長野市北西部の戸隠山周辺に、以下に記す五社を配する神社。
各社の主祭神は、地主神である
九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)
以外は天照大神(あまてらすおおみかみ)が弟の
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
の度重なる非行を嘆いて天岩戸(あまのいわと)に隠れ、この世に暗黒と悪神がはびこったとの神話にまつわる神様。
ただ、いつ頃から現在の祭神を祀るようになったかは不明。
ただ、他の多くの神仏習合の神社とは異なり、祭神は江戸時代以前から変わっていない。
ご祭神
*天表春命(あめのうわはるのみこと)
宝光社(ほうこうしゃ)に祀られている神様
現在地への鎮座は康平元年(1058年)、天暦3年(949年)に奥社の相殿として創建された。
中社の祭神である天八意思兼命の子にあたり、学問や技芸、裁縫、安産や婦女子の神とされる。
麓から登ってきて最初にあり、うっそうとした杉木立の階段を上って参拝する。
*天鈿女命(あめのうずめのみこと)
火之御子社(ひのみこしゃ、日之御子社とも書く 旧宝光院)に祀られている神様
天照大神が隠れた天岩戸の前で面白おかしく踊って天照大神を誘い出すきっかけをつくったとされる女神。
舞楽や芸能、また火防の神とされる。
宝光社の上1.5kmほどの場所にあり創建は天福元年(1233年)。
この他に高皇産霊命(たかむすびのみこと)、その娘である栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)、
栲幡千々姫命の夫である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を祀る。
他の4社が神仏混淆であった時代も当社だけは一貫して神社であった。
*天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)
中社(ちゅうしゃ)に祀られている神様。
現在地への鎮座は寛治元年(1087年)で火之御子社の上1.5kmほどにある。
宝光社と同時期に奥社の相殿として創建された。
天照大神が天岩戸に隠れたとき
岩戸神楽(太々神楽)
を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったとされる神様。
また、知恵の神ともされる。
境内周辺には樹齢約900年の三本杉があり天然記念物に指定されている。
*九頭龍大神
九頭龍社(くずりゅうしゃ)に祀られている神様。
雨乞い、縁結びの他、虫歯・歯痛にご利益があるとされる。
奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古い。
地主神として崇められている。
戸隠山には「戸隠三十三窟」といわれる洞窟が点在し、その「龍窟」にあたる。
本殿から本殿右手上の磐座の上まで廊下が続いており、そこが「龍窟」となる。
*天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
奥社(おくしゃ)に祀られている神様。
天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神様。
戸隠三十三窟「本窟」・「宝窟」と言われる中心となる窟が奥社本殿内部にある。
非公開なので内部に何があるのかは秘密とされている。
神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされる。
この奥社は中社から車で2.5kmほど車道を登った後、まっすぐ続く約2kmの参道(車両は進入禁止)を登りきった場所にある。
途中に赤い「随神門(山門)」があり、 その奥は17世紀に植えられたとされる杉並木になっている。
神仏分離以前は随神門より奥の参道左右に子坊が立ち並んでいたとされ、旧奥院にあたる。
明治時代の廃仏毀釈までは聖観音菩薩(現在は千曲市の長泉寺本尊、仁王尊像は長野市の寛慶寺)を祀っていた。
創建由来
奥社の創建は孝元天皇5年(紀元前210年)とも伝わるが、縁起によれば飯縄山に登った「学問」という僧が発見した奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849年)とされる。
日本書紀の天武紀には684年三野王(美努王)を信濃に派遣し地図を作らせ、翌685年に朝臣3人を派遣して仮の宮を造らせたとの記述がある。
持統天皇が691年に使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせたと記録があり、この水内の神が戸隠神社とする説がある。
平安時代から室町時代 平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の
戸隠山勧修院顕光寺
として全国にその名を知られた。
修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。
延暦寺山門派の別当職であった栗田氏が鎌倉期以後は山麓の
善光寺(園城寺寺門派)別当
も世襲したことから両寺は関連を強め、参詣者は一度に両方を共に参詣することが多かったという。
室町時代には戸隠神社で天台・真言両宗の法論闘争が発生した。
応仁2年(1468年)天台派の
宣澄法師
が真言派に暗殺された。
戦国時代となり北信濃地域は信濃侵攻を行う甲斐国の
武田晴信(信玄)
と北信豪族の後ろ盾となった越後国の上杉謙信との争乱に巻き込まれ熾烈な戦闘が繰り返された。
江戸時代 江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立した。
その後、東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まった。
明治時代となり、廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり宗僧は還俗して神官となった。
戸隠の寺院に奉られていた仏像などは、戸隠近隣の村の寺院などに移された。
現在の奥社、中社、宝光社の3院は天台系となっており、これと激しく抗争して約500年前に滅亡したとされる西光寺など真言系の寺院が存在していた事も知られている。
場所 長野県長野市戸隠3690