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2016年03月30日

神泉苑(しんせんえん) 龍パワーのお寺


 神泉苑しんせんえん

 京都市中京区にある東寺真言宗の寺院
 本尊は聖観音・不動明王・弘法大師です。

 二条城の南に位置しており、元は平安京大内裏に接して造営された天皇のための庭園「禁苑」であった。

 境内に「大歳神:歳徳神(さいとくじん)」を祀っているが毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える点が他の神社仏閣と異なっている。
 
 
 延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑で、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園であった。

 『日本紀略』の記事に初めてその名が見られ、延暦19年7月19日(800年8月12日)、桓武天皇が行幸したという内容であった。

 『日本後紀』には、嵯峨天皇が弘仁3年(812年)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したとあり、これが記録に残る花見の初出と考えられている。

 
 季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には
   善女竜王
と呼ばれる竜神が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったという。

 
 中世以降は荒廃し、慶長8年(1603年)、徳川家康が二条城を造営した。

 この時には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小した。
 また、神泉苑の水源も城の堀の水源の一つとして奪われた。

 天明8年(1783年)の天明の大火で、堂塔社殿を焼失した。



    
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2016年03月29日

伊奈波神社(いなばじんじゃ) 式内社「美濃国厚見郡 物部神社」の論社

  
伊奈波神社(いなばじんじゃ)

 美濃国三宮で、旧社格は国幣小社

 式内社「美濃国厚見郡 物部神社」の論社である。
 
 延長5年(927年)にまとめられた『延喜式神名帳』には、美濃国厚見郡の神社として「伊奈波神社」の社名は記されていない。
 ただ、小社として「物部神社」の社名があり、これが当社に合祀された物部神社であるとされる。

 『美濃国神名帳』には「正一位 伊奈波大神」「従五位下 物部明神」と記載されている。

 
 

ご祭神
*五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
  主祭神 垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神


*淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)
  五十瓊敷入彦命の妃


*日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
  五十瓊敷入彦命の母


*彦多都彦命(ひこ たつひこのみこと)
  五十瓊敷入彦命の外祖父


*物部十千根命(もののべのとちねのみこと)
  五十瓊敷入彦命の臣下

 なお、これらの神を伊奈波大神と総称する。

  


創建由来
 社伝によれば、五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定した。
 ただ、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたという。
 
 社伝によれば、景行天皇14年
   武内宿禰
が稲葉山北西の椿原(現在の岐阜公園内の丸山)に五十瓊敷入彦命を祀ったのに始まるとされる。
 壬申の乱の際に天武天皇が当社に戦勝を祈願したという。
 
 
 場所 岐阜市伊奈波通り1-1


 


    
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2016年03月24日

戸隠神社(とがくしじんじゃ) 九頭龍大神ほかを祀る

  
戸隠神社とがくしじんじゃ

 長野市北西部の戸隠山周辺に、以下に記す五社を配する神社。

 各社の主祭神は、地主神である
   九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)
以外は天照大神(あまてらすおおみかみ)が弟の
   素戔嗚尊(すさのおのみこと)
の度重なる非行を嘆いて天岩戸(あまのいわと)に隠れ、この世に暗黒と悪神がはびこったとの神話にまつわる神様。
 ただ、いつ頃から現在の祭神を祀るようになったかは不明。

 ただ、他の多くの神仏習合の神社とは異なり、祭神は江戸時代以前から変わっていない。

 
 

ご祭神
*天表春命(あめのうわはるのみこと)
   宝光社(ほうこうしゃ)に祀られている神様
   現在地への鎮座は康平元年(1058年)、天暦3年(949年)に奥社の相殿として創建された。
   中社の祭神である天八意思兼命の子にあたり、学問や技芸、裁縫、安産や婦女子の神とされる。

   麓から登ってきて最初にあり、うっそうとした杉木立の階段を上って参拝する。


*天鈿女命(あめのうずめのみこと)
   火之御子社(ひのみこしゃ、日之御子社とも書く 旧宝光院)に祀られている神様
   天照大神が隠れた天岩戸の前で面白おかしく踊って天照大神を誘い出すきっかけをつくったとされる女神。
   舞楽や芸能、また火防の神とされる。
    
   宝光社の上1.5kmほどの場所にあり創建は天福元年(1233年)。
   
   この他に高皇産霊命(たかむすびのみこと)、その娘である栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)、
   栲幡千々姫命の夫である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を祀る。

   他の4社が神仏混淆であった時代も当社だけは一貫して神社であった。


*天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)
   中社(ちゅうしゃ)に祀られている神様。
   現在地への鎮座は寛治元年(1087年)で火之御子社の上1.5kmほどにある。
   宝光社と同時期に奥社の相殿として創建された。

   天照大神が天岩戸に隠れたとき
       岩戸神楽(太々神楽)
   を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったとされる神様。
    また、知恵の神ともされる。

   境内周辺には樹齢約900年の三本杉があり天然記念物に指定されている。


*九頭龍大神
   九頭龍社(くずりゅうしゃ)に祀られている神様。
   雨乞い、縁結びの他、虫歯・歯痛にご利益があるとされる。

   奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古い。
   地主神として崇められている。

   戸隠山には「戸隠三十三窟」といわれる洞窟が点在し、その「龍窟」にあたる。

   本殿から本殿右手上の磐座の上まで廊下が続いており、そこが「龍窟」となる。 
   

*天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
   奥社(おくしゃ)に祀られている神様。
   天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神様。

   戸隠三十三窟「本窟」・「宝窟」と言われる中心となる窟が奥社本殿内部にある。
   非公開なので内部に何があるのかは秘密とされている。


   神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされる。
   

 この奥社は中社から車で2.5kmほど車道を登った後、まっすぐ続く約2kmの参道(車両は進入禁止)を登りきった場所にある。
 途中に赤い「随神門(山門)」があり、 その奥は17世紀に植えられたとされる杉並木になっている。

 神仏分離以前は随神門より奥の参道左右に子坊が立ち並んでいたとされ、旧奥院にあたる。

 明治時代の廃仏毀釈までは聖観音菩薩(現在は千曲市の長泉寺本尊、仁王尊像は長野市の寛慶寺)を祀っていた。

  

創建由来
 奥社の創建は孝元天皇5年(紀元前210年)とも伝わるが、縁起によれば飯縄山に登った「学問」という僧が発見した奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849年)とされる。

 日本書紀の天武紀には684年三野王(美努王)を信濃に派遣し地図を作らせ、翌685年に朝臣3人を派遣して仮の宮を造らせたとの記述がある。
 持統天皇が691年に使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせたと記録があり、この水内の神が戸隠神社とする説がある。

 平安時代から室町時代 平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の
   戸隠山勧修院顕光寺
として全国にその名を知られた。

 修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。

 延暦寺山門派の別当職であった栗田氏が鎌倉期以後は山麓の
   善光寺(園城寺寺門派)別当
も世襲したことから両寺は関連を強め、参詣者は一度に両方を共に参詣することが多かったという。

 室町時代には戸隠神社で天台・真言両宗の法論闘争が発生した。

 応仁2年(1468年)天台派の
   宣澄法師
が真言派に暗殺された。

 戦国時代となり北信濃地域は信濃侵攻を行う甲斐国の
   武田晴信(信玄)
と北信豪族の後ろ盾となった越後国の上杉謙信との争乱に巻き込まれ熾烈な戦闘が繰り返された。

 江戸時代 江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立した。

 その後、東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まった。

 明治時代となり、廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり宗僧は還俗して神官となった。

 戸隠の寺院に奉られていた仏像などは、戸隠近隣の村の寺院などに移された。

 現在の奥社、中社、宝光社の3院は天台系となっており、これと激しく抗争して約500年前に滅亡したとされる西光寺など真言系の寺院が存在していた事も知られている。

  
 
 
 場所 長野県長野市戸隠3690


 


    
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2016年03月22日

手力雄神社(各務原市) 腕力・筋力を象徴する神様


手力雄神社(てぢからおじんじゃ)

 岐阜県各務原市那加地区の産土神で、各務原市内金幣五社の一社。
 
 6世紀末期ごろ中里(現 那加地区)を支配していた豪族により、山の中腹に磐座を祀ったのが始まりとされる。

 真幣明神(美濃国神名帳)という名の神社であった。


 本殿の軒に4m近い龍の彫刻が巻きついており龍神信仰の影響も見られる。

 岐阜周辺では山岳信仰があり東山道には奥社に天手力雄命を祀る長野県鎮座
   戸隠神社
   九頭龍社
がある。

 なお、九頭龍社は天手力雄命が奉斎される以前に地主神として奉斎されていた。

 
 岐阜市の手力雄神社は、860年(貞観2年)といわれ、各務郡と厚見郡の有力者
    各務吉雄・吉宗
の手により各務郡の各務氏の氏神(各務原市の手力雄神社)を厚見郡に分祀したといわれている。

 なお、岐阜市下川手には各務吉雄が祀ったと伝わる
   石切神社
があるが、こちらは各務氏の祖神(鏡作りの祖)
   石凝姥命
を祀っているという。
 (各務氏は938年-1567年の間、勢力を保っていた。)
  
 
 各務原市の手力雄神社は「手力」の初見が永禄10年(1567年)のことで信長公が寄進した宝物に記載されている。

 その前には「長塚宮」文明7年(1475年)とされている。

 古くは938年から956年に編纂された美濃国神名帳では「真幣明神」他、現在の相殿神の神名も見られる。

 
 

ご祭神
*天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
  日本神話に登場する神様で
  岩戸隠れの際、岩戸の脇に控えており
      天照大神
 が岩戸から顔をのぞかせた時、岩戸を引き開けて、それにより世界に明るさが戻った。
  天の手の力の強い男神の意味があり、腕力・筋力を象徴する神様。
  


創建由来
 各務原台地には古墳時代の後期(6世紀後半)の古墳も存在することから古い時代より神聖な場所として信仰があった。
 最西の水のつかない場所が鎮座地となり、そのの脇には木曽川(旧広野河)がながれており水に関わりの深い地域でもある。

 壬申の乱で功績を挙げた村国氏、各務氏また承久の乱以降守護家として土岐氏へと支配者が入れ変わった。
 各時代の中で諸豪族に崇敬と手厚い保護を受けた。

 永禄10年(1567年)、隣国尾張の
   織田信長
は当社で稲葉山城攻めの戦勝祈願を行った。

 信長は各務原へ攻め入り、周囲の寺を焼き払って当社に迫ったところ、霧が立ち込め体の自由が利かなくなり落馬したとの逸話がある。  

 信長はこれを神罰と恐れ、以後崇敬し、戦勝後は各務野原近里千三百町歩という広大な社領や宝物等を寄進し文化財として今日に至った。

 信長公が戦勝祈願したことから、今日では、勝運・開運の神としてスポーツ関係等各種団体の勝運・必勝祈願の参拝者で賑わっている。
 
  
 
 場所 岐阜県各務原市那加手力町4

 

  
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2016年03月14日

尾張戸神社(おわりへのじんじゃ)

  
尾張戸神社(おわりべじんじゃ)

 名古屋市守山区と瀬戸市にある東谷山(とうごくさん)の山頂に鎮座する神社で別称として「熱田の奥の院」や「東谷明神」・「当国明神」と呼ばれている。

 かつては熱田神宮に次ぐ大社であったとする伝えられている。



 平安時代中期(935年)に編纂された格式『延喜式』神名帳には尾張国山田郡に「尾張戸神社」と記載がある式内社で旧社格は郷社。

 また平安時代末期の『尾張国内神名帳』では 「尾張戸天神」と記載がある。


 中世には、大永元年(1521年)7月17日に起きた火災によって神宮寺と共に焼失し、神宮寺は廃寺となった。

 なお、同年12月には尾張の守護大名の
   斯波義達
により社殿が再興されたものの斯波氏の勢力が今川氏親軍の侵攻を受け戦費が嵩んだ影響などもあり戦国時代末期には荒廃した。


 徳川幕府の治世となり初代尾張藩主
   徳川義直
の時、尾張戸神社境内から「当国明神」銘の鉄筒が出土したとされる。

 当時は「東谷大明神」と称していたが、この時に「東谷」が「当国」すなわち「尾張国」からの変化であると見なされ、『延喜式』神名帳所載の「尾張戸神社」にあてられ、祭神は尾張氏祖神となされた。

 名古屋城の鬼門の位置に鎮座することから尾張徳川家の信仰は篤く、2代藩主の徳川光友により寛文5年(1665年)に中社・南社・薬師堂が造営された。

 寛文 11年(1671年)には社殿の修造が行われ、それ以後も尾張藩による営繕が行われた。

 なお、明治維新後、明治5年(1872年)5月に近代社格制度において郷社に列した。



 社伝の「東谷大明神草創本紀」によると、第13代
   成務天皇
治世の5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたと伝えられている。

 宮簀媛命は日本武尊の妃で
   建稲種命
の妹にあたる。

 建稲種命は尾張国造乎止与命(オトヨ)の子で、景行天皇と成務天皇の二代の間、大和朝廷に仕え、日本武尊東征の際、副将軍として軍を従えて軍功を挙げたとされる。
   



ご祭神
* 天火明命(あめのほのあかりのみこと)
       尾張氏祖神
 

* 天香語山命(あめのかぐやまのみこと)
       別名を「高倉下命(たかくらじのみこと)」。
    天火明命の長子
 

* 建稲種命(たけいなだねのみこと)
       天火明命十二世孫
 

 祭神のうち天香語山命(高倉下命)は、庄内川対岸の高蔵山に降り立ち、のちにこの東谷山に移ったとされる。
 この際に白鹿に乗って川を渡ったといい、その地に架かる「鹿乗橋」に伝承の名残を残している。

  

 
(創建由来)
 
 江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された地誌
   『尾張名所図会』
には、尾張戸神社 が鎮座する「東谷山」の由来について
   「尾張戸の神を鎮まります山」
として古くは「尾張山」と呼ばれていた。

 尾張の国名を表す「当国(當国、とうご く)」から「当国山(當国山、とうごくやま)」と称されるようなった。

 これが転じて「東谷山」と書き表す様になったと伝えられている。


 東谷山西麓には多数の古墳が設けられており、尾張戸神社本殿も円墳
   「尾張戸神社古墳」
の墳丘上に鎮座し、「尾張戸」の社名を「尾張部」を意味する「おわりべ」 と呼び、古墳は尾張氏の墓であると伝えられる。




 
 
 場 所  愛知県瀬戸市十軒町845
       名古屋市守山区大字志段味字東谷209







尾張戸神社古墳(おわりべじんじゃこふん)
 志段味古墳群を構成する古墳の1つで、国の史跡に指定されている。
 円墳が埴輪を伴わない点や葺石の類似点から、東谷山麓にある
   白鳥塚古墳
と同時期の4世紀前半の築造とされている。

 なお、規模・構造 この尾張戸神社古墳の形式について、前方後円墳との指摘もあったが2009年の(平成21年)の名古屋市教育委員会文化財保護室による試掘調査・本調査で円墳であることが確認された。

 この調査によって墳丘は直径約27.5メートルで2段築成と推測されたが、2段目は神社の社殿造営のためにほとんどが削平されていた。
 1段目は墳裾から高さ約2メートル、傾斜は30-35度で、葺石は角礫主体であった。

 基底石の大きさは約30センチメートルで、上部は10-20センチメートルの礫が使用され、石英の小礫が混ざっていた。
 これは葺石を配置したのちに蒔かれた可能性もあるとされる。

 1段目のテラス部は幅1.2-1.4メートルで、石英の小礫が葺かれ、2段目は30センチメートルほどの基底石とその上側の一部のみ、残存が確認された。

 葺石は1段目と同様に10から20センチメートルの小礫が使用されていた。
 周溝は確認されていない。

 2014年(平成26年)10月6日、古墳域は白鳥塚古墳(1952年に既指定)・中社古墳・南社古墳などとともに「志段味古墳群」として国の史跡に指定された。


中社古墳(なかやしろこふん)
 尾張戸神社の境内社・中社の社殿下にある墳丘長約63.5メートルの前方後円墳で志段味古墳群を構成する古墳の1つ。
 東谷山山頂から南約120メートルの地にある。

 斜面には川原石の葺石があり、円筒埴輪が巡らされている。
 これらの墳形・埴輪から、尾張戸神社古墳に続く4世紀中頃の築造とされている。


南社古墳(みなみやしろこふん)
 尾張戸神社の境内社・南社の社殿下にある直径約30メートルの円墳で東谷山山頂から南の鞍部を越えた位置にある。
 墳丘の上段には円礫、下段には角礫が葺かれる珍しい形式を有している。
 出土した円筒埴輪が中社古墳と同形式であることから、本古墳も同じく4世紀中頃の築造とされる。
   



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2016年03月13日

青衾神社(あをふすまじんじゃ)


青衾神社(あをふすまじんじゃ)

 平安時代中期(935年)に編纂された格式『延喜式』に「尾張国青衾神社」と記載され、熱田神宮と並んで式内社に列せられている古社。
  
 また、尾張藩士の天野信景が宝永4年(1707年)に著した「本国神名帳集説」(尾張国の神社名簿)には「正二位青衾名神」と記載され、海蔵門(かつて熱田神宮の境内にあった)の外にあった青衾祠は、この社の遙拝所(ようはいじょ)という。

 なお、境内に末社の新氷上祠がある。
 
 祭神は天道日女命だが、『尾張名所図会』では祭神について触れていない。
 

 中秋の名月の日を祭日として、青衾神社祭がとり行われている。


 
 

ご祭神
*天道日女命(あまのみちひめのみこと)
   尾張氏の祖とされる天香語山命(あまのかごやまのみこと)の父
      火明命(あまのほあかりのみこと)
 の妃で、高倉下命の母が祭神となっている。

  


創建由来
 創建の詳細は不明。

 青衾神社は、熱田神宮の境内の外に営まれる境外社のひとつ。
 熱田神宮は本宮をも含めると、境内と境外あわせて45社に及ぶ。

 境外社は16社あるが、当社はその1社となっており、16社の中に、延喜式神名帳には
   高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)
   氷上姉子神社(ひかみあねこじんじゃ)
   青衾神社(あおふすまじんじゃ)
の3社が式内社として含まれている。 
 
 青衾神社は第2次大戦において米軍の空襲で昭和20年3月に焼失した。
 昭和43年2月に再建されたたものの式内社に列せられた古社でありながら、住宅一件分(50坪ほど) の境内規模まで縮小している。

 神社は南面しているところが大部分だが、当社は拝殿・本殿が東向きに造営されている。
 
 もともとの本宮は現在地より北西に鎮座してといわれ、日本武尊の陵墓と伝えられる白鳥古墳や尾張氏の墓とされ東海地方最大の前方後円墳
   断夫山古墳
が所在している。

 
 
 場所 名古屋市熱田区白鳥2−6−1(白鳥小学校西)




    
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2016年03月11日

高座結御子神社(たかくらむすひみこじんじゃ)

  
高座結御子神社(たかくらむすひみこじんじゃ)

 熱田神宮境外摂社である。
 熱田神宮と同じく尾張の祖神を祀る高蔵地域の鎮守神・産土神で、地元では「高座さま」と呼ばれ篤く信仰されている。

 平安時代、文徳天皇の勅命により斉衡2年(855年)に編纂が開始され
   『続日本後紀
の承和2年(836年)条に尾張国の
   ・日割御子神
   ・孫若御子神
   ・高座結御子神
の熱田大神御児神3神を名神に列するという旨の記述がある。

 延長5年(927年)に編纂された格式『延喜式』神名帳では尾張国愛智郡に「高座結御子神社 名神大社」と記載される式内社。
 また、尾張藩士の天野信景が宝永4年(1707年)に著した「本国神名帳集説」(尾張国の神社名簿)には「従二位高座結御子神社 名神大社」と記載される、この地方有数の古社です。


 元亀2年(1571年)の造営の際には織田信長からの寄進があった。
 このほか、江戸時代の元和4年(1618年)には阿波国の大名で徳島藩祖
   蜂須賀家政
による修理があった。
 また貞享3年(1686年)の江戸幕府による熱田神宮造営の際、当社にも修理のことがあった。

 社殿は尾張造の丹塗りであったが、昭和20年(1945年)の米軍機による無差空爆でほとんどを焼失した。

 昭和38年(1963年)に焼失以前に準じる形態で再建されている。

 

ご祭神
*高倉下命(たかくらじのみこと)

 『延喜式』神名帳での祭神の記載では1座で、尾張氏の祖神として知られる神である。

 社名には「御子神」となっているが、『続日本後紀』で日割御子神・孫若御子神(いずれも熱田神宮境内摂社)とともに高座結御子神が「熱田大神御児神」であると明記されている。
 そのため、古くから熱田神宮と深い関係にあった神と考えられる。

 ただ、文献によればそのほかに仲哀天皇説、成務天皇説、成務天皇・仲哀天皇両神説などもある。

  

 
(創建由来)
 創建は不詳。

 伝承では天武天皇の御世(673年-686年)とも、熱田神宮本宮と同時期ともいわれている。

 高座結御子神社を含む熱田神宮の境外にある摂社に関しては、古墳時代の尾張諸勢力の分布との対応を指摘する説がある。

 熱田台地を支配していた主勢力(断夫山古墳・白鳥古墳や熱田神宮)が周辺勢力を吸収した結果、各神社が熱田神宮の神統譜に組み込まれるに至ったと推測されている。

 高座結御子神社および高蔵公園の周辺には、高蔵貝塚・高蔵古墳群などの弥生時代から古墳時代に渡る遺跡が確認されている。

 この高蔵遺跡は東西約500メートル・南北約700メートルにおよぶ大規模なもので、弥生時代の代表的な遺跡としては全国的にも知られている。

 このほか、古墳時代としては東海地方では最大級の前方後円墳といわれる断夫山古墳や日本武尊の墓とされる白鳥古墳などの首長墓の造営に直接関与した集団の遺跡とされている。

 
 
 場所 名古屋市熱田区高蔵町9-9
 




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2016年03月10日

佐那神社(さなじんじゃ) 天手力男命を主祭神とする神社

  
佐那神社(さなじんじゃ)

 三重県多気郡多気町仁田に鎮座する神社で、旧社格は県社。

 伊勢神宮皇大神宮(内宮)に相殿神として祀られている
   天手力男命
を主祭神とし、伊勢神宮の古材の払い下げを受けて社殿が造り替えられた。
 伊勢神宮との関連の深い神社として知られる。

 社名の「佐那」は古事記や皇太神宮儀式帳に記載のある「佐那県」という地名に由来。
 なお、佐那近辺は古来より水銀の産地として知られ、佐那造は古代の水銀採掘に携わった人々とされる。

 また近世には鎮座地周辺を「佐奈谷」と称していたが江戸時代には俗称として「大森社」・「中の宮」と呼ばれた。

  なお、「中の宮」の名は、佐那神社とともに神宮造替使によって社殿の建て替えが行われた多気郡の3社である
   須麻漏賣社
を一之大宮とし、櫛田神社を大社と呼んだことと関連すると言われる。

 
 

ご祭神
*天手力男命
   腕力・筋力を象徴する神様。

*曙立王命
   伊勢の品遅部、佐那造の始祖


 この2柱のほか、合祀元の神社の祭神であった天宇受賣命・速玉男命・伊邪那美命・天照大御神・須佐之男命・天忍穂耳命・天穂日命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀理毘賣命・多岐都比賣命・市寸嶋比賣命・火産霊神・倉稲魂命・大山祇神・木花咲耶姫命・事解男命・誉田別尊・猿田彦命・菅原道真公・不詳2座を祀っている。



  


創建由来
 創建は不詳。
 平安時代の『延喜式神名帳』に記載があり、伊勢神宮の式年遷宮に合わせて外宮造替使によって社殿が建て替えられた6社のうちの1社である。

 また、元禄12年(1699年)まで有爾郷より土器が調進されていた。

 江戸時代には、戦国時代の戦乱の影響から中断していた式年遷宮の制度が再開され、神宮の古材の払い下げを受けて建て替えられた。

 和歌山藩は当時「中の宮」などと呼ばれていたこの神社の社頭に「佐那神社」の標石を立て、式内社に比定した。

 
  
 
 場所 三重県多気郡多気町仁田156番地


 


    
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2016年03月08日

名神大社(みょうじんたいしゃ) 霊験が著しいとされる神に対する称号


名神大社(みょうじんたいしゃ)

 律令制下において、神々の中で特に古来より
   霊験が著しいとされる神
に対する称号で、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社のこと。

  
 古代における社格の1つとされ、その全てが
   大社(官幣大社・国幣大社)
に列しており「名神大社」と呼ばれる。
 
 『続日本紀』天平2年(730年)10月庚戌(29日)条に渤海からの貢物を諸国の「名神社」に奉ったと記録があるのが文献上の初見。

 なお、律令制の弛緩に伴って、名神社は二十二社へと収縮固定されて名神祭も廃絶した。
  
  
 中世以後は社格の意味を持たない「明神」に変化していった。

 ある神が名神と認められる条件としては、官社(官幣社)としての神位を授けられ、大社に昇格している必要があるとされる。

 なお、名神となるには、勅許を得てから神祇官の神名帳に記載されるという手続きが定められていた。
 
 
 名神祭(みょうじんさい)は
   国家的事変
が起こり、またはその発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀のこと。
  
 
 具体的な祈願の例としては、天平宝字8歳(764年)11月癸丑(20日)の
   藤原仲麻呂の乱
における仲麻呂誅討の報賽として近江国の名神社に奉幣したとの記録がある、

 これは実際に政治的事変が起こった際に行われた記事が初見。

 記録に残る例は畿内の名神に限る場合は祈止雨を、全国名神に及ぶ場合は豊稔の予祝や災害の予防といった抽象的なものを祈願したものが大半を占めており、天候不順から凶作を回避して穀物の生産を維持して経済基盤を維持していきたいとの願いが感じられる。

 飢饉などにより社会の混乱が引き起こされ、反乱が頻発することで国家の安定が損なわれ国が滅んだ中国の悲惨な状況を伝え聞いており、そうした状況を回避したいという思惑が背景にあったのだろう。

 


    
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2016年03月05日

火上姉子神社(ほのかみあねのこじんじゃ)

   

火上姉子神社(ほのかみあねのこじんじゃ)

 名古屋市緑区大高町火上山にある神社。
 式内社で、旧社格は郷社。現在は熱田神宮の境外摂社。
 「氷上山(火上山)」と称される丘陵上に鎮座しており、熱田神宮の創祀以前に
     草薙剣(三種の神器の1つ)
が奉斎された地といわれる。

 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では尾張国愛智郡に「火上姉子神社」と記載され、式内社に列している。

 「火上」の訓みは「ヒカミ」のほ か「ホノカミ」とも振られている。


 寛治7年(1093年)に尾張国の「火上社」の臥木が起き立ったことに関して朝廷で議定のことがあったという。
 また伝承では、平治2 年(1160年)に
     源義朝
が知多郡に赴く途中で太刀1口を当社に献上した。


 社殿の造営に関して、寛正2年(1461年)の造営のの記録がある。

 文明14年(1482年)の文書によると、神仏習合時代には 境内に神宮寺・阿弥陀堂などの仏教施設が建てられていた。

 明治維新後、明治5年(1872年)には近代社格制度において郷社に列した。

 その後、明治13年(1880年)に熱田神宮摂社に復した。


 社殿が明治21年 (1888年)に火災で焼失したため、明治26年(1893年)に熱田神宮別宮の八剣宮社殿が移築・転用された。

 
 

ご祭神 
*宮簀媛命(みやすひめのみこと/みやずひめのみこと)
  
   「美夜受比売」の表記で尾張国造の祖で建稲種公の妹
   「尾張国風土記」では「宮酢媛命」の表記で尾張連らの遠祖
   日本武尊(第12代景行天皇皇子)の妃になった。

 

 
(創建にまつわる伝説)
 
 氷上姉子神社の社伝では、仲哀天皇4年に宮酢媛の館跡(現在の元宮の地)に宮簀媛命の神霊を祀ったのが氷上姉子神社の創祀になる。

 その後持統天皇4年(690年)に東方の現社地に遷座したとする。


 
 
 場所 名古屋市緑区大高町火上山1-3





   
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2016年03月04日

川原神社(かはらじんじゃ)

  
川原神社(かはらじんじゃ)


 式内社で建立は定かではないが、平安時代中期(935年)に編纂された格式『延喜式』に尾張国川原神社と記されている。

 典型的な国つ神系の神社として太古より山崎川沿いに開発された集落のために鎮守の任を担った
   日の神
   埴山姫神(土の神)
   罔象女神(水の神)
   防火鎮火の神
が祀られている。


 境内の池には弁財天が祀られていることから「川名の弁天さま」と信仰を集めています。

 昔このあたりが入り組んだ海岸線の入り江だったためと言われ大正時代には小舟が見つかっている。

 社殿は第二次世界大戦で焼失、その後、再建されたが1992年に再び不慮の火災で焼失した。


 慶長六年(1601)に徳川家康の四男
   松平忠吉
が、神領二十石を寄進している。

 また、寛文四年(1664)には徳川光友(尾張藩2代目藩主)が豊作を祈願している。

 地元ではしばしば『さんぱち』と呼ばれる朝市が毎月3と8のつく日に開かれ、大勢の人でにぎわっている。

 境内は木々に囲まれ、クスノキやアラカシなどの保存樹も数多く存在する。

 境内には「弁天池」と呼ばれる池があり、弁才天が祀られていたが神仏分離で近くの曹洞宗太平寺へ遷された。


 この池はカメがたくさんいることでも知られ、江戸時代にかかれた、『尾張名所図会』にもたくさんのカメが描かれている。


 2003年に崩壊した石垣の修復作業の際、水を抜いたところ357匹ものカメが生息していた。

 ただ、近年はミドリガメが目立ち問題となっていたが多くは駆除され、在来種のニホンイシガメ、クサガメなどが主となっている。

  
  

 

ご祭神
*市杵嶋姫命いちきしまひめ)
 九州の海洋神で、船の安全を守る神様である宗像三女神の一柱で後に弁財天と同一視されている。
 イチキシマヒメという名前は「厳島神社」の「イツク」と同様に、元々は「神聖な」という意味の「斎く(イツク)」ともいわれる。



*日神(ひのかみ)・埴山姫神(はにやまひめのかみ)・罔象女神(みつはのめのかみ)
 
 
 

 
(創建由来)
 不詳。

 
 
 場所 名古屋市昭和区川名本町4-4
 




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2016年02月29日

物部神社(もののへのじんじゃ)

  
物部神社(もののへのじんじゃ)

 平安時代中期(935年)に編纂された格式『延喜式神名帳』における式内社で平安時代末期の尾張国内神名帳には、従三位物部天神と記されている。

 大石を神体としており、石神神社(いしがみじんじゃ)、石神堂(いしがみどう)、山神(やまがみ)とも呼ばれている。

 
 垂仁天皇の御代に初めて社殿を造営し、。平安時代前期の延喜式神名帳には愛智郡(愛知郡)の式内社として物部神社の記録がある。


 JR中央本線千種駅の周辺は物部神社や高牟神社がある地域で、古代には物部郷古井村、中世には鳴海荘古井村と呼ばれる物部氏の拠点があったとされる。

 式内社として知られる両社は400メートルほど離れた位置にあり、尾張名所図会には物部神社と高牟神社が同一図に描かれている。


 元禄年間(1688年-1704年)には、第3代尾張藩主徳川綱誠が社殿を修復した。

 1868年(明治元年)、尾張国千種村の本社が延喜式神名帳の物部神社に同定されたのち村社に列せられた。


 1953年(昭和28年)には本殿拝殿が造営された。

 

ご祭神
*宇麻志麻遲命(うましまじのみこと)

  
    
  
  
 
(由緒)
 物部氏、穂積氏らの祖とされる人物神武が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話
 である「東征」の時、大和地方で東征に抵抗した豪族の長
     長髄彦
 を殺して父・邇芸速日命と共に帰順した。
  その後、物部を率いて四方の逆賊を平らげ、神武天皇の即位に際して
     饒速日命
  の遺した10種の天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)を献上し、それを
  使って天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったとされる。
 
   神武天皇はこれを喜び、神剣(布都御魂)を授け、殿内に侍られた。
   これを後世の鎮魂祭の初めとしている。

   なお、この後足尼(すくね:後の宿禰)と号した。

 
   物部神社の社伝によれば、美濃国・越国を平定した後に石見国で没し、
  現在の社殿の裏に埋葬されたという。
   越国の平定は、異母兄の天香山命の事績として知られる。

 
 
 
 場所 名古屋市東区筒井三丁目31番21号
  




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2016年02月28日

味鋺神社(あじまじんじゃ)

  
物部神社(もののへのじんじゃ)

 祭神の宇麻志麻治命は物部氏の祖神とされる。
 延喜式神名帳にある尾張国春日郡味鋺神社である。

 江戸時代には六所明神とも呼ばれた。寛治7年(1093年)に競馬の神事が催されたと伝わっている、
 かつては例祭で流鏑馬神事が行われていたが戦後になって絶えた。


 なお、この流鏑馬は1955年 (昭和30年)の名古屋市合併を記念して催され、1998年(平成10年)にも流鏑馬装束の再現が行われている。

 
 隣接する護国院は天平年間(729年〜748年)に行基によって薬師寺として建立されたとされる。
 なお、味鋺神社は同寺の鎮守であったと伝わる。

 神社周辺は百塚と呼ばれた時期もあり、味鋺古墳群と呼ばれる約50基以上の古墳があった。
 戦後の宅地開発によって滅失した。

 

ご祭神
*宇麻志麻遲命(うましまじのみこと)
 


*味饒田命    
  
  
 
(由緒)
 かつて加藤清正によって稲置街道にかけられた清正橋と呼ばれる石橋が1978年(昭和53年)に神社の境内に移設されている。
 この石材は古墳の石室材を転用した可能性も言われている。
  

 
 
 場所 名古屋市東区筒井三丁目31番21号





   
    
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2016年02月21日

伊奴神社


伊奴神社(いぬじんじゃ)

 平安時代中期(935年)に編纂された格式『延喜式』に「尾張国山田郡伊奴神社」と記載される式内社。
 また、尾張藩士の天野信景が宝永4年(1707年)に著した「本国神名帳集説」(尾張国の神社名簿)には「従三位伊奴天神」と記載され、1330年余りの歴史を持つこの地方でも有数の古社です。


 もともとは、645年(乙巳の変)に蘇我氏亡ぼし、大化の改新を行った
   天智天皇
の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟
   大海人皇子(後の天武天皇)
が東海道などの地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえした内乱(壬申の乱 672年)で大友皇子(弘文天皇)を倒し、第40代の天皇として即位した御代(西暦673年)に「稲生」と呼ばれたこの地で取れた稲を皇室に献上した際に建立されたものと伝えられいる。

 

ご祭神
*素盞鳴尊(すさのおのみこと)
   御神徳:厄除・家内安全
   素盞鳴尊は伊弉諾神(いざなぎのかみ)の御子で、天照大御神のご弟神
   出雲地方を治められ産業発展、商売繁盛、病気平癒等の霊験あらたかな神様
 
 
*大年神(おおとしのかみ)
   御神徳:五穀豊穣・事業繁栄
   大年神は素盞鳴尊の御子で、特に農業の守護神とされる。
   ちなみに「年」とは稲のこと。


*伊奴姫神(いぬひめのかみ)
  御神徳:安産・子授け・子供の生育
  伊奴姫神は大年神の御妃で、子授け、安産、夫婦円満、家内安全等に大きな御神徳をお授けくださる神様
  当神社の社名由来となっております。

 
 
(創建にまつわる伝説)
 伊奴神社の犬にまつわる話として、今でもこの辺りは稲生町、又穂町という地名が残っているように、神社の北側を流れる庄内川の豊富な水を使って大変稲作が盛んであった農耕地域だといわれています。
 ある日、山伏が旅の途中で伊奴村(現稲生町)に泊まった時のこと、そこの村人から洪水で困っているという話を聞き、山伏は泊めてもらったお礼に御幣を立てお祈りをしてくれたということです。

 毎年被害に遭っていたものの、不思議なことに山伏が御幣を立てお祈りをしてくれた年は洪水もなく豊作となったという。

 不思議に思った村人は、山伏から「開けてはいけない」と言われていた御幣をあけてしまった。
 御幣の中には一匹の犬の絵と犬の王という文字が書いてあっただけであったが、山伏の注意を無視して、中身を見てしまったためご利益が消えてしまったのか次の年はまた洪水に見舞われてしまった。

 再び山伏が村を訪れたため、村人は御幣を開けてしまった事を謝り、もう一度お祈りして欲しいと頼んだ。
 この山伏は「御幣を埋め、社を建て祀れ」と言って立去ったという。

 洪水の被害を避けたい村人は山伏の言ったとおりに社を建て祀ったところ、以後洪水はなくなり稲がよく穫れるようになったとのこと。

 この言い伝えが伊奴神社の始まりであるとされ、以後災難厄除けの神様として崇められている。
 
 なお。ご祭神、伊奴姫神さまは安産、子授けに大きなご神徳を頂ける神様で、犬は安産する(お産が軽い)ことから、犬の石像が奉献されている。

 
 
 場所 名古屋市西区稲生町2-12






  
   

     




     
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2016年02月15日

穴太部神社(アナホヘノじんじゃ)



穴太部神社(あなほへのじんじゃ)

 賀茂神社と称されているが式内社の尾張国葉栗郡の穴太部神社(穴太部神社は岐阜県岐阜市の天神神社の説もある)として知られる。

 この神社の境内に湧出する清水は
   「玉ノ井霊泉」(玉ノ井清水、玉井清水)
と呼ばれ、この周辺の地名である「玉ノ井」の由来となっている。


 なお、この清水は奈良時代の聖武天皇の皇后で藤原不比等と県犬養橘三千代の女子である
   光明皇后
の目の病気を平癒させたといわれ、現在も眼病平癒の信仰がある。
  

 創建された時期は記録がなく伝承みではっきりしていないが、6世紀の欽明天皇の代(539年〜571年)と伝えられている。


 1090年(寛治4年)、賀茂別雷命を合祀したことから賀茂神社と改称している。
 
 1586年(天正14年)6月に発生した木曽川の大洪水により木曽川の本流は大きく流路を変えたため、葉栗郡は木曽川によって2分された。

 なお、この蛇行により木曽川の右岸となった地域は美濃国羽栗郡となった。
 これにより美濃国羽栗郡の氏子のために、1599年(慶長4年)、美濃国羽栗郡南及村(現岐阜県羽島市正木町南及)に分社している。

 
 1946年(昭和21年)1月に県社に昇格の予定であったといわれるが、戦後の神道指令の影響で県社に列されていない。

  
 

ご祭神
*玉依姫命
   豊玉姫の妹(海神の娘)や、賀茂別雷神の母などとして数多く登場する神様。

 
*賀茂別雷命(賀茂別雷神社の祭神) 
   賀茂氏の祖神である。
   「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味がある。
 
 
 
 場所 愛知県一宮市木曽川町玉ノ井穴太部4
   



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2016年02月12日

石刀神社(いはとのじんじゃ)


石刀神社(いはとのじんじゃ)

 石刀神社(いわとじんじゃ)は、式内社で、旧社格は県社である。
 毎年4月に行われる「石刀祭り」では、3輌の山車が曳かれる。



 なお、式内社の「石刀神社」は、この一宮市今伊勢町の「石刀神社」のほかに、一宮市浅井町の「石刀神社」、岐阜県羽島市桑原町の「八剣神社」が該当する説もあるがこの地域では木曽川の氾濫が多発した地帯であり、その影響で平安時代との郡境がはっきりと分かっていない。

 ここの祭神は八倉比売神だが、現在も正式な社殿はなく、祭祀対象として巨岩を神体としており古代の崇拝の形態が残っている。

 この御神体の巨岩は、長さ約6尺、幅約4尺の漆黒の岩で、太陽の光で黄金色に輝くといわれている。

 この岩は胴体岩で境外に約6尺四方の巨岩(尾岩)があり、江戸時代は「黒岩天王」と称していたという。
 明治時代に石刀神社に改称したという。


 羽島市桑原町の「八剣神社」は一宮市今伊勢町の「石刀神社」の旧地と推測されている。

 江戸時代に三明神社に改称したが、これは伊勢神宮の分社を合祀したためである。
 なお、この地は古くから伊勢神宮の神戸であった。

 
 1600年(慶長5年)、西へ向けて進軍中の徳川家康が訪れ参拝したが、この三明神社に陣を設置したため、社殿の破損、建造物の一部が取り壊されている。

 なお、関ヶ原の戦い後の1608年(慶長13年)に再建されたのを期に、石刀祭りが行われるようになった。
 
 1938年(昭和13年)に石刀神社と改称し、1940年(昭和15年)県社になる。
  

 

ご祭神
* 手力雄命

 
* 豊斟渟尊

 
* 国常立尊

 
* 国狹槌尊

 
 
(創建にまつわる伝説)
 崇神天皇の代、石刀社として尾張国中島郡四条と伝えられている。
 現在も一宮市には三条という地名が残っており、その北部の一宮市から羽島市付近と考えられる。

 その後、檀林皇后(嵯峨天皇皇后)によって現在の地近くに移転したと伝わっている。
 なお、現在地への移転は14世紀ころとのこと。

 
 
 場所 愛知県一宮市今伊勢町馬寄石刀 2





      
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2016年02月08日

漆部神社(ぬりべじんじゃ)


漆部神社(ぬりべじんじゃ)

 漆部神社は愛知県あま市甚目寺東門前に鎮座する社で、かつては甚目寺の鎮守社となっていました。
 明治時代の神仏分離で境内を分け、東隣りには、鎮座地名にもなっている甚目寺がある。
 
 平安時代中期(935年)に編纂された格式『延喜式』神明帳の尾張国海部郡に「漆部神社」が記載されています。
 また、尾張藩士の天野信景が宝永4年(1707年)に著した「本国神名帳集説」(尾張国の神社名簿)には、「従三位 漆部天神」としてみえます。
 
 
 江戸時代に八大明神が合祀されたことから
   八大神社
と昭和32年まで呼ばれていたが、式内漆部神社に比定され、現社号へ改めている。

 
 創立年代は記録がなく不詳となっており、神社の北側には名鉄津島線が通っているが、そこに「漆塚」というところがあったといわれ、旧社地ではないかと推定される。

 日本全国に鎮座する神社の中、府県社583社、郷社3,455社に関する誌料を蒐集した
   『明治神社誌料 府県郷社』
      (明治末期(明治45年(大正元年、1912年))に創刊  関係資料
では、古老の口碑として「元と本村を距る西三町の地にあり、今其跡と称するもの田中にありて袴塚と称す。康安年中今の地に奉遷したる」との記録がある。
 
 

ご祭神
* 三見宿祢命
   『旧事本紀』天孫本紀によると、宇摩志麻治命の四世孫で、出雲醜大臣命の子とされる。
   孝安天皇に仕え、漆部(漆器具の製作を行った人々)の祖神


* 木花咲耶姫命
   各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の
      秀峰「富士山」
  を譲られ、富士山に鎮座して東日本一帯を守護する。
   また、火中出産の説話から火の神とされる。
   なお、富士山本宮浅間大社の社伝では、コノハナノサクヤビメは水の神とされる。
   噴火を鎮めるために富士山に祀られ、妻の守護神、安産の神、子育ての神とされる。


* 八大明神
   (稲荷神社、賀茂神社、春日神社、住吉神社、祇園神社、
              貴船神社、平野神社、松尾神社の祭神の総称)

 
 
(創建にまつわる伝説)
 『式内社調査報告』に記録されている神社の由緒書によれば、漆部神社に隣接する甚目寺を創設した
   甚目連公
というのも、漆部の一族であり、漆部神社はその氏神、甚目寺はその氏寺とされ、共にその氏人氏子によって崇敬されていたとある。

 なお、甚目寺御本尊の御前立である十一面観世音菩薩像が尾張国唯一の乾漆像である。

 甚目連は、『三代実録』貞観六年八月八日条に記録があり、尾張国海部郡の人で治部少録の甚目連公宗氏が、一族の十六人とともに高尾張宿祢の氏姓を賜ったという。これにより、当地を本拠にした甚目氏の存在が明らかになる。

 また、「天孫火明命之後也」ともあるので、尾張連と同族であるが、三見宿祢命の後裔である物部氏族漆部連との関わりは不明。
 
 
 
 場所 愛知県あま市甚目寺東門前11





   
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2016年02月07日

野見神社(のみのじんじゃ)


野見神社(のみのじんじゃ)

 愛知県一宮市今伊勢町にある神社で式内社の尾張国中島郡「野見神社」に比定される。
 旧社格は村社である。

 尾張氏によって開墾されたとき、土師氏の一族が移住。
 土師氏の祖神野見宿禰を奉祀したと推定される。

 境内には5世紀前半に造られた今伊勢古墳群の一つ「野見神社古墳」がある。
 この古墳は拝殿西南の竹藪中にあり、直径20m高さ1mの墳丘で周囲には周濠跡らしき低地が見られる。


 
ご祭神
* 野見宿禰命


   
* 天穂日命
   

 
* 天照大御神
 

 
 上記3柱を主祭神に、宇迦之御魂命と須佐之男命を合祀する。

 
 
 
(創建にまつわる伝説)
 創建時期は不明で、土師氏がこの地域を開拓したさいに創祀したと推測される。
 延長5年(927年)にまとめられた『延喜式神名帳』では国幣小社に列し、『国内神名帳|尾張国神名帳』では「従三位 野見天神」との記載がある。

 応永6年(1399年)の「尾張国国衙正税未進注文」(『醍醐寺文書』)には「野見社」の名が記載されており、当時国衙領内に社領を有する神社であったとの指摘もある。

 
 
 場所 愛知県一宮市今伊勢町宮後字稲荷1929





    
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2016年02月01日

坂手神社(さかてじんじゃ)


坂手神社(さかてじんじゃ)

 愛知県一宮市にある神社で平安時代中期(935年)に編纂された格式『延喜式』に式内社の尾張国中島郡「坂手神社」という(別説として、稲沢市の日吉社がある)。
 創建時期は不明。

 江戸時代は八剣社と称されていたが、1872年(明治5年)に郷社、1941年(昭和16年)に県社となった。
   

 坂手神社のある地は尾張国葉栗郡であるが、中世以前は中島郡と推測されている。
 鎮座している地名の佐千原(さちはら)は、坂手から佐手原、佐千原と変化した地名と見られる。

 明治時代までは、毎年伊勢神宮より「幣錦」を賜っていたという。
 一説には伊勢神宮の御厨であったという。

 また、倭姫命が滞在した元伊勢の尾張国中嶋宮と伝えられている(ただ、中嶋宮は酒見神社の説もある)。
 

 

ご祭神
*高水上(たかみ)神
    大山祗神の息子神とされ、灌漑を守る水の神様。

 
 
(創建にまつわる伝説)
 垂仁天皇14年、天照大神の御霊代を祀る地を探していた倭姫命が、美濃国伊久良河宮(現天神神社)から尾張国中島郡にたどりついた。
 この地に坂手大神を祀ったのが最初という。

 なお、天照大神の御霊代は現在の坂手神社のやや北に仮宮を築き祀ったという。

 
 
 場所 愛知県一宮市佐千原宮東91





    
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2015年07月21日

金札宮(きんさつぐう)


金札宮
 (きんさつぐう)

 場  所  京都市伏見区鷹匠町8番地
 アクセス  京阪電車・近鉄電車の丹波橋駅下車し、西に徒歩5分の位置。
        (伏見市役所の北隣にあたるところ。)

 京都伏見区でも最も古い神社のひとつで奈良時代の天平勝宝二年(750年)の創建。 


 境内の中央にあるご神木のクロガネモチは、「かねもち」=「金持ち」に転じることから、金運開運のご神木として親しまれています。

 金札宮は、天太玉命(白菊大明神)(あめのふとだまのみこと)、天照大御神、倉稲魂命を祀る神社で、謡曲「金札」ゆかりのお宮さんとしても有名です。


 794年、山城国愛宕郡(現京都市)に遷都された第50代の桓武天皇の御世に、天皇が伏見の里に神社建立のため、勅使を遺わされました。  

 このとき天から金札が降り下り、取り上げてみると
   伊勢大神宮の流を絶やさぬため、天津太玉神を祀るように
とのご神託が、金文字で書かれていたと書いてありました。

 謡曲「金札」は、この金札の故事を語り天津太玉神が金札と弓矢で君の代と国土を守護し、悪魔を降伏させ、もう弓矢の必要はなくなったと謡っています。



 金札宮の御神体の金札と、祭神である天津太玉神と天照大神の守護もあって都の平和は長く続きました。  


 開運と幸運を呼ぶ神社として永く人々の尊崇を集めている。


 

由 来
 
 750年大きな流れ星が降る異変があり、第46代の孝謙天皇(女帝で在位749〜758年)がこの現象に深く憂慮された時に伏見久米の里に白菊を植え賞でている翁がおり、「この地に日照りが続き、稲が枯れるような時、私が愛でた白菊の露の一雫より清水が湧き出す」吾は、太玉命で天下の豊秋を喜ぶ。「人々が一度この白菊の露の一雫より、福運が着き、家運は長く隆盛で、子孫繁栄し、火災のわざわいから除かれるであろう」との事。

 これをお聞きになった天皇は、事のほか喜ばれ、天皇みずから筆をとられ社殿造営の指示をだされたとのこと。
 

 この社殿建築中に、
   「永く伏見に住み国土を守らん」
と書かれた金の札が降り人々が集まって来るうちに、空から声がし
   「我こそは天照大神より遣わされた天太玉命なり、
      我を拝まんとすれば、なお瑞垣(みずがき)を作るべし」
と聞こえたとの話も伝わっている。


 また、一説には750年創建で、第56代 清和天皇(在位858〜876年)の頃天皇の命により橘 良基(たちばなよしもと)が阿波国(現の徳島県)より勧請(神仏の分身を他の地に移して祀る事)したとも伝えられています。

 伏見で最も古い神社の1ッであると伝えられている。



  

     
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