エドモンド・サフラ(Edmond J. Safra)
1932年8月6日 - 1999年12月3日
シリア系レバノンのユダヤ人でブラジル国籍を持った億万長者の銀行家、慈善家である。
サフラ一族はオスマン帝国時代からその領内で地金取引を営んでいた。
家族はオスマン帝国が1922年に滅んでベイルートへ移り住んだ。
第二次世界大戦後はミラノで成功し、1955年ブラジルにサフラ銀行を設立し50以上の支店をかかえた。
翌1956年に貿易開発銀行(Trade Development Bank)を設立し、モンテカルロからマイアミまでのプライベート・バンキングをあつかった。
エドモンド・サフラはブラジルとスイスで銀行業を営む資産家として家族の伝統を引き継ぎ、1976年から亡くなるまで
リリー・ワトキンス
と結婚していた。
リリーはチェコスロバキアで生まれ、ブラジルの鉄道電化の際に南米に移住したイギリス系ユダヤ人の鉄道技師
ウルフ・ホワイト・ワトキンス
と、ロシア系ユダヤ人の祖先をもつウルグアイ人
アニタ・ノウデルマン・デ・カストロ
の娘である。
エドモンドはレバノンのベイルートで生まれ、彼の家族はシリアのアレッポ出身のセファルディ系ユダヤ人の家系である。
エドモンドの父親
ジェイコブ・サフラ
は、1920年にベイルートでJEサフラ銀行を設、1929年にジェイコブ・E・サフラ銀行と改称、1956年にその名を国民信用銀行(BCN)に変更した。
エドモンド・サフラは16歳になるまでにベイルートにある父親の銀行で働き、貴金属や外国為替の業務に携わっていた。
1949 年に家族でレバノンからイタリアに移住し、そこでエドモンドはミラノの貿易会社に勤めた。
彼は16歳のとき、イタリアとイギリスの金主権者間の裁定取引で4,000万ドルを稼ぎ、そのお金を使ってジュネーブの金融機関を取得した。
この銀行が後にブラジルで設立した貿易開発銀行になった。
銀行で使用する帳簿には古代アラビア文字のみが使用され情報等の秘匿化が行わていたという。
その後、一家は1952年に再びブラジルに移住し、エドモンド・サフラとその父親は1955年にブラジル初の金融機関を設立した。
エドモンドは決してイスラエルを居住地としたことはなかった。
1956年、エドモンド・サフラはジュネーブに定住し、民間銀行である
貿易開発銀行
を設立した。
この銀行は当初の 100万米ドルから 1980年代には 50億米ドルまで成長した。
彼は世界中の「裕福な顧客」を満足させるために金融帝国を拡大させた。
ユーロダラーがインフレして交換性に影響しはじめた1966年には
ニューヨーク・リパブリック銀行(Republic New York)
を設立し、その後、ジュネーブに
ニューヨーク国立銀行 (スイス)
を設立した。
リパブリック銀行はニューヨーク地域で 80 の支店を運営しており、首都圏では
シティグループ
チェース マンハッタン
に次ぐ第 3 位の支店ネットワークとなっていた。
サフラの銀行業務は、モナコ、ルクセンブルク、スイスの顧客にサービスを提供していた。
1980年代アメリカン・エキスプレス(アメックス)でサフラは
マーチャント・バンキング担当重役
であった。
このとき社長のワイルと組んでリーマン・ブラザーズ・クーン・ローブを買収して
シェアソン・リーマン・ブラザーズ
へ改組した。
1980年からサフラが亡くなるまで
ウォルター・ウェイナー
はサフラの弁護士兼ニューヨーク・リパブリック・ナショナル銀行のCEOを務めた。
1983年にウェイナーは同銀行の会長に就任した。
1983年、アメリカン・エキスプレスが貿易開発銀行を4億5,000万米ドル以上で買収し、サフラは莫大な利益をあげた。
ただ、その後、両当事者間の法廷闘争に発展した。
この投資家は、自分に対する
中傷キャンペーン
を開始したことに対するアメリカン・エキスプレスからの公開謝罪と、800万米ドルの損害賠償を勝ち取り、その全額を慈善団体に寄付した。
1988年に、ルクセンブルクの銀行持株会社
Safra Republic Holdings SA
を設立、ジュネーヴにもリパブリック銀行を出した。
1990 年代初頭までに、サフラの財産は 25 億米ドルと推定された。
サフラは生前、著名な慈善活動家であり、エドモンド・J・サフラ慈善財団に財産を残した。
この財団は、教育、科学、医学、宗教、文化、教育の分野で、世界50カ国の数百のプロジェクトを支援している。
1996年に、サフラはベニー スタインメッツおよびビル ブラウダーと共同でハーミテージ キャピタル マネジメントを設立しました。このヘッジファンドはロシアで最も重要な投資会社の一つとなり、後に
セルゲイ・マグニツキー事件
に関連して有名になった。
1998年8月17日、サフラのニューヨーク国立銀行は、 1999年のロシア金融危機後の
大量のロシア債保有
により純利益の45%を失った。
サフラ晩年、リパブリック銀行はニューヨークで預金高124億ドルを超えた。
サフラ自身はリパブリックの3100万株(資本金で22億ドル相当、30%)を保有した。
ジュネーヴの方でも21%を支配した。
これらのリパブリック銀行が1998年ロシア財政危機で大きな損失を出した。
1998年、サフラ氏のニューヨーク・リパブリック・ナショナル銀行とニューヨーク・ナショナル銀行(スイス)、その他の正体不明の支店、
およびロシア財務省とロシア中央銀行の両方が関与したIMF資金に対する
マネーロンダリング計画
の可能性についてFBIとスイス司法当局に警告した。
イタリアの新聞ラ・レプブリカはIMF資金214億ドルが、1998年のロシア金融危機を引き起こしたと伝えた。
サフラはニューヨーク、イスラエル、ルクセンブルク、ブラジルなどに設立した関連銀行と連動させて金融帝国を拡大したがアメックスでこの国際金融組織で麻薬密売益等を
資金洗浄
が行われているというスキャンダルがおこった。
ただ、このスキャンダルは実証されなかったが、2012年HSBCの資金洗浄が報じられた。
1999年5月、HSBCがリパブリック両行を買収すると発表した。
同年9月にプリンストン債事件が発覚した。
プリンストン債というドル建て債券は、ニューヨークのリパブリック銀行が保有する資産を担保に発行され、アメリカのクレスベール証券(Cresvale International Ltd.)が日本で販売した。
高い利回りに誘われて、これを日本の優良企業70社が購入したが、担保がほとんどなくなっていることが分かり、購入者が総計1200億円の損失を出した。
11月30日リパブリック銀行の株主総会で買収が承認された。
1999年、サフラはサフラ・リパブリック・ホールディングスとリパブリック・ニューヨーク・コーポレーションを現金103億ドルでHSBCに売却した。
1999年12月31日にHSBCプライベートバンクがサフラの旧保有株の新しい名前となった。
ロシアのマフィアとのつながりが指摘され、1999年アメリカ司法省がリパブリックを捜査するようになった。リパブリックがロシアの犯罪組織とビッグビジネスをしている容疑であった。
捜査の結果、バンク・オブ・ニューヨークの口座に
犯罪組織
が100億ドルを保有していたことが分かった。
サフラは60代にモナコ、ジュネーブ、ニューヨーク市の自宅とコート・ダジュールのヴィラ・レオポルダの間で時間を分けて過ごしたがパーキンソン病により衰弱し、介護が必要となった。
1999年12月2日、エドモンドとリリーのサフラ夫妻はモナコの市民権を取得した。
1999年12月、サフラと看護師
ヴィヴィアン・トレンテ
は、モナコにある億万長者の自宅で意図的に点火された火の煙で窒息死した。
火災の夜、モナコ司法長官兼首席検事
ダニエル・セルデ
は、サフラの身辺警備責任者
サミュエル・コーエン
が警備員は必要ないと供述したと明らかにした。
サフラの看護師テッド・マーハーは、「大胆な救助によって」注意を引くために火を起こし、その後意図せず制御を失った疑いで逮捕された。
彼はその罪で有罪判決を受け、懲役10年の刑を宣告された。