アレン・ウェルシュ・ダレス(Allen Welsh Dulles)
1893年4月7日 - 1969年1月29日)
米国の政治家、外交官、弁護士
第34代大統領ドワイト・D・アイゼンハワー
第35代大統領 ジョン・F・ケネディ
の両政権にて
第5代中央情報長官(CIA長官)
を務めた。
兄は第52代アメリカ合衆国国務長官を務めた
ジョン・フォスター・ダレス
である。
ニューヨーク州ウォータータウンで生れ、父は長老派教会の牧師。
なお、ダレス家は長老派の聖職者を多く出す家柄であったが一方の母方の祖父はベンジャミン・ハリソン政権下で国務長官を務めた
ジョン・W・フォスター
で、この二つの家系がジョンとアレンの兄弟の将来に期待される役割をもたらした。
ジョンに対しては外交官となることが望まれたのに対し、アレンは聖職者となることを嘱望されていた。
アレンは早熟な子供と言われ、8歳の時にイギリスが南アフリカに
ボーア戦争
を仕掛けたことを批判するパンフレットを書いたと伝わる。
ハイスクールを卒業した1908年には、ジョンの留学に付き添う形でフランスに渡った。
エコール・アルザシエンヌで勉学する傍ら、プリンストン大学に合格し、1909年に帰国して入学した。
プリンストン大学を1914年に卒業すると、アレンはインドで英語教員となるべくアラハバードに渡ったが、アレンは仕事に満足することができず、翌1915年に帰国している。
アレンは外交官になることを志望し、1916年に国務省に入省した。
この背景には、叔父であるロバート・ランシングが1915年に国務長官に就任したことも影響していた。
この決定は、聖職者になることを望んでいた父には失望を与えた。
アレンの初任地は第一次世界大戦中のウィーンで、国務長官のランシングはヨーロッパでの情報収集活動の強化を急いでいた。
アレンに対しても合法的な
諜報活動(インテリジェンス収集)
を期待し、1917年4月にアメリカが第一次大戦に参戦すると、交戦相手国駐在の在外公館が閉鎖された。
アレンはスイスのベルンにある公使館に移り、外交官の日常活動と並行してインテリジェンス収集をおこなった。
休戦後のヨーロッパで、ロシア革命の影響を見たアレンは、ボリシェヴィキ勢力の拡大を警戒するレポートを本国に送った。
この共産主義勢力に対して反発する姿勢は、その後もアレンの行動に一貫することとなり、反共主義と右派思想を持ち続けた。
1918年に「パリ講和会議」の米国代表団の一員となった。
アレンの仕事は、ランシングが設置した「臨時政治・経済連絡局」のスタッフとして代表団内部や他国代表団との調整や連絡に当たる任務であった。
アレンはここで連絡局の上司だった
ジョセフ・グルー
の知遇を得た。
講和会議終了後の1920年初めには、米国が
ワイマール共和国
に派遣した使節団の副団長としてベルリンに赴き、ドイツ人とのコネクションを築いた。
また、ドイツへの投資を望む米国の産業界の意を受けて訪独した兄ジョンにも協力した。
その後、4月に休暇を得て帰国し、10月に結婚すした。
アレンはいったん本省勤務となったが、自ら望んで12月にはトルコのイスタンブールに赴任した。
トルコ時代にはローザンヌ条約につながる会議をプロデュースしたのち、1922年、国務省中近東課長として本国に戻った。
1926年に北京の大使館勤務を突如命じられたことをきっかけに国務省を辞めている。
国際法律事務所サリヴァン&クロムウェル(Sullivan & Cromwell)に所属し、経営者の一人でもあった兄ジョンからは以前より自分の事務所に来るよう誘われていた。
このときもそれを勧めたジョンに従った。
法律事務所に雇用されたが、アレンは一般の訴訟を手がけたのではなかった。
財閥企業のクライアントの意向に沿って政策をプロデュースするため、国務省とクライアントの橋渡しをすることが求められた任務であった。
アレンはロンドン海軍軍縮会議などの国際会議に法律顧問としてアメリカ代表団に随行した。
ロンドン軍縮会議後はジョンの命により、ヤング案の締結や世界恐慌に伴う米国とヨーロッパの金融取引調整のため、約1年パリにとどまった。
このパリ駐在の間にアレンはヨーロッパの金融界とコネクションを築いた。
1940年、OSS(Office of Strategic Services, 戦略事務局 CIAの前身)に入局した。
1942年から1945年まで、スイスベルン支局長であった。
1945年4月には、北イタリアのドイツ軍との停戦・降伏交渉を「サンライズ作戦」として実施し、降伏を実現させた。
続いて当時、亡命ドイツ人でOSSの工作員
フリードリヒ・ハック
を介した在スイス日本公使館付海軍顧問輔佐官を務めていた
藤村義朗・日本海軍中佐
とのルート、およびスイスの国際決済銀行理事の
ペール・ヤコブソン
から同じく国際決済銀行に出向していた横浜正金銀行の
北村孝治郎
吉村侃
を介した岡本清福スイス日本公使館付陸軍武官と加瀬俊一公使のルートを用いた降伏条件交渉を行った。
戦後、ニューヨークでの弁護士業に戻っていた。
1950年にW・ベデル・スミス陸軍中将が中央情報長官(CIA長官)に就任すると、ダレスはCIA作戦本部長の地位を得た。
1951年より中央情報副長官(CIA副長官)を務めた。
1953年、共和党アイゼンハワー政権の発足に伴い文民で初めてCIA長官に就任した。
トルーマン時代まで情報収集を主要な活動としていたCIAが、彼の得意分野である
「暗殺や破壊工作」・謀略 など
に主眼を置く
特務工作機関
として再編され、人員・予算ともに合衆国の国家戦略を左右する程の巨大組織となっていった。
実兄のジョン・フォスター・ダレス国務長官とともに、アイゼンハワー政権の冷戦外交に大きな影響を与えた。
任期中にイランの
モハメッド・モサデグ政権転覆作戦
やグアテマラの
ハコボ・アルベンス・グスマン政権転覆作戦
を指揮した。
また国内メディアのコントロールを図るため
モッキンバード作戦 (en:Operation Mockingbird)
を監督した。
また、ジュネーヴ協定後の初期段階のベトナム介入に関わった。
米国の庭先ともいえるキューバがフィデル・カストロにより共産化されると、アイゼンハワー政権末期からダレスは
ピッグズ湾侵攻計画
を策定した。
この計画はケネディ政権に引き継がれ、4月17日に計画は実行された。
ダレスは実行部隊である亡命キューバ人部隊には正規のアメリカ軍の投入を約束し、反対にケネディには米軍の介入なしに作戦を成功できると確約して二枚舌を使った。
ケネディ大統領にアメリカ正規軍投入の決断を迫る局面で、その役目を副長官の
カベル将軍
に押し付けた事でケネディの不信を招くことになり、軍投入を拒否されてしまった。
この結果として亡命キューバ人部隊はキューバ側の反撃で壊滅し、作戦は失敗に終わった。
政権発足から間もなく政治的な大黒星をつけたこの問題で1961年11月、ダレスはケネディの不興を買って解任された。
しかし、主要な部局には自分の腹心を配置することで後任の
ジョン・マコーン
の政治力を削るという政治工作によって、以後もCIAの活動に影響を与えた。
1963年11月22日にケネディが暗殺されると、事件を調査するウォーレン委員会のメンバーに任命された。
ジョンソン政権下では賢人会議のメンバーとなり、アメリカのベトナム政策に影響を与えた。
また、1969年にニクソン政権が発足すると、国家安全保障会議のメンバーとなった。
同年にインフルエンザをこじらせ肺炎で死した。