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2017年02月03日

長光寺(ちょうこうじ) 


長光寺(ちょうこうじ)

 愛知県稲沢市にある臨済宗妙心寺派の寺院。
 
 仁寿元年(851年)陸奥守に任ぜられた父親
   小野岑守
に従って小野篁が美濃路と呼ぶ街道を通り、陸奥の国に下る途中、この辺りに駐杖した際、路傍に地蔵像を安置したのが始まりと伝わる。

 1161年、平清盛の異母弟で尾張守であった
   平頼盛
が病気平癒のお礼に六角堂を寄進した。
  
 足利尊氏の軍は新田軍を
   箱根・竹ノ下の戦い
で破り、京都へ進軍を始め上洛する途上に太刀を奉納して武運を祈願した。
 1336年に勝利したお礼に六角堂を祈願所として定めた。

 1338年に尊氏が将軍宣下を受けると、山門などを奉納して再興した。
 その後、織田氏・徳川家康・尾張徳川家によって庇護された。
 
 逸話として、織田信長の遊び場であり、六角堂で後に清洲城城代となる
   埴原常安
と出会ったエピソードが伝わる。

 境内奥には、信長愛飲の
   臥松水
と呼ばれる井戸があり、茶の湯や膳にその水を汲んだと伝わっている。
 
 
重要文化財

    地蔵堂(六角堂)  
     室町時代(1510年)建立
    鉄造地蔵菩薩立像 
     鎌倉時代、文暦□年(二年)年銘(1235年)
 


   
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2017年02月01日

尾張六地蔵


第一番     長 光 寺     稲沢市六角堂東町三の二の八
第二番     清 浄 寺     名古屋市中区大須四の一の三二
第三番     地 蔵 院     名古屋市南区呼続町三の一一の二七
第四番     如 意 寺     名古屋市緑区鳴海町作町八五
第五番     地 蔵 寺     名古屋市天白区島田三の一一三
第六番     芳 珠 寺     名古屋市千種区今池二の一六の一三



    
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2017年01月26日

仏教弾圧で廃寺となったという事実を考えもしない?


 韓国の大田地方裁判所は26日、長崎県対馬市の
   観音寺
から2012年に盗まれ韓国内に運び込まれた長崎県指定文化財
   「観世音菩薩坐像(ぼさつざぞう)」
について、「数百年前、日本に略奪された」と主張する韓国中部・瑞山(ソサン)の
   浮石寺(プソクサ)
が仏像を保管する韓国政府に対し、引き渡しを求めた訴訟で原告側の主張を全面的に認め、韓国政府に仏像を韓国の寺に引き渡すよう命じる判決を言い渡した。

 なお、韓国政府側は即日控訴した。

 日本政府は観音寺への早期返還を継続して働きかけてきた。
 判決確定による日韓関係のさらなる悪化を避けるため、韓国政府は即日控訴した。

 韓国外務省報道官は26日の定例会見で政府側の主張が1審では受け入れられなかったと述べ、韓日にはいくつかの困難な問題があるが相互信頼を土台にして共に解決していくことを期待すると続けた。
 

 大田地裁は判決理由として、盗まれた仏像が浮石寺の所有であると十分に推定されると主張した。
 正常な方法ではない形で対馬へ搬出されたと見るのが相当だと続けた。

 判決文によると、像内にあった文書に売買などの経緯が記されていないことや、像に焼けた痕跡があることが
   「略奪された根拠」
と見ることができると根拠の薄い証拠を作り上げて判断した。

 像内の文書に高麗時代の1330年を示す年号や「高麗国瑞州浮石寺」と記されていた。
 このことなどから、浮石寺は「略奪された」と主張したが、略奪された記録が浮石寺にはそもそもない。

 そのため、韓国政府側は「略奪されたとの断定は困難」との立場で反論していた。
 
 
 菅義偉官房長官は26日の記者会見で、今回の地裁判決について「極めて残念。速やかに仏像が日本に返還されるよう、韓国側に適切な対応を求めていきたい」と不快感を示した。


ひとこと

 高麗王朝は中国の元王朝の軍の将軍で女真族の
   李成桂
が元王朝内部の権力闘争や明王朝との戦闘で朝鮮半島の支配力を弱めた間隙をぬって元軍を追いだした。
  
 1388年にクーデター(威化島回軍)を起こして高麗の政権を掌握し、1389年に恭譲王を擁立した。

 高麗王朝内で親明派官僚の支持を受けて体制を固めたのち1392年に恭譲王を廃して自ら国王に即位し李氏朝鮮を興している。
 高麗では仏教が主流であったが建国474年で滅びた。

 なお、李氏朝鮮では仏教よりも儒教を重視する政策を推し進め仏教寺院の多くが破壊されている。

 1407年(太宗7年)の仏教弾圧の際、存続を許された88の寺院の中に浮石寺の名前がないことなどから、少なくとも15世紀初頭、浮石寺は廃寺になっていた。
 仏教弾圧の際に破壊されるのを避けるために持ちだされた可能性の方が大きいだろう。
 
    
     
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2016年09月21日

三輪山(みわやま) 自然物崇拝の対象


三輪山(みわやま)

 奈良県北部奈良盆地の南東部の桜井市にある山で標高467.1m、周囲16km。
 別名で三諸山(みもろやま)とも呼ばれる「なだらかな円錐形の山」である。
 
 縄文時代頃から自然物崇拝の対象であったとされている。

 古墳時代に入ると、山麓地帯に200 - 300mの大きな古墳が数多く作られており
   ヤマト王朝
の初期政治体制でもある三輪王朝が存在していたと考えられている。

 大きな古墳としては第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵がある。
 さらに箸墓古墳(はしはかこふん)は「魏志倭人伝」に現れる邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。
  

 三輪山伝説として、「記紀」において三輪明神の祭神
   大物主神(現在大神神社)
の伝説が載せられている。

 三輪山に入山する場合、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社
   狭井神社
の社務所で許可を得る必要があり、決められた規則を遵守して入山することになる。

 大神神社には本殿がなく、拝殿から神体である三輪山を直接拝むことになる。

 三輪山には辺津磐座、中津磐座、奥津磐座などの巨石群、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、山ノ神遺跡、狭井神社西方の新境内地遺跡などの祭祀遺跡がある。

 頂上には高宮神社が祀られている。

 延長5年(927年)にまとめられた「延喜式神名帳」には式内大社として
   神坐日向神社
が載せられている。

 この日向神社は、三輪山の頂上に祀られ
   太陽祭祀
に深く関わっていた神社と推測される。

 頂上付近はかなり広い平地となっている。


   


 この神社の東方に東西約30m、南北10mの広場に高さ約2mの岩が多数ある。
 これが奥津磐座である。

 現在、この山中で見学できるのはこの磐座だけである。

 奥津磐座や、中津磐座には巨石群の周囲を広く環状に石を据えた形跡がある。

 山ノ神遺跡は巨石と5個の石がこれを取り囲むような状態で大正7年5月に偶然発見された。
 巨石の下には割石を敷きつめて地固めがされていた。

 ここの調査に入るまでの3ヶ月の間に盗掘を受けてており、残った遺物には、小形の素文鏡3、碧玉製勾玉5、水晶製勾玉1、滑石製模造品の子持勾玉1、勾玉約100、管玉約100、数百個の有孔円板と剣形製品、無数の臼玉、高坏、盤、坏、臼、杵、杓、匙、箕、案、鏡の形を模した土製模造品、それに剣形鉄製品と考えられる鉄片などがあった。

 本来はさらにおびただしい量の遺物が埋納されていたことが知られている。


    
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2016年09月20日

梨木神社(なしのきじんじゃ) 別名「萩の宮」

 
梨木神社(なしのきじんじゃ)

 旧社格は別格官幣社。

 明治維新に大きく貢献した三條實萬・三條實美父子を祭神とする。

 境内の井戸の水は
   「染井の水」
と呼ばれ、京都三名水の一つとされる。

 京都三名水(醒ヶ井・県井・染井)のうち、現存するのはここだけ。

 また境内には約500株の萩が植えられており、別名萩の宮とも呼ばれている。

 9月中旬〜下旬には萩祭りがおこなわれる


 
ご祭神
*三條實萬公


*三條實美公

 
 
(創建にまつわる伝説など)
 
 久邇宮朝彦親王の令旨により、三条家の邸宅跡に三條實萬を祀るための社殿を造営し、明治18年(1885年)、地名からとった梨木神社の社号と別格官幣社の列格を受けて創建した。

 その後大正4年(1915年)、大正天皇即位を記念して、子の實美を合祀した。

 社殿の修復等の資金集めに苦慮していた2013年、境内の参道を含む土地をマンション開発業者に60年の期限付きで貸し、その地代を社殿の修復費用に充 てることとした。

 その計画が神社本庁の承認を得られなかったため、神社本庁から離脱し
   単立神社
となる事態となった。

 なお、神社本庁の別表神社の神社本庁からの離脱は気多大社以来のこと。



  場 所 京都府京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町680番地




  
    



    
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2016年09月19日

護王神社(ごおうじんじゃ) 足腰の神様

  
護王神社(いたはとじんじゃ)

 護王神社は、和気氏の創建による
   高雄神護寺境内
に作られた
   和気清麻呂
を祀った廟(護王善神堂)に始まる。

 正確な創建の年代は不詳。

 神社本庁が定めた別表神社(べっぴょうじんじゃ)の社である。

 和気清麻呂と姉の広虫は
   宇佐八幡宮神託事件
の際に、権力者の道鏡から怒りにふれ流刑に処せられながらも信念を曲げず皇統を守った。

 明治天皇の親である
   孝明天皇
はその功績を讃え、嘉永4年(1851年)、和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた。

 明治7年(1874年)、護王善神堂を神社として護王神社に改称、別格官幣社に列格した。

 明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により京都御苑蛤御門前付近にあった公家の中院家の邸宅跡に遷座した。

 大正4年(1915年)、大正天皇の即位の際に広虫が合祀された。
 広虫が孤児救済事業で知られることから、
   子育明神
とも呼ばれるようになった。

 
ご祭神
*和気清麻呂公


*和気広虫姫

 
 
(創建にまつわる伝説)
 
 和気清麻呂が宇佐へ配流の際に
   弓削道鏡
から送り込まれた刺客に襲われた。
 この時、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説がある、

 神社には明治23年 (1890年)から狛犬の代わりに「狛猪」が置かれており、「いのしし神社」の俗称もある。そ

 亥年の参拝者は例年よりも増加する傾向がある。
 境内には狛猪のほかにも多くの猪に因むものがある。

 日本銀行券としてかつて発行されていた10円紙幣は、1890年から1945年まで発行されたものには和気清麻呂と護王神社が描かれた。
 そのうち 1890年に発行されたものは表面の枠模様の中に8頭の小さな猪が描かれた。
 さらに1899年に発行されたものは裏面に大きな猪が1頭描かれた。

 
 場所 京都府京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385






  
    



    
posted by まねきねこ at 12:46| 愛知 ☁| Comment(0) | 社寺仏閣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月14日

大黒寺(大阪府羽曳野市) 「大黒天発祥の寺」


大黒寺

 大阪府羽曳野市大黒にある「大黒天発祥の寺」のこと。
 
 縁起によれば、西暦665年 天智天皇4年 正月甲子(きにえね)の日に修験道の祖
   役ノ行者(えんのぎょうじゃ)
が、金剛山に籠り
   孔雀明王経
を誦え諸仏諸神に人々の救済を祈願していたところ、大地が震え、天空が薄暗くなり、五色の雲がたなびいた。

 その雲の中から大黒天が現れれ「お告げ」をしたという。

 大黒天は、過去世に於いては、摩尼珠王福徳円満如来 天竺にては、マカキャラ天 日本に来りては、大黒天と称す福徳自在の福の神であると話した。

 左の手に袋を持つ、この中に一切の福徳を納めている。

 右の手に槌を持つ、この槌は一切の悪魔を降伏し 諸々の災難を除き、宝福を打ち出だす
   打ち出の小槌
なり。

 我に五つの福を授ける誓願がある。

  第一に父母に孝行の福 
  第二に子授け、子孫長久の福 
  第三に病気平癒の福 
  第四に武運長久の福 
  第五に農民には五穀豊穣、商人には商売繁盛の福
である。

 甲子の日に礼拝し帰依信仰すれば、この五つの福徳寿命が授かり、諸願成就せしめん。

 そして、「我に有縁の地あり。」と一筋の光明を以ってこの霊場(現在大黒寺の在る羽曳野市大黒の地)を示したとのこと。

 役ノ行者は渇仰の思いで拝聴しそのお告げに従い、縁ある善男善女にこの福徳寿命を授けんがため、示された地に寺を建立し大黒天尊像を彫刻し奉じたのが、大黒寺のはじまりと言われる。

 このお告げの中には、「家々の中心の柱を大黒様と思い、大切にすれば一家が栄える」という、大黒柱の由来に当たる様な記述もあった。
 また、甲子の日には、「自然石で大黒様によく似た石が、石川を流れ来て大黒寺の前に流れ着く」という伝承もある。

 以来1350年、現在も60日毎におとずれる甲子の日(大黒天の縁日)には甲子祭(きのえねさい)が行なわれている。
     
  
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2016年08月21日

洲崎神社(すさきじんじゃ)

 
洲崎神社(すさきじんじゃ)

 名古屋市中区栄にある神社で「広井天王」や「牛頭天王」とも呼ばれる。

 江戸時代、尾張名古屋の洲崎の
   天王祭
は東照宮の時代祭と並ぶ二大祭であった。


 尾張徳川家が大規模な名古屋城の築城を行う前には現在の栄一丁目全域が社地であったという。

 築城後、社地には武家屋敷が建てられ、境内に堀川が掘削されるなど大きく縮小していった。

 江戸時代は尾張十社の民社総社的立場にあり、皇室、公家、徳川家より奉納が多数あった。  

 明治45年には、当社に隣接し縄文時代から祀られていたという「石神」を祀る石神神社を合祀。

   
 

ご祭神
*素戔嗚尊
    五男三女神
    稲田姫命

  
*石神
    布都御魂
    道祖神
      猿田彦命
      天鈿女命
 

 
(創建にまつわる伝説)
 古くはこの地は入江で洲崎になり、地神(石神)が祀られていた。
 貞観年間、石神にみちびきにより、出雲から素戔嗚尊がこの地に遷座、奉斎されたという。
 皇室や公家、徳川家からの奉納も多かったと言われている。。



 
 場所 島根県出雲市西林木町376






  
    



       
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2016年08月20日

高牟神社(たかむじんじゃ)

  
高牟神社(たかむじんじゃ)

 成務天皇の時代に創建され、清和天皇の時代に応神天皇が配祀された。
 当社及び物部神社(東区)が所在するJR中央本線の千種駅周辺の地域は、古代には物部氏の拠点があったといわれる。

 当社は物部氏の武器庫が神社になったとされる。

 社名の「高牟」は古代武器の象徴だった鉾の美称という。


 『延喜式神名帳』にみえる尾張国愛智郡(愛知郡)17座のうちの小社「高牟神社」に比定されている。

 また、「本国神名帳集説」(尾張国の神社名簿)には「高牟久天神」の記載がある。

 嘉吉元年(1441年)以降、複数の社殿造営・修復の記録が伝わる。

 尾張藩第2代藩主・徳川光友は、天和3年(1683年)に社殿を修造した。

 明治5年(1873年)、近代社格制度において郷社に列した。

 ただ、太平洋戦争の空襲で社殿等は焼失し、戦後再建された。


  

ご祭神
*高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
   別天津神(ことあまつかみ)で、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々のこと。
   本来は高木が神格化されたものを指したと考えられる。
   また、「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉 
   神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神とされる。
 
 
*神皇産霊神(かみむすびのかみ)
   天地開闢の時、天御中主神・高皇産霊神の次に高天原に出現した造化の三神の一とされる。
   本来は性のない独神だが、造化三神の中でこの神だけが女神であるともされる。
   先代旧事本紀では、高皇産霊神の子であるとされる。


*応神天皇(誉田別尊、ほんだわけのみこと)
  確実に実在が確かめられる最初の天皇と。
  仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られるが河内王朝の始祖とされる。
  また、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王のひとり。

 
 
(創建にまつわる伝説)
 延喜式(927年)にも記載されている古い神社。尾張物部氏の武器庫が神社になったと伝えられる。境内には元古井、古井ノ坂といった地名の由来の元となった古井戸がある。

 境内には古い井戸があり、現在も手水に用いられている。
 別名の「古井八幡」や、鎮座地の旧町名「元古井町」・近隣地名の「古井ノ坂」(こいのさか)の由来 ともなっている。

 なお、拝殿にかけられている社号額は、岸信介の揮毫による。



 「恋の三社めぐり」として、山田天満宮(北区山田町)・城山八幡宮(千種区城山町)とともに恋愛成就の巡礼スポットとなっている。
 もともと 2002年に桜花学園高校のクラブ活動で企画されたもので、2008年にJR東海がウオーキングイベントとして取り上げたことで広く知られるようになった。

 当初は名古屋晴明神社(千種区清明山)・高牟神社・城山八幡宮の三社だった。

 
 
 場所 名古屋市千種区今池1-4-18






  
    



     
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2016年08月18日

伊努神社(いぬじんじゃ)

  
伊努神社(いぬじんじゃ)

 出雲国風土記、延喜式に載る古社
 古きは伊努卿の卿社であったと言われている。  

 郡内58社中第6位に置かれ、大社町の阿受伎神社や、日御碕神社より社格が高かった。  

 伊努神社の位置は伊努卿の中心部にあり、伊努谷川の扇状地の扇頂付近に鎮座している。

 また、東西に信仰圏を控え、峠を越すと鰐淵寺川の上流に出て日本海に通じ、南は低地に接する 「4通8達」の要衛にある。  

   
 

ご祭神
*赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命
   穀霊の神
   国引きをされた意美豆努命(八束水臣津野命)の御子
 

 
(創建にまつわる伝説)
 赤衾伊努意保須美比古佐和気能命は国引きをされた意美豆努命(八束水臣津野命)の御子であり、この卿は今の東、西両林木町・日下町・矢尾町を含む地域を指す。

 赤衾はイヌ(寝ぬ)の枕詞でオオヌシヒコ=大州見彦で大きな砂州を看視する男神を意味する。
 サワケのサは接頭語でワケ=分けで分け掌るの意味だと解される。

 つまり伊努の地の砂州の守護神が鎮座していることになる。  

 もともと北山山地の南斜面は急傾斜が多く、豪雨に見舞われた際、その度に山が抜け、大災害をもたらした。

 地域に住む人々は災害地の急速な整地や次への予防のため神の保護を求め、そして有力者の出現を促しここに神社を祀ったと推察される。


 
 場所 島根県出雲市西林木町376






  
    



      
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2016年08月09日

多度大社(たどたいしゃ)

  
多度大社(たどたいしゃ)

 式内社(名神大)で、旧社格は国幣大社

 古来より神が坐します神体山と仰ぐ
   多度山(標高四〇三メートル)
の麓に鎮座する社

 ご神体とされる多度山中には数多の磐座・御神石が遺されている。

 『延喜式神名帳』では、霊験著しい神に、朝廷が臨時に祈願を捧げる名神祭を受ける「名神大社」に列し、以降累々幣帛が奉られた。

 後一条天皇、鳥羽天皇、六条天皇の御即位に際し、御一代一度の大神宝使の御差遣を忝うし、全国有数の神社と仰がれた。

 後白河法皇が編纂した当時の流行歌謡(今様)を編纂した
   梁塵秘抄
にも、関(滋賀県 逢坂の関)以東の軍神の一社として唄われた。

 弘長元年神階は正一位を極め、平家を始めとする武家の篤い信仰を受けた。

 伊勢神宮・二見興玉神社・椿大神社に次いで4番目に参拝者数の多い神社


 多度の豪族・桑名首(くわなのおびと)の祖神天津彦根命がご祭神

   

 763年(天平宝字7年)、僧・万願によって神宮寺が創建された。
 863年(貞観3年)、神階が正二位に累進した。

 延喜式神名帳では名神大社に列し、伊勢国二宮として崇敬された。

 神宮寺は伊勢国の准国分寺とされた。

 平安後期には伊勢平氏により崇敬され、軍神としても信仰された。


 中世には伊勢国司の北畠氏が保護していたが1571年(元亀2年)、織田信長の長島一向一揆平定の際に兵火により焼失した。

 1605年(慶長10年)、桑名藩主の本多忠勝が再建した。

 1873年(明治6年)、県社に列格し1915年(大正4年)に国幣大社に昇格した。

 本宮である多度神社の他、次の別宮・摂社・末社を合わせて多度大社と呼ぶ。

  

ご祭神
*天津彦根命(あまつひこのかみ)
   天照皇大御神が須佐之男命に授けられた物からお生まれになった五柱の男神の内の一柱とされる。
   天照大神の御子神は男5人で、その3番目の子が天津彦根命である(素戔嗚尊の御子神は女3人。宗像三女神である)
 
 
*天目一箇命(あめのまひとつのかみ)
   製鉄・鍛冶の神とされ
      片目の神
  とされる(鍛冶の仕事で片目を失明することが多いためと考えられる)。

 
 
 
(創建にまつわる伝説)
 
 古代には、社殿背後の多度山を神体山され雄略天皇の御宇に社殿が造営され、天平宝字七年、満願禅師によって神宮寺が創建された。
 その後『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』が牒上された。
 伊勢国の准国分寺と目される程の壮麗な伽藍が造営された。


 天津彦根命が天照大神の御子神であることや参詣のための街道沿いにあることから伊勢神宮との関係が深く
   「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」
とも詠われた。

 また、北伊勢大神宮・多度大神宮などとも呼ばれている。
  

 
 
 場所 三重県桑名市多度町多度1681




  
  
   
    

   
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2016年08月08日

伊多波刀神社(いたはとじんじゃ)

  
伊多波刀神社(いたはとじんじゃ)

 愛知県春日井市上田楽(かみたらが)町に鎮座する神社。


 別天津神(ことあまつかみ)の一柱である
   高皇産霊尊
と八幡三神
   誉田別尊
   息長足姫命
   玉依姫命
を主祭神とし、大山祇命、市杵島姫命、伊豆能売命、品陀別尊(誉田別尊と同神)を合祀している。 

  
 延喜の制では国幣の小社とされ、国内神名帳である『尾張国神名帳』に
   「従三位 板鳩天神」
とある。


 江戸時代には神宮寺として常念寺(廃寺)が存した。

 明治3年(1870年)には郷社に列し、近代社格制度廃止直前の昭和21年(1946年)1月10日に県社に昇格した。

 例祭は古く陰暦8月15日であった。
 その後に10月5日に変じ、現在は10月第2月曜日となっている。
 近世まで
   流鏑馬
が奉納され、『尾張名所図会』にも掲載された春日井郡第一の盛儀であったと伝えられる。


 明治になってから文明開化の到来とともに衰退、廃絶した。
 現在では甲冑を着けた武者の行進と厄年の男子による馬之塔や前厄の男子による武者の射的が行われるのみとなっている。

 その神事が昭和25年(1950年)4月14日に「伊多波刀神社奉納流鏑馬」として市の無形民俗文化財に指定された。

 なお、参道入口に鎮座する天照大神社、豊受神社はかつては境外社であったという。
  
 
 
ご祭神
*高皇産霊尊(すさのおのみこと)
   御神徳:厄除・家内安全
   素盞鳴尊は伊弉諾神(いざなぎのかみ)の御子で、天照大御神のご弟神
   出雲地方を治められ産業発展、商売繁盛、病気平癒等の霊験あらたかな神様
 
 
*誉田別尊(おおとしのかみ)
   御神徳:五穀豊穣・事業繁栄
   大年神は素盞鳴尊の御子で、特に農業の守護神とされる。
   ちなみに「年」とは稲のこと。

 
*息長足姫命(いぬひめのかみ)
  御神徳:安産・子授け・子供の生育
  伊奴姫神は大年神の御妃で、子授け、安産、夫婦円満、家内安全等に大きな御神徳をお授けくださる神様
  当神社の社名由来となっております。

 
*玉依姫命(いぬひめのかみ)
  御神徳:安産・子授け・子供の生育
  伊奴姫神は大年神の御妃で、子授け、安産、夫婦円満、家内安全等に大きな御神徳をお授けくださる神様
  当神社の社名由来となっております。

 
 
(創建にまつわる伝説)
 
 社伝に景行天皇42年の創祀で、古来より付近に設定された
   味丘庄 17箇村
の総産土神として崇敬された。

 板に鳩を描いて奉納する習いがあったために社名としたとされる。

 源頼朝が武運長久を祈願して朱印地と甲冑3領を寄進しするなど、中世以降八幡神として武家の信仰を集めて隆盛した。

 また、織田信長による寄進もあって慶長年間(16世紀末から17世紀前葉)には社領5町8反(およそ20,880坪、5.8ヘクタール)を有した。

 豊臣秀吉による太閤検地により全て没収されたという。

 
 
 場所 愛知県春日井市上田楽町3454






  
    



    
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2016年08月05日

花長上神社(はなながかみじんじゃ)

   
花長上神社(はなながかみじんじゃ))

 式内社の美濃國大野郡花長神社とされ、旧社格は郷社。 
 同じ旧谷汲村内にある花長下神社とは密接な関係がある。

 花長下神社が男神、花長上神社が女神で、9月7日の祭礼は、花長下神社と花長上神社が交互に行なっている。

 花長下神社と花長上神社との距離は約3kmあり、花鹿山自体が御神体という説もある。

 なお、応神天皇 天照大御神 大山祇神 熊野権現 七社明神と称していたのは、かつて7柱の木像(猿田彦命、天鈿女神、道祖神、山神など)が祀られていたからという。
   
 

ご祭神
*天甕津媛命(あめのみかつひめのみこと)
   阿麻彌加都比女とも表記される出雲神話の神。
   出雲風土記の出雲郡伊努郷に記述がある。  

 
 
(創建にまつわる伝説)
  創祀時期は不明。江戸時代は七社明神と称していた。
  

 天甕津日女命 天甕津媛命、阿麻彌加都比女とも表記される出雲神話の神を祀り、出雲風土記の出雲郡伊努郷に記述がある神だが、詳細は不明。
 島根県出雲市の伊努神社に祀られている。

 
 
 場所 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲名礼1211






  
    



    
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2016年07月05日

阿豆良神社(あつらじんじゃ)

  
阿豆良神社(あつらじんじゃ)

 式内社の尾張国丹羽郡「阿豆良神社」で旧社格は郷社。
 阿豆良とは縵から転じた名前といわれている。

 創建時期は垂仁天皇57年(28年)とされており、尾張国でも古い神社とされている。 1564年(永禄7年)、戦乱のため焼失した。

 1587年(天正15年)に再建され現在の地に移った。
 江戸時代は「吾蔓大明神」と称されていた。
 1872年(明治5年)に阿豆良神社に改称し、郷社となった。

 元の位置は現在地の北約200m付近というが別の説では、現在地の北約1kmにある馬見塚遺跡(縄文時代〜古墳時代の祭祀遺跡)ともいう。
   
 

ご祭神
*天甕津媛命(あめのみかつひめのみこと)
   阿麻彌加都比女とも表記される出雲神話の神。
   出雲風土記の出雲郡伊努郷に記述がある。  
 
 
* 倭姫命
   第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の
      御杖代
  として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入った。
   神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建した。

 
 
(創建にまつわる伝説)
 垂仁天皇の皇子品津別皇子7歳になっても言葉が話せなかった。
 皇后の夢の中に天甕津媛命が現れ、「今まで私を誰も祀ってくれない。祠を立て神に祭るなら、皇子は言葉を話せるようになり、天寿を全うするだろう。」ということを伝えたという。

 垂仁天皇は臣下の建岡君に、天甕津媛命を探し出すように命じた。
 建岡君は美濃国花鹿山(現岐阜県揖斐郡揖斐川町の花長上神社)に登り、榊の枝で縵を作って神に祈った。
 「此の縵の落ちた所が神を祭る所であろう。」と言うと、縵を遠く投げた。

 この縵が落ちた地に創建されたのが阿豆良神社という。

 
 
 場所 愛知県一宮市あずら1-7-19






  
    



    
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2016年05月03日

白龍神社(はくりゅうじんじゃ) 


白龍神社はくりゅうじんじゃ

 愛知県名古屋市中村区にある神社で柳の木の下に祠を建てたのがはじまり。
 その後いちょうの木を御神木として祀る。

 二柱の神を総称し て「白龍様」「白龍さん」とされ、 ヘビの好物である生卵のお供えが多い。
 摂社にはヘビの形をした「おもかる石」が祀られ、願いごとを唱えつつ石を持ち上げたとき、軽ければ願いは叶うとさ れる。
 
 

ご祭神
*高龗神(たかおかみのかみ)
    『日本書紀』では神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた火の神
      迦具土神(かぐつちのかみ
   で出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまった。
    怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。
    この時に剣からしたたり落ちた血から生じた三柱の神のうちの一柱とされる。

   高龗神は貴船神社(京都市)の祭神でもある。

   高龗神と闇龗神とは同一の神、または、対の神とされ、その総称が龗神であるとされている。

   龗(おかみ)は龍の古語で、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。
   なお、「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉。
   

   高龗神には娘(日河比売 ひかはひめ)がおり、スサノオの孫の
       布波能母遅久奴須奴神
           (ふはのもぢくぬすぬのかみ)
   と日河比売との間に
       深淵之水夜礼花神
           (ふかふちのみづやれはなのかみ)
   が生まれ、この神の孫が大国主神である。(古事記)


*須佐之男命(すさのおのみこと)
   伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子で
       天照大神(あまてらすおおみかみ)
   の弟にあたり、出雲神話の祖神。
   多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。

   出雲に降り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ)を救った。
   大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献じた。
   


創建由来
 名古屋台地の西側にあたり、古くは
   国広井郷
と呼ばれ、台地との間には南北に流れる清流の江川があった(現在は地下流)。
 江川に架かる橋が柳橋と呼ばれていたが、橋の辺りの村に熱病が流行した。

 村人に「此の美しき良き所に大神をお祀りすれば、萬民の苦疫を救い、幸をたれ給う。」とのご神示が下った。
 村人が江川の傍にある柳の木の下に祠を建て人々が崇め拝むようになった。

 その後、柳の寿命は終えたため、大神様が近くそびえていた「いちょうの木」へ移られ、 引き続き御神木として人々の崇敬を集めた。

 大神様の御神徳がその後もたびたび現わされ、いつの頃からか、二柱お神を総して
   「白龍様」「白龍さん」
と親しまれるようになったとのこと。

 なお、第二次世界大戦時では、空襲にいく度か合うが、神社と御神木は戦災を逃れたものの、戦後の都市計画で周辺に道路整備に伴い社を約80米ほど南に移転した。

 なお、御神木を昭和33年に移植したうえ、御本殿を昭和37年に造営した。

  

 
 
 場所 名古屋市中村区名駅南一丁目8番14号

 


    
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2016年04月06日

天石立神社(あまのいわたてじんじゃ) 天岩戸の故事に基づいて創祀

  
天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)

 奈良県奈良市柳生町の岩戸谷にある神社
 戸岩山という小高い山の北麓、標高330メートルの山中にあり本殿を有たず、鎮座する巨岩を直接拝する形態。
  

 『延喜式神名帳』に「天乃石立神社」と記載される式内小社で旧社格は村社にあたる。

 扉形に3つに割れた花崗岩の巨岩「前伏磐」、「前立磐」、「後立磐」の3石の周囲の樹間に注連縄を張り廻らしてこれを神体として祀る。
 「前立磐」は「神戸(かんべ)岩」とも称すが、他の2岩とともに天岩戸の扉石が落ちてきたものとの伝承がある。


 社辺は戸岩谷と称し「一刀石」をはじめとする巨岩、巨石が累々とする景勝地となっている。

 一般的に沢庵漬けの考案者と言われている臨済宗の僧
    沢庵
によって「柳生十景」の一に数えられ、「万年渓」と名付けられた。

 
 

ご祭神
*豊磐牖命

   前立磐をご神体としており、「天岩立神社」とも称す。
   板形、高さ6.0m、幅7.3m、厚さ1.2m。
  
*櫛磐牖命 

   後立磐をご神体としており、「天岩吸神社」とも称す。板形。


*天岩戸別命

  前伏磐をご神体としており、「天立神社」とも称す。
  板形、1.2m、幅約7m、厚さ1.2m。


*天照大姫命

  きんちゃく岩をご神体としており、「日向神社」とも称す。
  丸形、幅7m、高さ7m。


  なお、鎮座地一帯に分布する巨石のそれぞれにも、全て3,123柱の神々が宿るとされる。
  


創建由来
 本殿もなく巨岩そのものを神体として崇める自然崇拝が源流。
 太古からの祭祀の形態を遺す古社で、創祀の年代などは不詳。

 平安時代の『延喜式神名帳』には小社との記録がる。

 社伝によれば神代の昔、天岩戸の故事に基づいて創祀されたという。
 日本書紀に記載された手力男命が天岩戸を開いた時 にその扉石が当地に飛来したとされ、「神の宮居の戸」の謂いから「神戸岩」とも称したとの伝承がある。

 当地一帯は関白藤原頼通の時代に春日大社に神領として寄進された。
 その折には神戸岩が鳴動したという。

 なお、近世初頭に至るまで皇室に慶事ある度に鳴動を繰り返したと伝わる。

 剣豪の柳生宗厳(柳生石舟斎)が当神社で剣術の修行をしており、江戸時代には柳生藩の歴代藩主から崇敬された。

 なお、鎮座地後方に聳える戸岩山にかけての到る所にも巨石が見られる。
 また、柳生を初めとする奈良市の山間部には巨岩、巨石に対する信仰の形跡が多い。


 同じ大柳生町に鎮座する夜支布山口神社の摂社立盤神社等も巨岩上に社を構えている。

 
 
 場所 奈良市柳生町柳生字岩戸谷789


 


    
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2016年04月04日

櫛田神社(くしだじんじゃ) 理容美容業者の信仰を集める神社

    
櫛田神社(くしだじんじゃ)

 三重県松阪市にある神社で式内社
 旧社格は村社

 櫛田川下流の西岸近くに鎮座し、理容美容業者の信仰を集めている。

 境内に接した場所には三重県美容業生活衛生同業組合らによって建立された「櫛の碑」がある。
 7月の博多祇園山笠や10月の博多おくんちなどで知られる福岡県福岡市博多区の櫛田神社は、天平宝字元年(757年)に当社を勧請して創建したと伝えられている。

 
 

ご祭神
*大若子命(おおわくごのみこと)
  説話上の伊勢神宮の初代大神主
  伊勢外宮神主家としての度会氏の祖先とされた神様。

  垂仁天皇の代の伊勢内宮鎮座の際に自らの領する櫛田川以東の伊勢国(三重県)南部を神宮に納めた。
  その地の支配者として神国造となり、大神宮大神主を兼ねたと伝わる。

  また、越の国の賊徒・阿彦を討伐する命を受けて成敗したところ朝廷から大幡主命の尊称を与えられた。


  このほか・櫛玉姫命・須佐之男・天忍穂耳・市杵島姫を祭神とする。

  


創建由来
 垂仁天皇22年(紀元前8年)に
   倭姫命
が天照大神を祀る場所を探す旅の途中でこの地を案内した大若子命を祀るために創建されたとされる。

 江戸時代の明暦頃に社殿も失われ中絶となった。
 その後、享保年間に再興された。

 明治40年(1907年)2月27日、合祀とともに字室垣内に移転したうえ大櫛田神社と改称した。

 翌明治41年(1908年)2月11日に山添町の神山神社に合祀した。
 その後氏子が分祀を希望し、昭和8年(1933年)2月1日に現社地に分祠された。


 
 
 場所 三重県松阪市櫛田町724


 


    
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2016年04月02日

小菅神社(こすげじんじゃ) 信州三大修験霊場の一つ

  
小菅神社(こすげじんじゃ)

 長野県飯山市にある神社
 戸隠・飯綱とともに信州三大修験霊場の一つ。

 役小角が開山した修験寺院
   小菅山元隆寺(こすげざん がんりゅうじ)
が小菅神社の起源とされる。

 その後、幾度かの退転と再建を繰り返した後、明治時代の神仏分離により、神社とされた。
 
 

ご祭神
*八所権現  
   主神として小菅権現(摩多羅神)を祀り、さらに熊野、金峰(吉野)、白山、立山、山王、走湯、戸隠の七柱の神々を観請したもの。



創建由来
 詳細は不明であるが、伝承によると役小角によって開山された修験寺院・元隆寺が、小菅山の起源とされる。

 仏法をひろめるのに諸国を巡っていた役小角が小菅山が神木霊草に満ちた山野のありさまに心を打たれているところに地主神が現れ、この土地が諸神集合の地であり、仏法をひろめるにまさに相応しい地であり、地主神みずからも守護を与えると告げられたという。

 このお告げを受けた役小角が祈願に勤しんでいたところ、今度は小菅権現が出現した。
 小菅権現は、みずからが馬頭観音の化身であり、仏法の擁護と興隆に力を貸すと告げた。

 役小角は、小菅権現を主神とし、併せて熊野・金峯山(吉野)・白山・立山・山王・走湯・戸隠の7柱の神々を勧請した。
 坂上田村麻呂が大同年間にこの地を訪れ、八所権現本宮や加耶吉利堂を再建した。
 このほか、元隆寺を建立し、諸塔堂を整備したとの言い伝えがある。

 戦国時代には、小菅山一帯は、上杉氏の庇護下に置かれた。

 上杉謙信の弘治3年(1557年)の願文は、小菅山の由緒に言及し、坂上田村麻呂の名に触れつつ武運を祈念している。
 ただ、こうした繁栄も、永禄10年(1567年)の川中島の戦いで敗退した上杉軍を追撃する武田氏の軍勢によって、元隆寺は兵火に遭い本堂を除く堂塔はことごとく焼失した。

 その後も兵火にさらされ、元隆寺に常住するものがなく、慶長初年(1600年)頃には完全に廃墟と化し伽藍も田畑や民家、荒野に帰してしまった。

  

 
 場所 長野県飯山市大字瑞穂内山7103(奥社)


 


    
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2016年04月01日

手力雄神社(てぢからおじんじゃ)


手力雄神社(てぢからおじんじゃ)

 岐阜市にある神社で式内社の美濃国厚見郡
   比奈守神社
とされている。
 同じ岐阜市内の比奈守神社の説があるが現在の「比奈守神社」は明治元年「飛騨守神社」が改名したものとされる。


 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、当社を祈願所としていた織田氏が西軍についたため徳川家康の襲撃を受け、神体などごく一部を除き全焼した。

 
 元和年間(1615年〜1624年)に本殿・拝殿などが再建された。
 幣殿・拝殿は明治13年(1881年)に再度造営されている。
 
 
 各務原市の那加手力雄神社の祭神の天手力雄神の本殿の軒には龍の彫刻があり、龍に関わる話が伝わっている。
 これは戸隠神社の九頭竜社の影響と見られる。


 なお、各務原市の手力雄神社は長森13ヶ村の郷社であり、那加手力雄神社は那加13ヶ村の郷社である。

 
 

ご祭神
*天手力雄神
   貞観2年(860年)、朝廷の宮中の祭神を分祀したもの。 
   腕力・筋力を象徴する神様
   


創建由来
 貞観2年(860年)に鎮座したと伝えられる。
 弘治年間には斉藤氏の祈願所になる。

 中世には長森が戦略上の要所で、度々戦火に見舞われた。木曽川渡河点は手力雄神社鎮座地以外に無く、尾張以東の東海道の軍勢が京に上るには、この場所で木曽川を渡るしかなかった。

 信長父子は数次に亘って当所を攻めた。

 ただ、湿地帯であることから大兵を用いることができず、断念している。
  

 木曽川の下流である墨俣で陽動作戦を行い斎藤勢の主力を釘付けにしておき、上流の、鵜沼、前渡の川並衆を調略して舟で各務原に渡った。

 信長公記では新加納に布陣したとの記録がある。


 
 
 場所 岐阜市蔵前6丁目8-22

 


    
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2016年03月30日

神泉苑(しんせんえん) 龍パワーのお寺


 神泉苑しんせんえん

 京都市中京区にある東寺真言宗の寺院
 本尊は聖観音・不動明王・弘法大師です。

 二条城の南に位置しており、元は平安京大内裏に接して造営された天皇のための庭園「禁苑」であった。

 境内に「大歳神:歳徳神(さいとくじん)」を祀っているが毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える点が他の神社仏閣と異なっている。
 
 
 延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑で、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園であった。

 『日本紀略』の記事に初めてその名が見られ、延暦19年7月19日(800年8月12日)、桓武天皇が行幸したという内容であった。

 『日本後紀』には、嵯峨天皇が弘仁3年(812年)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したとあり、これが記録に残る花見の初出と考えられている。

 
 季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には
   善女竜王
と呼ばれる竜神が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったという。

 
 中世以降は荒廃し、慶長8年(1603年)、徳川家康が二条城を造営した。

 この時には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小した。
 また、神泉苑の水源も城の堀の水源の一つとして奪われた。

 天明8年(1783年)の天明の大火で、堂塔社殿を焼失した。



    
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