マサチューセッツ・ミューチュアル生命保険会社(Massachusetts Mutual Life Insurance Company MassMutual)
米国の生命保険会社で本社を米国マサチューセッツ州スプリングフィールドに置いている。
MassMutualは、生命保険、障害所得保険、長期介護保険、年金などの金融商品を提供し、主要関連会社にはベアリングスLLCが含まれる。
マスミューチュアルは、2022年フォーチュン500社リストにおいて、総収益で米国最大の企業ランキング100位にランクされた。
同社の収益は107億ドル、運用資産は3,120億ドル(2022年時点)である。
同社は米国で7,000人以上、海外では合計10,614人の従業員を擁している。
売上高 107億米ドル(2022年)
運用資産残高 4,660億米ドル(2022年12月31日現在)
従業員数 11,000人(2022年)
運用資産残高 4,660億米ドル(2022年12月31日現在)
従業員数 11,000人(2022年)
マサチューセッツ・ミューチュアル生命保険会社(マスミューチュアル)は、1851年5月15日にマサチューセッツ州スプリングフィールドで営業を開始した。
創業者は
ジョージ・W・ライス
で、10万ドルの保証資本を引き受けた。
ライスは、コネチカット州ハートフォードで
コネチカット・ミューチュアル生命保険会社
の保険代理店として働いていたが、隣のマサチューセッツ州で自身の会社を設立したいと考えた。
コネチカット・ミューチュアルと同様に、この新興企業も相互会社へと成長した。
1843年からマスミューチュアルの設立までの間、保険業界における相互会社の人気は著しく高まった。
ニューヨーク・ミューチュアル生命保険会社(1842年)、ニュージャージー・ミューチュアル生命保険会社(1845年)、コネチカット・ミューチュアル生命保険会社(1846年)など、競合する約12社の相互会社は、最小限の運転資本で運営できた。
このため、有望な成功を収めた。
しかし、1851年にマサチューセッツ州法が制定され、すべての保険会社は10万ドルの初期株式引受を義務付けられた。
このため、マスミューチュアルの進路が変わった。
ライスは、31人の投資家を募り、自社の株式を購入することで、この義務的な引受要件を満たした。
会社が事業を開始し、規制要件を満たすのに十分な準備金を積み立てた。
その後、1867年に31人の株主に返済が行われ、株式は償還され、マスミューチュアルは相互会社として機能した。
創業者ジョージ・W・ライスの従兄弟である
カレブ・ライス
が1851年にマスミューチュアルの初代社長に任命された。
カレブ・ライスは、マスミューチュアルの社長を22年間務め、同社史上最長の在任期間を記録した。
マサチューセッツ州ハンプデン郡の元弁護士兼保安官であったライスは、マサチューセッツ州下院議員を5年間務めた。
その後、1852年から1853年にかけてマサチューセッツ州スプリングフィールドの初代市長に選出された。
マスミューチュアルは、ニューイングランド全域の住宅所有者と労働者に保険を販売し始めた。
カリフォルニア・ゴールドラッシュ(1848〜1855年)と鉄道開発の熱狂に後押しされ、西への進出が進むにつれ、マスミューチュアルの代理店は、
鉄道労働者
蒸気船労働者
ゴールドラッシュの冒険家
そしてメイソン・ディクソン線以南に移住した人々を対象に、高額保険料の保険を販売し始めた。
その後数十年にわたり、マスミューチュアルの事業拡大は、アメリカ合衆国全体の拡大を反映したものとなった。
マスミューチュアルが設立された頃には、既に9,000マイル(14,000キロメートル)の鉄道路線が敷設されている。
1855年までにニューヨーク、クリーブランド、シカゴ、デトロイトに代理店を設立することができた。
1868年には西海岸に進出し、1869年に大陸横断鉄道が完成する前にサンフランシスコに事務所を設立した。
業界全体では、生命保険契約の販売が1850年代後半までに大幅に増加し始めた。
1862年には2億ドルに達し、南北戦争終結までに3倍の6億ドル弱にまで増加した。
この成長の大きな要因は、保険業界による西方への進出とマーケティング活動の強化であった。
生命保険契約の販売増加に貢献したもう一つの要因は、1861年にマサチューセッツ州議会が
保険金非没収法
を可決したことである。
この法律は、保険契約者から保険料の支払いがない場合でも、保険会社が保険契約を解約することを禁じ、契約は定期生命保険に転換された。
その期間中に発生した死亡保険金は保険会社が支払うことを規定した。
業界が成長を続けるにつれ、マスミューチュアルも成長した。
1851年8月2日に最初の1,000ドルの保険契約が発行されてからわずか20年後の1873年には、同社の資産は4,501,909ドルに達した。
1873年、ケイレブ・ライスのマスミューチュアル社長職は
1873年、ケイレブ・ライスのマスミューチュアル社長職は
E・W・ボンド
に交代した。
ボンドは13年間その職を務めた。
1886年、マーティン・ヴァン・ビューレン・エッジリー大佐がボンドの後任となった。
エッジリーは1859年にマスミューチュアルでキャリアをスタートさせた。
彼は、マスミューチュアルが内部に目を向け、内発的なリーダーシップを促進・強化するという傾向を示す最初の重要な例であった。
エッジリーは10年近くマスミューチュアルの成長を監督した。
1895年3月、ジョン・ホールがエッジリーの後任となり、マスミューチュアルの資産は5,000万ドルを超えた。
1901年、マスミューチュアルは、死亡時または満期時に一括払いのみで支払われる保険とは異なり、一定期間または終身にわたり保険金が支払われる保険の提供を開始した。
ホール氏は1908年9月3日に亡くなるまで、19世紀後半、特に20世紀初頭の数々の企業スキャンダルを乗り越え、マスミューチュアルを率いた。
1905年に行われた1906年の
アームストロング委員会の調査
では、ニューヨークの複数の生命保険会社の
不審な財務慣行
が明らかになった。
ただ、マスミューチュアルは具体的な調査対象ではなかったが、調査では保険会社に対し、年次配当の実施、代理店手数料の制限、投資内容の規制を義務付けた。
また、保険契約締結時にこれらの条項を明記することも義務付けられた。
アームストロング事件の調査が終結すると、1907年10月1日以降に発行されたマスミューチュアルのすべての保険契約は、
アメリカ死亡率経験表
に基づく価値と3%の利息が付帯された。
マスミューチュアルはまた、顧客獲得のために新たなサービスと保険の提供を開始した。
1914年には、障害発生時の保険料免除制度を導入した。
1918年には障害発生時に収入を保障する条項を付帯した保険契約を設計した。
1918年のインフルエンザ大流行による悪影響にもかかわらず、マスミューチュアルは着実な成長を維持した。
1924年には保有保険金額が10億ドルを超え、本社に400人の従業員を雇用した。
しかし、1929年の株価暴落の直接的な影響をマスミューチュアルは受け始めまた。
経済は数日間で22%も急落し、国の労働力の30%が失業に直面した。
異常な数の自殺と全般的な経済的困難により、死亡保険金請求と保険契約の失効が急増した。
1929年から1932年にかけて、アメリカ、そして世界を席巻した大恐慌の間、マスミューチュアルは経済的援助を必要とする人々にとって最後の頼みの綱となった。
大恐慌は国の経済を衰退させたが、マスミューチュアルは新たな商品とサービスを開発することができた。
1930年には、マスミューチュアル初の
家族所得保険
を導入した。
8年後の1938年には、初の年金信託保険を発行した。
1939年、アメリカ合衆国から大恐慌が収束に向かう中、第二次世界大戦の勃発は、国の産業と経済の発展、労働力、そして保険需要を刺激しました。
元アクチュアリーのアレクサンダー・マクリーン氏が1945年にマスミューチュアルの社長に就任した。
アメリカ合衆国が第二次世界大戦に深く関与し、失業率が大幅に減少すると、マクリーン氏は労働者向けの保険商品とサービスの開発を監督した。
戦争は、国の産業労働力に高い生産要求をもたらした。
雇用が急速に創出され、労働組合が強化されたため、マスミューチュアルは1946年に団体保険市場に参入し、保険契約の提供と年金の運用を開始した。
最初の団体保険商品は、
ジャック・ダニエル・ウイスキー
を製造するケンタッキー州に本社を置く
ブラウン・フォーマン・ディスティラーズ社
向けの年金と保険であった。
マスミューチュアルは、戦後の経済成長の中、代理店を通じて業務を分散化することで、社内の発展を維持した。
本社には1,350人の従業員が勤務し、70万人を超える顧客にサービスを提供していた。
マスミューチュアルの総合代理店と地域代理店は会社の成長に貢献した。
1951年までに資産総額は14億ドル、保有保険金額は30億ドルに達した。
さらに、マスミューチュアルは営業代理店向けの
研修プログラム
を導入し、従業員に
アメリカン・カレッジ・チャータード・ライフ・アンダーライター資格
の取得を奨励しました。
保有生命保険総額は、1948年から1957年の間に27億ドルから54億ドルへと倍増した。
1968年、ジェームズ・R・マーティンが社長に就任した。
マーティンは、マサチューセッツ州スプリングフィールドの都市開発活性化を支援するために、スプリングフィールドのオフィスに7,500万ドルを投資するなど、マスミューチュアルを様々なプロジェクトに投資した。
マスミューチュアルは1968年に従業員にフレックスタイム制を導入した。
マスミューチュアルが生命保険に注力していた当時、保険契約者はマネー・マーケット・ファンドへの投資を始めた。
これに対し、マスミューチュアルは1970年代後半に独自のマネー・マーケット・ファンドを設立した。
1980年にマスミューチュアルの社長に就任した
ウィリアム・クラーク
は、投資方針の変更と、1981年のユニバーサル生命保険を含む複数の新商品の導入など、会社を再編した。
MMLインベスターズ・サービスは1981年に設立され、投資信託やその他の非保険商品を販売した。
マスミューチュアルはその後、1983年に
個人向け商品
団体生命保険・健康保険
団体年金
投資
の4つの部門に再編された。
1974年9月に従業員退職所得保障法が可決され、連邦法が従業員年金を監督するようになった。
その後、団体年金は1980年代に特に重要になった。
1981年にユニバーサル生命保険が導入されたことに加え、マスミューチュアルの団体年金部門は同年に部門に昇格しました。[25] 1984年初頭までに、米国経済は回復し、第二次世界大戦後最長の持続的経済成長期の一つを迎えた。
団体年金部門の資産は50億ドルに達し、マスミューチュアルは米国最大級の運用会社の一つとなった。
この投資運用グループは1985年に6億9,300万ドルの
商業用住宅ローン・パススルー証券
を発行した。
これは当時最大の商業用ローン発行額であった。
資産は157億ドルでしたが、1989年には251億ドルに増加した。
個人生命保険の保有契約高は1985年の541億ドルから1989年には815億ドルに増加した。
団体年金部門と金融商品部門の大幅な成長にもかかわらず、マスミューチュアルは依然として本質的に保険会社と見なされた。
1990年代は、事業の発展、ブランディング、そして買収の新たな機会をもたらした。
この頃、マスミューチュアルは総資産額で米国第12位の保険会社となっていた。
1990年、マスミューチュアルは投資信託運用への多角化戦略の一環として、
ブリティッシュ・アンド・コモンウェルス・ホールディングスPLC
から
オッペンハイマー・マネジメント・コーポレーション
を1億5,000万ドルで買収した。
1993年、退職金基金と基金資産の運用を目的として、マスミューチュアルの子会社として
1993年、退職金基金と基金資産の運用を目的として、マスミューチュアルの子会社として
コンサート・キャピタル・マネジメント
が設立された。
1995年には、
1995年には、
デビッド・L・バブソン・アンド・カンパニー
の投資運用会社を買収し、マスミューチュアルの運用資産は780億ドルを超えた。
バブソン・アンド・カンパニーはコンサート・キャピタル・マネジメントと合併し、マスミューチュアルの別会社となった。
マスミューチュアルは、1995年2月に運営コストの削減を期待し
マスミューチュアルは、1995年2月に運営コストの削減を期待し
コネチカット・ミューチュアル生命保険会社
との合併に合意した。
同社は1996年末までに8,200万ドルの削減を見込んでいたが、実際には1億800万ドルとなり、予想を上回った。
マスミューチュアルは1996年を通して事業多角化を進め、融資サービスを提供する商業金融部門であるアンタレス・レバレッジド・キャピタル・コーポレーションを設立した。
この時までに、マスミューチュアルの資産は1,000億ドルを超えていた。
1998年、マスミューチュアルは前年比37%増の3億5,920万ドルという過去最高の純利益を計上した。
1998年、マスミューチュアルは前年比37%増の3億5,920万ドルという過去最高の純利益を計上した。
1999年を通して利益が増加するにつれ、同社は新たなマーケティング名称
マスミューチュアル・ファイナンシャル・グループ」
を発表した
これは、多角的な金融サービス企業としてのブランドを強化するための試みであった。
会長兼CEOのロバート・コネルは、新商品・サービスの提供の重要性を予見していた。
1999年から2001年にかけて、マスミューチュアルとその国内保険子会社は40の新商品を発売した。
2001年までに、収益の約70%がこれらの商品からもたらされた。
マスミューチュアルの財務的成功は2000年も続き、総売上高は31%増加した。
運用資産総額は1999年の2,066億ドルから2,131億ドルに増加した。
収益の増加に伴い、マスミューチュアルは国際的に事業を拡大した。
マスミューチュアル・インターナショナルは香港の
CRCプロテクティブ・ライフ
を買収し、社名をマスミューチュアル・アジアに変更した。
アメリカでは、2000年にコネチカット州ハートフォードに
マスミューチュアル・トラスト・カンパニー
が設立され、投資サービスと遺産計画を提供した。
2001年9月11日にマスミューチュアルの子会社である
オッペンハイマーファンズ
のニューヨークオフィスが閉鎖されたにもかかわらず、子会社は順調に回復した。
親会社と共に年間好調な業績を達成した。
2001年、マスミューチュアル・ファイナンシャル・グループの運用資産は2,340億ドルに達した。
マスミューチュアルの2005年の利益は7億5,300万ドルから8億1,000万ドルに増加した。
CEO兼社長の
ロジャー・クランドール
の下、マスミューチュアルの終身保険の売上は2010年の最初の6か月間で28%増加した。
2012年、マスミューチュアルは
ハートフォード
の退職年金プラン事業の買収に合意した。
最終的に2013年1月1日に買収を完了した。
この買収は、マスミューチュアルの退職年金事業の記録的な成長を基盤とし、補完的な市場と販売能力を増強し、マスミューチュアルがサービスを提供する退職年金プラン加入者数をほぼ倍増させた。
ヘイブン生命保険代理店LLCは、2015年にマスミューチュアルの子会社として設立された。
ニューヨークにオフィスを構えている。
また、ヘイブン生命保険は定期生命保険のみを販売している。
2020年7月、デンバーに本社を置くカナダ資本の
Empower Retirement
は、マスミューチュアルの退職金プラン事業を44億ドル(約4600億円)に成功報酬を加えた金額で買収すると発表した。
2021年11月、マスミューチュアルは、CEOの
ロイ・ベドロウ氏
が率いる英国に拠点を置く独立発電事業者
Low Carbon
と戦略的提携を締結した。
この提携は、マスミューチュアルにとって欧州における初の再生可能エネルギー投資となった。
2022年4月、マサチューセッツ州に本社を置く
は、マスミューチュアルの企業型401Kプランの記録管理サービスプロバイダーとなることを発表した。
同社の全世界の従業員数は11,593人である。
2016年現在、マスミューチュアル生命保険はフォーチュン500の76位にランクインした。
2015年の94位から順位を上げた。
2022年、マスミューチュアル生命保険はフォーチュン500の100位にランクインした。
マスミューチュアルは、バーナード・マドフの
に投資家の資金を流し込み、最終的にこのスキャンダルで33億ドルの損失を出したフィーダーファンド
トレモント・キャピタル・マネジメント
を所有している。
ポンジ・スキームから資金を回収している管財人
アーヴィング・ピカード
は、トレモントから10億ドルを超える和解金を引き出した。

