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2019年03月13日

ジャック・シロッコ(Jack Sirocco) 「ファイブ・ポインツ・ギャング」の副ボス


ジャック・シロッコ(Jack Sirocco)

 1882年 - 1954年

 イタリア系組織犯罪グループ「ファイブ・ポインツ・ギャング」の副ボス
 
 ニューヨークで生まれ、両親はイタリア移民だった。

 民主党系の政治団体タマニー・ホールの有力者トム・フォーリー配下の
   マイク・ソールター
に雇われギャングとして頭角を現した。

 1890年代、ボクシングを通じて知り合った
   ジオヴァンニ・"ジミー・ケリー"・ディサルヴィオ
とホワイト・ストリートにファイブ・ポインツ・ソーシャルクラブを立ち上げた。

 タマニー・ホールの武力闘争を請け負い、ストリートギャングから戦闘員を雇い入れ組織を強化した。
 選挙戦では政敵を封じ込め、組織票を集めた。

 マンハッタンのフォーリー・スクエアにあったダンスホール「パールハウス(Pearl House dance hall) 」を拠点とした[3]。クラブではボクシング興行やダンスイベントを興行し、ギャングを集めて、賭博や売春、スリを組織的に行なった。
 
 1902年9月29日、ユダヤ系犯罪組織「イーストマンズ」の戦闘員60人がファイブ・ポインツの縄張りに侵入し戦闘になった。

 1902年10月4日、ファイブ・ポインツの戦闘員35人が9月29日の仕返しでイーストマンズのアジトを急襲した。

 同年10月、タマニー・ホールのトム・フォーリーの仲介でイーストマンズと平和協定を結んだ。

 ポール・ケリーとボクシングを通じて知り合い、提携していた。
 その後、仲間割れし、1905年抗争に発展した。

 最終的にはポール・ケリーをロウアーイーストサイドから追い出し、縄張りを奪った。
 その後、独自のギャングを結成した
   ジミー・ケリー(ディサルヴィオ)
と抗争し、ファイブ・ポインツが分裂した。

 側近チック・トリッカーと共に イーストマンズの乗っ取りを画策した。

 1911年、強盗に失敗した後、怪我したボス
   ジャック・ゼリグ
を置き去りにした。
 ゼリグは逮捕され収監された。

 ゼリグを保釈金で救い出す代わりに、ゼリグのイーストマンズを乗っ取ろうと画策した。

 トリッカーと共にゼリグの暗殺を試み、刺客
   ジュールス・モレーロ
を派遣したが1911年12月2日、ゼリグは部下の内通でモレーロを返り討ちにし。

 イーストマンズはそれから1年ほど、2派閥に分かれて抗争したが互いに消耗し組織は空中分解した。

 その後、シロッコは新たにギャング団を結成して、組合利権を広げていった。

 企業側の武装団を率いてスト破りを指揮し、組合側の
   ベンジャミン・ファイン
と派手な銃撃戦で抗争した。

 この抗争の真っ只中、警察の手入れが厳しくなる中ニューヨークの裏社会から忽然と姿を消した。
 1930年の人口調査では、ブルックリンに住み、職業は料理人となっていたという。
 
      
   
   
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posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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