コーネリアス・ヴァンダー・スター
(Cornelius Vander Starr)
1892年10月15日 - 1968年12月20日
米国の実業家でニール・スターとも呼ばれている。
中国上海のCVスター&カンパニー(後にスター・カンパニーズとして知られる)の創設者
同社は保険大手AIGとなった。
スターはオランダ系の両親のもとに生まれた。
父親は鉄道技師だった。
スターは1910年から1911年までカリフォルニア大学バークレー校に通ったが、中退して故郷のカリフォルニア州フォートブラッグに戻った。
そこで彼は19歳の時にアイスクリームの販売という最初のビジネスを始めた。
スターは1918年にアメリカ陸軍に入隊したが、第一次世界大戦が終わっていたため海外に派遣されることはなかった。
その後、世界を旅して理解したいという強い衝動に抗えず、横浜で
太平洋郵便汽船会社
に事務員として入社した。
その年の後半、彼は上海に赴き、いくつかの保険会社で働いた。
1919年、彼は中国の上海で、当時はアメリカン・アジアティック・アンダーライターズ(後のアメリカン・インターナショナル・アンダーライターズ)として知られていた世界的な保険・投資会社を設立した。
1939年、中国大陸で日本軍と蒋介石が率いる国民革命軍との間の戦闘が激化したため、彼は事業所をニューヨークへ移転せた。
スターは第二次世界大戦中、戦略諜報局に勤務した。
1943年にウィリアム・「ワイルド・ビル」・ドノバンと共に
OSS保険情報部
を設立し、元米陸軍航空隊将校
クレア・L・シェンノート
の背後で主任諜報員を務めるなどの仕事に従事した。
シェンノートは、OSSが資金提供した米国義勇軍(通称「フライング・タイガース」)を調整し、宣戦布告なしに日本軍への無差別爆撃などを実行するなど、中国で蒋介石総統を再び米軍の支配下に置いたことで最もよく知られている。
そうした関係もあり、スターとOSSは後に、共産党指導者毛沢東よりも蒋介石を支持した。
2000年、戦争特派員で作家の
マーク・フリッツ
は、ロサンゼルス・タイムズ紙に「秘密の(保険)エージェントの男たち」と題する記事を書いた。
彼らは、どの工場を焼き払うべきか、どの橋を爆破すべきか、どの貨物船を良心的に沈められるかを知っていた。
侵略に使う道路の穴の数や、焼却対象に指定された街区の人数も把握していた。
彼らは単なる秘密諜報員ではなく、秘密保険のエージェントでもあった。
これらの潜入保険業者は、第二次世界大戦のスパイマスターに、資金援助と、最終的には
アドルフ・ヒトラー
の第三帝国の崩壊を助けた世界的な産業へのアクセスを与えてもいる。
第二次世界大戦後、スターはOSS大尉で弁護士の
ダンカン・リー
を雇い、リーは長期にわたってAIGの顧問弁護士となった。
AIGは1949年初頭、毛沢東率いる共産党人民解放軍が上海に進軍したため中国から撤退した。
スターは本社を現在のニューヨーク市に移転した。
AIGは世界最大の保険会社であり、2021年現在もその点では比類のない存在として君臨している。
1955年に彼はCVスター財団を設立し、1968年に死去した際に8桁の小額とブリュースターの自宅を姪に譲り渡した。
その後、全残余財産をこの財団に遺贈した。
また、近親者のためにいくつかの信託を設立した。
財団は設立以来、教育、医療とヘルスケア、人々のニーズ、公共政策、文化、環境の分野で世界中で38億ドル以上の助成金を提供した。