史弘肇(しこうちょう)
?〜950
字は化元
鄭州(南北朝時代から民国初年にかけて、現在の河南省鄭州市一帯に設置された州)滎沢の出身
驍勇にして寡黙な人物であったという。
唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領
朱全忠
が、907年に唐の昭宣帝より禅譲を受けて建国した後梁の末年に徴兵されて従軍した。
後梁は継承帝などの問題など内紛で混乱し弱体化していった。
この混乱異乗じて領土を後晋に侵食され呑み込まれて滅んだ。
後晋が支配したときに控鶴小校となった。
後漢を建国するテュルク系突厥沙陀部出身の
劉知遠
が禁兵をつかさどると、その幕下として軍校となり、武節指揮・雷州刺史となった。
軍を率いて規律が重んじた配下の兵は各地を転戦して、微細な罪を犯すことがなかったという。
その後、忠武軍節度使・侍衛歩軍都指揮使に累進した。
後漢の乾祐元年(948)、帰徳軍節度使・同平章事となった。
高祖(劉知遠)の臨終にあたって、蘇逢吉・楊邠らとともに遺命を受け、のちに中書令に任ぜられた。
ただ、政治にあたっては治安を重んじ、規律を守らせるため、酷刑を好んで用いる思考があり、微罪でも極刑で臨んだ。
また、文人と折り合いが悪く、「禍乱を定めるのは長槍大剣であり、どうして毛筆を用いようか」と主張した。
とくに、蘇逢吉との間柄は水火のごとく相容れなかったという。