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2026年02月06日

サンジョルジ報告書(Sangiorgi report) コーザ・ノストラの全体像を初めて明らかにした報告書

サンジョルジ報告書(Sangiorgi report)とは、パレルモ警察署の調査官
   エルマンノ・サンジョルジ(Ermanno Sangiorgi)
が内務省に提出した、シチリア島のマフィアに関する一連の覚書と報告書の名称である。
 1898年11月から1900年2月にかけて執筆された合計485ページに及ぶ31の報告書から構成されている。
 この報告書は、
の全体像を初めて明らかにしたものであり、マフィアを
   誓約に基づいて設立
され、主に
   みかじめ料を主な活動とする犯罪組織
として定義した最初の公式文書でもある。
 ロマニョール出身のサンジョルジは、教皇庁警察でキャリアをスタートさせmシチリアの他の都市で活動し、島西部の犯罪組織に対してかなりの成功を収めた。
 その後、1898年8月にパレルモに到着した。
 彼が関与した最大の作戦は、19世紀後半にアグリジェント県ファヴァーラで活動していた犯罪組織、いわゆる
   ファヴァーラの同胞団Brotherhood of Favara
に対するものであった。
 サンジョルジの尽力により、ファヴァーラ地域で同胞団による複数の殺人事件で200人以上が逮捕された。
 同胞団のリーダーの一人は、2人のメンバーを入会させる手続き中に外套を羽織っていたところを逮捕された。
 逮捕時に警察は、同胞団の規則を記した文書を発見した。
 その後、洞窟、干拓された池、使われなくなったゾルファレといった人里離れた場所に隠されていた「同胞団」の犠牲者の遺骨数十体が発見された。
 一部のメンバーの自白により、組織の規則や階層構造には更なるバリエーションが明らかになった。
 人または複数のカピ・テスタが複数の
   カピデシーナ
を統率し、各カピデシーナの配下には10人以下のメンバーがいた。
 入会の儀式では、新メンバーの人差し指に小さな釘を刺し、その血を聖人の紙像に垂らす。
 その後、メンバーが忠誠の誓いを唱えながら、聖人の紙像を燃やす。
 この儀式はパレルモのコシェ(聖人像の集まり)の典型的なもので、1879年、ウスティカの刑務所でパレルモのマフィアと共に投獄されていた多くの「同胞団」メンバーが、このコシェと接触していた。
 1885年、全メンバーがアグリジェントで裁判にかけられ、多くが拷問によって得られた自白であると主張して自白を撤回した。
 しかし、それでも大半は有罪判決を受け、投獄された。
 新任の捜索官がパレルモに到着した当時、街は2年前の1896年に始まったマフィア抗争の真っ只中にあった。
 1899年、サンジョルジは自身にとって最も有名な2件の逮捕を遂行した。
 1つは国会議員
   ラファエレ・パリッツォーロ(Raffaele Palizzolo)
であり、もう1つはマフィアのボス
   ジュゼッペ・フォンターナ(Giuseppe Fontana
の逮捕である。
 彼らは銀行家で政治家の
   エマヌエーレ・ノタルバ​​ルトロ殺害の容疑
   (Emanuele Notarbartolo)
をかけられていた。
 コンカ・ドーロのコシェによる様々な犯罪を捜査する中で、サンジョルジはこれらの殺人が個人の独断によるものではなく、規則、集団的決定、そして領土支配のシステムが関わっていることを認識した。
 捜査は、アレネッラ近郊の
   フォンド・ラガナ
と呼ばれる柑橘類農園で始まった。
 そこでは、洞窟内で4体の腐敗した遺体が発見されていた。
 その後、捜査はパレルモの非常に裕福で有名な2つの一家、
   フロリオ家(Florio)
   ウィテカー家(Whitaker)
へと移った。
 サンジョルジは、二つの王朝が
   コンカ・ドーロ(Conca d'Oro
のマフィアと隣り合わせに暮らしていたことを発見した。
 彼らは領地の守護者や農夫として雇われ、「保護」を受けるために金銭を受け取っていた。
 ただ、マフィアはこうした地位を得るためにしばしば脅迫や威嚇に訴えていた。
 特にウィテカー家は幼い娘オードリーを身代金目的で誘拐され、多額の身代金を支払ってようやく返還された。
 サンジョルジは、フォンド・ラガナの洞窟に隠された遺体が、オリヴッツァ家(Olivuzza)のボス
   フランチェスコ・ノート(Francesco Noto
がフロリオ家の領地に御者として送り込んだ
   「ピッチョッティ(picciotti)」
の一団のものであることを突き止めた。
 ノートは後に彼らを殺害した。ノート自身は領地で庭師として働き、弟で副ボスのピエトロは守護者として働いていた。
 フロリオ家は当局に協力することは決してなかった。
 結局のところ、彼らの強力な地位のおかげで、サンジョルジの尋問や簡単な供述さえも要求に応じる必要はなかった。
 サンジョルジの事務所は、当局に協力する人物を探した。
 そしてついに1899年10月、以前から警察に知られていた
   フランチェスコ・シーノ(Francesco Siino
が殺人未遂事件を奇跡的に生き延びた時、その機会が訪れた。
 シーノは
   マラスピーナ(Malaspina )
のボスであり、サンジョルジからはマフィアの「地方のボス」とみなされていた。
 シーノは証言を始めるにあたり、「友人グループ」の一員だったと説明した。
 しかし、圧力をかけられ、具体的な状況を認めざるを得なかった。
 1898年、シーノの財産は衰退の一途を辿っていた。
 ウディトーレ・マフィア一家(Uditore Mafia family)のボスで、シーノの青果市場、強盗、恐喝、紙幣偽造といった手口に、敵対する
   アントニオ・ジャンモナ(Antonio Giammona
が異議を唱えた。
 1896年、シーノはジャンモナ一家との戦いを開始した。
 ただ、ジャンモナが勝利を収めており、シーノへの暗殺を命じたのもジャンモナであった。
 4月27日から28日にかけての夜、サンジョルジの事務所はアントニオ・ジャモナを含む数人のマフィアを逮捕した。

  
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2025年11月27日

クライムストッパーズ(Crime Stoppers)犯罪行為に関する匿名の情報提供を支援する地域プログラム

クライムストッパーズ(Crime Stoppers)
 犯罪行為に関する匿名の情報提供を支援する地域プログラムのこと。
 多くの場合、非営利団体や警察によって運営され、
   緊急電話番号システム
やその他の一般的な警察への連絡方法とは別に運営されている。
 これにより、捜査プロセスに直接関与することなく、当局に犯罪解決の支援を提供することができる。
 1976年にアメリカ合衆国ニューメキシコ州アルバカーキで設立されたクライムストッパーズは、その後、オーストラリア、カナダ、アイルランド、イギリスでも普及た。
 当局、特に警察は、犯罪行為や事件に関する地域住民からの情報に時折頼っている。
 クライムストッパーズは、一般市民が報復を恐れることなく参加できるように組織が運営されており、目撃者が匿名で情報を提供しやすくするために開発された。
 この点については、これまでも課題が残されている。
 クライムストッパーズは1976年7月、ニューメキシコ州アルバカーキで始まった。
 その月、マイケル・カルメンは地元のガソリンスタンドで夜勤中に射殺された。
 2週間経っても、警察は殺人事件に関する情報を全く収集できなかった。
 グレッグ・マッカリース刑事は地元テレビ局に連絡を取り、事件の再現映像の撮影を依頼した。
 再現映像が放映されると、警察は犯人逮捕につながる可能性のある情報に対し1,000ドルの報奨金を提示した。
 72時間以内に、ある男性が現場から猛スピードで走り去る車を目撃し、ナンバープレートもメモしていたと通報した。
 通報者は、事件に関わりたくないので、以前は通報しなかったと述べた。
 マッカリース刑事は、凶悪な犯人やマフィア等の組織などから家族を含めた証拠隠滅のための報復といった
   恐怖と無関心
が、一般市民の捜査への関与を阻むことが多いことに気づき、一般市民が匿名で事件の詳細を提供できるシステムの設計に協力した。
 このシステムは、地域社会の関与と参加を促すことに重点を置き、電子メディアを活用して未解決犯罪を公表した。
 なお、警察では、逮捕または有罪判決につながる情報に対して現金報奨金を提供した。
 1976年にアルバカーキで最初の支部が正式に設立されて以来、米国クライムストッパーズは
   100万人以上の逮捕
   110億ドル以上の財産の回収
に貢献してきた。
 クライムストッパーズはその後、オーストラリア、カナダ、イギリスにも広がった。
 個々のプログラムは地域密着型で、ほとんどが非営利団体または警察によって運営されている。
 また、国内外の様々な統括団体も存在している。
 カナダと米国の様々なクライムストッパーズグループへの連絡には、フリーダイヤル+1-800-222-TIPSが使用されている。
 なお、一部のグループは独自の電話番号を公開している。
 英国では、クライムストッパーズの電話番号は0800 555 111で、アイルランドでは1800 25 00 25となっている。
  北アイルランドでは、有名なランドローバータンギを含め、主に警察の車両にクライムストッパーズの番号が表示されていることが多い。
  
   
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2025年11月12日

シグニフィカント・リスク・トランスファー(Significant Risk Transfer SRT)

シグニフィカント・リスク・トランスファー(Significant Risk Transfer SRT)とは、しばしば「合成リスク移転(Synthetic Risk Transfer)」とも呼ばれている取引で、銀行がリスクが顕在化した場合の損失のリスクヘッジとして
   保有するローンの信用リスク(貸し倒れリスク)
の一部を、外部の第三者
   年金基金
   政府系ファンド
   ヘッジファンド
などの外部投資家に
   保険料
   手数料
などのコストを支払って、肩代わりしてもらう取引手法のこと。
 保険契約や特定の作業を外部委託する方法により、銀行は自己資本要件を減らし、より多くの融資を行えるようになる。

ひとこと 
 サブプライムローンのリスクヘッジに金融派生商品に組み込み、世界各地の金融機関にばら撒いた結果、リーマン・ブラザーズ等が倒産し1800兆円以上もの金融価値が市場方蒸発したリーマンショックの背景と同じような金融不況や不動産投資信託で家賃収入を配当金等として債権を売り込むなどもAI投資などといったワードを駆使するも家賃収入や不動産価値等で表向きの資産と資産の換金、不動の下落などのリスクなどもあり、投資目論見書にあるリスクすら確認できない知識不足の投資家、いわゆるカモネギ投資家がリスクを抱え込むことも起こり得るだろう。
 また、投資スタイルや能力に問題がある日本の機関投資家が欧米の不動産への円安時に資金を入れ込むのも換金性や円高時の資産の劣化の観点から言えば問題点が意識すら出来ていないのだろう。
    
    
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2025年10月02日

バッケン層(Bakken Formation)地表に露出していない石油の豊富な源岩層

バッケン層(Bakken Formation)
 デボン紀後期からミシシッピ紀前期にかけての
   岩石ユニット
で、ウィリストン盆地の地下約20万平方マイル(52万平方キロメートル)を占める。
 モンタナ州、ノースダコタ州、サスカチュワン州、マニトバ州の一部にまた範囲にある。
 この層は、ノースダコタ州タイオガの農家で、石油掘削中にこの層が最初に発見された土地を所有していた
   ヘンリー・O・バッケン(1901-1982)
にちなんで命名され、地層は完全に地下にあり、地表に露出していない。
 1953年に地質学者
   J. W. ノードクイスト
によって初めて記載された。
 バッケン層は、熱的に成熟すると
   石油の豊富な源岩
となる広範囲にわたる岩石である。
 これに加え、岩石単位自体の中にもかなりの生産可能な石油埋蔵量が存在している。
 バッケン層で石油が最初に発見されたのは1951年に遡るが、これまでの生産努力は技術的な困難に直面してきた。
 水圧破砕法と傾斜掘削技術の適用により、2000年以降、バッケン油田の原油生産は急増した。
 2008年4月、USGSの報告書には、2007年末時点で利用可能な技術を用いれば、バッケン層で回収可能な石油の量を
   30億〜43億バレル(6億8000万立方メートル)
で、平均値は36億5000万立方メートルと推定されている。
 これと同時にノースダコタ州も、バッケン層で技術的に回収可能な石油の量を
   21億バレル(3億3000万立方メートル)
と低く推定する報告書を発表した。
 この他にも様々な推定があり、今日の技術で回収可能なものと回収不可能なものを合わせた
   総埋蔵量は最大240億バレル
とされている。
 2010年末までに、原油生産量は1日あたり45万8000バレル(7万2800立方メートル)に達した。
 なお、最近の推定では、その数字は180億バレルとされている。
 2013年4月、米国地質調査所は、最終的に回収できる石油の量を74億バレルと予測する新たな数値を発表した。
 この生産量はバッケン油田から原油を輸送するパイプラインの能力を上回った。
 ただ、この原油は揮発性が高いため、鉄道輸送の安全性については議論がある。
 このことは、2013年の
   ラック・メガンティック鉄道事故
で明らかになった。
 この事故では、揮発性の高いバッケン原油を積載した77両のタンク車がノースダコタ州からケベック州を経由してニューブランズウィック州のアーヴィング製油所へ向かう途中、ラック・メガンティックの町の中心部で脱線・爆発した。
 この事故により、30棟の建物(中心街の半分)が破壊され、47人が死亡した。
 発の爆発半径は1キロメートル(0.62マイル)と推定された。
 2015年1月現在、バッケン油田の採算価格については様々な推定値があった。
 ノースダコタ州天然資源局では、採算価格が1バレルあたり40米ドル弱と推定した。
 ウッド・マッケンジー社のアナリストは、採算価格が1バレルあたり62米ドルである一方、サニッシュ油田やパーシャル油田といった生産性の高い地域では、採算価格は1バレルあたり38〜40米ドルであると述べている。
 バッケン層の岩石層は、下部頁岩、中部ドロマイト、上部頁岩の3つの層で構成されており、頁岩は
   比較的深部の無酸素海洋条件下で堆積
し、ドロマイトは浅く酸素が豊富な海水中に沿岸炭酸塩岩として堆積した。
 中部ドロマイト層は主要な油層であり、地表から約3キロメートル下にある。
 上部頁岩層と下部頁岩層はどちらも有機物を豊富に含む海洋頁岩である。。
 バッケン層は近年、米国における
   新たな石油生産の最も重要な供給源
の一つとして浮上している。
 バッケン層の掘削と生産の大部分はノースダコタ州で行われている。
 なお、モンタナ州、カナダのサスカチュワン州とマニトバ州にも広がっている。
 2013年時点で、バッケン層は米国の石油生産量の10%以上を占めていた。
 2014年4月までに、ノースダコタ州とモンタナ州におけるバッケン層の生産量は日量100万バレル(16万立方メートル/日)を超えた。
 バッケン層の生産量増加と、アラスカ州とカリフォルニア州における長期的な生産量の減少の結果、ノースダコタ州は2014年時点で、テキサス州に次ぐ米国第2位の石油生産州となった。
 2004年にサスカチュワン州で
   ビューフィールド油田
が発見されて以来、カナダでもバケン油田の生産量が増加しているが米国ほどではない。
 水平掘削と多段階大規模水圧破砕法(MAH)といった技術を用いて開発生産されている。
 2012年12月には、サスカチュワン州の2,357本のバケン油井から、過去最高の日量71,000バレル(11,000 m3/日)の原油が産出された。
 バケン層はマニトバ州でも生産されており、2020年には日量42,100バレルの原油が産出された。
 バケン層の大部分は、中間層で掘削・完成されてる。
 現在、多くの坑井が、基底層のサニッシュ/プロングホーン層とその下層のスリーフォークス層で掘削・完成されている。
 ノースダコタ州鉱物資源局は、石油生産統計上、これらの層をバケン層の一部として扱っている。 
 バケン層の間隙率は平均約5%、透水性は非常に低く、平均0.04ミリダルシーである。
 これは、一般的な油層いわゆる
   非在来型ライトタイトオイル層
よりもはるかに低い値となっている。
 しかし、垂直から亜垂直の
   天然亀裂
が存在するため、バケン層は水平掘削技術に最適な候補地となっている。
 この方法により、最大厚さ約140フィート(40メートル)のユニットで、ボーリング孔は数千フィートにも及ぶ油層岩石に接触することができる。
 岩石を人工的に破砕したうえ油井への浸透を促進することでも生産量が増加する。
 なお、硫化水素(H2S、別名サワーガス)は、原油中に様々な濃度で含まれている。
 このガスは可燃性、腐食性、毒性、爆発性を有しているため、H2S含有量の高い原油は、「健康および環境リスク、油井の腐食、資材搬送およびパイプライン設備に関する追加費用、追加の精製要件」などの課題が生じる。
 従来はバケン油については歴史的に「スイート」、つまりH2Sがほとんど含まれていない、あるいは全く含まれていないとされてきた。
 ただ、一部のバケン油井では、H2S濃度の経時的な上昇が観測されている。
 なお、高濃度のH2Sを含む可能性のある隣接層への水圧破砕など、
   特定の仕上げ作業
による影響があるものと考えられている。
 ウィリストン盆地の他の層では、常に「サワー」(H2S含有量が高い)原油が産出されている。
 スイート原油は価格が高いため、石油輸送業者は、スイートバケン原油にサワー原油が混入されているのではないかと疑っている。
 原油中のH2Sは、ラック・メガンティック鉄道事故の爆発性の原因として調査されている。
 パイプライン輸送業者のエンブリッジは、安全上の懸念を理由に、H2S濃度が5ppmを超える原油の受け入れを停止している。
 バッケン層などのタイトオイル井における水圧破砕井からの米国の原油生産量の増加は、2005年以降の米国の原油輸入量の減少の主な要因であった。
 米国の原油輸入量は、2005年の65%から2011年には52%に減少した。
 バッケン層、イーグルフォード層、その他のタイトオイル層における水圧破砕井の稼働により、2013年9月の米国の原油生産量は1989年以来の最高水準に達した。
 1999年に米国地質調査所の地質化学者
   リー・プライス氏
が発表した研究論文では、バケン頁岩に含まれる石油の総量は2,710億バレルから5,030億バレル(431億立方メートルから800億立方メートル)の範囲で、平均は4,130億バレル(657億立方メートル)と推定された。
 彼以前の研究者も、バケン頁岩から生成された石油がバケン層内に留まっていることに気づき始めていた。
 ただ、特にこの点を強調したのは、キャリアの大半をバケンの研究に費やしてきたプライス氏であった。
 彼の考えが正しければ、この層に大量の石油が残存していることから、バケン層は石油探査の主要ターゲットとなった。
 プライス氏は、この研究が査読を受けて出版される前の2000年に亡くなった。
 2000年の
   エルムクーリー油田
の発見に始まり、バケンの大部分での掘削と生産の成功により、
   バケンシェール
から生成された石油がそこにあったという彼の主張の正しさが証明された。
 2008年4月にノースダコタ州鉱物資源局が発行した報告書は、バケンのノースダコタ部分に1670億バレル(266億立方メートル)の石油が含まれていると推定した。
 原油埋蔵量は非常に大きな石油資源となるが、現在の技術で抽出できる割合は別の問題である。
 バッケンシェールの回収率は、バッケンシェールは
   一般的に空隙率と浸透率が低い
ため抽出が困難である。
 このため、回収率は、わずか1%と​​推定されている。
 ただ、リー・プライス氏の推定では50%が回収可能とされている。
 2013年4月にUSGSとノースダコタ州が発表した報告書では、現在の技術を用いれば、ダコタ州とモンタナ州のバッケン層とスリーフォークス層から最大74億バレルの石油を回収できると推定した。
 バッケンシェールにおける掘削活動の活発化と、原油埋蔵量と回収可能な原油量の推定値に幅があることから、ノースダコタ州選出の
   バイロン・ドーガン上院議員
は、USGSに対し、バッケンシェールの潜在的回収可能原油に関する調査を実施するよう要請した。
 2008年4月、USGSはこの報告書を発表し、バケン層の技術的に回収可能な未発見の石油の量を30億〜43億バレル(4億8000万〜6億8000万立方メートル)、平均36億5000万と推定した。
 その月の後半、ノースダコタ州の報告書では、バケンのノースダコタ州部分に存在する1670億バレル(266億立方メートル)の石油のうち、21億バレル(3億3000万立方メートル)が現在の技術で技術的に回収可能であると推定した。
 タル・リソーシズ社(CLR)の上級管理職は、ウィリストン盆地のバッケン鉱区は過去30〜40年で
   世界最大の発見となる可能性
があると宣言した。
 これは、同鉱区全体からの最終的な回収量が
   現在240億バレル(38億立方メートル)と推定
されているためである。
(なお、ブラジル沖で最近発見された油田は、立証済み埋蔵量が300億バレル、潜在的回収量は500〜800億バレルと、さらに大きい。)
 この大幅な増加は、水平掘削、水圧破砕、および多数の掘削井戸を組み合わせて使用​​​​することで可能になった。
 これらの技術は1980年代から一貫して利用され、バッケン層群は最も活発に利用されている地域である。
 現在、150基の掘削リグが稼働しており、年間1,800本の油井が追加されている。
 USGSによる2013年4月の推計では、バッケン層とスリーフォークス層から、現在の技術を用いれば、74億バレル(11億8,000万立方メートル)の未発見石油、6兆7,000億立方フィートの天然ガス、そして5億3,000万バレルの天然ガス液が回収できると予測されている。
 米国エネルギー省の統計機関であるエネルギー情報局(EIA)は、2013年に、バッケン層のカナダ側部分には、技術的に回収可能な石油と天然ガスがそれぞれ16億バレルと2.2兆立方フィート(tcf)存在すると推定した。
 クレセント・ポイント・エナジー社などの事業者は、サスカチュワン州ビューフィールド油田のバッケン層で水攻法を実施している。
 水攻法によってビューフィールド油田の回収率が19%から30%以上に上昇し
   15億バレルから20億バレルの石油
が追加で埋蔵される可能性があると一部では考えられている。
 米国EIAは、2011年時点でバッケン/スリーフォークス層の確認埋蔵量は20億バレルであると報告している。
 バッケン層は、1953年にノースダコタ州で
   スタノリンド石油ガス社
がウッドロー・スター第1鉱区を完成させて以来、石油を生産している。
 バッケン油田地域の一部は、1870年に設立された
   フォート・バートホールド保留地
にある。
 フォート・バートホールドは、MHAネイションまたは三関連部族とも呼ばれる
   マンダン族
   ヒダツァ族
   アリカラ族
の居住地である。
 フォート・バートホールドはかつて主に農民と交易業者の居住地であった。
 1947年のギャリソンダム建設により農地の大部分が消失し、三関連部族の大部分が草原の高台への移住を余儀なくされた。
 ローワー・ブルール・スー族の歴史家
   ニック・エステス
によると、ダムはフォート・バートホールド保留地を水没させ、152,360エーカーの土地を奪い、保留地全体の土地基盤の4分の1を失ったと伝えている。
 この石油ブームは部族に数億ドルを生み出す可能性があり、新しい道路、学校、不可欠な住宅や医療施設を建設する変化をもたらした。
 ただ、先住民に対する暴力の増加という大きな社会的コストも伴った。
 バッケン層からの石油採掘における大きな進歩は、1995年に地質学者
   ディック・フィンドリー
が、バッケン層のドロマイト質中部層が、上部層や下部層よりも優れた探査対象であることに気づいたことに端を発した。
 中部層は、上部および下部の有機質頁岩よりも原油含有量は少なかった。
 ただ、頁岩よりも開放型フラクチャーを維持する能力に優れていた。
 バッケン中部層の水平井は、モンタナ州の
   エルム・クーリー油田
の開発に成功した。
 2000年にモンタナ州リッチランド郡でエルム・クーリー油田が発見され、最終的な生産量は2億7000万バレル(4300万立方メートル)に達すると予想されている。
 この発見は、バッケン層のピンチアウトに沿って石油が閉じ込められている傾向に大きな注目を集めた。
 2007年、エルム・クーリーの生産量は平均して
   日量5万3000バレル(8400立方メートル/日)
に達し、これは数年前のモンタナ州全体の生産量を上回った。
 エルム・クーリーの南東に位置する
   モンダック油田
は、生産性の高いピンチアウト・トレンドをノースダコタ州まで拡大した。
 エルム・クーリーは、水平井と水圧破砕法を組み合わせ、上部バケン層や下部バケン層の頁岩ではなく、中部バケン層のドロマイト質層をターゲットとしていたため、後のバケン開発の鍵となった。
 2006年、ノースダコタ州パーシャル近郊の油分豊富なシェール層で
   EOGリソーシズ社
が掘削した1本の油井から70万バレル(11万立方メートル)の石油が産出されると発表し、新たな関心が高まった。
 パーシャルでは、油田の東端が急峻に区切られ、これは熱的に成熟したバッケン・シェール層の範囲によって形成されている。
 それより東側のシェール層は熱的に未成熟で、生産性は低い状態であった。
 パーシャル油田の発見は、ノースダコタ州が2007年に制定した石油掘削税の減税措置など、他の要因と相まって、バッケン油田への注目をモンタナ州からノースダコタ州側へと移した。
 ノースダコタ州バッケンで掘削された油井の数は、2006年の300本]から2007年には457本に急増した。
 ノースダコタ州ネッソン背斜西側の鉱区の採算性は、2009年に
   ブリガム・オイル・アンド・ガス社
が25段階以上のより大規模な水圧破砕処理で成功を収めるまで不透明であった。
 ノースダコタ州鉱物資源局によると、2010年6月に油井1本当たりの原油生産量は145バレルで頭打ちとなった。
 2010年6月から2012年12月の間に油井数は3倍に増加した。
 しかし、油井1本当たりの原油生産量はほぼ横ばいだった。
 ただ、油井の稼働数が増えるにつれて、総生産量は増加を続け、2015年半ばに115万バレルに達してピークに達した。
 この増加は、2013年から油井1本当たりの原油生産量が緩やかに減少した。
 2015年半ばには115バレルにまで落ち込んだため、終息した。
 なお、EIAが報告したピーク時の生産量は、これより約9%高い。
 EIAはまた、原油価格の暴落を受けて、バッケン油田の掘削リグ数が2015年10月までの1年間で約60%減少した一方で、新規油井(初期)掘削リグ1本当たりの原油生産量は40%増加したと報告した。 
 いずれもその時点で頭打ちとなった模様で、フラッキング井戸からの生産率は、より透水性のよい岩石に掘削された従来の井戸からの生産率よりも急速に低下している。
 バッケン層には、
   EOGリソーシズ
   コンチネンタル・リソーシズ
   コード・エナジー
   マラソン・オイル・コーポレーション
   ダイアモンドバック・エナジー
   ヘス・コーポレーション
など複数の上場企業が掘削リグを保有し操業していた。
 カナダでは、
   リッジバック・リソーシズ
   クレセント・ポイント・エナジー
などが操業している。
 LIGアセッツ社は、ノースダコタ州バッケン層に位置する一連の石油採掘権益群の10%の株式取得を選択した。
 これらの採掘権益は、2015年時点で州内で最も石油生産量の多いマッケンジー郡にある約1,280エーカー(520ヘクタール)に及ぶものであった。
 2015年までに、一部の企業はバッケン油田の資産を売却し、テキサス州パーミアン盆地の探鉱に切り替えた。
 これは、潮間帯に近い主要市場への輸送コストが高く、海外の石油市場へのアクセスコストが低いことが一因であった。
 バッケン油田の石油採掘量は、2015年半ばから2016年半ばにかけて約20%減少した。
 その後2017年半ばまでは比較的安定して推移した。
 2009年から2013年の間に、ノースダコタ州労働安全保険局には、石油・ガス産業に関連する傷害請求が9,000件以上提出された。
 2011年から2015年の間には、ノースダコタ州の石油・ガス田で少なくとも40人の労働者が、その産業が原因で亡くなった。
 2015年の原油価格の低迷により、掘削リグには掘削速度を最大化するよう圧力がかかり、それに伴い作業員へのリスクも増大した。
 2015年、ノースダコタ州の石油ブームは、米国で最も高い労働者死亡率をもたらしたと報告されている。
 バッケンでは、平均して6週間ごとに1人の石油労働者が死亡していたと報告されている。
 ある企業は、迅速に掘削作業を行った労働者に1日あたり150ドルのボーナスを提供したが、慎重に作業を進め、よりゆっくりと作業を進めた労働者には、わずか40ドルしか支払われなかった。
 油井所有者は、掘削リグの下請け業者に責任を負わせることができれば、事故の責任を回避できる可能性があった。
 テキサス州、ルイジアナ州、ニューメキシコ州、ワイオミング州の4つの石油生産州では、これを防止するための法律が制定された。
 バッケン油田地帯では、適切な安全対策が欠如していたという報告も出ている。
 例えば、バッケン地域の従業員だった
   ダスティン・ペイン氏
は、溶接作業中の石油タンクが爆発し、死亡した。
 ペイン氏は以前から自身の安全を懸念しており、事故前、ペイン氏は婚約者に「こんな溶接作業は到底無理だ」とテキストメッセージを送っていた。
 アルジャジーラの特派員
   ジョシュ・ラッシング氏
は、ペイン氏の死は、彼が勤務していた会社が従業員のためのより良い安全対策を講じていれば避けられた可能性があると推測している。
 また、調査によると、バケン油田地域周辺地域では、主に先住民コミュニティの間で
   暴力犯罪が増加
していることが明らかになっている。
 コロラド大学ボルダー校の調査によると、2006年から2012年の間にバケン油田地域での暴力被害率は70%増加した。
 同時期、バケン油田地域以外の郡では、同様の暴力犯罪の増加は見られず、同時期、バケン地域以外の地域では、暴力被害率は8%減少している。
 バケン地域では、見知らぬ人による暴力被害も、この6年間で53%増加した。
 特に、黒人とネイティブアメリカンの被害率は白人の2.5倍に増加していた。
 最後に、深刻な暴力被害はバケン油田地域で30%増加する一方で、バケン地域以外では4%減少していることがわかった。
 ワシントン・ポスト紙の
   サリ・ホロウィッツ記者
は、男性キャンプ周辺の犯罪増加は、主にヘロインやメタンフェタミンといった違法薬物の市場によって引き起こされていると報じている。
 この状況は地元の居留地にも影響を及ぼしており、居留地では
   人員不足が深刻
で、こうした重大犯罪に対処できない状況が続いている。
 居留地全体の警備を担当する
   部族警察官
が、勤務時間中わずか2人しかいないという状況も見られる。
 また、増加する依存症患者の治療を支援する薬物乱用治療センターも不足しているという。
 暴力犯罪の増加は、女性に不釣り合いなほど大きな被害を与えており、性的暴行やレイプの発生率も高くなっている。
 2006年から2012年の間に、女性による違法な性的接触の発生率は54%増加した。
 これは主に法定強姦の報告件数の増加によるもの実際の被害数はさらに多いと考えられる。
 この暴力犯罪の増加は、特に少数民族や先住民の女性に深刻な影響を与えており、これらの集団の暴力発生率は地域で最も高かった。
 マンキャンプとは、地域の労働力を支えるために建設された仮設住宅群です。圧倒的に男性が多い労働力の流入がバッケン油田地帯に押し寄せたため、これらのキャンプは特に目立っている。
 これらのキャンプは、過剰な雇用と新規労働者全員を収容するのに十分なベッド数の不足に対応するために設置された。
 バッケン油田地帯のキャピタルロッジとタイオガロッジには、最大3,700人の住民が居住している。
 これらのマンキャンプは、バッケン油田地帯における暴力犯罪の増加の原因ともされている。
 女性に対する暴力発生率が既に高い先住民コミュニティ内またはその近くにマンキャンプが設置されている場合、
   マンキャンプ
による潜在的な被害はさらに大きくなっている。
 マスコギー・クリークの法学者
   サラ・ディア
は「これは多くの場合、2013年に行われた女性に対する暴力法の複雑な改正によるものです。 2013年の改革は配偶者、元配偶者、または交際相手による暴力に限定されており、居留地内で行われた性的暴力は起訴できないことが多い。」と指摘した。
 法学者アナ・コンデスは、男性キャンプは「レイプ、家庭内暴力、性的人身売買の温床であり、アメリカ先住民の女性は、男性が暴行を加えても起訴されないという認識から、しばしば標的にされている」と述べている。
 作家のリリー・コーエンもこの問題について、「資源採掘プロジェクトが先住民コミュニティの近くで行われると、先住民の女性は性的暴行、性的人身売買、その他のジェンダーに基づく暴力に直面するケースが増える」と述べている。
 これらの男性キャンプに起因する暴力犯罪の増加によって引き起こされるトラウマは、これらのコミュニティに何世代にもわたって残る可能性がある。
 最近、男性キャンプの指導者たちは、これらの問題を防止するために、施設の居住者に対するより厳しい規則を制定する取り組みを行っている。
 バッケン油田での活動は、環境に多くの悪影響を及ぼしている。
 PBSポッドキャストの司会者イーサン・ブラウンは、バッケン油田を「炭素爆弾」と呼び、操業期間中に10億トン以上の炭素を排出すると予測される化石燃料事業と呼んでいる。
 バッケン油田・ガス田は、大量のメタンガスの漏出にも関与している。
  CO2とメタンは、大気汚染の原因となる最も顕著で有害なガスの一つでもある。
 この地域からは、自然生態系の破壊や汚染など、他にも多くの環境影響が生じている。
 バッケン地域の一部を占めるセオドア・ルーズベルト国立公園に関する国立公園局の記事では、この地域での活動は多くの環境被害をもたらす可能性があるとのこと。
 水圧破砕は、在来の動植物にとって重要な生息地の破壊や移転につながる可能性がある。
 この地域における水圧破砕は、流出した石油やフラッキング流体による土壌汚染や水質汚染を引き起こす可能性がある。
 2024年には、ノースダコタ州バッケンの油田・ガス田でわずか1週間で60件以上の流出が報告された。
 労働者を収容するキャンプも汚染の一因となっている。
 例として、ウィリストン郊外のキャンプが、敷地内に下水を公然と排出させたため閉鎖された。

     
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2025年10月01日

ンドリナ('Ndrina)カラブリアのンドランゲタの基本単位であり、血縁者で構成されている。

ンドリナ('Ndrina 複数形 'ndrine カラブリア語の複数形 'ndrini)
 カラブリアの犯罪組織であるンドランゲタの基本単位であり、血縁者で構成される。
 シチリアマフィアの「ファミリー」または「コスカ」に相当す呼称。
 この言葉はギリシャ語に由来し、「屈しない男」を意味している。
 各ンドリナは「その領土内で自治権」を持ち、ンドリナのボスの上に正式な権力は存在しない独立組織である。
 ンドリナは通常、カラブリア州以外でも、イタリア北部の工業地帯、トリノやミラノ周辺の都市や町において、小さな町や大都市の地区を支配している。
 複数のンドリナが同じ町で活動している場合、それらは町全体または大都市中心部の一地域を管轄する、ンドランゲタの主要な地域組織単位
   ロケール
を形成しており、 場合によっては、
   サブ・ンドリーン
が設立される。
 このンドリーンは高度な自治権を有し、リーダーであるカポバストーンと独立したスタッフを有している。
 場合によっては、ンドリーンは正式に属するロケールよりも権力を握ることもある。
 ンドランゲタ内では、血縁関係と犯罪組織の構成員がかなり重複して形成されている。
 概して、ンドリーンはカポバストーンの指揮下にある、同じ家系に属する男性で構成されている。
 レッジョ・カラブリアの反マフィア検察官
   サルヴァトーレ・ボエミ
によればイタリア反マフィア委員会に対し、「マフィアの家に生まれたという単純な事実だけでメンバーになる」と述べた。
 ただ、若者がメンバーになる理由は他にもある可能性があり、親族以外でもメンバーとして認められている。
 結婚は各ンドリナ内の関係を強化し、構成員を増やすのに役立っている。
 その結果、各グループは少数の血縁者で構成されており、「同じ姓を持つ人々が多数、特定のンドリナの構成員であることを理由に訴追されることが多い」のはこうした血縁関係が背景にある。
 単一のユニットの構成員数に制限がないため、ボスは子孫を最大化しようと活動している。

    
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ルパラ・ビアンカ(Lupara bianca 「白いルパラ」)

ルパラ・ビアンカ(Lupara bianca 「白いルパラ」)とは、マフィアによる殺人行為のうち、被害者の遺体が決して発見されないような方法を指すジャーナリズム用語。
 ルパラ・ビアンカの典型的な実行方法としては、遺体を発見するのが困難な田園地帯や人里離れた場所に犠牲者を埋める、建設現場のコンクリートの中に犠牲者を埋める、あるいは酸で遺体を溶かして海に投棄するなどが挙げられる。
 この最後の方法は、主に1981年から1984年にかけて行われた
   第二次マフィア戦争
において、シチリア・マフィアの
によって広く用いられた。
 その他の方法としては、湿った灰汁槽で遺体を溶かす、遺体を豚の餌にする、あるいは犠牲者(生死を問わず)を製鉄所の溶融金属に投げ込むなどが挙げられる。
 ルパラ・ビアンカは、被害者の遺族が正式な葬儀を執り行うことを阻止するだけでなく、犯人の身元を示す証拠を抹消する効果もあった。
 この用語は、シチリアマフィアでよく使われる
   武器「ルパラ
に由来している。
  
   
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2025年07月01日

ロニョーニ=ラ・トーレ法

「反マフィア法」としても知られるロニョーニ=ラ・トーレ法は、キリスト教民主党の
   ヴィルジニオ・ロニョーニ大臣
による提案と
   ラ・トーレ大臣
が起草した提案の2つを統合し、2つの重要な革新をもたらしました。
 (a) マフィアの陰謀を法制度における新たな犯罪として導入すること。
 (b) マフィアの陰謀に関与した者、および過去5年間に
     マフィア系組織の「フロントマン」
   として活動した者、あるいは
     隠蔽工作
   に関与した者の財産を差し押さえ、没収する裁判所の権限を拡大すること。
 ロニョーニ=ラ・トーレ法は、資金の流れを追跡するために司法機関が銀行記録へのアクセスを容易にした。
 また、国家が有罪判決を受けたマフィアの資産を差し押さえ、没収することを可能にした。
 マフィアの構成員であることを他の犯罪行為とは独立した犯罪として定義した。
 マフィアの活動に参加するだけでなく、いかなる形であれマフィアと関わることが犯罪行為となった。
 ムッソリーニのファシスト政権(1930年)に端を発するイタリア刑法第416条は、単純な組織犯罪を3つの要素((1) 連想的絆、(2) 組織構造、(3) 犯罪計画)に基づいて定義した。
 マフィア型組織犯罪は、これに加えて、服従と沈黙をもたらす威圧的な力を持つ連想的絆という特定の特性を持つと定義される。
 組織化のレベルはシステムとみなせるほどであり、沈黙の法則を通じて絶対的な服従のルールを課すことで、全住民にマフィアの権力への服従を要求し、結果として法執行機関への協力を拒否させる。
 「組織の構成員が、脅迫、服従、そしてその結果としての沈黙(omertà)を用いて犯罪を犯し、直接的または間接的に事業、利権、認可、公共契約、公共サービスの経営または支配権を獲得し、自らまたは他者の不当な利益または便宜を得ようとする場合、その組織はマフィア型とみなされる。」
 ロニョーニ=ラ・トーレ法はマフィアとの戦いにおいて重要な役割を果たし、
   ロッコ・チンニチ(反マフィア裁判官)
が率いる反マフィア委員会が、1986年に始まった
   マキシ裁判
でシチリアマフィアを起訴し、1987年12月に委員会のマフィア幹部を含む475人の被告に有罪判決を下す際に活用した手段となった。
 ただ、ラ・トーレと同様に、裁判官たちもマフィアの復讐に耐えられず報復の犠牲となったものもいた。
 ジャーナリストの
   アレクサンダー・スティレ
は、ラ・トーレの重要かつ悲劇的な遺産を「生前闘い続けたことを、死によってのみ成し遂げた人物。歴史上初めて、議会はマフィアへの所属を犯罪とし、検察官は犯罪活動を通じて蓄積されたマフィアの資産を押収する権限を与えたのだ。」と要約している。
 なお、コーミゾ空港はピオ・ラ・トーレに捧げられた。
    
  
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2025年06月23日

特別買収会社(Special-purpose acquisition company)

特別買収会社(SPAC; /spæk/)
 ブランクチェック会社またはブラインドプール株式公開とも呼ばれ、非公開企業を買収(または合併)することを目的として証券取引所に上場するペーパーカンパニーのこと。
 これにより、新規株式公開(IPO)プロセスよりも規制当局への提出書類が少なく、投資家保護も少ない手続きで非公開企業を公開することができる。
 米国証券取引委員会(SEC)によると、SPACは、特定の期間内に将来の合併または買収の機会に資金をプールするために設立される。
 これらの機会は通常、資金調達の時点ではまだ特定されていない。
 米国では、SPACはSECに登録され、上場企業とみなされる。
 合併または買収が行われる前に、一般の人々が証券取引所でSPACの株式を購入することができる。
 このため、SPACは「貧乏人のプライベートエクイティファンド」と呼ばれることもある。
 SPACに取り組む企業の大半は米国のナスダックまたはニューヨーク証券取引所に上場している。
 なお、ユーロネクスト・アムステルダム、シンガポール証券取引所、香港証券取引所など他の証券取引所でも少量のSPAC取引が行われている。
 ただ、合併後のSPAC企業への投資家のリターンはほぼ一様にマイナスとなっている。
 ただし、SPACと合併企業の投資家は合併直後に超過リターンを得られる可能性も一部には見られる。
 SPACの増殖は通常、2020年から2021年にかけての「万能バブル」のような経済バブルの時期に加速している。
 ブラインドプール方式による株式公開は1980年代に存在していた。そ
 の復活は1990年代初頭、投資銀行GKN証券とその創業者
   デビッド・ナスバウム氏
によって始まった。
 ナスバウム氏は後に
   全米証券業協会(NASDC)
から投資家への過剰請求で罰金を科された。
 その後、2003年には
   アーリーバードキャピタル
を設立した。
 1980年代以降、連邦政府はSPACに関する規制を強化し、合併時に投資家が買収対象企業に不満を抱いた場合、投資家はオプトアウトして資金(および利息)の返還を受けられるようにした。
 SPACは事実上、
   白紙小切手会社
であり、NPRが「投資家を欺く悪名高い企業であったため、取り締まりのための連邦法が制定された」と指摘している。
 SPACは、SECによって公募の有効性が宣言されると、通常、ユニットとして、または個別の普通株式とワラントとしてナスダックおよびニューヨーク証券取引所(2008年現在)で取引される。
 これにより、SPACはSEC規則419に基づいて設立される
   ブランクチェックカンパニー
とは区別される。
 市場慣例により、SPACのIPOで調達された資金の85%から100%は、後日合併または買収に使用されるために信託される。
 さらに、買収対象は、買収時点のSPACの純資産の少なくとも80%に相当する公正市場価値を有していなければならない。
 以前のSPACの構造では、取引を完了するには、SPACの一般株主の80%の賛成投票が必要であった。
 スタンフォード大学法学教授
   マイケル・クラウスナー氏
は、SPAC企業の業績が低迷している理由の一つは、上場企業が投資家から提供された資金の50%しか受け取れず、残りはスポンサー(SPACを設立した組織で、通常は20%を受け取る)、銀行、弁護士への手数料、そして初期投資家への支払いに消えてしまうと指摘した。
 2024年に施行されたSECの新規則では、SPACの提出書類において希薄化の可能性を明確に記載することが義務付けられている。
 ただ、以前はこの情報は複数の場所に散在しており、不明確であった。
 SPACデータベースを運営するSPAC Researchは、引受証券会社のランキング表を作成している。
 ただし、ブックランナーの取引量やその他の基準で、任意の年または選択した年を並び替えることができる。
 2021年1月現在、I-Bankers Securities Inc.は、2004年以降、132件のSPAC IPOに主幹事または共同幹事として参加したと述べている。
  2021年までの数年間、バルジブラケット銀行はより多くのSPAC IPOに参加するようになり
   Cantor Fitzgerald & Co.
   Deutsche Bank Securities Inc.
は、2015年から2019年8月までの30件のSPAC IPOをカバーした。
 また、シティグループ、クレディ・スイス、ゴールドマン・サックス、バンク・オブ・アメリカはいずれもSPAC事業において確固たる実績を築いており、カンター・フィッツジェラルドは2019年に14のSPACのブックランナーを務め、30億8000万米ドルを超えるIPO調達額を達成し、SPACの引受証券会社の中でトップとなった。
 2007年7月、パン・ヨーロピアン・ホテル・アクイジション・カンパニーN.V.はユーロネクスト・アムステルダムに上場した最初のSPACとなり、約1億1500万ユーロを調達した。
 I-Bankers Securitiesが引受証券会社となり、CRT Capital Groupが主幹事を務めた。
 NYSEユーロネクスト(アムステルダム)への上場に続いて、
   リバティ・インターナショナル・アクイジション・カンパニー
が2008年1月に6億ユーロを調達した。
 リバティは世界第3位のSPACであり、米国以外では最大のSPACである。
 ドイツ初のSPACはGermany1 Acquisition Ltd.で、
   ドイツ銀行
とI-Bankers Securitiesを引受証券会社として、ユーロネクスト・アムステルダムで4億3,720万ドルを調達した。
 Loyens & Loeffはオランダで法律顧問を務めた。
 2021年3月、ヒル卿が財務大臣向けに作成した報告書は、ロンドン企業上場規則をSPACの上場により有利なものにするための一連の改正を提言した。
 報告書の提案の中には、公募株式の割合を25%から15%に引き下げることも含まれている。
 2022年3月18日、Aquila Acquisition Corpが香港証券取引所(HKEX)に上場した。
 このIPOは投資家の反応が鈍く、IPO後2週間で株価は3%下落した。
 ただ、この下落にもかかわらず、香港におけるSPACのIPOへの需要は高く、HKEXは新たに11件のSPACのIPOの申請を受けたと報告している。
 2019年1月に発表された業界調査によると、2004年から2018年にかけて、米国では332件のSPACのIPOにより約491億4000万ドルが調達された。
 この期間、2018年は2007年以降最大のSPAC発行年となり、46件のSPACのIPOで約107億4000万ドルが調達された。
 エネルギーセクターの買収を目指すSPACは、2017年に過去最高の39億ドルを調達した。
 その後、2018年には14億ドルを調達した。
 2018年、SPACが最も多く上場した取引所はNASDAQで、34件のSPACが64億ドルを調達した。
 GS Acquisition Holdings Corp.とChurchill Capital Corp.は、2018年にそれぞれ6億9000万ドルのIPO資金を調達し、最大のSPACとなった。
 2019年には、59件のSPACのIPOで136億ドルが調達された。
 2020年には、約250のSPACが830億ドル以上を調達した。
 2021年の最初の月には、75のSPACがIPOを行った。
 2009年から2024年にかけて、SPACのIPOの状況は大きく変化した。
 2009年には、1件のSPACのIPOで3,600万ドルの調達額となり、控えめなスタートを切っている。
 その後、活動は増加し、2021年には613件のIPOが行われ、総額約1,620億ドルを調達した。
 IPO1件あたりの平均調達額は2億6,500万ドルであった。
 なお、2022年には、SPAC市場は大幅に縮小し、2021年の613件から86件に減少した。
 これは、経済状況の悪化と規制強化を反映したものだ。
 2021年の資金調達総額は1,625億ドルから134億ドルに減少し、IPOの平均規模も2億6,510万ドルから1億5,610万ドルに減少した。
 こうした課題にもかかわらず、103件の合併取引が成立し、合併を成功させるのが依然として困難であることが示されている。
 2023年、SPAC市場は金利上昇と金融政策の厳格化により、IPO件数がわずか31件にとどまるという厳しい状況に直面した。
 ただ、年末に向けて安定化の兆しが見られた。
 調達総額は38億ドル、IPO平均規模は1億2,410万ドル、合併は98件成立した。
 12月までに初期取引パフォーマンスがわずかに改善したことで、安定化の可能性を示唆し、IPOの終値は予想値をわずかに上回り、2024年には明るい見通しが示されている。
 SPACのIPOは2009年以降、大幅な変動を経験したが、2021年には過去最高の1,625億300万ドルが調達されたとSPACInsiderは報じている。
 米国では、SPACの株式公開構造は証券取引委員会(SEC)によって規制されている。
 SPACの株式公開は通常、S-1登録届出書(外国の民間発行体の場合はF-1)に基づいてSECに提出され、SECではSICコード6770(ブランクチェック)に分類される。
 SPACの構造、対象業種または地域、経営陣の経歴、株式保有状況、潜在的な利益相反、リスク要因に関する完全な開示は、S-1登録届出書に記載される標準的な情報である。
 SECは、SPACが長年にわたり
   ブラインドプールトラスト
   ブランクチェックコーポレーション
のように悪用されないよう、特別な規制が必要かどうかを判断するために、SPACを調査してきたと考えられている。
 多くの人は、SPACには株主保護のためのコーポレートガバナンス体制が整備されていると考えている。
 アメリカン証券取引所に上場するSPACは、募集時点で
   サーベンス・オクスリー法(SOX法)
に準拠することが義務付けられている。
 これには取締役会の過半数を独立取締役で構成すること、監査委員会および報酬委員会を設置することなどの必須要件が含まれる。
 2022年、エリザベス・ウォーレン上院議員は、ウォール街の関係者がSPACを投資家に損害を与える方法で利用していることを示す報告書を発表し、こうした乱用を抑制するための規制を求めた。
 2024年1月24日、SECは特別買収会社(SPAC)に関する新たな規則を発表し、既存の枠組みを大幅に変更することなく、規制の透明性と完全性を高めるための明確化を導入した。
 この重要な改訂点としては、1940年法に基づくSPACに関する現在の立場と、引受人としての銀行の定義を維持する一方で、「ブランクチェック・カンパニー」の再定義とセーフハーバー条項の1つを削除することにより、将来予想に関する記述の基準を精緻化したことなどが挙げられる。
 さらに、SECはDeSPAC取引においてより現実的な経営予測を奨励し、取締役会の議決権行使と報酬および証券発行による希薄化の影響に関する詳細な開示を義務付けた。
 これらの開発は、SPACエコシステム内の透明性と完全性を高めることを目的としており、既存の慣行を根本的に変えることなく、規制に対して慎重なアプローチを反映している。
 なお、ウォーレン氏はSECの新しい規則を賞賛した。

   
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2024年12月28日

Salt Typhoon(別名GhostEmperor、 FamousSparrow、UNC2286)中国の犯罪ハッカー集団

Salt Typhoon(別名GhostEmperor、 FamousSparrow、UNC2286)
 中国共産党政府が北米や東南アジアを標的とした
   サイバースパイ活動
を行うために運営しているとされる情報テロなどを行う犯罪組織。
 高度で持続的な脅威アクターとして、2020年から活動している。
 このグループは、ネットワークトラフィックのキャプチャを中心に、広範囲にわたる
   データ窃盗
を繰り返し行っている。
 元NSAアナリストの
   テリー・ダンラップ
によれば、このグループを「中国の100年戦略のもう一つの構成要素」と警告している。
 また、元CISA長官の
   クリス・クレブス氏
や他の米国当局者によると、このグループは中国国家安全省と提携している組織と述べている。
 なお、ゴーストエンペラーはカスペルスキー研究所によって付けられた名前である。[ 6 ]
FamousSparrowはESET、Salt Typhoonはマイクロソフト、UNC2286は、現在Google Cloudの一部であるMandiantによって付けられた名前である。
 
 Salt Typhoonは、 WindowsカーネルモードルートキットであるDemodex( Kaspersky Lab ]が命名)を使用して、標的のサーバーを
   リモート制御
すると報告されている。
  Salt Typhoonは非常に高度な技術を備えており、
   検出を回避
するために反フォレンジックおよび反分析技術を使用している。
 スロバキアのサイバーセキュリティ企業
   ESET
によると、ソルトタイフーンは米国のインターネットサービスプロバイダーに加え、これまでにも
   世界中のホテルや政府機関
に侵入したことがあると明らかにしている。
 
 2024年9月、ウォール・ストリート・ジャーナルは、 「ここ数カ月」にソルト・タイフーンが米国のブロードバンドネットワーク、特にインターネットの大部分をルーティングする
   シスコ製のルーター
を含むコアネットワークコンポーネントをハッキングしたと報じた。

 ワシントンポストは「ハッカーはシスコのルーターを再構成することでベライゾンのネットワークからデータを盗み出したようだ」と報じた。
 2024年10月、ソルトタイフーンが、法執行機関が裁判所の許可を得た盗聴を容易にするために使用する米国のインターネットサービスプロバイダーのネットワークを悪用していたことが発覚した。
 影響を受けたネットワークには
   AT&T
   ベライゾン
   ルーメンテクノロジーズ
   T-モバイル
のネットワークが含まれていた。
  ワシントンDCの中国大使館は、この疑惑を否定した。
 なお、ワシントンポストは
 中国の対外諜報機関である国家安全部は、長い間米国を標的にしてきたが、この侵入に関与している兆候がある。
 内部関係者は、この侵入はMSSの「ソルト・タイフーン」と呼ばれる部門によって行われたと述べている。
 このグループはマイクロソフトによって中国のハッキング活動を監視するグループに付けられたニックネームである。
と報道した。

 2024年10月、ワシントンポスト紙は、米国連邦政府がハッキングに対処するために複数機関のチームを結成したと報じた。
 同月、ニューヨークタイムズ紙は、ソルトタイフーンがカマラハリス2024年大統領選挙キャンペーンのスタッフやドナルドトランプ、JDヴァンスの携帯電話にアクセスしようとし、アクセスした可能性があると報じた。

 ソルトタイフーンは米国の少なくとも9つの通信会社に影響を与え、他の数十か国にも影響を与えた。

   
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2024年11月29日

ウルフズヘッド協会(List of Wolf's Head members)イェール大学の上級秘密結社

ウルフズヘッド協会(List of Wolf's Head members)
 コネチカット州ニューヘイブンにあるイェール大学の上級秘密結社である。
 この結社は、
とともに、イェール大学の「ビッグ3」結社の1つである。
 現役の学部生会員は、通常、4年生になる16人のイェール大学の学生によって毎年選出される。
 名誉会員も選出される。

 現在の代表団は同窓会の責任を負いながら1年間を共に過ごしている。
 過去の代表団メンバーの中には、スポーツ、ビジネス、美術・文学、高等教育、ジャーナリズム、政治の分野で著名になった人もいる。

 1884年イェール大学の4年生15人が、公的に上位の団体への推薦候補と目されていた1883年イェール大学の卒業生の協力を得て、第三団体の設立に尽力した。
 この団体は5年後に
   ウルフズヘッド
に改名された。
 この取り組みには300人以上のイェール大学の卒業生と数人のイェール大学法科大学院の教員が協力した。
 学部や大学の運営におけるスカル・アンド・ボーンズ協会の支配に対抗する目的で行われた。
 この設立により、イェール大学当局や学生団体がイェール大学の秘密結社やシニア団体を廃止しようとする最後の試みは阻止された。
 十分な数の上級生が見落とされていると感じた場合に結社を創設し維持するという伝統が続いた。
 ボーンズ結社は、ファイ・ベータ・カッパ賞の選考をめぐる論争の後に1832年に設立された。

 イェール大学で2番目の結社である
は、ボーンズ結社の選挙をめぐる論争の後に1841年に設立された。
 第三協会の設立の動機の一部は、一部の若者たちが自分たちは内部者としての地位に値するという感情にあった。
 「選ばれた者の範疇から自分たちが除外されたことは、ひどい不当な扱いであると固く信じていた、限られた数の人たちがいた」と、一部の創設者は同意した。
 
 1780年にイェール大学で
   ファイ・ベータ・カッパ
のコネチカット・アルファ支部が設立される以前(この支部は1776年の同協会設立後に設立された2番目の支部であり、現在でも会員間で秘密の握手が行われている)、イェール大学の学生は
   文学協会
を設立したり参加したりしていた。
 1830年代までには、キャンパスの文学協会である
   リノニア
   ブラザーズ・イン・ユニティ
   カリオピアン
は地位を失っていた。
 カリオピアンは1853年に解散し、他の協会も南北戦争後に解散した。
 カリオピアンは1819年から1853年、リノニアは1768年から1878年、ブラザーズ・イン・ユニティは1735年から1868年まで存在した。
1840年代半ばから1883年まで、いくつかの協会が設立された。
 いずれもイェール大学(広く学術部門として知られています)の教養学部の学生の興味を維持することができなかった。
 また、スター・アンド・ダート、ソード・アンド・クラウン、ティー・ケトル、スペード・アンド・グレイブ、ETLは解散した。

 ファイ・ベータ・カッパは1871年から1884年までイェール大学で活動していなかった。
 これは部分的に同協会の全国的な再編と重なっていたことが影響していた。
 1820年代、米国中に反フリーメーソン運動が広がったことから、PBKは活動における秘密保持の役割を検討することになった。
 1881年のPBKの全国的な再編に伴い、秘密保持はすべての支部で特徴として消え
   大学の友愛会、クラブ、協会との競争
が鎮静化した。
 そのため、すぐにイェール大学支部でも秘密保持は棚上げになった。
 ただ、PBKは現在、秘密保持を一切行わず、学術的 名誉協会として存在している。

 1850年代から、イェール大学の学部生の構成は多様化した。
 大学は地域的というよりは全国的な重要性を持つ機関になりつつあった。
 ニューイングランド以外の地域から来た学生や
   会衆派教会
   長老派教会
などの信者ではない学生が大量に大学に入学した。
 ただ、教授陣と管理職はボーンズの卒業生が占め、1865年から1916年までの教授陣5人中4人がボーンズの卒業生であった。
 ボーンズの卒業生は1869年から1921年まで大学の事務官を務めた。

 ボーンズの卒業生は1862年から1910年までの48年間のうち43年間大学の会計係を務めた。
 イェール大学理事会が最初に選出した6人の卒業生フェローのうち5人はボーンズの会員だった。
 そのため、不満は増大した。

 1873年、1873年10月13日に一度だけ発行された
   学生新聞「アイコノクラスト」
は、社会制度の廃止を主張した。
 その意見は「スカル・アンド・ボーンズはあらゆる階級から部下を引き抜き、イェール大学を支配した。イェール大学の業務は彼らによって遂行される。
 大学に支払われる金は彼らの手に渡り、彼らの意志に従わなければならない。
 イェール大学対スカル・アンド・ボーンズだ!!我々はすべての人間に、権利の問題として、どちらが生き残ることを許されるべきかを問うている」というものだった。

 イェール・デイリー・ニュースは1878年1月28日に初めて発行された。
 最初の大学日刊紙の誕生の回想録には、社会を「荒らす」ための初年度の戦略が記録されている。
 1884 年卒業生は全員一致で、卒業と同時に不信任決議を発令した。
 社会制度に対する新たな反乱を支持することに同意した。
 既存の社会制度は救いようがなく、廃止される可能性が高いという認識が広まっていた。

 1884年5月号のニューイングランダー誌には、スクロール・アンド・キーのメンバーによって執筆・出版された、この社会制度に対する熱心な擁護記事が掲載された。
 いくつかの定期刊行物でこの状況が定期的に報道された。

 エドウィン・アルバート・メリットが率いる最初の代表団は、1884年卒のクラスデー役員10名を含み、4年生の間に1883年卒の会員の助けを借りて秘密裏に会合を開き、「古い協会の悪しき特徴が排除」されるなら、協会を設立することに熱心だった。 
 なお、卒業する生徒と4年生はこの点で全員一致だった。
 1883年卒の支持者の中には、最も可能性の高いタップに関する特集記事を掲載する学部生向け出版物であるホロスコープの出版社からボーンズやキーズに確実に選ばれると宣伝されていた会員も含まれていた。
 協会支持派の4年生は、クラスデー投票で67対50で勝利した。
新しい団体は1883年6月5日頃に発足した。学部生の間では、この新興団体は嫉妬に関するイソップ寓話にちなんで「キツネとブドウ」と呼ばれていた。

 2つの古い協会はウルフズ・ヘッドと比べると劣っていた。
 ニューヘブン・レジスター紙は1886年に「ウルフズ・ヘッドは、その公的な活動に関しては
   ボーンズ・アンド・キーズ
ほど世間からかけ離れた存在ではない。しかし、その仕組みには秘密結社に分類されるだけの秘密のベールがかけられており、それがイェール大学内での安定性と尊敬を、そうでなければ得られなかったかもしれないものにしている...」と報じた。
 この協会はシェフィールド科学学校と提携したファイナルズ・クラブと同様に運営されていた。
 ただ、すぐに古い協会のほぼすべての側面を取り入れるようになった。
 
 第三協会は、ジュニア協会(2年生協会は1875年に廃止され、1年生協会は1880年に廃止された)、キャンパス組織、運動チーム、クラブ、友愛会によって築かれた社会ピラミッドの頂点に位置していた。 
 1888年、この協会は名称をウルフズヘッド協会に変更した。
 これは、協会のピンである逆さまのアンク(エジプトの象形文字で「生命の鍵」として知られるエジプト十字)の上に様式化された狼の頭が描かれたものが学部生の間で好評だっ たことと一致する。最初期の学部生メンバーは、同級生にピンを触らせたが、これは古い協会が掲げていたピンに対する明確な反論であった。死や博学ではなく永遠の命が象徴されている。ピンのデザイン要素としてローマの束縛が考えられていた。 
 
 多くの先駆者やその後のメンバーは、スカル・アンド・ボーンズに関連する一見
   フリーメーソン風
の儀式や雰囲気を「ナンセンス」(オランダ語で「軟便」の意味)と揶揄した。
 この感情はイェール大学のコミュニティ、特に学部生の間で広まっていた。ペンザンスの海賊のいたずらで、ウルフズ・ヘッドのメンバーは、地元の劇場でドクロと骨のマークの下に322という数字(スカル・アンド・ボーンズの紋章の一部)を表示するように、この俳優の海賊王を説得した。
 別の例として、イェール大学の学長A・ホイットニー・グリズウォルドは、この儀式を「骨ばったでたらめ」で「ディンク・ストーバーのたわごと」が学部生の生活を彩っているとして非難した。

 ウルフズ・ヘッドは、他の教会では一般的だった木曜と日曜の集会など、多くの伝統的な慣習を維持していた。
 エール大学の長年の上級研究員および後任理事(1964年 - 1990年)であり、米国聖公会の長年の司教であるポール・ムーア・ジュニアは、第二次世界大戦で初めて戦闘に遭遇する前夜のことを「私は船上で、ウルフズ・ヘッドで何が起こったのかをハーバード大学の友人から尋問されて夜を過ごした。彼は、私が死の危険にさらされる前夜に、そのような無関係な秘密を隠しているとは信じられなかった。」 と回想している。

 オールドホールはマッキム、ミード、ホワイトによって設計され、1884年に完成した。
 最初の墓、つまりオールドホールは、創立から数か月以内に建てられた。
 古い学部の協会は、もともと数十年にわたってキャンパス近くの借りた宿舎で会合を開いていた。
 スカル・アンド・ボーンズは、創立から20年以上経った1856年に墓を公開、
   スクロール・アンド・キー
も同様に、協会創立から20年以上経った1869年に墓を公開した。
 旧居はプロスペクト・ストリート77番地、グローブ・ストリート墓地の向かい側に位置し、フェルプス・トラスト協会のために発注され、建築会社マッキム・ミード・アンド・ホワイトが設計した
   リチャードソン・ロマネスク様式の建物
で1884年に完成した。
 1924年に大学が購入し、
   カイ・サイ・フラタニティ(1924年〜1929年)
   ブック・アンド・ボンド(解散した団体)(1934年〜1935年)
   ヴァーノン・ホール(現在はミス・アンド・ソード)(1944年〜1954年)
に貸し出された。
 現在はイェール大学社会政策研究所が入居している。

 狭い窓のある建物であるこの住居は、1903年にニューヨークタイムズ紙によって「最もモダンで最も美しい」同目的の建物として取り上げられました。この建物は、創立メンバーが資金を確保した直後の1884年に建てらた。

 協会は社交的な「予備校タイプ」の学生を集めることで有名である。
 過去の会員は、イェール大学の男女共学化、イェール大学の寄宿制とハーバード大学の寮制の設立、エリザベス朝クラブの設立、イェール政治連合の設立に深く関わっていた。
 これはイェール大学最後の男子だけのサークルだったが1992年春から女性が参加している。
 セントジェームズ宮殿特使の
   エドワード・ジョン・フェルプス
は、1885年にウルフズヘッド同窓会の名称を冠するという申し出を受け入れた。
 フェルプス協会は、2016年1月現在、約700万ドルの信託財産を保有しており、これはイェール大学の協会やクラブの中で2番目に大きい金額という。
 イェール大学のサークルとハーバード大学の期末クラブの入会基準は大きく異なっている。
 イェール大学のサークルでは、歴史的に学部生としての生活への貢献が入会基準の一つとなってきた。
 期末クラブでは入会希望者のその資質を軽視している。

◯著名なメンバー
 ・アーサー・ウィリアムズ・ライト(1859年)
   イェール大学の物理学者
 ・クラレンス・ウィンスロップ・ボーエン(1883年)
   歴史エッセイの著者
 ・チャールズ・W・ハークネス(1883年)
   スタンダード・オイル、サザン・パシフィック鉄道
   シカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道
   ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の取締役
 ・パーカー・コーニング(1895年)
   アメリカ合衆国下院議員
 ・エドワード・ハークネス(1896年)
   慈善家、イェール大学の主要な寄付者
 ・チャールズ・アイヴズ(1898年)
   モダニズム作曲家
 ・アンソン・グッドイヤー(1899年)
   製造業者、実業家、近代美術館初代館長
 ・アレクサンダー・スミス・コクラン(1896)
   製造業者、慈善家
 ・ポール・ムーア・シニア(1908年)
   リパブリック・アビエーションの創設者
 ・クリストファー・ライドン、メディアパーソナリティ、コメンテーター
 ・ダグラス・ムーア(1915年)
   作曲家
 ・アシュベル・グリーン・ガリバー(1919年)
   イェール大学法学部長
 ・ロバート・メイナード・ハッチンス(1921年)
   シカゴ大学学長
 ・フィリップ・W・ピルズベリー(1924年)
   ピルズベリー社の会長
 ・スティーブン・ヴィンセント・ベネット(1919年)
   ピューリッツァー賞受賞詩人、短編小説家、小説家
 ・ダック・イ・ポンド(1925年)
   大学フットボールコーチ 
 ・ジョン・チャールズワース(1929年)
   アメリカンフットボール選手 
 ・スラストン・バラード・モートン(1929年)
   アメリカ合衆国上院議員
 ・A.ホイットニー・グリズウォルド(1929年)
   イェール大学第16代学長
 ・エラスタス・コーニング2世(1932年)
   ニューヨーク州アルバニー市長、ニューヨーク州上院議員
   ニューヨーク州議会議員
 ・ダグラス・マッカーサー2世(1932年)
   駐日米国大使、駐日ベルギー、駐オーストリア
   駐イラン大使、国務次官(立法担当)
 ・ロジャー・ミリケン(1937年)
   ミリケン・アンド・カンパニー社長兼CEO 
 ・ウィリアム・L・ハークネス
   実業家、慈善家
 ・ルイス・レーマン、元ライト・エイド社長
   投資銀行家、レーマン研究所創設者
 ・ウィリアム・クレイ・フォード(1949年)
   ナショナルフットボールリーグのデトロイト・ライオンズのオーナー
 ・ロバート・B・フィスク(1952年)
   デイビス・ポーク・アンド・ウォードウェルの弁護士
   ニューヨーク南部地区連邦検事
 ・ウェイン・マクヴェイ
   第36代アメリカ合衆国司法長官
   オスマン帝国駐在アメリカ合衆国大使、イタリア駐在アメリカ合衆国大使 
 ・エドワード・ジョン・フェルプス
   セントジェームズ宮殿特使、弁護士、アメリカ法曹協会の創設者
 ・ウィリアム・リグレー3世(1954年)
   ウィリアム・リグレー・ジュニア・カンパニー社長
 ・リチャード・ギルダー(1954年)
   ギルダー・レーマンアメリカ歴史研究所の共同創設者
 ・トーマス・チャールトン(1956年)
   競技ボート選手、オリンピックメダリスト
 ・ドナルド・ビア(1957年)
   競技ボート選手、オリンピックメダリスト
 ・サム・チョウンシー(1957年)
   イェール大学管理者
 ・ラスティ・ウェイルズ(1958年)
   競技ボート選手、オリンピックメダリスト
 ・ジョナサン・フット(1958年)
   アメリカの保存運動と関わりのある建築家
 ・ジョージ・アレクシス・ウェイマス(1958年)
   画家、自然保護活動家
 ・ウィリアム・ウールジー・ジョンソン
   数学者、アメリカ海軍兵学校の教授 
 ・レイモンド・G・H・ザイツ(1963年)
   駐英国米国大使
 ・ウィリアム・マシューズ(1965年)
   詩人、ルース・リリー詩賞受賞者
 ・ジャック・モリソン(1967年)
   アイスホッケーオリンピック選手
 ・ラシッド・ハリディ(1970年)
   コロンビア大学現代アラブ研究名誉教授
 ・カート・シュモーク(1971年)
   ボルチモア大学学長、ボルチモア市長
 ・ポール・ゴールドバーガー(1972)
   建築評論家
 ・エドウィン・S・グロスベナー(1973年)
   アメリカン・ヘリテージの社長兼編集長
 ・ディック・ジャウロン(1973年)
   プロフットボール選手、ナショナルフットボールリーグのコーチ
 ・マーク・デイトン(1978年)
   ミネソタ州知事、米国上院議員、ミネソタ州監査役
 ・エドマンド・クラレンス・ステッドマン
   詩人、批評家、エッセイスト
 ・フェリックス・マトス・ロドリゲス(1984年)
   ニューヨーク市立大学学長
 ・クラーク・ブランチャード・ミリカン(1924年)
   カリフォルニア工科大学の航空学教授
 ・ベンノ・C・シュミット・ジュニア
   イェール大学第20代学長
 ・ダグラス・ウィック(1976年)
   アカデミー賞受賞映画プロデューサー
 ・トム・ステイヤー(1979年)
   元共同シニアマネージングパートナー
 ・ウィリアム・アール・ドッジ・ストークス
   フェルプス・ドッジ・アンド・カンパニーの実業家
 ・ポール・バトラー(1982年)
   ジョージタウン大学ローセンター法学教授 
 ・スコット・ベセント(1984年)
   投資家、ヘッジファンドマネージャー
 ・エドウィン・アルバート・メリット(1884年)
   アメリカ合衆国下院議
 ・ダグ・ライト(1985年)
   ピューリッツァー賞受賞劇作家、脚本家
 ・ロブ・ボンタ(1994年)
   カリフォルニア州司法長官
 ・リー・バードゥゴ(1997年)
   イスラエル系アメリカ人ファンタジー作家
 ・チャールズ・L・バートレット
   ピューリッツァー賞受賞ジャーナリスト
 ・マルコム・ボルドリッジ・ジュニア
   元アメリカ合衆国商務長官
 ・デイビッド・J・ブリューワー
   アメリカ合衆国最高裁判所判事
 ・ジョン・プロクター・クラーク
   ニューヨーク州最高裁判所判事
 ・サム・ワグスタッフ
   美術キュレーター、コレクター
 ・チポ・チャン(2000年)
   ジンバブエの女優
 ・クラリッサ・ワード(2002年)
   エミー賞受賞テレビニュース記者
 ・リラ・ノイガバウアー(2007年)
   演劇・映画監督
 ・デビッド・ジョサイア・ブリューワー
   アメリカ合衆国最高裁判所判事
 ・ウェイン・マクヴェイ
   第36代アメリカ合衆国司法長官
   オスマン帝国駐在アメリカ合衆国大使
   イタリア駐在アメリカ合衆国大使 
 ・ロジャース・モートン
   アメリカ合衆国内務長官、アメリカ合衆国商務長官、アメリカ合衆国下院議員
 ・エドワード・ジョン・フェルプス
   セントジェームズ宮殿特使、アメリカ法曹協会の創設者
 ・ジェフリー・ロビンソン
   国会議員兼主計総監 

   
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2024年09月21日

ヘイマーケット事件(Haymarket affair) アナキストがシカゴで爆破事件を起こしたとして起訴されもの。

ヘイマーケット事件
     (Haymarket affair)
 ヘイマーケット虐殺、ヘイマーケット暴動、ヘイマーケット広場暴動、ヘイマーケット事件とも呼ばれ、1886年5月4日に米国イリノイ州シカゴのヘイマーケット広場で行われた
   労働者デモ
で発生した爆破事件のこと。。
 この集会は、1人が死亡し多数の労働者が負傷した
   マコーミック・ハーベスティング・マシン・カンパニー
での事件の翌日、労働者が8時間労働を求めるストライキを支援するために平和的に始まった。

 集会を解散させようとした警察に身元不明の人物が
   ダイナマイト
を投げつけ、爆発とそれに続く警察の報復発砲により警察官7人と少なくとも4人の民間人が死亡し、その他数十人が負傷した。
  
 8人のアナキストが爆破事件で起訴された。
 国際的に報道された被告に対する法的手続きで、8人は共謀罪で有罪判決を受けた。
 ヘイマーケット事件は、5月1日の国際労働者の日の起源として一般的に重要と考えられている。
 また、大動乱として知られるアメリカの労働者階級の社会不安の頂点でもあった。

 裁判で提出された証拠は、被告のうちの1人が爆弾を製造した可能性があるが、裁判にかけられた誰も爆弾を投げておらず、当時ヘイマーケットにいたのは8人のうち2人だけだったというものであった。
 証拠も乏しいものの、7人が死刑、1人が懲役15年の刑を宣告された。
 イリノイ州知事リチャード・J・オグルスビーは、2人の判決を終身刑に減刑し、もう1人は予定されていた処刑前に獄中で自殺した。
 他の4人は1887年11月11日に絞首刑に処された。
 1893年、イリノイ州知事ジョン・ピーター・アルトゲルドは残りの被告を恩赦し、裁判を批判した。

 事件現場は1992年にシカゴのランドマークに指定され、2004年にはそこに彫刻が建てられた。
 さらに、フォレストパークの被告人の埋葬地にあるヘイマーケット殉教者記念碑は1997年に国定歴史建造物に指定された。
 
 南北戦争後、特に長期不況の後、米国では工業生産が急速に拡大した。
 シカゴは主要な工業中心地であり、数万人のドイツ人とボヘミア人の移民が1日約1.5ドルで雇用されていた。
 アメリカ人労働者は週6日勤務で、平均60時間強働いていた。

 シカゴは、労働条件の改善を求める労働者の要求を組織化する多くの試みの中心地となった。
 雇用主は、組合員の解雇やブラックリストへの掲載、労働者の締め出し、スト破りの採用、労働者を分裂させるためにスパイ、凶悪犯、民間警備隊の雇用、民族間の緊張の悪化などの反組合措置で対応した。
 ビジネスの利益は主流の新聞によって支持され、労働者と移民の報道機関によって反対された。

 1882年から1886年にかけての経済不況の間、社会主義と無政府主義の組織が活発に活動していた。
 社会主義と急進主義を拒否しながらも8時間労働を支持した労働騎士団の会員数は、1884年の7万人から1886年には70万人以上に増加した。
 シカゴでは、数千人の労働者(主に移民)による無政府主義運動が、アウグスト・シュピースが編集するドイツ語の新聞「アルバイター・ツァイトゥング」(「労働者新聞」)を中心に展開した。

 他の無政府主義者は、爆発物を備えた武装部隊を持つ戦闘的革命勢力を運営していた。
 その革命戦略は、警察に対する作戦の成功と主要産業センターの占拠が労働者の大規模な支持につながり、革命が始まり、資本主義が崩壊し、社会主義経済が確立されるという信念を中心に展開された
 
 1884年10月、労働組合連合会が開催した大会では、1886年5月1日を8時間労働制の標準日とすることを全会一致で決定した。
 選ばれた日付が近づくにつれ、米国の労働組合は8時間労働制を支持するゼネストの準備を進めた。

 5月1日土曜日、何千人もの労働者がストライキに参加し、全米各地で行われた集会に参加し、国歌「 8時間」を歌った。
 この歌のコーラスは、大動乱のイデオロギー「8時間労働。8時間休息。8時間好きなことをする」を反映している。

 全米のストライキ労働者の数は30万人から50万人と推定されている。
 ニューヨーク市では、デモ参加者の数は1万人、デトロイトでは1万1千人と推定されている。

 ミルウォーキーでは、約1万人の労働者が参加した。
 運動の中心地であるシカゴでは、推定3万人から4万人の労働者がストライキを起こした。
 また、街頭デモや行進に参加した人々の数は、シカゴの木材置き場で働く1万人の男性による行進の2倍程度だったと思われる。
 これらのイベントの参加者は合計8万人に上ったが、国際労働者協会[IWPA]の創設者でアナキストの
   アルバート・パーソンズ
その妻で仲間の組織者ルーシー、そして彼らの子供たちが率いるミシガン通りでの行進が、実際にその数であったかどうかは議論の余地がある。

 オーガスト・スパイズは5月3日、シカゴのウエストサイドにある
   マコーミック社
の刈り取り機工場の外で行われた集会で、ストライキ中の労働者に「団結して組合を支持せよ、さもなければ成功しない」と助言した。
 よく計画され、調整されたこの時点までのゼネストは、ほとんど非暴力的だった。
 しかし、終業のベルが鳴ると、労働者の一団がスト破りに立ち向かうために門に押し寄せた。

 スパイズは平静を求めたが、警察は群衆に発砲した。
 マコーミック社の労働者2人が死亡し、新聞報道によると死者は6人だった。
 スパイズは後に「私は非常に憤慨した。過去の経験から、この虐殺は8時間労働運動を阻止する明確な目的のために行われたと知っていた」と証言した。

 この警察の暴力行為に憤慨した地元のアナキストたちは、翌日ヘイマーケット・スクエア(別名ヘイマーケット)で集会を開くよう呼びかけるチラシを急いで印刷し配布した。
 当時、ヘイマーケットはランドルフ・ストリートとデスプレインズ・ストリートの角近くの賑やかな商業中心地だった。
 ドイツ語と英語で印刷されたチラシには、警察が企業の利益のためにストライキ参加者を殺害したと書かれており、労働者は正義を求めるよう促されていた。
 最初のチラシには「労働者よ武装し、全力で出頭せよ!」という文句が書かれていた。
 スパイズはその文句を見たとき、チラシからその言葉が削除されない限り集会では演説しないと述べた。
 チラシは数百枚を除いてすべて破棄され、問題の言葉を除いた新しいチラシが印刷され、 2万部以上が配布された。

 ヘイマーケット広場での集会は5月4日の夕方、小雨が降る中、平和的に始まった。オーガスト・スパイズ、アルバート・パーソンズ、サミュエル・フィールデン牧師は、デスプレーンズ通りの広場に隣接するオープンワゴンの中に立ち、600人から3,000人と推定される群衆に向かって演説した。
 近くからは勤務中の警察官が多数見守っていた。
 スピースの演説に続いて、アラバマ生まれで急進的な英語週刊紙「アラーム」の編集者であるパー​​ソンズが群衆に演説した。
 群衆は静かだったので、見物に立ち寄った
   カーター・ハリソン・シニア市長
は早めに帰宅した。
 パーソンズはほぼ1時間演説した後、その夜の最後の演説者、イギリス生まれの社会主義者、無政府主義者、労働運動家メソジスト教会の牧師、サミュエル・フィールデン牧師に代えて10分間の短い演説を行った。
 天候が悪化したため、群衆の多くはすでに帰っていた。

 午後10時半頃、フィールデンが演説を終えたちょうどその時、警察が一斉に到着し、演説者のワゴンに向かって隊列を組んで行進した。
 そして集会を解散するよう命じた。
 フィールデンは集会が平和的なものだったと主張した。
 警察のジョン・ボンフィールド警部は次のように宣言した。
 手製の破片爆弾[40] [41]が前進する警察の進路に投げ込まれ、爆発した。
 警察官マティアス・J・デガンが死亡し、他の多くの警察官が重傷を負った。

 目撃者たちは、爆発直後に警察とデモ参加者の間で銃撃戦があったと主張している。
 誰が最初に発砲したかは不明である。

 歴史家のポール・アヴリッチは、「ほとんどすべての情報源が、発砲したのは警察であり、弾を装填し直してから再び発砲し、少なくとも4人を殺害し、70人もの負傷者を出したことに同意している」と主張している。
 5分も経たないうちに、広場には犠牲者を除いて誰もいなかった。
 5月4日のニューヨークタイムズによると、デモ参加者は警察に発砲し始め、警察も発砲し返した。

 この事件に関する報告書で、ボンフィールド警部は「暗闇の中で何人かの隊員が互いに発砲するのではないかと恐れ、発砲をやめるよう命令した」と書いている。
 匿名の警察当局者はシカゴ・トリビューン紙に「非常に多くの警察官が互いの拳銃で負傷した。…各自が自分の身を守ろうとしており、何人かは2、3マス離れたところから逃げたが、残りの者は主に互いに向けて拳銃を撃ち尽くした」と語った。

 合計で警官7人と作業員4人が死亡した。
 アヴリッチは、警官の死者のほとんどは警察の銃撃によるものだと述べた。
 歴史家のティモシー・メッサー=クルーズは、友軍による致命的な銃撃の可能性を排除することはできないが、数人の警官はおそらく武装した抗議者によって撃たれたと主張している。
 事件から2年後、別の警官が、その日に受けた負傷に関連する合併症で死亡した。

 警察署長のマイケル・シャークは後に、負傷した作業員の数は「警察側の数をはるかに上回った」と書いている。
 シカゴ・ヘラルド紙は「野蛮な虐殺」の光景を描写し、少なくとも50人の死傷した民間人が路上に横たわっていると推定した。
 負傷した民間人の数は不明である。逮捕を恐れて医療処置を受けるのを恐れた人が多かったためである。
 彼らは可能な限りの援助を受けた。
 
 ヘイマーケット事件の後、厳しい反組合取り締まりが行われ、大動乱は沈静化した。
 雇用主は労働者に対する管理を取り戻し、伝統的な労働時間は1日10時間以上に回復した。
 警察に対しては、地域社会や企業から大規模な支援が寄せられ、警察の医療費や活動支援のために何千ドルもの寄付が行われた。

 労働者と移民のコミュニティ全体、特にドイツ人とボヘミア人が疑惑の対象となった。
 警察はアナキストと疑われる人々の自宅や事務所を捜索した。ヘイマーケット事件とはわずかしか関係のない数十人の容疑者が逮捕された。
 シカゴ警察は捜索令状などの法的要件を無視して、シカゴの労働運動家らを8週間にわたって捜索し、集会所や職場を捜索した。

 ヘイマーケット集会の演説者と新聞「アルバイター・ツァイトゥング」に重点が置かれた。
 事件当日、少数のアナキスト集団が爆弾の製造に携わっていたと発表されており、ヘイマーケット・スクエアで使用されたものと同様の丸い爆弾も含まれていた。

 新聞報道では、この「暴動」はアナキストの扇動者が責任を負っていると報じられ、不安に駆られた大衆はそれを受け入れた。
 時が経つにつれ、事件に関する報道や描写はより精巧なものとなった。

 報道は国内に、そして国際的に広がった。財産所有者、報道機関、その他の社会構成員の間では、アナキストの扇動を鎮圧する必要があるというコンセンサスが生まれ、一方で労働騎士団や職能組合などの労働組合組織は、アナキスト運動から速やかに離脱し、暴力的戦術は自滅的であるとして拒絶した。
 一方、多くの労働者は、ピンカートン通信社の密かに労働組合に潜入する戦術や、スト破りの暴力的な手法を理由に、業界に雇われた
   ピンカートン通信社
の人間が責任を負っていると信じていた。

 警察は、計画された陰謀の一環としてアナーキストが爆弾を投げたと推測したが、問題はそれをどのように証明するかだった。
 5月5日の朝、警察は
   アルバイター・ツァイトゥング
の事務所を急襲し、編集者のアウグスト・シュピースと彼の兄弟を逮捕したが、兄弟は起訴されなかった。
 また、編集アシスタントのミヒャエル・シュワブと植字工のアドルフ・フィッシャーも逮捕された。建物の捜索の結果、「復讐のポスター」と検察が有罪とみなしたその他の証拠が発見された。

 5月7日、警察は
   ルイ・リング
の建物を捜索し、多数の爆弾と爆弾製造材料を発見した。
 リングの家主ウィリアム・セリガーも逮捕されたが、警察に協力し、リングが爆弾製造者だと特定したため、起訴されなかった。

 スパイズの仲間で爆弾犯と疑われていたバルタザール・ラウはオマハまで追跡され、シカゴに連れ戻された。
 尋問後、ラウは警察に協力することを申し出た。
 彼は、被告らがダイナマイト爆弾の実験を行ったと主張し、ヘイマーケット・スクエアで武装を呼びかける暗号語「ルーヘ」(平和)をアルバイター・ツァイトゥング紙に掲載したと非難した。
 
 警察が爆弾投下の第一容疑者として挙げたルドルフ・シュナウベルトは、早い段階で2度逮捕され、釈放された。
 5月14日、彼が事件で重要な役割を果たしていたことが明らかになると、彼は国外に逃亡した。
 検察側の証人となり証言したウィリアム・ゼリガーは、州によって釈放された。

 1886年6月4日、他の8人の容疑者が大陪審によって起訴され、デガン殺害の共犯者として裁判にかけられた。
 このうち、爆弾が爆発したときにその場にいたのは2人だけだった。
 スパイズとフィールデンは平和的な集会で演説しており、爆弾が爆発する直前に警察の解散命令に従って演説台から降りていた。

 他の2人は集会開始時にはその場にいたが、爆発時にはその場を離れ、アナキストの集会所であるツェップス・ホールにいた。
 その2人は、アルバイター・ツァイトゥングの植字工アドルフ・フィッシャーと、ヘイマーケットの集会で1時間演説した後ツェップスに出向いた著名な活動家アルバート・パーソンズだった。彼ら全員に対する証拠が弱いと考えたパーソンズは、その後、被告に連帯して自首した。
 3人目は、シュピースの副編集長ミヒャエル・シュワブ(シュナウベルトの義理の兄弟)で、爆破事件当時は別の集会で演説していたため逮捕されたが、後に恩赦を受けた。

 ヘイマーケットの集会とは直接関係がないが、過激な活動家として逮捕されたのは、その日自宅でトランプをしていた
   ジョージ・エンゲル
と、仲間のゼリガーから非難された短気な爆弾製造者
   ルイス・リング
である。
 その日出席していなかったもう一人の被告人は
   オスカー・ニーベ
で、アメリカ生まれのドイツ系市民であり
   アルバイター・ツァイトゥング
と関わりがあり、ヘイマーケット暴動の余波で同紙の復活を試みていた人物であった。

 8人の被告のうち、5人(スパイズ、フィッシャー、エンゲル、リング、シュワブ)はドイツ生まれの移民であり、6人目のニーベはアメリカ生まれのドイツ系市民であった。残りの2人(パーソンズとフィールデン)はそれぞれアメリカとイギリス生まれで、イギリス系であった。

 イリノイ州対オーガスト・スピース他裁判は1886年6月21日に始まり、8月11日まで続いた。
 裁判は、被告に対する国民とメディアの極端な偏見という雰囲気の中で行われた。
 裁判長を務めたジョセフ・ゲイリー判事は、被告に対して公然と敵意を示し、一貫して検察側に有利な判決を下し、礼儀を守らなかった。

 被告を別々に裁判にかける動議は却下された。
 弁護側には、ジークムント・ザイスラーとウィリアム・パーキンス・ブラックが含まれていた。
 陪審員の選出は非常に困難で、3週間かかり、1,000人近くが召喚された。
 労働組合員と社会主義に共感を示した者は全員解任された。

 最終的に12人の陪審員が着席したが、そのほとんどが被告に対する偏見を告白した。偏見を表明していたにもかかわらず、ゲイリー判事は、偏見にもかかわらず証拠がそれを裏付けるなら無罪とすると述べた人々を審理に付し、偏見による却下を拒否した。
 最終的に、弁護側の忌避理由は尽きた。

 何百人もの陪審員が却下されることに業を煮やした執行官が任命され、無作為に陪審員を呼ぶのではなく陪審員を選んだ。
 執行官自身も偏見を持っていたことがわかり、社会的地位や被告に対する態度に基づいて有罪にしそうな陪審員を選んだ。

 ジュリアス・グリネル率いる検察側は、被告らは爆弾を投げた人物を積極的に阻止しなかった。
 このため、共謀者として同等の責任があると主張した。
 陪審は、シカゴ市警の54人の職員と被告のフィールデン、シュワブ、スパイズ、パーソンズを含む118人の証言を聞いた。
 これはストライキ参加者の間で広く信じられていた考えを反映していた。
 
 ヘイマーケット裁判の証拠品 129a: 化学者は、この爆弾を含むリングのアパートで見つかった爆弾が、ヘイマーケット爆弾の破片の化学的特徴に似ていると証言した。
 マイケル・シャーク警部率いる警察捜査官は、警官の傷口から採取した鉛の破片を化学分析した。
 その結果、ケースに使われていた鉛が、リングの自宅で見つかった爆弾のケースと一致したと報告された。
 傷口から採取された金属ナットとケースの破片も、リングが製造した爆弾とほぼ一致した。

 シャーク警部は、インタビューに基づいて、アナキストたちは何年もダイナマイトやその他の爆発物の実験を続け、ヘイマーケットで使用された効果的な爆弾を考案する前に爆弾の設計を改良していたと結論付けた。
 最後の瞬間に、提出された指示書に殺人の指示書が含まれていなかったことが判明し、陪審員が再び招集され、指示書が与えられた。
 
 陪審員は被告8人全員に有罪評決を下した。判決が下される前に、ニーベは法廷で、シャークの警官たちは市内で
   最も凶悪なギャング団
に属し、家を荒らし、金銭や時計を盗んでいたと語った。
 シャークは笑ったが、ニーベは「シャーク大尉、笑う必要はありません。あなたも彼らの1人です。あなたが理解しているように、あなたはアナーキストです。この言葉の意味において、あなた方は全員アナーキストだと言わざるを得ません」と言い返した。

 ゲイリー判事は被告のうち7人に絞首刑、ニーベに懲役15年の判決を下した。
 判決は労働運動や労働者運動の支持者から激しい怒りを招き、世界中で抗議活動が起こり、特に海外では被告らが殉教者の地位にまで上り詰めた。
 一方、アナキストを血に飢えた外国人狂信者としてマスコミが描写したことや、1889年にシャーク大尉のセンセーショナルな著書『無政府状態と無政府主義』が出版されたことで、ストライキ参加者に対する国民の恐怖と嫌悪感、そして一般的な反移民感情が広まり、世論は二極化した。

 この事件は1887年にイリノイ州最高裁判所に上訴され、その後、ジョン・ランドルフ・タッカー、ロジャー・アトキンソン・プライアー、ベンジャミン・F・バトラー将軍、ウィリアム・P・ブラックが被告を代表して合衆国最高裁判所に上訴された。
 上告審請求は却下された。
 
 控訴が尽くされた後、イリノイ州知事リチャード・ジェームズ・オグルスビーは、 1887年11月10日にフィールデンとシュワブの刑期を終身刑に減刑した。
 処刑予定日の前夜、リングは独房で密輸した爆薬帽を葉巻のように口にくわえて自殺した
 (爆風で顔の半分が吹き飛び、6時間苦しみながら生き延びた)。

 翌日(1887年11月11日)、4人の被告、エンゲル、フィッシャー、パーソンズ、スパイズは白いローブとフードを着けて絞首台に連行された。
 彼らは当時の国際革命運動の歌であったマルセイエーズを歌った。
 彼らに最後に会おうとしたルーシー・パーソンズを含む家族は逮捕され、爆弾がないか捜索された(爆弾は発見されなかった)。

 目撃者によると、彼らが絞首刑に処される直前、スパイズは「我々の沈黙が、今日あなたがたが絞め殺す声よりも強力になる時が来るだろう」と叫んだという。
 エンゲルとフィッシャーは最後の言葉として「アナキズム万歳!」と叫んだ。
 パーソンズはその後、話すよう求めたが、落とし戸を開ける合図で遮られた。
 目撃者によると、死刑囚たちは落下した際にすぐには死なず、ゆっくりと絞殺され、その光景は傍観者に明らかに動揺を与えたという。

 陰謀罪で有罪判決を受けたにもかかわらず、実際の爆弾犯は裁判にかけられず、「主犯のいない陰謀裁判を、弁護士が説明しても完全に正当であるとは思えない」。
 ジェームズ・ジョールやティモシー・メッサー=クルーズなどの歴史家は、証拠からシュワブの義理の兄弟であるルドルフ・シュナウベルトが犯人である可能性が高いと指摘している。

 米国内外の労働運動支持者やその他の人々の間では、この裁判は不公平であり、重大な冤罪であると広く信じられていた。
 アルトゲルドはまた、ピンカートンの警備員がストライキ中の労働者に対して繰り返し致命的な暴力を振るった責任をシカゴ市が問わなかったことを非難した。
 アルトゲルドの労働に関する行動は、彼の再選を阻むために利用された。
 裁判の直後、アナキストのダイアー・ラムは検察を批判する裁判の歴史を書いた。

 1888年にはジョージ・マクリーン、1889年には警察署長のマイケル・シャックが反対の視点から記録を書いた。
 判決を待つ間、被告人はそれぞれ自伝を書いた 

 検察側は、被告らがいずれも爆破事件に関与していないことを認めながらも、爆弾はリングが製造したと主張し、検察側証人のハリー・ギルマーとマルバーン・トンプソンは、爆弾投下犯がスパイズ、フィッシャー、シュワブの協力を得ていたと示唆しようとした。
 被告らは、爆弾犯については全く知らなかったと主張した。
 ロバート・ライツェルを含む数人の活動家は後に、爆弾犯が誰であるかを知っていると示唆した。
 作家や他の評論家は多くの容疑者について推測している。

 ルドルフ・シュナウベルト(1863年 - 1901年)は活動家で、マイケル・シュワブの義理の兄弟だった。
 爆弾が爆発したとき、彼はヘイマーケットにいた。
 シカゴ警察署長 フレデリック・エバーソルドは、 1886年6月14日に手書きの逮捕状を発行し、殺人と暴動扇動の罪で彼を逮捕した。
 シュナウベルトは他の被告とともに起訴されたが、裁判にかけられる前にシカゴから逃亡し、後に国外にも逃亡した。

 彼は刑事たちの第一容疑者であり、証人ギルマーは、法廷で写真から彼を特定し、シュナウベルトが爆弾を投げるのを見たと証言した。
 シュナウベルトは後にロンドンから2通の手紙を送り、責任を否定し、「もし私が本当にこの爆弾を投げたのなら、確かに恥じることは何もないだろうが、本当のところ、私は一度もそんなことを考えたことはなかった」と書いた。

 彼は最も一般的に容疑者として知られており、フランク・ハリスが1908年に書いた悲劇の小説『爆弾』では爆弾投下者として描かれている。シュナウベルトの視点から書かれたこの物語は、彼が死の床で自白する場面で始まる。
 しかし、ハリスの描写はフィクションであり、シュナウベルトを知る人々はこの本を激しく批判した。
 
 ジョージ・シュワブは1924年に亡くなったドイツの靴職人である。
 ドイツのアナキスト、カール・ノルドは他の活動家とのやり取りを通じてシュワブが爆弾犯であることを知ったと主張した。
 しかし、証拠は出なかった。

 歴史家のポール・アヴリッチも彼を疑っていたが、シュワブがシカゴにいたのは数日前だったと指摘した。
 これは、爆弾犯がシカゴではよく知られた人物だったという他の人の主張と矛盾している。
  
 ダイアー・ラムは、「ヘイマーケット爆弾をピンカートンがやった」とするのは「幼稚」だと述べた。
 不満を持った労働者が犯人だと広く疑われていた。
 アドルフ・フィッシャーは爆弾を投げたのは誰か知っているかと尋ねられると、「興奮した労働者だったと思う」と答えた。
 オスカー・ニーベは「変人」だと言った。

 アルトゲルド知事は、爆弾を投げたのは、被告やアナキスト運動とは関係のない、警察に対して個人的な恨みを持つ不満を持った労働者だったのではないかと推測した。
 恩赦の声明で、アルトゲルド知事は、労働者に対する警察の残虐行為の記録が復讐を招いたと述べ、「ボンフィールド警部こそが、警察官の死の本当の責任者だ」と付け加えた。
 
 クレマナ・シューツはニューヨークのアナーキストで詐欺師の
   フランツ・メイホフ
によって爆弾犯と特定され、宣誓供述書の中でシューツはヘイマーケットに爆弾を投げたことを認めたと主張した。
 メイホフの弁護士オーガスト・ワグナーは死刑執行前日にニューヨークから弁護士
   ウィリアム・ブラック大尉
に電報を送り、爆弾犯の身元を知っていると主張した。
 ブラックはこの電報で死刑執行を遅らせようとしたが、オグルスビー知事は拒否した。
 後に、シューツは保険金詐欺の裁判でメイホフに不利な証人であったことが判明したため、メイホフの宣誓供述書は歴史家から信用できるものとはみなされなかった。[
 
 レイノルド・「ビッグ」・クルーガーは爆破事件後の乱闘か翌日の別の騒動で警察に殺害され、容疑者として名前が挙がっている。
 しかし、それを裏付ける証拠はない。
 インディアナポリスの酒場経営者
   ジョン・フィリップ・デルース
は、爆破事件の前日に自分の酒場で見知らぬ人に遭遇したと主張して、謎の部外者を報告した。
 その男はランドセルを背負い、ニューヨークからシカゴへ向かう途中であった。
 デルースによると、その見知らぬ人はシカゴの労働状況に興味を持っており、何度も彼のランドセルを指差して「すぐに何か問題が起きるだろう」と言ったことを明かした。

 パーソンズはデルースの証言を利用して、爆弾を投げたのは東部の資本家たちだと示唆した。
 デルースの主張についてはそれ以上何も分かっていない。
  
   
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2024年08月31日

ギタ・ベリンの一言

 もし変化を望むなら、その変化が起こる前に、あなたが変化そのものにならなくてはなりません。


 もし何か変化を望むのであれば、他人を動かすのではなく自分から変化しないと周りが変わらないと言うことです。
 他力本願ではなく自力で改革しないといけないと言うことで、無理に他人を変えるということは難しく、変わるのであれば自分を変えたほうが変化は早いと言うことにもなります。
(オーストラリアの経営コンサルタント、著述家)


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2024年08月30日

新島襄の一言

怒りっぽい人は他人を罰するよりも、むしろ自分を罰する方が多いものである。

 やたら他の者に対して、腹を立てることは回りまわって自分に来るということにもなりかねません。
 他人に厳しくとも、自分に甘ければ、後に自分の甘さを非難されてしまうことにもなります。
 ある程度の妥協は必要であり、全てが完璧な者など常にあると考えること自体、実態をわかっていないともいえます。
  

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2024年08月25日

勝海舟の一言

 何でも大胆にかからねばならぬ
 難しかろうが、易しかろうが、そんな事は考えずにいわゆる無我の境に入って断行するに限る。

 とやかく理屈を並べ立てて言うよりは、実行あるのみということ。
 何を言ったとしても、講釈を垂れることでは競争相手よりは行動が一歩遅れてしまうことに繋がってしまうことになる。

   
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2024年08月22日

アール・ナイティンゲールの一言

私たちは、つねづねこうなりたいと望んでいるものになれる。

 私たちは、自分はこういう人間なんだと信じている人格、つねに、こうないたいと憧れている人物像に近づいていくものです。

   
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2024年08月19日

ストームシャドウ(Storm Shadow) 

ストームシャドウ(Storm Shadow)
 フランスとイギリスの 共同開発によるステルス性のある
   長距離空中発射巡航ミサイル
で、1994年からマトラ社とブリティッシュ・エアロスペース社によって開発され、現在はMBDA社によって製造されている。
 「ストームシャドウ」は、この兵器のイギリス名であり、フランスではSCALP-EG (「 Système de Croisière Autonome à Longue Portée – Emploi Général」の略である。
 このミサイルは、フランスが開発した
   アパッチ 対滑走路巡航ミサイ
をベースにしているが、クラスター弾ではなく一体型弾頭を搭載している点が異なっている。

 単価 2,000,000ポンド(2023年度)(2,500,000米ドル)
  質量 1,300 kg (2,900 ポンド)
  長さ 5.1 m (16 フィート 9 インチ)
  幅  630 mm (25 インチ)
  身長 480 mm (19 インチ)
  翼幅 3メートル(9フィート10インチ)
  弾頭 多段ブローチ貫通弾頭
  弾頭重量 450キログラム(990ポンド)
  エンジン マイクロターボ TRI 60-30ターボジェット
  
  運用範囲 550 km (300 海里; 340 マイル)
  最高速度 マッハ 0.95 (323 m/s; 1,060 フィート/s)
 
  装着可能戦闘機等 ミラージュ2000、ラファール、Su-24、トルネード、タイフーン、グリペン
 
 フランス国防省は、水上艦艇や潜水艦から発射でき、より高精度で長距離から戦略目標や軍事目標を攻撃できる、より強力な巡航ミサイルの要件を出した。
 これを満たすため、 MBDAフランスはSCALPを補完するミサイル
   Missile de Croisière Naval(「海軍巡航ミサイル」)またはMdCN
の開発を2006年に開始した。
 最初の発射試験は2013年7月に行われ、成功し、 MdCNは2017年からフランスのFREMMフリゲート艦で運用されている。
 2022年に運用開始予定のフランスのバラクーダ原子力攻撃型潜水艦にも装備されている。

 2017年には、フランスとイギリスのそれぞれのストームシャドウ/SCALP備蓄をアップグレードする共同契約が締結された。
 この契約により、2032年に予定されている退役までミサイルの運用が継続されると予想されている。
 フランス、英国、イタリアは、2028年と2034年までにSCALP/ストームシャドウと各国の対艦ミサイルに代わる将来巡航/対艦兵器を共同開発している。

 ミサイルの重量は約1,300キログラム(2,900ポンド)、通常弾頭は450キログラム(990ポンド)である。最大本体直径は48センチメートル(19インチ)、翼幅は3メートル(120インチ)である。マイクロターボTRI60-30 ターボジェットエンジンによってマッハ0.8で推進され、射程は約560キロメートル(300海里、35​​0マイル)である。
 この兵器は、サーブ・グリペン、ダッソー・ミラージュ2000、ダッソー・ラファール、パナビア・トルネード、イタリアのトルネードIDSとイギリスのトルネードGR4(現在は退役)の両方、そして改造されたスホーイSu-24など、さまざまな航空機から発射することができる。

 ストームシャドウは、 2015年にフェーズ2強化(P2E)の一環としてユーロファイター・タイフーンに統合された。
 ただ、 米国のF - 35ライトニングIIには装備されない。

 ストームシャドウのBROACH弾頭は、土壌を掃討したりバンカーに侵入するための最初の貫通爆薬と、主弾頭の爆発を制御する可変遅延信管を備えている。
 対象ターゲットは、指揮統制および通信センター、飛行場、港湾および発電所、弾薬管理および保管施設、港湾内の水上艦艇および潜水艦、橋梁、およびその他の重要戦略ターゲットという。
 このミサイルは発射前にプログラムされ、発射したら放置しても自動で飛行し目標に到達する。
 そのため、発射後は制御も自爆命令も出せず、目標情報の変更もできない。
 ミッションプランナーは、目標とその防空の詳細をこの兵器にプログラムする。

 ミサイルは半自律的に経路をたどり、GPSと地形図によって目標エリアまで誘導される低空飛行経路をたどる。
 目標に近づくと、ミサイルは上昇して視野を広げ、貫通力を向上させ、目標に保存された画像をIRカメラで照合してから目標に急降下する。

 高度上昇は、目標の識別と貫通の可能性を最大限に高めることを目的としている。
 最終操作中に、ノーズコーンが投棄され、高解像度サーモグラフィーカメラ(赤外線ホーミング)が目標エリアを観察できるようになる。
 次に、ミサイルはターゲット情報( DSMAC )に基づいてターゲットの位置を特定しようとする。
 それができず、付随的な損害のリスクが高い場合、ミサイルは不正確さのリスクを冒す代わりに、墜落地点まで飛行することができる。

 2005年に報告された機能強化には、フランスのDGA契約に基づいて開発中の、着弾直前にターゲット情報を中継する機能と、戦闘被害評価情報をホスト航空機に中継するための一方向(リンクバック)データリンクの使用が含まれていた。
 当時は、双方向データリンクを使用した飛行中の再標的機能が計画されていた。
 2016年に、ストームシャドウは選択的精密効果範囲4( SPEAR 4)ミサイルプロジェクトの下で改修されることが発表された。

 マトラ社とブリティッシュ・エアロスペース社は、1996年7月に通常兵器スタンドオフミサイル(CASOM)の主契約者に選ばれ、同社のストームシャドウミサイルは、マクドネル・ダグラス社、テキサス・インスツルメンツ/ショート・ブラザーズ社、ヒューズ/スミス・インダストリーズ社、ダイムラー・ベンツ・エアロスペース/ボフォース社、GEC-マルコーニ社、ラファエル社からの提案に勝利した。 [

 ストームシャドウの設計は、マトラ社のアパッチ滑走路阻止巡航ミサイルに基づいていた。
 開発・製造契約は1997年2月に締結され、その時点でマトラ社とBAe社はミサイル事業の合併を完了し、マトラ・BAeダイナミクス社が設立された。
 フランスは1998年1月に500発のSCALPミサイルを発注した。

 ストームシャドウ/SCALP EGの完全誘導射撃が初めて成功したのは、2000年12月末にフランスのCELビスカロッセ射撃場でミラージュ2000Nから行われた。
 ユーロファイター タイフーンに搭載されたストームシャドウミサイルの初飛行は、 2013年11月27日にイタリアのデチモマンヌ空軍基地で行われ、アレニア・アエルマッキ社が計器付き量産機2号機を使用して実施した。

 2016年7月、英国国防省は今後5年間にわたりストームシャドウを支援するために2,800万ポンドの契約を締結した。
 このミサイルはフランスの主導によりITARの対象外となった。

 胴体下にストームシャドウミサイル2基を搭載したイギリス空軍のトルネードGR4が、2019年1月に キプロスのイギリス空軍アクロティリ基地からオペレーション・シェーダーの任務で離陸した。
 イギリス空軍のトルネードは、2003年のイラク侵攻の際に初めてストームシャドーミサイルを実戦投入した。
 正式に配備される前だったが、「加速試験スケジュール」により、イギリス空軍の第617飛行隊が紛争でストームシャドーミサイルを使用した。 

 2011年のリビアへの軍事介入の際、ストームシャドウ/SCALP EGがフランス空軍のラファールとイタリア空軍およびイギリス空軍のトーネードによってカダフィ支持派の標的に発射された。
 標的にはアル・ジュフラ空軍基地やリビアの指導者ムアマル・カダフィの故郷シルトの軍事バンカーが含まれていた。
 2011年12月、イタリアの防衛当局は、リビア作戦中にイタリアのトーネードIDS航空機が20〜30発のストームシャドウを発射したと述べた。これはイタリアの航空機が実戦でミサイルを発射した初めてのケースであり、ミサイルの成功率は97パーセントだったと報告された。

 フランスの航空機は、シャマル作戦の一環として、シリアのISISの標的に12発のSCALPミサイルを発射した。
 これらの発射は、2015年12月15日と2016年1月2日に行われた。

 これらの発射は、フランス国防省がコスト削減のためにSCALPミサイルの在庫を減らす決定を下した後に承認された可能性があると考えられている。
 2016年6月26日日曜日、イギリス空軍はイラクのISISバンカーに対して4発のストームシャドウミサイルを使用した。
 ストームシャドウミサイルは2機のトーネード航空機から発射された。
 4発のミサイルすべてが直撃し、バンカーの奥深くまで貫通した。
 ストームシャドウミサイルが使用されたのは、バンカーが巨大に建設されていたためである。

 2016年10月、英国政府は、イエメン紛争においてサウジアラビアが英国供給のミサイルを使用したことを確認した。
 2018年4月、英国政府はシリアの化学兵器施設を攻撃するためにパナビアのトーネードGR4に搭載されたストームシャドウミサイルを使用したと発表した。
 米海兵隊のケネス・マッケンジー中将によると、ホムス近郊のヒム・シンシャル化学兵器貯蔵施設が、米国のトマホーク9発、英国のストームシャドウ8発、フランスのMdCN巡航ミサイル3発、フランスのSCALP巡航ミサイル2発の攻撃を受けた。
 衛星画像では、施設が攻撃で破壊されたことが示されている。
 国防総省は、ミサイルは迎撃されておらず、襲撃は「正確かつ圧倒的」だったと述べた。
 これに対して、ロシア国防省はモスクワでの記者会見で、撃墜されたストームシャドウミサイルであると主張する物体の一部を公開した。

 2020年7月の第二次リビア内戦中のアルワティヤ空軍基地への空爆では、アラブ首長国連邦のミラージュ戦闘機かエジプトのラファール戦闘機によって配備されたストームシャドウが使用された可能性があると示唆されている。
 国際的に承認された国民合意政府を支援するトルコ軍人が駐留していたこの基地への攻撃で、数名のトルコ兵士が負傷した。
 また、MIM-23ホーク対空ミサイルシステムとKORAL電子戦システムが破壊された。

 2021年3月11日、キプロスのアクロティリ空軍基地から出撃したイギリス空軍のタイフーンFGR4ジェット機2機が、イラク北部のエルビル市南西にある洞窟群を攻撃した。
 この洞窟群では多数のISIS戦闘員が活動していたと報告されており、タイフーンによるストームシャドウが初めて実戦に使用された。
 
 2023年5月11日、英国はロシアのウクライナ侵攻中にウクライナ軍にストームシャドウを供給すると発表した。
 これは、ロシアによるウクライナのインフラへの攻撃に応じて、英国が2023年2月にウクライナに長距離ミサイルを送ると約束したことを受けてのものである。
 ウクライナは、ロシア領土でそのような兵器を使用しないと主張している。
 ベン・ウォレス英国防相は、ロシアが
   Kh-47M2極超音速ミサイル
   3M-54カリブル巡航ミサイル
   シャヘド-136一方向攻撃ドローン など
さらに長距離の兵器を使用していることを指摘した。
 この納入を「ロシアのエスカレーションに対する調整された、釣り合いのとれた対応」と強調した。 

 ストームシャドウミサイルの供与は、ロシアの最前線支援能力を妨害するために占領下のクリミア半島の指揮統制拠点や兵站拠点を含む、これまで可能だったよりもはるかに長い距離の標的を攻撃できる。
 このため、ウクライナ軍にとって大きな後押しとなる。
 その後まもなく、フランスは、自国のミサイルバージョンであるSCALP EGもウクライナに引き渡すと発表した。
 フランスは、ロシア領土を攻撃できる兵器は提供していないと述べた。

 英国は5月18日、ウクライナがすでにストームシャドウを成功裏に使用したことを確認した。
 フランスのミサイルがウクライナに正確にいつ引き渡されたかについての情報は公表されていない。
 しかし、駐フランスウクライナ大使のヴァディム・オメルチェンコ氏は、2023年8月22日のLB.uaのインタビューで、フランスの
   エマニュエル・マクロン大統領
が約束したSCALPミサイルはすべて、おそらく5月のマクロン大統領の発表時までに、すでに引き渡されたことを確認した。

 オメルチェンコ氏はさらに、最初の一連のミサイル(一部報道では50基と報じられている)は十分にその価値を証明しており、フランスによるSCALPの供給は今後も続くだろうと述べた。
 これに先立ち、チョンガル海峡鉄道橋への攻撃から数日後の8月6日には、SCALPのウクライナでの運用状況が目視で確認されており、攻撃での使用やウクライナのSu-24爆撃機への統合が成功したことも確認されていた。

 ロシアは、ウクライナがストームシャドウミサイルを使用してルハンシクの工業地帯を攻撃したと主張した。
 しかし、これは同ミサイルの配備が発表されてからわずか2日後の2023年5月13日のことだった。

 ロシアの報道機関イズベスチヤの報道によると、巡航ミサイルは特別に改造されたSu-24攻撃機から発射され、 AGM-88 HARMを搭載したMiG-29およびSu-27戦闘機の援護を受けて飛行するという。
 ウクライナ軍はまた、ロシアの防空網を逸らし、航空機や兵器が迎撃されるのを防ぐために、UAVやADM-160 MALDデコイを使用している。

 ウクライナのオレクシイ・レズニコフ国防相は、Su-24がウクライナ空軍のストームシャドウ発射プラットフォームであることを確認し、Su-24MRの内側翼下パイロンにミサイルをそれぞれ搭載した写真をツイートした。
 パイロンには退役したイギリス空軍のトルネードGR4航空機から派生したアダプターが使用されている。

 レズニコフ氏は5月末、ミサイルが目標の100%を撃ち抜いたと述べた。
 しかし、ロシア国防省はミサイルのいくつかを撃墜したと主張している。
 6月12日、ストームシャドウによる攻撃でザポリージャ州でセルゲイ・ゴリヤチェフ少将が死亡した。
 当時、ゴリヤチェフ少将は第35統合軍参謀長だった。

 6月22日、クリミアとヘルソン州を結ぶチョンハル道路橋がストームシャドウミサイルの攻撃を受け、ロシア軍の兵站が妨害された。
 ほぼ無傷のストームシャドウは7月初旬にザポリージャに墜落した。
 TASSは、ロシア軍がこれを撃墜し、残骸を回収してミサイルの設計を研究し、対抗策の開発に役立てたと主張した。

 2023年7月9日、ストームシャドウ/SCALPミサイルはロシアの防空軍によって撃墜され、後に捕獲された。
 2023年7月29日、ストームシャドウ(SCALP)ミサイルが占領下のクリミアとヘルソン州を結ぶチョンガル海峡鉄道橋を襲い、橋の進入路の2本の線路の間に着弾した。

 2023年9月13日、ストームシャドウミサイルとSCALPミサイルがセヴァストポリ港への攻撃に使用された。
 ロストフ・ナ・ドヌ潜水艦に深刻な損傷を与え、ロプチャ級揚陸艦ミンスクにも深刻な損傷(一部の情報源によると、修復不可能な損傷を与えた。

 2023年9月22日、少なくとも3発のストームシャドウミサイルとSCALPミサイルがセヴァストポリの黒海艦隊本部を襲った。
 ウクライナ軍によると、ミサイル攻撃はロシア海軍の首脳会議を標的としたものだった。
 「ロシア黒海艦隊本部への攻撃後、ロシア黒海艦隊司令官を含む34人の将校が死亡した」と彼らは述べた。
 ソコロフの死亡の確認はされていないが、攻撃が行われて以来、彼が生きていて元気であると伝える信頼できる情報源もない。

 彼らはまた、攻撃により少なくとも100人の他のロシア軍人が負傷したと主張した。
 2023年12月26日、ロシア占領下のフェオドシヤ港に向けてストームシャドーミサイルとSCALPミサイルの2発が発射された。
 これによりロシアのノヴォチェルカッスク揚陸艦が被弾して炎上したとみられる。

 2024年5月28日の記者会見で、フランスのマクロン大統領は、ウクライナがSCALPミサイルを使用してロシア国内の標的を攻撃することを許可したと述べた。
 これは、外国から供給された兵器の使用を占領地のみに制限していた以前のガイドラインからの大きな転換である。
 この使用の拡大は、依然としてウクライナへの攻撃に使用されている軍事施設の無力化に限定されている。
 2024年7月、英国の首相キール・スターマーは、英国政府がロシア国内の標的に対するストームシャドーミサイルの防衛使用を許可すると発表した。 
  
   
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2024年07月26日

Perplexity(パープレキシティ、パープレ) AIチャットボット型の検索エンジン

Perplexity(パープレキシティ、パープレ)
 AIスタートアップ企業
により2022年に公開されたAIチャットボット型の検索エンジンのこと。
 ウェブからの情報源を用いて回答を生成し、回答文中に根拠となる情報源を引用するもの。
 無料版のPerplexityに加えて、より高度な機能が利用可能な有料版のPerplexity Proが提供されている。
 2024年6月17日には
   ソフトバンク
との提携が発表され、日本語では「パープレ」という愛称が提案された。
 Perplexityは、バックエンドシステム、AI、機械学習などの経歴を持つエンジニアら
   Aravind Srinivas
   Denis Yarats
   Johnny Ho
   Andy Konwinski
によって2022年に開発された。

 経歴として、CTOの
   Yarats
はMetaのAI研究者、CEOである
   Srinivas
OpenAIのAI研究者、最高戦略責任者であるHoはQuoraでエンジニアとウォール街でのトレーダー
   Konwinski
はDatabricksの創設チームの一人であった。

 無料版ではPerplexity AI, Inc.が独自開発した検索特化型の言語モデルが用いられているが、有料版では回答の生成に用いる大規模言語モデルとして他社のより高度なモデルを用いてることができるため、GPT-4、GPT-4o、Claude 3、Mistral Large、Llama 3、および実験的なPerplexityモデルなどを利用することができる。
 2024年初頭時点で、月間利用者数は約1,000万人に達している。

 2024年時点で、Perplexityは1億6,500万ドルの資金調達を行い、企業価値は10億ドルを超えている。
 投資家の中には、Amazon CEOの
   Jeff Bezos
   Nvidia
   Databricks
   Bessemer Venture Partners
   Susan Wojcicki
   Jeff Dean
   Yann LeCun
   Andrej Karpathy
   Nat Friedman
   Garry Tan
などが名を連ねる。

    
  
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2024年07月16日

迷わば休むべし、相場は常にあり、決すれば進むべし機は瞬間に去る。

 株に限らず心に迷いがありながら
   中途半端に行動
を起こすと失敗するケースが多い。
 迷うこと事態は悪くはないが、迷いを引きずりながら中途半端にやるぐらいなら、最初から何もしない方がいい。
 行くと決めた時は、迷わず進むべきである。
 モタモタしているとチャンスはあっと言う間に過ぎ去ってしまう。

    
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2024年07月14日

罫線屋足を引き引き足を出し。

 実にくだらない格言のひとつだが、相場は決してチャートでは分からないと言う意味であり
   罫線屋(チャーティスト)
をおちょくった言葉のひとつである。
 常に、ファンダメンタルズとテクニカルはどちらが正しいか? といったことが議論されるが、これも実にくだらない話のひとつ。

 そもそも、どちらも重要に決っており、片方を極端に否定するような人は、バーチャル投資家か、ど自信過剰な素人、或いは別の意図がある悪巧みをしていると思ってしまう。
 このような連中とは話をするのも馬鹿馬鹿しく、時間の無駄ともいえる。

 投資家の心理を少し反映するチャートや一目均衡表の方をより重視して投資していますが、チャートを重視するのは、自分の場合ファンダメンタルズではリスク管理が出来ないという考えからです。
 そもそも、チャートで未来が分かるなんて言うものでもありません。
 相場の方向は常に参加者の心理に従うもので、未来はチャートでもファンダメンタルズでも分からないに決っている。
 もし分かれば、みんな大金持ちになります。
 また、うまい儲け話を勧誘する輩は、ほとんどが、鴨ねぎ投資家を引き込むための甘い言葉だり、詐欺で騙そうとするものばかりでしょう。
 自分で金を設ければいいのであって他人に金を設けさせる話をするバカはいない。

   
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2024年07月11日

長州五傑(ちょうしゅうごけつ)

長州五傑(ちょうしゅうごけつ)
 江戸時代末期(幕末)の1863年に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主に
   ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ など
に留学した
   井上聞多(馨)
   遠藤謹助
   山尾庸三
   伊藤俊輔(博文)
   野村弥吉(井上勝)
の5名の長州藩士を指すもの。
 
 駐日イギリス領事であった
   エイベル・ガウワー
や、アヘン・武器商人のジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)の
   ウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)
のジャーディン・マセソン商会の長崎代理人の武器商人の
   トーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)
らの協力を得て成し遂げられた。
 イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の一人
   ジェームス・マセソン
の甥にあたるマセソン商会社長
   ヒュー・マセソン
が世話役となった。

 この5名はロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five)として1993年に顕彰碑が建てられており、そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、2003年に山口市に顕彰碑が建てられた。
 その碑文では、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。
 その顕彰碑は、秋穂二島の山尾庸三生家近くに設けられたものの、山口市立二島中学校の敷地内を経て、山口市新山口駅の南口に移設された。
 また、2006年に山口大学構内にも記念碑が設けられている。

 渡航時の年齢は、井上馨(28)・遠藤謹助(27)・山尾庸三(26)・伊藤博文(22)・井上勝(20)であった。
 一方没年は、遠藤謹助(1893年57歳)・伊藤博文(1909年68歳)・井上勝(1910年66歳)・井上馨(1915年79歳)・山尾庸三(1917年80歳)である。
 投稿時の身分は、正式な藩士である井上馨・井上勝・遠藤謹助であったのに対し、伊藤博文・山尾庸三は武家奉公人の立場であった。
 渡航直前に両者は形式的に士分に取り立てられているものの、海外渡航は幕府により禁止されているため藩内では5人とも脱藩した扱いとなっている。
 この洋行は藩命だったとも周布政之助の計画だったという説もある。
 実際には山尾と野村、そして二人とは別に井上が願い出て周布がそれを聞き入れて、藩主毛利敬親の名のもと許可が下りた、という形。
 なお、桂小五郎も洋行を願い出たこともあったが、すでに藩の要職にあったため、許可が下りなかった。

 文久元年(1861)、箱館奉行所の武田斐三郎は、幕府の船亀田丸でロシアの沿海州航海計画を立てた。
 それを知った山尾が桂に頼み、小使い(雑用)として乗せてもらうことに成功した。
 亀田丸の船長
   北岡健三郎
が、桂と山尾が通う練兵館の
   斎藤弥九郎
の弟という関係から実現した。
 4月に箱館を出航した亀田丸は、ニコライエフスク(ロシアのアムール河河口の町)まで行き、8月に無事、航海を終えた。
 この航海が、山尾の目を外国へ向けさせる第一歩となった。

 山尾はそのまま武田に師事し、武田が教授を務める諸術調所で語学・測量などを学んだ。
 その後、江戸で大村益次郎に「海外へ出て見ると誠に利益がある。就てはどうか洋行したいものであるが」と相談したが、「それはむつかしい。もし易く行かれる様な機会があったならば、自分が行きたいと想ふて居るのだ。しかし好機会があったならば心配はしてやる」と言質を得ているとの記録が残っている。
 山尾の実家は地域を治める庄屋で、大村の実家は山尾の実家の隣村の村医者であった。
 また、山尾の父親と大村の父親は交流があった。

 一方野村は、安政5年(1858年)に長崎で長崎海軍伝習所教官の
   ファン・トローエン
から兵学を学び、安政6年(1859年)に江戸に出て蕃書調所で航海術などを学んでいた。
 万延元年(1860年)から文久元年(1861年)まで箱館の武田に師事し航海術と英語の取得に励んだ。
 一旦は養父に呼び戻されるも、文久2年(1862年)に再び江戸に到着して、横浜の外国人居住地での英語学習や、長州藩邸での勉強会(講師は大村益次郎)に参加した。

 文久3年(1863年)3月、長州藩が購入した癸亥丸の船長を野村が、測量方を山尾が務め、横浜港から大阪を経由して三田尻港まで航行することになった。
 この時、京都にいた世子毛利元徳が帰藩のため癸亥丸に乗船予定であった。
 しかし、操船に不安があったため、京都の長州藩邸の役人は庚申丸を選び、癸亥丸を随従させるという決定を下した。
 自らの操船に限界を感じた二人は、留学への思いをさらに強めることになった。
 帰藩した山尾と野村はただちに洋行留学の願いを出し、陸路で京都に向かった。

 また、井上は、安政2年(1855年)10月、藩主
   毛利敬親
の江戸参勤に従い江戸に入り、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。
 文久2年(1862年)から尊王攘夷運動に共鳴し、同年12月の
   英国公使館焼き討ち事件
に参加したのち、文久三年(1863)正月から京都で世子毛利元徳の小姓役となった。
 久坂玄瑞や山県半蔵が長州藩に招聘しようとして断られた
   佐久間象山
の話を聞いて、「人材を海外に派遣すべし」とする論には大いに心が動かされ、「外国に出て海軍のことを研究して日本に海軍を興そう」と決心したという。
 井上はその志を藩主毛利敬親に密かに打ち明けたものの「かようなことを予に直接、願うものではない」と井上に告げた。
 そこで、周布・桂ら藩幹部や高杉晋作・久坂ら攘夷運動同志に相談し、攘夷派で凝り固まった久坂らには反対されたものの、「攘夷のための留学」と説得した。
 さらに、同年3月29日には大阪に来ていた
   勝海舟
に面会、海軍興隆について意見を聴いている。

 山尾・野村、および井上からの留学願を受けた周布は、文久3年(1863年)4月3日、貿易商会
   伊豆倉商店
の番頭・佐藤貞次郎を祇園の一力茶屋に招いて(桂・久坂も同席)、この計画実現への助力を請い、承諾された。

 4月18日には藩主の許可が下り、一人当たり200両、計600両が3人に与えられた。
 4月28日に井上・野村は京都を発ち、5月6日に江戸に到着した。山尾は身分の違いからか別行動らしく、江戸に着いたのは5月1日とされる。

 なお、遠藤が一行に加わるまでの経過ははっきりわかってない。
 文久2年(1862年)にイギリスから購入した壬戌丸(長州藩にとっては初めての蒸気船だが、長州人だけの手では動かせなかった)が江戸湾を航行したときに、当時桜田藩邸にいた遠藤が、井上とともにこの船に乗り込んでいる。

 伊藤が一行に加わるのが一番遅かった。
 伊藤は来原良蔵の従者として長崎海軍伝習所で学ぶ来原に従い、安政5年(1858年)から翌安政6年2月の伝習所閉鎖まで長崎にて勉学に励んだ。
 帰藩後桂の従者として様々な活動に従事した。
 井上の留学には賛成した久坂が伊藤の留学には反対したため一旦は留学を諦めた。
 伊藤は藩命の銃の購入のため4月16日京都を発ち、横浜へ向かった。
 5月1日に桂からの書簡を山尾から受け取り「10日頃まで将軍慶喜の様子を探れ」と新たな命令を受け、これに従うと返事するも、銃の購入代金を渡航費用に充てようと考えた井上が5月6日に伊藤に接触、強引に留学仲間に引き入れた。
 なお、実際はその購入代金は渡航には使われなかった。

 5月11日(出発前日)5人は連名で藩政府に留学への決意を綴った書簡を送ったが、渡航前に英会話ができるのは野村で、他の4人は辞書を引きながらなんとか応対できる程度であった。
 文久3年4月18日(1863年6月4日)、井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の許可が下りた。
 5月7日(6月22日)、駐日イギリス総領事
   エイベル・ガウワー
を訪ね洋行の志を述べ、周旋を依頼した。
 ガウワーからは船賃が700ドル(約400両)、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされた。
 江戸到着後さらに2人(伊藤・遠藤)増え、5人分つまり5000両が必要になった。

 洋行にあたって藩主の手許金から1人200両(井上・伊藤・山尾の3人で600両)を支給されたが当然足りていない。
 そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた1万両の準備金があった。
 佐藤は「藩邸の代表者が保証するなら5000両を貸す」ということになり、藩邸の留守居役
   村田蔵六
に、死を決してもその志を遂げたいと半ば脅迫的に承諾させ、5000両を確保することができた。
 
 5月12日(6月27日)、ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)で横浜を出港し、上海に向かった。
 このとき、井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶことを恐れ、志道家を離別している。
 5月18日頃、上海に到着し、ジャーディン・マセソン商会上海支店の支店長に面会したが話が通じず、結局支社長は「お前達は何のために洋行するのか?」と聞いているらしいことは分かった程度だった。
 そこで「海軍を研究する」と言おうとして「ネイヴィー」とすべきところを間違って「ネビゲーション」の一言を発した者がいた。
 この言葉を支社長は「ナビゲーション=航海術」と理解した。

 当時の上海は東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していた。
 上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦およびその他の蒸気船を目の当たりにして、「攘夷」という無謀なことをすれば日本はすぐに滅ぼされてしまうだろうとの判断から「開国」へと考えを変えた。
 上海からは、井上と伊藤は525トンのペガサス号で出港し、他の3名は10日ほど後に5、915トンのティークリッパー ホワイトアッダー号で出港した。
 ロンドンまでの旅程は、“航海術を学ぶ”ということと理解されていたので、水夫と同格の扱いで非常に困苦し、日本人を「ジャニー」と呼び軽蔑されていたと感じ。
 また、便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、嵐の時には身体を縄で縛って危険から保護した。
 さらに伊藤は下痢で苦しんだという。
 一方、ホワイトアッダー号に乗船した3人は乗客として扱われた船旅だった。

 伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助、井上聞多(馨) がイギリスに留学したときには、アレキサンダー・ウィリアムソンの家に寄留した。
 長州五傑の留学生はウィリアムソンが属するユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部へ聴講生の資格で入学した。
 元治元年3月(1864年4月)、密航者5名は日本発の「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意した。

 6月10日(7月13日)頃、2人は横浜に到着した。
 伊藤と共に
   ガウワー
に会い急遽帰国した説明を井上がしたところ、ガウワーは4カ国が下関を襲撃する計画があることを告げた。
 両名は故国の安危に関する大事件と受け取り、イギリス公使館の通訳
   アーネスト・サトウ
を介して公使
   ラザフォード・オールコック
と会見し、自分たちが長州藩に帰って藩論を一変したいと説明し、停戦講和を願った。
 駐日公使は「フランス、アメリカ、オランダの公使と協議して確答するから数日間居留地のホテルに宿泊して待つように、その際長州人と分からないように日本語を使ってはならない」と申し渡された。

 イギリス公使から連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。
 書簡に対する返答は、到着から12日後と決まった。
 2人は6月18日(7月21日)、イギリス艦に乗り、豊後姫島まで送られた。
 6月24日(7月27日)、山口に着き、藩の事情を聞くと、「幾百艘の軍艦が来襲しても死力を尽くして防戦する」という藩の方針が決定しているとのことであった。
 6月25日(7月28日)、井上は伊藤と共に藩庁に出頭し、海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴えた。
 伊藤は、攘夷論者からの襲撃を警戒して春山花輔と変名している。
 6月26日(7月29日)、藩主の下問に応じて、井上は伊藤と共にそれぞれ海外の事情を進言するも、藩の趨勢から方針転換は困難という。
6月27日(7月30日)、井上と伊藤が希望していた御前会議が開かれる。藩の重役達の前で西洋事情を話しても理解されず、6月29日(7月31日)、藩主の立場としては、藩士の攘夷熱は抑えがたい状況に到る旨を、毛利登人から井上に伝えられた。
 7月2日(8月3日)、井上は、藩主よりイギリス軍艦に行き、止戦のための交渉をするように命ぜられた。
 7月5日(8月6日)、井上は伊藤と共に姫島のイギリス艦に行き、攻撃猶予を談判するも成らず。
 7月21日(8月22日)、井上は、
   脱走の罪
で萩の実家に幽閉中の高杉晋作を訪問した。
 8月4日(9月4日)、井上は藩より外国艦との交渉をするように命ぜられ、8月5日(9月5日)に前田孫右衛門とで小船に乗り、艦隊に向かった。
 途中で約束の時間が過ぎたため、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国の艦隊が下関を砲撃し、8月7日(9月7日)には艦隊の兵士2千名が上陸した。
 8月8日(9月8日)、井上は講和使節
   宍戸刑馬(高杉晋作の仮称)
に従い、伊藤と共に講和使節としてイギリス艦に行くが、交渉に失敗する。
(藩では征長の軍に対しても応戦しなければならず、やむを得ず井上や高杉らに外艦の対応を指示したもの。)
 8月9日(9月9日)、井上は外国兵による大砲の分補に立ち会っている。
 イギリス海軍オーガスタス・レオポルド・キューパー提督は長州藩の発砲に対して賠償金を要求した。
 高杉晋作はこの要求に対して、「これは朝廷・幕府の命に従った事で我が藩の私意によったものではない。4カ国公使から幕府に請求するのが筋である」と主張して責任転嫁することが出来た。
 これは高杉の機転によるものであった。
 一方で和議に反対する攘夷論者は多く、山口に滞在する公卿(三条実美、四条隆謌、東久世通禧)らからも毛利定広に対して抗議が行われ、藩政府員は困って「あれは高杉、井上、伊藤らが藩主を篭絡してやったことで」などと逃げ口上もあり、井上は帰国以来命を狙われるのは当然という時期であった。
 
 UCL在籍2年で山尾と遠藤は成績優秀者として優等賞を授与された(分析化学で山尾4位、遠藤5位。理論化学で山尾10位)。
 野村はUCL在籍4年で地質学3位で同賞を授与された(その時点では山尾はグラスゴー、遠藤は帰国)。
 遠藤、野村、山尾は、薩摩藩からの密航留学生(薩摩藩遣英使節団)たちの存在を知り、交遊もしている。
 山尾がグラスゴーに移る際に、彼らから1ポンドずつの有志を受けた。
 遠藤は慶応2年(1866年)、野村と山尾は明治元年11月19日(1869年1月1日)に帰国した。

 なお、長州藩では先に帰国した伊藤と井上に代わり、1865年に藩海軍所属の山崎小三郎、高杉晋作の従弟である南貞助、竹田傭次郎の3名をイギリスに送った。
  
        
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