蘇逢吉(?〜950)
京兆長安(三国時代から唐代にかけて存在した郡 現在の陝西省西安市一帯)の出身
蘇悦の子。
唐が滅亡して五代十国時代になると、後晋を建国した石敬瑭の重臣で陀突厥の出身の
劉知遠
が北京留守河東節度使となり着任すると、節度判官となった。
刑獄裁判を担当して、罪の軽重や理非曲直にかかわらず、囚人をことごとく殺した。
その行為の凄まじさもあり「静獄」と称されていた。
劉知遠が契丹と同盟を結び、契丹軍を利用して後晋を亡ぼして、後漢が建国されると、中書侍郎・同平章事・集賢殿大学士に任ぜられ、朝廷の大事について全てを取り計らうようになった。
権力を奪うため、宰相李ッを謀略により陥れたうえ、その一族を滅ぼした。
また、衛州刺史葉仁魯の不法をかばうなど、非行も多かった。
後漢末期、河中の李守貞・長安の趙思綰・鳳翔の王景崇が相次いで叛乱を起こした。
蝗害・水害の被害が深刻となり、各地では飢饉に伴う暴動が広がり、後漢朝は混乱に陥った。
乾祐三年(950)、郭威が兵変を起こして南下し、二代目隠帝は乱兵の中で殺され、後漢が滅亡すると、自殺した。