ジラール・ペルゴ
スイスのラ・ショー=ド=フォンに本社を置き
高級機械式時計を自社一貫生産
する高級時計ブランドメーカー(マニュファクチュール)の一つとして知られている。
時計の組立師、時計師、金銀細工師として名をはせた
ジャン・フランソワ・ボット
Jean-François Bautte
(1772年ー1837年11月30日)
が1791年に工房を開き、19歳で初の時計を製作したのがはじまり。
主要な顧客としてビクトリア女王 、クレルモン・トネールの公爵夫人などがいた。
ジャンの息子ジャック・ボット(Jacques Bautte)と娘婿ジャン・サミュエル・ロッセル(Jean Samuel Rossel )が1837年に後継者になった。
ボットの工房で時計師として働いた
コンスタン・ジラール(Constant Girard )
が1852年に弟と共同でスイスの北部ラ・ショードフォンでジラール社を設立した。
その後、コンスタンはマリー・ペルゴ(Marie Perregaux )と1854年に結婚、 二人の姓を組み合わせた
ジラール・ペルゴ社
が1856年に誕生した。
創業者コンスタン・ジラールの義弟でマリー・ペルゴの実弟
フランソワ・ペルゴ
は幕末の動乱のさなかである1861年に来日し横浜で商館を開き懐中時計の販売をした。
日本に最初に正規輸入されたスイス時計はジラール・ペルゴとなった。
1867年にはスリー・ゴールド ブリッジ付トゥールビヨンがパリ万博(第2回)で金賞を獲得、超薄型懐中時計を自社内一貫生産することで、瞬く間に名声を得るに至った。
1880年以降 - ヴィルヘルム1世から注文を受けドイツ海軍将校用に腕時計を開発。
1906年にはボットを買収・合併した。
ドイツ人時計師
オットー・グラエフ(Otto Graef )
が1928年にジラール・ペルゴを買収した。
1930年には腕時計の売り上げが懐中時計の売り上げを上回った。
1993年にフェラーリとブランド・ライセンス契約を結び
カヴァッリーノ・ランパンテ
を刻印したスプリット・セコンド・クロノグラフを限定生産した。
2012年にはオメガ、ブランパンなどの時計メーカーで活動した時計師
ドミニク・ロワゾー
(Dominique Loiseau)
を複雑時計製作チームに迎え入れた。
1969年にはセイコーと同時期に時計用クォーツの開発に成功した。
翌年にはスイス初の量産にまで至ったものの消費が伸びず、世界初はセイコーに譲った。
ただ、ジラール・ペルゴの開発陣が定めたクォーツ周波数32768Hzは現在世界規格となっている。
日本製クォーツの爆発的な販売拡大に押され経営危機に陥った。
イタリアにおいて
ブライトリングブーム
を作り出した時計販売会社の
トラデマ
の社長
ルイジ・マカルーソ
(元フィアットのレーサー)
がデザインした時計ジョルジオ・アルマーニが愛用したことで有名になりが大ヒットした。
2年後マカルーソはジラール・ペルゴ社長となり、イタリアの名門自動車メーカーの
フェラーリ
とのブランドライセンス契約を締結した。
ロゴ入りスプリット・セコンド・クロノグラフを販売し、2週間で完売するなど人気を博した。
その後、アメリカズカップで
BMWオラクル・レーシングチームの後援を行うなどの活躍もするようになり現在に至る。
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posted by まねきねこ at 21:03| 愛知 ☁|
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