テッド アリソン(Ted Arison תד אריסון)
1924年2月24日 - 1999年10月1日
イスラエルのユダヤ系実業家で、1966年にノルウェーの海運界の大物
クヌート・クロスター(Knut Utstein Kloster)
1929年4月2日– 2020年9月20日
と共同してノルウェージャン・クルーズラインを共同設立したものの、すぐに1972年に
カーニバル・クルーズライン
を設立するために退社した。
なお、クロスターの祖父は1924年にクロスターレデリを設立、1959年にクロスターが家業に加わり、それを主要なクルーズラインに変えた。
アリソンは、1924年2月24日、大英帝国のパレスチナ委任統治領テルアビブで、裕福な実業家メイアとベラ・アリソンの間にセオドア・アリソンとして生まれた。
もともと、ルーマニアに離散したユダヤ人の子孫でサブラ(イスラエル生まれ)の3 世で、ベイルートのアメリカン大学で商業と経済を学んだ。
第二次世界大戦中、アリソンはイギリス陸軍のユダヤ人旅団に入隊し、イタリア戦線で戦った。
英国がテルアビブの統治を放棄して同所を立ち去った後、アリソンは1948 年のアラブ・イスラエル戦争中に
イスラエル国防軍の将校
として勤務し、最終的に中佐であった。
1946 年から 1951 年まで、アリソンは海運会社M. Dizengoff & Co.を経営している。
テルアビブにおけるビジネスチャンスの欠如に業を煮やしたアリソンは、テルアビブでの事業を終えて1952年以降に米国に移住した。
1954年に家族を連れてニューヨークに渡り、 1966年にフロリダ州マイアミに移住した。
そこで1966 年のクルーズライン
ノルウェージャン・カンパニー
をクヌート・クロスター社との間で共同設立者となった。
1971年に提携関係が悪化し、アリソンは1972年に退社するとともに
メシュラム・リクリス
の援助を得てカーニバル・クルーズラインを設立して富を築くことになっていく。
1981年に、マイアミに拠点を置く国立芸術進歩財団を設立している。
アリソンは 1988 年にマイアミ ヒートを結成して南フロリダにプロ バスケットボールチームの本拠地とした。
また、イスラエルと米国に慈善団体であるアリソン財団を設立した。
1986年、アリソンのマンションの隣人であるEFハットン・アンド・カンパニー社副社長
SGエルカイム伯爵
から、差し迫った株式市場の大きな調整の前に上場するようアドバイスされた。
彼のアドバイスと指導に従い、カーニバル・クルーズ・ラインズは1987年7月にアメリカ証券取引所に上場した。
これは株式市場の最高値と1987年10月の悪名高い大暴落の1か月前であった。
なお、ハットンは引受会社4社のうちの1人として名を連ねた。
1989 年 2 月、アリソンはエルカイムに 1 株あたり 30 ドルで会社を独占的に売却することを極秘で決めた。
1987 年の暴落による精神的なショックからの株式市場の回復が遅れた結果、株式市場でのカーニバルとその後の 1999 年までの株価上昇により、アリソンは一気に世界で最も裕福な人々の一人になった。
アリソンは米国の相続税を回避するために、1990 年に米国市民権と居住地を放棄してイスラエルに戻った。
そこでアリソン インベストメントを設立した。
1997年、アリソン・インベストメンツはコンソーシアムを率いて
の支配株を10億ドル以上で購入した。
なお、この取引はイスラエル史上最大の民営化となった。
アリソンは1948年にルーマニアからイスラエルに移住した
ミナ・ワッサーマン(1927年〜2012年)
と結婚し、息子ミッキー(1949年生まれ)と娘シャリ(1957年生まれ)の2人の子供をもうけた。
なお、夫婦は1966年にフロリダに移住した後に離婚した。
1967年にアリソンはマリリン・“リン”・ハーシュと結婚し、後に彼女の息子マイケル(1961年生まれ)を養子にした。
アリソンは、 1999 年 10 月 1 日にテルアビブで亡くなった
ただ、死亡時、米国籍放棄による税制上の優遇措置が実現するために10年間米国領土外に滞在するという条件を約9カ月満たしていなかった。