草で教育水準の低い若者たちの心を掴む要因となっていた。
 彼は1970年10月24日、クトロの守護聖人である
   サン・ラッファエーレ
の日に、故郷オッタヴィアーノでNCOを設立した。
 組織は、前世紀のカモッラ(カモッラ)に酷似するように意図的に設計された規則と規約を用いていた。
 こうして、クトロはナポリ後背地において史上最強の組織を築き上げた。
 自身の個人的な魅力と、ほとんど魔法のようなカリスマ性によって、彼はこれを独力で成し遂げたといえる。
 NCOの拠点は、オッタヴィアーノのようなナポリ東部の町々であった。
 設立当初から、NCOは地域における
   違法な資源
を地域社会の改善のために活用することを提唱た。
 また、地域社会の守護者という役割を主張し、犯罪的価値観に基づく強い地域的アイデンティティを確立した。
 彼はシチリア・マフィアがナポリとカンパニア地方を植民地化しようとしていると非難した。
 クトロは貧しい農民の出身であったためか、ナポリ人というよりはカンパニア人のアイデンティティに訴えかけた。
 例えば、クトロはかつて「カンパニアの人々が、奴隷としてステーキを食べるよりも、自由人としてパンを食べる方が良いと理解する日こそ、カンパニアが勝利する日だ」と語ったと伝えられている。
 彼はこの地域の人々への敬意を再び築く必要性について、「ナポリとカンパニアの古き輝きを取り戻さなければならない。ヴェスヴィオ山のシンボルに象徴される、私たちの地域にその運命を取り戻さなければならない」と述べた。
 この姿勢こそが、下士官がシチリア・マフィアやその他のカモッラ一族に対して公然と敵対するようになった理由である。
 結果としてクトロはナポリにもカンパニアにも何の意図も企てもないンドランゲタと長きにわたる同盟関係を築くことになった。
 クトロはンドランゲタと強い絆を持っていた。
 いくつかのペンティティによると、クトロの経歴は
   ジュゼッペ・ピロマリ
   パオロ・デ・ステファノ
   マンモリーティ
といった重要なボスの支援を受けていたンドランゲタとの提携から始まった。
 クトロはンドランゲタの規範や儀式をモデルに、下士官学校(NCO)を組織した。
 下士官学校は、カンパニア州で直接活動していなかった他の2つの犯罪組織、アプリアの
とローマの
   バンダ・デッラ・マリアーナ
とも強い関係を築いていた。
 この組織は、カモッラの歴史において、
   高度に中央集権化され
   原始的なイデオロギーを有し
ていたという点で特異な存在であった。
 例えば、彼は子供を誘拐したり虐待したりしてはならないと公言し、
   少なくとも一人の誘拐犯の暗殺
を企てたとされている。
 これは、おそらく最も強力なイデオロギー的武器は
   暴力カルト
であり、それは時に一種の死への願望にさえ近いものであった。
 クトロはかつて「人生の価値はその長さではなく、その使い方によって決まる。人はしばしば、ほとんど何もせずに長生きする。友よ、よく考えてほしい。この世に生きている限り、すべてはあなたの意志の力にかかっているのだ。生きてきた年数にかかっているのではないのだ。」と記している。
 クトロは、思想と詩を集めた『Poesie e pensieri(詩と思考)』と、ジャーナリストへの数多くのインタビューを通して、メンバーの間に強いアイデンティティを築き上げた。
 この本は1980年にナポリで出版されたが、一般公開されることはなかった。
 235ページに及ぶ詩と写真を含むこの本は、警察に押収され、「犯罪組織の弁明」として検閲された。
 司法省によると、この本はNCOメンバーの間で「NCOのバイブル」とみなされ、クトロ自身が郵送で配布していた。
 このため、特に刑務所内で人気を博した。
 出版後数日以内に治安判事によって押収されたにもかかわらず、刑務所内外の社会から疎外された多くの囚人が、クトロや他のNCOリーダーたちに手紙を書いて1冊を求めた。
 ただ、この本を所持しているだけで、後に有罪の証拠とみなされるようになった。
 クトロは、虐待、暴行、身体的暴力、そしてレイプに晒されていた若い囚人たちを公然と支援した。
 彼は彼らに助言を与え、他の囚人による暴行から彼らを守った。
 同時に、彼らはカモッラの最下層である
   良きピチョット(仲間)
としての振る舞い方を学んだ。
 クトロは旧カモッラのボスたちに異議を唱え、若い囚人たちに所属すべき組織を与えた。
 クトロは兵士たちから崇拝されていた。彼らは彼を「王子」と呼び、司教であるかのように彼の左手にキスをした。
 クトロは19世紀のカモッラの研究に多大な時間を費やし、古いカモッラの入会儀式を再現した。
 彼はこの儀式を社会に根付いた慣習にすることに細心の注意を払った。
 彼は独房で、入会者に
   プリモ・レガーロ(最初の贈り物)
を授与する儀式を考案しました。
 これはアブラッチョ(抱擁)またはフィオーレ(花)とも呼ばれている。
 彼は古いカモリ派の伝統にカトリックの精神を融合させ、伝統的なカモリ派の入会儀式を再構築した。
 NCOはしばしば「カンパニアの暴力的で分裂した若者たちの集団的大衆運動の表れ」と評されてきた。
 しかし、ある歴史家はかつて、NCOはカモッラという古く、ある程度は敬意を払われていた名称を盗用した、単なる「ギャング組織」の一つに過ぎないと断言した。
 ジャーナリストの
   ジョルジョ・ロッシ
がオッタヴィアーノ出身の若いNCO隊員たちにインタビューした際、彼らはボスと組織のためにどれほどの死を覚悟していたかについて、いくつかの証言を記録した。
 ある若いピチョットは「なぜこんなことをするのかと聞かれたら、答えは簡単です。生きようが死んでも構わないのです。実際、ある意味では、私は死を望んでいるのです。」 と語った。
 また、2人目のピチョットは「我々は死に向かって走っている。ここに生きる意味などない。こんなひどい人生だ。ここでの人生はゼロだ。この23年間で見てきたものだけで十分だ。私はもう死んでいる。今は借り物の時間で生きている。もし彼らが私を殺したければ、構わない。私が見てきたもので十分だ。」と言った。
 同様に、3人目のピチョットは「我々はこんな状態だ。もし彼らが踏みつけようとしたら、殺す。我々は生ける屍だ。私はすでに足の半分で頭を踏んでいる。もしあなたがもう半分で私を踏みつけたら、私はあなたを殺してやる。」と言った。 
 1980年まで不安定な平和が築かれたものの、2月14日、激しい地震による混乱の中、ナポリのポッジョレアーレ刑務所で下士官部隊員が敵対者3人を殺害したことで、平和が破られた。
 5月には、下士官部隊がポルティチにある
   ザザ兄弟
のために密輸タバコ取引に従事する男たちの家を爆破するという、より深刻な事件が発生した。
 その後まもなく、ライバル組織である
   ヌオーヴァ・ファミリア
による報復攻撃が続いた。
 ザザ兄弟の縄張りに侵入しようとした2人の男は射殺され、オッタヴィアーノにある
   クトゥーロ家
の家の外には車爆弾が仕掛けられた。
 1980年から1983年にかけて、ナポリとその周辺地域で血みどろの戦争が繰り広げられ、数百人の死者を出した。
 NCO(ナポリ警察)は深刻な弱体化に追い込まれた。
 その根本原因は2つあり、1つは、2つの異なるタイプのカモッラ・ギャングの急速な増加で、もう1つは1980年11月の地震によって引き起こされた深刻な政治的・財政的不安定であった。
 戦争はすぐに権力闘争へと発展し、ローマから地震復興のために流入した数十億ドルもの資金によってさらに勢いを増した。
 例えば、最も多くの死者が発生したのは1981年から82年にかけてで、この時期は
   復興事業の契約
の大半が発注されていた時期である。
 ギャングによる殺人事件の件数も爆発的に増加した。
 この時期、ナポリ市民の中には、カモッラ自身が管理するシステムの中で、今後1年間のギャングによる殺人事件の件数が日数を上回るかどうかを賭ける、違法で残忍な賭けをする者もいた。
 1983年6月16日から19日にかけて、警察はNCOのメンバー1000人を逮捕した。
 地震は犯罪組織に甚大な影響を与えた。
 多くの人々が事業を失い、失業し、貧困に陥った。
 働く場所を失った避難民、特に若者たちは、NFとNCOに仕事を求めた。
 この間、NCOは地震救援機関のネットワークに潜入することで、ますます資金を蓄えていった。
 彼らは膨大な救援金と物資を蓄え、地震復興に関わるすべての企業から保護料を徴収した。
 NFは、大規模な蓄えに加え、ナポリのカモッラ地下世界の領土化からも大きな利益を得た。
 地震は、人々、カフェ、中小企業の避難と、社会ブロックの封鎖によって、あらゆる社会統制を完全に破壊した。
 反クトーロ派のクランは、NCOをモデルに自らを再編し始めた。
 領土を失った彼らは、要塞化された拠点を、高級車、オートバイ、そして機動力のある火力へと切り替え、広々とした空間に依存するようになりました。
 このようにして、NF は下士官自身の戦術、つまり高い視認性、スピード、残忍な暴力を彼らに対して使い始めた。
 イタリアのネオファシスト集団と左翼テロリスト集団の両方を彷彿とさせる行動として、彼らは報道陣に「Nuclei Armati Anti-Cutoliani(反クトロ武装中核)」または「Giustizieri Campani(カンパニアの復讐者)」と署名したメッセージを送り、新たなスローガン「コト・レッテ(豚肉の意、クトロの名前をもじったもの)」と「反撃せよ」を掲げた。
 この残忍な戦争はナポリ市民の生活に大きな不便をもたらした。
 ナポリ中心部を普通に散歩するだけでも危険で命の危険にさらされる可能性があった。
 この残忍な戦争はイタリア警察組織の注目を集めた。
 シチリア・マフィアはかつての同盟国を多く含むヌオーヴァ・ファミリアに有利な、抗争中の二つの一族間の合意に応じざるを得なくなった。
  シチリアマフィアの高官
   レオルーカ・バガレッラ
   ベルナルド・プロヴェンツァーノ
   トト・リーナ
といったボスたちは、クートロの排除を繰り返し試みた。
 この戦争によってクートロの悪名はより一層露呈した。
 クートロは敵対勢力からのこれほどの激しい反発を予想しておらず、シチリア・マフィアに対する強い敵意は、マフィアからの支援を得るという戦術的優位性も生んだ。
 NF同盟の個々のギャングは、クトロの下士官ほど悪名が高くないという利点もあった。
 NFは当初、警察の取り締まりや捜査の影響をあまり受けていなかった。 
 このため、下士官を攻撃することができた。
 ただし、NF自身も1984年に大規模な取り締まりを受けていた。
 1983年から1984年にかけての1年間、イタリア司法当局は、下士官の活動や組織犯罪に対し、一連の逮捕と大規模な取り締まりを主導した。1983年6月17日(ナポリの報道機関は「下士官の暗黒の金曜日」と呼んだ日)の最初の一斉検挙では、8,000人の警察官とカラビニエリが参加した1日の共同作戦で、856人が逮捕された。
 一連の強制捜査で逮捕された者のうち、300人は速やかに有罪判決を受け、さらに630人が裁判にかけられた。
 後に合計1000人以上が下士官との関わりの罪で起訴された。
 最終的に行われたマキシ裁判は3年間続き、9人の裁判官と数十人の法務書記官、弁護士、証人、そして憲兵が参加した。裁判記録には、審理全体の録音テープも含まれており、ナポリの法廷の一室を埋め尽くした。
 この時期には、ペンティティ(隠密)と呼ばれる密告者も次々と現れた。
 その筆頭がパスクアーレ・バーラだった。
 バーラは、クトロが自分を殺そうとしていることを知り、より強力な保護を得るために下士官殺害の詳細を暴露しようと決意した。
 続いて、下士官の保証人の一人であった
   ジョヴァンニ・パンディコ
が告発を行い、1983年の警察による弾圧で多くの逮捕者を出した。
 しかし、彼の告発の多くは後に根拠がないことが証明された。
 3人目の主要な下士官候補生は
   マリオ・インカルナート
で、1983年後半に一連の殺人を自白した。1980年代半ばには、
   ジョヴァンニ・アウリエマ
がこの下士官と秘密情報機関の関係を暴露した。
 また、パスクアーレ・ダミコはクトゥーロとカラブリアのンドランゲタの関係を暴露した。
 組織犯罪作家のトム・ビーハンは、クトロの敗北とNCOの没落に至った主要な要因を次のように説明している。
まず、クトロの傲慢さと短気さがNF結成の要因となったと指摘する。
 さらに、クトロがもっとゆっくりと行動し、より多くの合意形成を図っていたならば、ナポリ地方の絶対的なボスになれたかもしれないと述べている。
 次に、NFギャングの経験豊富なメンバーと比較して、NCOの「歩兵」の多くが若く未熟だった点を挙げている。
 NCOのメンバーは、裏切りの疑いがあるだけで仲間を殺害する傾向があり、それがさらにメンバー数を減らした。
 あるペンティート(仲間)はこう回想している。「クトロニアン(クトロニアン)は傲慢な行為に走り、理由もなく人を殺した」。
 第三に、彼は、クトロがみかじめ料のような労働集約的な活動に集中し、より利益の高いヘロイン密売組織をほぼ完全に避けていたという戦略的な誤りを犯したと述べている。
 クトロはチリロ誘拐事件でも手を出し過ぎた。
 1981年4月27日、赤い旅団は60歳のキリスト教民主党(DC)の政治家
   チロ・チリロ
を誘拐し、ナポリのアパートのガレージで彼の護衛2人を殺害した。
 当時、チリロは1980年11月23日にイルピニア地方を襲った地震で壊滅的な被害を受けたカンパニア州の復興活動を指揮していた。  
 シリロが行方不明になっていた間、DCの政治家
   アントニオ・ガヴァ
とその党員たちは、
   赤い旅団
との良好な関係を利用してシリロの釈放を画策するため、下院議員(NCO)と国民党(NF)の双方に接触した。
 カルミネ・アルフィエリが率いる国民党(NF)は、政治家たちに利用されることを嫌がり、この事件には一切関与しないことを主張し、行動を起こさなかった。
 しかし、クトロと下院議員の交渉の結果、シリロが釈放されたことで、アルフィエリと国民党は、下院議員がこの行動によってガヴァとその派閥との関係を強化したのではないかとの懸念を抱くようになった。
シリロの釈放交渉の見返りとして、クトロはカモッラに対する警察の捜査の緩和、カンパニア州における建設契約の入札権の掌握(1980年11月の壊滅的な地震以来、利益の多い事業となっている)、そして自身の刑期の短縮、そして自身の行為に責任がないことを証明するための新たな精神鑑定を要求したとされている。これらの譲歩はいずれも認められた。
 その後、クトロはガヴァを脅迫し始め、合意の遵守を要求し、もし従わない場合は、人質解放のために共謀した国家機関(シークレットサービスなど)を破滅させるような暴露によって世間のスキャンダルを巻き起こすと脅迫した。
 その結果、かつての政治的庇護者たちは寝返り、最大のライバルである
   カルミネ・アルフィエーリ
を支持した。
 後にペンティートとなったヌオーヴァ・ファミリアのリーダー
   パスクアーレ・ガラッソ
は、法廷証言の中で、誘拐後にDCとNCOの間に存在した緊張について簡潔に説明した。
 ガヴァ家はラファエレ・クトロの要求にプレッシャーを感じていた。
 クトロは合意が守られることを期待し、チリロ解放のために共謀した国家機関を巻き込むようなスキャンダルを巻き起こすと脅迫していたからである。
 ガヴァ族はクトーロに脅威を感じ、当時クトーロと戦える唯一の人物であるカルミネ・アルフィエーリに頼り、同盟を結んだ。
 一方、アルフィエーリもまた、クトロを壊滅させることに熱心だった。
 クトロが期待通りの利益を得た暁には、ライバル組織を滅ぼすことも躊躇しないことをアルフィエーリは十分に承知していた。
 ガラッソは法廷で次のように述べた。
 チリロが釈放された時、我々はクトロの介入によるものであることを十分に認識しており、彼がガヴァとスコッティとの関係を強化したのではないかと懸念していた。
 サルヴァトーレ・アルフィエーリの殺害は、クトロが決して振り返らないというシグナルであった。
 チリロ事件に関与した政治家や秘密機関によって背後を守られていると感じていたからだ。
 アルフィエーリは、戦時中に兄弟を殺害したとして、既に下士官の幹部を排除することを決定していたようである。
 1982年11月、下士官の資金提供者である
   アルフォンソ・フェラーラ・ロサノヴァ
が殺害された。
 1983年1月、アルフィエーリの盟友
   パスクアーレ・ガラッソ
によって副官であり主要な「軍事」指導者であった
   ヴィンチェンツォ・カシージョ
が車爆弾で殺害されたとき、ラファエレ・クトロが戦争に敗北したことは明らかだった。
 彼の権力は著しく低下した。
 クトロだけでなく、他の多くのカモッラ・ギャングもカシージョの死によって生じた勢力図の変化を理解していた。
 彼らは下士官を見捨て、アルフィエーリと同盟を結んだ。
 カシージョのパートナーは死後数週間で行方不明となり、彼女の遺体は1983年12月に高速道路下の溝の中から発見された。
 交渉に関わったNCOの主要メンバーであるニコラ・ヌッツォは、捜査判事
   カルロ・アレミ
と面会した直後の1986年、ローマの病院の病棟で殴打されて死亡した。
 カシージョのボディガードであり、NCO交渉チームのメンバーでもあった
   サルヴァトーレ・インペラトリス
は、1989年3月に精神病院で不審な死を遂げた。
 カシージョを殺した爆発で両足を失った
   マリオ・クオモ
は、1990年10月に殺害された。
 クトロの弁護士
   エンリコ・マドンナ
は、シリロ誘拐事件について知っていることすべてを議会委員会に話す用意があるとジャーナリストに語った3日後の1993年10月に殺害された。
 殺人のほとんどはシリロ事件に関連していた。
 1982年1月、サンドロ・ペルティーニ大統領の強い要請により、クトゥーロはナポリから遠く離れたアシナラ島の刑務所に移送され、厳しい刑法41条の刑罰が課せられたため、外部との連絡能力が著しく制限され、クトゥーロの影響力も低下した。
 NCOの主要人物の排除は、NCOの政治的・犯罪的勢力としての敗北の終焉を象徴するだけでなく、カルミネ・アルフィエーリとNFの台頭をも意味した。
 彼らは事実上無敵となり、カンパニア州の政治家や実業家、そして他の犯罪組織との主要な連絡役としてNCOに取って代わった。
 1990年12月24日、ファッブロチーノ一族の構成員によって射殺されたクトゥーロの息子
   ロベルト・クトゥーロ(当時25歳)の殺害
を含む一連の殺害事件と、多くの構成員の投獄が相まって、ヌオーヴァ・カモッラ・オルガニザータは終焉を迎えた。
 しかし、クトゥーロとNCOが姿を消したことで、NF同盟はすぐに多くの氏族に分裂した。
 1983年末にはバルデリーノ一族とヌヴォレッタ一族の間で戦争が勃発した。
 2021年2月17日、クトロ氏はパルマのマッジョーレ病院の拘置所で79歳で亡くなった。
 州警察は公開葬儀を禁止した。

    
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2025年10月24日

マルチグループ(Multigroup)ブルガリアの複合企業

マルチグループ(Multigroup)はブルガリアの複合企業で、ブルガリア人実業家
   イリヤ・パブロフ
が創業した。
 2003年3月7日に暗殺されるまでそのリーダーを務めていた。
 1995年、マケドニア共和国のリュボミール・フルツコスキ内務大臣は、1995年10月3日の
   キロ・グリゴロフ暗殺未遂事件
の背後には「隣国の有力な多国籍企業」がいると公に主張した。
 なお、マケドニアのメディアはマルチグループを容疑者として報じた。
 イリヤ・パブロフとグリゴロフがオフリドで会談した後、パブロフは当時のマケドニア共和国大統領に対し、これは虚偽であると明言した。
 ただ、あらゆる捜査は徒労に終わった。

   
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2025年10月18日

BOKファイナンシャル・コーポレーション(BOK Financial Corporation)

 オクラホマ州タルサに本社を置く金融サービス持株会社
 アメリカ中西部および南西部において、個人向けおよび商業向け銀行業務の包括的な商品・サービスを提供している。
 全米で上位50社に入る金融サービス会社の一つである。
 また、オクラホマ州では最大の企業である。
 同社の銀行子会社であるBOKF, NAは、
   バンク・オブ・オクラホマ
   バンク・オブ・テキサス
   バンク・オブ・アルバカーキ
のブランドで事業を展開している。
 また、アリゾナ州、アーカンソー州、コロラド州、カンザス州、ミズーリ州では
   BOKファイナンシャル
として事業を展開している。
 また、ATMおよびデビットカード処理会社である
   TransFund
   Cavanal Hill Investment Management
   BOK Financial Securities
   BOK Financial Advisors
   BOK Financial Insurance
   BOK Financial Asset Management
も運営している。
 同社は、1991年にFDICから買収した
   ジョージ・カイザー氏
が50%以上の株式を保有している。
 エネルギー関連事業で知られる同社は、2021年6月30日現在、融資ポートフォリオの14%を石油業界の借り手向けとしている。

 売上高 20億2,000万米ドル(2023年12月期)
 純利益 5億3,070万米ドル(2023年12月期)
 運用資産 1,047億米ドル(2023年12月期)
 総資産 498億米ドル(2023年12月期)
 資本金 51億米ドル(2023年12月31日終了会計年度)
 所有者 ジョージ・カイザー(53%)
 従業員数 4,966名(2023年12月31日現在) 
    
 BOKファイナンシャルは、主にエネルギー業界への資金調達を目的として1910年に設立され、地理的・市場的範囲を拡大し、米国最大規模かつ最も多角的な地域金融機関の一つとなった。
 同社のルーツは、1910年に設立されたタルサのエクスチェンジ・ナショナル・バンクに遡る。
 エクスチェンジ・ナショナル・バンクは1917年、タルサのサードストリートとボストンアベニューの交差点に本社ビルの建設を開始しました。1928年には、最初のビルに隣接して28階建てのタワービルを建設した。
 この複合ビルは、その後320サウスボストンビルと改名され、1967年までタルサで最も高いビルであり続けた。
 銀行はそれ以来、継続的にこのビルで支店を運営している。
 1933年にはナショナル・バンク・オブ・タルサ、1975年には州全体へのアプローチを反映するため
   バンク・オブ・オクラホマ(Bank of Oklahoma)
に改称した。
 また、1975年にはオクラホマ州初のATM(現金自動預け払い機)を設置した。
 翌年、従業員を新しいBOKタワーに移転させ、1979年には資産額が10億ドルに達した。
 5年後の1984年には、
   フィデリティ・オブ・オクラホマ(Fidelity of Oklahoma)
を買収し、資産額は30億ドルに達した。
 その後まもなく、オクラホマ州のエネルギー市場が不況に陥り、バンク・オブ・オクラホマは破綻の危機に瀕した。
 1986年、連邦預金保険公社はバンク・オブ・オクラホマを
   総額1億3000万ドルで救済
し、革新的な対応として高く評価された。
 過去50年間で、FDICが経営難に陥った銀行を破綻させずに存続させるために行動したのは、これが8回目に過ぎない。
 オクラホマ銀行とタルサの
   オクラホマ銀行
が合併し、 FDICは合併後の金融機関の99.99%の所有権に転換可能な優先株を受け取った。
 1991年6月7日、同社の総資産が20億ドル弱となった時点で、FDIC(連邦預金保険公社)の仲介による売却で、取締役を務めていた
   ジョージ・カイザー
が6,070万ドルで同社を買収した。
 カイザーの所有下で、同社は
   BOKファイナンシャル
となり、オクラホマ州近郊の成長市場への進出戦略を展開した。
 1994年以降、同社はオクラホマ州以外にも着実に事業を拡大した。
 1994年、アーカンソー州北西部で事業を展開していた銀行持株会社を買収し、アーカンソー州に進出した。
 1997年、2つの銀行を買収し、合併して
   バンク・オブ・テキサス
に改名した。
 1998年、ニューメキシコ州に進出し、バンク・アメリカ・コープから17支店を買収し
   バンク・オブ・アルバカーキ
に改名した。
 2003年、コロラド州に進出し、コロラド州立銀行を設立し、2018年10月にはコロラド州に拠点を置くCoBiz Financial(旧コロラド・ビジネス・バンク)を買収した。
 コロラド州とアリゾナ州の事業は、2018年に「BOK Financial」にブランド名を変更した。
 2005年、BOKファイナンシャルはBOKセンターの命名権を1,100万ドルで取得した。
 2005年、アリゾナ州に進出し、
   バンク・オブ・アリゾナ
を設立した。
 2016年には、カンザスシティの
   ミズーリ・バンク・アンド・トラスト
の親会社である
   MBTバンクシェアーズ
を買収し、ミズーリ州に進出した。
 2019年10月、同社はアーカンソー州、カンザス州、ミズーリ州での事業をBOKファイナンシャルに改名した。
 2025年6月25日、BOKファイナンシャルは
   コロラド・アスレチックス(コロラド・アスレチックス)
の公式銀行パートナーに任命された。 
 BOKファイナンシャルは、従来のエネルギーファイナンスの専門知識に加え、ヘルスケア関連のファイナンスにも特化しており、高齢者向け住宅や介護施設、病院、医療システムの所有者・運営者、医師、専門医に金融・銀行サービスを提供している。
 BOKファイナンシャルは、部族国家や政府と協力し、ヘルスケア、教育、部族インフラ整備のための金融ソリューションを提供している。
 米国全土で45以上の部族と関係を築き、近年では部族プロジェクトのために30億ドル以上の資金調達を支援してきた。
 BOKファイナンシャルは現在、部族政府や企業のために40億ドル以上の資産を運用している。

   
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2025年10月17日

ルネサンス・テクノロジーズLLC(Renaissance Technologies 別名:RenTecまたはRenTech) 米国のヘッジファンド 運用資産(レバレッジを含む)は1650億ドル(2021年4月現在)

ルネサンス・テクノロジーズLLC(Renaissance Technologies 別名:RenTecまたはRenTech)は、ニューヨーク州ロングアイランドのイースト・セタウケットに拠点を置く米国のヘッジファンドで、数学的・統計的分析に基づく定量モデルを用いたシステマティック・トレーディングを専門としています。ルネッサンスは、冷戦時代に暗号解読者として活躍した数学者、
によって1982年に設立された。
 1988年、同社は
   メダリオン・ファンド
を設立した。
 これは、レナード・バウムの数理モデルを代数学者
   ジェームズ・アックス
が拡張したもので、相関関係を探求することで利益を得られることを狙っている。
 このヘッジファンドは、シモンズとアックスが受賞した数学賞にちなんでメダリオンと名付けられた。
 シモンズ氏は2009年末に退職するまでルネサンスを率いていた。
 彼は2021年まで非執行会長として同社の役割を担い続けた。
 彼は2024年に亡くなるまで、同社のファンド、特にメダリオン・ファンドに投資を続けた。
 現在、同社は(ロバート・マーサー氏の辞任後)ピーター・ブラウン氏によって運営されている。
 両氏は計算言語学を専門とするコンピュータ科学者で、1993年にIBMリサーチからルネサンスに入社した。
 2021年4月現在、同ファンドの運用資産(レバレッジを含む)は1650億ドルに上っている。

 従業員数:310名(2021年) 
   
 ジェームズ・シモンズ氏は、ストーニーブルック大学で10年間数学科長を務めた後、
   ルネサンス・テクノロジーズ
を設立した。
 シモンズ氏は1976年にアメリカ数学会のオズワルド・ヴェブレン賞を受賞した。
 彼は現代の理論物理学で使用されている
   チャーン・サイモンズ理論
の共同開発者として科学界では知られていた。
 同社はクオンツ取引を行っており、ペタバイト規模のデータウェアハウスのデータを活用し、特定の市場における証券価格の方向性に関する統計的確率を評価している。
 ルネサンス・テクノロジーズのスタッフは、同社が考慮する金融・経済現象の周辺事象に関する幅広いデータと、計算と執行のためのスケーラブルな技術アーキテクチャを導入することで大量のデータを処理する同社の能力を、同社の強みと評価している。
 ルネサンス・テクノロジーズのヘッジファンドは、取引の分析と執行に数理モデルを用いており、その多くは自動化されている。
 同社は、容易に取引される金融商品の価格変動を予測するために、コンピューターベースのモデルを用いている。
 これらのモデルは、収集できる限り多くのデータを分析し、ランダムではない動きを探して予測を行うというものだ。
 また、同社の業績は、パターン認識などの金融信号処理技術の活用によるものだと考える人もいる。
 著書『The Quants』には、音声認識の専門家(多くはIBM出身者で、現経営陣も含まれる)の採用について記されている。
   
   
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2025年10月14日

ギャング・デ・トラクション・アヴァン(Gang des Tractions Avant) パリのピガール地区に存在した犯罪組織

ギャング・デ・トラクション・アヴァン(Gang des Tractions Avant)は、パリのピガール地区に存在した犯罪組織で
    カルリング民兵(Carlingue militia 別名 フランス国営ゲシュタポ)
の生き残り、退職した警察官、そしてフランス・レジスタンスの犯罪者で構成されていた。
 彼らの多くはドイツ占領軍との協力関係からレジスタンスへと転向し、その後組織犯罪へと転向した。
 なお、環境は変化しても、彼らの行動と手口は変わらなかった。
 ギャングの名称は、愛用していた
   シトロエン11CV「トラクション」
に由来している。
 彼らの手口は主に1911年から1912年にかけてのベル・エポック後期にフランスとベルギーで活動していたフランスの
   犯罪的無政府主義集団
のギャング団で非合法な環境に身を置く個人で構成され、当時警察が利用できなかった自動車や連発ライフルなどの新しい技術を使用した
   ボノ・ギャング(Bonnot Gang)
の手法に由来し、1981年から1986年にかけてパリで活動し、約30の銀行を襲撃した銀行強盗団
   ギャング・デ・ポスティッシュ(Gang des postiches)
をはじめとする他の多くのギャングにも引き継がれた。
◯最も有名なメンバー
 ・ピエール・ルートル(Pierre Loutrel 1916-1946)
   「狂気のピエロ」として知られ、フランス初の「公敵ナンバーワン」
 ・エミール・ビュイソン(Émile Buisson 1902-1956年)
   通称「ミミール(Mimile)」 
   ルートルの副官であり、その後継者として「公敵ナンバーワン」となった。
   最終的にロジャー・ボルニッシュによって逮捕された。
   1956年、ギロチンで処刑
 ・ルネ・ジリエ(René Girier 1919-2000)
   ルネ・ラ・カンヌ(René la Canne)
   「回避の王」と呼ばれている。
 ・アベル・ダノス(Abel Danos)
   「ル・マンマス」(マンモス the Mammoth)として知られる
 ・ジョルジュ・ブーシュセイシュ(Georges Boucheseiche)
   後にベン・バルカ事件に巻き込まれる
 ・フランソワ・マルカントーニ (François Marcantoni 1920-2010)
   「ムッシュ・フランソワ(Monsieur François)」として知られる
   マルコビッチ(Markovic)事件の容疑者
     ジョー・アティア
   もその事件に巻き込まれた。
   
   
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投資家関心薄れる兆しか?メタプラの企業価値が保有ビットコインを下回る

 コア資産としてビットコインを取得・管理する
   メタプラネット
の企業価値が14日、保有するビットコインの価値を下回った。
 いわゆるデジタル資産トレジャリー企業に対する
   投資家の関心が世界的に薄れる兆し
が浮かび上がっている。
 メタプラは2024年4月にビットコインの購入を開始した。
 株価は当初は保有資産に対し大きなプレミアムで取引されていた。
 ただ、6月に過去最高値を付けた後、約7割下落した。
 その結果、同社が公表するデータによれば時価総額と負債を基にした「mNAV」はこの日一時0.99まで低下した。
 トレジャリー企業は今年、デジタル資産を保有する企業に株式投資というなじみの形でアクセスできる手段として人気を集めた。
 夏場までは多くの企業が保有資産に対してプレミアムで取引されていたが現在、メタプラは
   ディスカウントで取引
されるという新たな局面に直面している。
 サイトによるとメタプラは現在、約3万ビットコイン(時価総額約34億ドル)を保有している。
 株主は最近、機動的な資金調達の検討を可能にする優先株発行を可能にする計画を承認した。
 9月には海外募集での新株発行通じて約2041億円を調達し、ビットコイン購入の原資としている。
   
 
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野党の首相候補1本化、立民・国民の安全保障政策一致が当面の焦点?外国人の帰化の問題や竹島の軍事占領への対応をしないのか...

 来週にも召集される臨時国会の首相指名選挙で立憲民主党が目指している野党候補の1本化は、有力候補とされる玉木雄一郎氏が代表を務める国民民主党と安全保障政策で一致できるかが当面の焦点という。
 玉木氏は14日午前の記者会見で、仮に野党が連立政権を組む場合は「安全保障政策、原発を含むエネルギー政策は一致させておかないと政権もがたがたする。特に安全保障に関しては寸分の揺らぎも許されない状況にある」と明言した。
 自民、公明両党の連立解消を受け、立民は首相指名選挙の野党候補一本化に向けた動きを加速化している。
 玉木氏の発言は新たな連立政権樹立には、まずは立民が基本政策を現実路線に転換することが不可欠との認識を示したものだ。
 国民、立民両党は共に連合を支持母体とするものの、安全保障やエネルギー面で隔たりは大きい。立民は安全保障法制の違憲部分廃止や原発ゼロ社会の実現を目指すとしている一方、国民は「反撃力の保持」や原子力発電の最大限活用を掲げている。両党と日本維新の会は14日午後、幹事長会談を実施する予定だ。
 立民の安住淳幹事長は同日、フジテレビのインタビューで、国民との違いについて「そう大きなものではない」との認識を示した。「大きな塊で首班指名に本当に臨む気があるのなら、寛容さは必要だ」とも述べた。
 首相指名選挙の行方が不透明となる中、14日の日本市場は株式が大幅続落し、日経平均株価の下げ幅は一時1400円を超えた。
  20日以降に行われる見込みの首相指名選挙では1回目の投票で過半数を得る候補がいない場合、上位2人による決選投票で票数が多かった議員が当選する仕組み。
 野党が候補者を一本化しなければ、決選投票では衆院の比較第1党である自民党の高市早苗総裁が首相となる公算だ。
 立民、国民と維新の3会派を合わせた議席数は210議席と自民党会派の196議席を上回る。
 このため、3党がまとまれば統一候補が首相に選ばれる。
 過去には1993年に就任した細川護熙氏などの例がある。
 維新では、立民と国民が一致するかどうか見極める方針だ。
 吉村洋文代表は14日、安保政策などで両党が「本当にまとまるのであれば、われわれもしっかりと聞いていきたい」と記者団に語った。その上で、立民が政策変更を「機関決定するのかどうか」を注視する考えも示した。
 ただ、吉村氏は13日のテレビ番組では自民とも申し入れがあれば協議に応じる方針も示している。
 10日に自民との連立離脱を決めた公明党の出方も、首相指名の結果を左右する可能性がある。
 斉藤鉄夫代表は12日、フジテレビの番組では個人的考え方として「野党の方に投票することはありえない」としていたが、その後は発言を修正した。
 野党統一候補も可能性の一つだとBS日テレの番組で述べ、含みを持たせた。
 また、西田実仁幹事長は14日の記者会見で、首相指名選挙への対応について1回目は斉藤代表に投票するとした。決選投票に関しては「あらゆる可能性があるが、今週さまざまな分析を行ってわが党として方針を決めたい」と述べるにとどめた。
 こうした中、自民は14日午後、両院議員総会と同懇談会を開き、今後の対応について所属議員の意見を聞く。
 船田元衆議院議員がFacebookで公明との連立解消に関し、高市総裁の対応を公然と批判するなど所属議員から執行部への批判が既に出ている。
 高市氏は経緯について説明し、理解を求める考えとみられる。
 自民党の鈴木俊一幹事長は14日午後、国民の榛葉賀津也幹事長と会談した。
 榛葉氏によると、同氏は自民、公明、国民の3党幹事長で合意したガソリン税の暫定税率廃止などを年内に実施するよう要求した。
 鈴木氏はスピード感を持ってやりたいと述べたという。
 鈴木氏は日本の政治の安定性を取り戻さなければならないとして、今後、国民民主と連携していきたいと申し入れた。
 鈴木氏は高市総裁と玉木代表による党首会談の実施も提案したが、榛葉氏は立民や維新の対応を見て、代表が判断すると記者団に述べた。
 会談で榛葉氏は「政治とカネ」を巡る問題の対応についても前向きに取り組むよう改善を求めた。鈴木氏からは協議体を設けて国民の理解を得られるように努力したいとの回答があった。
 ただ、榛葉氏は記者団に対し、自民の対応について「釈然としないという思いがある」と語った。
  
  
ひとこと
 政権維持目的で国益を害し、米国の言いなりに質の悪い兵器を購入数るなどで防衛力の整備が遅れている現状だが、改善できるかどうかだ。
 そもそも、米国国際資本の言いなりで円安政策を維持し続けてきたり、規制緩和や行政改革、事業仕分けを行ったり、外国人の利益ばかりを優先すしたり、数を揃えるために宗教政党の言いなりになるなども問題が散見される政治からの脱却が必要だ。
 そもそも、生活保護が年金支給者よりも過度に保護されているのも問題であり、収入に応じた減額も,お布施等に回るようなことがまかり通っては不公平感が強まるばかりだ。
 負担が不平等であり、医療保険の配分がつかみ金では話にもならず、コロナ時の開業医と勤務医の待遇の差も問題だ。
     
  
posted by まねきねこ at 18:54| 愛知 ☀| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする