趙 匡義(ちょう きょうぎ)
天福4年10月7日(939年11月20日)
―至道3年3月29日(997年5月8日)
北宋の初代皇帝である太祖
趙匡胤
の同母弟で趙弘胤の3男として生まれ、第2代皇帝(在位:976年 - 997年)
諱は元は匡義であった。
ただ、兄帝の名を避諱して光義(こうぎ)、即位してからはQ(けい)に改めている。
廟号は太宗(たいそう)
もともと、趙家は五代十国時代の動乱の中で歴代王朝に仕える鮮卑系遊牧民族の流れを汲む軍人の家柄で、趙匡胤もその縁で後周に仕えた。
後周の第2代皇帝・世宗に仕えて数々の手柄を立ててその片腕となった。
父は趙弘胤、母は昭憲太后杜氏、妻は将として光武帝の漢朝再興に貢献した馬援の娘
明徳皇后
を出した李氏である。
早くから後周に仕えて近衛軍の将校となり、兄を助けてその覇業を支えた。
960年に趙匡胤が後周から禅譲を受ける際、趙普と共に
陳橋の変
を起こしたと伝えられている。
趙匡胤からは厚い信任を受け、趙匡胤の留守の最中には守備の任務を与えられた。
973年には晋王に封じられその待遇は宰相より上位に置かれていた。
976年に宋初代皇帝の趙匡胤が急病により崩御した。
なお、趙匡胤には息子が数名いたが、皇位は弟の趙匡義が継承した。
趙匡胤・趙匡義の生母である杜氏が生前に後周の世宗が崩御した際に幼児である恭帝に皇位を継承させたために滅んだ故事から、遺言で皇位を若い息子ではなく成人して経験も豊かな趙匡義に譲るように遺言していたことによるという。
ただ、趙匡胤の遺児らは後年に相次いで趙匡義により暗殺・失脚されており、趙匡胤の急死は暗殺された可能性も指摘されている。。
趙匡胤の時代に北宋は五代十国の時に乱立していた地方王朝の大半を打倒していた。
趙匡義は依然として攻略できない呉越と北漢を倒して統一事業を完成させるべく邁進した。
978年に呉越を平和裏の内に併合した。
翌年、979年には北漢を滅ぼして五代十国を完全に終焉させた。
その勢いに乗って、後晋(936年 - 946年)の時代に
契丹(遼)
に割譲されていた
燕雲十六州
の奪回を試みたが危うく太宗も遼の捕虜になりかける北宋軍の大敗に終わった。
その後、2度目の遼遠征にも失敗して惨敗した。
この2度による大敗は、後年の遼や西夏の北宋侵攻を許して将来の禍根を作ることとなった。
太宗は内政においては兄の方針を継承し、中央集権的な
官僚体制
の整備と皇帝独裁権の強化に努めた。
五代十国の戦乱の原因になった節度使など地方政権化した
藩鎮体制
に終止符を打った。
最大の地方行政区画である路に運転使を置いて行政・財政・治安など広大な権限を与えた。
また、専売制度や税制も整備して国庫財政を豊かにした。
こうした政策により官僚の権力が強くなり、それまで権勢を振るった宦官や外戚の権力が縮小された。
既に趙匡胤の時代から北宋は
文治主義
の傾向が強まっていた。
太宗自らが学者で書家としても優秀であった。
また、碁の腕にも優れ、詩作を好む性格から、儒学が奨励されて経書の出版が促進された。
百科事典の編纂が命じられるなど、その傾向はさらに強まっていった。
太宗の宮廷には学者や画家が集まり、様々な書画が収集される文化サロンを形成していった。
ただ、周辺の遊牧民国家が虎視眈々と宋の領土を狙うなか北宋の軍隊が文治化して弱体化した。
太宗は兵隊を社会の最下層民から雇う
傭兵制
を採用したため、この軍隊の練度で北方や西方の異民族と対抗できなくなっていった。
後年に北宋が異民族の侵攻に苦しめられる端緒でもある。
皇位継承においては、亡母の遺言に従うなら太宗の弟
趙廷美
が候補であったが、太宗は自分の3男である趙恒を後継者にした。
このため、趙廷美に何度も反乱を起こされた。
また、この反乱に自分の長男である趙元佐も協力しており、家庭的には余り恵まれなかったとされる。
997年に崩御(享年59)した。
跡を3男の趙恒が真宗として継承した。