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2015年02月02日

半両銭 秦の始皇帝が銭貨を統一した。


 秦の始皇帝が古代中国の諸国を滅ぼしてはじめて統一すると、各地でばらばらの貨幣が使われていた状況を改めた。

 秦で用いられていた半両銭という環銭の形に銭貨を統一することになった。

 この半両銭という環銭は中心の穴が正方形であった。

 以降東アジアでは基本的に銭貨というと、この円形で中心の穴が正方形のものとなった。

 半両銭には、半両という漢字が刻まれている。

 半両の両とは、重さの単位で、当時、1両は24銖(しゅ、1銖は約0.67グラム)であったので、半両銭の重さは12銖、すなわち約8グラムとなる。

 金貨は1斤(20両)と1両(約16グラム)を単位として楕円形と方形の物が造られ、銀貨は1流(8両)を単位とする物が造られていた。
 

  
   
 
  
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2015年02月01日

青銅貨の始まり 中国の春秋戦国時代


 中国の春秋時代に入ると、青銅を鋳造して貨幣とするようになった。

 春秋時代は紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した紀元前403年までのこと。



 春秋戦国時代(紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代)に使われた青銅貨幣は大きく分けて、以下の4種類がある。
 
 
 
布貨(ふか)
    鋤(鏟)の形をしており、晋・斉・韓・魏・趙・燕で用いられた。
  布銭、布幣ともいう。

   

  
 
刀貨(とうか)
    包丁のような形をしており、斉・趙・燕・中山国で用いられた。
  刀銭ともいう。明刀と斉刀に大別される。

  狩猟・漁労用の小刀が原型とされる。

  
  

 
蟻鼻銭(ぎびせん)
    貝貨のような形をしており、楚で用いられた。
  また楚は金が多く採れる土地だったため、金貨の発見例が多い。
  
  

 
環銭(かんせん)
    円板の中心に丸あるいは正方形の穴を空けた形をしている。
  戦国時代の中期以降に用いられ、秦・韓・魏・趙などで用いられた。

  
 
 また、この頃から金貨や銀貨を高額の支払に用いる例が増えたとみられる。
 

  
   
 
  
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2015年01月29日

宋銭(そうせん)


 宋銭(そうせん) 

 中国宋代に鋳造された貨幣である銅銭のこと。
 北宋期の首都は開封であった。

 国名は宋だが中国の北半を支配した女真族の王朝の金に都の開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。


 宋代には辺境部である四川・陝西において、遼・西夏への銅の流出を防止するために、銅銭の所有・使用一切を禁じられて代わりに鉄銭が強制的に流通させられた鉄銭も鋳造された。



 宋朝(960年 - 1127年)は唐朝中央政府の統制が874年頃から
   「黄巣の乱」
などの騒乱に乗じた地方軍と地方財政を統括した各地の節度使勢力は自立色を強め税を収奪したため、国家体制を維持できなくなり唐が滅んだ。

 その後、五代十国時代(907年 - 960年)に
   趙匡胤(ちょう きょういん)
が五代最後の後周から禅譲を受けて建てたのが宋である。
  



 宋時代に使用されていた銅銭のことを指して宋銭と呼んでいる。


 建国当初の宋通元宝にはじまり、歴代の改元のたびに、その年号をつけた新銭を鋳造した。

 銅山の採掘と銅銭の鋳造は国家の経営により、鋳銭監・鋳銭院という役所で行われ、太平通宝・淳化元宝・至道元宝・咸平元宝・景徳元宝・祥符元宝といった銅銭が鋳造された。

 
 当初は、1個が1文(または1銭)の等価価値を持った通貨であり、これを小平銭(小銭)と称した。



 宋朝の財政がインフレ状態に陥り逼迫してくると、当5銭(5文銭)や当10銭(10文銭)という貨幣も鋳造されるようになった。

 建国当初の鋳造高は、年間70,000貫ほどであった。

 銅山の採掘が軌道に乗り、生産が増加すると次第に増鋳されて行き、神宗の治世時(1067年 - 1085年)には、6,000,000貫に達した。

 
 宋銭は、金や西夏、日本、東南アジア諸国のみならず、遠くは、ペルシアやアフリカ方面にも及び、ほぼ全アジアで流通した。


 金に開封を追い出され南遷すると宋王朝では経費が嵩む銅銭の鋳造が減り、紙幣を発行し銀と共に取引に使用されるようになった。

 
 宋銭の中には実際には宋代に鋳造されたものではないものも相当数含まれ、宋銭の私鋳が広く行われていた。
 

  
   
 
  
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2015年01月26日

二分金


二分金(にぶきん) 

 江戸時代に流通した金貨の一種である。

 金座および幕府関連資料に見られる正式名称は二分判(にぶばん)である。

 天保8年(1837年)の一分銀発行以降は
   「二分金
という名称で普及するようになった。

 
 江戸時代初期鋳造の慶長二分判も存在するものの試鋳貨幣的存在であるとされる。

 また、宝永小判は正徳小判発行後は二分判扱いとなった。


 形状は長方形短冊形で、 表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「二分」の文字、 下部に五三の桐紋が刻印されている。
 裏面には「光次」の署名と花押がある。

 種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている。

 額面としては2分であり、その貨幣価値は1/2両、また8朱に等しい。

 一朱金二朱金とともに 小判、一分金に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられ、補助貨幣的に用いられた。



 文政元年(1818年)に初めて発行され、明治維新後の明治2年(1869年)まで鋳造された。

 万延二分金一両分(2枚)=明治二分金一両分(2枚)=(新通貨単位)一円金貨という、貨幣基準で新貨幣単位「円」が定められた。
 これは二分金2枚の含有金量および銀量の地金価値の合計が、米国の1ドル金貨の実質価値に近いことも関係していたとみられる。



   
   
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2015年01月25日

元禄小判


元禄小判(げんろくこばん)

 江戸時代の元禄8年9月10日(1695年10月17日)から通用開始された一両としての額面を持つ小判のこと。

 江戸時代の金貨としては慶長小判に次ぐもの。

 元禄小判、元禄一分判および元禄二朱判を総称して元禄金(げんろくきん)あるいは元字金(げんじきん)と呼ぶ。

 
 小判の表面には鏨(たがね)による茣蓙目が刻まれている。
 また、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹两」下部に「光次(花押)」の極印、

 裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印、吹所の験極印さらに花押の左に「元」字が打印されている。

 
 佐渡の金座においても鋳造され、「佐」の極印が打たれた
   佐渡小判
についての記録がある。

 小判師の験極印は「六」、「馬」、「沙」
 吹所の験極印は「神」、「当」に限られるが現存は未確認。

 ただ、江戸鋳造のものと同品位であるから実際には「佐」の極印は打たれなかったと推定される。

 
 佐渡金山などからの産金は寛永年間を過ぎると衰退し始めた。

 また、中国との生糸貿易などにより金銀が海外へ流出した。

 新井白石の『本朝寳貨通用事略』によれば慶安元年/正保5年(1648年)より宝永5年(1708年)までの61年間に
   金2,397,600両余
   銀374,209貫余
が海外に貿易決済の資金として流出したとの記録がある。


 江戸時代初期から、慶安元年までの流出高については、詳しい記録がない。

 白石が慶安年間以降の数値を元に推定した値によれば、慶長6年(1601年)から宝永5年までに
   金6,192,800両余
   銀1,122,687貫余
の金銀が海外に流出したという。

 太平の時代となり人口の増加に伴う経済発展により商業が発達して全国的市場圏が形成されるようになり通貨不足が顕著になっていった。


 明暦3年(1657年)に江戸を焼き尽くした
   明暦の大火
の復興に要した資金など、江戸の大火が度々発生したことで多額に登る出費は江戸幕府の蓄えを激しく消耗させる一因となった。

 また、幕府直轄の金山からの産出も衰退していった。


 5代将軍徳川綱吉の代に入って、浪人の増加から社会不安を引き起こしかね何外様大名等の取り潰しもあまり行われなくなり、天領もこれ以降増加することなく約400万石とほぼ固定化された。

 一方で幕府の支出は増大し備蓄金銀分銅が出費のため吹潰されることが多くなりインフレが起きるようになった。

 市場に流通する慶長小判は90年以上の流通により、磨耗、破損の著しいものが多くなり、切れ、軽め金などが大半を占めるようになり、修繕を必要とするものが多くなっていたのも要因とされる。

 
 勘定吟味役の
   荻原重秀
は貨幣の金銀含有量を下げ、通貨量を増大させる貨幣改鋳を行った。

 慶長期には自宅家業である手前吹きであった貨幣鋳造方式を改め、江戸本郷霊雲寺近く吹所を設け、金座人および銀座人を集めて鋳造が行われた。

 なお、この吹替えは吹所の火災により元禄11年11月(1698年12月頃)に終了した。

 その後、金座人および銀座人は京橋および京都両替町の金座および銀座に復帰した。
 以後も小判師を金座に集めて鋳造を行わせる直吹方式に変更することとなった。

 
 吹替えは慶長小判2枚の地金に灰吹銀を加えて新たに小判3枚を鋳造すれば通貨量は1.5倍となり、かつ幕府には吹替えによる出目(改鋳利益)が得られるというものであった。

 ただし、交換に際し慶長金に対し1%の増歩しか付けられなかったため、交換は思うようには進捗せず、良質の慶長金を退蔵する商人が多かったという。

 元禄金は量目(質量)こそ慶長金に等しかったが、金に対し密度の低い銀を多く含むため分厚く白っぽいものとなったため品位が低下したことは誰の目にも明らかであった。 

 また、脆く折れやすいものとなったため、評判は甚だ悪いものであった。

 
 この吹替えにより、東北地方を中心で飢饉が発生し物価が高騰したものの、通貨量増大が経済発展に見合うものであったため、貨幣経済が発展し元禄文化が開花した。

 
 小判および一分判の通用停止は享保2年末(1718年1月30日)に行われた。



   
   
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        ・元禄二朱金 長元 特美
     


  

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2015年01月23日

小判


小判(こばん) 

 江戸時代に流通した金貨の一種で量目(質量)および金品位が一定に定められた計数貨幣。

 金座で用いられた公式な呼称は小判だった。

 

 形状は、小判形と呼ばれる楕円形で表面には全体的に打目が彫られている。
 上下に扇枠に囲まれた五三桐(ごさんのきり)、中央上部に「壹两」(一両)、下部に「光次(花押)」の極印が打たれている。


 徳川家康は江戸に幕府を開くに先立ち、貨幣として流通させるため大判より小型のものとした。
 大判では表面に墨書をしていたものを極印に改め一般流通を想定した通貨を発行する構想を持っていた。


 慶長6年(1601年)に徳川家康が全国通用させることを目的に
に命じて鋳造させた慶長小判を始めにして、万延元年(1860年)発行の万延小判まで10種が発行された。

 金貨の一般通用は家康により新たに取り入れられた政策であった。
 ただ、金山が主に常陸、甲斐、伊豆および佐渡などにあったため主に関東地方を中心に流通した。
 
 
 額面は金一両としており、もともとは質量単位としての一両の目方の砂金と言う意味であった。


 鎌倉時代には金一両は五匁、銀一両は4.3匁と変化した。

 文明16年(1484年)、室町幕府により
   京目(きょうめ)金一両
は4.5匁(約16.8グラム)と公定された。

 それ以外のものは田舎目(いなかめ)とされた。


 安土桃山時代には四進法の通貨単位の便宜を図るためか、京目金一両は四匁四分と変化した。
 また、田舎目金一両は四匁前後となった。

 慶長小判はこの京目一両の原則に沿って製作されたが、後世に金銀産出の衰退や江戸幕府の支出拡大による慢性的な財政難の補填のため、正徳享保期を除き、時代ごとの経済政策により品位(金含有率)・量目ともに改悪されることが多かった。


 幕末には、日本国外での金銀比価が日本国内と大きく異なったため、これを是正するため極端に小型の万延小判に改鋳され、インフレーションを引き起こした。
 
 江戸時代には、小判同様の計数貨幣の金貨として、二分判金一分判金二朱判金一朱判金がある。

  
 この小判および分金の通貨単位は武田信玄による領国貨幣である甲州金の四進法(両、分、朱)を取り入れたものであった。

 一分判金は、小判の小額貨幣として常に小判と同品位、四分の一の量目でもって本位貨幣的に発行された。
 他の額面の貨幣は、含有される金の量目が小判に対して額面より少ない名目貨幣として発行された。
 
 
 小判に対し、大判(大判金)も江戸時代を通して発行されていた。
 ただし、大判は一般通貨ではなく、恩賞、贈答用のもので金一枚(四十四匁)という基準でつくられた。


 大判は計数貨幣としてではなく、品位と量目および需要を基に大判相場によって取引された。 
 また、天保年間に大判と小判の中間的な貨幣として五両判が発行されたが、ほとんど流通していない。

 
 明治新政府となった以降、新貨条例が施行され、1両は1圓(円)と等価とされた。

 これは万延二分判2枚の金銀含有量の実質価値と1圓金貨の純金含有量の価値がほぼ等しかった為の措置である。

 なお、古金銀はそれぞれの含有金銀量に基づいて定められた交換比率で新貨幣と交換された。




   
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2015年01月19日

江戸時代に発行された小判


 江戸時代に発行された小判は、室町幕府により京目(きょうめ)金一両が4.5匁(約16.8グラム)と公定された。

 安土桃山時代には四進法の通貨単位の便宜を図る目的で、京目金一両が四匁四分と変化した。
 慶長小判はこの京目一両の原則に沿っていた。
 その後は、近産出量の減少に伴い改鋳され品質が低下するなど変動が大きくなっていった。

 慶長小判から万延元年(1860年)発行の万延小判まで10種が発行された。


    慶長小判
   (慶長6年(1601年)頃、14,727,055両(推定値)、4.76匁、84.3%→86.8%)
    元禄小判
   (元禄8年(1695年)9月、13,936,220両1分、4.76匁、57.4%)
    宝永小判
   (宝永7年(1710年)4月、11,515,500両、2.5匁、84.3%)
    正徳小判
   (正徳4年(1714年)5月、213,500両、4.76匁、84.3%)
    享保小判
   (正徳4年(1714年)8月、8,280,000両、4.76匁、86.8%)
    元文小判
   (元文元年(1736年)5月、17,435,711両1分、3.5匁、65.7%)
    文政小判
   (文政2年(1819年)6月、11,043,360両、3.5匁、56.4%)
    天保小判
   (天保8年(1837年)7月、8,120,450両、3匁、56.8%)
    安政小判
   (安政6年(1859年)5月、351,000両、2.4匁、56.8%)
    万延小判
   (万延元年(1860年)2月、666,700両、0.88匁、56.8%)


括弧内は発行年、発行高、量目、金含有率(規定)。発行高は一分判との合計で、元禄小判の場合は二朱判も含む。




   
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2015年01月07日

宝永小判


宝永小判(ほうえいこばん) 

 宝永7年4月15日(1710年)に通用開始された一両としての額面を持つ小判のこと。

 乾字小判(けんじこばん)とも呼ばれる。 

 宝永小判および宝永一分判を総称して宝永金あるいは乾字金(けんじきん)と呼ぶ。

 
 表面には鏨(たがね)による茣蓙目が刻まれている。
 上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹两」下部に「光次(花押)」の極印がある。

 裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印、、吹所の験極印さらに右上に「乾」字が打印されている。

  

 佐渡の金座で鋳造された「佐」の極印が打たれた佐渡小判が現存するが極めて希少である。
 小判師の験極印は「又」、「宝」、吹所の験極印は「神」、「当」に限られる。

 
 出目により改鋳した元禄金は品位が低く、脆く折れやすいもので使用具合が悪かったため、良質の慶長金への復帰が望まれた。

 ただ、金山での産出が衰退した中では充分な通貨需要を満たすことができなくなり小型にすることで金品位を上げることとした。
 しかし一両あたりの含有金量は元禄金よりさらに低く、慶長金に対してほぼ半分の重さとなり、二分小判と揶揄された。
 
 
 元禄地震、宝永地震および富士山噴火被害が大きく幕府の財政を逼迫させたことが出目獲得の必要性となったことも背景としてある。


 三代将軍の徳川家光の頃に増大した諸経費が金銀産出の衰退した五代将軍の徳川綱吉の頃になると支出がさらに増大する一方となり財政を悪化させる要素が多くなった。


 江戸城の御金蔵には徳川家康・秀家時代に法馬金(ほうまきん)と呼ばれる、約44貫(約165キログラム)もの分銅型の金塊が有事に備えるべく蓄えられていた。

 出目により元禄年間までには全て小判に鋳造されて支出に姿を消している。

 乾字金発行に際し、元禄二朱判は通用停止となった。
 元禄小判と宝永小判は等価通用、慶長小判については銀10匁を付けて交換という触書でがきであった。

 市中では依然として良貨である慶長金の退蔵が行われ、幕府はこれを引き出そうと対策を講じるが効果は薄いままであった。

 また、各藩でも藩札の発行準備の名目で良質の慶長金銀を退蔵していたため、幕府はこの提出を求めたが各藩は応じなかった。
 対抗措置として、宝永4年(1707年)に藩札の発行禁止令が出されている。

 
 宝永小判は正徳期の慶長の幣制への復帰に際し二分判扱いとなった。
 ただ、小型で扱いやすいものであったため、後に重宝される小判となった。

 宝永小判の通用停止は当初享保7年末(1722年)とされたが、引換が進捗せず享保15年(1730年)に通用許可令が出され、通用停止は延期されて元文3年4月末(1738年)となった。



   
   
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