N・M・ロスチャイルド&サンズ (N M Rothschild & Sons)
ロンドンの名門投資銀行で世界屈指の企業向けの金融アドバイザー。
M&Aのアドバイザーとしては世界第7位。
1811年にロスチャイルド家の
マイアー・アムシェル・ロートシルトおよび息子の
ネイサン・メイアー・ロスチャイルドにより設立された。
19世紀前半、ナポレオン戦争の最中、ロンドンのロスチャイルド銀行は、イギリス政府による同盟国へ転送する資金の調達を先導していた。
各国に張り巡らした家族的な独自のネットワークによって、スペインとポルトガルに駐留していたウェリントン公の軍隊に資金を送ることができた。
1818年には、プロイセン政府に対する500万ポンドの融資を手配し、政府の債権を発行した。
政府の経済政策にからむ各種の計画に対して革新的かつ複雑な資金提供を行うことを銀行の主力業務として、19世紀の大半を費やし政府の意思決定に影響力を及ぼす仕組みを作り上げていった。
1825年までには、N・M・ロスチャイルド&サンズはシティにおける財政力が強大になり、イングランド銀行の通貨発行権を手に入れ、流動性の悪化を防ぐ術を構築することができた。
ロスチャイルドは1833年の奴隷制廃止法案の可決の為
150万ポンドを提供
したにも関わらず、奴隷制そのものにも携わっていた。
ネイサンの長男である
ライオネル・ド・ロスチャイルド
はロンドン支店長として成功を収めた。
支店長時代の特筆すべきは、1875年にエジプトが財政難からスエズ運河の株式を手放そうとした際に、当時のイギリス首相である
ディズレーリはこの株式を購入し、スエズ運河の筆頭株主になることを決断したがイングランド銀行から資金を下ろすためには時間の掛かる議会の承認が必要であった。
ただ、フランスも購入を狙っており、一刻を有する事態となっていた。
ディズレーリはライオネルへ使いを飛ばし、株式購入に必要な400万ポンドを借り入れた。
その際にディズレーリが担保にしたものはイギリス政府そのものだったという。
また、ライオネルはフランスに渡った叔父の
ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドのように鉄道業への投資を始めた。
1869年には、ライオネルの息子である
アルフレッド・ド・ロスチャイルド(1842–1918)
がイングランド銀行の理事に就任した。
それ以後20年間その役職に就き続けた。
アルフレッドは1892年にブリュッセルにおいて開催された
国際通貨会議
にイギリス代表の一人として出席した。
ロスチャイルド銀行は
セシル・ローズが発展させたイギリス南アフリカ会社に投資した。
1873年には
ド・ロスチルド・フレルス
と共同で他の投資家ととも参加し、赤字のスペイン国営
リオ・ティント銅鉱山を獲得した。
この会社を再編し、
リオ・ティント グループとして収益性の高い業務へと導いた。
1905年までには、ロスチャイルドの出資比率は30%を超えており、後の資源メジャーリオ・ティントグループとなっている。
1887年に、英仏ロスチャイルド家は南アフリカの
デビアスのダイヤモンド鉱山に出資し、筆頭株主となった。
1914年までにFRBの株を獲得し、米国の金融市場をコントロールするようにした。(
関連情報)
第一次世界大戦の後、ロスチャイルド銀行はアドバイザー業務へと着実に移行していき、ロンドン地下鉄を含む財政状態の悪い業務への融資を行った。
第二次世界大戦後、英仏ロスチャイルド家はロスチャイルド社となり、M&Aや資産管理が主力業務となった。
現在、世界中に57の事業所が存在する。
2010年、ナイジェル・ヒギンズがCEO(最高経営責任者)に就任し、200年以上続いた同族経営に幕を下ろした。
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posted by まねきねこ at 08:53| 愛知 ☁|
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貴金・鉱物資源会社
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