ハリー・アロンゾ・ロングボー(Harry Alonzo Longabaugh)
1867年5月24日 - 1908年11月7日
サンダンス・キッドの異名で知られ、アメリカ西部開拓時代の無法者で
のワイルド・バンチの一員である。
彼は1883年かそれ以前の狩猟旅行中にブッチ・キャシディ(本名ロバート・ルロイ・パーカー)と出会ったと考えられている。
このギャング団は、アメリカ史上最長の列車強盗と銀行強盗を次々と成功させた。
ロングボーは、ピンカートン探偵社の執拗な追跡から逃れるため、妻の
エタ・プレイス
とブッチ・キャシディと共にアメリカから逃亡した。
3人はまずアルゼンチンへ、その後ボリビアへ逃れた。
なお、多くの歴史家はパーカー(キャシディ)とロングボーが1908年11月の銃撃戦で死亡したと考えている。
ロングボーは1867年、ペンシルベニア州モントクレアで、ペンシルベニア州出身の
ジョサイア
アニー・G(旧姓プレイス)ロングボー
を両親に5人兄弟の末っ子として生まれた。
15歳の時、従兄弟のジョージと共に幌馬車に乗り、コロラド州コルテス近郊にあるジョージの開拓地への入植を手伝うため西へ旅立った。
滞在中、近隣の牧場で牧童として働き、馬の買い付けと飼育を学んだ。
1886年にコルテスを離れ、独り立ちし、北へと向かい牧場で働いた。
彼はモンタナ準州の
NバーN牧場
で仕事を見つけたが、1886年から1887年にかけての
厳しい冬
のため家畜牛の多くが凍死したため牧場はロングボーを含む牧場主を解雇せざるを得なくなった。
ロングボーはブラックヒルズへ流れ着いたが仕事が見つからず、引き返してNバーNで再び仕事を探そうとした。
1887年、ワイオミング州サンダンス近郊の
1887年、ワイオミング州サンダンス近郊の
スリーV牧場
を旅していた際、カウボーイから銃、馬、鞍を盗んだ。
モンタナ州マイルズシティで保安官に逮捕された。
ウィリアム・L・マギニス判事によって懲役18ヶ月の判決を受けた。
この獄中で彼はワイオミング州の同名の町と、15歳で家を出たという事実にちなんで「サンダンス・キッド」というあだ名をつけられた。
釈放後、彼は牧場労働者として働き始め、1891年にはカナダのアルバータ州にある当時最大級の商業牧場の一つであった
バーU牧場
で働いて資金を蓄えた。
その後、カルガリーのグランド・セントラル・ホテル内の酒場の共同所有者となった。
しかし、パートナーと儲けの配分等で口論になり銃撃戦になりかけた。
その後、再び南のモンタナ州へ向かいNバーNで再び仕事を得て、モンタナ州とカナダで牛や馬の盗みを始めた。
ロングボーは1892年の列車強盗と1897年の銀行強盗に5人の男と共に参加した疑いがあった。
ロングボーは1892年の列車強盗と1897年の銀行強盗に5人の男と共に参加した疑いがあった。
彼はワイルド・バンチとして知られるグループと関わりを持ったが、そのグループにはブッチ・キャシディとしてよく知られているロバート・ルロイ・パーカーも含まれていた。
ロングボーは銃の扱いが速く、しばしばガンマンと呼ばれた。
その後、彼は、本名ハーベイ・ローガンというギャングのメンバーである
キッド・カリー
よりも有名になった。
カリーはギャングにいたころには多数の男を殺していた。
ロングボーは、
ジョージ・カリー
が率いるギャング団をワイオミング州の
の隠れ家まで追跡していた保安官との銃撃戦に参加した。
その銃撃戦では2人を負傷させたと考えられている。
ギャングのメンバーによって数人が殺され、その中にはローガンに殺された5人の保安官も含まれている。
この結果、「生死を問わず指名手配」のポスターが全米に貼られ、逮捕または殺害につながる情報提供者には最高3万ドルの報奨金がかけられた。
ロングボーとローガンは、モンタナ州レッドロッジの銀行強盗を計画した。
ワイオミング州コーディのオールド・トレイル・タウンにある丸太小屋を隠れ家とした。
その後、彼らはワイオミング州ケイシー近郊のホール・イン・ザ・ウォールに潜伏した。
そこは高台に位置し、周囲の地域を四方八方に見渡せるため、捕まる心配をほとんどせずに攻撃と撤退を行うことができた。
ただ、チャーリー・シリンゴが率いるピンカートン探偵社は、数年間にわたってギャングを追い詰めた。
キャシディとロングボーは、数々の法執行機関からの絶え間ない追跡等により、ギャングの崩壊を目の当たりにしながら、ニューヨーク市へ逃亡した。
キャシディとロングボーは、数々の法執行機関からの絶え間ない追跡等により、ギャングの崩壊を目の当たりにしながら、ニューヨーク市へ逃亡した。
彼らは1901年2月20日、イギリスの汽船ヘルミニウス号に乗ってアルゼンチンのブエノスアイレスに向けて出発した。
ロングボーの妻
エッタ・プレイス
も同行していた。
キャシディはプレイスの架空の兄弟
ジェームズ・ライアン
を装った。
彼らは、アンデス山脈の東、チュブト州チョリラ近郊のリオブランコ東岸に購入した1万5000エーカー(61平方キロメートル)の
チョリラの牧場
にある4部屋の丸太小屋に定住した。
ブルース・チャトウィンの『パタゴニアにて』には、ブッチがチョリラからユタ州に住む
エルジー・レイ
の義母に宛てた1902年8月10日付の手紙が引用されている。
手紙には、「私たちの小さな3人家族」が4部屋の家に300頭の牛、1500頭の羊、28頭の馬と暮らしていると書かれていた。
チャトウィン氏は、この手紙はユタ州歴史協会が所蔵していると述べている。
1905年2月14日、マゼラン海峡近くのチョリラから南に700マイル(1,100キロ)のリオ・ガジェゴスで、英語を話す二人の盗賊が
1905年2月14日、マゼラン海峡近くのチョリラから南に700マイル(1,100キロ)のリオ・ガジェゴスで、英語を話す二人の盗賊が
タラパカ・イ・アルヘンティーノ銀行
を襲撃し、二人はパタゴニアの草原を北へ横切って姿を消した。
この二人はキャシディとロングボーだった可能性がある。
警察に居場所を突き止められたことを恐れたキャシディとロングボーは、1905年5月1日にチョリラの牧場を売却した。
ピンカートン探偵社は以前から彼らの居場所を把握していた。
ただ、パタゴニアの雪と厳しい冬のために、彼らの代理人である
フランク・ディマイオ
は逮捕することができなかった。
フリオ・レサナ知事は逮捕状を発行した。
ただ、キャシディと親しく、プレイスに好意を抱いていたウェールズ系アルゼンチン人の保安官
エドワード・ハンフリーズ
が逮捕状は発行されていることを知らせた。
その後、3人は北のサン・カルロス・デ・バリローチェへと逃亡した。
そこで汽船コンドル号に乗り込みナウエル・ウアピ湖を渡りチリへ入り、年末にアルゼンチンへ帰国した。
フランク・ボイドと名乗る男(実際にはサンダンス/ロングボー)は、1905年8月21日、チリの港町アントファガスタで銃撃戦の末、警察官を殺害し逮捕された。
彼は保釈金を支払って釈放された後、アントファガスタ駐在の米国副領事の支援を受けてアルゼンチンに逃げ出し、そして最終的にボリビアへ逃亡した。
この出来事は、2022年に旧アントファガスタ紙「エル・インダストリアル」]がデジタル化されるまでは一般的には情報が知られていなかった。
キャシディ、ロングボー、プレイス、そして身元不明の男の共犯者は、1905年12月19日、ブエノスアイレスの西450マイル(720キロ)に位置するサンルイス州ビジャ・メルセデスにある
アルゼンチン国立銀行支店
を強盗し、1万2000ペソを奪った。
彼らはアンデス山脈を越えてチリの安全な場所に逃亡した。
1906年6月30日、プレイスは逃亡生活に疲れた。
このため、ロングボーは彼女をサンフランシスコに連れ戻した。
キャシディは、ボリビア・アンデス中央部のサンタ・ベラ・クルス山脈にある
コンコルディア錫鉱山
で、ジェームズ・「サンティアゴ」・マクスウェルという偽名を使ってまともな仕事を見つけた。
ロングボーは帰国後、キャシディのところに加わった。
彼らの主な任務には、会社の給与運搬の警備などが含まれていた。
二人は1907年後半、ボリビア東部のサバンナにある辺境の町、サンタクルスへと旅立った。
彼らは依然として、立派な牧場主として定住したいと考えていた。
1908年11月3日、ボリビア南部の小さな鉱山町サンビセンテ近郊で、
アラマヨ・フランケ・アンド・シア銀鉱山
の給与を運んでいた輸送車が、キャシディとロングボーと思われる覆面をした米国人盗賊2人に襲われた。
目撃者は3日後、サンビセンテで二人を目撃した。
二人は、鉱山労働者
ボニファシオ・カサソラ
が所有する小さな下宿屋に下宿していた。
カサソラは、彼らがアラマヨ鉱山の刻印があるラバを所有していたため、二人がアラマヨ鉱山の給料を強奪したのではないかと疑った。
彼は近くの電信士に知らせ、電信士は近くに駐屯していた
アバロア騎兵連隊
にこの情報を知らせた。
部隊はフスト・コンチャ大尉の指揮下にある兵士3人を派遣して、地元当局に通報した。
アラマヨの強盗団を逮捕すべく、11月6日の夕方、兵士、警察署長、市長、そして数名の職員が宿屋を包囲した。
アラマヨの強盗団を逮捕すべく、11月6日の夕方、兵士、警察署長、市長、そして数名の職員が宿屋を包囲した。
宿屋に近づくと、強盗団は発砲し始め、兵士1名を殺害、もう1名を負傷させた。
銃撃戦は夕方から夜にかけて数時間続いた。
午前2時頃、戦闘が小休止した際、市長は家の中で男が3回叫ぶのを聞き、その後、家の中から2発の銃弾が連続して発射された。
当局は翌朝、宿屋に入り、腕と脚に多数の銃創を負った2体の遺体を発見した。
ロングボーとみられる男は額に銃創があり、キャシディとみられる男はこめかみに銃痕があった。
地元警察の報告書では、遺体の位置から判断して、キャシディは致命傷を負ったロングボーの苦しみを紛らわすために銃撃し、最後の一発で自殺したのではないかと推測した。
トゥピサ警察は、この強盗団がアラマヨの給与輸送車を強奪した男たちであると特定した。
ただ、ボリビア当局は彼らの本名を知らず、身元を確実に特定することもできなかった。
2体の遺体は、サン・ビセンテの小さな墓地にある、ドイツ人鉱夫
グスタフ・ジマー
の墓の近くに埋葬された。
米国の法医人類学者
クライド・スノー
と彼の研究員たちは1991年に墓の発見を試みた。
ただ、キャシディとロングボーの存命の親族のDNAと一致する遺体は見つからなかった。
2017年、キャシディの墓の新たな捜索が開始され、ネバダ州グッドスプリングス郊外の鉱山が捜索の的となった。
発掘調査で人骨が発見されたものの、提供されたDNAとは一致していない。
そのため、一部の人々は、どちらか一方、あるいは両方が生き残り、アメリカ合衆国に帰国したと主張している。
その一つは、ロングボーがユタ州ダシェーンという小さな町で
ウィリアム・ヘンリー・ロング
という名前で暮らしていたというものがる。
ロングは1936年に亡くなり、遺体は2008年12月に掘り起こされ、DNA鑑定が行われた。
ただ、人類学者ジョン・マカローは、ロングの遺骨は「サンダンス・キッドの遠い親戚」から入手したDNAと一致しなかったと述べている。

