チャールズ・ポンジ(Charles Ponzi)
1882年3月3日 - 1949年1月18日
1910年代から1920年代にかけて米国で暗躍した詐欺師。
不特定多数に出資を求める詐欺(ネズミ講を含む)の総称
ポンジ・スキーム
という言葉の由来として名を残す。
本 名はカルロ・ピエトロ・ジョヴァンニ・グリュエルモ・テバルド・ポンツィ
(Carlo Pietro Giovanni Guglielmo Tebaldo Ponzi)
である。
イタリア王国・ルーゴに生ま、1903年11月15日、21歳の時に移民として米国のボストンに渡り、ニューヨークのレストランで皿洗いやウエイターをしながら英語を学んだ。
このレストランで釣銭を誤魔化して逮捕された記録が残されている。
その後、1907年にカナダのモントリオールに移り
チャールズ・ビアンキ
と名を変えて国際銀行の出納係見習いとしての職に就いたが、客のサインを偽造した
小切手詐欺
を働き再度逮捕された。
投獄され三年の刑期を終えて米国カに戻り移民の集団に紛れ込んだものの犯罪者としての素性がばれ、不法移民として一年間拘束を受けた。
1918年2月、路面電車で出会った
ローズ・ニェッコ(Rose Gnecco)
と結婚した。
義父の食料品輸出入の事業を引き継いだが上手くいかず会社を潰した。
その後、1907年に誕生した
国際返信切手券の制度
について、切手の交換レートと実際の外貨交換レートに差があり、利ざやを得ることができることに目を付けた。
1919年12月にボストンで
セキュリティ・エクスチェンジ・カンパニー(SEC)
という投資会社を立ち上げた。
この時の交換レートによる
利ざや獲得の仕組み
について、ポンジの『自伝』には「イタリアの1リラは、切手券では為替レートの20セントではなく5セントになる。
イタリアの通信制度では1リラは100チェンテシミだ。
2000チェンテシミあれば30チェンテシミの国際返信切手券が66枚手に入ることになる。
この切手券をボストンにもってくると5セント切手3ドル30セント分が手に入る。
つまり230%の利益になる。」
と記述されている。
第一次世界大戦とは無縁だった米国では市場経済が急激に成長を見せた。
SECにはブルーカラーの労働者、警察官、聖職者など数多くの投資希望者が詰めかけるようになった。
ポンジは会社を立ち上げて数か月で350万ドルの現金を集めた。
こうして集めた金をポンジは投資することなく、一部投資家たちへの利益返金や遊興費やレキシントンの豪華な邸宅や車の購入費に充てた。
1920年7月24日のボストンポスト紙には「三ヶ月で倍に」というフレーズとともにポンジの儲け話に沸くよう
比較的好意的な投資家
たちの声を掲載し、ポンジが「投資をしていない」という事実に気付いていないまま詐欺の片棒を担いだ。
SECは企業買収によりハノーバー信託銀行を傘下になった。
1920年、SECに事務用品をレンタルしていた
J・R・ダニエルズ
は、儲けているはずのSECが何故事務用品がレンタルのままなのか疑念を持ち、司法当局に訴え出た。
これを契機にポスト紙ではポンジに対する疑惑が取り沙汰されるようになった。
ポンジは余裕を崩さず投資家に対して利息を支払い、返金にも応じていた。
しかし、恐れをなした部下によって運転資金が持ち逃げされた。
1920年7月27日付のポスト紙には、ことの経緯が発表され、「ポンジ閉店、再開は無理か」との見出しが掲げられた。
同年8月2日には国際返信切手券の取引の実態が無いことが暴露された。
8月10日には警察に記録と帳簿が差し押さえられる事態となった。
8月12日、ポンジに対し政府当局は彼と彼の会社が破産したことを正式に通達した。
この時点でのポンジの負債は500万ドルから1000万ドルにのぼると推計された。
なお、国際返信切手券は僅か30ドル分ほどしか購入されていなかった。
また、ポンジの言うような業績を達成させるためには、当時の国際返信切手券総発行額の6倍が必要だったとされている。
ポンジは郵便制度を利用した詐欺容疑で告発され、詐欺罪により連邦刑務所に収容された。
3年4ヶ月後にはマサチューセッツ州の州刑務所に移送されて7年から9年の刑に服した。
仮釈放となった後も1934年にフロリダ州で
不動産詐欺
を働くなどしたため米国の市民権を剥奪され、イタリアに強制送還された。
その後ブラジルに渡り、1949年1月18日、リオデジャネイロの慈善病院にてその生涯を終えた。

