ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア
(John Davison Rockefeller, Sr)
1839年7月8日 - 1937年5月23日
アメリカ合衆国の実業家、慈善家。石油王と称えられた。
スタンダード・オイル社を1870年に創業し、ピーク時は米国の石油の90%を支配下に置くなど石油市場を独占し、米国初のトラストを結成した。
1897年に事実上引退し、その後は現代的フィランソロピーの構造を定義し、慈善活動に力を入れた。
その資産はピーク時には9億ドルに上り、米国の経済の1.5%以上であった。
物価の変動を考慮すると史上最大の資産を持つ富豪とされ、慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に引退後の40年間、資産の大部分を使った。
また、医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した。
創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症や黄熱病の根絶に貢献した。
シカゴ大学とロックフェラー大学を創設した。
熱心なバプテスト信者であり、生涯にわたって米国バプテスト同盟を支援し、酒とタバコは嗜まなかった。
ニューヨーク州リッチフォードで
ウィリアム・エーヴリー・ロックフェラー(1810年11月13日 - 1906年5月11日)
とその妻
イライザ・デイヴィソン(1813年9月12日 - 1889年3月28日)
の6人の子供の2番目として生まれた。
ロックフェラー家が17世紀初頭のドイツにルーツがある。
父はかつて林業を営んでいたものの上手くいかず
巡回セールスマン
となり「植物の医師」(botanic physician) を名乗ってエリキシールを売り歩いた。
旅に出ていることが多く、家には闖入者のように時折帰ってくるだけの生活が続いた。
父は生涯に亘って真面目に働こうとせず、常に一山当てようと目論むような男だったといわれる。
イライザは信心深いバプテストであり、夫が不在の間家庭を維持するため奮闘した。
夫は頻繁に外に女を作り、時には重婚していたこともあるが耐え抜いた。
自然に倹約が常となり、息子には「故意の浪費は悲惨な欠乏を招く」と教え込んだ。
若きロックフェラーも家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして家計を助けた。
また、「小皿を大皿と交換しろ」という父の助言に従い、ロックフェラーは常に取引で有利になることを心がけていた。
父は「チャンスがあれば息子達も騙す。そうして奴らを敏感にしたい」と言い放った。
その後、一家でニューヨーク州モレイビアに引越し、1851年にはさらに同州オウィーゴに引越しオウィーゴでは学校に通った。
1853年、クリーブランド近郊のストロングスビルに移り、クリーブランド中央高校で学び、商業専門学校で10週間のビジネスコースを受講し簿記を学んだ。
父の不在と頻繁な転居にもかかわらず、母の躾でロックフェラーは行儀がよく、真面目で、熱心な少年に育った。
当時を知る人はロックフェラーを、控え目で真面目で信心深く几帳面で分別があったと評している。
また、議論がうまく、正確に自分の考えを表現できたうえ、音楽好きで、将来それで身を立てたいという夢を持っていた。
早くから算術と経理の才能を発揮した。
1855年9月、16歳のとき、製造委託会社
Hewitt & Tuttle
で簿記助手の職を得たのが社会人の始まりという。
会社では長時間働き、そのオフィスの仕事の全てに精通するようになった。
特に輸送費の計算に熟達し、そのことが後々大いに役立ったとされる。
最初の3カ月間の給料は50ドル(1日あたり50セント)だったが、当初から給料の約6%を寄付しており、20歳のころには10%をバプテスト教会に寄付している。
若いころは、10万ドルを貯めることと100歳まで生きることが目標だと周囲に語っていたという。
1859年に資本金4,000ドルで
モーリス・B・クラーク
と共同でに製造委託会社を設立し、着実に利益を上げていった。
食料品の卸売りからはじめ、1863年には当時クリーブランドの工業地域だった「ザ・フラッツ」に建設される製油所に投資した。
この製油所を直接所有していたのは
Andrews, Clark & Company
で、クラークとロックフェラーと化学者サミュエル・アンドリュースとクラークの2人の兄弟が創業した会社である。
ランプの原料として鯨油が大量に使用するには高価すぎるものとなり、安価な燃料が必要とされていた時代で石油産業は揺籃期だった。
兄フランクが南北戦争で従軍したころ、ロックフェラーは彼の事業も引き継いでいる。
北部の裕福な人々が従軍する代わりに北軍に資金提供したように、ロックフェラーも北軍に資金提供した。
1865年2月、クラークと対立したロックフェラーが持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解消した。
ロックフェラー精油事業(精油所は処理能力が1日に原油500バレル)を72,500ドルで買収した。
その買い取った権利を基に、化学者のアンドリュースとロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立した。
ロックフェラーも後に「その日、私の経歴が決定した」と述べている。
南北戦争後、鉄道の成長と石油に支えられ西部に向かって開発が進展しており、ロックフェラーはよい位置につけた。
多額の借金をし、利益を再投資し、市場の変化に迅速に対応していった。
1864年9月8日、ロックフェラーはクリーヴランドで教師の
ローラ・セレスティア・スペルマン(1839 - 1915)
と結婚し、5人の子を授かった。4人の娘と、末っ子の一人息子ジョン・ロックフェラー2世(1874 - 1960)である。
後にロックフェラーは「彼女の決断は常に私のそれより正しい。彼女の助言がなければ貧乏なままだっただろう」と語った。
クリーブランドは南北戦争が終わったころにはピッツバーグ、フィラデルフィア、ニューヨーク、原油の大部分を産出していたペンシルベニア州と共に米国の石油精製拠点のひとつになっていた。
1870年6月、ロックフェラーらは
スタンダード・オイル・オブ・オハイオ
を結成し、オハイオ州で最も高収益な製油所となってた。
スタンダード・オイルは米国屈指のガソリンやケロシンの生産量を達成するまでに成長した。
熾烈な競争にさらされていた
ペンシルバニア鉄道(PRR)
に代表される鉄道事業者らは鉄道運賃を安定に保つためカルテル結成を試みた。
ペンシルベニアの主要産油拠点以外のスタンダード・オイルなどの企業と共謀して
サウス・インプルーブメント・カンパニー
を設立した。
カルテル参加企業は大量荷送人として優遇され、製品の輸送料金は最大50%という値引きを受けた。
また、競合製品の出荷にも割引が適用され、その一環として通常の貨物輸送料金の大幅な値上げが発表された。
独立油井オーナーらはこれに反発し、ボイコットや破壊行為などが発生し、スタンダード・オイルの取引に関連する隠れた部分が明るみに出ることになった。
ニューヨークの主要な製油所チャールズ・プラット・アンド・カンパニーの経営者
チャールズ・プラット
とヘンリー・H・ロジャーズが、このカルテルへの反対の急先鋒となった。
ロジャーズが率いたニューヨークの精製業者達は協会を組織し、1872年の3月中頃にチャールズ・プラット・アンド・カンパニーの代表として、ロジャーズを含む3名の委員をオイル・シティの石油業者組合の顧問に送り込んだ。
彼らは、ペンシルベニアの独立石油業者と共に、PRR及び他の鉄道会社から
サウス・インプルーブメント・カンパニー
との疑わしい取引を終了すると約束する協定を取り付けた。
その結果、貨物輸送運賃はこれまでどおりとなった。
報道で批難されたがそれにもめげず、ロックフェラーは競合する製油所の買収、自社の経営効率の改善、石油輸送の運賃値引き強要、ライバルの切り崩し、秘密の取引、投資資金のプール、ライバルの買収などの強行手段を駆使して事業を強化していった。
1872年にはわずか4カ月でクリーブランドの競合企業26社のうち22社をスタンダード・オイルに吸収合併し
「クリーブランドの虐殺」
とも呼ばれた。
かつて敵対したプラットとロジャーズもスタンダード・オイルと競合し続けるには限界があった。
1874年、かつての強敵の軍門に下る
秘密協定
を取り交わし、彼らはロックフェラーのパートナーとなった。
ロックフェラーは、協力と統合の計画を持ってチャールズ・プラットに接近した。
プラットは、ロジャーズとロックフェラーの提案について話し合い、彼らは統合が利益になると判断した。
ロジャーズは合意条件を文書化したが、それはプラットとロジャーズ自身への金融的保証と仕事の保証をその内容とするものだった。
ロックフェラーはロジャーズの申し出を受け、チャールズ・プラット・アンド・カンパニー(アストラル・オイルを含む)はロックフェラーの事業に加わる重要な独立製油業者の一つとなった。
特に、ロジャーズはロックフェラーの片腕として、スタンダード・オイル・トラストの結成に力を発揮することになる。
その後、プラットの息子、チャールズ・ミラード・プラット(1858 - 1913)はスタンダード・オイルの重役に就任した。
ロックフェラーの交渉術は競争相手にまず自社の帳簿を見せてどんな敵と戦っていたのかを認識させ、それから正式な申し出をした。
それでも抵抗する相手は倒産に追い込み、資産を競売で安く買い叩いた。
ロックフェラーは産業界の救助者「慈悲の天使」を自認し、弱者を吸収することで産業全体を強化・効率化し競争力を高めていると考えていた。
スタンダード・オイルは産業としては水平方向にも垂直方向にも成長した。
自前のパイプライン、タンク車、宅配網を備えるようにも資金を投入していった。
石油製品が平均的家庭で入手可能となるよう原油価格を抑え、必要とあれば競合他社を締め出すために原価割れの価格で製品を販売した。
また、タール、塗料、ワセリン、チューインガムの原料など、300以上の石油製品を開発している。
1870年代末にはアメリカの石油の90%を精製する規模を確保した。
当然ながら、このころ既にロックフェラーは富豪になっていた。
1877年、スタンダード・オイルは新たな輸送手段としてパイプライン輸送を採用し、その建設と取得を開始したため、主要輸送業者の
ペンシルバニア鉄道
と対立した。
ペンシルバニア鉄道側はスタンダード・オイルのパイプライン輸送を運輸業への侵出と見て反撃することにした。
ペンシルバニア鉄道は製油所やパイプラインの買収と建設を進める子会社を設立した。
スタンダード・オイル側もこれに応戦し、他の鉄道に輸送を切り替えた。
貨物運賃を劇的に低減させる
価格競争
を開始し、労働不安まで引き起こした。
この抗争は結局スタンダード・オイルの勝利となり、ペンシルバニア鉄道は石油関連の子会社をスタンダード・オイルに売却した。
その戦いの余波として1879年、ペンシルベニア州政府はロックフェラーを石油業界を独占したとして訴えた。
他の州も次々と同様の訴えを起こし、スタンダード・オイルの商慣行が全国的な問題となり衆目を集めた。
スタンダード・オイルは徐々に水平統合を達成し、それによって米国での石油の精製と販売をほぼ支配下におさめた。
灯油市場では、古い流通システムを自前の垂直システムに置き換えた。
タンク車で各地に灯油を運び、タンクワゴンで小売りの顧客に提供した。
それにより卸売りの既存のネットワークを迂回した。
灯油の品質が向上し価格が下がったにもかかわらず、スタンダード・オイルの商慣行は激しい議論を巻き起こした。
競争相手に対するスタンダード・オイルの最も強力な武器は、低価格と顧客によって異なる価格設定、交通機関による
秘密の輸送費割引
だった。
利権の恩恵を目論むジャーナリストや政治家が同社の独占的手法を攻撃して、反トラスト運動が盛り上がった。
1880年の New York World 紙は同社を「これまで我が国に根付いた、最も残酷で、厚かましく、無慈悲な独占」と評した。
こうした批判に対してロックフェラーは「我々のような大規模なビジネスでは…我々の知らないところで行われることもある。我々はそれらを知ったらすぐさま是正する」と応じた。
当時「法人化した企業は、法人格の付与を行った州の外では資産が所有できない」という法的制限を抱えていた。
そのため、ロックフェラーたちは各州に個別に経営される会社を所有せざるを得ないため、全体の管理がやりにくい状態だった。
1882年、ロックフェラーの顧問弁護士
サミュエル・ドッド
は、彼らの資産を集中化する革新的な企業形態を考案して
を誕生させた。
この「トラスト」は企業群の企業であり、その巨大さと富は多くの注意を惹きつけた。
会社群の株式を受託者に預託し、株式を共通化したうえ、その預託者による理事会を創設して巨大なグループにまとめた。
このトラストではロックフェラーを含む9人の理事が41の企業を経営し、さらに、グループ経営を円滑にするために経営委員会を設置した。この
経営委員会が理事会に代って、グループの実際の経営を行った。
この委員会の下には、輸送やパイプラインなどを担当する専門委員会があった。
ただ、一般大衆と報道機関はこの新しい法人形態を怪しんだ。
他の企業ではこのアイデアに飛びつき、それによってさらに世論が燃え上がった。
スタンダード・オイルは無敵な雰囲気を漂わせるようになり、競争相手や批判者や政敵に対して常に優位に立つようになった。
世界的にも最も巨大で裕福で恐れられる企業となり、好景気と不景気の波にも影響されずに一貫して利益を生み出すようになった。
国内に2万の油井、4千マイルのパイプライン、5千台のタンク車、10万人以上の従業員を抱える巨大帝国に成長した。
しかし、石油精製の世界シェアは絶頂期に90%に達したが、その後徐々に80%にまで低下していくことになる。
トラストを結成し敵がいなくなったにもかかわらず、1880年代のスタンダード・オイルは世界の石油市場を支配する絶頂期から衰退しはじめた。
なお、ロックフェラーは世界中の石油精製を支配する夢をあきらめた。
その後、「我々が実際に石油産業を完全に支配していたら、世論がそれに反発していただろうということに気付いた」と認めた。
海外の競合企業設立や海外での油田発見により、スタンダード・オイルの優位が徐々に崩れていった。
1880年代初め、ロックフェラーは、原油価格を直接操作するのではなく、市場の状況に合わせ
石油の保管料を操作
することで間接的に制御するという最も重要な革新を生み出した。
さらにパイプライン内の石油に対して証明書を発行した。
この証明書は投機家による売買対象となり、事実上の石油先物市場が形成され、石油価格がそこで決定されるようになった。
1882年後半、石油先物取引を容易にするため、マンハッタンに National Petroleum Exchange が創設された。
1880年代、世界の原油の85%はペンシルベニア産だった。
その後、ロシアやアジアの油田からの石油が世界市場に出回り始めた。
ロベルト・ノーベルは埋蔵量の豊富なロシアのバクー油田に石油精製会社を作り、パイプラインやタンカーも備えるようになっていった。
また、パリのロスチャイルド家も石油事業への投資に乗り出している。
さらに、ビルマやジャワでも油田が発見された。
さらに、白熱電球が発明され、照明目的で灯油を燃やすことが減っていった。
スタンダード・オイルではそれでも状況に適応すべくヨーロッパに進出し、米国では天然ガスの生産を手がけた。
また、自動車向けにそれまでは使い道がほとんどなかったガソリンを増産した。
スタンダード・オイルはニューヨークに本社を移転して、ロックフェラーはニューヨーク実業界の中心人物となった。
1884年、ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルトなど富豪が多く住む54番街に自宅を構えた。
毎日オフィスまで列車で通った。ただ、街を歩けば慈善活動を嘆願する者が常に群がり、生命の危険もあった。
1887年議会は州際通商委員会を創設し、鉄道貨物運賃の統一を強制したものの、スタンダード・オイルの石油輸送の中心はパイプラインになっており、影響は皆無だった。
さらに1890年にシャーマン法が成立してスタンダード・オイルへの大きな脅威となり、最終的にスタンダード・オイル・トラストが解体される主要因となった。
特にオハイオ州は反トラスト法の適用を厳しく実施した。
スタンダード・オイル・オブ・オハイオは1892年にトラストから分離されることになり、トラスト解体の端緒となった。
1889年にニュージャージー州で州内の法人が他の法人の株式の所有を認める法律が成立した。
このため、この法律を使い再編成が可能となった。
手法としてはトラストを解体し、ニュージャージー・スタンダード・オイル社に全米にある系列会社の株式の全部又は大部分を所有させるもので、合法的な持株会社に変革する事が可能となった。
この再編成の結果、全国規模の事業展開が可能になる上、トラストに対する攻撃に対しての緊急避難口となった。
1890年代に入ると鉄鉱山と鉄鉱石の輸送に事業を拡大したため
鉄鋼王 アンドリュー・カーネギー
と衝突するようになり、新聞などでこの対立がたびたび報道されるようになった。
また、ペンシルベニアの原油産出量が減少してきたため、オハイオ、インディアナ、ウェストバージニアの原油生産拠点を買い漁り始めた。
この急激な事業拡大の時期に、ロックフェラーは引退を考え始めた。
トラストの日常の経営はジョン・ダスティン・アーチボルドに任せ、ニューヨーク市の北に新たな邸宅を購入して、自転車やゴルフなどに興じる悠々自適な生活を送るようになった。
大統領に昇格したセオドア・ルーズベルトはシャーマン法違反訴訟をいくつも起こし、議会から改革案を引き出した。
1901年、カーネギーの鉄鋼関連資産を引き継いだ
の実権を、金融家のジョン・モルガンが握るようになり、スタンダード・オイルの鉄関連事業もUSスチールに売却された。
この取引を仲介したのは
ヘンリー・クレイ・フリック
で、スタンダード・オイルの鉄関連事業とUSスチールの株式を交換し、ロックフェラーとその息子がUSスチールの取締役に就任している。
1902年、63歳で正式に引退したとき、投資により5800万ドル以上を得た。
ただ、事業規模が大きくなりすぎ競争相手が消滅したスタンダード・オイルに対する批判や訴訟は依然として多く発生した。
ロックフェラーは1911年まで名目上の社長の肩書きを保ち、持ち株も保持していたが1911年5月15日にアメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイル(64%の市場占有率を保持した)がシャーマン法に違反しているとの判決を下した。
その時点で同社は石油精製市場の70%を占めていたが、アメリカでの原油供給量では14%しか握っていなかった。
最高裁はトラストが不法に市場を独占しているとして解体命令を下し、同社はおよそ37の新会社に分割された。
現在のコノコフィリップスの一部となったコノコ、BPの一部となったアモコ、エクソンモービルの一部となったエッソとモービル、シェブロン、ペンゾイルといった石油企業は、旧スタンダード・オイルが前身になっている。
解体された時、ロックフェラーはスタンダード・オイルの25%以上の株式を所有していた。
株主は分離後の各社の株式を元々の株式の割合の分だけ得ている。
この分割でロックフェラーの石油業界への影響力は減退した。
ただ、その後10年間で各社の株式から多大な利益を得ている。
分割した会社の価値の合計は解体前の5倍に膨れ上がり、ロックフェラーの個人資産は9億ドルに膨れ上がった。

