マルコヴィッチ事件(Marković affair)は、1968年にフランスで発生した
政治スキャンダル
で、俳優アラン・ドロンの友人でありボディガードでもあった
ステファン・マルコヴィッチ
の暴力的な死をきっかけに起きた。
1968年10月1日、マルコヴィッチの遺体はパリ西部イヴリーヌ県エランクール村の公共ゴミ捨て場で発見された。
その後、マルコヴィッチの死後、彼の車内の捜索で、フランス大統領
ジョルジュ・ポンピドゥー
の妻クロード・ポンピドゥーのものとされる性的に露骨な写真が発見された。
アラン・ドロンは「極めて怪しげなフランスのギャングの幹部たち」との知古があり、
フランソワ・マルカントーニ
の親友でもあったとされている。
ドロンのボディガード、マルコヴィッチが不審な死を遂げた際、マルカントーニとドロンが容疑をかけられた。
その一因となったのが、マルコヴィッチが弟の
アレクサンダル
に宛てた手紙の中で、マルコヴィッチは、「もし自分に危害が加えられた場合、
アラン・ドロン
フランソワ・マルカントーニ
が犯人だ」と示唆していた。
マスコミはドロンの関与を疑った。
ドロンの長年の友人でギャングの
フランソワ・マルカントーニ
が逮捕され、当初殺人罪で起訴されたが、警察の尋問を受けた後、最終的に容疑は取り下げられ、1969年に保釈された。
この事件は未解決のまま、1973年に証拠不十分で棄却された。
ただ、マルコヴィッチの死は「多くの噂」を引き起こし、その多くはポンピドゥー夫人との集団セックス写真の存在を示唆していた。
当時大統領選の選挙運動を行っていた
ジョルジュ・ポンピドゥー
は、これらの噂を一刻も早く払拭したいと考えていた。
彼はマルコヴィッチ事件に関する噂はすべて噂に過ぎないと公式に国民に伝えた。
ポンピドゥーは、自身と妻がマルコヴィッチとドロンとパーティーに出席したことを認めたが、
ルイ・ワロン
アンリ・カピタン
がフランスの諜報機関
SDECE
を利用して自分を陥れようとしたと非難した。
ポンピドゥーがマルコヴィッチの妻の写真への復讐としてマルコヴィッチの殺害を命じたという説もあった。
写真に写っていた女性は
妻に似ているだけの売春婦だ
と主張していたにもかかわらず、これらの噂は当初、ポンピドゥーの選挙運動に悪影響を及ぼした。
ポンピドゥーは噂を乗り越え、1969年の選挙に勝利した。
その後、SDECE長官に
アレクサンドル・ド・マランシュ
を任命し、改革を指示した。
写真回収の責任者と目されていた元警察署長
リュシアン・エメ=ブラン
は、写真はポンピドゥーに反対する既存のドゴール派の一派によって仕込まれたものだと述べた。
その後、写真の信憑性が疑問視された。
このマルコヴィッチ事件はジョルジュ・ポンピドゥー夫人の評判を傷つけるため、
妻のイメージを攻撃する策略
に過ぎなかったといった推測もある。
後に、写真に写っていたのはポンピドゥー夫人ではなく、SDECEと長い繋がりを持つ元警察署長
リュシアン・エメ=ブラン
が雇った売春婦だったことが判明した。
エメ=ブランは回顧録の中で、
匿名の友人
から40代の金髪の売春婦をスカウトするよう依頼され、ポンピドゥー夫人のそっくりさんとして、別の女性と不名誉なポーズで写真を撮られたと主張している。
ステファン・マルコヴィッチは1937年5月10日、ベオグラードで生まれた。
1950年代、マルコヴィッチと友人の
ミロス・ミロス(ミロシュ・ミロシェヴィッチ)
はベオグラードでストリートファイトに関わっていた。
二人は、当時若き映画スターだったドロンと出会っている。
ドロンはすでにユーゴスラビアのスタジオと共同製作した映画をベオグラードで制作していた。
ドロンは当初ミロス・ミロスをボディガードと、後にマルコヴィッチもボディガードとして雇った。
マルコヴィッチはセルビアのギャング
ニコラ・ミリンコヴィッチ
の友人で、ニコラの葬儀では護送隊の先頭列に並んでいたと言われている。
賭博に熱中し、しばしば不正行為を疑われたマルコヴィッチは、高級パーティーで知られ、家中、特に寝室に隠しカメラを設置していたとされている。
こうして彼は、出席者の社会的地位を傷つけかねない、多くの不名誉な写真を収集した。
彼は複数の新聞社に写真を売却しようと持ちかけていた。
驚くべきことに、写真の中にはドロンとマルカントーニ自身を直接標的にしたものとされるものもあったと言われている。
しかし、マルコヴィッチが所有していたとされる最も重要な写真は、ポンピドゥーの妻のスキャンダラスな写真だった。
これは、大統領選への出馬を控えていたポンピドゥーにとって大きな懸念事項でもあった。
この事件は、2020年のテレビミニシリーズ「ド・ゴール、光と秘密」の第6話で描かれている。
ドラマではポンピドゥーが
シャルル・ド・ゴール大統領
の自宅を訪れ、ド・ゴールに介入を求めるシーンがある。
ド・ゴールは、自分が情報を入手したらすぐに側近にポンピドゥーに情報を提供するよう指示するなど、できる限りのことをしたと答え、スキャンダルは公人生活の一部であり、それを忘れて前に進むべきだとポンピドゥーに助言している。
ポンピドゥーはこれに不満を抱き、犯人の意図がもし人々を困惑させることだったなら成功だったが、もし政治的に彼を抑止することが目的だったなら失敗だったと反論した。
ベルナール・ヴィオレは、アラン・ドロンに関する著書『ドロン秘話』を執筆し、2000年に出版した。
この本は、フランスの法制史上初めて、正式に販売が許可される前に当局によって
発禁処分
を受けた。
これは、事件に関与した数少ない生存者の一人であるドロンが、その販売を阻止しようとしたためとされている。
しかし、最終的に発禁処分は解除され、この本はフランスで販売された。

