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2017年12月14日

風土記(ふどき)


風土記(ふどき)

 奈良時代初期の官撰の地誌で
   元明天皇
の詔により各令制国の国庁が地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書のこと。

 律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があっ。

 なお、風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解」(げ)と呼ばれていた。


 この報告書は主に漢文体で書かれており地方統治の指針とした。
   
 ただ、正式名称ではなく、ほかの風土記と区別して「古風土記」ともいう。

 律令制度の各国別で記されたと考えられ、幾つかが写本として残されている。
 記すべき内容としては
    ・郡郷の名(好字を用いて)
   ・ 産物
    ・土地の肥沃の状態
    ・地名の起源
    ・伝えられている旧聞異事

などで、写本として5つが現存している。
 『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残っている。 

    
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posted by まねきねこ at 16:46| 愛知 ☁| Comment(0) | 用語集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月12日

朱印とは?


朱印は「記念スタンプ」とは違い、寺社の職員や僧侶、神職、氏子などが押印する。
 単に印を押すだけでなく、墨書で寺社名や参拝日などが書かれることが多い。
 
 また、墨書も含めて「朱印」と呼ばれる。
 
 寺社名や本尊を墨書せずに、寺社名や本尊の入った印章(スタンプ)を押す
   「版木押し」
であったり、事前にあらかじめ「書き置き」した別紙、または墨書や版木押しを複写した別紙を渡されたり、貼り付けられる寺社もある。
 
 これらは納経帳が現れ始めた江戸時代から存在するもので、住職や神主が不在の場合に渡されることが多い。
 
 
 朱印の起源には諸説ある。
 元々は寺社に
   写経
を納めた際の受付印であったとする説が有力で、朱印の右上に「奉納大乗経典」と書かれていた。
 そのため「納経印」とも呼ばれている。
 
 現在でも納経(写経の奉納または読経)をしないと朱印がもらえない寺院が存在する。
  

    
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2017年12月02日

朱印(しゅいん)について


朱印(しゅいん)
 
 主に神社や寺院において、主に参拝者向けに押印される印章、およびその印影である。敬称として
   御朱印(ごしゅいん)
とも呼ばれる。

 複数の朱印の印影を集めることを集印(しゅういん)と呼び、朱印を押印し集印するための専用の帳面を朱印帳(しゅいんちょう)あるいは、御朱印帳(ごしゅいんちょう)、納経帳(のうきょうちょう)、集印帳(しゅういんちょう)と呼ぶ。
 
 屏風折(折り本)にして両側に固い表紙をつけた形式のものや、和綴じ(和装本)のものがある。
  

    
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2017年02月08日

真言(しんごん)


真言(しんごん)

 サンスクリット語のマントラ(मन्त्र Mantra)の訳語で
   仏の真実の言葉
   秘密の言葉
という意。

 7-8世紀頃成立したと考えられている密教経典の
   「大日経」
などに由来し、浄土真宗を除く多くの大乗仏教の宗派で用いられる呪術的な語句。

 漢訳経典では、「真言」の他に「密言」、「呪」、「明呪」等と訳される。


       
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   (出典:https://www.youtube.com/embed/MoTlzMJAwj0)  

     
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2017年02月04日

マントラ(मन्त्र Mantra)仏に対する讃歌や祭詞、呪文、祈りを象徴的に表現した短い言葉を指す。


 マントラ(मन्त्र Mantra)

 サンスクリットで、もともとは「文字」「言葉」を意味している。
 真言と漢訳され、大乗仏教、特に密教では仏に対する讃歌や祭詞、呪文、祈りを象徴的に表現した短い言葉を指している。
 
 インドではヴェーダ聖典、またはその本文であるサンヒター (saMhitaa) のこと。
 また、タントラ教ではシャクティ崇拝の儀礼の際に用いられる祈祷の定型句、ヨーガ学派では音声による修行法を意味する。

 密教では、真言を念じて心を統一する
   真言陀羅尼(しんごんだらに、dharaNii)
が重要視された。

 また、諸仏を象徴した種子(しゅじ)と呼ばれる
  悉曇文字(しったんもじ、siddaM)
も真言の一種といえる。


    
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2017年01月08日

吉祥文様(きっしょうもんよう)


吉祥文様(きっしょうもんよう)

 縁起が良く、不老長寿を願う柄付けで祝いの席などで好まれます。

 代表的なものでは、鶴・亀・鳳凰・龍・松竹梅・四君子・牡丹・宝尽くしなどがある。
 
  

   
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2016年10月06日

紅幇(ほんぱん) 中国の民間発祥の秘密結社


紅幇(ほんぱん)

 中国の民間発祥の秘密結社
 同時期に存在した「青幇」は大運河の水運業ギルドを派生根拠し反体制の活動を行っていた秘密結社とは一般的には対のようにいわれる。

 ただ、「紅幇」は水運業などの「洪門(洪幇)」ではなく、白蓮教や天地会など宗教的な結びつきのある農民集団の影響を受けながら、清代18世紀に四川省で生まれた反体制派秘密結社の「哥老會」という一幇会とされる。
 

 紅幇は、1851年に客家出身の宗教家
   洪秀全
を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織
   太平天国
によって引き起こされた大規模な反乱(太平天国の乱)が発生した。

 天候不順に伴う大規模な飢饉が広がったことでこの鎮圧に清朝が手を焼き各地で蜂起が発生し全土が大混乱となった。

 1854年に退役軍人たちは清朝に対し処遇に不満を持ち山に立て篭もって山賊団を結成したことから「紅幇」が始った。

 なお、青幇に比べて分散的な集合体で大きな政治力もなく規則も簡単で平等主義をとっていた。

 主に湖南省から四川省にかけて勢力を張っていたものの、軍人等の集合体であり、はっきりとした拠点はなかった。

 幇会というのは相互扶助的な側面が強く、青幇と紅幇の両方に所属している者もいた。

 1920年代には、その一部が軍資金を得るために阿片や売春など商売に力を入れていた。
 なお、上海でも活動していた紅幇は、哥老会系が中心となって勢力を拡大した。

 なお、保有する武器としての刃が直刃の刀を使うのが特徴である。


   
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2016年09月24日

安南都護府(あんなんとごふ)


安南都護府(あんなんとごふ)

 唐代に辺境警備・周辺諸民族統治などのために置かれた軍事機関「六都護府」の一つ。

 622年、現在のハノイに南海の特産品(真珠、ヒスイ、ガラス玉、タイマイなど)を中国にもたらす拠点として
   交州総管府
を設置、624年、交州都督府に改称した。

 679年、安南都護府に改組している。

 8世紀頃には人口約10万、13州、39県、32羈縻州を支配下においた。

 767年、おそらくは東南アジア島嶼部の勢力から攻撃を受け、当時の都護
   張伯儀
が、羅城を建設して襲撃に備えた。


   
  

 遣唐使の
   阿倍仲麻呂
は唐朝で天平宝字4年(760年)に左散騎常侍(従三品)として任官し、天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間、鎮南都護・安南節度使(正三品)として南都護府の総督を務めた。

 9世紀初頭にはオーストロネシア語族を中心とする王国
   林邑(チャンパ)王国(192年 - 1832年)
の攻撃が激化したため、水軍の強化と羅城の要塞化が進められた。

 軍事費の増大は、現地民への増税につながったため、現地人の不満が蓄積して都護が殺されることもあったという。


 さらに、中国西南部、雲南地方の洱海地区に勃興したチベット・ビルマ語族の
   南詔王国
が、勢力を拡大して四川から雲南を経て
   紅河デルタ
へ至る商業路を確保する目的で侵攻し安南都護府を攻撃した。

 863年、南詔によって安南都護府が陥落した。

 「黄巣の乱」により黄巣が斉朝を建国したものの金統5年(884年)5月に中牟県の北にある
   王満渡の決戦
で唐に大敗し壊滅状態になった。
  
 こののち唐はベトナム支配を維持するべく、再び軍を率いて都護府を再建した。

 ただ、この期間にベトナムの中南部から海南島に抜ける交易路が発展した影響から、紅河デルタの地勢的な優位性が失われた。
 そのため、都護府を維持するための重要性も低下し、880年に起こった反乱で節度使の曾袞が追放され、都護府は形骸化することになった。


    
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2016年09月10日

徴姉妹(ハイ・バー・チュン) の乱


徴 姉妹 (ちょう しまい Hai Bà Trưng )
 
 1世紀に後漢の支配地域であった交州 (現在のベトナム北部など) で起こった反乱を首謀した
   徴側 (ちょうそく Trưng Trắc ? - 43年)
   徴弐 (ちょうに Trưng Nhị? - 43年)
 の姉妹を指す。

 徴側は峯州麋冷県の有力な
   貉将 (地域の軍事指導者)
の娘として生まれた。
 
 朱鳶県 (現 ハタイ省ソンタイ) の有力者であった
   詩索
の妻であった。
 ただ、徴弐の出生地は伝わっておらず姉と同様であると考えられる。

 
 ベトナム(交州) は前漢の武帝の時代に中国の侵攻に伴い支配下に入った。
 
 漢朝に支配されるまで貉将および貉侯(地域の領主)が割拠していた。
 地域の領主が有していた税の徴収権が中国側へと移管されていった。
 
 当時、南越を支配していた後漢に対しては、交州の有力者であった徴側が取り纏める形で徴税権を南越側に再び戻すように後漢政府に通告した。

 交趾郡太守・蘇定の悪政の影響から40年3月には南越内の合浦・九真・日南各郡65の県の貉将・貉侯がこれに賛同したという。
 
 徴側の妹であった徴弐も加わって、徴側は自ら女王として「徴王」を自称し麋冷県に宮廷を構えて徴税を強行する姿勢を示した。
   

 後漢の
   光武帝
はこれに対して徴姉妹による一連の行動を後漢に対する
   「重大な反乱行為」
であると判断し、馬援を「伏波将軍」に任じ反乱鎮圧を命じた。

 馬援は扶楽侯・劉隆を副将として、兵20,000(正規兵8,000、現地兵12,000) を率いて42年4月に南越へ到着した。

 ただ、悪天候と疫病の流行によって行軍が思うように進まず、馬援軍は苦戦を強いられた。
 
  南越兵の中でも厭戦ムードが広がったため徴姉妹は戦闘により早期の妥結を図るべく馬援軍と浪泊で決戦を挑んだ。
 
 軍事的な力の差があり大敗を喫し、徴姉妹が動員した将兵は数千が戦死し、20,000人以上が捕虜となった。
 
 徴姉妹は麋冷県・禁谿へ逃れたものの、馬援軍により厳しい追討が継続され徴姉妹は共に捕らえられた。
 尋問されたのちに処刑され、翌43年初めに徴姉妹の首は洛陽へと送られた。

 その後も馬援は残党を討ち取るため交州内を隈なく追撃して中部ベトナム・ゲアンにまで進軍し、数千人の貉将・貉侯を殺害すしたうえで、漢民族や親漢派の住民を交阯に屯田させ、反乱が起きた土地の根切・根絶を図った。

 しかし、その後も、趙嫗の反乱(248年) など、中国支配に対する反乱は断続的に続くこととなった。
 
 なお、一連の反乱は首謀者・徴姉妹の名を取って、「徴姉妹(ハイ・バー・チュン) の乱」と呼ばれる。


    
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2016年09月08日

華夏族(かかぞく)


華夏族(かかぞく)
  
 中国の古代王朝でもある漢の時代以前に中原の黄河流域に暮らした部族で、漢民族を構成する主体。

 もともと、いわゆる漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず
   華夏族
と称されていた。


   


 周王朝(紀元前1066年 - 256年)の創立者である
   周武王
が商王朝(紀元前16世紀 - 紀元前1066年)の末代の商帝辛を討ち取った後中原に定住し、その一族を「華族」と称した。

  
 また、夏王朝(紀元前21世紀 - 紀元前16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていた。
 この事情から中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったとされている。
     
  
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   古代殷王朝の謎 (講談社学術文庫) -   太公望―殷王朝を倒した周の名軍師 (PHP文庫) -   中国王朝の起源を探る (世界史リブレット) -


  
   
  
      
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2016年08月16日

龍脈


 風水(ふうすい)は、古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の
   吉凶禍福
を決定するために用いられ、運気や気持ち(感情)などの気の流れを
   物の位置で制御
するといった思想のこと。


   
   (出典:https://www.youtube.com/watch?v
  

 人の体にある経絡(けいらく、Meridian)と似た扱いでもある。
 なお、経は経脈を、絡は絡脈を表すもので古代中国の医学においては、人体の中の
   気血榮衛
という気や血や水などといった生きるために必要とされているもので、現代で言う代謝物質の通り道として考え出された。

 経絡に相当するものを風水で龍脈と表現した。

 なお、欧米では遺跡が一列に並んでいるように見える直線「レイライン」などと同じようなものと表現している。


   


 言い換えるとすれば人のツボに相当するのが、龍穴でありパワースポットとされている。
 ツボへの刺激でから全体の健康状態が改善することを考えれば良いでしょう。

 もともと、龍脈は山の高い部分をつないだ線で凸部、龍穴は龍脈が地に落ちた凹部としており、地中を流れる気のルートのことでもある。

 大地の気は山の尾根伝いに流れると考えられており、その流れが龍のように見えることから「龍脈」と呼称している。

 風水では、この「龍脈」の気が噴き出すポイントとされる「龍穴」に住むと、一族は永きに渡って繁栄できると考えられている。
 
 龍脈を自分の家に取り込むことができれば、自ずから運気は上昇しすることになる。


 「龍脈」は、山脈の最も高い山(太祖山 たいそざん)の山頂からはじまり、山脈の尾根伝いにいくつもの支流をつくりながら流れ、その先に「穴(けつ)」を結ぶと考えられている。
 
 この「穴」とは大地の気が集まっている場所ということになりますが、「穴」を結ぶためには力強く曲がりくねっている必要となる。
 勢いがなく、まっすぐに伸びた龍は良い「穴」を結ばないとされる。

 
 また、龍脈の途中で再び高くなっている山の山頂を
   「少祖山(しょうそざん)」
と称し、龍が穴を結ぶ直前の山を「父母山」と呼び北の星宿の神格化ともされる「玄武」と言う亀に似た神獣に例えられる。

 軍事的な活力が高まり中国の領土が西方に広がった当時の唐朝の時代に書かれた
   「撼龍経(かんりゅうきょう)」
によると、地球上の最も巨大な龍脈は
   崑崙(こんろん)山脈
より東西南北に4つの支流が流れているものとし、政治的な世界観の広がりが背景にあるようにも見えます。
 
 そのうち西に流れる大きな流れの龍脈は、ヨーロッパのアルプス山脈にまで流れ、南へ流れる龍脈は台湾から東南アジアへ、東へ流れる龍脈は中国本土へ、そして北へ流れる龍脈はモンゴルからロシアの最東端へと流れ、カムチャッカ半島を通って日本列島へと流れるともされています。
 
 日本列島に限ってみれば、富士山は重要な太祖山となり、ここから発した龍脈は東京の皇居付近に穴を結んでいるとも見なされます。 


ひとこと

 「気迷い」なども気の流れが停滞し方向性を失った時に起こるものだ。 



    
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2016年08月15日

鮮卑(せんぴ) 紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部やモンゴル地域に存在した遊牧騎馬民族


鮮卑(せんぴ)

 紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部やモンゴル地域に存在した遊牧騎馬民族のこと。
 五胡十六国時代や南北朝時代には中国王朝の抵抗が弱まり、南侵して領土を確保し中国に北魏などの王朝を建てた。
 
 漢代の初め、匈奴の
   冒頓単于(ぼくとつ ぜんう)
が東胡を滅ぼした際、その生き残りが
   烏丸山
   鮮卑山
に逃れ、それぞれが烏丸と鮮卑になった。

 鮮卑はしばらく匈奴の勢力下で軍事的な協力関係にあったが、匈奴が南北に分かれ反目し合うと、支配力が弱まり勢力を盛り返すようになった。

 建武30年(54年)、鮮卑の大人(部族長)の
   於仇賁(おきゅうほん)
は部族民を引き連れて後漢の都洛陽に上って朝貢した。
 後漢の初代皇帝の光武帝から王に封じられた。

 永平年間に、祭肜(さいゆう)が遼東太守となると、鮮卑に誘いをかけ賂を送って、漢の命令に従わない烏丸の
   欽志賁(きんしほん)
らを暗殺した。

 永元6年(94年)、鮮卑大都護の
   校尉蘇拔廆(そばつかい)
は、部族民を率いて護烏丸校尉の
   任尚(じんしょう)
に従い、南匈奴の反抗者たちを討伐した。
 朝廷はその功により蘇拔廆を率衆王に封じた。

 殤帝の延平元年(106年)、鮮卑は東への移動を始め、長城の中に入って漁陽太守の張顕を殺した。

 安帝の時代、鮮卑の大人の
   燕茘陽(えんれいよう)
が入朝した。

 朝廷は彼に鮮卑王の印綬を授けた。
 これ以後、鮮卑は、あるときは反抗し、あるときは降伏し、あるときは匈奴や烏丸と争った。

 安帝の末年、国境地帯から歩兵と騎兵2万余りを徴用して、要害の地に駐屯配備させた。

 こののちに鮮卑の8000-9000の騎馬兵が代郡と馬城の砦を破って侵入し、郡県の主立った役人たちを殺害した。

 朝廷は度遼将軍の
   ケ遵(とうじゅん)
を鎮圧するために派遣して、長城を出て鮮卑を追撃させ、これを打ち破った。

 鮮卑の大人烏倫(うりん)、其至鞬(きしけん)ら7000余人がケ遵に対し降伏を申し入れてきた。

 朝廷は烏倫を王に封じ、其至鞬には侯の位を与えた。

 ただ、ケ遵が去ったあと、其至鞬は再び叛き、護烏丸校尉を馬城に包囲した。

 度遼将軍の
   耿夔(こうき)
と幽州刺史とが救援に赴き、包囲を崩したものの其至鞬はこれ以後ますますその勢力を盛んにした。

 其至鞬の軍は長城の内部に侵入して、五原郡の曼柏(まんはく)に向かい、匈奴の南単于に攻撃をかけ
   左薁鞬日逐王(さいくけんじつちくおう)
を殺した。

 
 順帝の時代、再び長城の内部に侵入し、代郡の太守を殺した。

 朝廷は長城付近に軍を駐屯させ、南単于も1万余人を率い、漢の軍を援助して鮮卑に攻撃を加え撃退した。

 こののち、護烏丸校尉の
   耿曄(こうよう)
は、烏丸大人で都尉の戎末廆(じゅうまつかい)を率いて長城を出ると鮮卑に攻撃をくわえたうえ、鮮卑の中の首領格の者たちを多く斬った。

 その結果、鮮卑の3万余落は、遼東郡の役所に降服を申し入れてきた。
    
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2016年08月12日

漢民族


漢民族

 漢民族はもともとは華夏族と称されていた。
 漢民族という名称は漢王朝(BC 206〜AD 220)の時代から使用されるようになった。
 ただ、今でも本土の中国人は中国のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。

 周王朝(BC 1066〜BC 256)の創立者である
   周武王
が商王朝(殷王朝ともいわれる。BC 16世紀〜BC 1066)の末代の商紂王を討ち取った。
 その後、中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜をちなんで
   「華族」
と称した。

 また、夏王朝(BC 21世紀〜BC 16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていた。

 このことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われる。

 紀元前221年、遊牧民の末裔でもある秦の始皇帝が中国を統一した。
 それまで、ばらばらとなっていた華夏族が統一され、その後の漢の時代に文明が高度に発達した。

 漢の時代は前漢及び後漢合わせて408年間にも及び、版図が空前に拡大した。
 安定した政治が続いたため、文化も高度に発達した。

 この時期の華夏族は周辺民族から「漢人」と呼ばれ始めたのが漢族の由来とされる。
 漢民族は漢の時代に形成し、その後幾度の民族融合及び異民族の漢化を経て現在の漢民族を形成して範囲が拡大した。

 王朝の滅亡においては人口崩壊がたびたび起きているのが中国であり、秦朝から現在に至るまで、宋王朝を除き、前王朝の王族等はことごとく粛清されている。

 人口崩壊で最大の割合になったのは、三国志時代で6000万人から1000万人まで人口が減少している。
    
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2016年08月07日

陰陽道(おんみょうどう)


 陰陽道(おんみょうどう)

 陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つ。
 大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じで国家機関の各部署での技術一般を指す用語。
 思想ないし宗教体系を指す用語ではない。

 古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源とし日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系のこと。

 なお、陰陽道に携わる者を陰陽師とよんでいたが、後には陰陽寮に属し六壬神課を使って占いをし、除災のために御払いをするもの全てが陰陽師とよばれるようになった。

 陰陽師集団を陰陽道と呼ぶこともある。
 
 中国では陰陽家の思想は儒教や道教などに吸収されて、日本の「陰陽道」に相当する独自の体系は発達しなかった。

 5世紀から6世紀にかけて飛鳥時代か遅くとも百済から五経博士が来日した512年(継体天皇7年)ないし易博士が来日した554年(欽明天皇15年)の時点までに、全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五要素の組み合わせによって成り立っているとする、中国古代の夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した陰陽五行思想、ないしこれと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計などが中国大陸(後漢(東漢)・隋)から直接、ないし朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由で伝来した。
  
    
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2016年08月01日

歳徳神(としとくじん、とんどさん)


歳徳神(としとくじん、とんどさん)

 陰陽道で、その年の福徳を司る神で、年徳、歳神、正月さまなどとも呼称される。

 歳徳神の由来には諸説あり、気の循環を知り、日月の運行によって占うという陰陽師の秘伝書「簠簋内伝」では、牛頭天王の后・八将神の母の頗梨采女(はりさいじょ)であるとしている。

 牛頭天王が須佐之男尊と習合したことから、その妃の櫛稲田姫とも同一視される。
  
 
 歳徳神の在する方位を
   恵方(えほう、吉方、兄方)
または明の方(あきのかた)と呼び、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされている。

 なお、本命星と恵方が同一になった場合は特に大吉となるが、金神などの凶神が一緒にいる場合は凶方位に変化するため注意がいる。

 歳徳神の在する方位(すなわち恵方)は、その年の十干によって決まる。

 なお、初詣は自宅から見て恵方の方角の寺社に参る習慣がある(恵方詣り)。
    
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2016年07月18日

方位神(ほういじん)


方位神(ほういじん)

 九星術から生じた神々で、その神のいる方位に対して事を起こすと
   吉凶の作用
をもたらすと考えられた。

 方位神は、それぞれの神に定められた規則に従って各方位を遊行する。
 吉神のいる方角を吉方位といい、凶神のいる方角を凶方位という。

 こうしたことが意識され過ぎた平安時代の貴族社会では自分が行こうとする方角が凶方位である場合に、一旦他の方角へ行ってから目的地へ向かう方違え(かたたがえ)が盛んに行われた。

 現在では、凶方位を犯すことによる災厄を避けるため多くの寺院・神社で「方位除け(方除け・八方除け)」の祈祷・祈願が行われる。
    
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posted by まねきねこ at 20:11| 愛知 ☀| Comment(0) | 用語集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月17日

ギュレン運動(ギュレン・ムーヴメント)


ギュレン運動(ギュレン・ムーヴメント)

 ギュレン教団、ヒズメット運動、もしくはヒズメット(奉仕)とも呼ばれる。
 ギュレン運動は、1960年代末にトルコのイズミルで生まれた社会運動で、イマーム、説教者、作家である
   フェトフッラー・ギュレン
の教えに共鳴した人々が参加している。

 トルコの国内外での教育、トルコ文化の普及、宗教対話や貧困解決への支援が評価され、社会のさまざまな方面から支持されている。
 一方、一部からは政教分離の脅威、政治的、経済的勢力とみなされ、批判されることもある。
 
 このギュレン運動の活動は
   「光の家」
として始まったものでジェマート財団と慈善会による支援を受けて中等学校の学生寮が開設された。

 その後、初等・中等学校、デルスハーネ(予備校)、大学などの教育機関もつくられるようになった。
 広報部が始動し、社会での認識が高まるにつれ、活動は宗教間の対話や社会的援助を目的としたワクフや慈善団体から病院、金融、保険機構などに移っていき、広く知られるようになった。


 エルドアン政権時の2013年秋ごろから、政権内で組織された
   「並行国家」
が教団の支持者でない人や彼らの敵を排除する目的で該当者の私生活の監視、録音や証拠捏造などを行ったとする陰謀論が唱えられ、訴追された。

 フェトフッラー・ギュレン、弁護団やジャーナリスト・作家財団などはこれらの主張を否定した。

 ただ、ギュレンに近いとされるヌレッティン・ヴェレン、アフメト・ケレシュ、セリム・チョラクル、ラティフ・エルドアンらがこれに関して証言した。

 公正発展党 (AKP) とギュレン間の論争では主に「認識操作」や「ソーシャル・エンジニアリング」「諜報活動」「陰謀」「証拠捏造」「司法・警察の私有化」「独裁者」などの陰謀論が話題となることが多い。

 2014年2月、エルドアン政権下で招集された国家安全保障評議会はギュレン運動と同じものとされる「並行国家」を名もなきトルコ国内の脅威と定めた。 

  
  
ひとこと

 宗教勢力の拡大の流れの中には、門徒すべき目的から社会奉仕が行われることが多い。 




  
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posted by まねきねこ at 06:19| 愛知 ☁| Comment(0) | 用語集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月25日

古銭(こせん)


 古銭(こせん)とは一般的には歴史の長い中国の貨幣として扱われることが多く、古代の殷時代から清朝末期までに、中国大陸や貿易を通して影響を受けた日本、朝鮮半島、ヴェトナム等においても製造された銭貨のこと。

 大陸原貝貨から金属貨幣まで時代時代により数限りなく有り分類は膨大です。




  
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2015年05月06日

密教法具(みっきょうほうぐ)とは?


 密教の儀式(護摩(ごま)・祈祷など)で使われる特別な仏具の総称で
   「金剛杵」(こんごうしょ)
   「金剛鈴」(こんごうれい)
などがあります。

  
  
   
     
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posted by まねきねこ at 20:45| 愛知 ☁| Comment(0) | 用語集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月04日

金剛杵(こんごうしょ)とは


 金剛杵サンスクリット語で「ヴァジュラ(ヴァジラ とも)」と呼ばれ、もともとは古代インドで戦いに使用されていた武器が形式化して神々が持つ武器として象徴化したものとなりました。
 
 この武器を「煩悩を打ち払う菩提心(ぼだいしん)」のシンボルとして、密教法具に取り入れたものといわれている。

 中央に手に持つために柄が設けられており、尖った部分は槍の刃で、刃の数により名称が異なっています。

   刃が1本のもの 独鈷杵(どっこしょ)
      
   刃が3本のもの 三鈷杵(さんこしょ)
      

 
   刃が5本のもの 五鈷杵(ごこしょ)

     
  

  
   
     
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posted by まねきねこ at 03:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 用語集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする