ポール・ケリー(Paul Kelly)
1876年 - 1936年
米国のイタリア系犯罪組織
本名はパオロ・アントニオ・ヴァッカレリ(Paolo Antonio Vaccarelli)
ニューヨーク生でまれ。親はイタリア南部バジリカータ州ポテンツァの移民だった。
ニューヨーク生でまれ。親はイタリア南部バジリカータ州ポテンツァの移民だった。
職を転々とし、波止場の荷役人夫として働いた。
1896年バンタム級プロボクサーになり、数々の懸賞試合に出場した。
ただ、成績は浮き沈みがあったが、技術的で娯楽性に富むボクサーとして有名だった。
1901年7月、ボクサーとしては最後の試合でキッド・グリッフォと試合を行った。
ボクサーを辞め、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドでストリートギャングとして生活費を稼いだ。
1901年、マルベリー・ストリートに
ポール・ケリー協会(Paul Kelly Association)
を設立して、賭博と売春を手がけた。
また、政治組織タマニーホールの汚職政治家
ティモシー・サリヴァン
の汚れ役仕事を請け負い、不正投票や政敵の妨害工作を行った。
武闘グループを組織し、ポン引き、ボクサー崩れを雇っては暴力的にトラブルを解消した。
商店やレストランに用心棒代を要求し、従わないと見せしめに店を破壊した。
非合法のスポーツイベントを開催し、プロレスやボクシングの試合を組んで客を集めた。
当時、ボクシングはアイルランド系移民の催し物だったが世紀の変わり目からイタリア系やユダヤ系が興行を始めていた。
1903年5月14日、自らレスラーとしてエキシビションマッチに出場した。
ゲットー・チャンピオンの異名を持つ
ジョー・バーンスタイン
と戦ったが、15分でルール無用の喧嘩に変わった。
なお、試合はバーンスタインの反則負けだった。
警察の度重なるガサ入れで何度もアジトを変えて生き延びた。
1903年9月、バワリーのニューブリトンに拠点を据え、イースト・ハーレムやニュージャージーにも支部を設けて、勢力を拡大した。
1903年9月19日、イーストマンズとリヴィングトンで壮絶な銃撃戦を行い、100発以上の発砲があったという。
ニューブリトン・アスレティッククラブ(New Brighton Athletic Club)ではボクシングマッチが行われ、連日盛況だった。
隣に開店したリトル・ナポリ・カフェ(Little Naples Café)は、ギャングの巣窟になった。
チック・トリッカー、ルーイ・ザ・ランプ、キッド・グリッフォ、ラフ・ハウス・ホーガン、ビフ・エリソンといった名だたるギャングが出入りし、喧嘩が絶えず、時として銃撃戦も起きた。
用心棒にはジャック・マクマナスを雇った。
1905年4月、アスレティッククラブに警察の抜き打ちのガサ入れがあった。
他のメンバーと共に逮捕されたが、タマニー・ホールの息のかかった判事がケリーに無罪を言い渡した。
傍聴席にいた数百人のギャングメンバーの間から拍手が巻き起こった。
1905年夏、外套メーカーの組合のスト破りに抜擢され、同時に組合に労働者の統率役で雇われた。
レイバースラッギング分野でこれが初めてのケリーの記録となった。
ファイブ・ポインツ・ギャングの
ジャック・シロッコ
とは提携していたが、仲間割れして抗争に発展した。
1905年5月26日、ジャック・マクマナスがファイブポインツに銃撃され、殺された。
1905年11月23日、ニューブリトンで銃撃を受け、負傷している。
なお、一緒にいた用心棒のビル・ハリントンは死亡した。
元ファイブポインターでアイルランド系ギャング「ゴファーズ」の頭領となった
ビフ・エリソン
の仕業とされた。
銃撃事件後、ロウアー・イースト・サイドで起きるギャング抗争に嫌気がさし、賭博や売春の縄張りをジャック・シロッコや"ジミー・ケリー"・ディサルヴィオらファイブポインターに明け渡してロウアー・イースト・サイドを引き払った。
ハーレムを拠点にして、弟の不動産会社の経営者に名を連ねた。
正業のビジネスマンを装い裏で労働組合の強請業に進出した。
1907年6月、船舶会社White Star shipping lineのストライキ組合員との衝突に対応し、スト破り要員50名を雇った。
1910年9月14日、名前をヴァッカレリに戻した。
組合の武闘グループを組織しながら、数々のフロント会社を設立し、合法的な社交クラブも立ち上げた。
犯罪組織の拡大を止める警察からは執拗にマークされ、尾行やいやがらせを受けた。
ケリーは、1912年5月、記者会見を開いて「自分はギャング稼業から足を洗い、今は正業のビジネスマンだ」と説明したうえ、金をもらったマスコミを動員して警察を非難して見せた。
1915年までに東海岸港湾組合 (I.L.A) の副支部長に就任した。
波止場の荷役人夫を統率して
ストライキ
を武器に輸送会社から金を搾り取った。
労働者の給料単価を釣り上げ、会社側が要求に応じないとストを実施した。
波止場を使えず鉄道輸送に切り替えるとコストは数倍に膨れ上がった。
波止場の労働者からも
協賛金
の名目で金を吸い上げ、ストに参加しない労働者には配下のギャング団が脅迫・嫌がらせを行い痛い目に遭わせた。
1920年代は同組合のスト調停の委員長を務めた。
労働争議の武闘ギャングを率いて多くの組合のアドバイザーやコンサルタントにもなった。
1931年夏、Loyal Labor Legion委員長に就任すると、組合員・非組合員の別なく待遇は平等にすべきだと主張した。
時代を先駆けするキャンペーンを開始するなど1936年に死ぬまで労働組合に関わった。
1963年、マフィアの内幕を暴露したジョゼフ・ヴァラキは、ポール・ケリーは死ぬぎりぎりまでマフィアとビジネスをしていたと暴露した。