(Bank of America Corporation)
米国ノースカロライナ州のシャーロット市に本社を置く世界規模の銀行で、バンカメリカやバンカメの略称で呼ばれる。
(英語の略称はBofA)
収益 986億米ドル(2023年)
営業利益 283億米ドル(2023年)
純利益 265億米ドル(2023年)
運用資産 1.62兆米ドル(2023年)
総資産 3.18兆米ドル(2023年)
総資本 2,920億米ドル(2023年)
営業利益 283億米ドル(2023年)
純利益 265億米ドル(2023年)
運用資産 1.62兆米ドル(2023年)
総資産 3.18兆米ドル(2023年)
総資本 2,920億米ドル(2023年)
従業員数 約 213,000人(2023年)
主要株主 バークシャー・ハサウェイ(12.8%)
1998年にネーションズバンク(NationsBank)が親会社のバンクアメリカ(BankAmerica)を吸収合併して設立。
合併後の名称をバンク・オブ・アメリカ・コーポレーションとした。
この際、バンク・オブ・アメリカNT&SAがその名称をバンク・オブ・アメリカ・エヌ・エイに変更した。
これは当時、歴史上最大の銀行間取引であった。
2つの巨大な会社の規模にも関わらず、規制当局ではニューメキシコの13支店の剥奪のみ主張しただけで合併を認めている。
なお、合併のとき財務情報が新株主に正しく伝えておらず、2002年に
和解金5億ドル
を支払うことになった。
バンクアメリカは1904年に持株会社構造の先駆者として、多くの近代的な銀行業務の発明者として知られるイタリア系移民の
(Amadeo Giannini)
が、バンク・オブ・イタリア(Bank of Italy)の商号で、労働者階級−特にサンフランシスコの北海岸に住むイタリア系移民のための銀行として、サンフランシスコに設立したもの。
1906年のサンフランシスコ地震にも生き延び、翌日からは
市街の再建ビジネス
に融資を提供する最初の銀行となった。
1907年恐慌ではソキエタ・バンカリア・イタリアーナ(Società Bancaria Italiana)を救済するため、頭取の
ボナルド(Bonaldo Stringher)氏
が米国債の利子を立替えて流動性を回復させた。
1919年7月に連邦準備制度に加盟して競争相手の
クロッカー(Crocker National Bank)
が小さく見えるほど支店網を広げ事業が拡大した。
その後、連邦準備制度は会員銀行にそれ以上の支店設置を認めなかった。
ただ、会員銀行は貿易特権があったため、本国イタリアでは1925年に
から10億ドルを借りるなど会員銀行は勢いづいた。
1927年、カリフォルニア州の金融当局が態度を軟化させて支店拡大を認めた。
翌1928年に二つ目の持株会社トランスアメリカ(Transamerica)を創業した。
1929年、サンペドロが保有していたバンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルスを買収した。
さらに、二つ目の持株会社が
ブレア商会(Blair & Company)
を吸収合併した。
ブレア社長の
エリシャ・ウォーカー(Elisha Walker)
は、ロスチャイルド系金融機関のクーン・ローブ商会のパートナーであった。
1930年、二つの持株会社(National Trust と Saving Association)を統合させた。
ジアニーニは引退して社長職をウォーカーに譲った。
しかし、斜塔になったウォーカーがトランスアメリカを解散して清算しようとしていることを聞きつけて、ウォーカーを辞任させ1931年に再び社長に返り咲き、カリフォルニア州の株主を説得して主導権を回復した。
ただ、1930年代後半まで続いた世界恐慌のダメージがジアニーニを連邦の金融政策から疎外し、連邦準備制度が1937年にトランスアメリカとバンクアメリカ(旧バンク・オブ・イタリア)を強制分離しようとした。
なお、バンクアメリカは第二次世界大戦で著しい成長を遂げた。
戦後、バンクアメリカは情報革命に努め、ジェネラル・エレクトリックやスタンフォード研究所(現・SRIインターナショナル)と提携し、業務の集中処理化、小切手の自動処理、口座番号、磁気インク文字認識(MICR)などを開発した。
1954年クラーク・ベイズ(Clark Beise)が社長となり、1963年までオートメーション化を進め職責を果した。
ベイズはウォルト・ディズニー・プロダクションとフルハーフ(日本フルハーフの親会社)で重役をつとめた。
また、SRIインターナショナルで顧問をしたこともあった。
1956年、米国では銀行持株会社法(Bank Holding Company Act)が制定されて、銀行業とそれ以外の兼業を禁じた。
バンクアメリカは保険事業をトランスアメリカに譲渡したうえ、カリフォルニア州外の銀行業務を、新たに設立された
ファースト・インターステート・バンコープ
(1996年ウェルズ・ファーゴに吸収)
に譲渡せざるを得なくなった。
1958年には、クレジットカード『バンカメリカード』が発明された。
1960年ニューヨーク州にある
チェースマンハッタン銀行
が、バンカメリカードと競争するため
Master Charge(現在のMasterCard)
を発明した。
1968年、バンクアメリカおよびその子会社を所有する目的で
バンクアメリカ・コーポレーション
が設立され、1971年にトム・クラウセン(Alden W. Clausen)が社長となって1981年に世界銀行へ拡大していった。
これは第三世界の対外債務がデフォルトするリスクに晒され、国際交渉に参加しようという目的があった。
バンクアメリカは当時アグリビジネスに対する世界最大の貸し手となっていた。
その後、サム・アルマコスト(Sam Armacost)が社長職を引き継いだ。
1983年、バンクアメリカはシアトルの
シーファスト・コーポレーション
と、その銀行業務の子会社であるシーシアトル・ファースト・ナショナル・バンクを買収し(Seafirst Bank)した。
また、カリフォルニア以外に経営を広げることを許されたことから、同年、証券会社で金融持株会社の
チャールズ・シュワブ(Charles Schwab Corporation)
を買収した。このブローカーは翌年ノーロードの
ミューチュアル・ファンド
を設定した。
当時は、ミルケンらが跋扈し、ジャンク債の隆盛期であった。
しかし、ラテンアメリカなどがデフォルトしたため、バンクアメリカは1986-87年に巨大な損失を被った。
クラウセンはチャールズ・シュワブとグループのイタリア子会社を売り払い窮状を回避した。
1987年のブラックマンデーから1992年までの5年間バンク・アメリカは1株当たり8ドルで取り引きされていた。
事業整理が進んで1990年ごろには収益を回復した。
また、機関投資家を資本参加させるにつれて株価は大きく反発したことで、国内外の拡大路線に回帰して、ミラノ支店を開いた。
1991年、ヒューストンの
ヴィレッジ・グリーン・ナショナル・バンク
GNA証券
を買収した。
1992年、バンクアメリカはカリフォルニアでライバル社の
セキュリティ・パシフィック・コープ
と、カリフォルニアにある子会社の
セキュリティ・パシフィック・ナショナル・バンク
(Security Pacific Bank)
を買収した。これにより、セキュリティ・パシフィックが1980年代後半に手に入れた広東銀行(Bank of Canton)も傘下に収めた。
譲り受けた支店は、アリゾナ州、アイダホ州、オレゴン州やワシントン州にもあった。
ただ、セキュリティ・パシフィックのワシントン子会社
レイナー・バンク(Rainier Bancorp)
は、連邦当局が強制的に売却させた。
それ以降、バリー・バンク・オブ・ネバダを獲得することで、ネバダ州にまで経営を拡大させている。
1993年、中国人民銀行の認可を得て広州市の代理店をフルサービスの支店に変えた。
1994年、バンクアメリカはシカゴの
コンチネンタル・イリノイ銀行
を買収し、経営戦略を展開する店舗を設立するため、シカゴにその全国的な金融の部署を移動させた。
1996年、ダヴィッド・コールター(David Coulter)が社長兼会長に就任した。
バンクアメリカはノンバンクを自由化する、あるいはシャドー・バンキング・システムを拡張するグラム・リーチ・ブライリー法の規制緩和を求めた。
連邦法は緩和する方向になり、バンクアメリカは1997年に中堅の証券会社
ロバートソン・ステファン(Robertson Stephens)
を買収することができた。
翌1998年、ネーションズバンクと合併した。
なお、ネーションズの子会社
モントゴメリー証券
(Montgomery Securities)
は、買収していた傘下のロバートソン・ステファンと協働することができなかった。
このため、1998年の間にバンクボストン(BankBoston)へ売られた。
2001年、バンク・オブ・アメリカのCEOであり社長の
ヒュー・マックコール(Hugh McColl)
が辞職し、ケネス・ルイス(Ken Lewis)を彼の後継者として指名した。
2003年9月3日、ミューチュアル・ファンドを利用した不正競争の疑いで捜査が入った。
2004年、連邦預金保険公社に国内預金市場占有率を5130億ドルと評価された。
その後、マサチューセッツ州ボストン市を拠点とした
フリートボストン(FleetBoston)
を470億ドルで買収している。
2005年、バンクアメリカ副社長を1993年から務めていた
ジェームズ・ハンス(James H. Hance, Jr.)
がカーライル・グループへ移籍した。
また、同年、中国の建設銀行に9%資本参加した。
世界金融危機では
不良資産救済プログラム
(Troubled Asset Relief Program)
の対象となり、優先株250万ドルを発行し倒産を免れている。
ユーロ危機後にも収益が悪化、大規模な事業売却をくりかえしたる。
バンカメ証券(Banc of America Securities)は大手金融機関
シティグループ
の戦略に従って設立され、シティグループのようにユーロ債を取引している。
なお、他のメガバンク同様、バンク・オブ・アメリカも十分に機関化されている。
日本における事務所は「バンク・オブ・アメリカ・エヌ・エイ東京支店」として 東京都中央区日本橋1-4-1 日本橋一丁目ビルディングにある。
2007年、チャールズ・シュワブからUSトラスト(U.S. Trust)を買収した。
さらに、ABNアムロ銀行からラサール銀行(LaSalle Bank)も買収している。
2008年9月15日、アメリカ合衆国第3位の投資銀行
メリルリンチ(総資産1兆0200億ドル。2007年12月現在)
を1株29ドル、総額500億ドルで買収することを発表し、翌年1月1日、メリルリンチをグループ傘下におさめ、米国最大の民間金融機関となった。
2010年、自治体や学校・病院を詐欺した容疑で連邦政府から賠償訴訟を提起されている。
2013年、中国建設銀行の株式を全て売却した。
2013年、中国建設銀行の株式を全て売却した。
2014年、オハイオ州コロンバスを拠点とし、中西部などを主要事業エリアとするリージョナル金融持株会社
ハンティントン・バークシャー(Huntington Bancshares)
へミシガン州の数十支店を売却した。
2015年2月、世界金融危機の引き金となった
サブプライムローンの不動産証券の不正販売
をめぐり、米国司法省と
166億5千万ドルの支払い
で和解した。