台湾で1947年に当時の中国大陸から脱出した蒋介石が率いる
国民党政権
が台湾民衆の抵抗運動を弾圧した
「2・28事件」
から77年となった28日、各地で犠牲者を追悼する記念式典が開催された。
蔡英文総統は南部・嘉義県の式典で「過去に向き合い過去を忘れず、民主主義の続く社会を追求しなくてはならない」と訴えた。
過去の不正義を正す重点政策「移行期の正義」を推進している蔡氏は2期8年で国民党の独裁政権下で起きた弾圧の調査や被害者の名誉回復を進めてきたと説明した。
同政策は「特定の政党に向けられたものであってはならない」と述べ、現在の最大野党、国民党を標的にしたものではないとの立場を強調した。
次期総統の頼清徳副総統も南部台南市の式典で「事件は台湾史上、政府が犯した最も重大な過ちだ」と批判し、5月の総統就任後、蔡政権の「移行期の正義」政策を推進する考えを表明した。
1945年に日本が敗戦した後の台湾では、カイロ宣言に基づき
連合国軍の委託
を受けて、日本軍の武装解除を行うために、中国本土から蔣介石主席率いる
中華民国国民政府・中国国民党
の官僚や軍人らが同地へ進駐し、「失地回復」という名目で台湾の行政を引き継いだ。
しかし、汚職の凄まじさに驚き、失望した。
中国本土から来た官僚・軍人は、当時の日中戦争と国共内戦の影響で質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かった。
その犯人は国民革命軍の兵士てあったため、特権のごとく処罰されないことが多く見られ、日本軍統治時代と比べ社会秩序が破壊され、不満が広がっていた。
また、"Chinese Exploit Formosa Worse Than Japs Did"(日本人よりも過酷に台湾を搾取する中国人)(ザ・ワシントン・デイリーニュース)などといった記事も見られ、たとえ罰せられる場合でも、犯人の籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられていた。
台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、中国上海市の国際市場で競売にかけられていた。
その影響から、物資不足に陥った台湾では、相対的に物価は高騰、インフレーションによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。
台湾経済は、日本内地の地方都市を超えて東京市と同じ水準にあった。
そのため、日本の統治を体験した台湾人にとって、
治安の悪化
役人の著しい汚職、軍人・兵士などの狼藉
さらに、経済の混乱は到底受け入れがたいものであり、人々の不満は高まっていった。
当時の台湾人はこれらの状況を「犬(日本人)去りて、豚(中華民国人)来たる」(狗去豬來)と呼んで揶揄していた。
戦後の台湾では、日本統治時代の専売制度を引き継ぎ
酒・タバコ・砂糖・塩等
は利権として党の収入となったため全て政府によって専売された。
これに対して、中国本土ではタバコは自由販売が許されていたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていた。
「二・二八事件」は、1947年(民国36年)2月28日に台湾省台北市で発生したもので、その後台湾全土に広がった
中華民国政府
による
長期的な白色テロ
すなわち民衆への弾圧・虐殺の引き金となった事件のこと。
同年2月27日、台北市でタバコを販売していた台湾人女性
林江邁(40歳、2人の子持ち寡婦)
に対し、官憲(台湾専売局台北支局密売取締員6名と警察官4名)が摘発して暴行を加え商品および所持金を没収する事件が起きた。
この事件に同情して、多くの台湾人が集まった。
すると取締官は今度は民衆に威嚇発砲したが、まったく無関係な台湾人である陳文渓に被弾・死亡させてしまい、取締官は逃亡した。
これが発端となって、翌2月28日には台湾人による抗議のデモ隊が省行政長官兼警備総司令陳儀の公舎に大挙して押しかけた。
庁舎を守備する衛兵は屋上から機関銃で無差別に銃弾を浴びせかけ、多くの市民が死傷した。
国民党の憲兵隊による発砲、怒した台湾人民衆は政府の諸施設を襲撃し、外省人の商店を焼くなど抗争はたちまち台湾全土に広がった。
日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。
なお、台湾住民の中には日本語が話せない人々もいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、台湾人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進し多くの地域で一時実権を掌握した。
3月4日には台湾人による秩序維持と食糧確保のための全島処理委員会が成立した。
事態の収拾に向けて、知識人や地方名士からなる
二・二八事件処理委員会
も台湾各地に組織され、台北の同委員会は3月7日に貪官汚吏の一掃・省自治の実施・政府各機関への台湾人の登用などの改革を陳儀に要求した。
劣勢を悟った政府の長官府は、一時台湾人側に対して対話の姿勢を示したが、裏では中国本土の国民政府に密かに援軍を要請した。
陳は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒(奸党乱徒)に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蔣介石に送っていた。
国民政府主席蔣介石は陳儀の書簡の内容を信じ、3月8日に中国本土から援軍として派遣された第21師団や憲兵隊が到着した。
これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始し、裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問して多くが殺害された。
また、台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、中華民国政権軍部隊を迎え撃ち、戦った。
最後はこれらも制圧され、台湾全土が中華民国政権軍の支配下に収まった。
嘉義市の議員で民衆側に立った
陳澄波
は市中引き回しのうえで嘉義駅前で銃殺されたた。
この事件によって多くの台湾人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収された。
犠牲者数については10万人とも言われるが正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、今も政府・民間双方の間で行なわれている。
1992年(民国81年)、中華民国行政院は、事件の犠牲者数を1万8千〜2万8千人とする推計を公表した。
その後、1949年(民国38年)5月19日に改めて発令された戒厳令では38年後 の1987年(民国76年)まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑される根源となった。
また、内外の批判によって中華民国政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことである。
中華民国総統を務めた
李登輝
は事件当時留学経験者という知識分子であったため処刑を恐れて知人宅に潜伏した。
また、外国人初の直木賞受賞作家であり実業家の
邱永漢
は学生運動のリーダーであったが、当局の眼を掻い潜って出航し、香港を経由して日本に逃亡した。
戒厳令は38年の間施行された台湾では政治活動や言論の自由は厳しく制限され、白色テロと呼ばれる人権抑圧が行われている。
ひとこと
南京事件も、蒋介石の国民革命軍が本拠としていた南京市で、親日中国人の摘発・拷問・処刑が繰り返され数万人の犠牲者が生まれていた。
南京市街地では親日中国人の多くが親族を国民革命軍による見せしめによる虐殺等の行為に晒されたため、多くの市民が市街に逃亡していた。
こうした窮民中国人を保護し、南京攻略の日本軍には親日中国人も兵士として参加した。
南京攻略後も、蒋介石の国民革命軍は司令部を無策のまま南京市から撤退させ、焦土化で途中の強制挑発や焼却、家屋の破壊行為等が行わてており、残された将兵も更衣兵や敗残兵となり、逃げ出す際や居座るなかで一般市民の財貨を略奪し、虐殺、および暴行・強姦・放火などの不法行為を繰り返し、治安回復を妨害するなどのテロ行為等が続いていた。
市街に戻った中国人も日本軍に協力して自警団が作られ治安回復の活動を始めるなか、家族等の情報を密告した隣人等が私的な制裁を受けた。
こうした蛮行は中国共産党も同じ状況で地主や商人等が犠牲になっている。