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2025年06月02日

ジョージ・ブルーメンソール( George Blumenthal)ラザード・フレール社の米国支社の代表

ジョージ・ブルーメンソール( George Blumenthal)
   1858年4月7日〜1941年6月26日
 ドイツ生まれの銀行家で、ラザード・フレール社の米国支社の代表を務めた。
 ブルーメンタールは1858年にフランクフルト・アム・マインのユダヤ人家庭に
   ヘルマン・ブルーメンタール
   ヘレーネ・ヒッケル
の子として生まれた。
 外国為替銀行家であったブルメンタールは、
   シュパイアー商会(Speyer & Co)
からアメリカ合衆国に派遣され、ラザード・フレールの米国支店長として頭角を現した。
 彼はまた、フランスのラザード・フレールの共同経営者でもあった。
 1901年にラザードを退職し、証券取引所の株式保有権を手放した。
 その後、1906年に共同経営者として復帰した。
 1916年には証券取引所に復帰し、6万3000ドル(現在の価値で182万450ドルに相当)で株式保有権を取得した。
 彼はJ.P.モルガン(父)と共に、1896年に
   グロバー・クリーブランド大統領
が正貨による支払いを放棄するのを防いだ5人の銀行家の一人であり、6500万ドルの金融資を提供た。
 ニューヨークでは、
   マウント・サイナイ病院
の院長を務め、200万ドルを寄付した。
 同病院のブルーメンタール講堂は彼の名にちなんで名付けられている。
 彼は長年にわたり
   メトロポリタン美術館
の評議員を務めた。
 また、パリ・アメリカン病院の院長も務めた。
 1934年から1941年に亡くなるまで、メトロポリタン美術館の第7代館長を務め、100万ドルを寄付した。
 ベレス・ブランコ城のパティオ(列柱のあるスペイン・ルネサンス様式のパティオ)を遺贈した。
 彼の死後、
   ウィリアム・チャーチ・オズボーン
が後を継いだ。
 姪の
   キャサリン・グラハム
は回想録『私史』の中で、叔父を「自尊心の強い、扱いにくい男」と評している。
 また、彼とフローレンスは、学術研究のための資料として、貴重書、挿絵入りの書物、写本、ハガドットなどを収蔵する
   ブルーメンタール稀覯本・写本図書館
を創設した。
 1898年、ブルーメンタールは、
の娘でユージン・アイザック・マイヤーの妹である
   フローレンス・マイヤー(1875-1930)
と結婚した。
二人の間には、ジョージ・ブルーメンタール・ジュニア(1899-1906)という息子が生まれたが、幼くして亡くなった。
 1930年に最初の妻フローレンスが亡くなった後、当時77歳だったジョージは、1935年12月に
   マリオン「メアリー」 (旧姓ペイン) クルー (1890-1973)
と結婚した。
 メアリーは、バージニア州の最初の入植者の一人
   ロバート・ペイン卿
の子孫で、ヘンリー・クルーの甥である銀行家
   ジェームズ・ブランチャード・クルー
の2番目の妻であり、未亡人であった。
 ブルーメンソールは1941年6月26日、ニューヨーク市の自宅で亡くなった。
 彼の遺産は800万ドル(現在の価値で1億7,102万2,624ドル相当)を超えていた。
 彼の死後、未亡人は1943年に
   ラルフ・ケニオン・ロバートソン准将
と再婚した。
  彼の死後、彼女は1969年に
   カール・フォン・ランゲル=ロカソフスキー男爵
と結婚し
   フォン・ランゲル伯爵夫人
となった。
 ジョージと彼の2番目の妻は、南カリフォルニア大学ロスキ美術学校が毎年、地域芸術のリーダーシップにおける功績を称えて授与する「ジョージ・アンド・マリオン・ブルーメンソール研究奨学金」を設立した。

    
posted by まねきねこ at 05:34| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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