ウィリアム・マコーミック・ブレア(William McCormick Blair Jr. )
1884年5月2日– 1982年3月29日
父親エドワード・タイラー・ブレアはシカゴで最初の卸売ハードウェアハウスを設立した。
エドワードは1879年にイェールを卒業し、シカゴクラブの歴史を含む数冊の本を著作し、父親の会社で勤務した。
家庭は非常に裕福で、子供たちが成長している間、4人のスウェーデン人の使用人を雇って家を管理していた。
母親、アンナ・ルーベニア「ルビー」マコーミック(1860–1917)は、農業機械メーカーの経営者
ウィリアム・サンダーソン・マコーミック(1815–1865)
の娘であった。
彼女の祖父はロバートマコーミック(1780–1846)で、機械式の刈り取り機の製造業者で、農機具の開発に貢献した。
ウィリアムは1903年にグロトンスクールを卒業し、 1907年にイェール大学から文学士号を取得した。
大学時代は、漕ぎ手であり、Skull and Bones Societyの会員であった。
その後、1964年にノースウェスタン大学から名誉学位を取得し、レイクフォレスト大学に進んだ。
卒業後、シカゴのノーザントラストカンパニーに就職した。
その後、債券証券会社のDavid Reid&Companyに転職した。
1909年に商業銀行のリー・ヒギンソンに移り、地位を上げて、シカゴオフィスのマネージングパートナーになった。
1917年に第一次世界大戦に入る際、映画の休憩中に、戦時国債の販売のスピーチをした。
また、広報委員会の活動でワシントンDC でディレクターになった。
ウッドロウウィルソンは戦時国際販売の貢献でウィリアムに感謝状を送った。
戦争が終結すると、ウィリアムは陸軍に参加し、ニューヨーク基地で訓練を受けた。
戦後、ウィリアムはリー・ヒギンソンで仕事を続けたが、スウェーデンの「マッチ王」とも呼ばれた有力者イーヴァルクルーガーの引受もあり世界恐慌途中に会社が破産した。
1934年にフランシス・A・ボナーと共同で金融会社を作った。
ブレアは、リー、ヒギンソンの倒産後、資産を無くしたが、ライアーソン(会社)のジョセフとエドワード・ライアーソン、食料会社のクエーカーオーツのジョンとダグラス・スチュアートから5万ドルの出資を引き出した。
会社は1935年1月8日にブレア・ボナー・アンド・カンパニーとしてシカゴのサウス135サウスラサールストリートにあるマーシャルフィールドビルにオフィスを構えて活動を始めた。
同社は、米国中西部の住宅への融資を専門とした。
当初は、Household Finance Corporation、Continental Casualty、ContinentalAssuranceへ融資をした。
1941年、ボナーは会社を辞めた。
会社をウィリアムブレアアンドカンパニーに改名した。
なお、会社は、出資者であるWilliam Blair、Wallace Flower、Donald Miehls、Lee Ostrander、DanielRitterの5つのパートナーによって管理された。
ブレアは、銀行家のジョセフ・ティルトン・ボーエンとルイーズ・デコーベン・ボーエン(1859–1953)の娘
ヘレン・ハダック・ボーエン(1890–1972)
と結婚した。
1912年、彼女の母親は、ボーエンカントリークラブとして知られるハルハウスの貧しい子供たちのためにサマーキャンプを行った。
1946年、ブレアの息子、ウィリアム・マコーミック・ブレア・ジュニア、エドワード・マコーミック・ブレア(1915年生まれ)とボーエン・ブレア(1918年生まれ)が入社した。
ブレアはコンチネンタルカジュアルティ社、コンチネンタルアシュアランス社、ピープルズガスライトアンドコーク社の取締役に就任していた。
また、シカゴ芸術研究所の生命評議員、シカゴ大学生命評議員、野外自然史博物館の評議員、評議員であった。
ウィリアムブレアアンドカンパニーの終身シニアパートナーであった。
ブレア・シニアは1961年にマネージングパートナーを辞任し、息子のエドワードに会社の経営を譲った。
ボーエンブレアは2009年9月11日に亡くなった。
エドワードは1977年に引退し、2010年12月22日に亡くなった。