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2016年07月05日

刀貨(とうか)


刀貨(とうか)

 中国の古代春秋戦国時代に主として黄河下流域で流通した小刀形の貨幣の総称で刀銭とも呼ばれる。

 流通地域によって明刀と斉刀に大別されている。

 明刀は,刃の先端部のとがった尖首刀の後をうけたもので東北部の燕国を中心とする地域で用いられた。
 刃の中央部分に明字を刻むところから明字刀とか明刀と呼ばれる。
  

 斉刀は、細身の明刀に比べ刃部が広く重量感があり、鋳造地の斉の地名を刻むところから斉刀と呼ばれる。

 当時この地域には河川や湖沼、藪沢などの低湿地が広がっており漁労や狩猟が盛んであった。
 商業活動の広がりから、獲物の売買で小刀類が貴重視され用いられるようになったと考えられている。


   
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2016年07月01日

蟻鼻銭(ぎびせん)


蟻鼻銭(ぎびせん)

 春秋戦国時代に現在の中国南部を治めていた楚で用いられた青銅貨幣で鬼瞼銭、鬼頭銭などとも呼ばれる。
 形式的には周の貝貨の伝統を受け継いだ銅製貝貨に分類される貨幣で扁平で楕円形となっており、上方に孔がある。
 表に刻文が認められ、他の古銭とは違って、文字が凹んだ形で表されている。

 蟻 (あり) の頭部に似ていることから蟻鼻銭の名がついた。

 
 楚の国は他の春秋戦国の各国に比べ中央集権的な傾向が強く商業活動が発展していたと見られる。



   
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2016年06月25日

熈寧元宝(真書)【北宋:1068年】

  
熈寧元宝
 
 中国の貨幣
 北宋(960年 - 1127年)の六代皇帝の
   神宗
は、治平四年に熈寧と改元し、熈寧元年(1068年)に銭文を熈寧元寶とし、真書、篆書の二書体で改鋳した。

 中国の北半を支配した女真族の征服王朝「金(1115年 - 1234年)」の侵攻を受け遷都するまでを北宋と呼ぶ。
 金に宋の都開封を追われて南遷した後の南宋と区別する。


      




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2016年06月20日

嘉祐元宝【北宋:1056年】

  
嘉祐元宝
 
 
 中国の貨幣
 北宋の四代皇帝
   仁宗(じんそう)
      (在位:1022年3月23日 - 1063年4月30日)
は、至和三年に嘉祐と改元、嘉祐元年(1056年)に嘉祐元宝を鋳始するとともに、嘉祐通寶の二銭を改鋳した。

  

  



 1022年、父真宗の崩御に伴い即位した。

 英邁な資質を持った皇帝で、富弼や文彦博をはじめとする人材を多く登用した。

 なお、当時は文治主義に偏重して軍事力が弱体化しており、西夏などの圧迫を受けるなど、対外的には危機的な状況が続いた。


 仁宗は宋の常備軍の強化などの軍事力の増強を行なう一方で、西夏や遼に対しては銀をはじめとする貢物を贈ることで友好関係を維持する外交を展開した。

 ただ、こうした支援の財源を確保すべく、重い賦税を民衆に強いることとなり、農村の荒廃と民衆叛乱を引き起こした。
  


   

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2016年06月11日

大観通宝【北宋:1107年】

  
大観通宝
 
 中国の貨幣
 北宋(960年 - 1127年)の最後の皇帝である第8代
   徽宗(在位1100〜1125年)
が大観元年(1107年)に初鋳した銭貨。



  



 徽宗は第6代皇帝神宗の六男(第11子)で芸術面では北宋最高の一人と言われる。
 元符3年(1100年)、兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟である趙佶が皇帝に即位した。


 契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝遼(916年から1125年)の侵攻を受け、五代の後晋は華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)を割譲した。

 遼朝へ過酷な朝貢を強いられていた女真族の金は遼が貴族化し軍事力が低下し内部で派閥抗争が激化して国力が低下したところを見計らって金が侵攻して遼を亡ぼし占領した。

 遼が亡びるなか宋朝は、失地回復のため宣和7年(1125年)に軍を派遣して燕雲十六州の一部奪還に成功した。

 遼を亡ぼした金に占領された残りの州の奪還を計画し遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。


 ただ、この陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗が宋に対して出兵する事態を招いた。

 12月23日(西暦で1126年1月25 日)、金の強大な軍事力を恐れた徽宗は慌てて蔡攸や李綱・呉敏らと図って「己を罪する詔」を出すと退位したうえ、長男の趙桓(欽宗)に譲位して太上皇となった。


 姑息にも、徽宗はさらに金軍から逃れようと蔡攸やわずかな宦官だけを引き連れて首都の開封を脱出した。

 鎮江に落ち着いた徽宗は、金軍が一時撤退した後も帰国の気配も見せずないどころか自立の動きすらあったため、欽宗・呉敏らの画策で開封に連れ戻されて幽閉された。

 また、蔡京父子・童貫らは配流され、後に蔡京ら病死者を除いて処刑してしまった。

 靖康元年(1126年)、体制を立て直して侵攻してきた金軍は開封を陥落させ、徽宗は欽宗らと共に金に連行された。

 紹興5年(1135年)、徽宗は五国城(現在の黒竜江省 依蘭県)にて54歳で死去した。


 なお、徽宗の妃韋氏、欽宗の皇后朱氏など、宋の宮廷の妃、皇女、あらゆる宗室の女性や女官、宮女たちが、金軍の慰安用に北に連行されたうえ後宮に入れられた。

 その後、天会5年(1128年)6月には金の官設の妓楼である洗衣院に身を移され、金の皇族・貴族を客とする娼婦になることを強いられた。

 南宋を建てた高宗の生母であった韋妃は老齢に達するまでこの境遇を耐え忍び、南宋で高宗に迎えられて長寿を全うした。

 ただ、朱皇后や多くの女官などは その境遇に耐えかねて投身自殺した。





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2016年06月07日

宝永通宝


宝永通宝(ほうえいつうほう)

 江戸時代に鋳造された銭貨の一種。



 儒学を重んじた5代の徳川将軍綱吉は当初文治政治を推し進め、元禄文化が花開いた。


 後半、元禄8年(1695年)頃から始まる奥州の飢饉や元禄11年(1698年)の勅額大火、元禄16年(1703年)の元禄地震・火事、宝永元年(1704年)前後の浅間山噴火や天候不順に伴う諸国の洪水、宝永4年(1707年)の宝永地震や富士山の噴火、宝永5年(1708年)の京都大火などの天変地異が立て続けに引き起こされて社会が不安定になり経済は崩壊した。

 資金不足から、出目による品位の低下した元禄金銀を発行しtあとおによりインフレ傾向が強まり銭相場が高騰した。
 こうした動きを鎮静化させるために宝永5年(1708年)に十文銭を発行した。

 江戸時代当時は大銭(おおぜに)と呼ばれた。

 銭文は「寳永通寳」でとなっており、背面には「永久世用」と鋳込まれ、その字間に「珍」の極印が打たれた。
 

 ただ、鋳造期間は綱吉が崩御するまでの一年以内と短いものであった。

 銭の大きく異なるものは末尾の「寳」字のウ冠の第二画が長いものと短いものが存在する。
 それぞれ「深冠」、「浅冠」と呼ばれている。
 銭の量目はそれぞれ、2.5匁(9.37グラム)、2.3匁(8.62グラム)と「浅冠」の方が軽い。

 なお、これは鋳銭利益が上がらず、途中から量目を縮小したためという。
  

 また「深冠」には「永」字の縦画が垂直な「直永」と呼ばれる手代わりが存在している。

 
 寳永通寳には、宝永4年(1707年)に試鋳された。
 試鋳銭には左右に「寳永」の二文字と裏面に「万世通用」が鋳込まれた二字寳永(にじほうえい)、および上下に「永十」と裏面に「永大」が鋳込まれた二字永十(にじえいじゅう)と呼ばれる貨幣が存在している。





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2016年06月04日

至道元宝(草書)【北宋:995年】


至道元宝
 
 中国の貨幣
 唐が907年に滅亡し、その後の五代十国時代の戦乱の時代の後、960年に
   趙匡胤
により建てられた宋(北宋、南宋)が鋳造した貨幣のひとつ。

 北宋(960年 - 1127年)の二代皇帝の太宗(在位976〜997年)は、淳化六年に至道と改元した。
 至道元年(995年)に至道元宝銭を改鋳した。

 太宗は瑞拱三年に淳化と改元し、淳化元年(990年)五月に銭貨の改鋳を行った。
 この改鋳された淳化銭と同じく至道銭は真書、行書、草書の三書体となっている。

 中国の北半を支配した女真族の征服王朝「金(1115年 - 1234年)」の侵攻を受け遷都するまでを北宋と呼ぶ。
 金に宋の都開封を追われて南遷した後の南宋と区別する。


    





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2016年05月18日

咸平元宝 【北宋:998年】

  
咸平元宝
 
 中国の貨幣
 咸平元年(998年)始鋳

 北宋(960年 - 1127年)の第3代皇帝
   真宗(しんそう)
     (在位:997年5月8日 - 1022年3月23日)
は太祖趙匡胤の弟である二代皇帝太宗の方針を受け継ぎ、文治主義を推進した。



     




 その結果、軍事力の弱体化を招き周辺国との軍事バランスが崩れたことから999年に西夏との連合軍を率いた契丹の聖宗は統和22年(1004年)に北宋領の黄河河畔(現在の河北省)に20万と号する大軍で侵攻した。
 この親征に宋朝は動揺、王欽若ら多数の官僚は江南への遷都を主張したが寇準が断固抗戦を主張したため、その意見を容れた真宗は契丹に対する親征を決意し対峙したが本格的ン戦闘には至らず膠着状態となった。 
 中国の北半を支配した女真族の征服王朝「金(1115年 - 1234年)」の侵攻を受け遷都するまでを北宋と呼ぶ。
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2016年05月14日

至道元宝(真書)【北宋:995年】


至道元宝
 
 中国の貨幣
 唐が907年に滅亡し、その後の五代十国時代の戦乱の時代の後、960年に
   趙匡胤
により建てられた宋(北宋、南宋)が鋳造した貨幣のひとつ。

 北宋(960年 - 1127年)の二代皇帝の太宗(在位976〜997年)は、淳化六年に至道と改元した。
 至道元年(995年)に至道元宝銭を改鋳した。

 太宗は瑞拱三年に淳化と改元し、淳化元年(990年)五月に銭貨の改鋳を行った。
 この改鋳された淳化銭と同じく至道銭は真書、行書、草書の三書体となっている。

 中国の北半を支配した女真族の征服王朝「金(1115年 - 1234年)」の侵攻を受け遷都するまでを北宋と呼ぶ。
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2016年05月07日

宋通元宝【北宋:960年】

   
宋通元宝
   
 中国の貨幣
 北宋(960年 - 1127年)の通貨で最初(960年)の鋳造された。
 その後は年号を改元するごとにその年号をつけた新銭を鋳造していった。

 宋は五代最後の突厥人の国家後周の近衛軍の将官
   趙匡胤(ちょう きょういん)
が後周の幼主から禅譲を受けて建国した。

 国号は宋であるが、領土の北半を支配した女真族の征服王朝「金(1115年 - 1234年)」の侵攻を受け都開封を放棄し遷都するまでを北宋、南遷した後の南宋と区別している。



  
 



 趙匡胤は、北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)となり廟号は太祖である。

 戦乱が続いた五代十国時代を反省して軍人の力を削ぐことに腐心した。

 唐代から戦乱の原因になっていた地方群を統括管理させた
   節度使
の力を少しずつ削いでいき、最後には単なる名誉職にした。

 ただ、強引に力で押さえつけるようなことをせず、辛抱強い話し合いの末に行ったため反乱芽を生むことは少なかった。

 趙匡胤の政治は、無理押しをせず血生臭さを嫌った。

 科挙を改善して殿試を行い始め、軍人の上に官僚が立つ文治主義を確立した。

 なお、官吏登用試験である科挙が実質的に機能し始めたのは宋代からと言われる。


 平和を希求した趙匡胤の布いた文官支配体制はその後、代を経るごとに極端に強化されたため軍事力の低下と官僚間の派閥争いを激化させる要因となった。

 内部派閥が出来ていったことが北宋および南宋の弱体化と滅亡の要因となった。


 中国の歴代王朝においては、夏王朝から西晋に至るまで、項羽の行いを除けば、前王朝の血統を尊重し滅ぼすことはしていない。

 西晋滅亡以降においては、王朝交替のたびに、前王朝の君主と一族は皆殺しにするのが殆どであった。

 趙匡胤は、前王朝の後周の柴氏を尊重し貴族として優遇した。

 
 また、降伏した国の君主たちをも生かしたうえ貴族としての地位を保たせた。
   



  
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2016年04月09日

熈寧元宝(真書)【北宋:1068年】

  
熈寧元宝
 
 中国の貨幣
 北宋(960年 - 1127年)の六代皇帝の
   神宗
は、治平四年に熈寧と改元し、熈寧元年(1068年)に銭文を熈寧元寶とし、真書、篆書の二書体で改鋳した。

 中国の北半を支配した女真族の征服王朝「金(1115年 - 1234年)」の侵攻を受け遷都するまでを北宋と呼ぶ。
 金に宋の都開封を追われて南遷した後の南宋と区別する。


     

 皇帝即位後は地方で政務実績のあった
   王安石
を登用し、国家再建に乗りだした。

 王安石は「政・官・財・軍事」の仕組みを再編して朝廷を効率化し、結果として賦税負担を軽減することでの国の発展を目標とする改革を進めた。

 なお、神宗もその王安石の理念に同意し、全権を与えている。


 この一方的な改革は大地主や大商人をはじめ、皇族などの既得権益を犯す内容を含んでいた。

 このため保守派から大きな反対運動が引き起こされた。

 また、官界でもその反対運動に参加する
   旧法派
と称されるグループが誕生し、政務放棄により王安石へ対抗しあ。

 なお、王安石も宰相の権限を活用し、これらの反対勢力を徹底的に押さえ込んだ。


  反対派グループの司馬光、文彦博などに対して、次々と処罰を加えた。 

 図書館司書長という閑職に左遷された司馬光は、逆にこの機を利用して
   資治通鑑
の編纂を行い、他の旧法派官僚も民間で文学や詩文・絵画・教育など文人として活動し、社会に新しい潮流を生み出した。


 旧法派に対抗するため王安石派の呂恵卿や曾布などの実務官僚を次々と抜擢した。

 熙寧7年(1074年)には運悪く天災が相次ぎ、また新法派内部で政策意見の不一致が発生したことから、神宗は王安石を解任した。


 元豊時代の政策は、神宗独自のものであると捉えられる。

 軍事面以外の政策は基本的に王安石の政策と類似したものであり、この時期の改革は新法を実情に合わせて修正した。

 そして神宗治世後半には新法が全国に適用され、北宋の全盛期を迎えた。

 国内の改革に成功した神宗は、西夏への侵攻を計画した。

 この軍事行動は失敗に終わっている。 西夏との敗北を期に健康を害した神宗は、元豊8年(1085年)に38歳で崩御した。

 故郷で新法改革の進展を見ていた王安石は、神宗崩御の知らせを受けるやそのまま病床に就いた。
 なお、旧法派の宣仁太后が政権を掌握して新法を廃止したことを知り、そのまま病死した。


 神宗の死を境に、宋は急速に衰退していくこととなった。




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2015年11月04日

仙台小槌銀(せんだいこづちぎん) 


仙台小槌銀(せんだいこづちぎん)

 地方貨幣の一種で幕末期の文久3年(1863年)に発行された銀貨で南鐐と呼ばれる上銀に近い。
 
 仙台小槌銀は楕円形粒状の形状で豆板銀と同様のもので、縦6分(18ミリメートル)横5分(15ミリメートル)程度、量目(質量)は2.2匁前後(8.0〜8.5グラム)である。

 二朱通用との説もあるが、一分銀の量目に近く豆板銀と異なりほぼ一定であることから一分通用とも言われる。

 銀品位は不明であるが、かなり高品位であると推測されいものである。

 表面には打出の小槌の模様の中央に「文久」の極印が打たれている。


 裏面には中央に「銀山」の陽刻と右側に「仙」の陰刻極印が打たれ、仙台藩のものであることを意味する。
 銀山については鋳造地を示すものと考えられているが何処の鉱山であるかは特定されていない。

 
 大量に製造された形跡が確認されていない。

 打出の小槌の模様があり貨幣としては手の込んだつくりであることから、流通目的よりはむしろ祝鋳的銀貨であるとの見方が大勢を占めている。


  
 現存するものは磨耗がほとんど見られず、ほとんど流通していないことを示唆している。




       






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2015年11月02日

細倉当百(ほそくらとうひゃく)


細倉当百(ほそくらとうひゃく)

 幕末期の地方貨幣の一種で文久3年(1863年)仙台藩の
   細倉鉱山(現 宮城県栗原市)
の山内通用のため発行された大型鉛銭のこと。
  
 
 細倉当百は撫角の正方形、方孔の形状で一辺が約2寸(60ミリメートル)、量目(質量)は45〜48匁(168〜180グラム)程度の百文通用鉛銭である。


 江戸時代の銭貨としては異例の大型のものであった。

 表面には「細倉當百」の銭文があり、裏面には「秀」の文字が鋳出されている。
 これは藤原秀衡の花押を模したとされ、藤原秀衡の時代に東北地方から豊富に金が産出したことから、これにあやかりたいとの鉱山関係者の願いが込められ、鉱山内の職人の給与支払いに当てられた。

 細倉鉱山産の鉛を用いたもの。





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2015年11月01日

仙台通宝(せんだいつうほう)


仙台通宝(せんだいつうほう)

 江戸時代に仙台藩が製造していた地方貨幣のこと。
 銭文は「仙臺通寳」である。



   
 
 
 寛永通寳などは形状が円形に四角形の孔が穿けられている。

 仙台通宝では角を丸めた四角形に四角形の孔が穿けられている。
 そのため、「撫角銭」などとも呼ばれ、鋳造量は308,000貫文(308,000,000枚)。


 通用銭の材質は宮城県で豊富に産出していた鉄である。
 ただ、鋳型原型である母銭は銅製という。


 初期鋳造のものは大型であり、次第に小型化していった。
 収集界では「大様」(幅23mm以上)、「中様」(22mm程度)、「小様」(20mm程度)と分類している。

 
 仙台藩では、幕府の許可の下で寛永14年(1637年)および享保13年(1728年)に寛永通寳銅銭を鋳造した。
 なお、元文4年(1739年)および明和5年(1768年)からは石巻において鉄銭を鋳造していた。


 天明の大飢饉で仙台藩の財政が逼迫した。
 このため、天明4年(1784年)に5年間の期限という条件で幕府の許可を得て、独自の地方貨である仙台通寳の鋳造を行った。


 明和年間に石巻で寛永通寳鉄銭が多量に鋳造された。
 その時、全国的な銭相場下落を引き起こした経験から寛永通寳と区別するため銭文を「仙臺通寳」とした。
 撫角の形状として領内通用に限った。

 ただ、材質が悪いため取り扱いが嫌われ、藩内でインフレーションを招く一因となったとされる。


 経済的な裏付けが乏しかった藩札とは異なり、少なからず諸国へ流通している。


 また通用範囲が領内に限られていたことから、寛永通寳に対して価格が乖離し、発行当時、一両につき10貫800文の相場であった。
 その後に21貫文まで下落してしまい、天明7年(1787年)7月に5ヵ年の期限を待たずに鋳造停止となった。



   





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2015年09月26日

圜銭(かんせん)、古圓法(こえんぽう)


 中国の戦国時代(春秋時代から晋が紀元前403年に韓・魏・趙の3つの国に分かれ、秦による紀元前221年の中国統一まで)中晩期に円形の貨幣(圜銭または古圓法)が登場した。

 
 商品交換の媒介物として用いられた
   玉 壁
から変化したもので、主に「周」、「秦」、「趙」、「魏」、「燕」、「斉」などで作られ流通した。

 なお、玉壁はドーナツ状の玉のこと(穿孔の縁から外郭に至る間の部分と穿孔との比が2:1のもの)

 
 圜銭には、円孔(中心部が丸穴)と方孔(中心部が角穴)があり、中心部の孔の周囲や外周部に縁が設けられる圜銭もあった。
 
 一般に圜銭の面は鋳造地や秤量単位等が表示されるように鋳出されており、背は平坦になっている。

 圜銭は当時、政治、経済が他の国より発展して国力が充実していた「魏」で最初に作られた。

 
 「魏」の圜銭は最初は「垣」、「共」(垣、共は地名)の字を鋳出したもので、後に鋳造地と秤量単位「釿」を鋳出したものが作られた。
 なお、全て円孔の圜銭であった。

 
 圜銭は紐に通して持ち運ぶことが出来ることで携帯が便利であり、大きさも適当だった。
 価値の交換手段としての利便性から、他の各国にも普及、使用されていった。
 
 経済の拡大で貨幣経済が波及していっており「趙」「周」で作られた圜銭の面文は、鋳造地のみ鋳出された円孔の圜銭となっている。
 
 新興国であった「秦」で作られた圜銭は、鋳造地は鋳出せず、秤量単位「朱」「両」を鋳出し、円孔より逐次方孔に変化していった。

 
 戦国末期になると軍事・経済大国となった「秦」の影響力が周辺国にも拡大し、刀幣流通地域であった「斉」「燕」においても圜銭を作る様に変化していった。
 
 なお、「斉」「燕」の圜銭は共に方孔の圜銭であった。




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2015年07月21日

蟻鼻銭(ぎびせん)


蟻鼻銭(ぎびせん)

 中国の戦国時代に現在の中国南部を治めていた楚で鋳造した銅貨。

 平面形は楕円形ないしは卵形で表は弧面となっており、端部に1孔と文字が陰刻してある。
 裏は平たん。

 長さ2cm弱で厚さ約2mm、重さ3.5g程度のものが多いものの大小は一定せず5gに達するものもある。

 蟻鼻銭に書かれた文字は20種近くが確認されている。

 この文字は大きくは6種類に分類でき、その大多数が「咒」である。
 このほかに少数の「各一朱」「君」「金」「行」「忻」がある。



 宋代から蟻鼻銭とよばれている。 
 そもそも、蟻鼻銭とは貨幣の形とそこに刻まれた文字の形から呼ばれる名前であり、他の古銭とは違って、文字が凹んだ形で鋳造されている。 

 形式的には殷で用いられていたといわれる貝貨の伝統を受け継いだ銅製貝貨に分類される。






    
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2015年07月08日

三銖


 三銖 紀元前120年

 秦の始皇帝が中国を統一した際、度量衡を統一し経済の活動を活発化させた。

 各国で使われていた古文銭や刀銭から、外円内方に形状が画一された最初の
   秦半両(12銖で8gくらい 一両が24銖)
が鋳造された。 
  

 秦朝は2代で滅んだ後、約50年後の漢の文帝がBC175年から四銖半両の鋳造を石范で始めたものの、鋳造技術が未熟であったため、色々な書体で鋳造された。

 この四銖半両は久しく流通したものの、民間ではこれを削り取ったり、密鋳したりして四銖に足らない軽い銭が次第に多くなっていった。

 そのため武帝は元狩三年に、それまで流通していた半両銭をの鋳造を止め、銭の法定価値と実質価値との一致を図るため、銭重と銭文を一致させた三銖銭を発行した。
 
  この三銖銭については、周郭の無いものもあるが大抵は有輪となっている。
 この銭は武帝の意図に反し、思惑通りには市場に普及せず、僅か一年で発行を止めてしまった。

 
 なお、漢書では三銖銭の鋳造年を建元二年としており、同五年に止めたのち、再度四銖半両銭を発行したとの記述がある。

  



    
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2015年07月05日

刀銭


刀銭(とうせん、刀钱、刀币)


 中国で用いられた、刀の形状を模した青銅の貨幣のこと。
 刀泉とも表記される。

 
 春秋戦国時代と呼ばれた紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦により中国が統一されるまでの期間に斉・燕・越などで用いられた貨幣で、形状から、尖首刀・斉刀・明刀(方首刀)・円首刀の4種類に分けられる。


 前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた秦朝において鋳造した貨幣(王莽銭)も、刀銭を模した形状をしている。

 同時代には各地で青銅貨幣が用いられており、趙・魏・韓などでは布銭、楚では蟻鼻銭、秦では円銭(環銭)が用いられていた。




    
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2015年07月01日

三官五銖


三官五銖

  元鼎四年(前113年)に赤側銭を廃すると共に、郡国での鋳銭も禁じた。

 これ以後、専ら
   上林三官(均輸・鍾官・弁銅)
で鋳造された銭貨。


 初期に鋳られた五銖を特に「三官五銖」と言い、宣帝期以後の五銖と区別している。

 特徴は周郭が均一で背がやや浅く清楚であるということ。




    
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2015年06月29日

赤側五銖


赤側五銖 

 
 赤側銭は元鼎元年(前116年)頃から鋳造を開始した。

 郡国の俗吏が私利を得ようとして銅質を悪くしたため、インフレが起こり銭の価値が下がった。


 このため漢朝は京師の鍾官にて、銭の周囲をやや厚くしてこれを磨くと共に銅質の良い銭を鋳させるように改めた。

 そして租税には専らこれを用いることを命令し、赤側銭一枚を以って郡国五銖五枚の値とする貨幣改革を行った。


 
 当時は匈奴征伐に多大な戦費を要したことから、逼迫した財政を救済する一手段として赤側銭を鋳造したとも言われている。


 その目的を概ね達したため」元鼎四年にこれを廃し、同時に郡国の鋳銭も禁じた。




    
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