柴宗訓(さい そうくん)
広順3年8月4日 (953年9月14日)
−開宝6年3月1日 (973年4月6日)
突厥沙陀部(とっけつさだく テュルク系)の血筋を引いている義理の弟
郭威
が後周を建国して皇帝になると父親
柴栄
が節度使を務めていた澶州(現在の河南省濮陽市)で宋訓が生まれた。
後周の第3代皇帝となる。
長兄の越王柴宗誼らが北漢によって殺害されたので、実質的に太子となった。
父の即位に際して梁王に封じられる。
7歳の時に父帝の崩御によって皇帝に即位した。
幼少の皇帝のため、皇太后符氏(小符皇后、のちに周太后と呼ばれる)が政務をみた。
また、范質・王溥・趙匡胤らがこれを補佐した。
顕徳7年(960年)正月、柴栄の死を知った契丹の流れを汲む
遼・北漢の連合軍
が南下して鎮・定二州に侵入し、後周を攻撃した。
皇太后らは禁軍の兵を擁していた殿前都点検
趙匡胤
に迎撃を命じたところ、首都開封の東北の陳橋駅に到達したころ、幼帝に不安を抱いた将兵たちにより兵変が起こった。
趙匡胤を皇帝に擁立して開封を占領したうえ洛陽に取って返し、柴宗訓が帝位を趙匡胤に禅譲して趙は宋王朝を建国した。
趙匡胤(太祖)は、柴宗訓を鄭王に封じて房州(現在 湖北省北房県)に移した。
そして房州の太守に自らの師である
辛文悦
を任じたうえ柴宗訓の守役を兼ねさせた。
これは従来の禅譲劇と違って柴宗訓を殺害する意思のないことを内外に示した人事であった。
なお、柴宗訓は21歳の若さで病死した。
この報を聞いた趙匡胤は深く悲しんで皇帝の形式による葬儀を執り行ったという。