ハリス・チャールズ・ファーネストック
(Harris Charles Fahnestock)
1835年2月27日 - 1914年6月4日
米国の投資銀行家。
ペンシルベニア州ドーフィン郡のハリスバーグで生まれた。
ハリスバーグに店を所有していた
アダム・ケーニッヒマッハー・ファーネストック(1806年 - 1887年)
シビル・トンプソン(旧姓ホルブルック)・ファーネストック(1811年 - 1851年)
の息子として生まれた。
兄弟にはエドワード・モリス・ファーネストックとルイ・ファーネストックがいた。
1726年にドイツから米国に移民しペンシルベニア州エフラタ近くに定住した
ヨハン・ディードリッヒ・ファーネシュトック
の直系の子孫にあたる。
ファーネストックは父親の下で働きながら 16 歳までハリスバーグ アカデミーで正式な教育を受けた。
その後、ハリスバーグ国立銀行で窓口係として働き始めた。
1861年、ワシントンD.C.に本拠を置く銀行会社
ジェイ・クック・アンド・カンパニー
でジェイ・クックのパートナーとなり、「南北戦争中に多額の戦争融資の交渉を行ったことで」注目を集めた。
ワシントンにいる間、ファーネストックは鉄道に興味を持ち始め、ワシントン・アンド・ジョージタウン線の会計係になった。
その後1866年にクックとヒュー・マカロック(元財務会計監査官)とともに
ジェイ・クック・マカロック商会
の一員としてニューヨーク市に移住し、1873 年の恐慌で会社が崩壊するまで同社に在籍した。
ジェイ・クック・マカロック商会が破綻した。
その後、ファーネストックはジョン・トンプソンとその息子、当時のニューヨーク第一国立銀行頭取
サミュエル
と協定を結び、1877年に合意して直ちに債券部門の責任者となった。
ジョージ・F・ベイカーが頭取に選出されたのと同じ年、ファーネストックは銀行の副頭取兼取締役に選出され、トンプソン家(その後1877年にチェース・ナショナル銀行を設立)から銀行の経営権を引き継ぐことになる。
ファーネストックは、シティグループの前身であるファースト・ナショナル銀行を1914 年に亡くなるまで 25 年間率いた。
また、サザン鉄道、デラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道、ニュージャージー州セントラル鉄道の取締役も務めた。
ファーネストック & Co. は、1881年5月11日に息子のウィリアム ファーネストック、ジョセフ T. ブラウン、および特別会員としての HC ファーネストックによって設立されました。
1936年に、同社は HL Horton & Co. の事業を引き継いだ。
最終的には1950年のOppenheimer & Co.の設立につながった。
ファーネストックは、アッパー・マンハッタンの聖ヨハネ大聖堂の西アーチの建設に5万ドルを寄付した。
また、メトロポリタン美術館の理事および会計係、およびアメリカ自然史博物館の会員および後援者としての役割に加えて、大学院病院の後援者でもあり、死後は病院に多額の寄付をした。
ファーネストックは、同じくハリスバーグ出身のアイザック・G・マッキンリーの娘
マーガレット・A・マッキンリー(1835年 - 1898年)
と結婚し、5人の男の子と1人の女の子を育てた。