ローダ・プリツカー
(Rhoda Pritzker)
1914年9月11日 - 2007年12月23日
イギリス生まれの米国人慈善家
弁護士で実業家の
との結婚により、シカゴで最も裕福な一族の一つである
プリツカー家
の一員となった。
プリツカー家は不動産事業を営み1950年代にはハイアット ホテルズ アンド リゾーツを設立した。
ローダ・プリンツカーは、1914年にイギリスのマンチェスターでユダヤ人の両親のもとに
ローダ・ゴールドバーグ(Rhoda Goldberg)
として生まれた。
ローダの両親は、ギルバート・アンド・サリバンのサーカス芸人
モリス・ゴールドバーグ
とコンサートピアニストの
シシー・ゴールドバーグ
で、ローダは結核のため、10歳になるまで学校に通うことが出来ず療養して過ごしていた。
ローダは、ランカシャー州サウスポートの新聞社に就職するため、高校を卒業する前に中退した。
彼女は若い頃に、他のいくつかのイギリスの新聞社やイギリス放送協会(BBC)でも働いていた。
ローダは1939年、第二次世界大戦が本格的に始まる前の最後の
大西洋横断客船
の船団の一つに乗って米国に移住した。
プリツカー家の言い伝えでは、彼女はドイツの潜水艦の攻撃の脅威が常にあったため航海中ずっと救命胴衣を着けていたという。
ローダはは最初、雑誌の仕事の一環としてネバダ州リノでブラックジャックのディーラーとして働き始め、その後、第二次世界大戦中に
英国AP通信
の外国特派員としてニューヨーク市で就職した。
ローダはマンハッタンでのブラインドデートで将来の夫となる
と出会い、ジャックが第二次世界大戦中に米海軍に中尉として入隊した直後の1943年に結婚した。
ローダとジャックは戦時中、ニュージャージー州プリンストンとフロリダ州キーウェストに住んでいた。
ローダはキーウェストに住んでいる間に赤十字のボランティアをし、慈善活動家としてのキャリアをスタートさせた。
彼女は第二次世界大戦の終結後、夫と共にシカゴに移住した。
ジャック・プリツカーは自身の法律事務所
プリツカー&プリツカー
で弁護士としてのキャリアを再開した。
ローダはシカゴに到着した後もフリーランスのジャーナリストとして働き続けた。
また、慈善活動にも深い関心を持った。
2人は1970年にフロリダ州ケイシーキーに冬の別荘を購入した。
ローダとジャック・プリツカーの間にはニコラス・J・プリツカーという息子が一人いた。
ローダは1979年に未亡人となった。
ローダは熱心なイギリス現代美術コレクターとして知られ、バーバラ・ヘップワース、ヘンリー・ムーア、LSローリーなどの芸術家の作品の主要な支持者でもあった。
彼女は生涯を通じて慈善家として幅広い活動や団体を支援した。
ローダが擁護した活動の多くは動物、教育、芸術に関するものであった。
ローダは、グッドマン演劇学校(現在はデポール大学演劇学校)の理事会に長年務めた。
彼女はニュー・カレッジ・オブ・フロリダの創設理事であり、20年以上にわたって同校の理事を務めた。
ローダは、1990年代後半に開設されたニュー・カレッジ・オブ・フロリダの資金250万ドルの
海洋生物学研究センター
への主要寄付者であった。
2000年代半ばには、プリツカー家の慈善財団が大学にローダの名前で200万ドルを寄付した。
このことから、寄付基金と大学の寮がローダ・プリツカーにちなんで名付けられた。
さらに、ローダは1980年代にフロリダ州サラソタにある
の評議員を務めた。
ローダは、動物保護施設と譲渡サービスであるシカゴ地域の動物保護協会の設立に尽力した。
また、フロリダ州の多くの動物保護施設やレスキューセンターを積極的に支援した。
ローダは、有名な動物愛護活動家
クリーブランド・アモリー
と親しい友人だったと伝えられている。
ローダは、野良動物を引き取って譲渡することで個人的にも知られていた。
彼女は毛皮を集めたり、毛皮のコートを着たりすることはなかったという。
ローダ・プリツカーは2007年12月23日、フロリダ州ケイシーキーの冬の別荘で93歳で亡くなった。
彼女の健康状態は数ヶ月前から悪化していたと伝えられている。