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2015年04月05日

文久永宝(ぶんきゅうえいほう)



文久永宝(ぶんきゅうえいほう)

 幕末に流通した銭貨
 形状は円形で、中央部に正方形の穴が開けられている。

 表面には「文 久 永 寳(宝)」の文字が上下右左の順に刻まれている。
 裏面には波形模様が刻まれている。

 文字には三種類のものがあり、それぞれ能筆の幕閣が担当した。



 「文」字が楷書体のものは
   若年寄(老中格) 小笠原長行
の筆によるもので「真文(しんぶん)」と呼ぶ。


     
  
  

 草書体の「攵」となっているものが
   老中 板倉勝静
の筆によるもので「草文(そうぶん)」と呼ぶ。


    ・ 文久永宝・草文


 草書体で「寳」の字が「宝」となっているものが
   政事総裁職 松平慶永(松平春嶽)
の筆によるもので「略宝(りゃくほう)」と呼ぶ。
 

    ・ 文久永宝・玉宝


  
 材質は銅製で、直径0.9寸(約2.7センチメートル)、規定量目は9分(約3.375グラム)となっており、初期の寛永通宝より軽めで鋳造されている。


 鋳造は、文久3年2月(1863年)から慶応3年(1867年)まで行われ、貨幣価値は4文として通用した。
 
 

 万延元年(1860年)から鋳造が始まった「寛永通寳」精鉄四文銭が不評であったことや、鋳造コストがかさむものであったため、四文銭を銅銭に復帰させた、

 別子や足尾などで銅の産出量の絶対的な不足が生じたため、銅地金の高騰などが引き起こり量目を減じた銅四文銭を発行することになった。

 
 なお、真鍮四文銭はもともと銀座指導監督の下で鋳造されてきた。

 銀座監督の下で江戸深川千田新田(大工町)の銭座において鋳造された文久永寳については「真文」のものであり、金座指導監督となった浅草橋場(小菅)の銭座では「草文」と「略宝」のものが鋳造された。
 
  
 
 安政年間から引換回収された寛永通寳一文銅銭2,114,246,283枚の内、1,420,200,000枚を文久永寳に改鋳したとされた。
  
 文久永寳の総鋳造高は891,515,631枚と記録されている。

 発行当初は、真鍮四文銭の代わりに差支えなく通用するよう通達が出された。


 明治時代になり新貨条例制定後の旧銅貨の通用価値が規定された。
 一圓は一両と等価となり、一両=10000文という基準が通用価格となった。これにより

    寛永通寳銅一文銭:1厘
    寛永通寳真鍮四文銭:2厘 
    文久永寳:1.5厘
    天保通寳:8厘
    寛永通寳鉄四文銭:8枚で1厘
    寛永通寳鉄一文銭:16枚で1厘

という交換が決められた。

 これらの内、鉄銭は明治6年(1873年)12月25日に、天保通寳は明治24年(1891年)末をもって通用停止となった。

 ただ、寛永通宝や文久永寳などの銅銭は昭和28年(1953年)末の「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」により廃貨措置がとられるまで法的に通用力を有したという。



   





 <分類 古銭用語>

 


     



    


  
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2015年04月04日

六帝銭 幸せを呼び込み、金を増す古銭


 「六帝銭」は「六帝古銭」とも呼ばれていて、中国の清王朝で栄華を極めた皇帝の治世で使用されていた銅銭のこと。
  

 中国歴代の王朝の中でも最も繁栄した清代に君臨した11人の皇帝の中でも特に力が強く、絶大な権力を誇り、経済が繁栄し大量の銭貨が発行され、産業や文化が発展してた時代に作られた銭貨は多くの国民に用いられて流通し、人から人に幸運を運んだものです。

 当時の皇帝の力は強大で、強運だったという考え方から、六人の皇帝の名前をつけ発行された銭貨




  雍正通宝.jpg 
 「康煕通宝」         「雍正通宝」          「順冶通宝」

   
 「嘉慶通宝」         「乾隆通宝」          「道光通宝」


を集めた古銭を「六帝銭」と称して、皇帝たちの力を分けて欲しいと考えた人たちが生み出したものです。

 現在では風水に使用される事が多くなっていますが使用されるのは古銭ではなく、加工品というものが多いようです。
 

 また、この「六帝銭」の他に「五帝銭」というものもあます。


     



 これは「六帝銭」の中から「道光通宝」を抜いたもので、主に「招財」のご利益があると言われています。

 
 使い方はとっても簡単で、赤い紐で括られたものを土の中に埋めたり、部屋の中や玄関などに吊るして幸運・金運を呼び込みましょう。


 また、繁栄した時代に流通した銭貨は人の間を流通する間に幸運をもたらしてくれたということから、財布の中などにお金と一緒に入れておく事によって「ご利益」が増すと言われています。


    
   「洪武通宝」         「永楽通宝」


 赤い紐を結んでおけば幸せがもたらされ、黄色い紐を結べば金運が増すとも言われています。

 やはり本物の古銭を使うのが良いですね。


 風水グッズでは本物の古銭を用いることは少ないよですが、価格はかなり高額です。ならば、古銭を集めて自分で作ってみるのも一考だ。

 
 
  
   
     
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二水永(にすいえい 寛永通宝)

 
寛永通寳 (二水永背三)


      

   

 
 寛永3年(1626年)に常陸水戸の富商
   佐藤新助
が江戸幕府と水戸藩の許可を得て鋳造したのが始まりとされるが、この時はまだ、正式な官銭としては用いられなかった。

 
 このときに鋳造されたとされるものが、いわゆる二水永(にすいえい)と呼ばれる。


 表面の「永」の字が「二」と「水」字を組み合わせたように見えるもので、裏面の下部には「三」と鋳込まれ、鋳造年の「寛永三年」を意味するといわれている。

 新助はやがて病死したため、鋳造が途絶えた。

 九年後の寛永12年(1635年)に新助の息子、佐藤庄兵衛が後を継ぎ再び鋳銭を願い出て翌寛永13年(1636年)に鋳造を再開した。
 このときの鋳銭が背面に「十三」と鋳込まれたものであるとされる。



   





 <分類 古銭用語>

 


     



    


  
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2015年04月03日

武帝 財政立て直しに五銖銭を鋳工


 前漢の武帝(前156年6月7日−前87年3月29日)は
   郷挙里選の法
と呼ばれる官吏任用法を採用した。

 これは各地方郷里から才能のある人物を推挙するもので、武帝は特に儒教の教養を身につけた人物を登用した。

 董仲舒の献策により五経博士を設置し、儒教を官学とした。


 高祖劉邦が冒頓単于に敗れて以来、漢はその孫の軍臣単于が君臨する匈奴に対して低姿勢で臨んでいた。


 武帝はこれらの体制と
   文景の治
による多大な蓄積を背景に、反攻作戦を画策した。


 かつて匈奴に敗れて西へ落ちていった大月氏へ張騫を派遣した。


 大月氏との同盟で匈奴の挟撃を狙って宿敵匈奴への外征を開始したものの同盟は失敗に終わった。

 張騫の旅行によりそれまで漠然としていた北西部の情勢がはっきりとわかるようになった事が後の対匈奴戦に大きく影響した。


 武帝は衛青とその甥の霍去病の両将軍を登用して、匈奴に当たらせた。

 両将軍の活躍で幾度と無く匈奴を打ち破り、西域を漢の影響下に入れた。


 李広利に命じて、大宛を征服し、汗血馬を獲得した。

 また南越国に遠征し、郡県に組み入れた。
 衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする漢四郡を朝鮮に置いた。


 前漢の最大版図を築き、武帝の治世は前漢の全盛期となった。


 ただ、積極的な外交政策が採用された結果、外征にともなう歳出が増加し国庫を逼迫させた。

 その財政立て直しを目的に
   五銖銭鋳工
が計画された。

 それまで流通していた半両銭に比べ重量を持たせ外周(両面)と内孔(背面)に郭と称する縁取りを加えたのが特徴となる。

  
  
   
     
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2015年04月02日

鐚銭(びたせん、びたぜに)


鐚銭(びたせん、びたぜに)

 日本の室町時代中期から江戸時代初期にかけて私鋳された、永楽銭を除く粗悪な銭貨の総称。

 表面が磨滅した粗悪な銭を指す言葉で悪銭(あくせん)とも呼ばれる。
 

 日本では、鎌倉時代後期ごろから貨幣の流通が活発化したが、主に中国で鋳造された中国銭が流通していた。



 中国(宋・元など)との貿易を通じて日本に中国銭がもたらされたが、日本でもこれらの貨幣を私的に鋳造する者が現れ私鋳銭(しちゅうせん)が使用された。
  


      



 私鋳銭は、一部が欠落したものや穴が空いていないもの、字が潰れて判読できないものなど
   非常に粗悪なもの
が多く、商品経済の現場で混乱を生じさせた。

 これら粗悪な銭貨は鐚銭と呼ばれ、一般の銭貨よりも低い価値とされていた。
  

 鐚銭としてよばれた銭貨については私鋳銭ばかりでなく南宋の戦時貨や明銭自体も不良銭が混じるなど品質劣悪なものが普通だった

 
 勘合貿易が拡大した室町時代に入り、明が日本との貿易用に鋳造した永楽通宝などが日本国内で流通するようになった。

 明の江南地方で作られた私鋳銭や、日本国内で作られた私鋳銭も次第に流通する貨幣に混入していった。

 悪銭は良質な「精銭」とくらべ低価値に設定されたり、支払時に受け取り拒否されることが多く、これを撰銭(えりぜに)と呼んだ。


         
       ・ 筑前洪武           ・ 太平通寶 銀銭 鐚銭



 明国内においては紙幣と銀が基準貨幣となり、銅銭を鋳造する意義が無くなった為に鋳造されなくなったことから渡来銭の供給が難しくなると、こんどは通貨総量が減って銭不足が生じて粗悪な渡来銭や私鋳銭の流通量は増大した。


 室町幕府の14代将軍・足利義栄が将軍就任の御礼に朝廷に献上した銭貨や同じく織田信長が正親町天皇の儲君誠仁親王の元服の際に献上した銭貨が鐚銭ばかりであると非難された。

 ただ、日本の経済市場では鐚銭ばかりが流通していて権力者でさえ良質な銭貨が入手困難であった事を表しているとされている。

 16世紀になると室町幕府や守護大名、戦国大名たちは撰銭を禁ずる撰銭令(えりぜにれい)を発令した。


 1570年代には経済の規模に対する絶対量の不足からくる貨幣の供給不足が深刻化して、代替貨幣としての鐚銭の需要も増えていくことになる。 

 その後、金銀や米などによる支払なども行われるようになった。 

  
 豊臣政権や江戸幕府が貫高制を採用せずに米主体の石高制を採用するに至った背景と考えられる。



     


 織田政権は撰銭令の中で鐚銭を基準とした銅銭に質による交換基準を定めたことで、一定の品質水準に達した鐚銭の通用が保証された。
 こうした措置により、鐚銭が京都における一般的に通用した貨幣とみなされて「京銭」と称されるようになった。

 
 江戸幕府は永楽通宝の通用を禁じて、京銭(鐚銭)と金貨・銀貨との相場を定めて鐚銭を相場の基準としたのち安定した品質の寛永通宝を発行し、渡来銭や私鋳銭を厳しく禁じている。



   





 <分類 古銭用語>

 


     



    


  
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2015年04月01日

元豊通宝


 元豊通宝(篆書) (げんぽうつうほう) 

 宋朝六代 神宗皇帝は、熈寧十年に元豊と改元した。


    


   
 元豊元年(1078年)に銭文を元豊通寶として鋳造した。
 行書、隷書、篆書の三書体となっている。
 


 <分類 古銭用語>

 


      

   ・渡来銭    ・宋銭   ・中国古代銭


    


      
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2015年03月18日

饒益神宝(にょうやくしんぽう)皇朝十二銭の1つ


饒益神宝
   (饒益神寳 にょうえきしんぽう、にょうやくしんぽう)

 貞観元年(859年)4月28日饒益神宝発行の詔が出され発行された銭貨
 皇朝十二銭の1つ

  

  

 銭文は、時計回りに読まれ饒益神寳と表記されている。 
 裏は無紋で、量目(重量)2g程度の銅の鋳造貨

 
 直径19mmから20mm前後の円形で正方形の孔が開いている。

 「饒益」を「ジョウエキ」と読めば物が豊かなことを現し、「ニョウヤク」と読めば仏教語で物を与えることを意味する。

 鋳造期間は11年と短く、皇朝十二銭のうち、現存するものが最も少ない。


 皇朝銭の出土記録として、1万2千枚余りの内、饒益神宝の出土は76枚と銅銭としては最も少ない。


   
     
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2015年03月17日

新寛永


新寛永
 
 幕藩体制の確立と共に寛永通宝(古寛永)が全国に普及した。

 室町期において勘合貿易における取引で用いられた渡来銭が広く普及して使用されていた。

 寛永通宝の創鋳から30年ほど経った寛文年間頃には、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。
  

  
     
  
  
   
 寛文8年5月(1668年)、江戸亀戸で発行されたものは、京都・方広寺の大仏を鋳潰して鋳造したという噂が世間に流布したこともあり、俗に「大仏銭」と呼ばれていた。

 また、裏に「文」の字があることから「文銭(ぶんせん)」とも呼ばれていた。 

 一般的によく見られる寛永通宝は、表の「寛」の字とあわせて「寛文」となるもので、寛文年間の鋳造であることを表している。

 
 江戸亀戸に設立された銭座では、呉服師六軒仲間の後藤縫殿助、茶屋四郎次郎らが請負って良質で均質な寛永通宝が大規模に鋳造・発行された。

 

 新井白石は寛文8年(1668年)から天和3年(1683年)までの鋳造高を197万貫文(19億7千万枚)であった推測している。



   





 <分類 古銭用語>

 


     



    


  
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2015年03月10日

戦前の銀貨


 明治政府により新貨条例(明治4年太政官布告第267号)が明治4年5月10日(1871年)布告された。


  

 それまで流通していた徳川幕府時代の一分銀などに代えて、量目416ゲレーン(グレーン)、品位900の

が制定された。

 また、同時に五十銭以下の補助銀貨が制定された。


 補助銀貨については当初、海外流出を防止する措置として品位を800に下げ、量目(質量)も約7.2%削減し、通用制限額は金種の混用に拘りなく一回の取引につき最高額で十圓(円)とされた。


 通貨の基軸は本位金貨であるのに対し一圓銀貨は貿易取引専用として使用された。
 そのため、貿易一圓銀貨百圓は本位金貨百一圓と等価であるとされた。


 その後、明治9年(1876年)3月4日に貿易一圓銀貨と本位金貨は等価通用に変更されている。


 最初の銀貨のうち最も小型の五銭銀貨は、当初製造された極印(刻印)が硬度が不足し、彫りも浅かった。


 明治3年銘の五銭銀貨は非常に出来が悪く、龍の鱗が不明瞭なものがほとんどであった。

 明治4年銘の硬貨では作り直した極印を使用したが、それでも綺麗に鋳造できる硬貨の数は僅かであった。


 明治5年(1872年)3月、龍図に替え「五錢」の文字に改正して新たな硬貨を鋳造した。


 五十銭銀貨については、新たに英国から導入した鋳造機で最初に鋳造する硬貨として、明治5年(1872年)11月に直径を縮小した新しい材質の極印により鋳造した。
 
 
 明治6年(1873年)2月、補助銀貨の量目が貿易一圓銀貨と比較して不足し不信感を持たれていたため、これを払拭するため、一圓銀貨との額面による比例とした。

 表裏の図案は縦転式に変更して「錢」の額面を「SEN」と表記するなどアルファベット表記に改正された。

 英国製の鋳造機を使用することにより、これ以降の硬貨は極印の材質が変更され硬度が保てるようになったことで新明治3年銘の硬貨のような不明瞭な出来の硬貨は無くなった。

 
 明治初期においては、発行枚数が多く良質の
   墨銀(洋銀)
の流通が世界的に優勢を占めた。

 日本政府は貿易一圓銀貨の国際的地位向上を図るため、アメリカ合衆国に倣い明治8年(1875年)に、量目を420ゲレーンに増量した貿易銀を発行した。


 日米両国の貿易銀は鋳潰しの対象となったため、明治11年(1878年)に再び元の一圓銀貨に復帰させた。


 通用が貿易専用に限られていた硬貨を、国内でも本位金貨と等価に無制限通用を認めたことから、事実上の金銀複本位制となった。
 さらに本位金貨は貿易赤字による海外流出が激しく、製造量も衰退し銀本位制となっていった。
 
 
 明治30年(1897年)の貨幣法(明治30年法律第16号)施行に伴い本格的金本位制がスタートした。

 それまで事実上の本位貨幣の地位を占めていた一圓銀貨は明治31年(1898年)4月1日限りで国内においては通用停止となった。

 銀相場は金に対して明治初年当時の約半分に下落していたことから、本位金貨の含有金量は半減した。

 一圓銀貨は台湾を始め、中国などで広く流通していたため、同年10月から引き揚げた一圓銀貨に丸の付いた銀の文字を加刻し、その数は2045万枚におよび貿易用として通用を認めた。

 しかし、丸銀の有無で通用するか否かでは市場経済で混乱が生じるため、丸銀の打印は翌年の明治31年(1898年)3月に打ち切られた。


 明治34年(1901年)から従前の一圓銀貨と同等の
   台湾銀行券引換元圓銀(圓形銀塊)
が輸出用に発行された。


 貨幣面の表記は「一圓」であるが国内では通貨としての資格は既に無く銀地金扱いであった。

 補助銀貨については従来と同形式のものが貨幣法施行に伴い改めて制定されたが、表裏は逆となり龍図が裏側とされた。
 

 明治39年(1906年)、下落傾向にあった銀相場が上昇に転じた。
 このため、補助銀貨鋳潰しの恐れが出たため約25%減量し、龍図を日章に変更する改正が行われた。


 十銭銀貨については薄小なものとなるため、当初量目削減は行われず明治39年銘として発行された。

 しかし、市場で流通することなく引揚げられ明治40年(1907年)3月までに発行分はすべて鋳潰され、見本用として残された貨幣が造幣博物館に展示されているだけである。


 明治40年3月に同じ直径ながら品位を720に下げ純銀量を他の額面と比例させた十銭銀貨に改正され、同8月から新形式の十銭銀貨が製造発行された。
 

 大正6年(1917年)頃から、第一次世界大戦の影響で銀相場はさらに高騰し、旭日銀貨も鋳潰しの可能性が生じた。

 大正7年(1918年)にさらに量目を減量させた八咫烏の五十銭および十銭銀貨が発行された。

 しかし、銀相場が不安定であったため流通は見合され、正貨準備に繰り入れられていたこの銀貨は大正12年(1923年)に流通することなく鋳潰された。
  

 現在この「八咫烏銀貨」はたまに古銭商およびオークションで100万円前後で取り引きされることがある。
 二十銭銀貨も同様のデザインで制定されたが、発行されなかった。

 大正11年(1922年)に量目をさらに減量した鳳凰の五十銭銀貨が発行された。

 なお、二十銭銀貨も同様のデザインで制定されたものの発行されなかった。


 この銀貨は多量に発行され広く流通したが、昭和恐慌を経て戦時体制に入り昭和13年(1938年)の臨時通貨法公布以降、銀貨は姿を消した。





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2015年03月08日

寛永通宝 江戸期の銭貨



寛永通宝(かんえいつうほう)

 日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨で状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられている。

 表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。


     




 寛永13年(1636年)に鋳造が始められ、幕末まで続いた。

 形材質は、銅製の他、鉄、精鉄、真鍮製のものがあった。

 貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが4文、刻まれていないものが1文として通用した。
 当時96文を銭通しに通してまとめると100文として短陌し、通し100文として取り扱われた。

 
 寛永通宝のうち、万治2年(1659年)までに鋳造されたものが古寛永と呼ばれる。


 その後しばらく鋳造されない期間があり、寛文8年(1668年)以降に鋳造されたものを新寛永(しんかんえい)と呼んだ。

 なお、この古寛永と新寛永は、製法が異なり、貨幣に表された文字(銭文)の書体も顕かな違いが認められる。

 
 元文4年(1739年)頃には鉄製1文銭が作られ、明和5年(1768年)には真鍮製4文銭が制定されている。

 その後、万延元年(1860年)頃には鉄製4文銭が出現している。

 
 銅または真鍮製の寛永通宝は、明治維新以後も貨幣としての効力が認められ続けた。

 昭和28年(1953年)末まで、真鍮4文銭は2厘、銅貨1文銭は1厘硬貨として法的に通用していた。
 ただし、通貨として実際的に使用されたのは明治中期頃までといわれている。

 

 中国大陸の各地でも寛永通宝が大量に出土した例や記録文献などから、清代の中国でも寛永通宝が流通していたことが判っている。

 明朝においては、銅銭使用を禁じ、紙幣に切り替えていたものの、満州族の清代になってから銭貨の使用が復活した。
 銭貨の流通量が極端に少なかったため、銭貨需要に応えるべく、日本から寛永通宝が輸出されたという。





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 <分類 古銭用語>

 


     



    

    
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2015年03月04日

慶長丁銀(けいちょうちょうぎん)


 慶長丁銀(けいちょうちょうぎん)とは関ヶ原の合戦が終了した翌年、江戸幕府が開かれる前でもある慶長6年7月(1601年)に徳川家康の命令により、銭貨の慶長通宝 とともに、鋳造が開始された丁銀の一種。

        
  


 慶長丁銀および慶長豆板銀を総称して慶長銀(けいちょうぎん)と呼ばれる。

 慶長銀を始めとして江戸時代前半の銀貨は何れも秤量貨幣として用いられた。



    
  
 

 慶長大判、慶長小判、慶長一分判と伴に慶長金銀(けいちょうきんぎん)と呼ばれる。

 

 慶長丁銀の表面には「大黒像、常是」および「常是、寳」の極印が数箇所から十数箇所打たれている。

 大黒像がやや斜め向きであることから、正面を向いている正徳丁銀と区別されている。

 また「是」の文字の最終2画の足が長い特徴があり、12面の大黒像を打った十二面大黒丁銀は幕府への上納用あるいは祝儀用とされている。
 

 初期のものは切遣いを想定して鋳造されているため一般的に薄手のものとなっている。

 極印の打数が多く形状が多様で素朴なつくりであり、文字が小さい特徴がある。


 後期のものは上下に大黒印2箇所と両脇に6箇所、計8箇所の極印が打たれており、元禄丁銀の形式に近いものとなっている。


 世界有数の銀鉱山が存在した日本では慶長期において銀座へ年間16,000貫程度の寄銀があった。

 日本国内の産銀が減少していった後の元禄7年(1694年)には銀座に納入された公儀灰吹銀が1,973貫、買灰吹銀3,297の計5,090貫程度となっている。


   
     
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2015年03月03日

寛永通宝 小菅銭


寛永通宝 小菅銭

 安政6年(1859年)より武蔵国足立郡小菅村にて鋳造が開始されたもの。

 母銭は銅製で子銭(流通貨)は鉄銭(てつせん)です。


  
  

 小菅銭は面文の特徴が同じ事から亀戸小様の原母を元に母銭を製造したものと考えられています。

 
 母銭の中では、一番現存数が多いと考えられ、価格も母銭としては廉価となっている。
 また、美製な品が多く最もポピュラーな母銭とされている。


 なお、小菅銭は古寛永の特徴とされている「ス宝」であるにも拘わらず新寛永銭である例外銭です。


   
     
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2015年02月17日

古寛永とは?


古寛永

 江戸幕府の体制が確立した1668年以降の寛文期に江戸亀戸に設立した銭座で大規模に鋳造を始めた「新寛永」に対して、1659年までに作られた「古寛永」と呼ばれるものの呼称。

 古寛永通宝は、特徴のある書体を除いては、ほとんどが微妙な字画の違いによって分類されている。




 寛永13年6月(1636年)、幕府が江戸橋場と近江坂本に銭座を設置して公鋳銭として寛永通宝の製造を開始した。
 

 主な鋳造所は幕府の江戸と近江坂本の銭座であったものの、水戸藩、仙台藩、松本藩、三河吉田藩、高田藩、岡山藩、長州藩、岡藩等でも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造していた。

 
 戦国時代の終焉とともに貨幣経済が花開き、銭が普及したことから寛永14年(1637年)に1貫文=銀24匁前後であった銭相場が前年までに1貫文=銀16匁まで下落したため、寛永17年8月(1640年)に一旦銭座を停止した。


 その後、売りが続いて銀12匁まで下落していた。

 しかし、承応から明暦年間にかけて再び銭相場が銀18匁前後まで高騰したため、承応2年(1653年)、明暦2年(1656年)に銭座を設けて(新寛永の)鋳銭を再開した。


   
     
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2015年02月09日

皇朝十二銭


皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん) 

 708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて、日本で鋳造された12種類の銅銭の総称。
 本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれる。


 @ 和同開珎 708年(和銅元年)
     

   
 A 万年通宝(萬年通寳) 760年(天平宝字4年)
     

    
 B 神功開宝(神功開寳) 765年(天平神護元年)
     
  

 C 隆平永宝(隆平永寳) 796年(延暦15年) 
     

    
 D 富寿神宝(富壽神寳) 818年(弘仁9年)
     

    
 E 承和昌宝(承和昌寳) 835年(承和2年)
 F 長年大宝(長年大寳) 848年(嘉祥元年)
     

     
 G 饒益神宝(饒益神寳) 859年(貞観元年)
 H 貞観永宝(貞観永寳) 870年(貞観12年)
     

   
 I 寛平大宝(寛平大寳) 890年(寛平2年)
     
  
 
 J 延喜通宝(延喜通寳) 907年(延喜7年)
     

 
 K 乾元大宝(乹元大寳) 958年(天徳2年)
     


  
 いずれの銅銭も形は円形で中央に正方形の穴が開いている円形方孔の形式。

 貨幣価値としては、律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。
 このほか、760年に金銭の開基勝宝、銀銭の太平元宝なども試鋳しているが、これらは銅銭とは異なり、広く流通したものではなかった。

 銅銭の通用価値を高く設定するための見せ金であったとする説もある。
 
 
 律令期に皇朝十二銭が発行された目的としては、唐の
   開元通宝
を手本として市場経済を拡大させるため貨幣制度を整えようとした。

 また、平城京遷都に必要となる莫大な経費を、銅地金本来の価値と貨幣価値との差額で賄うためという目的もあった。
 
 
 和同開珎は、日本で実際に流通したことがはっきりしている貨幣としては最古のもの。

 和同開珎より古い貨幣には富本銭があるが、これは実際に流通したかどうかは不明である。

 和同開珎発行から3年後の711年には、貨幣を多く蓄えたものに位階を与えるとする
   蓄銭叙位令
が発布されたが、実際に位階を与えた記録は、同年11月の1例しか古文書では確認できていない。

 当時の日本は米や布などの物品貨幣が一般的であり、社会経済水準が貨幣を必ずしも要していなかった。

 銅銭を発行しても畿内とその周辺国以外にはあまり普及しなかったとも考えられる。


 実物貨幣に代わるだけの銅銭の製造は秩父黒谷における自然銅の発見を機に元号を「和銅」と改めてしまう程当時銅は貴重であり、銅銭を供給するだけの銅の生産が困難であった。

 時代が下るにつれて急速に品質が悪化している。
 ただし、発見地は北海道から熊本県まで全国各地に及んでいる。
 
 
 和同開珎が発行されてから52年後に万年通宝への改鋳が行われた。

 この時、和同開珎10枚と万年通宝1枚との価値が等しいと定められた。

 この交換比率の定めはその後の改鋳にも踏襲された。


 皇朝十二銭は改鋳を重ねるごとに大きさが縮小し、重量も減少したうえ素材も劣悪化していった。


 当時の製錬法では利用できる銅資源が限られていたため、原材料の銅の生産量が年々低下したためと考えられる。

 もっとも、急激に劣悪化したとされている
   承和昌宝
を基準として捉えると、大きさは乾元大宝までほぼ一定であった。

 また、品質も寛平大宝まではほぼ同水準を保っていることから、承和昌宝を銭貨の基準品質とも考えられる。
 
 
 和同開珎が発行されて間もない頃には、銭1文で米2kgが買えた。

 ただ、9世紀中頃には、買える米の量は100分の1から200分の1にまで激減している。


 延喜通宝や最後の乾元大宝は、銅銭ではなく鉛銭であると言われるほど鉛の含有量が高いものが多く存在している。

 価値の低下した銭は、流通と交易の現場から忌避されるようになり、宋銭が大量に流入する12世紀後半まで、日本国内での銭の流通は限定されている。

 
 「日本紀略」には乾元大宝発行直後の959年(天徳3年)4月8日に新造された銭を伊勢神宮など11社に奉納して流通を祈願している。


 乾元大宝が発行されたあと、朝廷の弱体化もあり、銅銭は発行されなくなった。 


 日本では11世紀初頭をもって貨幣使用の記録は途絶え、米や絹などの物品貨幣経済へと逆戻りした。 

 畿内などでは300年かけて形成された金属貨幣による価値の保存と代替といった考え方は受け継がれ公定価格の決定には貨幣換算によるものが用いられていた。

 やがて経済が発達すると、中国から輸入した宋銭、元銭、明銭などが用いられるようになった。

 皇朝十二銭が発行されなくなってから、長い間日本では公鋳貨幣は作られず、皇朝十二銭の600年以上後の1608年(慶長13年)に鋳造された慶長通宝あるいは1627年(寛永4年)の寛永通宝鋳造まで待つこととなる。
 



 
  
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2015年02月07日

光緒元宝


光緒元宝

 清は19世紀初頭、人口4億をかかえ、世界総人口の20%を占める最大国に成長していた。

 清では、ヨーロッパ人のほしがる生糸、絹織物、茶を輸出していたものの、中国国民の需要はすべて自給自足できる国であったため、輸入するモノがなく大幅な輸出超過で、銀が大量に流入していた。

 そのため、大幅な貿易赤字に悩んだ英国は、インドでアヘンを栽培し、それを中国で売りさばき貿易収支の均衡を図ることを行った。 
  
  
 清朝の厳しい禁止措置にもかかわらず、アヘンは中国全土に蔓延し、今度は中国から銀が大量に出てゆくことになった。 

 その転換期は1827年ころといわれている。  


 銀の流出は、銀の高騰と銭の暴落がおき、1両=700〜800文だったのが、1600文前後になった。 
  


 庶民は普段は銭を使っていたものの納税のときは銀(地丁銀)で納めるようになっており銀の高騰は、それだけ税金が高くなったのと同じ苦しみとなって庶民の懐状態を悪化させていった。


 活の苦しさと政治の腐敗から1851年にキリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国(天王 洪秀全)によって
   太平天国の乱
と呼ばれる宗教反乱が起きた。 

 この乱で、4億以上あった人口は3億人以下に激減した。



 中国の王朝の多くは銅銭を発行し、清朝も19世紀になるまで銀貨を発行していなかった。

 両広総督(後に湖広総督)の張之洞が、財政確保のため銀貨の発行を請願し、1890年から、「光緒元宝」の銀貨を発行するようになった。

 基準となったのは7銭2分(0.72両)の銀貨で、欧米のドル銀貨と同じ重さになるようにした。




 中央政府の発行ではなく、地方の省政府の発行です。 銀貨の発行は、省政府に多大の利益をもたらし、他の省でもこれに見習って銀貨を発行しました。 中央なき地方、地方なき中央、そんな大国清でした。
 
 小額の銀貨(「小洋」とよぶ)や銅貨(「銅元」とよぶ)も発行された。






                 




                   
  



      



  
  

    
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2015年02月06日

和同開珎 日本で最初の流通貨幣


 和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)

 708年(和銅元年)に、日本で鋳造・発行された銭貨のこと。
 日本で最初の流通貨幣と言われ、皇朝十二銭の第1番目にあたる。

 直径24mm前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式。

 表面には、時計回りに和同開珎と表記され、裏は無紋である。

 形式は、621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じ。


 律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。
 当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。

 現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。

 唐に倣い、貨幣制度を整えるため、また、ちょうど平城京遷都の直前だったため、遷都の経費を、銅地金と貨幣価値との差額で補う目的もあった。
 

  
   
 
  
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2015年02月05日

宋銭(そうせん)


 宋銭(そうせん) 

 中国・北宋代に鋳造された貨幣である銅銭のこと。
 また、宋代には辺境部である四川・陝西において、遼・西夏への銅の流出を防止するために、銅銭の所有・使用一切を禁じられ鉄銭が鋳造された。

 一般的には、圧倒的に多い銅銭のことを指して宋銭と呼んでいる。

 
 建国当初の宋通元宝にはじまり、歴代の改元のたびに、その年号をつけた新銭を鋳造した。
 太平通宝・淳化元宝・至道元宝・咸平元宝・景徳元宝・祥符元宝といった銅銭が見られる。

 銅山の採掘と銅銭の鋳造は国家の経営により、鋳銭監・鋳銭院という役所で行われた。

 
 当初は、1個が1文(または1銭)の等価価値を持った通貨であり、これを小平銭(小銭)と称した。


 宋朝の財政がインフレ状態に陥り逼迫してくると、当5銭(5文銭)や当10銭(10文銭)という貨幣も鋳造されるようになった。

 主に流通したのは、小平銭と当2銭(または折2銭)であった。

 銭の単位は、1,000個で貫・緡または千と呼ぶ。

 また、96個の1文銭を銭通しに通してまとめても100文として通用し、通し100文と呼んだ。
 さらに通し100文を10個、つまり960文を銭通しに通してまとめても1貫(通し一貫)として通用した。

 建国当初の鋳造高は、年間70,000貫ほどであった。
 その後、次第に増鋳されて行き、神宗の治世時(1067年 - 1085年)には、6,000,000貫に達した。
 

  
   
 
  
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2015年02月03日

五銖銭(ごしゅせん)


五銖銭(ごしゅせん) 

 紀元前118年(元狩5年)に前漢の武帝により初鋳された貨幣。

 量目(質量)が当時の度量衡で5銖であり、また表面に「五銖」の文字が刻印されていることより五銖銭と称されている。
 

 前漢以外にも後漢、蜀、魏、西晋、東晋、斉、梁、陳、北魏、北斉、隋でも鋳造された。

 唐代の621年(武徳4年)に廃止されるまで流通した、中国史上最も長期にわたり流通した貨幣。
 

  
   
 
  
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無文銀銭(むもんぎんせん) 


無文銀銭(むもんぎんせん) 


 日本最古の貨幣といわれている私鋳銀貨のこと。

 直径約3センチメートル、厚さ約2ミリメートル、重さ約8-10グラム。


 今までに大和で7遺跡、近江で6遺跡、摂津・河内・山城・伊勢の地域で1遺跡ずつの合計17遺跡から約120枚出土している。

 地金価値で取引されたと考えられ秤量貨幣または計数貨幣といわれている。

 江戸時代など後代にも豆板銀丁銀等の銀の秤量貨幣が西日本では使用されていた。

   ■ 豆板銀    ■ 丁銀 

 
 銀の延べ板を裁断加工して作られ、古銭の特徴である四角い孔がみられず、小さな孔があるだけのもの。

 一般に「和同開珎」のような銭文はない。

 ただ、「高志」「伴」「大」と刻まれたものも出土している。

 表面に銀片を貼り付けてあるものが多く、重さを揃えるためだったとされる。。
 

  
   
 
  
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開元通宝 唐代から五代十国時代まで約300年にわたって流通した貨幣


開元通宝(かいげんつうほう)

 唐代において武徳4年(621年)に初鋳され、唐代から五代十国時代まで約300年にわたって流通した貨幣。

 開元通宝は秦の半両銭、漢の五銖銭の形態を継承した。

 直径は8分(約24mm)で銭貨1枚の質量は2銖4絫、すなわち1両(大両)の110(約3.73g)である。


 ここから質量の単位である「銭」が生まれた。

 従来の複雑な体系 1斤=16両、1両=24銖、1銖=10絫(るい)から「1斤=16両」はそのままだが、それ以下は「1両=10銭、1銭=10分、1分=10厘、1厘=10毫」という10進法の体系が使われるようになった。

 なお、重量単位の銭は日本に伝来すると1匁と呼ばれるようになった。
 

  
   
 
  
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