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2024年12月28日

Salt Typhoon(別名GhostEmperor、 FamousSparrow、UNC2286)中国の犯罪ハッカー集団

Salt Typhoon(別名GhostEmperor、 FamousSparrow、UNC2286)
 中国共産党政府が北米や東南アジアを標的とした
   サイバースパイ活動
を行うために運営しているとされる情報テロなどを行う犯罪組織。
 高度で持続的な脅威アクターとして、2020年から活動している。
 このグループは、ネットワークトラフィックのキャプチャを中心に、広範囲にわたる
   データ窃盗
を繰り返し行っている。
 元NSAアナリストの
   テリー・ダンラップ
によれば、このグループを「中国の100年戦略のもう一つの構成要素」と警告している。
 また、元CISA長官の
   クリス・クレブス氏
や他の米国当局者によると、このグループは中国国家安全省と提携している組織と述べている。
 なお、ゴーストエンペラーはカスペルスキー研究所によって付けられた名前である。[ 6 ]
FamousSparrowはESET、Salt Typhoonはマイクロソフト、UNC2286は、現在Google Cloudの一部であるMandiantによって付けられた名前である。
 
 Salt Typhoonは、 WindowsカーネルモードルートキットであるDemodex( Kaspersky Lab ]が命名)を使用して、標的のサーバーを
   リモート制御
すると報告されている。
  Salt Typhoonは非常に高度な技術を備えており、
   検出を回避
するために反フォレンジックおよび反分析技術を使用している。
 スロバキアのサイバーセキュリティ企業
   ESET
によると、ソルトタイフーンは米国のインターネットサービスプロバイダーに加え、これまでにも
   世界中のホテルや政府機関
に侵入したことがあると明らかにしている。
 
 2024年9月、ウォール・ストリート・ジャーナルは、 「ここ数カ月」にソルト・タイフーンが米国のブロードバンドネットワーク、特にインターネットの大部分をルーティングする
   シスコ製のルーター
を含むコアネットワークコンポーネントをハッキングしたと報じた。

 ワシントンポストは「ハッカーはシスコのルーターを再構成することでベライゾンのネットワークからデータを盗み出したようだ」と報じた。
 2024年10月、ソルトタイフーンが、法執行機関が裁判所の許可を得た盗聴を容易にするために使用する米国のインターネットサービスプロバイダーのネットワークを悪用していたことが発覚した。
 影響を受けたネットワークには
   AT&T
   ベライゾン
   ルーメンテクノロジーズ
   T-モバイル
のネットワークが含まれていた。
  ワシントンDCの中国大使館は、この疑惑を否定した。
 なお、ワシントンポストは
 中国の対外諜報機関である国家安全部は、長い間米国を標的にしてきたが、この侵入に関与している兆候がある。
 内部関係者は、この侵入はMSSの「ソルト・タイフーン」と呼ばれる部門によって行われたと述べている。
 このグループはマイクロソフトによって中国のハッキング活動を監視するグループに付けられたニックネームである。
と報道した。

 2024年10月、ワシントンポスト紙は、米国連邦政府がハッキングに対処するために複数機関のチームを結成したと報じた。
 同月、ニューヨークタイムズ紙は、ソルトタイフーンがカマラハリス2024年大統領選挙キャンペーンのスタッフやドナルドトランプ、JDヴァンスの携帯電話にアクセスしようとし、アクセスした可能性があると報じた。

 ソルトタイフーンは米国の少なくとも9つの通信会社に影響を与え、他の数十か国にも影響を与えた。

   
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2024年11月29日

ウルフズヘッド協会(List of Wolf's Head members)イェール大学の上級秘密結社

ウルフズヘッド協会(List of Wolf's Head members)
 コネチカット州ニューヘイブンにあるイェール大学の上級秘密結社である。
 この結社は、
とともに、イェール大学の「ビッグ3」結社の1つである。
 現役の学部生会員は、通常、4年生になる16人のイェール大学の学生によって毎年選出される。
 名誉会員も選出される。

 現在の代表団は同窓会の責任を負いながら1年間を共に過ごしている。
 過去の代表団メンバーの中には、スポーツ、ビジネス、美術・文学、高等教育、ジャーナリズム、政治の分野で著名になった人もいる。

 1884年イェール大学の4年生15人が、公的に上位の団体への推薦候補と目されていた1883年イェール大学の卒業生の協力を得て、第三団体の設立に尽力した。
 この団体は5年後に
   ウルフズヘッド
に改名された。
 この取り組みには300人以上のイェール大学の卒業生と数人のイェール大学法科大学院の教員が協力した。
 学部や大学の運営におけるスカル・アンド・ボーンズ協会の支配に対抗する目的で行われた。
 この設立により、イェール大学当局や学生団体がイェール大学の秘密結社やシニア団体を廃止しようとする最後の試みは阻止された。
 十分な数の上級生が見落とされていると感じた場合に結社を創設し維持するという伝統が続いた。
 ボーンズ結社は、ファイ・ベータ・カッパ賞の選考をめぐる論争の後に1832年に設立された。

 イェール大学で2番目の結社である
は、ボーンズ結社の選挙をめぐる論争の後に1841年に設立された。
 第三協会の設立の動機の一部は、一部の若者たちが自分たちは内部者としての地位に値するという感情にあった。
 「選ばれた者の範疇から自分たちが除外されたことは、ひどい不当な扱いであると固く信じていた、限られた数の人たちがいた」と、一部の創設者は同意した。
 
 1780年にイェール大学で
   ファイ・ベータ・カッパ
のコネチカット・アルファ支部が設立される以前(この支部は1776年の同協会設立後に設立された2番目の支部であり、現在でも会員間で秘密の握手が行われている)、イェール大学の学生は
   文学協会
を設立したり参加したりしていた。
 1830年代までには、キャンパスの文学協会である
   リノニア
   ブラザーズ・イン・ユニティ
   カリオピアン
は地位を失っていた。
 カリオピアンは1853年に解散し、他の協会も南北戦争後に解散した。
 カリオピアンは1819年から1853年、リノニアは1768年から1878年、ブラザーズ・イン・ユニティは1735年から1868年まで存在した。
1840年代半ばから1883年まで、いくつかの協会が設立された。
 いずれもイェール大学(広く学術部門として知られています)の教養学部の学生の興味を維持することができなかった。
 また、スター・アンド・ダート、ソード・アンド・クラウン、ティー・ケトル、スペード・アンド・グレイブ、ETLは解散した。

 ファイ・ベータ・カッパは1871年から1884年までイェール大学で活動していなかった。
 これは部分的に同協会の全国的な再編と重なっていたことが影響していた。
 1820年代、米国中に反フリーメーソン運動が広がったことから、PBKは活動における秘密保持の役割を検討することになった。
 1881年のPBKの全国的な再編に伴い、秘密保持はすべての支部で特徴として消え
   大学の友愛会、クラブ、協会との競争
が鎮静化した。
 そのため、すぐにイェール大学支部でも秘密保持は棚上げになった。
 ただ、PBKは現在、秘密保持を一切行わず、学術的 名誉協会として存在している。

 1850年代から、イェール大学の学部生の構成は多様化した。
 大学は地域的というよりは全国的な重要性を持つ機関になりつつあった。
 ニューイングランド以外の地域から来た学生や
   会衆派教会
   長老派教会
などの信者ではない学生が大量に大学に入学した。
 ただ、教授陣と管理職はボーンズの卒業生が占め、1865年から1916年までの教授陣5人中4人がボーンズの卒業生であった。
 ボーンズの卒業生は1869年から1921年まで大学の事務官を務めた。

 ボーンズの卒業生は1862年から1910年までの48年間のうち43年間大学の会計係を務めた。
 イェール大学理事会が最初に選出した6人の卒業生フェローのうち5人はボーンズの会員だった。
 そのため、不満は増大した。

 1873年、1873年10月13日に一度だけ発行された
   学生新聞「アイコノクラスト」
は、社会制度の廃止を主張した。
 その意見は「スカル・アンド・ボーンズはあらゆる階級から部下を引き抜き、イェール大学を支配した。イェール大学の業務は彼らによって遂行される。
 大学に支払われる金は彼らの手に渡り、彼らの意志に従わなければならない。
 イェール大学対スカル・アンド・ボーンズだ!!我々はすべての人間に、権利の問題として、どちらが生き残ることを許されるべきかを問うている」というものだった。

 イェール・デイリー・ニュースは1878年1月28日に初めて発行された。
 最初の大学日刊紙の誕生の回想録には、社会を「荒らす」ための初年度の戦略が記録されている。
 1884 年卒業生は全員一致で、卒業と同時に不信任決議を発令した。
 社会制度に対する新たな反乱を支持することに同意した。
 既存の社会制度は救いようがなく、廃止される可能性が高いという認識が広まっていた。

 1884年5月号のニューイングランダー誌には、スクロール・アンド・キーのメンバーによって執筆・出版された、この社会制度に対する熱心な擁護記事が掲載された。
 いくつかの定期刊行物でこの状況が定期的に報道された。

 エドウィン・アルバート・メリットが率いる最初の代表団は、1884年卒のクラスデー役員10名を含み、4年生の間に1883年卒の会員の助けを借りて秘密裏に会合を開き、「古い協会の悪しき特徴が排除」されるなら、協会を設立することに熱心だった。 
 なお、卒業する生徒と4年生はこの点で全員一致だった。
 1883年卒の支持者の中には、最も可能性の高いタップに関する特集記事を掲載する学部生向け出版物であるホロスコープの出版社からボーンズやキーズに確実に選ばれると宣伝されていた会員も含まれていた。
 協会支持派の4年生は、クラスデー投票で67対50で勝利した。
新しい団体は1883年6月5日頃に発足した。学部生の間では、この新興団体は嫉妬に関するイソップ寓話にちなんで「キツネとブドウ」と呼ばれていた。

 2つの古い協会はウルフズ・ヘッドと比べると劣っていた。
 ニューヘブン・レジスター紙は1886年に「ウルフズ・ヘッドは、その公的な活動に関しては
   ボーンズ・アンド・キーズ
ほど世間からかけ離れた存在ではない。しかし、その仕組みには秘密結社に分類されるだけの秘密のベールがかけられており、それがイェール大学内での安定性と尊敬を、そうでなければ得られなかったかもしれないものにしている...」と報じた。
 この協会はシェフィールド科学学校と提携したファイナルズ・クラブと同様に運営されていた。
 ただ、すぐに古い協会のほぼすべての側面を取り入れるようになった。
 
 第三協会は、ジュニア協会(2年生協会は1875年に廃止され、1年生協会は1880年に廃止された)、キャンパス組織、運動チーム、クラブ、友愛会によって築かれた社会ピラミッドの頂点に位置していた。 
 1888年、この協会は名称をウルフズヘッド協会に変更した。
 これは、協会のピンである逆さまのアンク(エジプトの象形文字で「生命の鍵」として知られるエジプト十字)の上に様式化された狼の頭が描かれたものが学部生の間で好評だっ たことと一致する。最初期の学部生メンバーは、同級生にピンを触らせたが、これは古い協会が掲げていたピンに対する明確な反論であった。死や博学ではなく永遠の命が象徴されている。ピンのデザイン要素としてローマの束縛が考えられていた。 
 
 多くの先駆者やその後のメンバーは、スカル・アンド・ボーンズに関連する一見
   フリーメーソン風
の儀式や雰囲気を「ナンセンス」(オランダ語で「軟便」の意味)と揶揄した。
 この感情はイェール大学のコミュニティ、特に学部生の間で広まっていた。ペンザンスの海賊のいたずらで、ウルフズ・ヘッドのメンバーは、地元の劇場でドクロと骨のマークの下に322という数字(スカル・アンド・ボーンズの紋章の一部)を表示するように、この俳優の海賊王を説得した。
 別の例として、イェール大学の学長A・ホイットニー・グリズウォルドは、この儀式を「骨ばったでたらめ」で「ディンク・ストーバーのたわごと」が学部生の生活を彩っているとして非難した。

 ウルフズ・ヘッドは、他の教会では一般的だった木曜と日曜の集会など、多くの伝統的な慣習を維持していた。
 エール大学の長年の上級研究員および後任理事(1964年 - 1990年)であり、米国聖公会の長年の司教であるポール・ムーア・ジュニアは、第二次世界大戦で初めて戦闘に遭遇する前夜のことを「私は船上で、ウルフズ・ヘッドで何が起こったのかをハーバード大学の友人から尋問されて夜を過ごした。彼は、私が死の危険にさらされる前夜に、そのような無関係な秘密を隠しているとは信じられなかった。」 と回想している。

 オールドホールはマッキム、ミード、ホワイトによって設計され、1884年に完成した。
 最初の墓、つまりオールドホールは、創立から数か月以内に建てられた。
 古い学部の協会は、もともと数十年にわたってキャンパス近くの借りた宿舎で会合を開いていた。
 スカル・アンド・ボーンズは、創立から20年以上経った1856年に墓を公開、
   スクロール・アンド・キー
も同様に、協会創立から20年以上経った1869年に墓を公開した。
 旧居はプロスペクト・ストリート77番地、グローブ・ストリート墓地の向かい側に位置し、フェルプス・トラスト協会のために発注され、建築会社マッキム・ミード・アンド・ホワイトが設計した
   リチャードソン・ロマネスク様式の建物
で1884年に完成した。
 1924年に大学が購入し、
   カイ・サイ・フラタニティ(1924年〜1929年)
   ブック・アンド・ボンド(解散した団体)(1934年〜1935年)
   ヴァーノン・ホール(現在はミス・アンド・ソード)(1944年〜1954年)
に貸し出された。
 現在はイェール大学社会政策研究所が入居している。

 狭い窓のある建物であるこの住居は、1903年にニューヨークタイムズ紙によって「最もモダンで最も美しい」同目的の建物として取り上げられました。この建物は、創立メンバーが資金を確保した直後の1884年に建てらた。

 協会は社交的な「予備校タイプ」の学生を集めることで有名である。
 過去の会員は、イェール大学の男女共学化、イェール大学の寄宿制とハーバード大学の寮制の設立、エリザベス朝クラブの設立、イェール政治連合の設立に深く関わっていた。
 これはイェール大学最後の男子だけのサークルだったが1992年春から女性が参加している。
 セントジェームズ宮殿特使の
   エドワード・ジョン・フェルプス
は、1885年にウルフズヘッド同窓会の名称を冠するという申し出を受け入れた。
 フェルプス協会は、2016年1月現在、約700万ドルの信託財産を保有しており、これはイェール大学の協会やクラブの中で2番目に大きい金額という。
 イェール大学のサークルとハーバード大学の期末クラブの入会基準は大きく異なっている。
 イェール大学のサークルでは、歴史的に学部生としての生活への貢献が入会基準の一つとなってきた。
 期末クラブでは入会希望者のその資質を軽視している。

◯著名なメンバー
 ・アーサー・ウィリアムズ・ライト(1859年)
   イェール大学の物理学者
 ・クラレンス・ウィンスロップ・ボーエン(1883年)
   歴史エッセイの著者
 ・チャールズ・W・ハークネス(1883年)
   スタンダード・オイル、サザン・パシフィック鉄道
   シカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道
   ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の取締役
 ・パーカー・コーニング(1895年)
   アメリカ合衆国下院議員
 ・エドワード・ハークネス(1896年)
   慈善家、イェール大学の主要な寄付者
 ・チャールズ・アイヴズ(1898年)
   モダニズム作曲家
 ・アンソン・グッドイヤー(1899年)
   製造業者、実業家、近代美術館初代館長
 ・アレクサンダー・スミス・コクラン(1896)
   製造業者、慈善家
 ・ポール・ムーア・シニア(1908年)
   リパブリック・アビエーションの創設者
 ・クリストファー・ライドン、メディアパーソナリティ、コメンテーター
 ・ダグラス・ムーア(1915年)
   作曲家
 ・アシュベル・グリーン・ガリバー(1919年)
   イェール大学法学部長
 ・ロバート・メイナード・ハッチンス(1921年)
   シカゴ大学学長
 ・フィリップ・W・ピルズベリー(1924年)
   ピルズベリー社の会長
 ・スティーブン・ヴィンセント・ベネット(1919年)
   ピューリッツァー賞受賞詩人、短編小説家、小説家
 ・ダック・イ・ポンド(1925年)
   大学フットボールコーチ 
 ・ジョン・チャールズワース(1929年)
   アメリカンフットボール選手 
 ・スラストン・バラード・モートン(1929年)
   アメリカ合衆国上院議員
 ・A.ホイットニー・グリズウォルド(1929年)
   イェール大学第16代学長
 ・エラスタス・コーニング2世(1932年)
   ニューヨーク州アルバニー市長、ニューヨーク州上院議員
   ニューヨーク州議会議員
 ・ダグラス・マッカーサー2世(1932年)
   駐日米国大使、駐日ベルギー、駐オーストリア
   駐イラン大使、国務次官(立法担当)
 ・ロジャー・ミリケン(1937年)
   ミリケン・アンド・カンパニー社長兼CEO 
 ・ウィリアム・L・ハークネス
   実業家、慈善家
 ・ルイス・レーマン、元ライト・エイド社長
   投資銀行家、レーマン研究所創設者
 ・ウィリアム・クレイ・フォード(1949年)
   ナショナルフットボールリーグのデトロイト・ライオンズのオーナー
 ・ロバート・B・フィスク(1952年)
   デイビス・ポーク・アンド・ウォードウェルの弁護士
   ニューヨーク南部地区連邦検事
 ・ウェイン・マクヴェイ
   第36代アメリカ合衆国司法長官
   オスマン帝国駐在アメリカ合衆国大使、イタリア駐在アメリカ合衆国大使 
 ・エドワード・ジョン・フェルプス
   セントジェームズ宮殿特使、弁護士、アメリカ法曹協会の創設者
 ・ウィリアム・リグレー3世(1954年)
   ウィリアム・リグレー・ジュニア・カンパニー社長
 ・リチャード・ギルダー(1954年)
   ギルダー・レーマンアメリカ歴史研究所の共同創設者
 ・トーマス・チャールトン(1956年)
   競技ボート選手、オリンピックメダリスト
 ・ドナルド・ビア(1957年)
   競技ボート選手、オリンピックメダリスト
 ・サム・チョウンシー(1957年)
   イェール大学管理者
 ・ラスティ・ウェイルズ(1958年)
   競技ボート選手、オリンピックメダリスト
 ・ジョナサン・フット(1958年)
   アメリカの保存運動と関わりのある建築家
 ・ジョージ・アレクシス・ウェイマス(1958年)
   画家、自然保護活動家
 ・ウィリアム・ウールジー・ジョンソン
   数学者、アメリカ海軍兵学校の教授 
 ・レイモンド・G・H・ザイツ(1963年)
   駐英国米国大使
 ・ウィリアム・マシューズ(1965年)
   詩人、ルース・リリー詩賞受賞者
 ・ジャック・モリソン(1967年)
   アイスホッケーオリンピック選手
 ・ラシッド・ハリディ(1970年)
   コロンビア大学現代アラブ研究名誉教授
 ・カート・シュモーク(1971年)
   ボルチモア大学学長、ボルチモア市長
 ・ポール・ゴールドバーガー(1972)
   建築評論家
 ・エドウィン・S・グロスベナー(1973年)
   アメリカン・ヘリテージの社長兼編集長
 ・ディック・ジャウロン(1973年)
   プロフットボール選手、ナショナルフットボールリーグのコーチ
 ・マーク・デイトン(1978年)
   ミネソタ州知事、米国上院議員、ミネソタ州監査役
 ・エドマンド・クラレンス・ステッドマン
   詩人、批評家、エッセイスト
 ・フェリックス・マトス・ロドリゲス(1984年)
   ニューヨーク市立大学学長
 ・クラーク・ブランチャード・ミリカン(1924年)
   カリフォルニア工科大学の航空学教授
 ・ベンノ・C・シュミット・ジュニア
   イェール大学第20代学長
 ・ダグラス・ウィック(1976年)
   アカデミー賞受賞映画プロデューサー
 ・トム・ステイヤー(1979年)
   元共同シニアマネージングパートナー
 ・ウィリアム・アール・ドッジ・ストークス
   フェルプス・ドッジ・アンド・カンパニーの実業家
 ・ポール・バトラー(1982年)
   ジョージタウン大学ローセンター法学教授 
 ・スコット・ベセント(1984年)
   投資家、ヘッジファンドマネージャー
 ・エドウィン・アルバート・メリット(1884年)
   アメリカ合衆国下院議
 ・ダグ・ライト(1985年)
   ピューリッツァー賞受賞劇作家、脚本家
 ・ロブ・ボンタ(1994年)
   カリフォルニア州司法長官
 ・リー・バードゥゴ(1997年)
   イスラエル系アメリカ人ファンタジー作家
 ・チャールズ・L・バートレット
   ピューリッツァー賞受賞ジャーナリスト
 ・マルコム・ボルドリッジ・ジュニア
   元アメリカ合衆国商務長官
 ・デイビッド・J・ブリューワー
   アメリカ合衆国最高裁判所判事
 ・ジョン・プロクター・クラーク
   ニューヨーク州最高裁判所判事
 ・サム・ワグスタッフ
   美術キュレーター、コレクター
 ・チポ・チャン(2000年)
   ジンバブエの女優
 ・クラリッサ・ワード(2002年)
   エミー賞受賞テレビニュース記者
 ・リラ・ノイガバウアー(2007年)
   演劇・映画監督
 ・デビッド・ジョサイア・ブリューワー
   アメリカ合衆国最高裁判所判事
 ・ウェイン・マクヴェイ
   第36代アメリカ合衆国司法長官
   オスマン帝国駐在アメリカ合衆国大使
   イタリア駐在アメリカ合衆国大使 
 ・ロジャース・モートン
   アメリカ合衆国内務長官、アメリカ合衆国商務長官、アメリカ合衆国下院議員
 ・エドワード・ジョン・フェルプス
   セントジェームズ宮殿特使、アメリカ法曹協会の創設者
 ・ジェフリー・ロビンソン
   国会議員兼主計総監 

   
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2024年09月21日

ヘイマーケット事件(Haymarket affair) アナキストがシカゴで爆破事件を起こしたとして起訴されもの。

ヘイマーケット事件
     (Haymarket affair)
 ヘイマーケット虐殺、ヘイマーケット暴動、ヘイマーケット広場暴動、ヘイマーケット事件とも呼ばれ、1886年5月4日に米国イリノイ州シカゴのヘイマーケット広場で行われた
   労働者デモ
で発生した爆破事件のこと。。
 この集会は、1人が死亡し多数の労働者が負傷した
   マコーミック・ハーベスティング・マシン・カンパニー
での事件の翌日、労働者が8時間労働を求めるストライキを支援するために平和的に始まった。

 集会を解散させようとした警察に身元不明の人物が
   ダイナマイト
を投げつけ、爆発とそれに続く警察の報復発砲により警察官7人と少なくとも4人の民間人が死亡し、その他数十人が負傷した。
  
 8人のアナキストが爆破事件で起訴された。
 国際的に報道された被告に対する法的手続きで、8人は共謀罪で有罪判決を受けた。
 ヘイマーケット事件は、5月1日の国際労働者の日の起源として一般的に重要と考えられている。
 また、大動乱として知られるアメリカの労働者階級の社会不安の頂点でもあった。

 裁判で提出された証拠は、被告のうちの1人が爆弾を製造した可能性があるが、裁判にかけられた誰も爆弾を投げておらず、当時ヘイマーケットにいたのは8人のうち2人だけだったというものであった。
 証拠も乏しいものの、7人が死刑、1人が懲役15年の刑を宣告された。
 イリノイ州知事リチャード・J・オグルスビーは、2人の判決を終身刑に減刑し、もう1人は予定されていた処刑前に獄中で自殺した。
 他の4人は1887年11月11日に絞首刑に処された。
 1893年、イリノイ州知事ジョン・ピーター・アルトゲルドは残りの被告を恩赦し、裁判を批判した。

 事件現場は1992年にシカゴのランドマークに指定され、2004年にはそこに彫刻が建てられた。
 さらに、フォレストパークの被告人の埋葬地にあるヘイマーケット殉教者記念碑は1997年に国定歴史建造物に指定された。
 
 南北戦争後、特に長期不況の後、米国では工業生産が急速に拡大した。
 シカゴは主要な工業中心地であり、数万人のドイツ人とボヘミア人の移民が1日約1.5ドルで雇用されていた。
 アメリカ人労働者は週6日勤務で、平均60時間強働いていた。

 シカゴは、労働条件の改善を求める労働者の要求を組織化する多くの試みの中心地となった。
 雇用主は、組合員の解雇やブラックリストへの掲載、労働者の締め出し、スト破りの採用、労働者を分裂させるためにスパイ、凶悪犯、民間警備隊の雇用、民族間の緊張の悪化などの反組合措置で対応した。
 ビジネスの利益は主流の新聞によって支持され、労働者と移民の報道機関によって反対された。

 1882年から1886年にかけての経済不況の間、社会主義と無政府主義の組織が活発に活動していた。
 社会主義と急進主義を拒否しながらも8時間労働を支持した労働騎士団の会員数は、1884年の7万人から1886年には70万人以上に増加した。
 シカゴでは、数千人の労働者(主に移民)による無政府主義運動が、アウグスト・シュピースが編集するドイツ語の新聞「アルバイター・ツァイトゥング」(「労働者新聞」)を中心に展開した。

 他の無政府主義者は、爆発物を備えた武装部隊を持つ戦闘的革命勢力を運営していた。
 その革命戦略は、警察に対する作戦の成功と主要産業センターの占拠が労働者の大規模な支持につながり、革命が始まり、資本主義が崩壊し、社会主義経済が確立されるという信念を中心に展開された
 
 1884年10月、労働組合連合会が開催した大会では、1886年5月1日を8時間労働制の標準日とすることを全会一致で決定した。
 選ばれた日付が近づくにつれ、米国の労働組合は8時間労働制を支持するゼネストの準備を進めた。

 5月1日土曜日、何千人もの労働者がストライキに参加し、全米各地で行われた集会に参加し、国歌「 8時間」を歌った。
 この歌のコーラスは、大動乱のイデオロギー「8時間労働。8時間休息。8時間好きなことをする」を反映している。

 全米のストライキ労働者の数は30万人から50万人と推定されている。
 ニューヨーク市では、デモ参加者の数は1万人、デトロイトでは1万1千人と推定されている。

 ミルウォーキーでは、約1万人の労働者が参加した。
 運動の中心地であるシカゴでは、推定3万人から4万人の労働者がストライキを起こした。
 また、街頭デモや行進に参加した人々の数は、シカゴの木材置き場で働く1万人の男性による行進の2倍程度だったと思われる。
 これらのイベントの参加者は合計8万人に上ったが、国際労働者協会[IWPA]の創設者でアナキストの
   アルバート・パーソンズ
その妻で仲間の組織者ルーシー、そして彼らの子供たちが率いるミシガン通りでの行進が、実際にその数であったかどうかは議論の余地がある。

 オーガスト・スパイズは5月3日、シカゴのウエストサイドにある
   マコーミック社
の刈り取り機工場の外で行われた集会で、ストライキ中の労働者に「団結して組合を支持せよ、さもなければ成功しない」と助言した。
 よく計画され、調整されたこの時点までのゼネストは、ほとんど非暴力的だった。
 しかし、終業のベルが鳴ると、労働者の一団がスト破りに立ち向かうために門に押し寄せた。

 スパイズは平静を求めたが、警察は群衆に発砲した。
 マコーミック社の労働者2人が死亡し、新聞報道によると死者は6人だった。
 スパイズは後に「私は非常に憤慨した。過去の経験から、この虐殺は8時間労働運動を阻止する明確な目的のために行われたと知っていた」と証言した。

 この警察の暴力行為に憤慨した地元のアナキストたちは、翌日ヘイマーケット・スクエア(別名ヘイマーケット)で集会を開くよう呼びかけるチラシを急いで印刷し配布した。
 当時、ヘイマーケットはランドルフ・ストリートとデスプレインズ・ストリートの角近くの賑やかな商業中心地だった。
 ドイツ語と英語で印刷されたチラシには、警察が企業の利益のためにストライキ参加者を殺害したと書かれており、労働者は正義を求めるよう促されていた。
 最初のチラシには「労働者よ武装し、全力で出頭せよ!」という文句が書かれていた。
 スパイズはその文句を見たとき、チラシからその言葉が削除されない限り集会では演説しないと述べた。
 チラシは数百枚を除いてすべて破棄され、問題の言葉を除いた新しいチラシが印刷され、 2万部以上が配布された。

 ヘイマーケット広場での集会は5月4日の夕方、小雨が降る中、平和的に始まった。オーガスト・スパイズ、アルバート・パーソンズ、サミュエル・フィールデン牧師は、デスプレーンズ通りの広場に隣接するオープンワゴンの中に立ち、600人から3,000人と推定される群衆に向かって演説した。
 近くからは勤務中の警察官が多数見守っていた。
 スピースの演説に続いて、アラバマ生まれで急進的な英語週刊紙「アラーム」の編集者であるパー​​ソンズが群衆に演説した。
 群衆は静かだったので、見物に立ち寄った
   カーター・ハリソン・シニア市長
は早めに帰宅した。
 パーソンズはほぼ1時間演説した後、その夜の最後の演説者、イギリス生まれの社会主義者、無政府主義者、労働運動家メソジスト教会の牧師、サミュエル・フィールデン牧師に代えて10分間の短い演説を行った。
 天候が悪化したため、群衆の多くはすでに帰っていた。

 午後10時半頃、フィールデンが演説を終えたちょうどその時、警察が一斉に到着し、演説者のワゴンに向かって隊列を組んで行進した。
 そして集会を解散するよう命じた。
 フィールデンは集会が平和的なものだったと主張した。
 警察のジョン・ボンフィールド警部は次のように宣言した。
 手製の破片爆弾[40] [41]が前進する警察の進路に投げ込まれ、爆発した。
 警察官マティアス・J・デガンが死亡し、他の多くの警察官が重傷を負った。

 目撃者たちは、爆発直後に警察とデモ参加者の間で銃撃戦があったと主張している。
 誰が最初に発砲したかは不明である。

 歴史家のポール・アヴリッチは、「ほとんどすべての情報源が、発砲したのは警察であり、弾を装填し直してから再び発砲し、少なくとも4人を殺害し、70人もの負傷者を出したことに同意している」と主張している。
 5分も経たないうちに、広場には犠牲者を除いて誰もいなかった。
 5月4日のニューヨークタイムズによると、デモ参加者は警察に発砲し始め、警察も発砲し返した。

 この事件に関する報告書で、ボンフィールド警部は「暗闇の中で何人かの隊員が互いに発砲するのではないかと恐れ、発砲をやめるよう命令した」と書いている。
 匿名の警察当局者はシカゴ・トリビューン紙に「非常に多くの警察官が互いの拳銃で負傷した。…各自が自分の身を守ろうとしており、何人かは2、3マス離れたところから逃げたが、残りの者は主に互いに向けて拳銃を撃ち尽くした」と語った。

 合計で警官7人と作業員4人が死亡した。
 アヴリッチは、警官の死者のほとんどは警察の銃撃によるものだと述べた。
 歴史家のティモシー・メッサー=クルーズは、友軍による致命的な銃撃の可能性を排除することはできないが、数人の警官はおそらく武装した抗議者によって撃たれたと主張している。
 事件から2年後、別の警官が、その日に受けた負傷に関連する合併症で死亡した。

 警察署長のマイケル・シャークは後に、負傷した作業員の数は「警察側の数をはるかに上回った」と書いている。
 シカゴ・ヘラルド紙は「野蛮な虐殺」の光景を描写し、少なくとも50人の死傷した民間人が路上に横たわっていると推定した。
 負傷した民間人の数は不明である。逮捕を恐れて医療処置を受けるのを恐れた人が多かったためである。
 彼らは可能な限りの援助を受けた。
 
 ヘイマーケット事件の後、厳しい反組合取り締まりが行われ、大動乱は沈静化した。
 雇用主は労働者に対する管理を取り戻し、伝統的な労働時間は1日10時間以上に回復した。
 警察に対しては、地域社会や企業から大規模な支援が寄せられ、警察の医療費や活動支援のために何千ドルもの寄付が行われた。

 労働者と移民のコミュニティ全体、特にドイツ人とボヘミア人が疑惑の対象となった。
 警察はアナキストと疑われる人々の自宅や事務所を捜索した。ヘイマーケット事件とはわずかしか関係のない数十人の容疑者が逮捕された。
 シカゴ警察は捜索令状などの法的要件を無視して、シカゴの労働運動家らを8週間にわたって捜索し、集会所や職場を捜索した。

 ヘイマーケット集会の演説者と新聞「アルバイター・ツァイトゥング」に重点が置かれた。
 事件当日、少数のアナキスト集団が爆弾の製造に携わっていたと発表されており、ヘイマーケット・スクエアで使用されたものと同様の丸い爆弾も含まれていた。

 新聞報道では、この「暴動」はアナキストの扇動者が責任を負っていると報じられ、不安に駆られた大衆はそれを受け入れた。
 時が経つにつれ、事件に関する報道や描写はより精巧なものとなった。

 報道は国内に、そして国際的に広がった。財産所有者、報道機関、その他の社会構成員の間では、アナキストの扇動を鎮圧する必要があるというコンセンサスが生まれ、一方で労働騎士団や職能組合などの労働組合組織は、アナキスト運動から速やかに離脱し、暴力的戦術は自滅的であるとして拒絶した。
 一方、多くの労働者は、ピンカートン通信社の密かに労働組合に潜入する戦術や、スト破りの暴力的な手法を理由に、業界に雇われた
   ピンカートン通信社
の人間が責任を負っていると信じていた。

 警察は、計画された陰謀の一環としてアナーキストが爆弾を投げたと推測したが、問題はそれをどのように証明するかだった。
 5月5日の朝、警察は
   アルバイター・ツァイトゥング
の事務所を急襲し、編集者のアウグスト・シュピースと彼の兄弟を逮捕したが、兄弟は起訴されなかった。
 また、編集アシスタントのミヒャエル・シュワブと植字工のアドルフ・フィッシャーも逮捕された。建物の捜索の結果、「復讐のポスター」と検察が有罪とみなしたその他の証拠が発見された。

 5月7日、警察は
   ルイ・リング
の建物を捜索し、多数の爆弾と爆弾製造材料を発見した。
 リングの家主ウィリアム・セリガーも逮捕されたが、警察に協力し、リングが爆弾製造者だと特定したため、起訴されなかった。

 スパイズの仲間で爆弾犯と疑われていたバルタザール・ラウはオマハまで追跡され、シカゴに連れ戻された。
 尋問後、ラウは警察に協力することを申し出た。
 彼は、被告らがダイナマイト爆弾の実験を行ったと主張し、ヘイマーケット・スクエアで武装を呼びかける暗号語「ルーヘ」(平和)をアルバイター・ツァイトゥング紙に掲載したと非難した。
 
 警察が爆弾投下の第一容疑者として挙げたルドルフ・シュナウベルトは、早い段階で2度逮捕され、釈放された。
 5月14日、彼が事件で重要な役割を果たしていたことが明らかになると、彼は国外に逃亡した。
 検察側の証人となり証言したウィリアム・ゼリガーは、州によって釈放された。

 1886年6月4日、他の8人の容疑者が大陪審によって起訴され、デガン殺害の共犯者として裁判にかけられた。
 このうち、爆弾が爆発したときにその場にいたのは2人だけだった。
 スパイズとフィールデンは平和的な集会で演説しており、爆弾が爆発する直前に警察の解散命令に従って演説台から降りていた。

 他の2人は集会開始時にはその場にいたが、爆発時にはその場を離れ、アナキストの集会所であるツェップス・ホールにいた。
 その2人は、アルバイター・ツァイトゥングの植字工アドルフ・フィッシャーと、ヘイマーケットの集会で1時間演説した後ツェップスに出向いた著名な活動家アルバート・パーソンズだった。彼ら全員に対する証拠が弱いと考えたパーソンズは、その後、被告に連帯して自首した。
 3人目は、シュピースの副編集長ミヒャエル・シュワブ(シュナウベルトの義理の兄弟)で、爆破事件当時は別の集会で演説していたため逮捕されたが、後に恩赦を受けた。

 ヘイマーケットの集会とは直接関係がないが、過激な活動家として逮捕されたのは、その日自宅でトランプをしていた
   ジョージ・エンゲル
と、仲間のゼリガーから非難された短気な爆弾製造者
   ルイス・リング
である。
 その日出席していなかったもう一人の被告人は
   オスカー・ニーベ
で、アメリカ生まれのドイツ系市民であり
   アルバイター・ツァイトゥング
と関わりがあり、ヘイマーケット暴動の余波で同紙の復活を試みていた人物であった。

 8人の被告のうち、5人(スパイズ、フィッシャー、エンゲル、リング、シュワブ)はドイツ生まれの移民であり、6人目のニーベはアメリカ生まれのドイツ系市民であった。残りの2人(パーソンズとフィールデン)はそれぞれアメリカとイギリス生まれで、イギリス系であった。

 イリノイ州対オーガスト・スピース他裁判は1886年6月21日に始まり、8月11日まで続いた。
 裁判は、被告に対する国民とメディアの極端な偏見という雰囲気の中で行われた。
 裁判長を務めたジョセフ・ゲイリー判事は、被告に対して公然と敵意を示し、一貫して検察側に有利な判決を下し、礼儀を守らなかった。

 被告を別々に裁判にかける動議は却下された。
 弁護側には、ジークムント・ザイスラーとウィリアム・パーキンス・ブラックが含まれていた。
 陪審員の選出は非常に困難で、3週間かかり、1,000人近くが召喚された。
 労働組合員と社会主義に共感を示した者は全員解任された。

 最終的に12人の陪審員が着席したが、そのほとんどが被告に対する偏見を告白した。偏見を表明していたにもかかわらず、ゲイリー判事は、偏見にもかかわらず証拠がそれを裏付けるなら無罪とすると述べた人々を審理に付し、偏見による却下を拒否した。
 最終的に、弁護側の忌避理由は尽きた。

 何百人もの陪審員が却下されることに業を煮やした執行官が任命され、無作為に陪審員を呼ぶのではなく陪審員を選んだ。
 執行官自身も偏見を持っていたことがわかり、社会的地位や被告に対する態度に基づいて有罪にしそうな陪審員を選んだ。

 ジュリアス・グリネル率いる検察側は、被告らは爆弾を投げた人物を積極的に阻止しなかった。
 このため、共謀者として同等の責任があると主張した。
 陪審は、シカゴ市警の54人の職員と被告のフィールデン、シュワブ、スパイズ、パーソンズを含む118人の証言を聞いた。
 これはストライキ参加者の間で広く信じられていた考えを反映していた。
 
 ヘイマーケット裁判の証拠品 129a: 化学者は、この爆弾を含むリングのアパートで見つかった爆弾が、ヘイマーケット爆弾の破片の化学的特徴に似ていると証言した。
 マイケル・シャーク警部率いる警察捜査官は、警官の傷口から採取した鉛の破片を化学分析した。
 その結果、ケースに使われていた鉛が、リングの自宅で見つかった爆弾のケースと一致したと報告された。
 傷口から採取された金属ナットとケースの破片も、リングが製造した爆弾とほぼ一致した。

 シャーク警部は、インタビューに基づいて、アナキストたちは何年もダイナマイトやその他の爆発物の実験を続け、ヘイマーケットで使用された効果的な爆弾を考案する前に爆弾の設計を改良していたと結論付けた。
 最後の瞬間に、提出された指示書に殺人の指示書が含まれていなかったことが判明し、陪審員が再び招集され、指示書が与えられた。
 
 陪審員は被告8人全員に有罪評決を下した。判決が下される前に、ニーベは法廷で、シャークの警官たちは市内で
   最も凶悪なギャング団
に属し、家を荒らし、金銭や時計を盗んでいたと語った。
 シャークは笑ったが、ニーベは「シャーク大尉、笑う必要はありません。あなたも彼らの1人です。あなたが理解しているように、あなたはアナーキストです。この言葉の意味において、あなた方は全員アナーキストだと言わざるを得ません」と言い返した。

 ゲイリー判事は被告のうち7人に絞首刑、ニーベに懲役15年の判決を下した。
 判決は労働運動や労働者運動の支持者から激しい怒りを招き、世界中で抗議活動が起こり、特に海外では被告らが殉教者の地位にまで上り詰めた。
 一方、アナキストを血に飢えた外国人狂信者としてマスコミが描写したことや、1889年にシャーク大尉のセンセーショナルな著書『無政府状態と無政府主義』が出版されたことで、ストライキ参加者に対する国民の恐怖と嫌悪感、そして一般的な反移民感情が広まり、世論は二極化した。

 この事件は1887年にイリノイ州最高裁判所に上訴され、その後、ジョン・ランドルフ・タッカー、ロジャー・アトキンソン・プライアー、ベンジャミン・F・バトラー将軍、ウィリアム・P・ブラックが被告を代表して合衆国最高裁判所に上訴された。
 上告審請求は却下された。
 
 控訴が尽くされた後、イリノイ州知事リチャード・ジェームズ・オグルスビーは、 1887年11月10日にフィールデンとシュワブの刑期を終身刑に減刑した。
 処刑予定日の前夜、リングは独房で密輸した爆薬帽を葉巻のように口にくわえて自殺した
 (爆風で顔の半分が吹き飛び、6時間苦しみながら生き延びた)。

 翌日(1887年11月11日)、4人の被告、エンゲル、フィッシャー、パーソンズ、スパイズは白いローブとフードを着けて絞首台に連行された。
 彼らは当時の国際革命運動の歌であったマルセイエーズを歌った。
 彼らに最後に会おうとしたルーシー・パーソンズを含む家族は逮捕され、爆弾がないか捜索された(爆弾は発見されなかった)。

 目撃者によると、彼らが絞首刑に処される直前、スパイズは「我々の沈黙が、今日あなたがたが絞め殺す声よりも強力になる時が来るだろう」と叫んだという。
 エンゲルとフィッシャーは最後の言葉として「アナキズム万歳!」と叫んだ。
 パーソンズはその後、話すよう求めたが、落とし戸を開ける合図で遮られた。
 目撃者によると、死刑囚たちは落下した際にすぐには死なず、ゆっくりと絞殺され、その光景は傍観者に明らかに動揺を与えたという。

 陰謀罪で有罪判決を受けたにもかかわらず、実際の爆弾犯は裁判にかけられず、「主犯のいない陰謀裁判を、弁護士が説明しても完全に正当であるとは思えない」。
 ジェームズ・ジョールやティモシー・メッサー=クルーズなどの歴史家は、証拠からシュワブの義理の兄弟であるルドルフ・シュナウベルトが犯人である可能性が高いと指摘している。

 米国内外の労働運動支持者やその他の人々の間では、この裁判は不公平であり、重大な冤罪であると広く信じられていた。
 アルトゲルドはまた、ピンカートンの警備員がストライキ中の労働者に対して繰り返し致命的な暴力を振るった責任をシカゴ市が問わなかったことを非難した。
 アルトゲルドの労働に関する行動は、彼の再選を阻むために利用された。
 裁判の直後、アナキストのダイアー・ラムは検察を批判する裁判の歴史を書いた。

 1888年にはジョージ・マクリーン、1889年には警察署長のマイケル・シャックが反対の視点から記録を書いた。
 判決を待つ間、被告人はそれぞれ自伝を書いた 

 検察側は、被告らがいずれも爆破事件に関与していないことを認めながらも、爆弾はリングが製造したと主張し、検察側証人のハリー・ギルマーとマルバーン・トンプソンは、爆弾投下犯がスパイズ、フィッシャー、シュワブの協力を得ていたと示唆しようとした。
 被告らは、爆弾犯については全く知らなかったと主張した。
 ロバート・ライツェルを含む数人の活動家は後に、爆弾犯が誰であるかを知っていると示唆した。
 作家や他の評論家は多くの容疑者について推測している。

 ルドルフ・シュナウベルト(1863年 - 1901年)は活動家で、マイケル・シュワブの義理の兄弟だった。
 爆弾が爆発したとき、彼はヘイマーケットにいた。
 シカゴ警察署長 フレデリック・エバーソルドは、 1886年6月14日に手書きの逮捕状を発行し、殺人と暴動扇動の罪で彼を逮捕した。
 シュナウベルトは他の被告とともに起訴されたが、裁判にかけられる前にシカゴから逃亡し、後に国外にも逃亡した。

 彼は刑事たちの第一容疑者であり、証人ギルマーは、法廷で写真から彼を特定し、シュナウベルトが爆弾を投げるのを見たと証言した。
 シュナウベルトは後にロンドンから2通の手紙を送り、責任を否定し、「もし私が本当にこの爆弾を投げたのなら、確かに恥じることは何もないだろうが、本当のところ、私は一度もそんなことを考えたことはなかった」と書いた。

 彼は最も一般的に容疑者として知られており、フランク・ハリスが1908年に書いた悲劇の小説『爆弾』では爆弾投下者として描かれている。シュナウベルトの視点から書かれたこの物語は、彼が死の床で自白する場面で始まる。
 しかし、ハリスの描写はフィクションであり、シュナウベルトを知る人々はこの本を激しく批判した。
 
 ジョージ・シュワブは1924年に亡くなったドイツの靴職人である。
 ドイツのアナキスト、カール・ノルドは他の活動家とのやり取りを通じてシュワブが爆弾犯であることを知ったと主張した。
 しかし、証拠は出なかった。

 歴史家のポール・アヴリッチも彼を疑っていたが、シュワブがシカゴにいたのは数日前だったと指摘した。
 これは、爆弾犯がシカゴではよく知られた人物だったという他の人の主張と矛盾している。
  
 ダイアー・ラムは、「ヘイマーケット爆弾をピンカートンがやった」とするのは「幼稚」だと述べた。
 不満を持った労働者が犯人だと広く疑われていた。
 アドルフ・フィッシャーは爆弾を投げたのは誰か知っているかと尋ねられると、「興奮した労働者だったと思う」と答えた。
 オスカー・ニーベは「変人」だと言った。

 アルトゲルド知事は、爆弾を投げたのは、被告やアナキスト運動とは関係のない、警察に対して個人的な恨みを持つ不満を持った労働者だったのではないかと推測した。
 恩赦の声明で、アルトゲルド知事は、労働者に対する警察の残虐行為の記録が復讐を招いたと述べ、「ボンフィールド警部こそが、警察官の死の本当の責任者だ」と付け加えた。
 
 クレマナ・シューツはニューヨークのアナーキストで詐欺師の
   フランツ・メイホフ
によって爆弾犯と特定され、宣誓供述書の中でシューツはヘイマーケットに爆弾を投げたことを認めたと主張した。
 メイホフの弁護士オーガスト・ワグナーは死刑執行前日にニューヨークから弁護士
   ウィリアム・ブラック大尉
に電報を送り、爆弾犯の身元を知っていると主張した。
 ブラックはこの電報で死刑執行を遅らせようとしたが、オグルスビー知事は拒否した。
 後に、シューツは保険金詐欺の裁判でメイホフに不利な証人であったことが判明したため、メイホフの宣誓供述書は歴史家から信用できるものとはみなされなかった。[
 
 レイノルド・「ビッグ」・クルーガーは爆破事件後の乱闘か翌日の別の騒動で警察に殺害され、容疑者として名前が挙がっている。
 しかし、それを裏付ける証拠はない。
 インディアナポリスの酒場経営者
   ジョン・フィリップ・デルース
は、爆破事件の前日に自分の酒場で見知らぬ人に遭遇したと主張して、謎の部外者を報告した。
 その男はランドセルを背負い、ニューヨークからシカゴへ向かう途中であった。
 デルースによると、その見知らぬ人はシカゴの労働状況に興味を持っており、何度も彼のランドセルを指差して「すぐに何か問題が起きるだろう」と言ったことを明かした。

 パーソンズはデルースの証言を利用して、爆弾を投げたのは東部の資本家たちだと示唆した。
 デルースの主張についてはそれ以上何も分かっていない。
  
   
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2024年08月31日

ギタ・ベリンの一言

 もし変化を望むなら、その変化が起こる前に、あなたが変化そのものにならなくてはなりません。


 もし何か変化を望むのであれば、他人を動かすのではなく自分から変化しないと周りが変わらないと言うことです。
 他力本願ではなく自力で改革しないといけないと言うことで、無理に他人を変えるということは難しく、変わるのであれば自分を変えたほうが変化は早いと言うことにもなります。
(オーストラリアの経営コンサルタント、著述家)


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2024年08月30日

新島襄の一言

怒りっぽい人は他人を罰するよりも、むしろ自分を罰する方が多いものである。

 やたら他の者に対して、腹を立てることは回りまわって自分に来るということにもなりかねません。
 他人に厳しくとも、自分に甘ければ、後に自分の甘さを非難されてしまうことにもなります。
 ある程度の妥協は必要であり、全てが完璧な者など常にあると考えること自体、実態をわかっていないともいえます。
  

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2024年08月25日

勝海舟の一言

 何でも大胆にかからねばならぬ
 難しかろうが、易しかろうが、そんな事は考えずにいわゆる無我の境に入って断行するに限る。

 とやかく理屈を並べ立てて言うよりは、実行あるのみということ。
 何を言ったとしても、講釈を垂れることでは競争相手よりは行動が一歩遅れてしまうことに繋がってしまうことになる。

   
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2024年08月22日

アール・ナイティンゲールの一言

私たちは、つねづねこうなりたいと望んでいるものになれる。

 私たちは、自分はこういう人間なんだと信じている人格、つねに、こうないたいと憧れている人物像に近づいていくものです。

   
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2024年08月19日

ストームシャドウ(Storm Shadow) 

ストームシャドウ(Storm Shadow)
 フランスとイギリスの 共同開発によるステルス性のある
   長距離空中発射巡航ミサイル
で、1994年からマトラ社とブリティッシュ・エアロスペース社によって開発され、現在はMBDA社によって製造されている。
 「ストームシャドウ」は、この兵器のイギリス名であり、フランスではSCALP-EG (「 Système de Croisière Autonome à Longue Portée – Emploi Général」の略である。
 このミサイルは、フランスが開発した
   アパッチ 対滑走路巡航ミサイ
をベースにしているが、クラスター弾ではなく一体型弾頭を搭載している点が異なっている。

 単価 2,000,000ポンド(2023年度)(2,500,000米ドル)
  質量 1,300 kg (2,900 ポンド)
  長さ 5.1 m (16 フィート 9 インチ)
  幅  630 mm (25 インチ)
  身長 480 mm (19 インチ)
  翼幅 3メートル(9フィート10インチ)
  弾頭 多段ブローチ貫通弾頭
  弾頭重量 450キログラム(990ポンド)
  エンジン マイクロターボ TRI 60-30ターボジェット
  
  運用範囲 550 km (300 海里; 340 マイル)
  最高速度 マッハ 0.95 (323 m/s; 1,060 フィート/s)
 
  装着可能戦闘機等 ミラージュ2000、ラファール、Su-24、トルネード、タイフーン、グリペン
 
 フランス国防省は、水上艦艇や潜水艦から発射でき、より高精度で長距離から戦略目標や軍事目標を攻撃できる、より強力な巡航ミサイルの要件を出した。
 これを満たすため、 MBDAフランスはSCALPを補完するミサイル
   Missile de Croisière Naval(「海軍巡航ミサイル」)またはMdCN
の開発を2006年に開始した。
 最初の発射試験は2013年7月に行われ、成功し、 MdCNは2017年からフランスのFREMMフリゲート艦で運用されている。
 2022年に運用開始予定のフランスのバラクーダ原子力攻撃型潜水艦にも装備されている。

 2017年には、フランスとイギリスのそれぞれのストームシャドウ/SCALP備蓄をアップグレードする共同契約が締結された。
 この契約により、2032年に予定されている退役までミサイルの運用が継続されると予想されている。
 フランス、英国、イタリアは、2028年と2034年までにSCALP/ストームシャドウと各国の対艦ミサイルに代わる将来巡航/対艦兵器を共同開発している。

 ミサイルの重量は約1,300キログラム(2,900ポンド)、通常弾頭は450キログラム(990ポンド)である。最大本体直径は48センチメートル(19インチ)、翼幅は3メートル(120インチ)である。マイクロターボTRI60-30 ターボジェットエンジンによってマッハ0.8で推進され、射程は約560キロメートル(300海里、35​​0マイル)である。
 この兵器は、サーブ・グリペン、ダッソー・ミラージュ2000、ダッソー・ラファール、パナビア・トルネード、イタリアのトルネードIDSとイギリスのトルネードGR4(現在は退役)の両方、そして改造されたスホーイSu-24など、さまざまな航空機から発射することができる。

 ストームシャドウは、 2015年にフェーズ2強化(P2E)の一環としてユーロファイター・タイフーンに統合された。
 ただ、 米国のF - 35ライトニングIIには装備されない。

 ストームシャドウのBROACH弾頭は、土壌を掃討したりバンカーに侵入するための最初の貫通爆薬と、主弾頭の爆発を制御する可変遅延信管を備えている。
 対象ターゲットは、指揮統制および通信センター、飛行場、港湾および発電所、弾薬管理および保管施設、港湾内の水上艦艇および潜水艦、橋梁、およびその他の重要戦略ターゲットという。
 このミサイルは発射前にプログラムされ、発射したら放置しても自動で飛行し目標に到達する。
 そのため、発射後は制御も自爆命令も出せず、目標情報の変更もできない。
 ミッションプランナーは、目標とその防空の詳細をこの兵器にプログラムする。

 ミサイルは半自律的に経路をたどり、GPSと地形図によって目標エリアまで誘導される低空飛行経路をたどる。
 目標に近づくと、ミサイルは上昇して視野を広げ、貫通力を向上させ、目標に保存された画像をIRカメラで照合してから目標に急降下する。

 高度上昇は、目標の識別と貫通の可能性を最大限に高めることを目的としている。
 最終操作中に、ノーズコーンが投棄され、高解像度サーモグラフィーカメラ(赤外線ホーミング)が目標エリアを観察できるようになる。
 次に、ミサイルはターゲット情報( DSMAC )に基づいてターゲットの位置を特定しようとする。
 それができず、付随的な損害のリスクが高い場合、ミサイルは不正確さのリスクを冒す代わりに、墜落地点まで飛行することができる。

 2005年に報告された機能強化には、フランスのDGA契約に基づいて開発中の、着弾直前にターゲット情報を中継する機能と、戦闘被害評価情報をホスト航空機に中継するための一方向(リンクバック)データリンクの使用が含まれていた。
 当時は、双方向データリンクを使用した飛行中の再標的機能が計画されていた。
 2016年に、ストームシャドウは選択的精密効果範囲4( SPEAR 4)ミサイルプロジェクトの下で改修されることが発表された。

 マトラ社とブリティッシュ・エアロスペース社は、1996年7月に通常兵器スタンドオフミサイル(CASOM)の主契約者に選ばれ、同社のストームシャドウミサイルは、マクドネル・ダグラス社、テキサス・インスツルメンツ/ショート・ブラザーズ社、ヒューズ/スミス・インダストリーズ社、ダイムラー・ベンツ・エアロスペース/ボフォース社、GEC-マルコーニ社、ラファエル社からの提案に勝利した。 [

 ストームシャドウの設計は、マトラ社のアパッチ滑走路阻止巡航ミサイルに基づいていた。
 開発・製造契約は1997年2月に締結され、その時点でマトラ社とBAe社はミサイル事業の合併を完了し、マトラ・BAeダイナミクス社が設立された。
 フランスは1998年1月に500発のSCALPミサイルを発注した。

 ストームシャドウ/SCALP EGの完全誘導射撃が初めて成功したのは、2000年12月末にフランスのCELビスカロッセ射撃場でミラージュ2000Nから行われた。
 ユーロファイター タイフーンに搭載されたストームシャドウミサイルの初飛行は、 2013年11月27日にイタリアのデチモマンヌ空軍基地で行われ、アレニア・アエルマッキ社が計器付き量産機2号機を使用して実施した。

 2016年7月、英国国防省は今後5年間にわたりストームシャドウを支援するために2,800万ポンドの契約を締結した。
 このミサイルはフランスの主導によりITARの対象外となった。

 胴体下にストームシャドウミサイル2基を搭載したイギリス空軍のトルネードGR4が、2019年1月に キプロスのイギリス空軍アクロティリ基地からオペレーション・シェーダーの任務で離陸した。
 イギリス空軍のトルネードは、2003年のイラク侵攻の際に初めてストームシャドーミサイルを実戦投入した。
 正式に配備される前だったが、「加速試験スケジュール」により、イギリス空軍の第617飛行隊が紛争でストームシャドーミサイルを使用した。 

 2011年のリビアへの軍事介入の際、ストームシャドウ/SCALP EGがフランス空軍のラファールとイタリア空軍およびイギリス空軍のトーネードによってカダフィ支持派の標的に発射された。
 標的にはアル・ジュフラ空軍基地やリビアの指導者ムアマル・カダフィの故郷シルトの軍事バンカーが含まれていた。
 2011年12月、イタリアの防衛当局は、リビア作戦中にイタリアのトーネードIDS航空機が20〜30発のストームシャドウを発射したと述べた。これはイタリアの航空機が実戦でミサイルを発射した初めてのケースであり、ミサイルの成功率は97パーセントだったと報告された。

 フランスの航空機は、シャマル作戦の一環として、シリアのISISの標的に12発のSCALPミサイルを発射した。
 これらの発射は、2015年12月15日と2016年1月2日に行われた。

 これらの発射は、フランス国防省がコスト削減のためにSCALPミサイルの在庫を減らす決定を下した後に承認された可能性があると考えられている。
 2016年6月26日日曜日、イギリス空軍はイラクのISISバンカーに対して4発のストームシャドウミサイルを使用した。
 ストームシャドウミサイルは2機のトーネード航空機から発射された。
 4発のミサイルすべてが直撃し、バンカーの奥深くまで貫通した。
 ストームシャドウミサイルが使用されたのは、バンカーが巨大に建設されていたためである。

 2016年10月、英国政府は、イエメン紛争においてサウジアラビアが英国供給のミサイルを使用したことを確認した。
 2018年4月、英国政府はシリアの化学兵器施設を攻撃するためにパナビアのトーネードGR4に搭載されたストームシャドウミサイルを使用したと発表した。
 米海兵隊のケネス・マッケンジー中将によると、ホムス近郊のヒム・シンシャル化学兵器貯蔵施設が、米国のトマホーク9発、英国のストームシャドウ8発、フランスのMdCN巡航ミサイル3発、フランスのSCALP巡航ミサイル2発の攻撃を受けた。
 衛星画像では、施設が攻撃で破壊されたことが示されている。
 国防総省は、ミサイルは迎撃されておらず、襲撃は「正確かつ圧倒的」だったと述べた。
 これに対して、ロシア国防省はモスクワでの記者会見で、撃墜されたストームシャドウミサイルであると主張する物体の一部を公開した。

 2020年7月の第二次リビア内戦中のアルワティヤ空軍基地への空爆では、アラブ首長国連邦のミラージュ戦闘機かエジプトのラファール戦闘機によって配備されたストームシャドウが使用された可能性があると示唆されている。
 国際的に承認された国民合意政府を支援するトルコ軍人が駐留していたこの基地への攻撃で、数名のトルコ兵士が負傷した。
 また、MIM-23ホーク対空ミサイルシステムとKORAL電子戦システムが破壊された。

 2021年3月11日、キプロスのアクロティリ空軍基地から出撃したイギリス空軍のタイフーンFGR4ジェット機2機が、イラク北部のエルビル市南西にある洞窟群を攻撃した。
 この洞窟群では多数のISIS戦闘員が活動していたと報告されており、タイフーンによるストームシャドウが初めて実戦に使用された。
 
 2023年5月11日、英国はロシアのウクライナ侵攻中にウクライナ軍にストームシャドウを供給すると発表した。
 これは、ロシアによるウクライナのインフラへの攻撃に応じて、英国が2023年2月にウクライナに長距離ミサイルを送ると約束したことを受けてのものである。
 ウクライナは、ロシア領土でそのような兵器を使用しないと主張している。
 ベン・ウォレス英国防相は、ロシアが
   Kh-47M2極超音速ミサイル
   3M-54カリブル巡航ミサイル
   シャヘド-136一方向攻撃ドローン など
さらに長距離の兵器を使用していることを指摘した。
 この納入を「ロシアのエスカレーションに対する調整された、釣り合いのとれた対応」と強調した。 

 ストームシャドウミサイルの供与は、ロシアの最前線支援能力を妨害するために占領下のクリミア半島の指揮統制拠点や兵站拠点を含む、これまで可能だったよりもはるかに長い距離の標的を攻撃できる。
 このため、ウクライナ軍にとって大きな後押しとなる。
 その後まもなく、フランスは、自国のミサイルバージョンであるSCALP EGもウクライナに引き渡すと発表した。
 フランスは、ロシア領土を攻撃できる兵器は提供していないと述べた。

 英国は5月18日、ウクライナがすでにストームシャドウを成功裏に使用したことを確認した。
 フランスのミサイルがウクライナに正確にいつ引き渡されたかについての情報は公表されていない。
 しかし、駐フランスウクライナ大使のヴァディム・オメルチェンコ氏は、2023年8月22日のLB.uaのインタビューで、フランスの
   エマニュエル・マクロン大統領
が約束したSCALPミサイルはすべて、おそらく5月のマクロン大統領の発表時までに、すでに引き渡されたことを確認した。

 オメルチェンコ氏はさらに、最初の一連のミサイル(一部報道では50基と報じられている)は十分にその価値を証明しており、フランスによるSCALPの供給は今後も続くだろうと述べた。
 これに先立ち、チョンガル海峡鉄道橋への攻撃から数日後の8月6日には、SCALPのウクライナでの運用状況が目視で確認されており、攻撃での使用やウクライナのSu-24爆撃機への統合が成功したことも確認されていた。

 ロシアは、ウクライナがストームシャドウミサイルを使用してルハンシクの工業地帯を攻撃したと主張した。
 しかし、これは同ミサイルの配備が発表されてからわずか2日後の2023年5月13日のことだった。

 ロシアの報道機関イズベスチヤの報道によると、巡航ミサイルは特別に改造されたSu-24攻撃機から発射され、 AGM-88 HARMを搭載したMiG-29およびSu-27戦闘機の援護を受けて飛行するという。
 ウクライナ軍はまた、ロシアの防空網を逸らし、航空機や兵器が迎撃されるのを防ぐために、UAVやADM-160 MALDデコイを使用している。

 ウクライナのオレクシイ・レズニコフ国防相は、Su-24がウクライナ空軍のストームシャドウ発射プラットフォームであることを確認し、Su-24MRの内側翼下パイロンにミサイルをそれぞれ搭載した写真をツイートした。
 パイロンには退役したイギリス空軍のトルネードGR4航空機から派生したアダプターが使用されている。

 レズニコフ氏は5月末、ミサイルが目標の100%を撃ち抜いたと述べた。
 しかし、ロシア国防省はミサイルのいくつかを撃墜したと主張している。
 6月12日、ストームシャドウによる攻撃でザポリージャ州でセルゲイ・ゴリヤチェフ少将が死亡した。
 当時、ゴリヤチェフ少将は第35統合軍参謀長だった。

 6月22日、クリミアとヘルソン州を結ぶチョンハル道路橋がストームシャドウミサイルの攻撃を受け、ロシア軍の兵站が妨害された。
 ほぼ無傷のストームシャドウは7月初旬にザポリージャに墜落した。
 TASSは、ロシア軍がこれを撃墜し、残骸を回収してミサイルの設計を研究し、対抗策の開発に役立てたと主張した。

 2023年7月9日、ストームシャドウ/SCALPミサイルはロシアの防空軍によって撃墜され、後に捕獲された。
 2023年7月29日、ストームシャドウ(SCALP)ミサイルが占領下のクリミアとヘルソン州を結ぶチョンガル海峡鉄道橋を襲い、橋の進入路の2本の線路の間に着弾した。

 2023年9月13日、ストームシャドウミサイルとSCALPミサイルがセヴァストポリ港への攻撃に使用された。
 ロストフ・ナ・ドヌ潜水艦に深刻な損傷を与え、ロプチャ級揚陸艦ミンスクにも深刻な損傷(一部の情報源によると、修復不可能な損傷を与えた。

 2023年9月22日、少なくとも3発のストームシャドウミサイルとSCALPミサイルがセヴァストポリの黒海艦隊本部を襲った。
 ウクライナ軍によると、ミサイル攻撃はロシア海軍の首脳会議を標的としたものだった。
 「ロシア黒海艦隊本部への攻撃後、ロシア黒海艦隊司令官を含む34人の将校が死亡した」と彼らは述べた。
 ソコロフの死亡の確認はされていないが、攻撃が行われて以来、彼が生きていて元気であると伝える信頼できる情報源もない。

 彼らはまた、攻撃により少なくとも100人の他のロシア軍人が負傷したと主張した。
 2023年12月26日、ロシア占領下のフェオドシヤ港に向けてストームシャドーミサイルとSCALPミサイルの2発が発射された。
 これによりロシアのノヴォチェルカッスク揚陸艦が被弾して炎上したとみられる。

 2024年5月28日の記者会見で、フランスのマクロン大統領は、ウクライナがSCALPミサイルを使用してロシア国内の標的を攻撃することを許可したと述べた。
 これは、外国から供給された兵器の使用を占領地のみに制限していた以前のガイドラインからの大きな転換である。
 この使用の拡大は、依然としてウクライナへの攻撃に使用されている軍事施設の無力化に限定されている。
 2024年7月、英国の首相キール・スターマーは、英国政府がロシア国内の標的に対するストームシャドーミサイルの防衛使用を許可すると発表した。 
  
   
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2024年07月26日

Perplexity(パープレキシティ、パープレ) AIチャットボット型の検索エンジン

Perplexity(パープレキシティ、パープレ)
 AIスタートアップ企業
により2022年に公開されたAIチャットボット型の検索エンジンのこと。
 ウェブからの情報源を用いて回答を生成し、回答文中に根拠となる情報源を引用するもの。
 無料版のPerplexityに加えて、より高度な機能が利用可能な有料版のPerplexity Proが提供されている。
 2024年6月17日には
   ソフトバンク
との提携が発表され、日本語では「パープレ」という愛称が提案された。
 Perplexityは、バックエンドシステム、AI、機械学習などの経歴を持つエンジニアら
   Aravind Srinivas
   Denis Yarats
   Johnny Ho
   Andy Konwinski
によって2022年に開発された。

 経歴として、CTOの
   Yarats
はMetaのAI研究者、CEOである
   Srinivas
OpenAIのAI研究者、最高戦略責任者であるHoはQuoraでエンジニアとウォール街でのトレーダー
   Konwinski
はDatabricksの創設チームの一人であった。

 無料版ではPerplexity AI, Inc.が独自開発した検索特化型の言語モデルが用いられているが、有料版では回答の生成に用いる大規模言語モデルとして他社のより高度なモデルを用いてることができるため、GPT-4、GPT-4o、Claude 3、Mistral Large、Llama 3、および実験的なPerplexityモデルなどを利用することができる。
 2024年初頭時点で、月間利用者数は約1,000万人に達している。

 2024年時点で、Perplexityは1億6,500万ドルの資金調達を行い、企業価値は10億ドルを超えている。
 投資家の中には、Amazon CEOの
   Jeff Bezos
   Nvidia
   Databricks
   Bessemer Venture Partners
   Susan Wojcicki
   Jeff Dean
   Yann LeCun
   Andrej Karpathy
   Nat Friedman
   Garry Tan
などが名を連ねる。

    
  
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2024年07月16日

迷わば休むべし、相場は常にあり、決すれば進むべし機は瞬間に去る。

 株に限らず心に迷いがありながら
   中途半端に行動
を起こすと失敗するケースが多い。
 迷うこと事態は悪くはないが、迷いを引きずりながら中途半端にやるぐらいなら、最初から何もしない方がいい。
 行くと決めた時は、迷わず進むべきである。
 モタモタしているとチャンスはあっと言う間に過ぎ去ってしまう。

    
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2024年07月14日

罫線屋足を引き引き足を出し。

 実にくだらない格言のひとつだが、相場は決してチャートでは分からないと言う意味であり
   罫線屋(チャーティスト)
をおちょくった言葉のひとつである。
 常に、ファンダメンタルズとテクニカルはどちらが正しいか? といったことが議論されるが、これも実にくだらない話のひとつ。

 そもそも、どちらも重要に決っており、片方を極端に否定するような人は、バーチャル投資家か、ど自信過剰な素人、或いは別の意図がある悪巧みをしていると思ってしまう。
 このような連中とは話をするのも馬鹿馬鹿しく、時間の無駄ともいえる。

 投資家の心理を少し反映するチャートや一目均衡表の方をより重視して投資していますが、チャートを重視するのは、自分の場合ファンダメンタルズではリスク管理が出来ないという考えからです。
 そもそも、チャートで未来が分かるなんて言うものでもありません。
 相場の方向は常に参加者の心理に従うもので、未来はチャートでもファンダメンタルズでも分からないに決っている。
 もし分かれば、みんな大金持ちになります。
 また、うまい儲け話を勧誘する輩は、ほとんどが、鴨ねぎ投資家を引き込むための甘い言葉だり、詐欺で騙そうとするものばかりでしょう。
 自分で金を設ければいいのであって他人に金を設けさせる話をするバカはいない。

   
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2024年07月11日

長州五傑(ちょうしゅうごけつ)

長州五傑(ちょうしゅうごけつ)
 江戸時代末期(幕末)の1863年に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主に
   ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ など
に留学した
   井上聞多(馨)
   遠藤謹助
   山尾庸三
   伊藤俊輔(博文)
   野村弥吉(井上勝)
の5名の長州藩士を指すもの。
 
 駐日イギリス領事であった
   エイベル・ガウワー
や、アヘン・武器商人のジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)の
   ウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)
のジャーディン・マセソン商会の長崎代理人の武器商人の
   トーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)
らの協力を得て成し遂げられた。
 イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の一人
   ジェームス・マセソン
の甥にあたるマセソン商会社長
   ヒュー・マセソン
が世話役となった。

 この5名はロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five)として1993年に顕彰碑が建てられており、そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、2003年に山口市に顕彰碑が建てられた。
 その碑文では、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。
 その顕彰碑は、秋穂二島の山尾庸三生家近くに設けられたものの、山口市立二島中学校の敷地内を経て、山口市新山口駅の南口に移設された。
 また、2006年に山口大学構内にも記念碑が設けられている。

 渡航時の年齢は、井上馨(28)・遠藤謹助(27)・山尾庸三(26)・伊藤博文(22)・井上勝(20)であった。
 一方没年は、遠藤謹助(1893年57歳)・伊藤博文(1909年68歳)・井上勝(1910年66歳)・井上馨(1915年79歳)・山尾庸三(1917年80歳)である。
 投稿時の身分は、正式な藩士である井上馨・井上勝・遠藤謹助であったのに対し、伊藤博文・山尾庸三は武家奉公人の立場であった。
 渡航直前に両者は形式的に士分に取り立てられているものの、海外渡航は幕府により禁止されているため藩内では5人とも脱藩した扱いとなっている。
 この洋行は藩命だったとも周布政之助の計画だったという説もある。
 実際には山尾と野村、そして二人とは別に井上が願い出て周布がそれを聞き入れて、藩主毛利敬親の名のもと許可が下りた、という形。
 なお、桂小五郎も洋行を願い出たこともあったが、すでに藩の要職にあったため、許可が下りなかった。

 文久元年(1861)、箱館奉行所の武田斐三郎は、幕府の船亀田丸でロシアの沿海州航海計画を立てた。
 それを知った山尾が桂に頼み、小使い(雑用)として乗せてもらうことに成功した。
 亀田丸の船長
   北岡健三郎
が、桂と山尾が通う練兵館の
   斎藤弥九郎
の弟という関係から実現した。
 4月に箱館を出航した亀田丸は、ニコライエフスク(ロシアのアムール河河口の町)まで行き、8月に無事、航海を終えた。
 この航海が、山尾の目を外国へ向けさせる第一歩となった。

 山尾はそのまま武田に師事し、武田が教授を務める諸術調所で語学・測量などを学んだ。
 その後、江戸で大村益次郎に「海外へ出て見ると誠に利益がある。就てはどうか洋行したいものであるが」と相談したが、「それはむつかしい。もし易く行かれる様な機会があったならば、自分が行きたいと想ふて居るのだ。しかし好機会があったならば心配はしてやる」と言質を得ているとの記録が残っている。
 山尾の実家は地域を治める庄屋で、大村の実家は山尾の実家の隣村の村医者であった。
 また、山尾の父親と大村の父親は交流があった。

 一方野村は、安政5年(1858年)に長崎で長崎海軍伝習所教官の
   ファン・トローエン
から兵学を学び、安政6年(1859年)に江戸に出て蕃書調所で航海術などを学んでいた。
 万延元年(1860年)から文久元年(1861年)まで箱館の武田に師事し航海術と英語の取得に励んだ。
 一旦は養父に呼び戻されるも、文久2年(1862年)に再び江戸に到着して、横浜の外国人居住地での英語学習や、長州藩邸での勉強会(講師は大村益次郎)に参加した。

 文久3年(1863年)3月、長州藩が購入した癸亥丸の船長を野村が、測量方を山尾が務め、横浜港から大阪を経由して三田尻港まで航行することになった。
 この時、京都にいた世子毛利元徳が帰藩のため癸亥丸に乗船予定であった。
 しかし、操船に不安があったため、京都の長州藩邸の役人は庚申丸を選び、癸亥丸を随従させるという決定を下した。
 自らの操船に限界を感じた二人は、留学への思いをさらに強めることになった。
 帰藩した山尾と野村はただちに洋行留学の願いを出し、陸路で京都に向かった。

 また、井上は、安政2年(1855年)10月、藩主
   毛利敬親
の江戸参勤に従い江戸に入り、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。
 文久2年(1862年)から尊王攘夷運動に共鳴し、同年12月の
   英国公使館焼き討ち事件
に参加したのち、文久三年(1863)正月から京都で世子毛利元徳の小姓役となった。
 久坂玄瑞や山県半蔵が長州藩に招聘しようとして断られた
   佐久間象山
の話を聞いて、「人材を海外に派遣すべし」とする論には大いに心が動かされ、「外国に出て海軍のことを研究して日本に海軍を興そう」と決心したという。
 井上はその志を藩主毛利敬親に密かに打ち明けたものの「かようなことを予に直接、願うものではない」と井上に告げた。
 そこで、周布・桂ら藩幹部や高杉晋作・久坂ら攘夷運動同志に相談し、攘夷派で凝り固まった久坂らには反対されたものの、「攘夷のための留学」と説得した。
 さらに、同年3月29日には大阪に来ていた
   勝海舟
に面会、海軍興隆について意見を聴いている。

 山尾・野村、および井上からの留学願を受けた周布は、文久3年(1863年)4月3日、貿易商会
   伊豆倉商店
の番頭・佐藤貞次郎を祇園の一力茶屋に招いて(桂・久坂も同席)、この計画実現への助力を請い、承諾された。

 4月18日には藩主の許可が下り、一人当たり200両、計600両が3人に与えられた。
 4月28日に井上・野村は京都を発ち、5月6日に江戸に到着した。山尾は身分の違いからか別行動らしく、江戸に着いたのは5月1日とされる。

 なお、遠藤が一行に加わるまでの経過ははっきりわかってない。
 文久2年(1862年)にイギリスから購入した壬戌丸(長州藩にとっては初めての蒸気船だが、長州人だけの手では動かせなかった)が江戸湾を航行したときに、当時桜田藩邸にいた遠藤が、井上とともにこの船に乗り込んでいる。

 伊藤が一行に加わるのが一番遅かった。
 伊藤は来原良蔵の従者として長崎海軍伝習所で学ぶ来原に従い、安政5年(1858年)から翌安政6年2月の伝習所閉鎖まで長崎にて勉学に励んだ。
 帰藩後桂の従者として様々な活動に従事した。
 井上の留学には賛成した久坂が伊藤の留学には反対したため一旦は留学を諦めた。
 伊藤は藩命の銃の購入のため4月16日京都を発ち、横浜へ向かった。
 5月1日に桂からの書簡を山尾から受け取り「10日頃まで将軍慶喜の様子を探れ」と新たな命令を受け、これに従うと返事するも、銃の購入代金を渡航費用に充てようと考えた井上が5月6日に伊藤に接触、強引に留学仲間に引き入れた。
 なお、実際はその購入代金は渡航には使われなかった。

 5月11日(出発前日)5人は連名で藩政府に留学への決意を綴った書簡を送ったが、渡航前に英会話ができるのは野村で、他の4人は辞書を引きながらなんとか応対できる程度であった。
 文久3年4月18日(1863年6月4日)、井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の許可が下りた。
 5月7日(6月22日)、駐日イギリス総領事
   エイベル・ガウワー
を訪ね洋行の志を述べ、周旋を依頼した。
 ガウワーからは船賃が700ドル(約400両)、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされた。
 江戸到着後さらに2人(伊藤・遠藤)増え、5人分つまり5000両が必要になった。

 洋行にあたって藩主の手許金から1人200両(井上・伊藤・山尾の3人で600両)を支給されたが当然足りていない。
 そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた1万両の準備金があった。
 佐藤は「藩邸の代表者が保証するなら5000両を貸す」ということになり、藩邸の留守居役
   村田蔵六
に、死を決してもその志を遂げたいと半ば脅迫的に承諾させ、5000両を確保することができた。
 
 5月12日(6月27日)、ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)で横浜を出港し、上海に向かった。
 このとき、井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶことを恐れ、志道家を離別している。
 5月18日頃、上海に到着し、ジャーディン・マセソン商会上海支店の支店長に面会したが話が通じず、結局支社長は「お前達は何のために洋行するのか?」と聞いているらしいことは分かった程度だった。
 そこで「海軍を研究する」と言おうとして「ネイヴィー」とすべきところを間違って「ネビゲーション」の一言を発した者がいた。
 この言葉を支社長は「ナビゲーション=航海術」と理解した。

 当時の上海は東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していた。
 上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦およびその他の蒸気船を目の当たりにして、「攘夷」という無謀なことをすれば日本はすぐに滅ぼされてしまうだろうとの判断から「開国」へと考えを変えた。
 上海からは、井上と伊藤は525トンのペガサス号で出港し、他の3名は10日ほど後に5、915トンのティークリッパー ホワイトアッダー号で出港した。
 ロンドンまでの旅程は、“航海術を学ぶ”ということと理解されていたので、水夫と同格の扱いで非常に困苦し、日本人を「ジャニー」と呼び軽蔑されていたと感じ。
 また、便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、嵐の時には身体を縄で縛って危険から保護した。
 さらに伊藤は下痢で苦しんだという。
 一方、ホワイトアッダー号に乗船した3人は乗客として扱われた船旅だった。

 伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助、井上聞多(馨) がイギリスに留学したときには、アレキサンダー・ウィリアムソンの家に寄留した。
 長州五傑の留学生はウィリアムソンが属するユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部へ聴講生の資格で入学した。
 元治元年3月(1864年4月)、密航者5名は日本発の「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意した。

 6月10日(7月13日)頃、2人は横浜に到着した。
 伊藤と共に
   ガウワー
に会い急遽帰国した説明を井上がしたところ、ガウワーは4カ国が下関を襲撃する計画があることを告げた。
 両名は故国の安危に関する大事件と受け取り、イギリス公使館の通訳
   アーネスト・サトウ
を介して公使
   ラザフォード・オールコック
と会見し、自分たちが長州藩に帰って藩論を一変したいと説明し、停戦講和を願った。
 駐日公使は「フランス、アメリカ、オランダの公使と協議して確答するから数日間居留地のホテルに宿泊して待つように、その際長州人と分からないように日本語を使ってはならない」と申し渡された。

 イギリス公使から連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。
 書簡に対する返答は、到着から12日後と決まった。
 2人は6月18日(7月21日)、イギリス艦に乗り、豊後姫島まで送られた。
 6月24日(7月27日)、山口に着き、藩の事情を聞くと、「幾百艘の軍艦が来襲しても死力を尽くして防戦する」という藩の方針が決定しているとのことであった。
 6月25日(7月28日)、井上は伊藤と共に藩庁に出頭し、海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴えた。
 伊藤は、攘夷論者からの襲撃を警戒して春山花輔と変名している。
 6月26日(7月29日)、藩主の下問に応じて、井上は伊藤と共にそれぞれ海外の事情を進言するも、藩の趨勢から方針転換は困難という。
6月27日(7月30日)、井上と伊藤が希望していた御前会議が開かれる。藩の重役達の前で西洋事情を話しても理解されず、6月29日(7月31日)、藩主の立場としては、藩士の攘夷熱は抑えがたい状況に到る旨を、毛利登人から井上に伝えられた。
 7月2日(8月3日)、井上は、藩主よりイギリス軍艦に行き、止戦のための交渉をするように命ぜられた。
 7月5日(8月6日)、井上は伊藤と共に姫島のイギリス艦に行き、攻撃猶予を談判するも成らず。
 7月21日(8月22日)、井上は、
   脱走の罪
で萩の実家に幽閉中の高杉晋作を訪問した。
 8月4日(9月4日)、井上は藩より外国艦との交渉をするように命ぜられ、8月5日(9月5日)に前田孫右衛門とで小船に乗り、艦隊に向かった。
 途中で約束の時間が過ぎたため、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国の艦隊が下関を砲撃し、8月7日(9月7日)には艦隊の兵士2千名が上陸した。
 8月8日(9月8日)、井上は講和使節
   宍戸刑馬(高杉晋作の仮称)
に従い、伊藤と共に講和使節としてイギリス艦に行くが、交渉に失敗する。
(藩では征長の軍に対しても応戦しなければならず、やむを得ず井上や高杉らに外艦の対応を指示したもの。)
 8月9日(9月9日)、井上は外国兵による大砲の分補に立ち会っている。
 イギリス海軍オーガスタス・レオポルド・キューパー提督は長州藩の発砲に対して賠償金を要求した。
 高杉晋作はこの要求に対して、「これは朝廷・幕府の命に従った事で我が藩の私意によったものではない。4カ国公使から幕府に請求するのが筋である」と主張して責任転嫁することが出来た。
 これは高杉の機転によるものであった。
 一方で和議に反対する攘夷論者は多く、山口に滞在する公卿(三条実美、四条隆謌、東久世通禧)らからも毛利定広に対して抗議が行われ、藩政府員は困って「あれは高杉、井上、伊藤らが藩主を篭絡してやったことで」などと逃げ口上もあり、井上は帰国以来命を狙われるのは当然という時期であった。
 
 UCL在籍2年で山尾と遠藤は成績優秀者として優等賞を授与された(分析化学で山尾4位、遠藤5位。理論化学で山尾10位)。
 野村はUCL在籍4年で地質学3位で同賞を授与された(その時点では山尾はグラスゴー、遠藤は帰国)。
 遠藤、野村、山尾は、薩摩藩からの密航留学生(薩摩藩遣英使節団)たちの存在を知り、交遊もしている。
 山尾がグラスゴーに移る際に、彼らから1ポンドずつの有志を受けた。
 遠藤は慶応2年(1866年)、野村と山尾は明治元年11月19日(1869年1月1日)に帰国した。

 なお、長州藩では先に帰国した伊藤と井上に代わり、1865年に藩海軍所属の山崎小三郎、高杉晋作の従弟である南貞助、竹田傭次郎の3名をイギリスに送った。
  
        
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2024年06月29日

天然資源保護協議会(Natural Resources Defense Council  NRDC )

   (Natural Resources Defense Council  NRDC )
 アメリカ合衆国に拠点を置く
   非営利国際環境 保護団体
のこと。
 ニューヨーク市に本部を置き、ワシントンDC、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ、ボーズマン、インド、北京に事務所を置いている。
 この団体は1970年にニューヨークの水力発電所に反対して設立された。
  
 予算  1億5,160万ドル(2015年)
 スタッフ 700人(2020年)
 2019年現在、NRDCには300万人を超える会員がおり、全国でオンライン活動を展開し、約700人の弁護士、科学者、その他の政策専門家がスタッフとして在籍している。

 NRDCは1970年に設立され、部分的には、
   Scenic Hudson Preservation Conference v. Federal Power Commission
   ストームキング事件
から派生したものです。
 この事件は、ストームキング山に世界最大の水力発電施設を建設するという
   コンエド
の計画を中心に展開された。
 提案された施設は、ハドソン川から大量の水を貯水池に汲み上げ、タービンを通して放出し、ピーク需要時に電力を生成する予定であった。

 この建設計画に12人の懸念を抱いた市民が
   環境への影響
を理由にこの計画に反対する
   シーニック・ハドソン保存会議
を組織し
   ホイットニー・ノース・シーモア・ジュニア
と彼の法律パートナー
   スティーブン・ダガン、デビッド・サイヴ
が代表を務めるこのグループは連邦電力委員会を訴え、シーニック・ハドソンやその他の環境保護団体は
   連邦電力委員会
の行政裁定に異議を申し立てる権利があるとの判決を勝ち取った。

 環境保護団体の訴訟を継続するには、全国的に組織され、専門化された弁護士と科学者のグループが必要であることを認識したダガン、シーモア、サイヴは
   フォード財団
から資金援助を受け
   ガス・スペス
と、1969年卒のイェール大学ロースクール卒業生である
   リチャード・エアーズ
   エドワード・ストローベン・ジュニア
   ジョン・ブライソン
の3人と協力した。
 ジョン・H・アダムスがグループの最初のスタッフであり、ダガンが創設会長であった。
 シーモア、ローレンス・ロックフェラーらが理事会のメンバーを務めた。

・原子力に対する立場
 1970年代、NRDCはニューヨーク州の
   インディアンポイント原子力発電所
の拡張を阻止しようとした。
 同発電所が2021年に閉鎖されるまで、同発電所の閉鎖を求めてきた。
 また、NRDCはカリフォルニア州の
   ディアブロキャニオン原子力発電所
の閉鎖も求めてきた。
 なお、2018年、NRDCはニュージャージー州の原子炉3基を補助する法案について立場を表明しなかった。
 NRDCは、原子力は気候変動を緩和するための実行可能なエネルギー源ではなく、核廃棄物と核拡散を通じて
   公衆衛生と安全上のリスク
をもたらすと主張してきた。
 2014年、NRDCの
   フランシス・バイネケ会長
は、寄付金がなくなるためNRDCは原子力を支援できないと明らかにした。

・太陽光発電に関する立場
 2012年、NRDCはカリフォルニア州モハベ砂漠にある663.5メガワットの
   カリコ太陽光発電所
の建設を中止するよう連邦政府を訴えた。
 NRDCは、この太陽光発電所は保護されている
   野生生物を危険にさらす
と主張した。
 なお、2022年、NRDCは屋上太陽光発電を補助する提案を支持した。

・水力発電に関する立場
 NRDC の水力発電に対する立場は、再生可能エネルギー源ではないと主張しいる。
 インディアン ポイントの閉鎖が予定されていたとき、NRDC は
   余剰水力
を利用するためにケベックに送電線を建設するという提案に対して立場を表明せず、「水力発電]が、真の再生可能エネルギーでカバーされるべきと考えられる領域を食い尽くすようなことには、決して賛成しない」と主張した。

・プログラム
 NRDCは、その活動の目的を「地球、そこに住む人々、植物、動物、そしてすべての生命が依存する自然システムを守ること」と「すべての人々の空気、水、野生に対する権利を保証し、特別な利益が公共の利益を損なうのを防ぐこと」としている。その活動分野には「気候変動、コミュニティ、エネルギー、食糧、健康、海洋、水、野生」が含まれる。

 NRDCは法的擁護団体として、訴訟を通じて汚染を減らし
   天然資源を保護
するために法制度の範囲内で活動し、また国内および国際レベルで科学、法律、政策の専門家と協力することにより
   環境目標
の達成に努めている。
 NRDCのキャンペーン&組織センター(CC&O)は、政治活動や選挙活動に従事する独立した非営利団体
   NRDCアクションファンド
も監督している。

 NRDCは2016年まで、環境問題を扱った季刊誌「onEarth」を発行していた。
 同誌は1979年に「The Amicus Journal 」として創刊された。
 アミカス誌として創刊された同誌は、1983年に特別関心報道でジョージ・ポルク賞を受賞した。

・スタッフ
 評議会の初代会長はジョン・H・アダムスで、2006年まで務めた。
 後任はフランシス・バイネケで、2006年から2015年まで会長を務めた。
 3代目の会長はリア・スーで、2015年から2019年まで務めた。
 2020年、ジーナ・マッカーシーがCEO兼社長を務めた。
 マッカーシーは以前、オバマ政権で
   環境保護庁長官
を務め、2021年にバイデン政権でホワイトハウスの国家気候顧問になった。
 2021年、NRDCは世界資源研究所の元職員である
   マニッシュ・バプナ
を新しい社長兼CEOに選んだ。
 NRDCのウェブサイトによると、科学者、弁護士、政策提唱者を含む約700人の従業員がいると明らかにしてる。

・立法
 NRDC対米国EPA(1973年)では、
   デイビッド・シェーンブロッド
との共催で、米国環境保護庁が当初の予定よりも早くガソリン中の四エチル鉛の削減を開始することとなった。
 NRDCは、連邦政府機関が公有地を使用するために特定の団体に水利権を米国に放棄するよう要求することを禁止する法案である水利権保護法に反対した。

 NRDCは、2014年EPSサービス部品法(HR 5057、第113回議会)を支持した。
 この法案は、 2014年2月に
   米国エネルギー省
が発表した最終規則で定められた基準への準拠を特定の外部電源装置から免除するものである。

・行政法への影響
 NRDC は、米国行政法の解釈に関する以下の最高裁判所の訴訟に関与してきた。
 バーモント・ヤンキー原子力発電社対天然資源防衛協議会事件、 435 U.S. 519 (1978)では、裁判所は行政機関に対し、当該行政機関の組織法または行政手続法で要求されている以上の手続き上の要件を課すことはできないと判示した。
 
・Chevron USA, Inc. v. Natural Resources Defense Council, Inc. , 467 U.S. 837 (1984)は、議会の意図が不明瞭な場合に、行政機関に法令を解釈して政策変更を行う広範な裁量を与えた。
 
・ボルチモア・ガス&エレクトリック社対天然資源防衛協議会、 462 U.S. 78(1983)]は、原子力発電所の認可中に
   核廃棄物の永久貯蔵は環境に影響を与えない
と仮定すべきであるという
   原子力規制委員会(NRC)の規則
を有効と判断した米国最高裁判所の判決である。

   
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2024年06月22日

ウィットウォータースランド ゴールド ラッシュ(Witwatersrand Gold Rush) ヨハネスブルグの設立につながったゴールド ラッシュ 

ウィットウォータースランド ゴールド ラッシュ
           (Witwatersrand Gold Rush)
 1886 年に始まり、南アフリカのヨハネスブルグの設立につながったゴールド ラッシュのこと。
 現在の南アフリカムプマランガ州では
   バーバートン
   ピルグリムズ レスト
の沖積鉱山の金鉱山労働者と地元の部族が金鉱床の存在を疑っていた。
 1886 年にウィットウォータースランド地域で金が発見された。
 ヨハネスブルグからウェルコムまで伸びる「ゴールデンアーク」はかつては巨大な内陸湖があり、発見された金を形成した地域には漂砂金からのシルトと金の堆積物が堆積していた。
 ヨハネスブルグ郊外、パールスフープ近くのトランスヴァール共和国(1902年まで存在)
   ウィットウォータースランド
にある農地で1886年に初めて金が発見された。

 この地域での金の最初の発見は、1852 に南アフリカ共和国(ZAR) のクルーガーズドープにある
   パーデクラール農地
で、ウェールズの鉱物学者
   ジョン・ヘンリー・デイビス
によって行われた。
 デイビスは自分の金発見をアンドリース・プレトリウス大統領に報告した。
 この発見が広く知られたら新共和国に何が起こるかを懸念した。
 デイビスは600ポンド相当の金をトランスバール財務省に売却するよう言われ、その後出国を命じられ国境まで護送され、ケープ植民地に戻った。

 カリフォルニアで金を掘っていた
   ピーター・ジェイコブ・マレ
による別の発見は、1853年にジュクスケイ川で記録されたものの、これと同様の秘密の対象であった。
 1853 年 9 月 3 日にポチェフストルームに到着したマレは、将来の主礁から数キロメートル離れたウィットウォータースランドの北斜面を探索した。
 そこからクロコダイル川とジュクスケイ川をパンニングしながら小さな金のサンプルを発見した。

 1853 年 10 月から 11 月にかけて南部のスイカーボシュラントで行われた。
 12 月 1 日、マレは金を探すための許可を国民裁判所に求めた。
 共和国の既存の地区の委員会から
  @発見された場合は通知すること。
  A¥共和国の存続に混乱を引き起こす可能性のある発見について外国勢力に話した場合は死刑に処される
という条件で受け入れられた。
 その後、マレは 1854 年 1 月にサンド川とドワール川を漕ぎました。
 小さな金の発見物は、1854 年 1 月にポチェフストルームの裁判所に展示された。
 1855年4月7日にZAR政府から退陣すると、彼は1855年にZARを離れ、ケープ植民地のドルドレヒトに定住した。
 1856 年、リス中尉はピーターマリッツバーグからプレトリアに旅行し、ドリーフォンテン農地(現在のジャーミストン) の沼地を横切る途中で立ち往生し、荷馬車に戻ると、砕くと金が含まれる礫岩を発見、そこがナイツ鉱山となった。

 この地域では小規模な採掘事業が行われていた。
 ウィットウォータースランドのゴールドラッシュが本格的に始まったのは、1884 年とその後の 1886 年のラングラーグテでの発見まで遅れた。

 探検家で探鉱者の
   ヤン・ゲリット・バンチェス(1840-1914)
は、1884 年 6 月にウィットウォータースランド金礁の最初の発見者であった。
 彼は 1880 年代初頭からこの地域の探鉱を行っており、1883 年に北西でクロムドラアイ金鉱山を運営した。

 現在のヨハネスブルグのパートナー
   ヨハネス・ステファヌス・ミンナール
とともに、今日「人類のゆりかご」として知られる地域に滞在した。
 しかし、彼はマイナーなサンゴ礁を発見しており、今日では主要な金サンゴ礁の発見は
   ジョージ・ハリソン
によるものであるという誤った認識が広まっており、彼のラングラーグテ農地での発見は1886年7月に偶然か組織的な探査によって行われた。
 これは、ウィットウォータースランド油田が英国のものであると主張することを正当化するために、
アングロサクソン部門の発見の功績を認めようとする英国の試みであった。
 この動きは、1899 年から 1902 年の
を引き起こす要因の 1 つとなった。
  
 ハリソン氏は当時の南アフリカ共和国(ZAR)政府に主張を表明し、この地域の開放が宣告された。
 彼の発見は、元の金の露頭があったと考えられる記念碑と、彼にちなんで名付けられた公園とともに記録された。
 ハリソンさんはその地域を離れる前に、自分の権利を10ポンド未満で売却したと考えられている。

 金発見のニュースは急速に広がり、キンバリーの
に届いた。
 ローズと彼のパートナーのロビンソンは、好奇心をそそられ、仲間のチームとともにフォーゲルストロイスフォンテーンにあるバンジェスのキャンプまで400キロ以上を馬で向かい、そこで後にロードポートとなる地域の近くで彼と一緒に2泊した。
 ローズはウィットウォータースランド金の最初のバッチをバンジェスから 3000 ポンドで購入した。
 この買収は、新しく設立された会社
   Consolidated Gold Fields of South Africa
の最初の取引である。

 このニュースは世界中に伝わり、オーストラリアからカリフォルニアまで探鉱者が大挙して到着し始め、やがてヨハネスブルグにも入植者が到着した。
 外国人の入国は順調に進んでいたが、数年後、南アフリカ共和国(ZAR)の
   ポール・クルーガー大統領
は外国人の数がボーア人を上回ることを懸念し、これを阻止する措置を講じた。
 クルーガーは、バンチェスとその対策を話し合った。バンチェスの父親である
   ヤン・ゲリッツェ・バンチェス
は、クルーガーが少年だった頃、グレート・トレッキング中に教育を受けていた。
 対策の一つは、勢いを鈍らせるために外国人へのダイナマイト販売に重税を課すものだった。
 ただ、これは鉱山労働者を激怒させ、イギリス人はこれを自分たちの金鉱脈の所有権を主張する理由とみなした。

 ジェイムソン襲撃が続き、セシル・ローズに注目が集まった。
 ジェイムソン襲撃はローズによって支援され、リーアンダー・スター・ジェイムソン卿が指揮した。
 その目的は、トランスバール政府を打倒し、この地域をイギリスの植民地に変えることであった。
 武装蜂起に参加した男性は500人で、 21人が殺害され、多くが逮捕され、裁判を受けて判決を受けた。

 フェレイラのキャンプの鉱山村は、金を求める人々がこの地域に定住した。
 その後、正式に集落として整備された。
 当初、ZARは金が長く続くとは信じておらず、できるだけ多くの区画を詰め込むために小さな三角形の土地を計画した。

 ヨハネスブルグの中央ビジネス地区の通りが非常に狭いのはこの時の土地区分が背景にあるためという。
 ヨハネスブルグという名前の由来や、オランダの一般的な名前であるヨハネスにちなんでこの都市が名付けられたかについては論争がある。
 一説によると、この名前は、新市街のレイアウトのためのエリアを選択するために派遣された二人の州測量官
   ヨハン・リシック
   クリスチャン・ヨハネス・ジュベール
にちなんで付けられたというものがある。

 金発見から10 年以内にこの町は南アフリカ最大となり、200 年以上古いケープタウンよりも早く成長した。
 ゴールド ラッシュではヨハネスブルグとウィットウォータースランドが大規模に開発され、今日この地域は南アフリカの主要都市圏となっている。
 ゴールドラッシュの結果の 1 つは、アフリカのこの地域に
   最初の鉄道路線
が建設されたことである。

 1880 年代のウィットウォータースランドの金鉱床の急速な開発と成長産業による石炭需要の結果、1888 年7 月 20 日に南アフリカランド政府によりオランダ南アフリカ鉄道会社(NZASM)に利権が与えられました。
 ヨハネスブルグからボクスブルグまでの25キロメートル(16マイル)の鉄道線を建設した。
 この路線は 1890 年 3 月 17 日に開通し、最初の列車は14 トンの機関車によって牽引された。
 鉄道であり路面電車の交通専用ではなかったが、「ランドトラム」として知られるようになった。
 これはトランスバールで最初に実用化された鉄道路線である。

 ウィットウォータースランドでの金の発見は、ランドロードとして知られる超富裕層の鉱山労働者や実業家を生み出した。
 多くの地主がパークタウン リッジに大規模な不動産や邸宅を建てた。

   
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2024年06月08日

賢者は考えを変えるが、愚者はけっして変えない。

 「君子豹変」というと態度や意見が
   コロコロ変わる軽薄な奴という意味
で使われている。
 また、日本には「武士に二言はない」なんて言葉があるように、こういう人間は軽蔑されている。
 しかし、本来の「君子豹変」とは、君子(立派な人)は自分の過ちを改めるときには、豹の斑文がはっきりしているように、はっきりと過ちを認めるという意味もある。

 相場の世界も、日々パラメーターが動いているため、既に状況が変わっているのに最初の考えにいつまでも固執していると、
   時に命取り
にもなりかねない。
 間違ったときは素直に「君子豹変」でよい。

 日本銀行が異次元の金融政策が時間経過とともに役に立たなくなる中で、方向転換できないのと同じだ。
 都合が置い経済統計の数値を情報する姿勢自体が誤りであり、経済理論が常に書き換わってきた意識の変化が読み切れていない。

    
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2024年06月05日

マーケットでトレードする正しい方法は一つではない。自分がどんな人間なのかを知り、自分にとって心地よい投資手法を採用すればい。

マーケットでトレードする正しい方法は一つではない。自分がどんな人間なのかを知り、自分にとって心地よい投資手法を採用すればい。
 マーケットの魔術師に登場する
は自分の個性に合ったトレーディング・スタイルをとることが極めて重要だといっています。
 つまり、自分らしさを追及し知識や情報に慣れたスタイルで無理をしないで投資するということが大切です。

 他人がデイ・トレードで成功しているのを見るとデイトレードが最高の手法のように思い込んだり、また、ある人が長期投資で成果を上げていると、やっぱり投資は長期間持つべきだと考えるなど、自分の考えがコロコロ変わる人がいます。
 いつだって隣の芝は青く見えるもの。

 陸上競技にしても短距離が得意な人もいれば長距離が得意な人もいます。どちらが良いとか悪いとかいう問題ではない。
 1時間おきに株価を確認しなければ気がすまない人に長期投資を勧めても、それは拷問に近いアドバイスだ。
 じっくり考えてから行動する人にはデイ・トレードなどで成功できることも少ない。
 なにが儲かるかではなく、自分が何に向いているかを見極めることが一番大切なこと。

 投資選択で負けたことがないといっても、短時間で稼ぐのであればよいが、投資判断を誤り時期の夜道替えでその後下がってしばらく塩漬け、その後反転して利益を得ても大勢的には成功したが、短期では投資判断の時期の夜道替えであり、失敗を覆い隠したに過ぎない。

   
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2024年06月04日

負ける人は、なんとか負け金を払える余裕があるから負けるのである。

 麻雀を題材としたギャンブル小説の作家 阿佐田哲也(色川 武大)さんが書いた一節です。
 負ける余裕がないカネを相場や博打に使うのは背水の陣を布いている状況であとがないため、意識的には高揚するかもしれないがメンタル的な余裕がなく、よく周り見えず、見えた情報でも客観的な判断できないため、これは全く論外と呼ばれる心持だ。
 逆に、余裕が有り過ぎる状態も執着心がなくなり周囲を見ることも大雑把になることや緊張感をなくし、勝負勘を鈍くすることにつながることとなる。

 ウォール街の格言にも同様のことで
   「人間の一生に投機をしてはならない時が二度ある」
として投機をする余裕のない時と余裕のある時がそれだとある。
   
   
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2024年06月02日

ラザログループ(Lazarus Group  Guardians of Peace Whois Team) 北朝鮮情報機関に属する犯罪組織

ラザログループ(Lazarus Group  Guardians of Peace Whois Team)
 北朝鮮政府によって運営されているとされる、不詳の個人で構成されるハッカーグループ
 Lazarus Group については詳細は不明だが、研究者らは 2010 年以降
   多くのサイバー攻撃
が彼らによるものであると指摘している。
 サイバーセキュリティ組織によって付けられた名前には、Hidden Cobra (米国土安全保障省が北朝鮮政府による悪意のあるサイバー活動全般を指すために使用) やZINCまたはDiamond Sleet( Microsoftによる)などがある。
 元北朝鮮偵察総局幹部工作員で脱北者のキム・グクソン氏によると、この部隊は北朝鮮内部では414連絡事務所として知られていると明かした。
 
 ラザロ・グループは北朝鮮政府と強いつながりを持っており、米国司法省は、このグループが「世界的なサイバーセキュリティを弱体化し、…制裁に違反して違法な収益を生み出す」という北朝鮮政府の戦略の一部であると主張した。
 北朝鮮は、特に韓国に対して、少数のオペレーターグループに対して非対称的な脅威を与える目的で
   サイバー作戦
を実施することで犯罪利益等を得ている。
 このグループが関与したと知られている最も古い攻撃は、2009 年から 2012 年にかけて行われた
   「トロイ作戦​​」
として知られ、ソウルの韓国政府に対する洗練されていない分散型サービス拒否攻撃(DDoS) 技術を利用したサイバースパイ活動である。
 彼らは2011年と2013年の攻撃にも関与していた。
 ただ、2007年の韓国を標的とした攻撃にも彼らが関与していた可能性はある。

 このグループで知られる注目すべき攻撃は、2014年11月24日の
   ソニー・ピクチャーズ
への攻撃がある。
 この攻撃を桁ソニー・ピクチャーズは未知の手段でハッキングされたと公開した。
 加害者らは自らを「平和の守護者」と名乗ったうえ、大量のデータが盗まれ、攻撃後の数日間でゆっくりと漏洩し続けた。
 このグループの一員であると主張する人物へのメディア等のインタビューでは、彼らが 1 年以上にわたってソニーのデータを吸い上げていたと明らかにした。
 また、ハッカーらは、未公開の映画、特定の映画の脚本、今後の映画の計画、会社役員の給与に関する情報、電子メール、および約 4,000 人の従業員の個人情報にアクセスすることができたという。

 2015 年にエクアドルの銀行から 1,200 万米ドル、ベトナムのティエンフォン銀行から 100 万米ドルを盗んだと報告されている。
 また、ポーランドとメキシコの銀行も標的にした。

 2016 年ノベッタ率いるセキュリティ企業連合は「オペレーション ブロックバスター」の名の下、さまざまなサイバー セキュリティ インシデントで見つかった
   マルウェア サンプル
を分析することができた。
 そのデータを使用して、チームはハッカーが使用した手法を分析した。
 彼らは、コードの再利用パターンを通じて Lazarus グループを多数の攻撃に結び付けた。

 2016年の銀行強盗ではバングラデシュ銀行への攻撃が含まれる。
 バングラデシュ銀行サイバー強盗では、2016 年 2 月に発生した窃盗事件でバングラデシュ中央銀行に属する
   ニューヨーク地区連邦準備銀行
の口座から 10 億米ドル近くを違法に送金するため
   SWIFT ネットワーク
を介してセキュリティ ハッカーによって 35 件の不正な指示が発行された。
 この事件では35件の不正指示のうち5件は1億100万ドルの送金に成功し、このうち2千万ドルがスリランカに、8千100万ドルがフィリピンに送金された。
 ニューヨーク地区連銀は、指示のスペルミスによって生じた疑惑を理由に、残り30件(総額8億5000万ドル)の取引をブロックし阻止した。
 サイバーセキュリティ専門家は、北朝鮮に本拠を置くLazarus Groupが攻撃の背後にいると主張した。

 2017年、台湾極東国際銀行から6,000万米ドルを盗んだと報告された。
 ただ、実際に盗まれた金額は不明であり、資金のほとんどは回収されている。

 WannaCry攻撃では、 2017年5月12日に英国の NHSからボーイング、さらには中国の大学に至るまで、世界中の機関を襲った
   大規模なランサムウェア サイバー攻撃
が行われた。
 攻撃は7時間19分続き、ユーロポールは、150か国の約20万台のコンピューターに影響を及ぼし、主にロシア、インド、ウクライナ、台湾に影響を及ぼしたと推定している。
 これは、クリプトワームを介した最初の攻撃の 1 つであったという。
 クリプトワームは、TCP ポート 445 を悪用し、ネットワークを使用してコンピュータ間を移動できる最近のコンピュータ ウイルスです[34] )。感染するために、不正なリンクをクリックする必要もない。

 マルウェアは、コンピュータから接続されているプリンタに、さらにそこから隣接するコンピュータ (おそらく Wi-Fi に接続されているなど) に自律的に拡散する可能性がある。
 ポート 445 の脆弱性により、マルウェアはイントラネット上を自由に移動し、数千台のコンピュータに急速に感染した。
 Wanacry 攻撃は、クリプトワームの最初の大規模な使用の 1 つであった。

 カスペルスキー研究所は2017 年に、Lazarus はスパイ行為や侵入サイバー攻撃に集中する傾向があるのに対し、カスペルスキーが
   Bluenoroff
と呼ぶ組織内のサブグループは金融サイバー攻撃を専門としていると報告した。
 カスペルスキーは世界中で複数の攻撃を発見し、ブルーノロフと北朝鮮の間の直接リンク ( IP アドレス) を発見している。

 ただ、カスペルスキーは世界規模の
   WannaCryワームサイバー攻撃
が NSA の手法もコピーしていたことを考慮すると、コードの反復は捜査員を誤解させ、攻撃を北朝鮮に特定することを目的とした「偽旗」である可能性があることも認めている。
 このランサムウェアは、 Shadow Brokersとして知られるハッカー グループが2017 年 4 月に公開した、EternalBlueとして知られる NSA エクスプロイトを利用していた。
 Symantecは 2017 年に、Lazarus が WannaCry 攻撃の背後にいる可能性が「非常に高い」と報告した。

 2018年、レコーデッド・フューチャーは、主に韓国の仮想通貨ビットコインとモネロのユーザーに対する攻撃にラザルス・グループを関連づける報告書を発表した。
 これらの攻撃は、WannaCry ランサムウェアを使用した以前の攻撃や、ソニー ピクチャーズに対する攻撃と技術的に類似していると報告されている。
 Lazarus ハッカーが使用した戦術の 1 つは、韓国のワープロ ソフトウェア
   Hancom
のハングルの脆弱性を悪用したもの。
 また、別の戦術は、マルウェアを含む
   スピアフィッシングルアー
を使用しており、韓国の学生やコインリンクなどの仮想通貨取引所のユーザーに送信された。
 ユーザーがマルウェアを開いた場合に電子メール アドレスとパスワードが盗まれた。

 Coinlinkでは自社サイトやユーザーの電子メールとパスワードがハッキングされたことを否定した。
 報告書は、「この 2017 年後半犯罪活動では、暗号通貨に対する北朝鮮の関心の継続であり、マイニング、ランサムウェア、および完全な窃盗を含む幅広い活動を包含していることが現在わかっています...」と結論付けた。
 また、北朝鮮は国際的な金融制裁を回避するためにこれらの仮想通貨攻撃を利用していると続けた。

 2017 年 2 月、北朝鮮のハッカーが韓国の取引所Bithumbから 700 万米ドルを盗んだ。
 韓国の別のビットコイン取引所である Youbit は、以前の攻撃に続くサイバー攻撃によって資産の 17% が盗まれた。
 その後、2017 年 12 月に破産を申請した。
 ラザロと北朝鮮のハッカーが攻撃を実行したと見られる。

 仮想通貨クラウドマイニング市場であるNicehash は、2017 年 12 月に 4,500 ビットコイン以上を失った。
 調査に関する最新情報では、この攻撃は Lazarus Group に関連していると言われている。

 2019 年 9 月中旬、米国は、ElectricFish と呼ばれるマルウェアの新バージョンに関する一般警告を行った。
 2019年の初め以来、北朝鮮の工作員は世界中で5件の大規模なサイバー窃盗を試みた。
 その中にはクウェートの機関からの4,900万ドルの窃盗事件も含まれている。[
 
 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックにより、製薬会社がラザラス・グループの主要な標的となった。
 Lazarus グループのメンバーは、スピア フィッシング手法を使用して保健当局を装い、悪意のあるリンクを使って製薬会社の従業員に連絡しました。
 複数の大手製薬会社が標的になったと考えられているが、確認されているのは英国スウェーデン資本の
   アストラゼネカ
だけだ。
 ロイター通信の報道では、アストラゼネカの幅広い従業員が標的となり、その中には新型コロナウイルス感染症ワクチン研究に携わる従業員も含まれていたという。
 これらの攻撃における Lazarus グループの目的は不明。
  
 2022 年 3 月、Lazarus Group は、 Axie Infinityゲームで使用されるブリッジである Ronin Network から 6 億ドル相当を盗んだことが判明した。
 FBIは、「調査を通じて、[北朝鮮]に関連するサイバー攻撃者であるLazarus GroupとAPT38が窃盗に関与していることを確認することができた」と述べた。 
 FBI は、2022 年 6 月 24 日に報告されたハーモニーの
   ホライズン ブリッジ
からの 1 億ドルの仮想通貨盗難事件について、北朝鮮の悪意のあるサイバー攻撃者グループ Lazarus (APT38 としても知られる) が関与していたことを確認した。

 ブロックチェーンセキュリティプラットフォームのImmunefiが発行した報告書では、2023年の
   暗号通貨ハッキング事件全体で3億ドル以上の損失
を被ったのはLazarusだと主張している。
 この金額は、今年の損失総額の17.6%に相当する。 
 2023年6月に、1億ドルを超える暗号通貨がAtomic Walletサービスのユーザーから盗まれた。
 なお、これは後にFBIによって確認された。[
 
 2023年9月、FBIは、オンラインカジノおよび賭博プラットフォームであるStake.comからの4,100万ドルの暗号通貨の盗難がLazarus Groupによって実行されたことを認めた。 

 2022 年 4 月 14 日、米国財務省OFACは北朝鮮制裁規則第 510.214 条に基づいてLazarus をSDN リストに加えた。

 北朝鮮のハッカーは職業訓練のため中国の瀋陽に派遣され、あらゆる種類のマルウェアをコンピュータ、コンピュータ ネットワーク、およびサーバーに展開するように訓練されている。
 北朝鮮国内の教育機関には、金策工科大学、金日成大学、モランボン大学があり、全国から最も優秀な学生を選抜し、6年間の特殊教育を受けさせ情報工作員として育成しているという。

 ブルーノロフ(BlueNorOff  別名: APT38、Stardust Chollima、BeagleBoyz、NICKEL GLADSTONE [60] ) は、 SWIFTからの注文を偽造することによる違法な送金を担当する金銭目的のグループのこと。
 ブルーノロフは、 APT38 ( Mandiantによる) およびStardust Chollima ( Crowdstrikeによる)とも呼ばれる。

 米軍の2020年の報告書によると、ブルーノロフの構成員は約1,700人で、長期的な評価に集中し、敵のネットワークの脆弱性やシステムを悪用して政権の金銭的利益を得る、あるいはシステムを掌握するという金融サイバー犯罪を実行している。
 彼らは、2014 年から 2021 年の間にバングラデシュ、インド、メキシコ、パキスタン、フィリピン、韓国、台湾、トルコ、チリ、ベトナムの少なくとも 13 か国[a]の 16 以上の組織を含む金融機関と仮想通貨取引所をターゲットにしてきた。
 この収益はミサイルや核技術の開発に充てられると考えられている。
  
 アンダリアル(AndAriel Andaria、別名: Silent Chollima、Dark Soul、Rifle、Wassonite ) は、韓国をターゲットにしているという点で兵站的に特徴付けられている。
 韓国のどの組織も アンダリアルに対して脆弱と言われており、標的には、政府、国防、あらゆる経済的象徴が含まれている。

 米軍の2020年の報告書によると、アンダリアルには約1,600人の隊員がおり、その任務は偵察、ネットワークの脆弱性の評価、潜在的な攻撃に備えて敵のネットワークをマッピングすることと言われる。
 彼らは韓国に加えて、他の政府、インフラ、企業も標的にしている。
 攻撃ベクトルには、ActiveX、韓国ソフトウェアの脆弱性、水飲み場攻撃、スピア フィッシング(マクロ)、IT 管理製品 (ウイルス対策、PMS)、サプライ チェーン(インストーラーとアップデーター) が含まれる。
 使用されたマルウェアには、Aryan、Gh0st RAT、Rifdoor、Phandoor、およびAndarat が含まれる。

 2021年2月、米国司法省は、北朝鮮の軍事情報機関である偵察総局のメンバー3名
   ジン・ヒョク
   ジョン・チャンヒョク
   キム・イル・パク
をラザロの複数のハッキングキャンペーンに参加した罪で起訴した。
 ジン・ヒョクは2018年9月初めにすでに起訴されていたが、彼らは米国で拘留されていない。
 また、カナダ人1名と中国人2名も、ラザロ・グループのマネー・ミュールおよび資金洗浄を行った容疑で起訴された。
  
    
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2024年05月17日

ハザール王国 コーカサス系の白人である遊牧民族

ハザール王国(Khazar הכוזרים)
 ハザール人は7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えたコーカサス系の白人である遊牧民族。
 アジアとヨーロッパを結ぶ回廊ともいうべきこの草原地帯には多種多様な民族が居住していた。

 東方の旅行家・地誌家やビザンチン帝国(東ローマ帝国)の著作家などは、これら諸民族が絡む様々な事件・事変についての記録を後世に残している。
 なお、ハザール人がいつ頃からか、この地域に登場したのか、具体的な記録はない。
 448年、ビザンチン帝国からフン族の
   アッチラ大王
への使節団報告の中にフン族の配下で活動しるハザール人が
   「戦士民族」
として記述されているのが初見でもある。

 アッチラ大王の死後、フン帝国は内部の権力抗争から分裂して崩壊した。
 東ヨーロッパに権力の空白地が生じたため、上からの重しがなくなった戦闘員として活動していた諸民族は自立し、他の遊牧民も肥沃な土地を求めた周囲から押し寄せてきた。

 6世紀初頭、ササン朝ペルシア帝国の
   カワード1世
の治世にはハザール人はコーカサスの北方地域であるグルジア、アルバニア、アルメニアを占領 し領土を確保した。

 6世紀半ば、カワード1世の息子である
   ホスロー1世
の治世にも、ハザール人のペルシア国境地帯、特にアルメニアとアルバニアへの侵入は、止むことが なかったとの記録がある。

 ハザール人は略奪行為を繰り返し、資金が潤沢となったことから軍事力を強化して、コーカサスの北にいる種族の中で最も力のある種族となった。
 ハザール人は軍事力を高めて台頭してきた
   突厥(西トルコ帝国)
の配下に組み込まれるようになったが、帝国内でも最強の実戦部隊として同盟関係の下で活躍した。

 627年、ビザンチン帝国の
   ヘラクレイオス皇帝
は、ササン朝ペルシア軍との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結した。

 ハザール人はこの対ペルシア遠征軍 に4万人の援軍を出した。
 ビザンチン帝国軍はペルシアの首都クテシフォンに迫ったという。
 
 7世紀中頃、権威を誇っていた突厥(西トルコ帝国)は権力争いが激化して分裂し滅び、カスピ海沿岸草原において
   ハザール王国(ハザール汗国)
が支配層と入れ変わり、ハザール人は自らを「西突厥」の継承者と名乗った。
 ハザール人は周辺民族を吸収しながら軍事的な勢力を急速に拡大した。
 支配領域は広がりアゾフ海沿岸のブルガール人を服属させた。
 また、黒海沿岸北部も手中に納め、クリミアの草原の大部分を占めるまで広がった。

 
 ハザール王国は北コーカサスの山麓や隣接草原において勢力を拡大して国力を充実させていった。
 同時期に、イスラム教の宗教国家である
   アラブ帝国(イスラム帝国)
が中東地域や北アフリカで台頭し、シリアとメソポタミアを蹂躙した。

 その後、7世紀の半ばから、アラブ軍は組織的に裏コーカサス地域の攻撃を繰り返し、金品財法化ら穀物、奴隷などの略奪を欲しいままにするようになった。

 アラブ軍は繰り返しハザール王国の領土に侵入し都市を略奪したうえ破壊し、集落を焼き払った。 
 また、兵を養わせないように耕地・農園を蹂躙し荒らしたのち冬営地から家畜群を強奪し、住民を捕らえて、奴隷として連れ去るのを常としていた。
 ハザール王国とアラブ帝国の間で起きた大きな戦闘としては653年の「第1次アラブ戦争」と、721年の「第2次アラブ戦争」があった。
 「第1次アラブ戦争」は、アラブ軍がハザール王国に遠征したものの地の利を生かされ撃破された。

 また、「第2次アラブ戦争」はアルメニア総督
   ジェラーフ・イブン・アブダラーフ・アル・ハカミ
が率いるアラブ軍がハザール王国に遠征して、ベレンジェを攻略したのがきっかけで始まり、737年までの16年間続いた。

 この「第2次アラブ戦争」において、アラブ遠征軍に攻撃されたハザール軍は、アルバニアに侵入して
   アルデビール要塞
を攻略し、アラブ軍を撃滅した。

 アルメニア・アゼルバイジャンの総督を務めていた
   マルワーン将軍
が率いるアラブ軍がアルデビール要塞支援のため遠征し、ハザール軍に対して2つの峠から奇襲をかけてボルガ川まで退却させている。
 最終的に、アラブの将軍マルワーンに講和を求め ることを余儀なくされた。

 「第2次アラブ戦争」は、アラブ史料によれば双方合わせて10万あるいは30万の兵士が従軍したという。

 そして、マルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラブ将軍となった。
 これ以降、ハザール王国とアラブ人の戦争に関する記録はない。


 650年に成立したアラブ帝国は、711年にジブラルタルを渡ってスペインに侵入した。
 領土を拡大しながらピレネー山脈をこえてフランク王国の領土にはいった。
 732年トゥール・ポワ ティエでフランク王国と劇獲るしたが敗北し、西への進出は終了した。

 東は中央アジアまで進出したが、751年
   タラス河畔の戦い
で唐に敗れ、100年間におよんだアラブの征服戦争は終了した。

 
 ハザール王国はササン朝ペルシア帝国、ついでアラブ帝国と激しい戦いを繰り返した。
 両国と敵対していたビザンチン帝国(東ローマ帝国)とは同盟関係にあり、ハザール王国はしばしばビザンチン帝国の敵と戦った。


 8世紀のアラブ侵略以後、ハザール王国の首都はカスピ海沿岸西岸のサマンダルに遷都し、最後にボルガ河口のイティルに移った。

 ハザール王国の南方の前線は平定され、イスラム教国との関係安定してきたため暗黙の停戦協定にまで至った。
 
 ビザンチン帝国の前皇帝コンスタンチヌス5世と、ハザールの王女チチャクとの間に生まれた
   レオン4世
はハザール王室の血を持つ皇帝で、「ハザールのレオン」と呼ばれていた。

 
 アラブ帝国の侵攻が止まったのち、新たな強敵が北方から台頭してきた。
 バイキングと呼ばれる北方部族ルス人(後のロシア人)である。

 834年、ハザール王はビ ザンチン帝国に、北方への防御(対ルス人対策)のための砦を築くための援助を求め、直ちに建設された。こうして「サルケル砦」が誕生した。

 この「サルケル砦」のおかげで、ドン川の下流域や、ドン・ボルガ水路に沿ったルス人の艦隊の動きを封じることができた。10世紀半ばまでの間、全体 として見ると、ルス人の略奪は主としてビザンチン帝国に向けられていた。それに対してハザール人とは、摩擦や時には衝突はあったものの、本質的には交易を 基礎とした関係を結んでいた。ハザール人は、ルス人の交易ルートを押さえることができ、ビザンチン帝国やイスラム教国を目指して国を通り抜けていく全ての 貨物に10%の税金を課すこともできた。
 
 この時期のハザール王国内では、国の未来を左右する大きな変動が生じていた。9世紀初頭のオバデア王の国政改革(799〜809年)でユダヤ 教に改宗してしまったのである。これによってハザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外のユダヤ教国家」となった。
 しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は、次第に悪い結果を生み出していった。

 もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイ ク国家であった。
 ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、なんとかハザール人によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すことに なっていった。

 ハザール人の貴族同士の間では、ユダヤ教を受容する王国中心部のグループと、首都とは没交渉に近い地方在住のグループの対立が目立つようになった。
 そし てついに835年頃、内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると、反乱者の一部は皆殺しにされた。
 一部は国外に逃れた。
 この事件は、反乱を起こした有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれている。
 この有力貴族は家族とともにボルガのロストフの地に亡命した。

 このロ ストフはルス人の商人団が築いた根拠地のひとつであり、ここでルス商人団の長の娘とハザール人の反乱貴族の息子との婚姻が行なわれた。こうして「ルーシ・ ハン国」(後のキエフ・ロシア国の前身)が成立した。
 862年、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた。ルス人リューリク大公の配下が、それまでハザール王国の支配下にあったドニエプル川沿いの重要都市キエフを無血併合した。
 キエフという名前は、もともとはハザールの将軍クイの砦からついた名前。
 このキエフはルス人の町として発展し、「ロシアの町の母」となった。
 この町の名をとった公国「キエフ・ロシア国(キエフ・ルーシ)」が、最初の ロシア国家の揺籃となった。

 ルス人がキエフに住み着いてから、ビザンチン帝国に対するルス人の脅威はますます増加し、この後200年の間、ビザンチン帝国 とルス人の関係は武装闘争と友好的条約の間を行ったり来たりした。

 ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国は、浮き沈みはありながらも次第に親交を深め合うようになった。
 それにつれてハザール王国の重要性は減少していった。

 ハ ザール人の王国は、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の通商ルートを横切っており、増大する物資の流れに10%の税をかけるハザール人の存在は、ビザンチ ン帝国の国庫にとってもキエフ・ロシア国の戦士商人にとってもストレスの原因となっていった。

 9世紀末あたりから、ルス人の艦隊が、ハザールの海「カスピ海」沿岸を侵略するようになった。
 そして913年、800隻からなるルス人の大艦隊が襲いかかり、事態は武力衝突へと進展し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行なわれた。 
 この侵攻によって、ルス人はカスピ海に足場を築いた。

 965年、キエフ・ロシア国のスビャトスラフによって、ハザールの防衛の「サルケル砦」が陥落した。
 このあと、ハザール王国の首都イティルも攻撃を受けた。

 『原初年代記』によれば、986年にハザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したと記述されtレイルる。
 しかし ウラジーミル大公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れた。
 この地にキリスト教文化を広めるた。
 これ以後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意をもって見られるようになった。

 同じ時期にウラジーミル大公はビザンチン帝国の王女アンナと結婚した。
 これによって、ハザール王国とビザンチン帝国の「対ロシア同盟」は終焉した。
 それに代わって、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」が成立した。
 当時、この地域で帝国としての地位を認められていたのは、ビザンチン帝国、アラブ帝国(アッバース朝)、それとハザール王国の3つである。
 
 ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」ができてから数年後の1016年、ビザンチン・ロシア連合軍はハザール王国に侵入し、ハザール王国は再び敗北を喫した。

 ハザール王国東部諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き払われた。
 ハザール王国のクリミア半島含む西部方面では、比較的被害は少なかったが、都市は荒れて交易路も乱れた。

 10世紀半ばの首都イティル陥落によってハザール王国は大きなダメージを受けた。
 なお、それ以後13世紀半ばまで、領土こそ縮小したものの独立を保ち、なんとかユダヤ教の信仰を維持し続けた。

 ハザール・ユダヤ人のコミュニティは、もとハザール王国の重要都市であったキエフの町の中にも近郊にも存在した。
 ハザール王国の崩壊期 に、ハザール人が多く流入して強化された。 

 キエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握った。
 西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇るようになった。
 ロシア人とそのスラブ系臣民は、草原の遊牧民戦士たちが駆使する機動戦略、ゲリラ戦法に対処できなかった。

 遊牧民の絶え間ない圧迫の結果、ロシア戦力の中核は徐々に南の草原地帯から北の森林地帯へ、ガリチア、ノブゴロド、モスクワの大公国へと移っていった。

 ビザンチン帝国は、新たな同盟国であるキエフ・ロシア国が、ハザール王国の後継として東ヨーロッパの護衛と通商の中心になるだろうと計算していた。しかし、キエフの衰退は速かった。独立した大公国が互いに果てしなく争いあう空 白の時期が続いたためだ。
 力の空白地帯に新たに乗り込んできたのが遊牧民族の
   クマン人(ポロヴェツ人)
で、ハンガリーに至るまでの草原地帯を11世紀終わりから13世紀にかけて支配した。
 1223年、ロシアの地にモンゴル軍が出現した。
 この時のモンゴル軍はチンギス・ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした。

 1236年、チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫の
   バトゥ・ハン
がヨーロッパ遠征に出発した。
 ボルガ河畔からロシアに侵入したバ トゥ・ハンの遠征軍は、キエフ・ロシア国を壊滅させ(キエフ占領)、ロシアの主要都市を次々と攻略した。更にその一隊は、ポーランド、ハンガリーまで攻め 込んだ。

 バトゥ・ハンの遠征軍はヨーロッパ世界に脅威を与えた。
 ただ、オゴタイ・ハンが没すると、バトゥ・ハンの遠征軍はボルガ川畔まで後退し、カスピ海に注ぐボルガ川下流のサライを首都として「キプチャク汗国」を建てた(1243年)。
 こうして、「キプチャク汗国」はロシアの大部分を支配したうえ、その領土の外側にあった諸公国も従属関係に入り、「タタールのくびき」が始まった。

 「キプチャク汗国」が首都にした都市サライは、またの名をイティルと呼ばれ、ハザール王国の首都だった都市である。

 ハザール王国がいつ滅亡したのか具体的な記録は残されていない。
 この時期1243年、ハザールの中心部はバトゥ・ハンの権力下に吸収され、ハザール王国は「完全に崩壊」した。

 1245年、ローマ教皇イノセント4世は、「キプチャク汗国」のバトゥ・ハンに使節団を送った。
 新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主 な目的であった。
 使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って、1年後にボルガ川下流にある「キプチャク汗国」の首都に無事到着し た。

 この使節団の長だった修道士
   カルピニ
は、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。
 その歴史的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼 が訪れた地域に住む人々のリストも残されている。
 そのリストの中で北部コーカサスの人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と並んで「ユダヤ教を信じるハザー ル人」の名がある。
  

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2024年04月02日

ローン担保証券(Collateralized Loan Obligation CLO)

ローン担保証券はCollateralized Loan Obligationの和訳 略称ではCLO
 資産担保証券の一種で、金融機関が事業会社などに対して貸し出している
   貸付債権(ローン)
を証券化したもの。
 ローンの元利金を担保にして発行される債券のこと。
 
 金融機関にとっては、元来流動性の劣る貸出資産を、ローンより市場性の高い債券の形態にすることができ、より機動的に資金を調達することができるというメリットがある。
 金融機関がローンを特別目的会社に譲渡し、特別目的会社が債券を組成し、投資家がこれを購入するという仕組み。
 そして、ローンからの元利金を投資家が受け取るという仕組みが一般的で、金融機関は保有するリスクをヘッジしほぼゼロにして、手数料を稼ぐ事ができる。
 CLOでは、シニア債・メザニン債・劣後債といった支払優先順位の異なる数種類の債券が組成される。
 ローンからの元利金は支払優先順位の高い順に支払われ、リスクの高いものほで金利は高くなる。
 そのため、発行体が同一であっても、階層の異なる債券ごとに、それぞれ異なった格付けが付与される。

 CLOは、リスク・リターンの選好が異なる様々な層の投資家に対して、投資機会を提供することができ、個別企業の発行する債券にはない投資機会を提供することができるとされている。

 なお、リーマンショックを引き起こしたサブプライム住宅ローン危機の結果、モーゲージ債または CLO の形での融資需要はほぼ停止し、2008 年と 2009 年の発行はごくわずかであった。
 その後、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドのアナリストのデータによると、米国のローン担保ローン市場は2012年に生まれ変わり、新規発行CLO量は前年の4倍となり、552億ドルに達した。

 バークレイズ、RBS、野村などの大手企業は、信用危機以前から初めての取引を開始している。
 また、投資手段としてのCLOに対する市場の信頼の回復を反映して、 Onex、Valcour、Kramer Van Kirk、Och Ziffなどの小規模企業もCLO市場に初めて参入した。

 それ以来、CLO発行額は急増し
   金利上昇
とトレンドを下回る
   デフォルト率
の組み合わせにより、米国における2013年通年のCLO発行額は819億ドルに達した。
 これはリーマン以前の2006〜2007年以来の最高額である。

 米国の CLO 市場は 2014 年にさらに勢いを増し、発行額は 1,241 億ドルとなった。
 これまでの記録だった 2006 年の 970 億ドルを軽く超えている。

 投資家が2016年末に発効される
   新しいリスク保持規則
に注目したため、2015年にはCLOの発行量が減少した。
 これらの(リスク保持ルール)規則は、(売り逃げを予防する措置として)とりわけ、運用会社に全体の規模の5%を保持することを要求している。
 その結果、CLOの発行額は2015年には973億4,000万ドルまで減少し、年末には大幅に減速した。
 その後、レバレッジド・ローンとして2016年初めの数カ月にはほとんど閉鎖されてしまった。

 リスク保持ルールに対応して、サンカス・キャピタル・マネジメントは適用証拠金リセット (AMR)プロトコルを開発した。
 これにより、2016 年 12 月より前に発行された取引に対するリスク保持ルールに準拠する必要がなくなった。
 2018年2月、米国コロンビア特別区巡回区控訴裁判所は、CLOマネージャーはもはや5%のリスク保持ルールに従う必要はないとの判決を下した。
   
     
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