地中海から東に移動後、黒海付近で猛烈な勢いとなった「169年ぶり」の規模となった
冬の嵐「ベッティーナ」
が来襲したロシアの黒海沿岸では防波堤に荒波が当たり、打ち上げられた波の高さが3階にまで迫る強さで、黒海周辺では、竜巻も発生する可能性があるとして警戒が呼び掛けられている。
ロシアが一方的に併合したクリミア半島でも荒波が次々と押し寄せて洪水も町のあちこちで発生した。
プーチンが率いるロシアでは戦闘継続の平坦セスライジできず、物資不足は深刻な状況のため、こうした被災地域への支援が遅れていると見られる。
ロシアメディアは気象当局の話として「今回の嵐は1854年、クリミア戦争の時に起きた巨大な嵐に匹敵する」と紹介した。
なお、クリミア戦争では
ナイチンゲール
が従軍し、消耗戦として投入された
兵士の看護
をしたことで知られ、当時、発生した嵐で数多くの戦艦等の船等が沈没し補給ラインが維持できず
兵站線
が影響を受けた。
また、天気図の作成など、現在の天気予報が広まるきっかけになった。
クリミア戦争は1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われ
フランス・オスマン帝国・イギリス
を中心とした同盟軍61.2万人およびサルデーニャ王国と
ロシア帝国、イタリア王国
(89.4万)とが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまでおよぶ大規模な戦争であった。
21.7万の死傷率35.5%この戦争により敗北したロシアでは89万の将兵の被害が死傷者55万(損害率61.8%)という致命的な敗北となり、抜本的な内政改革を余儀なくされた。
また、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失った。
国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。
北欧では、英仏艦隊によるバルト海侵攻が行われた。
この戦争によって、ナショナリズムが台頭しナポレオン戦争後に作られた
ウィーン体制
が各国の利害関係を複雑化し揺らいでいる。