マックス・ツヴェルバッハ(Max Zwerbach)
1884年3月14日 - 1908年5月14日
ニューヨークを拠点に活動したユダヤ系ギャング
1890年代半ばにモンク・イーストマンが結成した
イーストマンズ
の二代目ボスで通称は
キッド・ツイスト
と呼ばれた。
幼少時代はブルックリン区で過ごし、ロウアー・イースト・サイドで暗黒街の世界に入った。
幼少時代はブルックリン区で過ごし、ロウアー・イースト・サイドで暗黒街の世界に入った。
持ち前の機敏さと残虐さでモンク・イーストマンの右腕とのしあがった。
1903年にはイタリア系「ファイブ・ポインツ・ギャング」と抗争を繰り広げた
通称「リヴィングトン街の銃撃戦」
で写真にとられたのが最初にメンバーとして確認されたもの。
モンクが警察に検挙されたときには即時釈放を求めて大掛かりな示威行為を行っている。
1903年8月17日、トランプ後の口論から、ライバルギャングの
ジョン・ベイヤード
を殺害した。
モンクが投獄されると組織の指揮権を巡ってライバルの
リッチー・フィッツパトリック
と内部抗争を行った。
1904年11月1日、和解と称してフィッツパトリックをシェリフストリートの酒場に誘い出し手下のハリス・スタールに指示して暗殺した。
身辺警護に元レスラーの
バッチ・ルイス("サイクロン・ルーイ")
を従え、ハリス・スタールを副ボスに据え、ユダヤ系の犯罪組織ファイブ・ポインツと抗争した[1]。
1907年5月、ファイブ・ポインターの
チャールズ・グリーンウィッチ(通称"ボトラー")
がやっていたサフォークストリートの賭場を乗っ取るため
ハリス・スタール
に攻撃を仕掛けさせた。
1907年5月31日、スタールとボトラーが銃撃戦を展開したが2人とも警察に拘留された。
翌6月1日の晩、両者のアジトの間で再び銃撃戦となり、キッド・ツイストとスタールがアリバイ作りに現場を離れている隙に
サイクロン・ルーイ
に指示してボトラーを暗殺した。
妻子持ちだったがコニー・アイランドのダンスホールのカナダ人歌手
キャロル・テリー
と恋仲になった。
テリーは元々マンハッタンで働いていた時に付き合っていたファイブ・ポインツ・ギャングの
ルイス・ピオッジ("ルーイ・ザ・ランプ")
と縁を切ってコニー・アイランドに職場を移していた。
未練があったピオッジは彼女を追ってコニー・アイランドにやって来て復縁を迫った。
ただ、テリーからキッド・ツイストと付き合っていると言われ断られた。
キッド・ツイストとサイクロン・ルーイは1908年5月14日、サーフアヴェニューの酒場で1人で飲んでいるピオッジを偶然見つけ、テリーとの破局をネタにからかった。
怒ったピオッジは喧嘩しようとしたが、2人がすぐにピストルを抜いたため、ピオッジは2階の窓から飛び降り、足を挫いた。
2人は、足を引きずりながら逃げていくピオッジを窓から見て、大笑いした。
同日の晩8時半頃、まだ酒場にいた2人に、見知らぬ子供が恋人テリーのメッセージが書かれた伝言メモを渡した。
そのメモを片手に店の外に出たところをピオッジにいきなり射殺された。
キッド・ツイストは頭に1発、サイクロンは5発の銃弾を浴びていた。
その後、その場に現れたテリーにも発砲し、怪我を負わせた。
キッド・ツイストに侮辱されたピオッジは、ファイブ・ポインツのボス
ポール・ケリー
に殺害許可をもらい、多数の戦闘員をコニー・アイランドに派遣して、逃げれない様に周囲に張り込んでいた。
なお、2日後に行われた2人の合同葬儀には、500人のギャングが参列した。
当時のメディアには「これだけ大勢のギャングが葬式に集まるのは異例」と報じられた。
後年、ユダヤ系の殺し屋エイブ・レルズがこの伝説多きボスから"キッド・ツイスト"というあだ名をもらった。