中田 大三(なかた たいぞう)
1914年6月7日 - 1998年3月25日
日本の実業家で神戸電鉄をはじめとする神戸電鉄グループの社長を務め、同グループ発展に大きく尽力した甲州財閥の一人。
山梨県甲府市に生まれる。1936年(昭和11年)山梨高等工業学校電気工学科を卒業し、同年に同郷の小林一三が創業した阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄で会社としては現在の阪急阪神ホールディングス)に入社した。
1966年(昭和41年)11月に取締役に就任し、1969年(昭和44年)5月に常務となった。
神戸電気鉄道(現・神戸電鉄)では、1970年(昭和45年)に
三木駅衝突事故
丸山駅追突事故 など
多数の負傷者を出す重大事故を繰り返して大阪陸運局より特別監査が行われたことを受けて社長の原泰良や専務・常務が退任する事態になっていた。
同年11月10日に開かれた取締役会において、同社は京阪神急行電鉄と神戸銀行より中田を含む3名の役員を迎え入れた。
人事刷新で内部の緊密化を図り、中田は取締役社長に就任することとなった。
これは神戸電鉄初の他鉄道会社出身者の社長であった。
就任した中田は「ルールを守れ、作業の基本手順を確実に実行せよ」との社長方針を制定して、鉄道設備の拡充・保安度の向上・高性能車両の新造などを行い有責鉄道事故への対策を進めた。
また、当時の神戸電鉄の経営状態は芳しいものではなく、沿線開発やビル経営などを中心とした不動産業の拡充を図り、経営の立て直しを図った。
この結果、神戸電鉄は無事故表彰を受けるまでになり、経営面でも沿線開発事業による利益とそれにともなう鉄道利用者増加で急伸長した。 1971年(昭和46年)以降は配当金を実施するに至った。
その後、経営悪化で2004年〈平成16年〉以降は再び無配となっていたが、業績好調により2024年〈令和6年〉より再度復配している。
神戸電鉄の経営改善に成功した中田は、さらなる会社成長には
積極的な多角経営
が必要であるとして、前社長の原泰良に引き続いて子会社・関連会社・孫会社を相次いで設立した。
ニュータウン開発・戸建住宅建築・マンション開発・ビル経営・駐車場運営をはじめとする不動産事業、スーパーマーケット・レストランなどの流通事業、建設事業、観光事業、教育事業、ホテル事業、金融事業、スポーツ事業などを一体的に進め相乗効果を上げる「神鉄複合文化産業構想」を独自に作り上げてグループ全体の発展に非常に大きな影響を与えた。
これらの構想の実現のため
総合企業集団「神戸電鉄グループ」
を結成し、1991年(平成3年)には企業数が17社を数えるまでに肥大化した。
このグループ発展の過程で神戸市北部の巨大住宅地の開発、有馬ビューホテルや兵庫カンツリー倶楽部などのレジャー経営、学習塾やスイミングスクールの運営などを行い、北神・北摂・東播地域の発展にも大きな影響を与えた。
神戸電鉄をはじめとする不動産デベロッパーの開発により急速に人口が増加した神戸市北部と都心部をむすぶ神戸電鉄有馬線の輸送力が将来限界状態になるとして、中田は1973年(昭和48年)に神戸電鉄の混雑緩和を目的として北神急行の構想を発表した。
1974年(昭和49年)には神戸電鉄傘下に北神急行電鉄を設立し、中田は同社の社長にも就任した。
1988年(昭和63年)には谷上 - 新神戸間に北神急行を開業させ、北神エリアの発展に寄与することとなった。
相談役に退くまで、27年間の在任中は風通しの良い企業風土づくりを積極的に進めた。
仕事の空いた時間には、子会社の神鉄観光が開催する「神鉄ハイキングの集い」に参加して健康づくりを行うのが趣味でとなり、ハイキングに参加すると「(社長が参加する日は)係員が張り切っています」と言われたという。
1979年(昭和54年)11月には藍綬褒章を受賞した。
なお、1992年(平成4年)に神戸電鉄社長の席を退くまで神鉄グループ各社の社長も兼務していた。
1992年(平成4年)6月25日に神戸電鉄会長に就任した。
1996年(平成8年)6月には相談役となった。
1998年(平成10年)3月25日に急性肺炎のため死去した。