(Lazard Asset Management)
世界各国の政府、金融機関、公的・民間法人や個人の資産運用管理を行う企業
運用資産 2,070億米ドル(2023年12月31日現在)
1848年7月12日、ユダヤ系フランス人
アレクサンドル・ラザード
ラザール・ラザード
サイモン・ラザード
の三兄弟はルイジアナ州ニューオリンズにて後にラザードとなるドライグッズを扱う商社
ラザード・フレール&Co(Lazard Frères & Co.)
を9000ドルを元手に設立した。
1851年、サイモン・ラザールは他の二人の兄弟モーリスとエリーと共にゴールドラッシュの活気に溢れ人口爆発状態のカリフォルニア州サンフランシスコへと移り、輸入や金塊の輸出の事業を開始した。
また、長男のアレクサンドルは同時期にニューヨークへと拠点を移した。
ラザード兄弟の事業は間も無く銀行業や外国為替業の金融業へと拡大した。
1854年、長男アレクサンドル・ラザールはフランスへと移り、米国での事業を補完する役目としてパリにオフィス
Lazard Frères et Cie
を開設した。
また、フランス政府に対する金塊の購買に関するアドバイザー業務を開始した。
1870年には国際事業の拡大に伴いロンドンにもオフィス
Lazard Brothers
を開設した。
1876年までにラザードは多角化した事業を再編し投資銀行業務へと特化し。
1880年にはニューヨークにオフィスを開設した。
第二次世界大戦が勃発すると、パリはナチスに占領され、パリ家ラザードの
サイモン
は、戦後に英米の代表団に混じりドイツの財閥解体に参加した。
そして、IG・ファルベンインドゥストリーがヘキスト、BASF、バイエルなどに事業分割された。
連合軍の占領政策に寄り添って以来、パリ家は英米資本と協力するようになった。
1968年、ライネル・グートがパートナーとなった。グートは1971年に
スイス・アメリカン・コーポレーション
のCEO となった。
これはSchweizerische Kreditanstalt(現クレディ・スイス)の子会社であった。
1982年にスイスクレディタンシュタルトの会長となった。
グートはバイエル、スイス・リー、ダイムラー・クライスラー、スルザー、ノバルティス、チバガイギー(現ノバルティス)、アルスイス、エレクトロワットなどの多国籍企業で重役を務めた。
また、ネスレでも務めたが2000年からは会長に就任、同年からクレディ・スイス名誉会長でもある。
David David-Weill はドイツ軍がフランスを占領したためニューヨークへ逃げてきた。
1943年にアンドレ・メイヤーがヴェイルのパートナーになった。
1953年ロンドンで
Lazard Investors Limited
が資産運用業務を開始した。後にLazard Asset Management Limitedに社名変更した。
メイヤーは1960年代に活躍し、ITT Corporation などのレバレッジド・バイアウトに責任を負った。
このITT はソスシーンズ・ベーンが創業した企業のひとつ。
また、1960年から1991年まで
ユーゴ・キンダースレイ男爵
が重役を務め、ユーロクリア設立前後の1963年から1968年までマルコーニ商会、1965年から1996年までSun Alliance & London Insurance Group 、1966年から1968年までイングリッシュ・エレクトリック、そして1968年から1970年までゼネラル・エレクトリックの重役をも兼務めている。
この内、サン・アライアンスはネイサン・メイアー・ロスチャイルドが1824年に立ち上げたアライアンス保険を源流の一つ。
メイヤーが退いてからニューヨークのラザードは、1961年からメイヤーのパートナーであった
フェリックス・ロハティン
が経営をリードした。
ロハティンは1997年に駐仏米国大使となり、またリーマン・ブラザーズとロスチャイルドでも仕事をしたのち、2010年にラザードCEO となった。
1980年代以降については、ジェイコブ・ロスチャイルドのもとでキャリアを積んだRobert Agostinelli がゴールドマン・サックスを経てラザードへやってきて、欧州での数々の取引にかかわった。
ラザードは東京がオフショア市場となってから日本市場に深くコミットした。
1987年にアセット・マネジメント業務へ進出している。
1989年には日銀総裁だった
澄田智
を迎えて、ファイナンシャル・アドバイザリー業務を開始した。
この年からアリエル(Arielle Marie Mallard)がラザードのアナリストになった。
1991年にギー・ド・ロチルドの息子エドゥアールと結婚して、そのまま寿退社した。
なお、1997年までケア機構フランス支部理事、2011年までGBL傘下のイメリーズ重役、2012年まで国際ケア機構副総裁などを歴任している。
1970年、ニューヨークで
Lazard Asset Management LLC
を設立し、SECに登録した。
1987年には日本拠点としたラザード・ジャパン・アセット・マネージメント株式会社が営業を開始した。
1994年、豪シドニーでLazard Asset Management Pacific Coが営業を開始した。
1996年にカナダでLazard Asset Management (Canada) Incを設立した。
1997年グローバルで統合された視点でサービスを提供するために、英国および米国のアセット・マネージメント事業を統合している。
1999年Lazard Asset Management (Deutschland) GmbHが独フランクフルトとハンブルグで営業を開始した。
2005年には家族経営を主軸としてきた157年に渡る非公開の合名会社に終止符を打ち、ニューヨーク証券取引所に
ラザード・リミテッド(Lazard Ltd.)
の株式(シンボル「LAZ」)を上場して、Lazard Asset Management LLC は、Lazard Ltdの間接子会社となった。
また、Lazard Korea Asset Management Co. Ltdが韓国ソウルで営業を開始した。
なお、1985年までにラザードは会社の支配権をめぐり
パリ保険連合(Union des assurances de Paris)
に競り勝ち、2000年に完全支配した。
2002年からブルース・ワッサースタインがCEOとなった。
ワッサースタインは戦前のユダヤ系ポーランド人を父とし、ファースト・ボストン(現クレディ・スイス)とドレスナー・クラインワートでキャリアを積んだ。
2000年、ラザードは各種投資部門を統合
ユーラゼオ(Eurazeo)
を立ち上げた。
ここで運用することになった資産は1960年代から運営されていたもので、クライアントである
ダノン・ピアソン・ゼネラリ保険等
の長期保有株をふくんでいた。
ユーラゼオの母体企業はフランスの
ペリエ兄弟
が設立したパリ水道会社のの流れをくむ1881年設立の「ガスと水道(Gaz et Eaux)」である。
その後、1945年にガス事業は国有化された。1977年にIDI(Institut de Développement Industriel)と、MG(La Mutuelle Générale)・パリバ・預金供託金庫・エルフアキテーヌをふくむコンソーシアムに買収され、8700万フラン相当の資産を運用する会社となった。
2002年までにユーラゼオがゼネラリ保険株を売り、翌年ユーテルサット株を取得した。
2006年にはユーラゼオがヨーロッパカーを買収した。
近年はモンクレールやデシグアルに投資をしている。
これと前後して2007年、ラザードはオーストラリアの投資顧問会社を合併した(Lazard Carnegie Wylie)。
ラザードはEUのイラン各問題に伴う経済制裁によりイランとの貿易関係を遮断させられ、2010年に破綻したギリシャ政府のアドバイザーを務めた。
2015年、クラフトフーズとハインツの合併をはじめとする大型案件でもアドバイザーを務めた。
2008年Lazard Asset Management (Hong Kong) Limitedが香港で営業を開始した。
2013年Lazard Asset Management (Singapore) Pte. Ltd.がシンガポールで営業を開始した。
2014年Lazard Asset Management (Lazard Gulf) Limited UAE(ドバイ)で営業を開始した。
2023年現在、ラザードは50以上の国々において事業を展開している。