元禄小判(げんろくこばん)
江戸時代の元禄8年9月10日(1695年10月17日)から通用開始された一両としての額面を持つ小判のこと。
江戸時代の金貨としては慶長小判に次ぐもの。
元禄小判、元禄一分判および
元禄二朱判を総称して元禄金(げんろくきん)あるいは元字金(げんじきん)と呼ぶ。
小判の表面には鏨(たがね)による茣蓙目が刻まれている。
また、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹两」下部に「光次(花押)」の極印、
裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印、吹所の験極印さらに花押の左に「元」字が打印されている。
佐渡の金座においても鋳造され、「佐」の極印が打たれた
佐渡小判
についての記録がある。
小判師の験極印は「六」、「馬」、「沙」
吹所の験極印は「神」、「当」に限られるが現存は未確認。
ただ、江戸鋳造のものと同品位であるから実際には「佐」の極印は打たれなかったと推定される。
佐渡金山などからの産金は寛永年間を過ぎると衰退し始めた。
また、中国との生糸貿易などにより金銀が海外へ流出した。
新井白石の『本朝寳貨通用事略』によれば慶安元年/正保5年(1648年)より宝永5年(1708年)までの61年間に
金2,397,600両余
銀374,209貫余
が海外に貿易決済の資金として流出したとの記録がある。
江戸時代初期から、慶安元年までの流出高については、詳しい記録がない。
白石が慶安年間以降の数値を元に推定した値によれば、慶長6年(1601年)から宝永5年までに
金6,192,800両余
銀1,122,687貫余
の金銀が海外に流出したという。
太平の時代となり人口の増加に伴う経済発展により商業が発達して全国的市場圏が形成されるようになり通貨不足が顕著になっていった。
明暦3年(1657年)に江戸を焼き尽くした
明暦の大火
の復興に要した資金など、江戸の大火が度々発生したことで多額に登る出費は江戸幕府の蓄えを激しく消耗させる一因となった。
また、幕府直轄の金山からの産出も衰退していった。
5代将軍徳川綱吉の代に入って、浪人の増加から社会不安を引き起こしかね何外様大名等の取り潰しもあまり行われなくなり、天領もこれ以降増加することなく約400万石とほぼ固定化された。
一方で幕府の支出は増大し備蓄金銀分銅が出費のため吹潰されることが多くなりインフレが起きるようになった。
市場に流通する慶長小判は90年以上の流通により、磨耗、破損の著しいものが多くなり、切れ、軽め金などが大半を占めるようになり、修繕を必要とするものが多くなっていたのも要因とされる。
勘定吟味役の
荻原重秀
は貨幣の金銀含有量を下げ、通貨量を増大させる貨幣改鋳を行った。
慶長期には自宅家業である手前吹きであった貨幣鋳造方式を改め、江戸本郷霊雲寺近く吹所を設け、金座人および銀座人を集めて鋳造が行われた。
なお、この吹替えは吹所の火災により元禄11年11月(1698年12月頃)に終了した。
その後、金座人および銀座人は京橋および京都両替町の金座および銀座に復帰した。
以後も小判師を金座に集めて鋳造を行わせる直吹方式に変更することとなった。
吹替えは慶長小判2枚の地金に灰吹銀を加えて新たに小判3枚を鋳造すれば通貨量は1.5倍となり、かつ幕府には吹替えによる出目(改鋳利益)が得られるというものであった。
ただし、交換に際し慶長金に対し1%の増歩しか付けられなかったため、交換は思うようには進捗せず、良質の慶長金を退蔵する商人が多かったという。
元禄金は量目(質量)こそ慶長金に等しかったが、金に対し密度の低い銀を多く含むため分厚く白っぽいものとなったため品位が低下したことは誰の目にも明らかであった。
また、脆く折れやすいものとなったため、評判は甚だ悪いものであった。
この吹替えにより、東北地方を中心で飢饉が発生し物価が高騰したものの、通貨量増大が経済発展に見合うものであったため、貨幣経済が発展し元禄文化が開花した。
小判および一分判の通用停止は享保2年末(1718年1月30日)に行われた。
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posted by まねきねこ at 04:49| 愛知 ☀|
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