マックス・グリーンバーグ(Max "Big Maxie" Greenberg)
1883年 - 1933年4月12日
米国のユダヤ人ギャング。
デトロイト生まれ。親は東欧移民であった。
若い頃セントルイスで
イーガン・ラッツ
と呼ばれるギャング団に属していた。
1919年、バーデン銀行を強盗した。
また、列車強盗で逮捕され、イーガンギャングが結託していたミズーリ州知事の嘆願による大統領特赦で釈放された。
その後酒の密輸稼業に転じ、開業資金として
ウィリアム・イーガン
から2000ドルを借りたが、メキシコ人の密輸屋から酒を買った後、ミシシッピ川で落としたと言い訳して金を返さなかった。
小競り合いが高じた末の銃撃戦で仲間の
ベン・ミルナー
が銃殺されたため、セントルイスを離れ、デトロイトに活動拠点を移った。
1920年秋、ツテを頼ってニューヨークに来ると
にアーノルド・ロススタインを紹介され、保険加入、私物の担保などと引き換えに密輸の開業資金17万5千ドルを借入れるとセントルイスに舞い戻った。
イーガンギャングのライバルだった
ホーガンギャング
に組してイーガンギャングと抗争した。
その後再びニューヨークに戻ってゴードンと共に本格的な密輸事業を始めた。
ロススタインに買収されたアメリカ沿岸警備隊やニュージャージー州の関税役人の協力で、海上経由でカナダ産ウィスキーやスコッチ・ウイスキーを密輸し、ニューヨークの高級ホテルへ配送し、大儲けした。
1925年、密輸船の船長の密告でゴードンと共に逮捕され、禁固刑に服した。
1929年7月、ニュージャージーに拠点を移し、
マックス・ハッセル
とカルテルを結成、蒸留所を多数立ち上げた。
少なくとも16-17の蒸留所を北はバッファローから南はメリーランド州まで東海岸一帯に建造し、国産ビールの最大供給者になった。
また、サム・ブロンフマンのカナダ産ウイスキーを密輸し、東海岸マフィアに売りさばいた。
1930年頃より、
から全米犯罪シンジケートへの参加を求められ、圧力は次第に厳しくなった。
また、縄張りを損なわれたと見られる
からも脅迫を受けた。
1933年4月12日午後、ニュージャージー州エリザベスのカートリトホテルの一室でマックス・ハッセルと共に射殺された。
ハッセルは部屋の入り口付近で、グリーンバーグは部屋奥の机にもたれかかるようにして頭と胸に計5発の銃弾を浴びていた。
その日ホテルでゴードン、ハッセルと仕事の打合せをし、ゴードンだけ会議を先に抜けて別の部屋に情婦
ナンシー・プレッサー
と一緒にいた。
後日マーダー・インクの
フランキー・カルボ
が殺人犯として逮捕された。
アブナー・ツヴィルマン
の関与が取り沙汰された。