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2019年03月22日

ワキシー・ゴードン(Waxey Gordon) 労働組合を利用し莫大な利益を上げた組織犯罪者のひとり


ワキシー・ゴードン(Waxey Gordon)
    1888年1月19日 - 1952年6月24日

 ポーランド系ユダヤ人の組織犯罪のボス 
 本名アービング・ウェクスラー

 若い頃の巧みなスリの手口から「Waxey」のあだ名がある。


 ニューヨークのロウアー・イースト・サイドのスラム街の貧困家庭に生まれた。
 幼い頃は「スリの常習犯」であったためニューヨーク近郊を転々とした。

 1910年代、労働組合ゴロ
   ベンジャミン・ファイン
の組織に入り、ストライキを扇動して暴力沙汰を何度も起こした。

 1914年1月、労働争議の支配を巡って
とファインのギャング間で銃撃戦が起こり、ゴードンはファインら3人と共に殺人容疑で逮捕された。

 同じ頃ニューヨークとフィラデルフィアの犯罪組織の仲介でコカイン取引を手掛けた。
 1914年、恐喝暴行の罪でシンシン刑務所に送られ、1916年出所した。

 
 1920年頃、組合ゴロの
の指揮を受けガーメント地区の組合を拠点に活動していた時
の資金援助を得て酒の密輸に乗り出した。

 密輸ではマックス・グリーンバーグと組んで、フィラデルフィアを拠点に
   カナダ産ウイスキー
の密輸シンジケートを立ち上げている。

 手法としてはニュージャージーやニューヨークの沖合から自前のボートに酒を積み替えて岸に運んだ。
 倉庫に貯蔵した後に消費先であるマンハッタンのレストラン、クラブ、スピークイージーにトラックで輸送した。

 若い頃の知人等を雇い入れて組織を拡大していった。

 その後、ロススタインの子分になったラッキー・ルチアーノ、マイヤー・ランスキーらとスコッチの密輸ルートも仕切った。
 後にロススタインのニューヨークとニュージャージーの酒の輸入利権を引き継ぎ東海岸の密輸グループ"ビッグ・セヴン"の一角を占めるようになった。

 1920年代半ばまでに密輸による利益の増加で年収は100-200万ドル規模に膨れ上がった。

 マンハッタンの42番街の高級スイートに事務所を構え、ナイトクラブ、スピークイージー、地下賭博場を運営した。
 自宅は2つ、セントラルパークウェストの高級マンションとニュージャージー南部の濠で囲まれた城を保有するまでになった。
 リムジンを乗り回して豪奢な生活を送ったという。
 また、金のためには形振り構わず、闇賭博の他、麻薬密売にも手を染めるようになった。

 1925年、実入りの少なかったゴードン配下の
   密輸船船長
が当局に密告したため逮捕されたものの、その船長は当局の厳重な護衛付のホテルルームで「謎の死」を遂げている。
 このため、証人が居なくなったため不起訴処分となった。


 以後船を使った密輸ビジネスから手を引いた。

 ジミー・ハッセル、マックス・グリーンバーグなどとニュージャージー北部のハドソン郡に密造酒の製造工場を幾つも建設した。
 自前の酒を造り始め、合法と非合法の醸造酒を造り分けて販売し、輸送の安全を確保するため、のちに
   「ニュージャージーのアル・カポネ」
の異名をもつことになる
   アブナー・ツヴィルマン
を雇い、ジャージーシティ市長フランク・ヘイグに賄賂を贈って政治的な保護を得た。

 1928年ロススタインが死ぬとバックがなくなり勢いは衰えた。

 ルチアーノらが主宰した1929年5月、全米ギャングの大集会アトランティック会議に参加した。

 1930年代、禁酒法の終焉を見越して、将来の合法ビール事業のイニシアティブを握ろうとユダヤ系ギャングの
の勢力と抗争した。
  
 ルチアーノ、ランスキールイス・バカルターらと酒の密売で同盟し勢力を広げていたものの、1930年頃から酒の輸送利権を巡るトラブルから
   ランスキー
とは対立関係となった。
 このため、全米シンジケートへの組織統合の企てに一切協力しなくなった。
  
 両者の溝は修復不可能と判断され、1933年、ランスキーとルチアーノが共謀し
   ゴードンの脱税
を検察に密告した。
 この情報に基づき脱税の罪でトーマス・デューイ検事に起訴された。

 デューイはゴードンが年間200万ドルを稼ぎながらその実たったの8125ドルしか納税していないことを明らかにした。

 密輸パートナーだったマックス・グリーンバーグがマーダー・インクのヒットマンに暗殺された。
 その後、北ニューヨークのキャッツキルの狩猟ロッジに潜伏していたものの、捜査官に連れ戻された。

 家族を犯罪と無縁な環境に置き、理想的な
   ミドルクラス
の家族像を演じていた。
 裁判では長年の犯罪キャリアが露見し、傍聴席にいた妻は人目も気にせず泣き喚いたという。

 更に裁判中に、大学在学中だった最愛の息子を交通事故で亡くした。
 その後、獄中からランスキーやベンジャミン・シーゲルの暗殺を手配したものの、失敗に終わった。

  
 フィラデルフィアの利権は
らが引き継いでいだ。
 
 1940年に7年の服役を経て出所した時には、家族も昔の仲間も失い、政治家とのコネも無くしていた。

 第二次世界大戦中、闇市の砂糖取引に関わり、再び捕まり1年服役した。
 戦後は麻薬取引に関わり、2回取引を成功させた。

 その後、1951年8月2日、連邦麻薬捜査局FBNの
   おとり捜査官
にヘロインを売りつけ逮捕された。

 ゴードンは昔の犯罪人脈を頼りに麻薬コネクションを構築していたと伝えられた。

 同年12月13日、懲役25年の判決を受け収監された。

 1952年4月10日、国際的麻薬密輸組織に関与した容疑で再起訴された後、6月24日、アルカトラズ刑務所で心臓発作で死去した。
 ただ、連邦検事によればゴードンは減刑のため他の麻薬犯の犯行について証言する予定だったという。
       
   
   
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posted by まねきねこ at 07:02| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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